浅間日記

2007年01月30日(火) 女難大臣

柳澤大臣の発言。新聞で衝撃的に読む。

しかし衝撃的なものの扱いは、注意を要する。

発言の前後の文脈から察するに、貧困な語彙に起因した失言のように思われる。
おそらく「統計上は」とか何とか言えばよかったのだ。

彼だって、自分の母親や妻を「子を産む機械」だなんて思っていないだろう。
大体、機械は子産みなどしないし、機械的な子産みというものもない。

もっとも、失言の底辺には、国民を頭数でしかみられない感性がある。
財政金融の調子で、少子化を語ってしまったのが最大の過ちだ。


私に言わせれば、「子どもを一人もつくらない女性が、自由を謳歌して楽しんで、年取って税金で面倒見なさいというのはおかしい」と発言した森元総理の方が、バランスに欠けた確信犯的発言である。

2006年01月30日(月) 
2004年01月30日(金) 抽選12万名様に裁判体験



2007年01月29日(月)

日経新聞「私の履歴書」に、江崎玲於奈氏が書いている。
本日はちょうど、当時の小渕恵三総理からのご指名で、
教育改革国民会議の座長になったくだりである。

その中で、氏の教育理念が伺える一文がある。以下抜粋。

「・・・この多様化した社会では、さまざまな個人の才能が華々しく開花す

るのである。そこで「産業社会に必要な知識と技能を備えた集団人間」より

もむしろ「個性があり、創造性の豊かな個人人間」の方が求められる時代に

なってきた。従って、各人が持って生まれた才能や天性を最大限に伸ばすた

めそれぞれ各人に適合したカスタムメードの教育が必要になる。そのために

は欧米並みの三十人以下の少人数クラスとし、壺井栄の二十四の瞳ではない

が、生徒一人一人の心をとらえた教育をしなければならないのである。」


ほれみろと、ひとりごつ。
一流先生だって、そう言っている。

2005年01月29日(土) sugarな話
2004年01月29日(木) イマジン銃社会



2007年01月28日(日)

親孝行の一種、というつもりで気にかけている人と邂逅。

柔らかく年を重ねて、元気でいる。
私の知る人の中で、最も清貧で、そして幸福である。

2005年01月28日(金) ホルマリン漬けの人権
2004年01月28日(水) ネガの虫下し



2007年01月27日(土)

山のことでお座敷のかかったHに同行して、でかけることにした。

Aは、皆で電車に乗ったり飛行機に乗ったりできるのが、嬉しそうである。

2006年01月27日(金) ビーフとストーブ



2007年01月25日(木)

あるときは経営者、あるときは経理課長、またある時はアルバイトと、
七変化しながら仕事をするのが自営業と、最近ようやく気がついた。
仕事の中味に応じて自分を豹変させないと、工程に支障がでるのである。

本日は、アルバイト。時給650円ぐらいのルーティンワーク。
だから、普段よりサボったり寄り道せずに、集中して働いている。
単純だが誰かがせねば高次の工程に移れない、こうした作業はとても重要。

2006年01月25日(水) 
2004年01月25日(日) 国民総ガス抜き表現者



2007年01月24日(水) 釈迦の国に説法

朝の台所で味噌汁をこしらえながら、ラジオ。

インドでは、富裕層でもなく貧困層でもない中間層が、ここ数年で増加している。
中間層は3億人と推定され、家電や車などの購買意欲が高く、
テレビをもつ家も増えてきました、とラジオで言っている。

羨ましいなあと思う。
我家はラジオしかないが、羨ましいのはTVを所有していることではない。
TVの所有と豊かさが、未だ結びついていることである。

テレビの所有と豊かさは、わが国ではもはや何の関係もない。
放送文化が廃頽してしまえば、受信機などただの箱だ。

どんなに大型であろうが高性能であろうが、何のプレミアムもない。
一体、社会の不安や閉塞感の増幅装置を、
大型で高性能にする必要があるだろうか?

