無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2006年01月11日(水) だからいつまで言葉狩りを続けるのか/『怪獣の家』1・2巻(星里もちる)

 帰宅して、散歩したらすっかり疲れ切ってしまったので、チラッとは見ようかと思っていた『トリビアの泉スペシャル』は諦める。
 ドラマ 『相棒』はこれもミステリーではお馴染み、「未必の故意」こと「プロパビリティーの犯罪」がモチーフ。ホントにこのシリーズは一話ごとにパターンを変えてて、バラエティに富んでるなあ。
 江戸川乱歩の研究によれば、このアイデアを創始したのはロバート・スティーブンソンだそうだが、乱歩自身にも『赤い部屋』という名作がある。松本清張にも同モチーフで短編を書いている。誰でも一回はこのネタで書いてみたくなるんだね。
 今回の犯罪は既成作品よりも更に「手間が掛かっている」分、未必の故意と言えるのかどうか、疑問に思う面もあるが、「ネギ」を使ったアイデアは秀逸。ラストのどんでん返しは要らなかったかなあという気はしないでもないけど。


 情報を知るのが遅かったのだが、五月発売予定の『ハリー・ポッター』シリーズの第六巻 『Harry Potter and the Half-Blood Prince』の邦題が、『ハリー・ポッターと謎のプリンス』に決定してたんだそうな。以前は原題通り、『混血のプリンス』と予告されていたものが、味も素っ気もない「謎の」なんてタイトルになっちゃった事情は定かではないが、またぞろ「賎称語(いわゆる差別用語)」の問題が背景にあるような気がする。
 敗戦後、進駐軍とパンパンやオンリーさん(こういう歴史用語も若い人は知らないんだろうなあ)との間に生まれた 「混血児」が差別されていた問題は、かなり長い間、日本の暗部として解決されないまま残されていた。と言うか、今でも完全に消えたわけではない。映画『キクとイサム』や『人間の証明』もこの問題を扱っている。彼ら混血児を差別する時に使われていた言葉が、本来は賎称語でも何でもない「あいのこ」という言葉である。マンガではご存知『サイボーグ009』の主人公・島村ジョーが「あいのこ」であるが、初版にあったその単語は、今は削除されているし、新作のテレビアニメではその設定も語られないままだった。原作にはちゃんと「あいのこであることを誇りに思っていいんだ」ってセリフだってあったというのに。
 要するに改題の理由は、この差別的に使われたことのある「あいのこ」という言葉を連想させるからってことなんじゃないかと思うのだが、多分これは憶測ではない。この手の下らない被害妄想による過剰反応は腐るほど起きてきたし、私と同様のことを考えた人も多いだろう。
 被害妄想なんてひどい言い方だと眉を顰める方もいらっしゃるだろうが、間違っても『ハリー・ポッター』に進駐軍やパンパンは登場しないと思う。別にそういう事情で生まれたわけではなくても混血児は差別されるのだ、と仰る方には、そりゃ差別する人間が悪いんであって、言葉が悪いわけじゃないと言いたい。なんだか日の丸が永遠に帝国主義の象徴としてしか受け取れないサヨクな連中の我田引水な言い分と変わらないのである。
 「混血」という言葉を素別的に捉えるのは、「純潔」の優越性をバックボーンとして意識しているからである。即ち、「混血」を差別と考える意識の方が差別なのだ。
 映画などではこういった事情で「訳しにくい」ものは「原タイトル通り」で紹介してしまうということをよくやる。『ノートルダムのせむし男』が『ノートルダム・ド・パリ』に、『気狂いピエロ』は『ピエロ・ル・フー』に一時期、ビデオタイトルが変更されてしまった。こういうタイトルは歴史としての資料なので、「変更不可」であることも知らない販売会社のポカである。
 今更決まっちゃったものはしょうがないし、映画のタイトルは『混血のプリンス』で行ってほしいものなのだが、十中八九『謎の』になっちゃうんだろう。出版社も映画会社も腰抜けばっかりだから。百歩譲ったとしても『ハーフブラッド・プリンス』になるんだろうね。全く馬鹿馬鹿しい話である。
 しかし、これは結局、「臭いものにフタ」式の、目の前にある差別から目を逸らすだけの行為に過ぎない。そんなことをしたって、現実の差別をなくすことに何ら寄与しないことは、これまでの歴史が証明している。差別の実態は表面化されにくくなり、地下に潜ってしまった。陰で泣く人間を増やしただけである。それでもこんな阿呆な自主規制とやらが延々と続いているのはなぜなのだろうか。出版社か、映画会社が、マス・メディアが、現実逃避を奨励するような姑息な手段で、本気で差別をなくすことができるなどと考えているとすれば、これは相当におめでたい話だ。
 断定するが、彼らはみな、本当は「コトナカレ」で問題から逃げているだけなのである。
 こういう「言葉狩り」が頻繁になって以来、いじめや差別はすっかり陰湿化してしまったと感じるのは私だけではないはずだ。私はキチガイもメクラもツンボもビッコもこの日記の中で平然と使っているが、これを差別というのなら、メクラになりかけている私は自分で自分を差別していることになるが、それについて「自称差別反対主義者」は何と反論してくれるのだろうね。


 マンガ、星里もちる『怪獣の家』1・2巻(完結/小学館)。
 心に傷を持った主人公が、かわいい女の子二人とひょんなことから同居することになって……という、またありきたりな男の子癒し系妄想ラブコメかい、という設定だけれども、ちょっと趣向に凝っているのは、その二人の女の子が同居することになった理由というのが、どちらも「怪獣」絡みだということ。
 タイトルにある通り、旅行会社勤務の主人公・福田智則の住む家が、雷映怪獣映画『ガルル対メカガルシャ』の舞台モデルとして選ばれる。そのことを知った怪獣マニアの女の子・湯浅小雨と、映画のヒロインで役になりきりたい金子由希の二人が、同時に福田に「この家に住まわせてください」と頼み込んでくるのだ。
 そんな設定ありえねーだろ、なんて突っ込みたい人も多かろうが、そんな批判は作者はとっくに想定ないだろう。このマンガは、怪獣ファンであると同時にラブコメファンでもある作者にとっては、たとえどんなに「リアリティがない」と批判されようが、「描きたくて描いた」のだろうということが読んでいてひしひしと伝わってくるのだ。
 ネットで検索してもこのことに触れている記事がすごく少ないのだが、登場人物の名前、殆ど特撮怪獣映画の関係者の名字から取られている。福田(純。『ゴジラの息子』ほか監督)、金子(修介。平成『ガメラ』シリーズ監督)、湯浅(憲明。昭和『ガメラ』シリーズ監督)、中野(昭慶。『ゴジラ(1984)』ほか特技監督)、樋口(真嗣。平成『ガメラ』シリーズ特技監督)と言った具合だ。あと、油谷監督は当然「円谷英二」のモジリだろう。更には福田がコンダクターとして出かけて行く観光地が、怪獣映画の舞台に使われた阿蘇山のカルデラ(『空の大怪獣ラドン』)だったり、京都駅(『ガメラ3』)だったりと、あちこちに怪獣ファンが喜びそうな「遊び」が随所に盛り込まれている。
 もう、これだけで怪獣ファンはナカミは気にしないで買っちゃいなさい。マンガ内映画『ガルル対メカガルシャ』の内容が山田太一の『岸辺のアルバム』のまんまパクリなのは気にしないでね(これも星里さんがファンであることを公言している)。

