無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年01月08日(土) 夢見る頃は過ぎてるか?/映画『悦楽共犯者』ほか

 早朝(つか午前3時)、加藤君が公演の時に預けっぱなしにしといた荷物を取りに来る。仕事が終わるのがこの時間なので仕方ないのだが、考えてみたらうちの劇団、昼夜逆転の生活送ってる人間がやたら多いんだな。
 こないだの公演のアンケートを見せると、なんだか複雑な表情。
 「『もっと本格的にダンスをやればよかったのに』って、教えてくれた人は本格的だったけど、本格的にできなかったんだよう」と泣きを言う。
 本人はpppの日記の方でも「自分は努力をしない」とかやたら卑下しているのだが、別に練習をサボっていたわけではない。いや、確かに要領が悪くてすぐに練習に入れないし出された指示はすぐに忘れるし、サボってるように見えはするのだが、練習中の加藤君はプレッシャーでイッパイイッパイだったのだ。そのあたりはここ数ヶ月の日記の迷走ぶりを見れば充分察せられよう。演技を誉められてるアンケートだってあったのだから、あまり自分のことを悪く捉えすぎないでほしいものである。
 しげなんてアンケートを読んで、「普通に誉められててつまんない」とまで言ってるのである。それはそれでゴーマンな態度であまりよかぁないんだが。
 しげ、加藤君に先日「チャイハネ」で買った福袋の「余り」をお裾分け。つか本当に要らないものばかりを押しつけてるんだよな。例の「グル人形」もあったが、加藤君、「これは売れ残りますよねえ」とか言って、でもちゃんと受け取るのである。「これ、ボインさんなら欲しがりますよ」とか言ってたが、いくら珍しいもの好きの細川さんだとて、さすがに松本智津夫を部屋に飾るような悪趣味はないと思うがなあ。
 ……「悪趣味」でふと思い出したが、芝居で使った私の女装姿をプリントしたTシャツ、あれ、今、誰が持ってるんだ。あんなゲテモノ、さっさと破棄してくれた方が言いと思うが。……まさか加藤君まだ着てたりしてないだろうな(画像データだけはあるので、見たい人はネットに晒さないという条件さえ守ってくれればお送りしますよ。って、見せたいんかい)。
 しげ、こないだ録画したばかりの『機動戦士ガンダムOO80 ポケットの中の戦争』を加藤君に見せたがるが、時間がないということでほどなく辞去。仕事が終わってくたびれてるところに、さらに2時間半のフィルムマラソンは辛かろう。またの機会もないじゃなし、今すぐに無理強いすることはないのである。しげはどうやら感動屋の加藤君ならきっとボロボロ泣くだろう、それを見たいと思っているようであるが、どっちかって言うとあれは見終わったあと「しんみり」するほうじゃなかろうか。

 まだ未明ではあったが、もうコバラがすいていたので、近所まで外出。コンビニで軽食を買って、「ビッグ・コミック・オリジナル」を立ち読みする。
 浦沢直樹の『PLUTO プルートウ』、アトムに続いてウラン、中村捜査課長、田鷲警視、名前だけだけれどもお茶の水博士も登場。
 それぞれ浦沢直樹キャラとしてリライトされていながら、元のキャラの「匂い」をちゃんとさせているのには舌を巻く。そうかあ、ウランは「お下げ」だったか。単純なトンガリアタマだとアトムとの差異化が図りにくいよなあと思っていたので、このアイデアは実に秀逸。人とロボットを瞬時に見分けられるって設定、原作にはあったかな? こういうこまっしゃくれた女の子がスッと「一番怖がっているのはお兄ちゃん」なんて言うんだから、これはなかなかに怖い。田鷲警視の鼻も実に「適度」だし、この分だとお茶の水博士のデザインを期待できそうである。
 オリジナルの田鷲“警部”が「警視」になっているのは、実際の警察機構のシステムに合わせた結果だろう。中村課長も肩書きが警部なので、なんで警部が二人揃って事件に当たってるんだと、そこは原作のいい加減なところだったから。細かいところまでよく目を配ってるんである。
 そしてついに登場のアブーラ博士ならぬアブラー博士。我々はどうしても「アブーラ」と発音してしまいたくなるが、これは本当は浦沢さんが書いてる通り、「アブラー」と発音する方が原音に近いらしい。このへんもチェックが細かいのである(若い人にはわかんないだろうけれど、これ、「ABRACADABRA(我が願いを叶えよ)」ってヒブリ語の呪文から取ってるんである)。黒幕のチョチ・チョチ・アババ(これも若い人は知らないようだけれども、赤ちゃんをあやす言葉)三世はどう変更されるのだろうか(^o^)。原作通り、彼がプルートゥを作ったということなのか、そこはまだ判然としないけれども、どうやら彼の設定はロボットではなくてサイボーグということらしい。ということは、1巻でビルからビルへと飛び移っていた「人間」の正体は……? 結末が原作と同様のものになるのなら、この「半人間」という設定はかなり「効いて」来ると思われる。ラストに出てきたエヴァもどきはさてついに登場したプルートウなのかどうか? 月イチ連載というのはホントに待ち遠しいなあ。

