浅間日記

2007年08月30日(木) メロスを探せ

サブプライムローンについての解説が、いつのまにか
「低所得者向け住宅ローン」という表現から
「信用度の低い顧客向けの住宅ローン」というふうに変わっている。

信用度の低い顧客であることを前提とした契約が、いつ、どのようにして
世界中に影響を及ぼすほど流通し、高い信用を得てしまったのか。



農産物の表示についてのローカルニュース。
生産者の氏名、使用した農薬と頻度について商品に明示するということ。
そうだから、この商品の安全性を信じて買ってくれ、という意図である。

不安定な天候の中で野菜を作るだけでも大変なのに、ご苦労なことである。




沖縄の那覇空港での旅客機炎上事故を受けて行われた、緊急点検に関するニュース。
点検の結果、一部の機体に留め具が取り付けられていないボルトが見つかり、これは製造段階でのミスの可能性があるという事態。

信じられない品質不良は、−失礼ながら−中国だけで生じるわけではない。
うなぎでも飛行機でも、ずさんな製造工程は有りうるものである。




信用とは一体何だろうか。

「信用する」という行為を、私はこれからどう処理していけばいいのだろうか。

科学的なエビデンスも何か権威のある格付けや承認も、
そんな空虚なものは信用の材料足り得ない。
根本的に、違う気がするのである。

信用とはそもそも人間が人間に対してなす総合的な判断でしか有り得ないのであって、
本来的には適用できない、制度とか組織や商品のような顔のないものに用いるから、
色々な問題や過ちが何度も何度も繰り返されるのではないか。



最近はそのことばかり考えている。
でもしかし、さっぱりわからないのである。



2007年08月24日(金) 白鳥の歌

処暑。

ある出来事をきっかけに、それまで何の不思議もなくそこにあったものが、ガラガラと音を立てて崩れ去ることがある。
そんな場面に、静かに立ち会っている。

書けないエピソードで日記を書くなと言われそうであるが、
今年は少々ヘビーな変動が続いている。

一連の出来事を傍観して、死者というのは−時に本当に−あの世から手招きするものだと確信し、一体どうすれば、これ以上もう誰も、死の世界に引きずりこまれずにすむか、案じている。

人間の強さというのは、生き続けられることに他ならない。
社会的な立場も、財産も、ひとたび「もう終わりでいいや」と思ったその時には−死神に呼ばれた時には−、何の支えにもならない。
こちらの世界で生き残るために必要なのはただ一つ、「心からの希望と喜び」だけだ。

そうして今ふたたび世の中を見回してみたならば、
もう私には手にとるように、大切なものと、どうでもよいものの見分けがつく。

2006年08月24日(木) 疲労と緊張
2005年08月24日(水) 環境省の仕事



2007年08月23日(木)

強い雨が降っている。

あなたの考えは間違っている、ということを理解してもらうためだけに、
無用な手間をかけた仕事をしている。

それも含めて仕事だと言われればそれまでだが、なんだかひどく疲弊する。

2006年08月23日(水) 安全と冷静
2005年08月23日(火) 



2007年08月21日(火) リスクと安全保障の在り処

ミネソタ州ミネアポリスで高速道路橋が崩落した事故の、その後のニュース。

連邦政府は類似の橋について一斉調査を指示するも、そもそも崩落の原因が不明なので何をチェックしてよいのかわからず現場が困惑しています、という内容。

米国は、よその国へ戦争に出かけている場合ではないんである。

大体、生命の危険=誰かに殺される、というのに執着した発想がいけない。
テロリストが1ミリも動かなくたって、米国の国民は危険に晒されている。

もっと言えば、そのことは米国民に限った話ではない。
死を危険の内に感じるなど私だってご免だけど、
そもそも死のリスクをまったく負わないのは、既に死んでいる人だけではないだろうか。



今回崩落した橋だけではない。そして都市のインフラに限った話でもない。
米国では農地だって年々土壌生産力が低下しており、将来は食料輸入国になる可能性も示唆されているのだ。