大切なのは、放送技術ではなく放送文化だと思う。

世界に誇る哲学や宗教や医学を生み出した彼の国の方々へ、
大変に、まことに僭越ながら、助言申し上げたい。

2006年01月24日(火) ALOS!
2005年01月24日(月) 一見にしかず



2007年01月23日(火) モテとヤセ

納豆でやせるという間違った情報をテレビ番組が放映した、というニュース。

見事なほどに店先の棚から無くなっていたから、
一体どうしたのかと思っていた。



健康でいるために体重を減らすことが必要、という人もいるだろう。
それは素晴らしい取組みであるし−残念ながら納豆では不可能なようであるが−、ぜひ実現したらよいと思う。

私が不思議に感じているのは、それとは別の「モテヤセセット」なんである。



あっちもこっちも、モテとヤセばかりである。
一体これは、いつ頃から人々の標準的願望となったのだろう。

モテとヤセに、一体どのような到達点があるのだろう。
どのあたりが、目指すべき華麗なるゴールなのだろう。

わからないことだらけである。



わからないから、想像する。

誰からも、誰よりも大切に思われたい。
誰からも、誰よりも最優先してもらいたい。
この上なく高い審美的評価を受けたい。
羨望の眼差しを受けたい。
声をかけられ、訪ねられ、好意的に話を聞いてもらいたい。

自分を認めてもらいたい。



間違っているかもしれないけれど、もしそれがモテるということならば、
まず自分がそのように振舞って見たらどうかと思う。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に出てくるデクノボウと呼ばれる人のように、
人に共感し、人を認め、他人のために尽くせば、
その分だけは、大切にしてもらえるかもしれない。

思っていたよりささやかで派手さもないが、嘘もない。
たとえ姿かたちが醜く太っても、絶対に揺るいだりしない。

2004年01月23日(金) 英雄がらみの話



2007年01月22日(月)

都内某所で会合。

本日のような会合で、どうしても克服しなければならない課題がある。

どうしたら、人の名前と顔をスムーズに覚えられるだろうか。
何年ぶりの人でも、忘れずにいられるだろうか。

本日は、このことについて、
もはや一刻の猶予もならない程の失敗をやらかした。

2004年01月22日(木) 老害図書



2007年01月21日(日) 11人の中の私

昼過ぎから上京。

電車での移動中にDVDを観るという知恵をつけ、
本日は、いそいそと「12人の怒れる男」を観る。
そのうち始まる裁判員制度を意識しているわけではない。そのこととは全く関係ない。

12人の陪審員が、第一級殺人事件の有罪・無罪を巡って議論する話。



差別や偏見や無関心の、見本市のような映画である。
それは、自分は善良であると信じている人の中に潜んでいる。

感情的に決めつけて思考を停止することは、簡単である。

そして、皆が思考停止し、それに安楽を感じている時に一人異論を唱えることは、
立派なことだが、並大抵でない勇気がいる。
誰だって、うたた寝を起こされるのは嫌なのだ。

そして12人いれば11人が、そうなる。

出生や職業や身分とは関係なく、「社会的うたた寝状態」に陥る。
私にとって、この映画で最も重要な点は、ここである。

自分への戒めにしようと思う。

2005年01月21日(金) 英語の時間



2007年01月20日(土) チキンハートクライマー

本日も、スケートに出かける。
山の上の屋外リンクは、ひんやりして気持ちがいい。

だのに、Hは見物を決め込んでいる。
何回誘っても、リンクの脇で背中を丸め、ご隠居のように
飴玉をなめたりお茶を飲んだりしている。

危ないし怖いから、だそうである。
しらじらしい言い訳である。危ないし怖い?

