無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年01月05日(日) インド人にビックリ/『膨張する事件』(とり・みき)/『バンパイヤ/ロックの巻/バンパイヤ革命の巻』(完結/手塚治虫)ほか

体調、夕べより悪化する。
 どうにも寒気がしてダルいので、職場に連絡を入れて休もうとしたら、偶然にも積雪のせいで職場自体、休みになっていた。どうも同僚がのきなみ「雪でたどり付けませ〜ん」と泣きの連絡を入れまくったらしい。全く、これだからイナカの職場は(^_^;)。
 もともと休日なんだから休んでいいんはずなんである。
 ホッとして昼寝。


 しげは、10時から芝居の練習に。
 台本が上がらなかったのでまたブツブツ文句を言われるが、「来週までには上げる」と約束させられる。
 「あと一週間で書けると?」
 「書き出したら速いから。一んちあれば充分だよ」
 「そう言ってギリギリまで書かんやん。アンタ、夏休みの宿題、最後の2、3日で書くタイプやろ」
 いや、それはなかったなあ。夏休みの宿題はどちらかというと早めに仕上げてあとは遊んでたほうだ。最後の2、3日でできる程度のレベルの宿題なら、最初にやっちゃったほうが楽に決まっている。
 台本が宿題と一緒にならないのは、アタマの中で寝かせて置けば寝かせておくほど、面白くなるからである。ギリギリになる面があるのも仕方がないと思ってほしい。

 練習は3時半には終わるはずである。
 けれど、5時を回ってもしげはいっかな帰ってこない。
 どうしたのかと思っていたら、ようやく7時を回って帰宅。
 練習後、打ち合わせもかねて、其ノ他君、鴉丸嬢と天神の「ナーナック」で食事をしてきたとか。
 以前も書いたが、本場のインド料理をむちゃくちゃ愛想のいいインド人が目の前で作ってくれる料理屋である。店内がすげえ狭いんで、インド人ととってもアットホームな雰囲気にになれます(^^)。
 「あの二人、『ナーナック』で食事するの初めてかね?」
 「だってよ」
 「インド人にはビックリしたろう」
 「其ノ他君は受けてたけどね」
 「鴉丸さんはどうだった?」
 「『食えるもんがない』って泣いてた」
 「辛いのダメなの?」
 「おなかの調子が今悪いんだって。だからカレーじゃなくてスープを頼んだんだけど……」
 「辛かったんだろう」
 「うん。『甘かった、インドを舐めてた』って言ってた」
 結局、味は気に入ったのかどうか。鴉丸嬢もしげに負けず劣らず偏食っぽいから、少しは本格的な料理を食べる習慣、身につけたほうがいいと思うんだけどな。


 マンガ、とり・みき『膨張する事件』(筑摩書房・1155円)。
 ポール・サイモンはなぜよこたとくおの顔をしているのか?
 いや、もちろんそれが面白いからなのだけれども、音楽畑には全く疎い私にでさえ、この作品集の中で一番面白かったマンガが、アルドン・ミュージック社のミュージシャンたちを、トキワ荘の面々の自画像キャラで描くという『アルドン荘物語』だったというのは、とりさんにとってはちょっと面白くない事実ではなかろうか。要するにせっかくの面白いネタを、とりさんの絵柄は十全に表現しきれてはいない、ということだからである。
 その件について語る前に、このもしかしたらとり・みき最高傑作かもしれない『アルドン荘物語』の「配役」について紹介しておこう。
 バリー・マン………………………赤塚不二夫
 ドン・カーシュナー………………寺田ヒロオ
 ハワード・グリーンフィールド…藤本 弘(藤子・F・不二雄)
 ニール・セダカ……………………安孫子素雄(藤子不二雄A)
 キャロル・キング…………………水野英子
 ゲリー・ゴフィン…………………石森章太郎
 テディ・ランダッツィオ…………つげ義春
 ポール・サイモン…………………よこたとくお
 どうです、これだけで笑えてきませんか。
 彼らの出会い、修業時代、デビューをわずか2ページで描き切ったのがこの『アルデン荘物語』なのである。名前は出て来ないが、アルドンのもう一人の創立者、アル・ネヴィンスは、当然手塚治虫であろう(^o^)。
 実は、この中で私が顔を知ってるミュージシャンといえばニール・セダカとポール・サイモンしかいないのだか(だからホントに音楽には詳しくないんだってば)、言われてみると安孫子さんとよこたさんの二人の似顔絵がピッタリに見えてくるのである(^o^)。いや、錯覚だってことはわかってるけど、そう見えてしまうところがマンガのチカラなんでね。
 悔しいのだけれど、私にはあともう一人のキャラクター、シンシア・ウェイルが誰の自画像であるかがわからない。劇画チックな絵柄なので、少女マンガ家ではない気もするが、今村洋子でも里中満智子でも池田理代子でもない。トキワ荘に入ったことのある女性は水野英子だけだし、赤塚不二夫のアシストをしていた土田よしこの自画像は全然違うマンガタッチのものである。
 こういうときこそ、ネットでの情報がモノを言うと思って探してみたのだが、こんな細かいネタにまで触れてる記事が全くない。もしかしたら世界で唯一『アルデン荘物語』について詳しくレビューしているのがこの私の記事ではないのか(^_^;)。
 誰かご存知の方はいらっしゃいませんか。