 ひと寝入りした後、DVD『悦楽共犯者』を見る。
 スチール・アニメーション作家、ヤン・シュワンクマイエルの実写&アニメの秀作。……とはいうものの、なんたってシュールレアリスムの巨匠であるから、意味は何だかよく分からないのであった(^o^)。でも分からないけれど面白い。「人間は自らの快楽のためなら何でもする。それこそどんな異常な行為でも」ってのがコンセプトなんだろうと推測はできるのだが、パンを丸めて団子にして鼻に太いストロー突っ込んでそれで吸い上げるって、これ、快楽を追及してるのか(^_^;)。
 でも、そういうナンセンスがシュワンクマイエルの真骨頂なので、これを面白がれないと彼のどの作品も楽しめないのである。その意味でシュワンクマイエルも「観客を選ぶ作家」だと言えるだろう。けれど、こんなナンセンスまでも自在に描けることがアニメーションが本質的に持っている表現力なのだ。アニメの底の深さを知るには格好の作家さんなんだけれど、最近は新作の話を聞かない。日本に輸入されてないだけだとは思うけれども、こういう人の存在を知らずして「日本のアニメは世界一」とか嘯いてたら、それはあまりに無知で無恥だということになろうかと思う。

 後は長くなりそうなので簡単に。
 日本映画専門チャンネルで『燃える秋』。
 真野響子が一番美しかった頃の、社会派の巨匠小林正樹監督によるペルシャロケもけばけばしい一大恋愛ロマンだけれども、あまりに浮世離れしすぎていて、全体的に何だかヘンな映画なのであった。
 WOWOWで舞台『夜叉が池』。
 泉鏡花原作、長塚圭史脚本、三池崇史演出と、なんだかすごい布陣だが、これも個性と個性がぶつかり合って、かなりヘンな舞台になっていた。田畑智子の妖しい美しさと丹波哲郎の怪しい女装のコントラストがスバラシイ。きたろうさんが出てくると舞台が突然コントになってしまうのも面白い。


 夕方、まだ寝こいてたしげを起こして食事に誘う。
 寝起きなせいか、しげ、気分が悪くて食欲がない。「今日は出かけないつもりだったのに」とブチブチ文句を言う。
 「でも外出しないと食料がないよ」
 「オレは弁当買ってるもん」
 「オレのはいいのかよ!?」
 こないだから体調崩してたのがまだ続いてたのかもしれないが、それにしてもやっぱり自分のことしか考えないヤツである。「しーじゃっく」までムリヤリ車を運転させて、回転寿司。私は十数皿、しげは五皿ほど。いつもはしげも十数皿をペロリと平らげるので、やはり体調が悪いのである。
 これは長いこと外出してもいられないなあと思って、すぐに帰宅した。
 ところがしげ、家に帰りついた途端に今度はいきなり「ダイヤモンドシティに行く」と言い出した。ついさっきまで「外出したくない」とか言ってたのに、どうしたのかと思って聞いてみると、「明日履いてく靴を買いたい」と言うのである。本当は昨日、買い物に出かける予定だったのだが、やはり出かける寸前になって「眠い」と言って取り止めていたのである。ホントに思いつきで行動するやつである。おかげで昨日は『カンフーハッスル』を見損ねてしまったのだ。まあ過ぎたことに文句を付けても仕方がないので、付き合ってダイヤモンドシティに出かけることにする。時間はもう7時。
 しげが靴を買ってる間に、私は本屋回り。
 小1時間ほどで合流できるかと思っていたら、1時間経っても2時間経ってもしげからの連絡がない。こちらから電話をしても無反応。ようやく会えた時は9時を回っていた。
「靴一つ選ぶのに何してたんだよ?」
「『チャイハネ』でアクセサリーも買ってたんだよ。オレが買い物したらこれくらい時間がかかるって言ってたろ?」
 言ってたことは言ってたが、こうなるとやっぱりしげの買い物には付き合いきれないのである。