 まあ、こんなオタク向けなことを書いたところで、マンガ自体が面白いかどうか分かんなきゃ意味ないじゃん、ということは分かっちゃいるんだが、ついそういうことを書きたくなるのが怪獣ファンのサガなんである。
 初め少年向け元気ラブコメ『危険がウォーキング』で出発した星里マンガは、『りびんぐゲーム』で青年マンガに進出して以来、だんだんとシリアスな設定を加えていき、『本気のしるし』では登場人物が殆どみんな人格崩壊起こすんじゃないかってギリギリの線まで人間関係を突き詰めるに至った。どういうわけかラブコメで出発してと゜シリアスな方向に進んでしまうマンガ家さんって、柳沢きみおとか六田登とか多い。なんか、絵空事を描くことに欺瞞を感じるようになるんだろうか。だとしたらそのうち赤松健もシリアスな……(ならんならん)。
 それはともかく、前作の『ルナハイツ』に続く本作もそうだったが、一歩間違えばドロドロになってしまう三角関係のドラマは、読んでいて辛くなるほどのシリアスな展開になることもなく、「ほどよく」抑制されて、確かに予定調和でご都合主義的な「甘さ」は見られるものの、全体としては心和むハッピースーエンドへと収斂されていく。その手際は2巻というまとまりのよい巻数のおかげか、非常に巧みに感じられる。主人公が家族の事故死に責任を感じ、今でも一人ぼっちで住んでいる家を手放せずにいるというトラウマを抱えてはいるものの、二人のヒロインの一途さに、少しずつ凍った心が溶かされていく過程が気持ちいいのだ。一時期荒れていた描線も、随分落ち着いてきた。
 「家」をテーマにした作品は無数にあるが、「破壊」と「再生」が「家族映画」のモチーフであると同時に、「怪獣映画」のモチーフであることにも気付き、その二者を重ね合わせて見せたその発想は、決して笑うべきものではないと思うのである。 

2005年01月11日(火) 夜更かしでヘロヘロ/アニメ『ギャラリーフェイク』第1話
2003年01月11日(土) 妊娠来たかと鸛に問えば/『今日も映画日和』(和田誠・川本三郎・瀬戸川猛資)/『ワイルダーならどうする?』(キャメロン・クロウ)
2002年01月11日(金) 先陣争い雪隠の役/『雪の峠・剣の舞』(岩明均)ほか
2001年01月11日(木) 一週間が長いなあ/映画『ノース 小さな旅人』


2006年01月10日(火) 2005年度キネマ旬報ベストテン/ドラマ『Ns’あおい』第一回/『アンフェア』第一回

 昨年度の「キネマ旬報ベストテン」が発表、洋画の一位は『ミリオンダラー・ベイビー』で、邦画は『パッチギ!』であった。『ミリオンダラー』はしげが興味を示さなかったので結局は見ずじまいである。例年思うことではあるが、しげの好き嫌いに振り回されていると、面白い映画をかなりの数、見逃してしまうので、映画も芝居ももうそろそろいちいちしげの意向を確認しないで、一人で見に行こうと決心しているのである。それでしげがヒステリーを起こすようなら、家を追い出せばいいだけのことだ。『パッチギ』も確か私一人で見に行ったものな。
 実際、去年は芝居をたくさん見に行ったこともあるが、封切り映画は70本しか見に行けていない。一昨年は100本くらいだったから、30本も見に行き損なっているのである。あとでWOWOWやCSで流れているのを毎日のように見ていたから、映画を見た総本数自体は300本を下らないとは思うが、あくまでベストテンはその年封切られた映画が対象になるから、読者投票にはとても参加できる本数ではないと思って、去年はハガキを送らなかった。実際、ベストテンに選ばれている作品で私が見に行ったものは六本しかなかった。
 映画人口が三億人を切っており、年平均1、2回しか行かない現況で、70本も見ているのならスゴイとはよく言われるのだが、映画人口が最盛期だった昭和30年代には、年平均10回以上、日本人は映画を見ていたのである。これは映画を見られるはずもない子供や老人も含んでの「平均」であるから、「週末に毎回映画を見に行く」のが習慣になっている人も多く、実のところ年間50本、60本、映画を見ている人などは珍しくもなかったのだ。私の母などは子供のころからツテがあって、「毎日映画館でタダで映画を見ていた」というから、その数はどれだけになるか分からない。
 映画が娯楽の王座を追われたのはテレビの普及のせいだとは常識のようになってはいるが、では現代人がそんなにテレビに噛り付いてドラマを見ているかというと、それも疑わしいところである。若い人と話していると、驚くほどに話題が狭いことに何度も驚かされる。映画に興味はないが音楽になら、とか言うのなら話は分かるのだが、音楽だってロクに知らなくてJ−POPをちょこちょこと聞く程度(彼らは「J−POP」という単語がかなり胡散臭い過程を経て造語されたことも知らないのである)、もちろんマンガも読まなければ(読めるほどの学力がない)、野球もサッカーもしない、アウトドアな趣味があるわけでもない(基本的に動き回ることが面倒くさいのである)、せいぜいゲーセンでゲームをちょこっとする程度、結局、興味の大半はナニとナニすることだけ、親からカネをせびり取ることだけはうまくて、だからナンパにだけはカネを使って、結構うまいことやっている、なんて、糞みたいなやつがゴマンといるのである。『だめんずうぉ〜か〜』に出てくる男どもはみんなそんなロクデナシばっかりだが、若い男の大半はそんな「だめんず」なんである。
 そういうレベルのヤツらと比較されて「スゴイ」と言われても、嬉しくも何ともないということがお分かりいただけようか。今だって、別に映画評論家でなくても、映友会などに入っていて、年間200本とか300本とか映画を見ている人はいくらでもいるのだ。とても「私は映画をたくさん見ています」なんて威張れるレベルではない。せいぜい「普通」だ。だから逆に、「年に一本くらいしか映画を見ないなあ」と平然と口にできる連中はみんな十把一絡げでロクデナシどもと同レベルなのである。たまに一本映画を見たくらいで偉そうな顔をして映画がどうのなんて口にしないでもらいたい。
 私ゃ、ホントに地元のサークルに入って、もちっと安く映画を見て本数を稼ごうかと本気で思うよ。

