JIROの独断的日記 DiaryINDEX|past|will
◆また、11月13日がやってきました。 21年前、1989(平成元)年11月13日(月)、旧・島根医科大学第二外科が 1989年11月、日本初の生体部分肝移植が行われた。 としか書いていないことです。「肝移植の歴史概観」だから、「誰が」「どのように」は不要だ、ということなのでしょう。 患者への概略説明だから、いちいち、情緒的記載が必要ない、というのはわからないでもないですが、 島根医科大学(当時)第二外科により、 ぐらいは書いても良いでしょう。 初めての生体部分肝移植を行う決断がどれほど重かったか。術後どれほど壮烈な医師の努力と奮闘があったか。 それらに対する「畏敬の念」が感じられず、私は、不満です。 だから、私は毎年、その点を詳細に書きます(再録ですが)。 ◆そもそもの始まり。 移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。 ◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。 この世に生を受けて間もない赤ん坊が、可哀想なことに、何度も手術を受ける運命にあったのです。 ◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。 木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。 ◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。 永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、
という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。 永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。 このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。 そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。 「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」 15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。 「お願いします」 その言葉に永末先生の気持ちが動きました。 「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。 ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。 ◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。 永末先生の気持ちは固まりました。 「赤ちゃんは死にかけている。家族は結果は問わないからやってくれという。責任は全て私が取る。目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう 第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。 ◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。 手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。 「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。 その都度、永末先生は答えました。 「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」 この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。 しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。 後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。 「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」 淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。 これほど立派な医師を見たことがありません。 裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。 そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。 家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、 チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。 母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。 島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。 それはそれで、良いことです。 しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。 島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。 島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。 永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。 永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。 ◆【参考】関連記事・サイト・書籍などへのリンク 読売新聞地方版が2002年に掲載した記事がまだ残っています。 読売新聞が見つめた 島根50年 (4)1980年代 生体肝移植 永末先生はまだまだ現役です。現在は福岡の私立病院の院長でいらっしゃいます。 ふくみつ病院 NHK、「プロジェクトX」で杉本裕弥ちゃんの生体肝移植がとりあげられましたが、電子書籍になっています。 プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 裕弥ちゃん1歳 輝け命 他にも永末先生の論文などヒットしますが、これは専門家で無ければ読んでも分からないでしょう。 少なくとも、決断―生体肝移植の軌跡は読んで頂きたいと思います。 【読者の皆様にお願い】 是非、エンピツの投票ボタンをクリックして下さい。皆さまの投票の多さが、次の執筆の原動力になります。画面の右下にボタンがあります。よろしく御願いいたします。
2009年11月13日(金) 20年前の11月13日、日本で初めての生体肝移植が行われました。
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