もはや、彼の国に開拓精神は不要である。
そのタフなパワーは、どこかの新しい何かではなくて、
既に手の内にあるものを深める方向に向けたらどうかと思う。

2004年08月21日(土) 日焼けオヤジの放物線



2007年08月20日(月) 未来は過去になる

サイトウ・キネン・フェスティバル期間である。

街中を楽しくするフェスティバルであるが、
今年はもう、常連であるムスチスラフ・ロストロポービッチさんがいない。

もう二度と、彼のリードで、マエストロ小澤の誕生日を祝うこともない。
馬鹿でかい誕生日ケーキも、小澤氏が兄貴分と慕う彼が祝うからこそ、楽しかった。

何よりも、艶のある大らかな彼のチェロをその息遣いとともに聴くことができない。



そのことが、寂しくてしかたがないと思っていたら、
昨日、追悼コンサートのプログラムがあったという新聞記事。

直前にリリースされた情報であったのらしい。
行かれなかったイベントというのはすぐに忘れる性質であるが、
これは、本当に聴きに行きたかった。
この寂しい気持ちを、マエストロ小澤と−彼には及ばずにせよ−、一にしたかった。

残念でしかたがない。そして、残念だがしかたがない。
未来はすべて過去になるのだ。

2006年08月20日(日) 急速冷凍、急速解凍
2005年08月20日(土) 何者かになりたい症候群 政治編
2004年08月20日(金) 「うちの社長は駄目社長」と客に言う社員



2007年08月16日(木)

猛暑。

山の中も、暑いんである。
お日様が昇ったら、もうおしまいである。

かくして、北向き斜面を選んで仕事。

2005年08月16日(火) 開演前
2004年08月16日(月) 戦没ということ



2007年08月15日(水) ワーキングホリデー

終戦記念日。
A君とKさんと、山で仕事。

昔も今も、お盆中というのは仕事のスケジュールの調整弁である。
ストップした時間の中で、せっせこ働いて、歩数をかせぐ。
JRもすいてるし街中も閑散としているし、悪くはなかった。

でもこの辺りでは「お盆に働いた」というと、ものすごく可哀相な、
人並みの人生が送れていない人みたいに評される。

もちろん他できっちり休みはとるのだが、そういう日数換算できるものではないのらしい。
お盆をできなかった、という部分が強調されるわけである。

そういう文化の土地にあって、こうセコセコ働くのは、
自分でも何かさもしい感じがしてくるから不思議だ。

2006年08月15日(火) 菊と刀と御先祖様



2007年08月13日(月) 夏記録1:Who are you?

山の家へ。
Sちゃん一家もやってきて、もはや恒例の避暑。

イチゴを採りに行こうと決めて、林道沿いに歩いていく。
赤いルビーみたいな実を見つけるや否や、Aはイノシシみたいにブッシュの中へ。
負けじとHちゃんも、あっちの枝をつかみ、こっちに踏ん張り中へ。
慣れない遊びをしっかり楽しんで、大したものである。

田舎のねずみと都会のねずみみたいに、違いを楽しむ二人であるけれど、
違いを思うのはHちゃんだけではない。
Aの野生児ぶりに誰よりも口をあんぐり開けているのは、私なのだ。



この人は−深い淵へ飛び込み、茨の薮をノシノシ歩き回り、
蝉を手づかみにするAは−、
確かに私の子どもかもしれないが、私だけに育てられた子ではない。

そうであるはずがない。
私の−都会のねずみの−いかなる幼少時のエピソードにも、
Aのするような活動は含まれていないのだ。

日焼けしてイチゴをほお張る河童に向かって、
あなたは一体誰ですかと心の中で思う。

2006年08月13日(日) 見解



2007年08月10日(金) 夏の光の観覧車

立秋を2日も過ぎてから、梅を干すなどしている。

隣近所に見られたら恥ずかしいが、
せめてもう1日は日に当てないと駄目なので仕方ない。



百日紅が開花する。
お盆の用度品がマーケットに並びはじめる。
花火大会や祭りで、帰省者のもてなしが始まる。

初夏、盛夏、晩夏は、角度にして15度ほどの差分である。
ゆっくりゆっくりと、でも確実に、私が仕事をしていようが遊んでいようが、季節は巡るのである。

観覧車のてっぺんからわずかに過ぎたのを自覚するような、
確かに夏として暑いけど、けれどももう盛夏ではない日。

2006年08月10日(木) 
2004年08月10日(火) 