 話は横に逸れたが、邦画の1位が『パッチギ!』というのは、いささか「保守的」だなあ、というのが私の印象である。嫌韓意識で目が曇った(念のために言っとくがだからと言って私は韓国の主張に賛同しているわけではない)連中には、これが在日朝鮮人に阿った内容に捉えられたようだが、これは確かに日韓の認識の齟齬を前提としてはいるが、政治的な観点とはおよそ無縁な庶民感覚に基づいて作られた映画であって、物語としては非常に単純な、『ロミオとジュリエット』の再生版でしかない。だからこそストーリー上の破綻もないし、「どちらが悪いということではなく、双方がそれぞれに『引いて』、物語は終わる」のである。結局は甘ったるく情緒的な話だと批判することも可能で、だから『ロミオとジュリエット』のように悲劇的な結末に陥っていない分、後味が「良過ぎる」という、美点だか欠点だか評価に困る面を持っているのである。
 同様に、2位の『ALWAYS 三丁目の夕日』もねえ、「昭和30年代」という衣装を取り除いちゃうと、ベッタベタなメロドラマが残るだけなのである。それが悪いとは言わないが、「保守的」と言ったのは、キネ旬の選考者、必ずしもトシヨリばかりではなかろうに、何でこうもノスタルジックなものばかりに引っかかっているのか、と、そこがどうも合点がいかないからである。映画を評価する際に、何かの「流れ」に捉えられてしまっているような印象がする……というか、やっぱり『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』がその「流れ」の一端を作っちゃったのかもなあ。「そういう方向」にばかり進んじゃうのって、結果的に「現代」を見失うことになりかねないんで、あまりいい傾向とは言えないんだけど。


 博多では「十日恵比寿神社」の正月大祭の真っ最中なのだが、実は私はもう二十年以上、いや、下手をしたら三十年以上、参ったことがない。商売繁盛の神様だから、博多の商売人ならたとえどんな人ゴミであろうと、万難を排してお参りするのが当然の義務のようなものなのだが、私はいっこうに無頓着である。まあ、私の仕事を知ってる人なら、それでも別にヘンじゃないとご理解いただけるであろうが(笑)。
 夕食の後、散歩をして帰宅してみると、父から着信が入っていた。かかってきた時間は七時ごろである。
 もう八時に近くなってはいたが、折り返し、連絡を入れてみると、父は「どこへ行っとったとや!」とえらい剣幕である。
 「どこもなにも、食後の運動しよったとよ」と答えて、用事が何か聞き返してみると、父は少し落ち着いたようで、「今日は十日恵比寿やろうが。車で送ってもらえんかいなと思って電話ば入れたったい」と言った。
 「なん、そうね。それなら今からそっちに行こうか?」
 「もうよか。今、博多駅まで来とうもん。これから地下鉄に乗るけん、帰りに迎えに来てくれんや」
 「帰りって……いつごろね」
 「それが分からんったい。テレビで見たとばってん、お参りに150メートルも並んどうらしいけんな」
 「じゃあ、九時ぐらいになるかいな?」
 「かもしれん」
 「じゃあ、そのくらいに見当付けて行くよ」
 電話を切って、しげに事情を話すと、しげは「十日恵比寿神社ってどこ?」と聞く。
 「千代町のあたり」
 「車はどこに停めるん?」
 「さあ。多分、大混雑しとるけん、駐車場は殆ど空いとらんめえね」
 「どうやって父ちゃん拾うん!」
 「何とかして」
 「無茶やん! 行ったとこもないとこで、車も停められんて……」
 「じゃあお前、親父に『行けませんから、自力で帰って下さい』って連絡入れられるか?」
 「それはしきらんけど……」
 「なら、文句言ってどうする?」
 と言うわけで、九時を待って、私としげは父を拾えるかどうかも分からない夜の闇の中へ旅立って行ったのであった。……大げさな表現であるが、それくらい激しく、しげの顔は緊迫感で蒼白になってたもので。
 現地に着いてみると、予想通り、周辺の道路は路駐の車で埋め尽くされていた。もちろん違法駐車なのだが、今日ばかりは警察も取り締まる気はないのだろう。何百メートル続いているか分からない車の列はちょっと怖いくらいである。当然、しげはどうしていいやら分からず、ただぐるぐると神社の周辺を回るしか仕方がなかったのだが、ちょうどその時、父から連絡が入った。
 「いやあ、参った(シャレかい)。お参りの列と福引の列、間違えて並んでしもうて、今まで時間がかかってしもうた」
 「それはいいから、今はどこにおるんね」
 「神社の裏つて言って分かるや」
 「さっきから、その辺、ぐるぐる回りようばってん、お父さんがどこにおるか見えんよ」 
 「なら、大通りまで出るけん、そこで拾っちゃり」
 「わかった。どこに出たか教えてくれたら、そこに向かうけん」
 電話を切って、すぐに父から電話があって、近くの建物の名前を言ったので、私にもしげにも場書は見当が付いたのでそこに向かった。
 2、3分で、首尾よく父を発見することができたが、破魔矢か何かを持っているのは当然として、なぜかマスクをしている。風邪でも引いたのかと思ったが、「わざわざ呼び付けてごめんね」と謝る声は特に喉を傷めている風でもない。どうしたのか聞いてみると、「昨日、親戚と温泉に行ったら、酔っ払ってホテルの玄関ところで転んだったい」と言う。
 「また、酒、飲んだんね!」
 「ちょっとだけや。それにそれまでは全然、飲んどらんもん」
 「でも酔っ払ったっちゃろ? もう少しでも飲んだら酔うごとなっとっちゃろうもん」
 「ばってん、これはやめられんもん」
なんだかもう、ワガママな子供の言い訳を聞いているようなもので、気が萎えてしまう。それにボケも進行しているようで、「十日恵比寿に僕が最後に行ったのは、いつやったかね?」と聞いたら、「お前とは十日恵比寿に行ったことはなかぜ」と答える。んなことはないんで、小学校のころまでは縁日目当てで両親に連れて行ってもらっていたのである。第一、一緒に行っていないのだとしたら、小学生の私は、家で一人ぼっちでほったらかされていたというのだろうか?
 まあ、ボケ老人の言葉にいちいち逆らったって仕方がないので、「ああ、そうだっけ」と適当に相槌を打って、「腹減った」とうるさい父を連れて、帰り道の途中の「ジョイフル」に入った。私はもう食事を済ませていたので、ミニサラダだけを頼んだが、父は何の屈託もなく、生姜焼き定食だったか何かを頼んでいた。節食する気もサラサラないようだし、糖尿病が悪化するのも時間の問題だろう。もう父の行動にも私はすっかり諦めモードである。
 しげはしげで、私に付きあって久しく糖尿病食ばかり食べていたから、我慢の限界が来ていたのだろう、食欲が一気に爆発したようにトンカツ定食だったかなんかにむさぼりついていた。私は肉に執着はないので、二人がガツガツ食ってても別に羨む気持ちもないのだが、普通、こういうときはもうちょっと軽いモノを頼むとか、遠慮するもんじゃないのかと思うのだが、自制の効かないヤツラだとつくづく思うことである。