 なんだかんだと貶しながらも結局殆どの劇場版を見てしまっている『ONE PIECE』だけれども、3月5日公開の新作『ONE PIECE(ワンピース) オマツリ男爵と秘密の島』の主題歌を氣志團が歌うことになったとか。
 でもその主題歌のタイトルが『夢見る頃を過ぎても』だと聞いて「おいおい」と思った人も多いと思う。いや、“こういう例”はもう日本の音楽シーンでは腐るほど前例があることなので、今更指摘したところで何がどう変わるわけでもないのだが、“既成曲のタイトルを堂々とパクって平然としてる神経”に少しは腹を立ててもいいんじゃないか。
 説明するのも野暮だけれども、『夢見る頃を過ぎても』というのは、オスカー・ハマースタイン二世作詞、シグムント・ロンバーグ作曲のジャズの名曲で、原タイトルは“When I Grow Too Old To Dream”。いろんな人がカバーしているが、確かうちにもナット・キング・コールのがあったように思う。映画『わが心に君深く』でも歌われているそうだが、こちらは未見。

 We have been gay, going our way
 Life has been beautiful, we have been young
 After you've gone, life will go on
 Like an old song we have sung

 When I grow too old to dream
 I'll have you to remember
 When I grow too old to dream
 Your love will live in my heart

 So, kiss me my sweet
 And so let us part
 And when I grow too old to dream
 That kiss will live in my heart

 And when I grow too old to dream
 Your love will live in my heart

 だいたいの歌詞の内容は、「僕たちはずっと一緒だった。けれど君が行ってしまった後も人生は続いて行く。僕が夢を見るには年を取り過ぎてしまっても、きっと君のことは忘れない。どんなに年を取ろうと、君の愛は僕の心に生き続ける。だから、キスをして。そのキスが僕の心に生き続けていくだろうから」という感じ。
 氣志團がオリジナル曲にオマージュを捧げているとは思いにくいし(つか、原曲があることを知ってるかどうかすら疑問)、どんな曲かまだ未聴だけれども、多分オリジナルとは似ても似つかないものになってるのではなかろうか。オリジナルは歌詞からも分かる通り、トシヨリの歌だし。
 つまり今回の曲は、「どこかで聞いたことある言葉でイイ感じだから使っちゃえ」ってな感じで、単にタイトルをパクっただけなんじゃないか、という気がしてならないのである。表現ジャンルの違うところでタイトルを流用するのはまだしもオマージュとして認められなくもないのだが(我々の世代はどうしても吉田秋生のマンガを思い出してしまう)、同じ音楽ジャンルでタイトルを使われてしまうのは、時と場合によっては混乱を生じる場合もあるので、迷惑ですらある。
 「『夢見る頃を過ぎても』、いい曲だよねえ」「ああ、氣志團の?」なんて言われちゃうとガックリくるのである。
 この手の経験は腐るほどしていて、私が経験した最初の例は「『時の過ぎ行くままに』、名曲だよねえ」「私もジュリー大好き!」というものであった(直前まで『カサブランカ』の話をしていたのだから、沢田研次のそれじゃないと気づいてほしいものだ)。

 既に見る前からミソが付いてしまった印象の今回の劇場版だけれども、考えて見れば、『ワンピース』に「氣志團」というのは実に似合っている。海賊マンガのフリしてるけれども、あれ、本質はただの「ヤンキーマンガ」だからな(^o^)。
 ヤンキーマンガを見分けるのは簡単で、例えば、一見温厚で陽気に見えるキャラクターが、友人が危険にあった途端に、「ああ?」とか言ってギロッと目を剥いて怒りを露わにしたら、それは性根がヤンキーなマンガなのである(非ヤンキーマンガは、そんな場合でも「ああ?」とは言わない)。キャラクターの友情の厚さを表現しているように見せかけてはいるけれども、実態は単にキレてるだけなので、人物に感情移入が出来ない。逆を言えば、ルフィの「ああ?」に全く不快感を抱かない人は、ヤン血がかなり濃いと思われるので、私には近づかないで頂きたい。でもしげもしょっちゅう「ああ?」って言ってるなあ(^_^;)。