 『アルデン〜』の話ばかりになってしまったが、この本は『事件の地平線』を始め、実際にちまたで起きた事件をネタにして、ギャグマンガにしたものがほとんどである。
 これが面白いかどうかと言うと、なんつーかね、微妙なんである。
 例えば1998年8月の技術試験衛星の「おりひめ」「ひこぼし」のドッキング失敗のニュース、これを「おりひめ、ひこぼしという名前がそもそもよくない」と、宇宙開発事業団が名前をほかに考える、というネタなんだけれど、まあ、どういう展開になるか、見当はつきますわな。最初はマトモなものがどんどんヘンになっていく、というのはギャグの定番だけれど、よっぽどのモノを出さないとこれって落ちがつきにくい。ムリが目立って逆に白けてしまう例も出て来てしまう。
 「アダムとイブ」「いざなぎ・いざなみ」はまだいいとして、後半は「キングコング対ゴジラ」「キクとイサム」「マダムと女房」「敏いとうとハッピー&ブルー」「パンダコパンダ」と、これで笑えと言うのか、というラインナップになって来るのだ。
 いや、微妙につまらないところが面白いと言えなくもないが、それはやっぱりつまらないってことなんだろう。
 で、このつまらないネタも、田中圭一の『神罰』のように、手塚キャラでやってたら笑えたかな、と思ったときに、とりさんのキャラクター、マンガとしては「弱い」あるいは「重い」んじゃないか、ということを感じたのである。
 とりさんが吾妻ひでおの影響を受けていることはご本人も認めていることだが、では吾妻さんが生み出した様々なキャラクター、例えば三蔵や不気味やナハハや阿素湖素子に匹敵するものって、あまりいないのではないか。いや、全くいないとは言わないが、本作では私の好きな秋田先生も吉田さんも登場しない。とりさんの今の太い描線で彼らの個性を描き出すのはなかなか難しくなっている。あのタキタさんですら、本作ではその個性を『遠くへ行きたい』ほどには表していないのだ。
 シリアスなマンガも描くが、とりさんの本質はやはりギャグマンガにあると思う。できれば16ページなら16ページ、まとまった形でのとりギャグを見せてほしいのだけれど、なかなか掲載誌がないのかもなあ。
 もしかして、未だに『てりぶる少年団』の失敗が尾を引いてるのかも(^_^;)。


 マンガ、手塚治虫『ヒゲオヤジの冒険』(河出文庫・819円)。
 世代的に言って、私が初めて出会った「ヒゲオヤジ」は、もちろん『鉄腕アトム』である。モノクロ版のヒゲオヤジの声は矢島正明さんであった。

 ここでまた、以前『華麗なるロック・ホーム』のときみたいに、映像化されたヒゲオヤジの歴史を辿る、ということをやってみようかとも思ったんだが、アナタ、ロックのときも持ってるビデオテープを何10本も引っ張り出し(ネットは資料的価値のあるページがほとんどなく、チョイ役までは記載されてないので、結局は現物に当たって確認するしかないのだ)、『アトム』モノクロ版をずっと早送りしながら見るなんてメンドクサイことやりまくって疲労困憊、すっかりいやんなっちゃったので、もう今回はそんなメンドクサイことはしない。
 もう記憶だけで簡単に書いちゃうと、矢島さんのほかには、熊倉一雄(『アトム(新)』)、大塚周夫(『火の鳥2772』)、富田耕生(『マリンエクスプレス』)の諸氏が声アテしていたと記憶する。チョイ役を含めるとほかにもいろんな人がやってるだろう。実写版『アトム』や『バンパイヤ』とかはカンベンして。見返して確認する元気なんてない(^_^;)。確か本木雅弘版の『ブラックジャック』ではいかりや長介がヒゲなしでやってたよな。掏りの名人役で。
 手塚治虫さんはキャラクターシステムを採用するにあたって、声優さんもできるだけフィックスさせるようにしていた。だからアトムはCMに至るまでいつも清水マリさんがアテていたし、御茶ノ水博士はナーゼンコップ博士の役を演じても声は勝田久さんだったのである。
 ところがヒゲオヤジのようにこれだけ数多くの作品に出演しているキャラクターだと、声優さんのスケジュール的にもフィックスは難しくなってくる。結局、「役者」としてのヒゲオヤジのイメージは散漫なものになってしまっているように思う。