 ドラマ新番組『Ns‘あおい』第一回。
 こしのりょうの原作コミックは、一巻だけ読んでたんだけど、あまり魅力は感じなかった。巷で言われているようにナース版『ブラック・ジャックによろしく』って二番煎じ感が強かったし、絵柄も新鮮さに欠けていたからである。『ブラック・ジャックに』もそうだったけれど、いかにも医療界のダークな部分を暴いてリアルな物語のように見せかけてはいるけれども、人物造形や関係図は、若くて熱血な主人公がいて、悪徳な職場に放り込まれて苛められて、けれどもそこでシニカル(ないしはおどけている)ではあるけれども理解ある協力者も現れて……という、医療ものに限らず、学園ものやらでも散々使われてきたパターンの繰り返しで、いかにも「作りもの」めいているのだ。
 確かに、世の中には「こんな人間、本当にいるのか」と驚くくらい、ステロタイプでカリカチュアのような人間が存在していることも知っている。もしかしたら本当の医療現場も、ステロタイプな人間ばかりなのかもしれない。けれども、物語を面白くするためには、やはり「作りすぎ」感を読者に感じさせないようにする工夫というものが必要になるのではないだろうか。
 で、今回、このマンガがドラマになるに当たって、キャラクターが肉体を持つことによって、マンガにあった「ウソっぽさ」が、多少は軽減されるかなあ、と、ちょっと期待したのである。……いやね、ここ二十年くらいのテレビドラマの惨状を見てればさ、そんな期待はするもんじゃないなんてことは分かっちゃいるんでね、あくまで「ちょっと」なわけで、過大な期待はしてないの。
 実のところ、主役の「熱血看護師」なんてのは若い女優なら誰がやっても「同じように見えてしまう」役なので、決して下手ではない石原さとみにとっては、かえって損だろうと思う。確かに元気にソツなくこなしてはいるが、そこにあるのはやはり「キャラクター」であって生身の「人間」ではないのだ。もっと苛烈な表現をすれば、ドラマの「美空あおい」はただの「萌えキャラ」でしかない。
 オタクがアイドルに「萌えー」なんて言ってるのは、「生身の人間すら、架空のステロタイプなキャラクターに仮託して見ている」ということなので、登場人物の人間的な魅力に惹かれているわけではない(そんなことはないと反論するオタクもいるだろうが、例えば人間を「ツンデレ」なんてパターンでしか認識しない単純な見方のどこがどう「人間を見ている」と言えるだろうか)。
 これがアニメであったなら、あおいが「萌えキャラ」なのは仕方がないかなとも思えるのだが(原作の絵柄はイマイチ・イマニ・イマサンくらいなので、自分の好きなキャラデザインでアニメ化されたら、と想像してみてください。なんたって「ナースもの」ですから萌えるでしょう)、実写化しても「萌えキャラ」のままなら、実写化する意味なんてないじゃないか、と思うのである。石原さとみファンなら満足するんだろうが、普通にドラマを楽しもうという人間にしてみれば、「このマンガみたいなウソ臭いキャラと展開はナニ?」ということになってしまうのである。ここでは「カリカチュア」という、本来マンガの有力な「武器」となる手法が、逆にマイナスに働いてしまった悪例だと言えるだろう。
 それでも石原さとみはまだいい方で、最悪なのは田所内科主任役の西村雅彦である。あんな演技のシロウトをこういう重要な「悪役」につけるものじゃない。出て来た途端に「こいつは表の面ぁ作ってるだけのキツネ野郎だ」と丸分かりの臭い演技をするから、ドラマが胡散臭くなるのだ。これでは最初、田所をいい医者だと錯覚するあおいが「ただの馬鹿」にしか見えないではないか。これを往年の『白い巨塔』の田宮二郎が演じていたら善玉とも悪玉とも付かぬ名演を見せてくれていたのではないか、あるいはもともと「善玉」の田村高広か山本学が演じていたらあおいが騙されるのも無理はないと納得させられるのではないか、などと他のキャストで考えてみたら、この西村雅彦のミスキャストの酷さが少しはご理解いただけるだろうか(譬えが古くてすみません)。
 私はつくづく思うが、西村雅彦という人は、演じられる役が極めて狭く、「威厳」というものを絶対に持てない人である(つまりは今泉慎太郎の延長線上にある役しか演じられない)、それなのに「ヘンな役がやれたものだから演技力があると間違って認識されてしまい、それなりに売れてしまった」のだと思う。今回のドラマで言えば、本当は研修医で歯科医役の八嶋智人あたりの「トラブルにオタオタする」ような役柄がお似合いなのである。
 柳葉敏郎も臭い演技を披露しているが、もともと「現実ではおどけたキャラを作って本当の自分を隠している」役柄だから、これはなんとかセーフである。唯一、マンガキャラに命を吹き込めたのが小峰主任看護師役の杉田かおるで、青井の指導役として、「悪にもなりきれない微妙な心理の揺れ」を見事に演じている。他が下手過ぎってのもあるかもしれないが、ああ、この人はこんなに上手い人だったんだ、バラエティ番組にばかり出してるんじゃないよと、感心を新たにしたことであった。


