JIROの独断的日記 DiaryINDEX|past|will
◆毎年、同じことを書き写していますが、忘れてはいけない事だと思います。 1989(平成元)年の今日、日本で初めて、生体部分肝移植手術が行われました。 ◆そもそもの始まり。 移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。 山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、 裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。 木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。 先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、 黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。 ◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。 この世に生を受けて間もない赤ん坊が、 ◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。 木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。 ◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。 永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、
という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。 永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。 このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。 そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。 「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」 15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。 「お願いします」 その言葉に永末先生の気持ちが動きました。 「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。 ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。 ◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。 永末先生の気持ちは固まりました。 「我々は『肝移植』を標榜している。 第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。 ◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。 手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。 「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。 その都度、永末先生は答えました。 「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」 この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。 しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。 後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。 「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」 淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。 これほど立派な医師を見たことがありません。 裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。 そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。 家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、 チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。 母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。 島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。 それはそれで、良いことです。 しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。 島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。 島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。 永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。 永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。 【読者の皆様にお願い】 是非、エンピツの投票ボタンをクリックして下さい。皆さまの投票の多さが、次の執筆の原動力になります。画面の右下にボタンがあります。よろしく御願いいたします。
2011年11月13日(日) 22年前(1989年)の11月13日、日本で初めての生体肝移植が行われました。
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