JIROの独断的日記 DiaryINDEX|past|will
◆記事:高村氏 テロ対策で「共謀罪」新設など法整備を(NHK 11月17日 13時48分) 自民党の高村副総裁は党の役員連絡会で、フランス・パリで起きた同時テロ事件を受け、 ◆コメント:とんでもない悪法で、過去何度も廃案になっています。これこそ猛反対するべきです。 安保法案は集団的自衛権の行使を認める飛んでもない憲法違反ですが、 憲法を守れ。安保法案反対デモ。 などとマヌケなことをいうから私は、今更何を言ってんだよ。選挙のときに 騒がなければ遅いんだよ。と思いました。 しかし。 共謀罪は違います。3回の選挙で「共謀罪」は公約に含まれていません。 そして過去10年何度も法案審議しかけて、廃案になっています。あまりにも悪法だからです。 共謀罪とは、 「犯罪の相談(冗談でも)をしただけで、犯罪と見なす」 と言うことです。 元来は、国連が2000年に採択した、「越境組織犯罪防止条約」の批准の為に必要とされる立法だ、と法務省は言います。 つまり、マフィアとか、アルカイーダとか国境を越えて縦横無尽活動する「組織的犯罪集団」による犯罪を未然に防ぐために、 怪しい奴は見張っておけるような法律(というか、罪名ですね)を作る、という大義名分なのです。 しかし、恐ろしいことに日本の法務省が過去に挙げようとした「共謀罪法案」は、 「国際的・組織的」犯罪ではなくても、 「懲役4年以上の刑に相当する犯罪を、団体で遂行することを共謀した者」 に適用範囲が広がっているのです。 懲役4年以上の刑が科せられる構成要件は、500件を遙かに超えます。 専門家の説明は次のようになっています。 新たに導入されようとしている「共謀罪」は、長期四年以上の刑期を定めるあらゆる犯罪(合計では500を超える)について、 犯罪には既遂のみが罰せられるもの(窃盗とか)と未遂でも罰せられる「殺人」などがありますが、 共謀罪が導入されると、無茶苦茶で、未遂ですら罰せられない行為を考えて、合意しただけで、準備に取りかからなくても、 2人以上が「合意」さえすれば、それ自体が犯罪だ、というのです。 そして、非常に嫌らしいのは、人をおとしめることにつかえるのです。 自分に犯罪をやるつもりがなくても、気にくわない誰かにわざと刑罰が懲役4年以上になる行為(著作権法違反ですらそうなります) をもちかけ。相手が「おう、やろう」と言ったらそれを録音し、警察に自首し、密告すれば、自分は罪を免れ、 自分の気に入らない、この合意の相手方だけが罰せられる。殆ど治安維持法。旧ソ連とか今の北朝鮮を笑えません。 ものすごく陰湿な社会になります。 安保法案反対デモなんて騒いでいた人。 今日は静かです。共謀罪の意味が分かっていないのだとおもいます。 分からなかったら調べて下さい。 僭越ながら、私もこの日記やブログで、過去10年間に少なくとも28回、共謀罪について書いています。 リンク先の記事を読んで下さい。 本当に反対するのはこういう法案です。公約に入っていなかったのにどさくさ紛れ。 今回、どういう内容で法案を提出してくるか。そもそも法案を審議することになるのかどうか。 まだ、わかりませんが、「テロ防止のため」だけに使うとは安倍政権のファッショ性に鑑み、 あり得ないとおもいます。これに乗じて、より一層全体主義的、専制的な政治を可能ならしめようと するでしょう。 もう一度、繰り返します。 これこそ、提出されたら、本気で猛反対しなければならない法案なのです。 【読者の皆様にお願い】 是非、エンピツの投票ボタンをクリックして下さい。皆さまの投票の多さが、次の執筆の原動力になります。画面の右下にボタンがあります。よろしく御願いいたします。
2012年11月17日(土) 【雑感】私には「散文的」な文章しか書けない、という「コンプレックス」があります。
◆記事:GDP、年0.8%減=2期連続マイナス―投資低迷、中国減速懸念で・7〜9月期(時事通信 11月16日(月)8時58分配信) 内閣府が16日発表した2015年7〜9月期の国内総生産(GDP、季節調整済み)速報値は、物価変動の影響を除いた ◆コメント:「景気後退」(リセッッション)局面入りです。安倍政権の経済政策は失敗です。 アベノミクスなんてものは何ら新しいことをしているわけではないので、嫌いな言葉ですが、 景気後退(リセッション=Recession) といいます。 英国の経済専門紙、フィナンシャルタイムズははっきりと、 Japan falls back into recession(日本、景気後退局面に) と書いていますが、日本のメディアはどこもそれをはっきり言いません。 安倍政権は最初は株価が「アベノミクス」(とは何か皆分からないのですが)期待で上がって それが評価されたのですから、今度は逆に、景気の浮揚に失敗したことをはっきりさせるべきなのに 新聞もテレビも絶対に「景気後退」とは言わない。 日本では、景気後退局面入りの定義がはっきりと決まっている訳ではない、と逃げるつもりでしょうが、 安倍首相が盛んに媚びへつらう、アメリカの基準では、教科書通りの「景気後退」です。 本来、消費増税どころか一時的に減税して家計の可処分所得を増やし、消費意欲を刺激し、 景気が良くなってから消費税を5%から8%に引き上げる、というのならば、理屈にあいますが、 個人消費が増える気配が全然無かったときに消費税を引き上げました。 給料は増えていませんから、消費増税したら、家計に負担になるにきまっています。 それでも再来年には、景気がどんな状態でも消費税率を10%にする、 というのは、安倍首相が従前から明言していることですが、 今の状態で更に消費税を引き上げたら、さらに景気が浮揚する時期が遅れるでしょう。 こういうことは、経済専門紙日経はもとより、全ての新聞、テレビなど、つまりマスメディアが 国民に分かりやすく説明するべきなのですが、「景気後退」という言葉を使って国家権力に 睨まれるのが怖いのでしょうか。マスコミがあまりにも書かないので、 だらだらと冗漫な文章になりましたが、私が書きました。 【読者の皆様にお願い】 是非、エンピツの投票ボタンをクリックして下さい。皆さまの投票の多さが、次の執筆の原動力になります。画面の右下にボタンがあります。よろしく御願いいたします。
2013年11月16日(土) 誰も注意を払わなかった、重大なニュース「多国籍部隊参加の護衛艦 広島を出港」
◆毎年、同じことを書き写していますが、忘れてはいけない事だと思います。 1989(平成元)年の今日、日本で初めて、生体部分肝移植手術が行われました。 ◆そもそもの始まり。 移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。 山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、 裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。 木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。 先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、 黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。 ◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。 この世に生を受けて間もない赤ん坊が、 ◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。 木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。 ◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。 永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、
という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。 永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。 このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。 そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。 「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」 15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。 「お願いします」 その言葉に永末先生の気持ちが動きました。 「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。 ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。 ◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。 永末先生の気持ちは固まりました。 「我々は『肝移植』を標榜している。 第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。 ◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。 手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。 「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。 その都度、永末先生は答えました。 「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」 この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。 しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。 後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。 「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」 淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。 これほど立派な医師を見たことがありません。 裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。 そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。 家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、 チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。 母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。 島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。 それはそれで、良いことです。 しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。 島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。 島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。 永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。 永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。 【読者の皆様にお願い】 是非、エンピツの投票ボタンをクリックして下さい。皆さまの投票の多さが、次の執筆の原動力になります。画面の右下にボタンがあります。よろしく御願いいたします。
2014年11月13日(木) 日本で初めての生体肝移植から、今日で25年です。私が書くのは、12回目です。
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