 続いて、やはり新番組、こちらはミステリーの『アンフェア』。
 篠原涼子に対するイメージは、昔はあまりよくなくて、まあ、歌手時代はバラエティ番組でその常識のなさを共演者からも馬鹿にされていたから、印象のよくなりようもなかったのだが、『Jam Films』を見て、「あっ、この子、演技できるじゃん!」と、遅まきながらその才能をやっと「発見」したのである。思うんだけどね、日本のバラエティ番組ってね、やっぱ役者の才能を削る方向に働いてるマイナス面の方が大きいよ。
女版ダーティー・ハリーと言うか、V.I.ウォシャウスキーのイメージも入っていると思うけれども、キャスリーン・ターナーと違って、篠原涼子の場合、ドラマ内でも言っていたが、カゲキな操作をするわりに「無駄に美人」というところが良い(笑)。女性を美醜で判断するな、とフェミニストからは叱られそうだが、本人は自分の美貌なんか気にもせず、ちょっと「汚れている」からイヤミがないのである。
 「そんなんだから結婚できないんですよ」と相棒に突っ込まれて「こう見えてもバツイチなんだよ!」と反論するんだが、バツイチじゃ威張れないでしょう(笑)。こんなふうに間が抜けているところがあるのも愛嬌に繋がっている。もしかしたら篠原涼子、この役で化けるかもしれない。
 脇役の配役も面白く、篠原涼子の上司がいつもはヤクザみたいな役の多い寺島進であるとか、元夫が頼りになるんだかならないんだかよく分からない感じの香川照之であるとか、ライバル刑事がこれまた正体不明な印象の阿部サダヲであるとか、「何が起こるか分からない」期待感を抱かせる。ミステリーのキャスティングってのはこうでなくっちゃね。
 ミステリーであるから、作品そのものの評価は今後の展開を見なければ何とも言えないが、今のところは「犯人らしき人物」が殺人記録をパソコンに打っているあたりに何かの「罠」が仕掛けられていそうで、面白くなっていきそうな気配である。『あおい』で落胆したあとだけに、ちょっと評価が高くなってるかもしれないが、ラストまで見て、この評価が逆転しないことを祈りたい。

2005年01月10日(月) 橋本幸治監督、死去/舞台『エデンの南』ほか
2003年01月10日(金) また仕事休みました/『ドラゴンボール完全版』1・2巻(鳥山明)/『プリティフェイス』2巻(叶恭弘)ほか
2002年01月10日(木) ヒメ様ご出座/アニメ『七人のナナ』第1話/『トランジスタにヴィーナス』3巻(竹本泉)ほか
2001年01月10日(水) 史上最悪の日/アニメ『プロジェクトA子』


2006年01月09日(月) 続ける理由/ドラマ『西遊記』第一回/『名探偵ポワロ ナイルに死す』

 入院中にも、カウンターは回り続けて、つい一週間前に17万ヒットを記録したと思ったら、更に2000人近くもお客さんが訪れている。
 これまで、ヒットが増えるたびに感謝の言葉を述べてきたのだが、実態はキーワード検索で覗きに来る人が殆どなので、私の日記を読んで喜んでいるのか笑っているのか怒っているのか意味も分からず当惑しているのか(笑)、見当も付かない。正直、最近は嬉しいというよりも「疑問」の方が先に立つ状態だ。
 更新を休んでいると、たまに掲示板の方に「いつも読んでます」旨の書き込みがあったりして、ああ、細々ながらも読者の方がいらっしゃるんだなあ、あまりサボッちゃいけないなあ、という気分になりもするのだが、もともと劇団の宣伝の一環で始めた日記であるから、メンバーの反応が全くなかったり、向こうも更新をサボっていたりすると、どうしてもやる気が失せてしまうのである。演劇について何か意見を書いても反応がなくて、雑談に反応があれば、気持ちが萎えたって仕方がないというものだ。
 それに、先日、しげが勝手に今度の公演を中止勧告して、練習場もキャンセルしてくれたので、いい加減で愛想が尽きて劇団も辞めてしまった。「集まった面子が気に入らなくて公演するのがイヤなら、私が跡を引き継ぐから」とまで言ったのに、しげは今度は「妨害」にまで走ったのである。今まで何度もしげの言行不一致に悩まされてきたものの、それでも「芝居がやりたいから」の言葉を信じて付き合ってきたが、こんなことまでされたのではとても一緒に物を作るなんてことはできない。どうせメンバーにも芝居が好きなやつなんてたいしていやしないのだから、苦労のし甲斐もない。私は芝居が好きでもないやつと芝居を通して関わっていたくはないのである。
 そういう事情で、この日記も劇団からのリンクを外したし、あえて継続しなければならない理由もなくなってしまったので、放置か消去してしまおうかとも一時期考えはしたのだが、「ミクシィやはてなより無責任の方が面白い」と仰ってくださる方も少数ながらいらっしゃる。そこでまたどうしたものかと悩まなきゃならない羽目になってしまったのだ。
 読者がいるからと言って、嬉しいばかりとは限らない。誰かからたまに、面と向かって「理路整然としてますねえ」なんて言って誉められることもあるのだが、好き勝手に書きなぐっているだけのことで、理路整然なんてしちゃいないことは本人が一番よく分かっている(苦笑)。この人はこういう見え透いたおべんちゃらで人が喜ぶと思っているのか、それともただの馬鹿なのか、正直、理解に苦しんでしまう。そして、「別にこんなヤツラのために書いてるわけじゃないんだよなあ」となんとも陰鬱な気持ちにさせられてしまうのである。
 それでもまあ、こうして日記を書きつづっているのには、最初に日記を書き始めた時に思ったことが大きく作用している。何度かこれまでの日記にも書いていることではあるが、最初、私は日記を書いて、それをネットに載せようなんて気持ちはサラサラなかった。「自分のつまらない文章なんて、いくら書いても誰も面白がってはくれないし、読んでももらえないだろう」なんてヒガんでいたのだが、あるとき、そんな根性が、実は「誰かに読んでもらえるほどの立派な文章を書きたいのだ」という倣岸な意識の裏返しであることに気付いたのだ。だから、「誰かに読んでもらいたいなんてヨコシマな気持ちは捨てよう」と思ことにした。自省のためでもなければ啓蒙のためでもなく、ひたすら「意味もなく、ただ表現したいという自分の欲求にのみ突き動かされて書く」ことが、本来の「表現」ということなのではないだろうか?
 「表現することはそれだけで誰かに何かを伝えようとする行為だ」という浅薄な意見にも私は組しない。表現というものは人間の根源的な欲求であって、たとえ全人類が滅亡してただ一人残されたとしても、人は何かを表現しないではいられない動物なのである。
 だから、劇団のメンバーが読んでいようが読んでいまいが関係ないよなあ、と思って以来、逆に「中断」もあまり気にならなくなった。書こうと思うことはその都度やたらとあるが、どうせ全部は書ききれない。書きたい時に書けることを適当に書くのでいいや、とタイトル通り、はなはだ無責任にこの日記は続いたり続かなかったりするようになったのである。