 手塚治虫のメインキャラクターであるにもかかわらず、恐らくアニメ世代の人間にとって、ヒゲオヤジは、ほかの凡百の脇役と同列の、たいして印象に残らないキャラクターの一人にすぎない、と思われているのではなかろうか。悪役好きの私が珍しく、手塚キャラの「正義派」の中で好きだと言えるのがヒゲオヤジただ一人なので、そのように認識されてしまうのは残念でならないのである。
 もっとも、私も最初、アトムやレオやサファイヤといった、ごくフツーの(と言っても手塚さんのヒーローはどこかで「歪んで」いるのだが)ヒーロー、ヒロインたちに目を奪われていたことは否定しない。しかしたとえ脇役であっても「ヒゲオヤジがいなければ」成立しなかった作品も、特に初期作品には数多く見られるのだ。

 ヒゲオヤジの当たり役は、「私立探偵・伴俊作」である。ネーミングの由来ははっきりしないが、比佐芳武の「多羅尾“伴”内」と、甲賀三郎の「獅子内“俊”次」あたりからイメージしているのではないか。というのも、探偵とは言ってもこの二人は理知的なホームズや明智小五郎タイプではなく、活劇の主人公としての探偵、ニック・カァタァの系列に連なる探偵であるからだ。
 見た目は冴えない爺さんが、柔道の技で悪人どもをなぎ倒す、それはそれでカタルシスはあったのかもしれないが、一般的にはヒーロー然としたキャラクターが活劇の主人公であった方が客受けはよかったのではないか。にもかかわらず手塚さんは初期の作品ほどヒゲオヤジを「便利に」使っていた。これはいったい何を意味するか。
 ヒゲオヤジはしばしば「語り部」としての役を担う。『ロストワールド』でも『メトロポリス』でも、主役はあくまでケン一だ。しかし、そういった初期作品の多くで、主役たちはしばしば危難に遭い、作品によっては命を落とす。そして、彼らヒーローの愛や勇気や悲劇を読者に語り伝える役としてヒゲオヤジは配置されていた。

 その最たるものは、『ジャングル大帝』でレオの肉を食って生き延びるラスト・シーンだろう。率直に言って、ラストのムーン山のエピソードは、事前に伏線が貼ってあったとは言え、物語の締めくくりとして特に必要な話とは言えない。パンジャ、レオ、ルネとルッキオという「命」の流れを語るだけならば、レオを静かに死なせてもよかったはずである。
 しかし、レオは人間の欲望に巻き込まれて死んだ。にもかかわらずレオはそんな人間たちを最期まで助けようとした。結末がいささか唐突であろうと、手塚治虫が描きたかったのは、まさにその、欲望にとりつかれた人間のエゴである。そして人に知られぬ秘境で起こった事件の顛末を、人間たちに伝えるための「告発者」が必要となるのである。
 ヒゲオヤジはその役にうってつけだった。
 ヒゲオヤジはオトナである。主人公である少年たちのよきサポート役である。しかし実はサポートに徹しなければならないということは、彼自身は物語の中で常に「無力」であることも運命的に担わされている、ということである。
 しかし、「無力」だからこそ、彼は世俗的な人間の欲望に引きずられることも少ない。ヒゲオヤジが「正義派」に見えるのは、実は彼が物語を左右するキャラクターではないからなのであって、一つ間違えれば彼が「悪」に転ぶ危険性も常に孕んではいたのである。