 「不良マンガ」自体は『男一匹ガキ大将』の時代からその系譜は途絶えることなく連綿と続いている。さらにそのルーツを辿れば、国定忠治とかの任侠もの、ヤクザものまで遡ることもできる。主人公はあくまで世間の道から外れたアウトローであって、そのマイノリティとしての孤独が読者の共感を呼び、全体としてはピカレスクロマンとしての面白さがあるというのが本質なのである。
 つまり、ヤクザもヤンキーも、決して「オモテ」の存在になっちゃいけないものなのだ。座頭市が「ヤクザがお天道さまの下を堂々と歩くようになっちゃおしめえだ」と言ってる通り、アウトローが堂々とヒーローを演じて世間の喝采を受けていては、物語自体が破綻してしまう。
 昔の不良マンガでは、主人公はたいてい孤独だったし(つか、不良マンガに限らず、「孤独」であることはヒーローの条件ですらある)、このセオリーを逸脱するものは少なかったのだが、それが変質していったのがきうちかずひろの『ビー・バップ・ハイスクール』や吉田聡の『湘南爆走族』あたりからだった。あれらのマンガあたりから主人公たちは能天気で、かつひたすら馬鹿になっていき、何の心理的挫折も経験することなく、周囲にそのままの存在で受容されるようになっていった。空虚な内容で、主人公の苦労も経験も成長もないマンガであるにもかかわらず、それが受けたというのは、読者が、苦労も経験も成長もしない自分自身を主人公たちに重ね合わせて自己肯定ができたからである。「オレってバカだけどそれでいいんだ!」って感じか。バカだって努力しなくていいってわけじゃないんだけれども、そこに気がつかないのがバカのバカたる所以である。あるいは「オレ、こいつらほどのバカじゃなくてよかった」という優越感を感じているのかもしれない。
 『ワンピース』のクルーの中で、その登場の時点から「孤独」を身にまとっていたのはウソップ、チョッパーくらいのもので(だからこの二人は好きなんだが)、あとはギリギリ、ナミとニコ・ロビンがそれに続くくらいのものである。ゾロなんて「孤高の剣士」なんて紹介されることも多いが、どこをどう見たらアイツが孤高なのか(だからこそ前作『呪われた聖剣』ではゾロをルフィたちとムリヤリ引き離して「孤独」を演出するしかなかった)。ほかのキャラクターが敵に破れることはあり得ても、ルフィとゾロにだけは、それはない(負けても必ず雪辱を果たす)。しかし、そのような「恵まれたヒーロー」であるのは「真っ直ぐなヒーロー」にこそふさわしいのであって、「ヤンキー」がそれやっちゃ、「暴力振るって何が悪い」と開き直って、そんな自分たちの傲慢な態度を読者にも強要しているのに等しい。
 『ワンピース』がどんどんつまらなくなっているのは、麦わら海賊団にオタズネモノとしての悲壮感が全くないからである。舞台での国定忠治も底抜けに明るかったが、最後に激烈な死が待っていたことを忘れてはならない(私ゃ『ワンピース』をきちんと終わらせるためにはルフィを死なせる以外に方法がないと思うんだけど、そこまで考えてるかねえ、尾田さん。『七人の侍』のファンだと表明しているのなら、そこまで計算して物語を書いていく必要があると思うんだけれども)。

 今度の映画版の監督は細田守さんに代わるそうだから、そのあたり少しはマトモな映画になるかなあとちょっと期待はしたいのだが、すっかり手垢のついた物語に新しい血を注ぎこむことができるかどうか、不安も残る。どっちにしろ、ゲンブツを見てみなきゃ判断は下せないから、見に行こうと思ってはいるけれども。
 も一つ気になるのは、公式ホームページ覗いてみたら、トップページに細田さんの名前が全く紹介されてなかったことである。監督交代は結構な事件だと思うのだけれど、そのことが全く紹介されていのはどういうわけかな。監督の名前を気にするのなんてオタクだけで、氣志團の方がネームバリューが上ってか。でも『ワンピース』の場合、氣志團の起用だってどれだけ集客力に寄与するか疑問なんだけど。それとも小学生に氣志團ファンって多いのか?(それを言えば前回の中村獅童と久本雅美の起用もなんだかよくわからなかったなア)

2003年01月08日(水) 肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜(エコー)/『なんてっ探偵アイドル』11巻(北崎拓)ほか
2002年01月08日(火) ココロはいつもすれ違い/『女王の百年密室』(森博嗣・スズキユカ)
2001年01月08日(月) 成人の日スペ……じゃないよ



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