 更新がないのに、ヒット数が増えていたのには理由があって、評論家で『オタクの遺伝子』の著者の稲葉振一郎氏が、私の駄文の一節を引用してリンクしていたからだった。引用のみで、どういう意図でそんなことをしたのかが分からないのだが、単に自著の感想を集めているだけなのかもしれない(笑)。
 たまにこういうことがあって、ヒット数が増えるのも、何をどう判断したらいいのか、悩んでしまうのである。


 携帯を使い始めてまる2年になる。ちょうど2年前は日記をサボっていた時期で、どういう事情で携帯を買うハメになったのかはもはや茫漠たる記憶の彼方に消え去ってしまっているのだが、多分、「いい加減で連絡が付け難いから、携帯を持ってくれ」という懇願に負けたのだろうと思う。
 私の同業者には携帯を持たない人間も多い。「必要ないから」というのが最大の理由で、確かに、そんなにしょっちゅう携帯を使わなければならない用事なんて、我々の業界にはないのである。私も、しげの要求にかなり長い間抵抗していたのは、「待ち合わせとか、携帯があると簡単に連絡が付くので、平気で遅れたりするから」ということだったのだが、まあ、携帯があろうとなかろうと、時間にルーズなやつはもとからそうだし、これでは私自身が「携帯を持ったら平気で遅刻するようになる」と言っているようなものなので、あまり説得力を持たなかった。
 それでも携帯への不信感は、今なお漠然とした形で私の心の中に残っている。自分でやっていて言うのもなんなのだが、携帯からミクシィにしょっちゅうアクセスしていると、これはやはり「中毒」なのではないかという思いを捨てきれない。使用者に「いつでも連絡が付かなければ気がすまない」強迫観念を与えている点で、これもまた一種の社会病理だろうと思う。携帯が普及したおかげで公衆電話の数が減ってしまったこともかなり迷惑だ。携帯使用者だって、電池切れや圏外の時には公衆電話がなかったら困るだろうと思うのだが。
 実際、2年も使用し続けているとバッテリーが一日も持たなくなっていて、電話を10分もしていればもうバッテリー切れを起こしてしまう。しかもミクシィに接続するようになって、電話代も一気に跳ね上がってしまった。入院中は携帯からしかネットにアクセスできなかったから、当然そうなることは予測できたのだが、歯止めが効かなかった。まさしく「中毒」である。
 しげが「機種換えしたら? 新機種だとパケット通信の料金がもっと安くなるよ」と何度も言うので、ついに決心して、近くのauまで出かけていくことにした(そこで実は自分の携帯が使い始めてもう2年を越えることを知ったのである)。
 これも初めて知ったことだったが、携帯を26ヶ月以上使用すると、機種替えの料金が一番安くなるということだった。逆に7ヶ月未満だと一番高い。六千円と六万円の違いだから、新機種が出るたびに買い換えていたら(そういう人もいるからこの値段なのだろうが)、全くの丸損である。
 しげは私があげた「お年玉」で、私に携帯をプレゼントしてくれるつもりだったようだが、割引券もあって、すっかり安くついてしまった。新機種にどんな機能が付いているのかまだよく分からないのだが、多分、またよく分からないまま、2年が経過すると思う(笑)。

 
 夜は、しげと『人生ゲームM&A』で遊んだあと、テレビで新番組『西遊記』の第一回を見る。
 新年の新番組の期待度はナンバーワンだそうだが、キャストを聞いただけで、これまでの『西遊記』映像化と違って「イロモノ」であることは歴然としていると思うのだが(笑)。
 香取慎吾の孫悟空は、いいアイデアだな、とは思った。SMAPのメンバーは、ジャニーズ系アイドルだあるがゆえに役者としては色眼鏡で見られてしまいかねないのだが、ダンスレッスンを長年受けて来ているだけに体技のキレはいい。冒頭の孫悟空対幻翼大王(木村拓哉)の決闘も、尻切れトンボで終わりはしたが見応えがあった。
 ただ、どうしても堺正章版『西遊記』ほか、既成の番組のイメージを後続のテレビ版は全て引きずってしまっているので、キャストは代われど、大同小異の印象を拭えない。いい加減で三蔵法師を女に演じさせるのはやめないかと、私は『西遊記』がテレビ化されるたびに思っている。本気で三蔵法師が女だと思ってるやつ、かなりの数いるんだから(誤解のないように言っておくが、深津絵里が嫌いなわけではない)。『T.P.ぼん』(藤子・F・不二雄)や『西遊少女隊』(山本貴嗣)に描かれているように(笑)、そもそも玄奘三蔵というおっさんは、天竺までの大冒険をやらかした屈強な坊さんであったのだ。
 猪八戒(伊藤淳史)が子ブタっぽくなってしまったのは、もしかしたら『ドラゴンボール』のウーロンからの連想だろうか。凛凛(水川あさみ)なんて一行を翻弄するキャラクターは、アニメ『悟空の大冒険』の竜子を連想させる。沙悟浄(内村光良)が計算高い、というのも、同じく『悟空の大冒険』あたりから強調されてきた性格で、これだけ既視感があると、ようするにこいつら「ステロタイプ」の寄せ集めなんだな、という気がして、出来の悪い特撮戦隊モノを見せられているようで、素直に楽しめなくなるのである。
 実際、脚本のフォーマットもオリジナルの『西遊記』と比べると、ハコは同じでも精神がまるで違っている。まさしく戦隊モノの脚本にそのまま移行しても構わないような造りになっていて、「仲間とは何か」「信頼とは」「友情とは」という、青臭い日本風のモチーフがくどいくらいに繰り返されるが、視聴者が求めている『西遊記』とは、そういうものなのだろうか?
 だから、本格的な冒険ファンタジーとか、そういうのを期待するんじゃなくて、お子様向け『アイドル戦隊西遊ファイブ』を楽しむつもりで見るんならそれなりに面白かろう、という印象なのだね。
 ……しかしこれ、中国からも放送のオファーがあるって言うけど、放送できるんかよ。老子(大倉孝二)なんか、ただのボケたジイサンだけど、またまた反発買うんじゃないか。


