無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2007年01月08日(月) 実体のある祝日ってあまりないけれど/映画『デスノート the Last name』

 成人の日って廃止した方がいいんじゃないかと内心、本気で思ってるんだけれども、別に成人式ではしゃぎすぎてタイホされる馬鹿が続出してるからじゃないのね。
 「成人」ってのは「通過儀礼」なんだから、ただ休日にすりゃそれでいいってもんじゃないのよ、文化的には。
 敵の部族の首取ってこい、なんてことは言えないにしても、パンジーさせるくらいのことしなけりゃ意味ないんじゃないのか。
 日本の「初冠」だって「裳着」だってさ、しっかり性的な意味があるわけだしさ(笑)。


 またまた、例の短大生遺体切断事件の続報について。
 妹がなんかAVに出ていたとか何とか、ネットでは騒がれているようだが、大手の新聞には一切記載がない。
 ニュースソースをいちいち調べるのも面倒なので、事実かどうか確認はしてないが、妹の写真を見るとまあ、それらしくはある。こういうのにそそられる男ってのもいるんだろうね。

 このあたりのニュースを根拠に、相変わらず被害者の妹を悪し様にののしってる連中もいるようだが、兄のイカレた心理に自分も同調してることに気が付いてないのだねえ。
 つまり、妹を非難する人間たちは、無意識のうちに「こういう妹を自分も犯して切断したい」という願望を抱いているのである。はっきり「犯罪者予備軍」と言ったっていいのだが、そういう連中がかなりの数いるみたいなんだよねえ。何かすぐ側にもいるみたいなんで、正直、気色悪い。
 魑魅魍魎の百鬼夜行だね。

 事件の報道当初は、妹は兄とヤッてたのかヤッてなかったのかよくわかんないから、それによって兄の心理の分析は変わるなあと思ってたんだけれども、どうも「先を越された嫉妬」みたいな感じになってきて、ますます卑俗化してきた。
 ただの情痴事件じゃん、という当初の私の予想がますます裏付けられているわけだけれども、妙な「意味」を付与したがるエセ識者もやたら出てくるんだろうなあ。
 それも鬱陶しいことだけど、そういう時代なんだから仕方がない。


 映画『デスノート the Last name』。
 以前見てるんだけど、知り合いが「まだ見てない」と言うので、付き合いで見る。

 キネ旬とかで、「ノートに書くだけで人を殺せるという安易さがいやだ」とか書いてた評論家がいたけれども、原作はそういう安易な殺人者を糾弾してるマンガだからなあ(笑)。
 そんなことよりも、私は原作のライトが人が言うほどには天才的なキャラクターだとは思えないので、後半、かなりサスペンス色が薄められたと残念に思っているのである。

 キラを「ただの殺人鬼」と糾弾するのは簡単である。実際にキラは罪のない者だって殺しているから。キラの論理に従えば、「犯罪のない新世界」を作るために真っ先に殺さなければならないのはキラ自身、ということになる。
 その矛盾が原作マンガでは結局、解消されなかったからね。ライトが後半、どんどん馬鹿になっていったから。

 私としては、ラストのどんでん返しも含めて、Lを好演した松山ケンイチに注目するとかなり好意的にこの映画を見ているのだけれど、ライトの馬鹿さ加減が映画でも解消されなかったことと、リュークやレムのCGがあまりにCGCGしていることとがあって、どうしても「よかったよ」とは言いにくいのである。
 ミサミサも戸田恵里香はイメージに近かったかな。女の子を撮らせると、一見うまいようで実はへたくそな金子修介監督にしては、今回はなかなか上出来な演出をしていたと思う。
 西村冴子の上原さくらや、片瀬那奈の高田清美も華があってよし。って、ホントに私ゃ女の子中心で映画見てるなあ(苦笑)。
 

2006年01月08日(日) 「懐かしい」だけでも泣けるけど/映画『銀色の髪のアギト』&『ALWAYS 三丁目の夕日』
2005年01月08日(土) 夢見る頃は過ぎてるか?/映画『悦楽共犯者』ほか
2003年01月08日(水) 肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜(エコー)/『なんてっ探偵アイドル』11巻(北崎拓)ほか
2002年01月08日(火) ココロはいつもすれ違い/『女王の百年密室』(森博嗣・スズキユカ)
2001年01月08日(月) 成人の日スペ……じゃないよ


2007年01月07日(日) いつでも時代は狂っている/舞台『みんな昔はリーだった 〜EXIT FROM THE DRAGON〜』

 情痴事件を話題にすると、軒並みキーワード検索してくる人が増えるのはどう感想を述べればいいものやら(苦笑)。
 私としては、なんでこんなくだらん事件を話題にしているかと言うと、事件の分析は前提に過ぎず、その程度の基本的分析すらできない、あるいはしようとしないマスコミや「世間」の偽善性を問題にしているのである。
 事件の本質を見抜けない、あるいは見ようとしない人間は、いじめを傍観してるのと同じく、婉曲的な犯罪の加担者、協力者なんだよ、ということを告発してるの。
 何度も書いてる通り、馬鹿は馬鹿であるだけで罪悪である。ただ、馬鹿は死ななきゃ治らねえから、その罪を引き受ける覚悟だきゃしとかなきゃなんねえだろ、その程度の自覚は持てよ、自分だけが例外でマトモだなんて傲慢な態度を取ってんじゃねえ、みんな馬鹿野郎様なんだよ、と言ってるの。
 こんな「分かりきった」ありふれた犯罪自体に、私ゃたいして興味はありません。

 だから、そこの妹に劣情を催しててどうしたらいいのか困ってる君、そんなこたあ私の知ったこっちゃないから、妹を犯すなり、その前に首くくって死ぬなり、自由にしてちょうだいね。



 福岡市民会館で、舞台『みんな昔はリーだった 〜EXIT FROM THE DRAGON〜』を見る。

 作・演出 後藤ひろひと
 出演 堀内 健 池田成志 京野ことみ 伊藤正之 後藤ひろひと 竹下宏太郎 瀬川 亮 熊井幸平 松角洋平 板尾創路

 ストーリー
 少年が一人、公園のベンチに座り、空を仰いでいる。
 そこに現れる一人の男。遠慮がちにベンチの隣に座り、少年に話しかける。彼は少年の叔父だった。
 甥の中学生の龍彦(熊井幸平)は、彼女に髪型がみっともないという理由で振られ、むしゃくしゃして母親に怒鳴り散らして、家を飛び出してしまったのだ。
 フツーの人とはちょっと違っていて、かなりうざったい叔父さん(板尾創路)は、弱気になっている龍彦に絡んできて、根掘り葉掘り母親を怒鳴った理由を聞きだそうとする。
 龍彦は思わず、「僕の髪型かっこ悪い?」と言ってしまう。
 その問いをきっかけに、叔父さんの長い長い話が始まった。

