夏の休暇の準備を整える。
Hと簡単な昼食を済ませながら、サッカーの話題。 いっそ日本のサポーターは、よい機会であるから、 中国チームを応援して「正しい中国チームの応援の仕方」を 教えてあげたらどうだろうか、 と、どうも間の抜けた会話。
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日本の山国では、 中国からみればせいぜい猫の額ぐらいの関ヶ原に集まるのが 「天下分け目の決戦」だったと言われている。 「峠一つ越えれば言葉も文化も違う他国」の感覚の下で、人々が 万障繰り合わせて、山川越えて参集するのは大変な作業なんである。
現代社会ではそういう困難さはなくなってしまったが、しかし 「人が一同に会して群集となることは、(あるいはその群集から外れることは)、その個々人に、何かの目的やモチベーションがあるはずだ」 というのが、習慣的に日本の判断常識となっている。
全共闘とか、宗教活動とか自然保護運動でも何でもよいが、 その本来の目的だけでなく、異性にモテるとかお金が儲かるだとか、 何か個体としての自分のプラスになるものがあるはずなのである。
しかし、私が思うに、中国という国は、違うのだと思う。 とにかく集まって群衆になっておいて、その後何をするか考えよう、 自分に徳か損かは、さらに後で考えよう、という、 日本のそれとは全く逆のプロセスになっている気がする。
まるで子どものアニメ番組に出てくる合体するロボットのように、 簡単に何万人、何十万人による人間の集合体を成立させ、 別の人格やうねりを作り出すことができる。
長い歴史の中で、群集になることに慣れているのだ。 これは、民度が低いという一連の出来事に対する批判とは 別のところにある、中国という国の、底力である。
そこには日本人には理解できない群集心理や 群集としての生態というのが、きっとあるのだと、私は推測する。
そこを上手く弄れる「群集使い」のような部分が、 彼の国の指導者には資質として求められるのだろう。
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