2007年08月09日(木) お断りする理由

11月1日に期限切れを迎えるテロ対策特別措置法についてのニュース。

シーファー駐日米大使の論はもはや米国の総意を代表していないことを、
延長に反対する小沢氏は見抜いている。
だから彼は、正論をぶつけたというのが私の考え。

生粋の政治家である小沢氏が、正義感や善意だけで急ブレーキを踏むことはない。
米国の次の政権に対してどういう態度をとるのが適切か、そういうことを考えている。

2006年の米国中間選挙の結果というのは、それだけの重みをもっている。



中間選挙の結果は−民主党議席が上下両議院で過半数を超えたことは−、
イラク戦争に対する米国民の明確なNOサインであり、同時に
この中間選挙の結果が導く大統領選挙の行く末を示している。

今現在でも、その民意は政治に反映されている。
つい先月、イラク駐留米軍を来年4月1日までに撤退させる法案を民主党の賛成多数で可決したばかりであり−ブッシュ大統領が拒否権を発動しているから実施はされないが−、
米国こそがイラク政策の大きな転換期を迎えていることに間違いない。

日本のマスコミは愚かかもしれないが、小沢氏も日本の市民も愚かではない。
人殺しを手伝えという要請は、去り行くものの最後の声かもしれず、
重ねて言うが、少なくとも米国の総意ではないことを知っている。

2006年08月09日(水) 



2007年08月07日(火) 抑制する思い・鈍化する気持ち

大川の向こう側で仕事。
もう一週間近く、HとAに会っていない。
さすがに心もとない感じ。

電話をしたら、Aはためらいがちに、いつ帰ってくるのと聞く。
「あと二つ寝たらだよ」と答えると、「あと二つ、」と小さく応える。
Aの精一杯がまんしているのが伝わって、いささか−否、相当に−胸が詰まる思い。




投宿先のホテルの窓から外を眺める。

夜景というものにセンチメンタリズムを感じなくなったのはいつからだろうと思いながら、高層ビルや駅や高速道路の灯を眺める。

あれは、あの気持ちは一体、何だったのだろう。
都市にいることの緊張感が飽和して、何か生身の存在を必要とする切ない気持ちをもたらしたのだろうか。

記憶にかすかに残るあの甘美な気持ちは今でも好きだけど、
残念ながら、都市のエネルギー消費を象徴するようなこの明るさに、
今ではひとつも感じるところがない。

2006年08月07日(月) 夏の山みち



2007年08月06日(月) 変質と実相

広島平和式典。梅干をベランダに出しながら黙祷。



情報は、発信する側がリニューアルしなくても、
受信する側の状況変化によって変質することがある。

被爆者から発信されるメッセージはゆるぎなく恒久的であるが、
今年は受け止める側がその重みを変えている。そう確信した。

もちろん、イラク戦争やテロや、忍び寄っている憲法改正の足音によるのだろうと思う。


加えて、秋葉市長の平和宣言は「被爆の実相」という言葉を使って、
自分達が経験としてもっている情報や記憶こそ、平和政策の明確な根拠なのだということを示した。


被爆の実相を語ることは、そんなに簡単なことではないんである。
被爆者の人たちが記憶を言葉にするのは、ひとえに未来のためであり、
本当は多分、思い出したくもない記憶であるはずだ。


もうそのすぐの、時代の角のところまで来ている「あれ」について、
本当に中味を知っているのは、日本中、世界中で彼ら以外にいない。
そして、彼らの一つ一つの物語を象徴するのが「平和宣言」なんである。

歴代市長、そして秋葉現市長が宣言することの意味は重い。
謙虚に耳を傾けたい。

2005年08月06日(土) 慰霊考
2004年08月06日(金) 後付日記



2007年08月05日(日)