 そんなにも昔でもない昔、天狗は出ないけれども、「龍」が出てくる話を。
 男のかっこよさは男が決めていた時代のことを。

 1970年代、ブルース・リーの全てをなぞり、彼になりきることで、男の生き方の美学を学ぼうとしていた4人の中学生、よっと(堀内 健)・河田(池田成志)・たっけさん(竹下宏太郎)・桑島(伊藤正之)。
 ブルース・リー映画に欠かせないヒロイン、ノラ・ミャオの名前で呼ばれる少女・佐々木(京野ことみ)もいる。
 そこへ、海外から一人の少年が転校して来た。ブルース・リーを知らない男、ひろゆき(瀬川 亮)。

 「だめゆき」と仇名されることになる彼の存在が、5人を思わぬ事態へと巻き込んでいく……。


 前説で、本編中に鬼警部・百目鬼國彦役で登場する松角洋平さんが現れて、携帯電話の電源を切ってください、と挨拶をするのだが、毎回、他の出演者から、「何か芸をしながら挨拶せよ」との「指令」が出されるのだそうな。
 もちろん、その指令は封書で渡されるので、松角さん当人には舞台に立つまでその内容は知らされない。
 今日は池田成志君の「駄々っ子になれ」との指令。松角さん、「はっきり言っていじめです」と言いながら、「電源切ってくださーい!」と地団太を踏む。
 仰々しく「百目鬼」なんて役名が付いているけれども、この刑事、本編中には1シーンしか登場しないセリフのない役である。チラシに名前も載ってないチョイ役の人にこういう前説をさせるのは、脚本演出の後藤さんのイタズラであり優しさだろう。
 実際、このあとにアナウンスで観劇の注意は流れるので、前説は特に要らないのである。

 観劇の注意もなかなか笑かしてもらえた。この芝居、観劇中は「ジャッキー・チェンのことは思い出さないで下さい」とのことである。思い出していいのは、「ジミー・ウォン、ノラ・ミャオ、ブルース・リャン、倉田保昭、ホイ三兄弟」とからしい。劇場では小さな笑いが起こっていたが、このあたりの名前に反応できる客はあまり多くはなかったようだ(苦笑)。
 ノラ・ミャオは本編中にもヒロインの仇名として登場する。言うまでもなく、『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』などのヒロインだが、演じた京野ことみに似ているかと言われれば、藤原紀香よりは似ている、という程度である。ノラ・ミャオをリアルタイムで記憶している世代も今は40半ばだろう。脚本の後藤さんにしたところで、お兄さんがリーファンではなかったら、ノラ・ミャオへの思い入れを描けたかどうか。

 けれども芝居が面白かったのは実はこの前説までである(笑)。

 作品自体は「みんな昔はリーだった」というよりは「みんな昔はすわしんじだった」とでも言えばいいような怪作である(すわしんじも誰だか知らない人、多いだろうがもう説明はしない)。
 ともかく、当時のあの「異常」と言うしかないブルース・リー・ブームを知らない人にとっては、意味不明に見えてしまうのではないか。

 「みんな」と題されてはいるが、1973、4年ごろ、ブルース・リーにかぶれた少年たちは、軒並み馬鹿か不良だった。
 本編中でも、まともに「武道家」としてのリーを尊敬し、カンフー(実際には截拳道<ジークンドー>)を学ぼうとする少年は一人しかいない。あとは、リーの怪鳥音やポーズを表面だけなぞって、リーを知らない少年を相手に暴力を振るい、いじめを行っていたどうしようもないやつばかりであった。

 リーのカッコよさが、それを真似ることで、少年たちに心理的ないじめを正当化させてしまっていたのがあの時代である。
 現代、いじめ自殺を教育機関が手をこまねいて放置しているのと同様、あの時代も全国に巻き起こったいじめの嵐に対して、学校は何一つ有効な手立てを取ることができないでいた。

 物語はあの時代の「現実」を見事に活写する。
 劇中でもそうしていじめられる「だめゆき」という少年が登場する。
 周囲のリー・ブームに乗ろうとし、リーを知らないがゆえに乗り切れず、ヒロインの少女と仲がいいために友達からいじめられ続けるだめゆき。
 彼は「ブルース・リーって、力が強ければ弱い者いじめをしてもいいって教えてるの!?」。と泣き叫ぶが、あの当時、いじめに逢っていた少年たちはみな、そう思っていたことだろう。私もそうだ(笑)。

 もちろん、ブルース・リーの映画は普通のヒーローものであり、いじめ助長の意図などは何もないのだが、月光仮面のマネをして高所から飛び降りて怪我をする子どもが続出した(とされるが本当かどうかは疑わしい)昔から、精神的に未熟な少年たちにとっては、ドラマの背景に流れるテーマとか思想とかいうものは自分に無関係な夾雑物に過ぎないのだ。それが「現実」というものである。

 この物語が「甘い」のは、そうしたいじめの冷徹な現実を描いていながら、それでもだめゆきにリーへの憧れを捨てさせなかった点である。
 ブルース・リーの時代を知らない世代にとっては、だめゆきがそこまで心情を吐露していながら、なぜリーのあとを継ぐような行動を取ろうとするのか、ピンと来ないのではなかろうか。それを納得させるだけの描写が不十分なのは、脚本がその時代のアイテムやキーワードを並べ立てるだけに終始し、だめゆきの精神的葛藤と時代との関わりを描ききれていないせいである。

 ブームというものは、「なぜそれがそのときそこまで流行ってしまったのか」、後の時代の人間には全く理解できないほどに「断絶」を生み出してしまうものである。天地真理がなぜ白雪姫とまで呼ばれ、一世を風靡できたのか、現代人に説明ができる人間がいるだろうか。
 ブルース・リーも同じである。通り一遍の説明では、あの大ブームの理由をとても納得はさせられないだろう。そのブームの陰で、さっさとこんなくだらんブームは過ぎ去ってほしいと願っていた少年たちもまた多数いたという事実も。

2006年01月07日(土) まだまだ書き足りないが/舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』
2005年01月07日(金) キネ旬ベストテン発表/『3年B組金八先生 新春スペシャル』ほか
2003年01月07日(火) 顔のない時代、歌のない時代/『全日本ミス・コンビニ選手権』(堂高しげる)ほか
2002年01月07日(月) 食い放題に泣く女/『エンジェル・ハート』2巻(北条司)ほか
2001年01月07日(日)  ああ、あと三日休みが欲しい(贅沢)/アニメ『人狼』ほか


2007年01月06日(土) 去勢された人々/映画『パプリカ』

切断遺体:頭髪、胸部など切り取る
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070106k0000m040161000c.html