−こんなところで怪我でもして、骨でも折って、
今シーズンの氷登りをふいにしたらどうするのだ−

彼が恐れていることは、ただ一つ。
おそらくは、そういうことである。

2006年01月20日(金) 茶番劇場の後継者
2005年01月20日(木) マッチポンプ日記
2004年01月20日(火) 芥川賞と私



2007年01月19日(金) 倫理オセロゲーム

ニューヨークの病院で米国初の子宮移植を計画、というニュース。

性と生殖に関する技術や倫理は、恐ろしい速度で変化している。
そして少しずつ、確実に普及してゆく。

ひとたび普及すれば、
生まれてきた命を否定することは、ほとんど難しい。

自分の友人や同僚や親戚とか、身近な存在に対して、
「私の生命倫理に照らし合わせると、あなたは生まれてくるべきではなかった」と、果たして言えるだろうか。

多分、絶対に私はそれを言えないだろう。
もし「それは本来あるべきでない」と思ったとしても。



倫理というのは、たやすくひっくり返る。
オセロゲームみたいに、一瞬で反転する。

そうだから、この先、生殖技術が普及してゆけば、
現在当たり前のようにしている生殖や分娩をすることは、
前近代的で野蛮な習慣と言われるようになるかもしれない。

セックスなど野蛮な行為を通して生まれた命は野蛮なものである、
産婦まかせの不安定な分娩によって誕生した命は不安定なものである、
本能にまかせた生殖や分娩行為は、野蛮な習慣である、
将来、そうした価値観をもつ人が現れるかもしれない。

私は「私の生命倫理に照らし合わせると、あなたは生まれてくるべきではなかった」という科白を、
親切な誰かに押し殺してもらわねばならないかも知れないのだ。



倫理や価値観など、いつでもひっくり返る。
そして、何かを否定しなければ自分が肯定されない、
そうした状況においては、なおさらである。

要するに、「己の存在理由」という根本的な問題において、
二つの事実が真に同時に肯定されるとは、私は思えないのである。

その矛盾が顕在化する将来、彼らにどのような救いが有効なのか、
申し訳ないが、今の私にはわからない。

2006年01月19日(木) 
2005年01月19日(水) 草稿



2007年01月18日(木) 金権政治参加

どの街にも一軒か二軒、必ず、素敵な職人がいる蕎麦屋とパン屋がある。
これは信州で特筆すべき点のひとつかもしれない。

そのパン屋で年末にみかけた、メッセージブレッドなる商品。

「イラク戦争に反対します。価格のなかから10円を、復興支援団体へ寄付します。」
というようなことが書いてある。
そして、発売から今までの売上個数と、寄付した金額が書き添えてあった。

まじめな店主だから、自分に何ができるか考えたのだろう。
まじめにパンを焼くことしかできないし、
まじめにパンを焼くことならできる。
考えた末に思いついた商品なのだろう。



おおよそほとんどのことにおいて、自分は購入消費することしかできない。
社会や政治に対するコミットメントは、その範囲が極めて限られている。
しかし、購入消費することはできる。息をするぐらい無理なく幅広く。


こうしてメッセージフラグのついた商品やサービスを選択的に購入することは、
何かの署名を集めるとか、国会の前を行進するとか、
そういうことに比べれば格段に簡単だ。今日も出来るし明日も出来る。
省エネルギー型の製品を選ぶ時のような按排で、やればよいのだから。
そして、払った金額の分だけ確実に経済は動き、意志は反映される。