休日返上で山へ仕事。熊よけにY君に来てもらう。

お外の仕事のパートナーは、ほとんどがHの紹介であるクライマーなんである。そしてY君は、今注目される若手クライマーの一人である。

こういう人達は必定、体力には問題ないから、一緒に歩いていて楽ちんである。
不安定な場所で足を滑らせないかとか、疲れていないかという心配をする必要がまったくない。

加えて、自分にもし何かあったとしても、女一人担ぎ下ろすぐらいは、当然楽勝でやってくれるだろうと遠慮なく期待できる。

だがしかし、体力の標準が違いすぎるのも、業務上色々難儀であると、今回気づいた。

Y君は、靴底の薄い海辺用のシューズですたすたと斜面を登っていく。
その後ろを、額から汗をたらしながら追う。
尾根筋で涼しい顔をしているY君のよこで、自分だけゼーゼーハーハーと息が上がっているのが、不当に屈辱的である。


体力が及ばないというのは、まさに力関係で劣っている事実を否応なしに突きつけられる。

この人はヒマラヤで30時間連続登ったりする人だ、と言ってみたとしても、そういう補足事項は、現実の有様の前ではあまり意味がないんである。

2006年08月05日(土) 熱中今昔
2005年08月05日(金) 生き残った者
2004年08月05日(木) 合体ロボットの歴史



2007年08月04日(土) 無関心という意思表示

選挙前、憲法改正を争点から外す自民党のやり方やマスコミの論調に、
おかしいとか、けしからんとか思ってきた。

選挙が終わった後の総括でも憲法改正はまったく陰をひそめたままで、
安倍政権にノーをつきつけたのは年金問題とか閣僚の不祥事であると言われている。

憲法改正は、安倍政権を最も特色づける政策の方向ではなかったのか。
実際、そのために教育基本法や国民投票法を強行採決してきた。
そのことについて世間の評価は、もういいのだろうか。


そこではたと気がついた。
そもそも、国民の中には憲法を改正したいというニーズがなかったのかもしれない。

だから無関心という意思表示で、改正は望まないと言っている。

しかしながら、沈黙や無関心の態度でその思いを汲み取ってくれるのは、
それは肉親兄弟ぐらいである。



安倍総理は支持率が下がってへろへろに見えるけれども、
彼の自分の仕事はもう半分ほど終わっている。

私達は既にあるレールの上に半身を移設されてしまっていて、
たとえ内閣総辞職したって、制定された法律は無効にならない。
いずれ他の誰かがその続きに着手するだろう。

だから、参院選の結果をもって「あの難しい問題はもうちゃらになった」と思うのは、残念ながら間違いである。

2006年08月04日(金) 
2004年08月04日(水) 家なき子



2007年08月02日(木) 放棄された夏

帰宅。
最近はもう夜汽車に乗るのがしんどくなっている。
二日おきに上京、というスケジュールがもう少し続く。

こんなことをしているうちに、そのうち秋風がふき始めるのだろう。

少しでもその気配を感じてしまったら私の中で夏は終わりなのだと思うと、何かしておかなければいけないような衝動に駆り立てられるけれど、事実上夏のバカンスはとっくに放棄しているからどうしようもない。

毎年どおり、土用から梅を干すのが精一杯のなぐさめだ。

2006年08月02日(水) 予行練習
2004年08月02日(月) 休業脳



2007年08月01日(水) 左の意味

城北某所で仕事。

ちょっと趣向を凝らして、資料をすべて手書きで用意した。

左手を添えてものを書くという所作が気持ちよい。
カチカチカチカチと右手のマウスひとつで何もかも済ませるのに比べ、美しくもある。

手を添えるというのは不思議な動作だなあと思う。
実際に筆記するのは利き手−私の場合は右手−だけなのに、
利き手だけで書いた文字は、どこか無理やり書いたという字にしかならない。

添えるというのは、決して無意味ではない。
バランスをとり、是正し、より完成度を高めるものである。

そういうわけで、参議院というのはむやみに不要論を醸すべきではないと、私は思うんである。

混乱が予想されるのならば、それは混乱する意味と必要があるのであって、
それと対峙しなければ、この国の変な癖はいつまでたっても直らないのだ。

2006年08月01日(火) 
2005年08月01日(月) 情報公開
2004年08月01日(日) 水難事故多発


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