> 東京都渋谷区の歯科医、武藤衛さん(62)方で長女の短大生、亜澄(あずみ)さん(20)の切断遺体が見つかった事件で、亜澄さんの遺体から頭髪と胸部、下腹部が切り取られていたことが分かった。死体損壊容疑で逮捕された次兄の予備校生、勇貴容疑者(21)は胸部などについて「流し台のディスポーザー(生ごみ処理機)で処分した」と供述している。性別などの判別を困難にする工作と取れる半面、激しい恨みを示す行為ともみられ、警視庁捜査1課は理由を追及している。(後略)

 連日、この事件についてばかり書いているようだが、毎日のように新事実が発覚しているので仕方がない。前日の日記でも予感していたことが当たった形になっているが、やっぱりこの兄、妹の一部分を切り取ってたねー。
 「流し台のディスポーザーで処分した」というのはまず間違いなくウソだろう。妹さんの一部は現在、兄の立派なウンコとなり果てた、そういうことである。

 ここまでの状況が判明すれば、これが「なじられてカッとなって衝動的に殺した」事件などではないということは馬鹿でも理解できると思うのだが、新聞が未だに慎重すぎるほど慎重に、「性別をごまかすためか」とか「激しい恨みか」とか、あえて一番思いつきやすい想像を避けているのは失笑ものである。どんなにきれいごとで済まそうとしても、事件の陰惨さは隠しようもないことだと思うのだが。
 小学生じゃあるまいし、チチやナニを切り取っただけで性別がごまかせるなんて思うか? ただの恨みでその部分だけ切り取るか? 兄妹でなければ、こんな遠回しな表現はしないと思うが、近親相姦のタブーがこんな形で現れるというのも現代人のモラルのいびつさを象徴しているように思える。
 このニュース、毎日新聞以外にはどこにも掲載されていないようだ。ガセという可能性もあるけれど、他社は報道を控えたんじゃないかね。

 ニュースは子供も見る。だから控えた。そういう言い訳も成り立ちはするのだが、それが表現の規制の本当の理由ではないということは、この国に長く住んでいる人間ならば当然、気が付くことだろう。
 即ち我々は、社会的に去勢されているのである。

 去勢された社会の、去勢された人々によって作られる報道は、性に関する事件については、自然、「捏造」にならざるを得ない。
 いつものように無意味な「動機探し」は今回も識者とやらを中心に行われることだろうが、それとても肝心な部分は適当に回避され、「心の闇」という便利な表現の中に収束されていくのだろう。

 しかし我々は認識すべきである。ゲームや同人誌等でも、兄妹相姦ものは巷に溢れかえっている。別に識域下の問題に還元せずとも、我々は兄妹が血縁である以前に生物学的な男女であることを充分に知っているのだ。これは人間の暗部ではない。人間の本質である。
 これを唾棄すべきものとして目を背けることは誤りである。タブーのために表には現れていないが、近親相姦は現実には案外頻繁に起きている出来事なのだ(どうして私がそんなふうに断言できるかということについては追求しないように。答えはしないから)。
 あなたがそれを身近に感じていないとしたら、それはただの僥倖なのである。信じないというのなら、それはあなたの勝手である。

 あなたは兄だろうか、妹だろうか、あるいは兄妹の親だろうか。そのいずれかであるならば例外はない。みなさんの間に肉体関係が結ばれていないとしたら、それは、単に文化的慣習によってそれが回避されているというだけのことに過ぎない。
父親が娘を犯さないのは、息子が母親を犯さないのは、兄が妹を犯さないのは、それが「家族」なのだという概念の元に抑圧されているからである。即ち、家族は家族であるだけで常に崩壊の方向に向かう要素を内包させているのだ。
 その事実を前提としない「家族復活論」がいかに現実性に乏しいか。きれいごとの報道に単純に誘導されない知性を我々は取り戻さねばならないと思う。そうでなければ、我々はいつまで経っても去勢されたまま、未熟な性を持て余し、コントロールできないまま暴発を待つだけの危険な社会の中で生き続けていかねばならなくなるのである。


 シネリーブル博多駅で、映画『パプリカ』。

 原作 筒井康隆/監督 今 敏/脚本 水上清資、今 敏/キャラクターデザイン 安藤雅司/美術 池 信孝/音楽 平沢 進/制作 マッドハウス/製作 パプリカ製作委員会 (マッドハウス, ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)/配給 ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント

 声の出演 林原めぐみ(パプリカ/千葉敦子)、江守 徹(乾精次郎)、堀勝之祐(島寅太郎)、古谷 徹(時田浩作)、大塚明夫(粉川利美)、山寺宏一(小山内守雄)、田中秀幸(あいつ)、こおろぎさとみ(日本人形)、阪口大助(氷室 啓)、岩田光央(津村保志)、愛河里花子(柿本信枝)、太田真一郎(レポーター)、ふくまつ進紗(奇術師)、川瀬晶子(ウェイトレス)、泉久実子(アナウンス)、勝 杏里(研究員)、宮下栄治(所員)、三戸耕三 (ピエロ)、筒井康隆(玖珂)、今 敏(陣内)

 ストーリー
 パプリカ/千葉敦子は、天才科学者時田の発明した、夢を共有する装置DCミニを使用するサイコセラピスト。
 ある日、そのDCミニが研究所から盗まれてしまい、それを悪用して他人の夢に強制介入して悪夢を見せるという事件が発生するようになる。
犯人の正体は、目的は。そしてこの終わり無き悪夢から抜け出す方法は……。

 『富豪刑事デラックス』『時をかける少女』『日本以外全部沈没』、そして『パプリカ』と、昨年は「筒井康隆イヤー」と言ってもいいくらいの筒井作品の映像化は大盛況で、これなら筒井さんも生活は安泰であったろうとホッとしている。
 なんせ筒井さん、何年か前のエッセイに「生活水準を維持するためには俳優を続けるしかない」旨のことを書いてらっしゃいましたからねー。筒井作品が読まれないなんてことは、格差社会よりも北朝鮮危機よりも憂慮すべき事態だと、本気で思ってる次第なんですよ。
 若い連中で、「活字なんてつまんない」とか糞馬鹿なこと言ってるやつは吐いて捨てるほどいるのだ。もう、はっきりと「お前ら人間じゃねえ。どーぶつだ」と言ってやった方がいいんじゃないか。それが言えないのは大人が自信なくして現実逃避してるだけだと思うぞ。

