終日東京。予想どおり、暖かさで上着も帽子も邪魔になる。
阪神大震災から10年目の記事。
被災地域や被災者の人々は、謙虚でありながら、 前向きで力強い言葉を持っている。 それが色々なメディアから、自分に入ってくる。
人は一人では生きられない、とか、支えあって生きるとか、 今生きていることに感謝している、などなど。
これは、一体どういうことか。 何故こんなに、皆一様に言葉をもつのか。 そのようにさせた阪神大震災とは何だったのか。
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多分、そんな清々とした心境の人ばかりではないはずだ。 神戸で起きた少年事件も、震災後の社会不安と無縁ではないといわれている。 被災したことがきっかけで心がすさみ、 その後の人生もすっかり損なわれてしまった人もいるに違いない。
私は勝手に想像する。 生と死を巻き込むような悲嘆というのは、−少なくとも自然災害で被災した日本人の場合は− 何か人間としての成熟を飛躍的に上下させる、昇降機のような役割があるのだろう、と。
悲嘆の中から未来や内省を導きだすことができれば、 自分のステージをよりよいものにすることができるし、 悲嘆が怨恨や依存へ結びつけば、それは自立した人生からの退場を意味する。
そして、日本人というのはおそらく、 この悲嘆エレベーターにのって上層階へ行くことが上手い国民ではないかと思う。
神戸の人々、そして新潟の人々の様子から、そう思う。
2004年01月18日(日) コインロッカーベイビーズ
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