「支持できない国会議員の地元へは旅行に行かない」
と宣言することだって、十分国民の意思表示になるのだ。

票よりも金がものを言うというのなら、
これからはもう、その方便に従ってものを言おうと思う。

2006年01月18日(水) 悪貨が駆逐するもの
2005年01月18日(火) 悲嘆エレベータ
2004年01月18日(日) コインロッカーベイビーズ



2007年01月16日(火) 大人的パフォーマンス

珈琲屋のマッチで、ストーブの火をつけた。
Aが仰天して、一体その棒はどうなっているのかと聞く。

白桃の缶詰めを缶切りで開けた。
またAが仰天し、私の手元をじっと見て、
その作業は、自分が何歳になったらやらせてもらえるのかと聞く。

このあたりで気がついた。
スイッチ一つで車でも動かせるこの時代に、手仕事の技能は、大人が使う魔法なのだ。

そうかそれならばと、早速いやらしい行動に出ることにした。



Aの目の前で、ものすごくもったいぶって、ナイフで鉛筆を削ってみた。
これは、簡単にできない、大変に難しい作業であるというふうに。

しかし悲しいかな、どんなに演出しても手元は危く、仕上がりは美しくない。
そのせいか、マッチや缶切りほどAを仰天させることは不可能であった。

忘れていた。
自分は「最近の子どもときたらろくに鉛筆も削れない」と、
その不器用さを指摘された時代の子であった。

こんなことでは、子どもに示しがつかぬ。
何としてでも、鉛筆削りにおいて、子どもから尊敬の眼差しを受けたい。
シャープペンシルを排除して、特訓である。

2006年01月16日(月) マサヤ画伯への手紙
2005年01月16日(日) 枯れ木残らず花が咲く
2004年01月16日(金) 赤塚不二夫



2007年01月14日(日) 同じリンクの中にいる

Aを連れて、山の上のスケートリンクへ。

スケートは−私が推測する限り−スキーをしのぐ、
信州の真のウィンタースポーツなのである。

Aと二人、おそるおそる受付をすませ、靴を履き、
びくびくとリンクにあがる。
Aは初めてだし、私だって同じようなもの。

ものすごいスピードスケートの選手がいる、と思ったら、
競技用のスーツを着た小学校2年生ぐらいの子ども。
よく見ると、もっと小さい子もいる。

おじいさんやおばあさんだって、美しいフォームで気持ちよさそうに滑っている。
お母さんと娘がクルクル回っている。

我々にとって無情と言うほどレベルの違う人ばかりが滑っている。
気を取り直して、Aと手をつないで、リンクの端をヨチヨチ歩く。

転んでばかりのAは、なぜ自分はあの子達のように出来ないのかと、
嫉妬心のあまり無口であるが、3周もすると大分慣れてきた。



私達は、同じサーキットの中にいる。
上手な人も、そうでない人も。

リンクそのものにグレードはなく、みな等しく、平滑な氷の上にいる。
それぞれのやり方で、冬の晴れた日の素朴な遊びに、幸せを感じている。

2005年01月14日(金) 腹ふくるるわざなり
2004年01月14日(水) 今日から日記はじめます



2007年01月13日(土) 凍み上がり

冷え込みの厳しい一日。

氷点下が続く厳冬期は、山で岩石崩壊がおきる。
さして風化もしていない岩塊がある日バーンと砕け、礫となって林道を塞ぐ。

巨大な岩塊を砕くものはただの水である。
わずかな隙間に入り込んで氷結膨張し、少しずつ岩塊の亀裂を深めてゆく。

ひとたび砕け散った礫は、もう決して岩塊になることはできないし、
重力の法則に従って流下するだけで、決してそこへ留まることはできない。



ゆるぎない大きなものが崩壊する時、特別なものは何も現れないのだ。
日常の隙間に少しずつ、識別不可能な形でしみこんだものが、決定的な破壊を誘発する。

崩れ落ちて完結するものが自然ならば、
それは、もう仕方がないことなのかもしれないとも思う。

ただし、日本の場合、山というのは岩塊が露出している場所だけではない。
ほとんどの場所においてその上は森林であり、
ヒューマンスケールを越えた緩やかな速度で、変化するものでもある。



2007年01月12日(金) 正月おいてけぼり

年末からすっかり間があいて再開。

山の家へ行って年を越し、上京して正月を遊び呆け、
家に戻ってものすごい雪景色に仰天し、
そのうちに仕事を開始し、現在に至る。

近所の松飾はみな、子ども達の祭りに供されて既に灰と化し、
取り残された我家の松は、なんだか所在無げである。

2006年01月12日(木) 秘境の根拠
2005年01月12日(水) 将軍様は健在


 < 過去   INDEX  未来 >


ipa [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加