 それはさておき、『パプリカ』である。
 サイコダイブを題材にしたSF作品は数多いが、妄想ツンデレ(笑)少女が精神治療を行うって設定のものはそう多くはないと思う。『GS美神 極楽大作戦!』にも似たようなエピソードがあったが、『パプリカ』とどっちが先だったろうか。
筒井SFのヒロインと言えば、真っ先に思い浮かぶのが『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』の火田七瀬だが、パプリカのキャラクターは間違いなくその延長線上にある。
 テレパス七瀬は男性の意識、無意識を覗き、精神破壊を行うが、これは逆説的な「癒し」であった。七瀬シリーズ書かれた時代は、精神治療が一般化していなかったから、七瀬は強制的に男性の心に入り込まざるを得なかったわけだが、パプリカは違う。
 パプリカは既に男性から求められている。男性の好む容姿を持ち、ツンデレ属性まで持ち合わせ、ストレートに患者を夢の中でカウンセリングして抑圧を開放し、癒しを与える。男はパプリカの意のままだ。
 しかも物語の中で、最終的に癒されるのは典型的なデブオタ・時田である。
 これではちょっとオタクに媚びすぎてるんじゃないかという気もしないでもないが、つまりは世の男性はそれくらい、現実の女に幻想を持てなくなってしまっているということなのだろう。
 オタク的コミュニケーション不全は、自意識を過剰に拡大させ、妄想を肥大化させる。その結果、理想の女性像は現実と極端に乖離し、もはや自らの妄想の中でしか性的快楽を得られなくなる。工夫がないくらい単純に、幼児退行を起こし、パプリカになでなでしてもらうことを求めることになるのだ。
 物語の中で、「夢の女」という泉鏡花の小説のタイトルが漏らされる。パプリカは、まさに理想のアニマとして、オタク男子の夢を叶えるためにそこにいるのである。

 そう考えると、この声優のキャスティングは実に興味深い。
 究極のオタク・時田は古谷徹だ。アムロ・レイがメカオタだったことを覚えているアニメファンは多かろう。時田の夢の中の仮の姿はブリキのロボットであったが、いっそのことガンダムもどきのモビルスーツにしてしまえばよかったのにと、本気で思った。時田の幼児性を考えれば、その方が自然ではないだろうか。
 そしてパプリカは林原“アヤナミ”めぐみである。その符合についてはもう説明するまでもない。彼女は今回、再び「巨大化」してくれたが、巨大女フリークのフェティシストたちは、「あの爽快なシーン」にきっと狂喜したことであろう。江守徹、もって瞑すべし(笑)。

 『パプリカ』は徹頭徹尾、男性論理によって成立しているSFである。女性から見れば「男ってこんなに幼稚なのか」と驚かれるかもしれないが、深層意識まで大人である男などは存在しない。男はみんな死ぬまでマザコンである。
女性もまた、男の正体はこんなものだと諦観して、白馬の王子様などいないと理解してもらいたいものだ。

 七瀬シリーズで男性の単純な欲望を描いたように、『パプリカ』も男の幼稚な夢を描き出す。
 その潔さが小気味よい。男もまた、自分の正体や弱点が暴き出されてしまったことに腹など立てず、幼稚でもデブでもオタでも、天才でさえあれば、たまにはいい女をゲットできると夢想していればよい。
 つまり、天才でないあなたは、ナベブタで妥協することである。
……そういうお話なんですよ、『パプリカ』は(笑)。

2005年01月06日(木) 触んなきゃできない演技指導なんてない/『金魚屋古書店』1巻(吉崎せいむ)ほか
2003年01月06日(月) 食えないモノを食う話/『名探偵コナン 揺れる警視庁1200万人の人質』/『ジャイアントロボ誕生編』(伊達憲星・冨士原昌幸)ほか
2002年01月06日(日) 言えない話と男の優しさと英語落語と/『西岸良平名作集 蜃気郎』1巻(西岸良平)ほか
2001年01月06日(土) ああ、今日は土曜か。今気づいた(^_^;)。/映画『ビッグムービー』


2007年01月05日(金) 動機は藪の中に/映画『リトル・ミス・サンシャイン』/映画『こまねこ』/ドラマ『悪魔が来りて笛を吹く』

> 不仲の兄・妹、家でも無言のにらみ合い…短大生殺害
> http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070106ic01.htm

> 妹になじられた後…自室で木刀とひも準備、冷静な犯行
> http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070106i101.htm

 東京都渋谷区の歯科医師長女短大生バラバラ殺人事件の続報である(まだどんな名称になるか分からないので、適当な呼び方をしているが、諒とせられたい)。

 昨日の日記ではこの兄妹の間柄にかなり淫靡な関係もあったのではないかと想像していたが、その可能性は薄れたようだ。妹はかなり兄を嫌っていたように思える。
 となればこの事件は、逆に兄の妹に対する満たされぬ欲情の爆発、という可能性の方が高くなってしまったわけで、身もフタもない言い方をしてしまえば、これはもう、童貞君の、しかも精神的に去勢されているがゆえの、身近な異性に対する「性的暴発」以外の何物でもない。
 妹がアイドル志望でブログまで持っていたというのならなおさらだ。妹と没交渉であったことが、かえって妹への幻想を培ってしまったのだと言える。もしかしたらこの兄、妹の一部を文字通り食ってたりしてないか。

 生物学的な本能として判断するなら、近親婚は決して異常なことでも何でもない。最も身近な異性に対して性的関心を抱くことは、ごく自然なことだからである。人間社会においてそれが回避されているのは、優生学的な問題(科学的には全く根拠のないことなのだが、なぜか未だに近親婚は奇形が生まれると盲信している人間が多数いる)や宗教的タブーがあるからというよりも、裏も表も知っている身内に対して、幻想を抱きようもないという「文化習慣的な要因」の方が大きいように思う。
 世の中に「お兄ちゃん……」とモジモジしながら甘えてくるような萌え要素満載の妹なんて実在しないのだ。

 しかしニュースはあくまでこの事件から情痴的要素を排除して報道しようと努めている。その結果、逆に矛盾だらけの表現が目立つことになる。「頭にきてやってしまった」犯行について「冷静な犯行」と強調しようとするあたりなどがそうだが、性的犯行は得てして冷静な行動となって現れるものだ。
 送検中の兄の顔がようやくテレビで流れるようになったが、あの「イッちゃってる目」を見れば、事件の本質は誰の目にも瞭然であろう。マスコミだけがなぜかオタオタしているのである。

 しかし、ネットでは「兄をバカにする妹は殺されて当然だ」みたいな発言も見受けられるようで、これには笑ってしまった。妹に幻想を持っている御仁は、結構身近におられるようなのである。


 シネリーブル博多駅で、映画『リトル・ミス・サンシャイン』。

 監督 ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス/プロデューサー デイヴィッド・T・フレンドリー、マーク・タートルトーブ、ピーター・サラフ/脚本 マイケル・アーント/音楽 マイケル・ダナ/撮影 ティム・サーステッド/美術 カリーナ・イワノフ/編集 パメラ・マーティン

