JIROの独断的日記 DiaryINDEX|past|will
◆18年前の今日、日本初の生体肝移植手術が行われました。 1989年の今日、11月13日。 ◆杉本裕弥ちゃんは、最初、胆道閉鎖症専門家の手術をうけましたが、上手く行きませんでした。 木村先生の紹介で、地元山口県の国立岩國病院の小児外科により、胆管を何とか開く手術が行われました。1度では上手く行かず、2度目の手術も失敗でした。 ◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。 木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。 ◆永末先生は家族にありのままを話しました。 永末医師は
を説明しました。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。 永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。 このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。 そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。 「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」 15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。 「お願いします」 その言葉に永末先生の気持ちが動きました。「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。 ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。 ◆この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう 永末先生の気持ちは固まりました。当時永末先生は助教授でしたから、第二外科の部長中村教授の了解も取り付けました。 「赤ちゃんは死にかけている。責任は全て私が取る。目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう」 第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じだったことでしょう。 ◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。 手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。 「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。しかし、君はこの手術で全てを失うかも知れない。僕はそれがいちばん心配だ。本当に君はそうなってもかまわないのか」 その都度、永末先生は答えました。 「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」 この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。 しかし、後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。 「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」 淡々と語る永末先生を見て、私は改めて、先生を尊敬しました。これほど立派な医師を見たことがありません。 裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。 杉本裕弥ちゃんは、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。 家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、チーム全員に丁重にお礼をいいました。 後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。 母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。 島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。 それはそれで、良いことです。しかし、島根医大第二外科の勇気と決断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。 島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。 新刊でなければ、手に入ります。決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。 【読者の皆様にお願い】 駄文をお読みになり、お気に召した場合、エンピツの投票ボタンをクリックしていただけると、幸甚です。 画面の右下にボタンがあります。 よろしく御願いいたします。
2006年11月13日(月) 1989年11月13日、島根医大で日本初の生体肝移植が行われたのです。
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