 本巻収録の『太平洋Xポイント』は、ヒゲオヤジに少し物語に関わる「力」が加わった作品である。必然、彼は「正義派」にはなれなくなる。そして最後に、これまでの作品では圧倒的に生き伸びることの多かった彼が、ついに死ぬのである。
 私はヒゲオヤジが死ぬ作品をこれの外には『ブラックジャック』の数編くらいしか知らない。キャラクターに仮託したようなモノイイはいささか感傷的に過ぎるかもしれないが、私はもう随分前からヒゲオヤジは「死にたかった」のではないかと思うのだ。
 『Xポイント』のラストシーンのヒゲオヤジの顔は、まるで永遠に死ねない者がようやく終焉を得た満足感に満ち溢れているように見える。
 『ポーの一族』のオリジナルは実は「ヒゲオヤジ」だった、と言ったら、怒る人いるかな。でも私にとってのヒゲオヤジは、そういうキャラなんですよ。


 マンガ、手塚治虫『バンパイヤ/ロックの巻』『バンパイヤ/バンパイヤ革命の巻』(完結/秋田書店/秋田トップコミックス・各300円)。
 ホントは完結してないんだけれど、第2部は雑誌の休刊で結局未完のままだから、特に手塚マニアでない人はここで読むのをやめるのがちょうどいいと思う。
 もともとテレビドラマ化で再開された第2部だし、生前の作者は「必ず続きを描きます」とか言ってたけど、それが本気ならいつだって再開できたはずだし、作家のこういうセリフはほとんど眉唾なのである。
 作品の発表は1966年から1969年にかけてで、手塚治虫が少年マンガから青年マンガに移行していく直前にあたる。そのせいなのか、『少年サンデー』に連載されていた作品であるにもかかわらず、青年誌的なダークな雰囲気が漂っている(この雰囲気は『どろろ』にも共通するもの)。
 さて、たしか夏目房之介氏も指摘していたと思うが、当時の手塚作品、昔のマンガチックな表現と、リアルな劇画的表現がせめぎあっていて、今の目で見るとなんとも珍妙に映る部分が多いのだ。
 手塚ファンには名シーンとして捉えられることの多い「ロックのミュージカル」シーン、冷静に見たら笑えないかね。いや、昔見た時には笑うというより「なんじゃこりゃ?」だったんだけど。
 政府の要人をバンパイヤを利用して次々に暗殺していくロックが、自分の悪魔的行為に酔いしれて、ホテルの一室で踊り出すのである。手塚治虫はそれまでにもマンガの中によくこういう音楽シーンを挿入することが多かったのだが、『バンパイヤ』ではその手のたぐいの「おふざけ」をずっと控えていたので、いかにも唐突な印象を与える。
 しかもその歌詞が「しきたりなんかクそっくらえ!! ゴミすてるな? 花おるべからず? 動物をかわいがれ? 信号は赤でとまれ? へん チャンチャラおかしいや」である。殺人まで行ったロックにしちゃ、歌の内容、かわいらしすぎないか。これじゃまるで「悪人のクセにたいしたことができない」アメーバボーイズである(その他このギャグのサンプル極めて多し)。
 続編が描けなかったのは、かつてのファンの要望に合わせれば当時のこんな「いびつさ」までも再現せねばならず、かと言ってそんなことをすれば現代の読者から失笑を買うことを覚悟せねばならず、にっちもさっちも行かなくなっちゃったからではないか。
 『バンパイヤ』のラスト、自分が殺してきた人間たちの亡霊に悩まされるロックの姿は『四谷怪談』の民谷伊右衛門の引き移しだが、果たしてそれはホンモノの亡霊かロックの狂気が見せた幻か。それが判然としないところに、マンガとも劇画とも断定しえぬ『バンパイヤ』の作品としての不安定さが見て取れるのである。
 単独で別作品に出演するようになったロックは、この後、踊ったりはしなくなる。普通のヒーローやコメディリリーフの役割は、別のキャラクターに託されて行くのだ。
 どんな作品も「時代」との関わりを無視して語ることはできない。作者がどんなに普遍性を持たせようとしても、文化や風俗、思潮は時々刻々と変化していく。寺田ヒロオの断筆に端的に表れている古きよき少年マンガの消滅、安保闘争の終焉、高度経済成長とオイルショックに象徴されるような狂乱の70年代は、もうすぐ目の前だった。

2002年01月05日(土) 食って寝て食って歌って/ドラマ『エスパー魔美』第1話/『ピグマリオ』7巻(和田慎二)
2001年01月05日(金) やっぱウチはカカア天下か



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