 出演 グレッグ・キニア/トニ・コレット/スティーヴ・カレル/ポール・ダノ/アビゲイル・ブレスリン/アラン・アーキン

<ストーリー>
 アリゾナ州に住むフーヴァー一家は、家族それぞれに問題を抱え崩壊寸前。
父親のリチャード(グレッグ・キニア)は独自の「9段階成功法」を振りかざして、“負け組”を否定している。そんな父親に反抗する長男ドウェーン(ポール・ダノ)はニーチェの超人思想に被れて沈黙を続けている。9歳の妹オリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)は、自分の体型では入賞はとうてい無理なミスコン優勝を夢見ている。ヘロイン常習者の祖父(アラン・アーキン)は勝手に言いたい放題。さらにはそこへゲイで彼氏に振られて自殺未遂を起こした伯父フランク(スティーヴ・カレル)まで加わる始末。ママのシェリル(トニ・コレット)の孤軍奮闘も虚しく家族はバラバラ状態だ。
 そんな時、オリーヴに念願の美少女コンテスト出場のチャンスが訪れる。そこで一家は旅費節約のため、オンボロ・ミニバスに家族全員で乗り込み、はるばる開催地のカリフォルニア目指して出発するのだが……。

 製作費はたった800万ドルのインディペンデント映画。
 マニアなキャスティングではあるけれども、一般的に客を呼べる有名スターは一人もいない。
 ところが、そんな映画が、『スーパーマン・リターンズ』『パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト』などの超大作を蹴散らして5千万ドルを売り上げる大ヒット、諸外国の映画祭でも絶賛の嵐、となれば、日本の批評家もまたこぞってこういう映画を誉め上げるのである。
 けれども、そこが「落とし穴」というもので、「地味な映画を賞賛するのが通」みたいなのは逆にスノッブなのね。映画を実際に見てみりゃ分かるけれども、駄作とまでは言わないけれども、「この程度で絶賛するか?」って程度の小品だよ、これ。

 いわゆるウェルメイドなシチュエーションコメディであると同時にロード・ムービーでもあるんだけれども、ビリー・ワイルダーほどに粋なわけじゃない。ニール・サイモンほどにイカレているわけでもない。ごくごく小粒。
ワイルダーなら設定にムリがあっても、笑わせてくれるんだけれども、そういう芸達者は、アメリカでも払底しているのかもしれない。コメディアンをあえて外して、「ナチュラルな演技」がふれこみの普通の役者を起用した(アラン・アーキンやスティーヴ・カレルなどのセカンド・シティ出身者もいるが、彼らにも普通の演技をさせている)。
 そこがあちらでは賞賛されているようだけれども、そもそも設定自体が「ありえない」のだから、ナチュラルじゃ逆効果なのではないか。だって、実際、見た印象は、「ムリのある話で、しかも爽快感がない」としか言いようがないのだ。

 冒頭で「いかにフーヴァー一家がバラバラか」を紹介する描写をパンフの解説で誉めていたけれども、こんな「絵に描いたようにバラバラ」な家族を「自然な演技」で見せても、かえって不自然さが目立つ。
 自分の立案した成功法を出版したがってるオヤジってのは実在するかもしれない。
 ヘロイン中毒の爺さんも世の中にはたくさんいるだろう。
 ニーチェに被れて無言の行を続けるイカレた若者も滅多にいるとは思えないがいないとも言えない。
 ミスコン狂いの母娘なら、いくらでもいそうだ。
彼氏に振られたゲイで、しかもプルースト研究家というのは突飛だが、普通の家族の中に一人、そんなヘンなのが混じってるっていうのなら納得もする。
問題は、「こんなおかしなやつらが全て集まってる家族なんてありえない」ということだ。

 ストーリーは彼ら家族が幾多のトラブルを乗り越えてカリフォルニアにたどり着くまでを描くが、このトラブル一つ一つの乗り越え方がまた、毎回「ウソくさい」のである。

 ラストが取って付けたように家族そろって仲良しになりました、で終わるのも拍子抜けだ。
 せめて日本の『逆噴射家族』のようにハチャメチャなことをしてくれるんだったら気が抜けるまでには至らなかったと思うんだけれども。


 続けてシネリーブルで、『こま撮りえいが こまねこ』 

 原作・監督・キャラクターデザイン 合田経郎/アニメーター 峰岸裕和、大向とき子、野原三奈
 音楽 Aikamachi+nagie/Vocal いいのまさし/エンディングテーマ:solita『123』

 声の出演 瀧澤京香、若林航平、小林通孝 

<ストーリー>
 
 「こまちゃん」は、こま撮り(8ミリ撮影のアニメーション)が大好きなネコの女の子。
 彼女を主人公に、五つの物語が綴られます。

1.「こまねこ はじめのいっぽ」
 こまちゃんはこま撮りするネコなので、今日も一生懸命にこま撮りをしています。ストーリーを考えて、絵コンテを描き、お人形や背景も作って、さあ!8ミリカメラで撮影を開始するのですが・・・。ハエが飛んできてアクシデント発生!こまちゃんは無事、撮影できるのでしょうか?

2.「カメラのれんしゅう」
 お気に入りの8ミリカメラで野原の撮影をするこまちゃん。撮影に夢中なこまちゃんに、幽霊がいたずらしようと、こっそり忍び寄ってきます。

3.「こまとラジボー」
 壊れたラジオの修理にやってきた、ラジボーとラジパパ。ラジボーは機械いじりが大好きな男の子。こまちゃんに、素敵なお友達ができました。
4.「ラジボーのたたかい」
ラジボーは飛行機のラジコンで鳥とたたかいます。あの手この手を使うのですが、なかなかやっつけられません。あきらめて鳥と仲直りするラジボーですが・・・。

5.「ほんとうのともだち」

 ある日、ピクニックに出かけたこまちゃんは、雪男と遭遇してしまいます。最初はびっくりしておうちに逃げかえりますが、失くしたお人形をおうちまで届けてくれた雪男にどうしてもあいたいと思うこまちゃん。
 はたして、こまちゃんは雪男に会えるのでしょうか?そして雪男の正体とは?


