2004年01月30日(金) |
抽選12万名様に裁判体験 |
少し早く起きたので新聞を全面見ることが出来た。
■司法制度改革推進本部が発表した裁判員制度の話。 住民台帳からくじ引きで裁判員を決めて、裁判に参加させるのだそうだ。 選任された人は指定された日に指定された場所へ出頭しなければならず、相当の理由がなければ拒否もできないらしい。 詳細を簡単に知るサイトがあったので後でまたいこう。
まず驚いたのは、「出頭」という表記。 出頭といえば警察をすぐに思い浮かべるのだけれど、 ちょっと怖い響きがある。 よく考えればそれは「国家権力」をさして、 「国家権力」は自分の中で 「理不尽な暴力」という置き換えがされているせいだとおもう。
国民参加の司法制度として裁判員制度の導入を検討、ぐらいのことは 前々から知っていた。 参加の機会が与えられるのはいいのではないかとも思っていた。
でも迂闊であった。私は愚民ちゃんであり、それ以降を詳細に調べなかった。
肝心の二文字が抜けている。
「国民参加」ではなくて「国民「強制」参加」だ。
人を裁きたいなどと思っていない人に、人を裁くことを強制すること、 行動を国に拘束されること、この二つが腑に落ちない。 意味不明のアレルギー反応が起きて、脳が発作している。
本当の意味で、市民の視点から犯罪の結末を判断しようというのならば、 「抽選12万名様に裁判体験あります」というのはあまりに浅はかだ。
それが犯罪のないよりよい社会のために、 一体どういうふうに貢献するものなのか、私には理解できないのだ。
人を裁くということには、それを職業としているかどうかに関わらず、 「資格」というものがあると思う。人格に対する「信頼」と言ってもいいかもしれない。 それはそんなに簡単に制度化できるものではないし、 誰でも出来るわけではないし、裁くという方法を 多数決で決めるものでさえない気がする。
もしも自分や友人や家族や愛する人が 裁判の舞台に立たねばならなくなった時、可能性として 「絶対に人を裁く資格などない」という人に 人生を左右されることがあり得ると思うと、 いきなり自分の世界が不信感で覆われてしまう。 こんな不幸な想像をしたくない。
あるいはその逆で、自分がもし何かの間違いの中で、 罪を犯した自覚や良心の呵責を感じていた場合に、 同じような罪にある人を裁くことができるのだろうか。
ついでに思うのは、運用の問題だ。 海外旅行や長期出張で不在の人はどうするのだろう。 プータローで実際は所在地不定の人はどうするのだろう。 呆けちゃっている人は、まあ「相応の理由」になるのかもしれない。
これは絶対日本の未来のために必要な制度だ!という主張を だれでもいいから正面からきちんと聞かせてほしいものだ。
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