 NHK総合で、深夜『名探偵ポワロ/ナイルに死す』の再放送。つか本放送では見逃してたやつ。
 デヴィッド・スーシェのポワロはこれまでのポワロ役者の中でも最高だと思ってはいるのだが、テレビサイズの放送では長編物はどうしても原作がダイジェストされてしまうのと、予算的な関係もあるのだろう、ゲストキャストに二流役者が多いのが困ったところである(日本版は更に時間枠に合わせて本編がカットされていると)。
 原作は「容疑者の誰もが犯人になり得る」ように描くつもりが、舞台をエジプトにしたり、特定人物にスポットを当てすぎて物語をドラマチックに仕立て過ぎた嫌いがあり、犯人もトリックもバレバレになってしまったという、クリスティー作品の中ではあまり評価が高くないものである。
 評価が低いと言っても、クリスティーの諸作は全体を通して見ればそこそこの水準には達しているので、決してつまんなくはないのだが、やっぱりテレビ版は時間の短さのせいもあるのだろう、「ドラマ」を優先してしまっていて、ミステリーとしては凡庸な印象を拭えなくなってしまっている。脚本が長らくシリーズを担当してきたベテランのクライヴ・エクストンに代わって、ケビン・エリオットという人になっているが、同船した人々を、ポワロに「あれは誰、彼は誰」と十把一絡げにざっと説明させる雑な書き方にちょっと閉口してしまった。そんなんじゃ一人一人のキャラクターが視聴者にも印象に残らないし、容疑者リストに入っていても所詮はサブキャラに過ぎないって丸分かりではないか。
 もっとも、1978年のジョン・ギラーミン監督の映画版『ナイル殺人事件』でも、そこのところは失敗していて、豪華キャストを集めているわりには殆どのキャラクターが点景でしかなく、前作『オリエント急行殺人事件』のシドニー・ルメット監督と比較して、その演出力のあまりの落差に落胆したことを覚えている。
 今回のテレビ版、サロメ・オッタボーン夫人を演じたフランセス・デ・ラ・チュアの怪演はなかなかの見物だったが、ヘイスティングスに代わってポワロの相方を務めるレイス大佐(ジェームズ・フォックス)の影が薄かったのも残念である。『茶色の服の男』にも登場する準レギュラーキャラなのに。
 レギュラーと言えば、『ナイル』も含めた今回のシリーズには、これまでのレギュラーだったヘイスティングス、ミス・レモン、ジャップ警部は全く登場しない。彼らが登場する原作はほぼ使いきってしまっているし、尺の関係もあるから、もうお呼びもかからないということなのだろう。昨年制作された新作4本でも未登場のようであるが、彼らもまた絶妙なキャストだっただけに、もう再登場がかなわないとなればシリーズの魅力が低下してしまうことは否めない。原作を全て映像化するにはあと二、三シリーズは必要になるのだが、最終作『カーテン』までが映像化されるかどうかは微妙な気がする。……あと続いて三年なんだから、もうちょっと頑張ってほしいんだけどね。

 ついでながら、これまでなぜかDVD化がなされなかった先述の『オリエント急行殺人事件(1974版)』もようやく二月に発売が決まった。更にはアルフレッド・モリーナがポワロを演じる新作『オリエント急行殺人事件(2001版)』も今月DVD化である。巷では最近、やたらクリスティーが目立って来ているが、なんとなくマスコミ先導って感じが強くて、本当に読まれているのかどうか、疑問なのである。

2005年01月09日(日) 今年も毎月芝居が見たい/舞台『大騒動の小さな家』ほか
2003年01月09日(木) 革命児の帰還/『ヒカルの碁』20巻(ほったゆみ・小畑健)/『ななか6/17』9巻(八神健)/『パタリロ西遊記』5巻(魔夜峰央)
2002年01月09日(水) 多分初雪/映画『大菩薩峠』(岡本喜八監督版)ほか
2001年01月09日(火) 仕事初め


2006年01月08日(日) 「懐かしい」だけでも泣けるけど/映画『銀色の髪のアギト』&『ALWAYS 三丁目の夕日』

 『古畑任三郎ファイナル』三夜の視聴率が全て20%を越えたと言う。瞬間最高視聴率は32%とかで、10%越えれば第ヒットって時代で、これはなかなか驚異的なことだ。ただこれが世にミステリーファンが根付いた結果だというわけでもないんだろうなと考えると、そんなに喜ぶ気にもなれない。
 夕べ東京のグータロウ君に退院の挨拶をした時に『古畑』についてもいろいろ駄弁っていたのだが、彼は『古畑』についてはかなり「辛い」見方をしている。ミステリーとしてはそれほどハイレベルというわけでもないので、欠点を指摘することは確かに簡単なのだが、もともと視聴者のターゲットがファミリー層であろうテレビドラマで、ミステリマニアを相手にするような鬼面人を驚かすような大トリックが仕掛けられるはずもないのである。
 確かに既成のトリックの組み合わせと応用だけで成り立っているようなエピソードが大半なのだけれど、少なくとも「テレビというメディアならでは」の工夫は随所に見られるのである。そこを評価せずに揚げ足取りなことばかり言っていると、森卓也みたいにただのイヤミなジジイになっちゃうぞ、というのが彼の意見を聞いていての印象であった。
 なんつーかグータロウ君はね、そのへんの小汚い定食屋に入って、メシを注文して、「何で最高級のコシヒカリを使ってないんだよ」と文句付けるようなマネすることが多いんだよね。使わねーよ、普通。少なくとも『金田一少年の事件簿』のように、「応用もせずに既成のトリックを借用」したり、『名探偵コナン』のように、「他作品のトリックのネタバラシ」をしたりするような「ルール違反」をしてないだけ、『古畑』の方が何十倍も良心的なのである。
 それよりも腹が立つのは、ネットで「ミステリマニア」を気取ってる連中が、断り書きも何もなく、ミステリーのトリックを日記でバラしまくってることね。ミステリーの性格上、マトモに批評をしようと思えば、確かにトリックや犯人に触れざるを得ないって事情は分かりはする。けれど読者の中にはその作品を見てない人、これから見ようと思っている人も確実に存在するのだ。だったら「ネタバレあり」と前書きしておくことは最低限のルールじゃないか。そんな基本的なことも守れないやつに、ミステリーを軽々しく語ってほしくないのである。ましてプロになんかなるな、青山剛昌。
 私は「ネタバレあり」の断り書きを殆ど付けず、極力、ミステリーのトリックには触れないようにしている。それでその小説やドラマ、映画の面白さを伝えるのは不可能に近いのだが、「ネタバレあり」「未見の方は読まないで」の断りを入れても、やっぱり読んじゃう馬鹿は絶対にいると思うからだ。「何と言われようと読みたいものを読むのは読者の自由だろう」と主張されれば、それはその通りだと答えるしかない。でもそんな馬鹿を相手にしたくはないから、最初から何も書かないのである。
 だもんで、『古畑』については、第一夜の『今、蘇る死』(ゲスト:藤原竜也・石坂浩二)が三夜中、一番完成度が高かった、と書くに留めておきたいと思う。