 監督の合田経郎氏は、NHKの人気キャラクター「どーもくん」の生みの親。
あの人形アニメーションの「あたたかさ」をご存知の方には、その素晴らしさについて今更、何の説明も必要としないだろう。
 上映時間がわずか1時間、これであの愛らしいこまねことお別れかと思うと、それだけで胸が切なくなる。
 合田氏のアニメーション技術の素晴らしさは、人形アニメにはありがちな「動きのぎこちなさ」、これが非常に小さいことだ。人形の骨格がしっかりしていることと、ぬいぐるみ人形の質のよさ、それももちろんあるだろうが、やはりその動きの「演技指導」が細密でブレが少ないことが一番の理由だろう。
 その技術は、アードマンスタジオの『ウォレストグルミット』を越えている。はっきりと「世界第一級」と呼んでいいと思う。

 当然のことながら、その技術を支えているのは、監督以下アニメーターたちの「真心」だ。
 こまちゃんは可愛らしいだけのネコちゃんではない。こま撮りアニメを作ることにはとことん凝っている(キャラクターのももいろちゃんとはいいろくんはこまちゃんが心を込めて作ったおかげで、動けるようになってしまった。けれどもこまちゃんの気持ちを汲んで、あくまでこま撮りさせてあげるのである)。

 つまりみなさん、こまちゃんは立派な「腐女子」なんですよ(笑)。
 ラジボーはメカマニアだし、いぬ子ちゃんは……。はいそうです。アレです(笑)。

 フツーの子供とはちょっと誓ったところのある子供たち、こまちゃんを動かしているアニメーターたちは、子供時代の自分たちに――そして今のフツーと違った趣味を持っている子供たちに向けて――。
 「君は、ここにいていいんだよ」と声をかけてくれている。
 これでジンと来ないオタクはいないだろう。

ああ、しまったなあ、去年のうちにこの映画を見られていたら、「キネ旬」の読者投票ベストテンに、この映画を入れるのだったのに。
昨年の私の日本映画ベスト5は、1.『鉄コン筋クリート』、2.『時を書ける少女』、3.『こまねこ』、4.『かもめ食堂』、5.『立喰師列伝』と変更します。
5本中、4本がアニメになってしまいましたが、あと『パプリカ』を見たら、それも入ってくるかも……。

 昨年は邦画自体も活況を呈したけれども、アニメもまた、秀作を次から次へと送り出してきていたのである。


ドラマ『金曜プレステージ 悪魔が来りて笛を吹く』。

原作 横溝正史/脚本 佐藤嗣麻子/演出 星護/音楽 佐橋俊彦
出演 稲垣吾郎(金田一耕助)、国仲涼子(椿美禰子)、成宮寛貴(三島東太郎)、伊武雅刀(目賀重亮)、螢雪次朗(玉虫利彦)、銀粉蝶(河村駒子)、高橋真唯(河村小夜子)、小日向文世(横溝正史)、野波麻帆(菊江)、浜丘麻矢(お種)、浜田晃(玉虫公丸)、渡部豪太(玉虫一彦)、塩見三省(橘署長)、秋吉久美子(椿秋子)、榎木孝明(椿英輔)
 
稲垣吾郎の金田一耕助シリーズも『犬神家の一族』『八つ墓村』『女王蜂』に続いて第四弾。
 金田一役者が代わるたびに、イメージがどうこう言われるのだが、稲垣吾郎はいささか若すぎるものの、金田一のこまっしゃくれた感じはよく出していると思う。あのマントひらりはちょっとやめてほしいが。
冒頭で米兵から「Batman!」と呼ばれるのは、原作の『蝙蝠と蛞蝓』を知っている者にはクスリとくるネタだ。

さて、ドラマの内容の方になるが、原作のトリックに重大なミスがあることは、横溝正史自身が告白している有名な話。多少は触れないことには説明が続けられないので、ちょっとだけ触れると、フルートに関するトリックである。
実はこれまでの『悪魔』の映画、ドラマ化においては、このトリックにミスがあるために、一度も映像化されたことがなかった。
このミスについては、原作者自身が改稿を考えていたのだが、残念ながら横溝正史には音楽に関する知識がないために(息子の亮一さんはフルート奏者なんだから、協力してやればよかったのに)放置されたままだった。
従って、『悪魔が来りて笛を吹く』というタイトル自体が一つのトリックになっているにもかかわらず、映像は常に「メイントリック不在」のまま、つまりは「不完全版」のまま、映像化され続けていたのである。

脚本の佐藤嗣麻子は、これまでのシリーズでも、原作のエッセンスを充分に引き出した脚本を書いてきた。正直、テレビドラマという時間の枠がなくて、映画という枠であったなら、これまでの横溝映像化の中で最高傑作と言ってよいほどの出来栄えになっただろうと思われるものばかりなのである。
今回もそれを期待してみたところ、まさに横溝ファンの意を得たかのように、このトリックミスが修正されていたのである。
何人か原作の登場人物が省略されていたり、密室トリックがなくなっていたり、原作の改変はかなりあるが、それでもこのメイントリックが初めて修正されたという点で、今回のドラマ化を高く評価しないわけにはいかないだろう。
省略された密室トリックも、正直、『本陣殺人事件』に比べればチャチとしか言いようがないものである。もしあと30分、尺があれば、この密室トリックも何とかグレードアップすることができたのではないかと思うと、やはりテレビという枠の狭さが残念に思えてならないのだ。

2005年01月05日(水) 年賀状のことなど/『パディントン発4時50分』(石川森彦)ほか
2003年01月05日(日) インド人にビックリ/『膨張する事件』(とり・みき)/『バンパイヤ/ロックの巻/バンパイヤ革命の巻』(完結/手塚治虫)ほか
2002年01月05日(土) 食って寝て食って歌って/ドラマ『エスパー魔美』第1話/『ピグマリオ』7巻(和田慎二)
2001年01月05日(金) やっぱウチはカカア天下か


2007年01月04日(木) インモラルの剥奪/映画『劇場版 BLEACH MEMORIES OF NOBODY』/ドラマ『佐賀のがばいばあちゃん』

> <切断遺体>殺害された女子短大生の兄を逮捕
> http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070104-00000098-mai-soci

> 東京都渋谷区の歯科医、武藤衛(まもる)さん(62)宅で長女の短大生、亜澄(あずみ)さん(20)の切断遺体が見つかった事件で、警視庁捜査1課と代々木署は4日、兄の予備校生、勇貴(ゆうき)容疑者(21)を死体損壊容疑で逮捕した。「妹から『夢がない』となじられ、かっとなって殺した」と殺害も認めている。(後略)

 さて、久方ぶりのいかにもな猟奇事件である。

 テレビのニュースでは、殺害された妹さんの写真ばかりを流していて、犯人の兄の写真は全然写されない。これも加害者の人権に配慮して、という措置なのかどうかは知らないが、こういう報道のされ方では、勢い、「兄に殺害される要素が妹にはあったのかどうか」という関心を喚起する形にならざるを得ない。
 要するに、兄は妹に近親相姦的熱情を抱いていて、その発露として殺害に至ったのだろうか、という関心なのだが(はい、今回、かなり内容、どぎつくなりますよ。キレイゴトだけがお好きな方は読むのをご遠慮ください)、妹さんの顔を拝見する限り、まあ、私の好みではない。

