2007年06月14日(木) |
君臨すれども統治せず 日本版 |
車の修理工場で、若い男性と事務的会話。
私が「かまいませんか」とたずね、彼が「よろしいですよ」と応える。 そんなやりとりを数回続けた。
それは「よろしい」+「です」+「よ」というふうに 完全に分析されて私の頭に入ってきて、 終盤の私はおそらく、頼むから他の店員と替えてくれという顔をしていたと思う。
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言葉の使い方には、寛容な態度をみせる方だ。
寛容というよりも、そもそも言葉というものは、 誰もが自由自在に使いこなせるものではないと思っている。 だから、教育の対象となっている。
言葉は社会や人の心を映す生き物−化け物といってもいい−だ。 それに無防備でいれば、性根が丸出しになってしまう。
言葉を律するということは、自分を律することと同じである。
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そうした認識の上で、件の修理工場の一件について思う。
「よろしい」という認証や許可の立場をとるキーワードを立場をわきまえずに使うということは、 言葉を知らないというよりも、他者に対して優位に立ちたいという心を抑えられないからではないか。
優位に立ちたいという心には、「よろしいですよ」という言葉はあつらえたようにぴったりとし、自分に心地良い。 だから、知らず知らずのうち、無防備に使っているのだと思う。
そういう訳で、言葉遣いそのものよりも、その丸出しにされた性根の方が、私には辟易するんである。 そんなに馴れ馴れしく性根をぶつけてこないでくれ、と思う。
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その性根についても、しつこく書く。
自分をとりまく人との関係で、常に自分は優位でありたい。 よい、とか、だめだと、他人に言い、 認証と許可を与える権限をもった立場になりたい。
もっと言うと、過ちはすべて誰かのせいにし、自分は何も責任を持つことなくそうしたい。
子どもじみた君臨願望である。
2005年06月14日(火) 玉石NPO 2004年06月14日(月) 三菱ブランドの夏大根
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