 いや、私の好みじゃないからと言って、兄が妹に熱情を抱いていなかったとは言えないことは当然である。
 少なくとも「頭部、両肩、腹部、両足などを関節部分で十数個に切断」という行為を、性衝動の発露でないと見ることの方が難しかろう。
 兄は「『私には夢があるけど、勇君(勇貴容疑者)には夢がないね』となじられ、頭にきて殺した」と供述しているそうだが、それをそのまま鵜呑みにはできない。
 ここまで「丹念に」切断しているのは、遺体を隠す意図があったと言うより、切断という行為それ自体に兄の関心が向いていたと判断する方が妥当だからである。

 死体をポリ袋に入れてクローゼットや物入れに隠したまま放置、予備校の合宿に参加していたというのも、死体隠匿の意志が希薄であったことを感じさせる。
 何やら臭気がすることについて、親には言い訳をしていたようだが、発覚しないと考えていたとしたら、兄の理性に信頼を置くわけにはいかない。
 死体をあとで捨てるつもりだったというよりは、帰宅してなお腐敗した妹の死体がそこにあり、「愛するものが腐っていく状態を鑑賞したい」という衝動を抑えることができなかったのではないかと見た方が、ずっと自然なのである。

 ニュースはこの典型的な猟奇事件を、なんとか穏便に報道しようとしてか、「『夢がない』となじられた」点ばかりを強調しようとしているが、兄にとって、夢のあるなしは実際にはどうでもいいことであったろう。
 妹に対して常日頃嗜虐的欲情を抱いていながら、その思いを果たせず悶々としていたところに、逆に妹の言によって被虐的立場に立たされようとしたことに対する衝動的な反発が、兄をして凶行に及ばせたと見れば、兄の一連の不可解な行動は全て納得がいくのである。
 あるいは。

 これほど明瞭な変態的猟奇事件が、ただの兄妹間の諍いのように、あるいは過剰な教育による強迫観念の爆発であるかのように「矮小化」されて報道される事態の方に、私は憂慮を覚えるものである。
 性の開放が進んでいるように見えながら、全体主義的なモラルの無意識的な強要はこの社会に蔓延している。ホモセクシャルはやはりカミングアウトすれば何らかの形で迫害を受けるし、サディストやマゾヒストはその伴侶を求めるのには特定の会員制の秘密クラブを利用するほかはないだろう。
 相手を殺してしまえば確かにそれは犯罪なのだが、性愛の究極の形が殺人に行き着くことは決して珍しいことではない。恋愛至上主義を信奉していながら、法律的にはともかく、心情的には陵辱を嫌悪し、情痴殺人を否定するというのは、とんでもない矛盾なのである。
 もっと端的に言ってしまえば、殺意を伴わない性愛は性愛として機能しているとは言えないのだ。相手を傷つけるということは、傷つける資格を自分が相手に対して有している、即ち相手がまさしく「自分のものである」と認識するための具体的な行為なのだから。
 もちろん、実際に殺害という行為に走れば、この愛は結末を迎えてしまう。殺したくとも殺せない、このアンビバレンツの中で、男女は自らの性愛を育てていくしかないのである。

 殺害された妹は果たして処女であったか否か、そのことを兄は知っていたか否か、いや、先ほどはつい書くことを控えてしまったが、この二人の間に既に近親相姦が成立していたか否か、そこがこの事件を読み解く重大な鍵となろう。
 しかし、兄がそれを告白するかどうかは分からないし、告白したとしてもそれが報道されるかどうかは分からない。
 いや、既に兄は何かの告白をしていて、全てを報道できないがために、あの「なじられた云々」という何とも腑に落ちない動機だけが強調されているのかもしれない。


 確実に言えることは、兄は妹を切断している間中ずっと、快感に打ち震えていただろうということである。
 「死体をバラバラにする」とは、どういう行為なのか。それは人体の人形化である。パーツ化である。人形とは即ち愛玩物である。そして人形に魂を吹き込むことができるのは、その人形の「主人」だけである。
 兄は妹の主人になりたかった。妹を自分の自由にしたかった。だから妹はバラバラにされなければならなかった。バラバラ殺人という行為が、兄のそういった意志を象徴しているのだ。
 “そんな行為を妹に対して行えた者は自分以外にいない”。
 この認識は処女を犯した男に共通する快感と同種のものである。即ち、このバラバラ殺人は、妹に対する兄の独占欲を満たすことになったに違いないのである。

 誤解を招くかもしれないことを承知であえて書くが、この事件は、兄にとって、「ハッピーエンド」であった可能性すらある。
 妹は果たして兄の自分に対する欲情に気付いていたかどうか。
 いや、もしも二人の間に交情があったと仮定すれば、妹の「自分には夢があるが、兄には夢がない」という問い掛けは、全く別の意味すら持ってくる。これはもしや、妹の、兄からの決別宣言ではなかったか。
 兄は、妹の別離を、まさに命を懸けて阻止したのである。
 これは私の個人的な妄想とは言えない。「死体を切断する」という行為に性的意味があることはこれまでのバラバラ殺人事件で常に分析されてきたことである。今回だけが例外であるとどうして言えるだろうか。
 人間を理解しようとする者なら、その行為の異常性がどう分析できるかは、常に意識しておかなければならないことだろう。

 あなたが真に恋人から愛されているという自覚があるなら、やはりいつかは殺されるかもしれない可能性があるのだと覚悟する必要があるだろう。
 愛とはそれくらい激烈なものなのである。

 ひと昔前なら、居酒屋などでテレビを見ながら、客同士でこの事件を話題にするとしたら、開口一番、誰かが「この兄ちゃん、妹とヤッてたんかな?」と口にしていたことであろう。
 しかし果たして現代はどうだろう。「ひどい犯罪もあったもんだねえ」で終わるか、下手をすれば「兄が妹を殺すなんて世も末だねえ、信じられない」などという「常軌を逸した」発言すら出てくるかもしれない。
 たとえそれが犯罪であったとしても、人間の性愛の可能性を簡単に否定するような社会は、決して健全には機能しない。去勢された社会だと言ってもいい。しかし、全ての性愛は基本的にインモラルなものなのである。
 即ち、インモラルな話題を口にできるということは、それだけモラルが形骸化しておらず、ちゃんと機能していることの逆証明になるのだ。表面的なモラルにすがりたい人々が多いということは、実質的にはインモラルを助長することにしかならない。
 「差別をなくそう」というスローガンが差別を増大化させるのと同じ現象が、性愛に関しても起きているのである。

 某SNSで、この事件が話題になっていたが(そこにいる人がここも読んでいることを承知の上で書くが)、やはりというか、誰も兄妹の心理までは踏み込めず、新聞報道の誘導に引っかかって「夢がないのがいけないのかどうか」みたいな暢気な話題に終始していた。
 SNSは「仲間うち」の世界であるから、“そういう視点での会話”が行われていれば、“それ以外の視点での会話”は荒らし行為にしかならない。
楽しい会話を邪魔するつもりは毛頭ないので、放置しておこうかとも思ったのだが、その暢気ぶりは前述した通り、人間の可能性を否定することに繋がる可能性すらあったので、遠回しに認識の甘さを指摘しておいた。
 遠回しすぎて、気付かれなかったかもしれないけれど。


 今日が仕事初め。
 やらなきゃならない仕事は実はたくさんあるのだが、休みボケが続いているので、適当にこなして、定時に退出。
 どうせ次に出勤する時は早起きして行くので、時間の余裕はあるだろう。多分。

 仕事と知らない父から、夕方電話がかかってくる。
 「散髪でもせんかと思って電話ばかけたとやけどな」
 父は今日まで仕事休みだが、世間はみんな働き始めているのですよ(苦笑)。
 仕事を引けてから妻と合流、父と食事をする。
 「脳梗塞からこっち、客が十分の一に減ったなあ」と嘆息する父。
 しかし、ということは倒れる前は父は私の数倍、稼いでいた計算になる。
 それだけ稼いでてその殆どを散財してたんだから、どれだけ遊んでたか、ということになろうかと思うが。


 父と分かれて、妻とダイヤモンドシティへ。
 映画『劇場版 BLEACH(ブリーチ) MEMORIES OF NOBODY』。

 原作 久保帯人/監督 阿部記之/脚本 十川誠志/キャラクターデザイン 工藤昌史/音楽 鷺巣詩郎/主題歌 Aqua Timez「千の夜をこえて 

 出演 森田成一/折笠富美子/伊藤健太郎/置鮎龍太郎/朴璐美/三木眞一郎/立木文彦/石川英郎/塚田正昭/川上とも子/大塚明夫/中尾隆聖/櫻井孝宏/西凛太朗/松谷彼哉/望月久代/檜山修之/福山潤/奥田啓人/斉木美帆/梁田清之/本田貴子/松岡由貴/安元洋貴/杉山紀彰/真殿光昭/森川智之/瀬那歩美/釘宮理恵/小阪友覇/松本大/安田大サーカス/森下千里/斎藤千和/江原正士

 ストーリー

 黒崎一護の前に死神少女・茜雫(センナ)が現れる。
 空座町(からくらちょう)を舞台に大量発生した認識不能の霊生物・欠魂(ブランク)。
 尸魂界(ソウル・ソサエティ)の空に映し出される“現世の街”。
 巌龍(ガンリュウ)率いる闇の勢力・ダークワンたちの恐るべき謀略が動き始める。
 世界の崩壊まで残り1時間。
 一護は、この世界を守りきることができるのか?
 そして明かされる茜雫との関係とは?

 ジャンプアニメはジャンプアニメというだけで貶せる欠点があるが、それにはもう今更触れても仕方がないような気もしている。
 宝塚の舞台に「なんで女が男役やってるんだよ」と突っ込むようなもので、どうしてジャンプマンガは話が全部「天下一武闘会」になるんだ、と腹を立てたところで、「それがセオリーだ」と言われれば反論のしようもない。

 しかしそれで話が面白くなっているのならばともかくも、とてもそうは思えないのだから、劇場版の時くらい、「もう何度も見たことのあるパターン」やら「聞いたことのあるセリフ」を連発するのはそろそろやめてほしいものだ。
 「俺は絶対あいつを助け出す!」と主人公が叫んで、ヒロインを助け出せなければこれはただのバカである。こんなセリフは、予定調和のドラマを説明する意味でしかない。黙って行動しろ、くらいのことは言いたくなる。

 いや、そもそも物語の骨格自体がふにゃふにゃで、人物造形もへろへろだ。
尸魂界と現世の崩壊に、茜雫の存在が関わっているのだろうということはすぐに分かる。
 しかし、この茜雫が、自分の存在の曖昧さについてさほど悩みもしていないのがそもそも不自然だ。「複数の生前」を記憶していながらアイデンティティ・クライシスも起こさずに享楽的に過ごせるというのは、ただのバカではないのか。ヒロインに感情移入させる具体的な演出が一切見られない。
 一護の茜雫への思い入れがどうしてああまで高まるのか、その描写も不十分なので、観客は完全に物語の展開に置いてけぼりになる。作画は頑張っているが、一度、置いていかれて白けてしまった心を高揚させるにまでは至らない。

 ともかく、登場人物が多すぎるのだ。劇場版ということでオールスターキャストを揃えなければならなかったのだろうが、無駄な描写を増やすばかりである。
 所詮はジャンプファンのイベント映画に過ぎない。まともなドラマとしての評価は下しようがないのである。

 それにしてもタイトルが既にネタバレになってるってのはどういうことかね。
 茜雫が登場したら、すぐに正体分かっちゃうじゃん……と思っていたけれど、ネットで調べてみたら、「サブタイトルの意味は最後に分かります」とか書いてる人、結構いるんでやんの。
 ……もうちょっと読解力持てよなー(苦笑)。


 帰宅して、ドラマ『佐賀のがばいばあちゃん』。

 泉ピン子のばあちゃんは、当然のことながら映画版の吉行和子よりも島田洋七のおばあちゃんに似ている。と言うか、吉行和子は演技がまずいわけじゃないんだけれども、ばあちゃんにしてはきれい過ぎるのだね。
 「泉ピン子もばあちゃんやるようになったんやね」としげ。が感嘆していたが、相応な年齢だろう。佐賀弁もそう不自然ではなかったし、映画よりもこちらの方が決定版、ということになるのではなかろうか。
 ラストで主人公の駆け落ち編的なエピソードが挿入されたので、続編も作られそうな気配である。

 それにしても原作が同じとは言え、映画とテレビドラマと、内容が殆ど同じであったのには驚いた。
 いや、セリフや演出、場合によっては画面の構図まで似通っているシーンがやたらあったのだ。リメイクというよりは、殆ど「キャストを変えた撮り直し」といった印象で、『犬神家の一族』を彷彿とさせたが、一応、実話なんだから、へたに変えようがなかった、ということもあるのだろう。

 けれど、英語について「私は日本人だから外国のことは知りません」、歴史について「過去のことには拘りません」という言い訳、いつの時代からあるんだろうね。この伝統だけは成績の悪い生徒の先輩後輩間で、脈々と受け継がれているような気がする。

2005年01月04日(火) 2004年度映画勝手にベストテン
2003年01月04日(土) めかなんて、こどもだからわかんないや/『眠狂四郎』6巻(柴田錬三郎・柳川喜弘)/『ああ探偵事務所』2巻(関崎俊三)
2002年01月04日(金) 消えた眼鏡と毒ガスと入浴シーンと/『テレビ「水戸黄門」のすべて』(齋藤憲彦・井筒清次)
2001年01月04日(木) ああ、つい映画見てると作業が進まん/『快傑ライオン丸』1巻(一峰大二)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)