 グータロウ君は『キング・コング』がヒットしていないことを嘆いていたが、以前の日記にも書いた通り、あれはピーター・ジャクソンの「趣味」が思い切り前面に出た映画で、それはまず日本人には親しめない質のものなのである。
 そのグータロウ君ですら「あざとい」と感じた「崖っぷちでのスタンダップ芸」と「ラスト直前のスケート」シーンこそ、ジャクソン監督が一番やりたかったことに違いない。しかし、日本人の大半は、あのシーンが監督の過去の映画へのオマージュであるとは気付かないままに、「失笑」しているのではなかろうか。本当に笑われるべきなのは「無知な日本人」の方であるにも関わらず。
 「文化の違いを越えた普遍的な面白さ」なんてのは実は存在しない。アメリカ映画にしろフランス映画にしろ、我々の受ける「感動」は、本国の人々のそれとは似ているようで違っている。一見、受けているように見えるのは、「普遍性があるように錯覚することができるもの」がヒットしているにすぎないのである。
 『キング・コング』の場合、たとえば、根本的な問題として、アメリカ人のように「密林の中の巨猿」を「モンスター」ないしは「ビースト」と認識するような感性が、本当に日本人にあるだろうか? 「猿は猿」でしかないと感じるのが日本人の「猿」感だと思うのだがどうだろう(ついでだが、日本の「モスラ」は海外ではかなり笑われたそうだ。あちらの人には「蛾」を「モンスター」と認識する感覚がないのである)。
 「勘違いしにくい」映画が、それでもそこそこの客が入ってるんだから、それで一応よしとするんでいいんじゃないかねえ。


 シネリーブル博多駅で、アニメーション映画『銀色の髪のアギト』を見る。
 『青の6号』以来、GONZOの「作画レベルの高さ」に惹かれて、新作ができるたびに追いかけてはいるのだが、いつまで経っても「作画だけはいい」状態は何とかならないものか。ともかく『未来少年コナン』『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』なんかをこき混ぜたような「どこかで見たような」新味のないストーリーを今更作ってくれるなよ、というのが正直な気持ちである。

 300年後の地球。
 遺伝子操作の失敗によって月面から巨大な樹木が龍のような姿となって、地球を襲った。以来、「森」は意思をもち、人を襲うようになる。果たして人類は、森との共生を図るべきか、敵対すべきか?
 そんな環境の中、たくましくも愉快に暮らす少年アギト(勝地涼)。ある日、親友のカイン(濱口優)と「禁断の泉」に水を汲みに出かけた彼は、300年の眠りから覚め、文明社会を復活させる鍵を握る少女・トゥーラ(宮崎あおい)と出会う。荒れ果てた地球で運命的に出逢ったふたりは、互いに惹かれあいながらも、育った環境の違いにとまどい、葛藤しながら成長していく。
 そんな時、「森」と敵対する都市「ラグナ」からやってきたシュナック(遠藤憲一)と名乗る男が、トゥーラを連れ去ってしまう。彼もまた、300年過去の世界からやってきた男だった……。

 「囚われの少女を奪還する少年」という旧態依然とした設定も、冒険物語の王道ということで目くじらは立てまい。けれども、地球緑化計画にしろイストークにしろ、「人間の賢しらだった知恵がかえって地球環境を破壊し、人類を危機に陥れる」というメッセージは、今時いくらなんでもストレートすぎやしないか、現代の環境破壊問題は、もっと複雑で、単純に緑を増やせば何とかなるというものではないよなあと、設定の「大雑把さ」に首を捻ってしまうのである。
 作画は精緻を極めている。緒方剛志のキャラクターデザインはいかにもなアニメ絵に見えて、実際にはなかなか動かしにくいと思われるのに、作画監督の山形厚史、恩田尚之は、これを自家薬籠中のものとして、アギトを実によく走らせ、飛ばせ、動かしてくれている。アニメーションが「動くこと」そのものの感動を味わわせてくれるものならば、確実に本作は第一級の完成度を誇っていると言えるはずなのだ。
 それなのになぜだろう、高揚感が少しも伝わってこない。トゥーラを背負って、押し寄せる溶岩を避け、「飛ぶよ!」と叫んで――次の絵は、当然、空を背景に「飛ぶ」二人の姿でなければならないはずだ。ところが二人はそのまま大地に落ちていくだけなのである。要するに、絵コンテがドラマを築き上げるだけの力を有していないのである。何かね、全体的にテレビサイズでね、安っぽいの。これはって痺れるような構図の絵が何枚かでもあれば印象は違ったんだろうけれど、なんか本当に「これまでに何度も見た」感じの絵ばかりなのである。GONZOが絵でアピールできなきゃ、しまいだがね。ベールイとゼールイのシーンだけは面白かったけど。
 まあ、いとおしい部分が全くないわけではなく、プロの声優をメインキャストに殆ど使わないのはとかくオタクから批判の対象になりやすいが、今回はそれがかなり成功している。勝地涼、宮崎あおいの主役二人もあの『平成狸合戦ぽんぽこ』のアレみたいなシロウトもどきではなく、ちゃんとキャラクターになりきっていた。遠藤憲一や大杉漣はもう、「いぶし銀」の魅力である。全体としてお勧めできるほどではないが、ディテールを楽しむなら損した気にはならずにすむ、というところだろうか。


 続けて、天神東宝に移動して、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を、公開2ヶ月を経てようやく見る。
 劇場はほぼ満杯で、本当にロングランヒットしてるんだなあと実感。お客さんに中年、老人の方が目立つのも珍しい。みんなそんなに「懐かしい」が好きか。
 ヒットしているからと言って、面白い映画かというと必ずしもそうでもないことは、これまでにも散々経験している。西岸良平の原作マンガは大好きなんだが、マンガの実写映像化で本当に映画として面白いものになっている例なんてのも少ない。だから、正直、期待なんてものは全くしていなかった。
 それでも、しげを説得してでも見てみようかなという気になったのは、『少年サンデー』で高橋留美子が「去年見た中で一番面白かった映画」に、この『ALWAYS』を挙げていたからである。高橋留美子に映画鑑賞眼があるかどうか定かではないが、「同じくマンガ家で、自作が実写化された経験のある」者の意見と言うのは貴重だろう、と考えたのだ。
 さて、で、見た感想はと言うと、これがちょっと困った出来なのであった。「感動した」「泣ける」という意見が書評でもネット上の感想でも多く見られる理由は分かりはする。何しろ私などはファーストシーン、子供たちが「ゴム飛行機」を飛ばした瞬間からもう泣いていた(笑)。「失ってしまって、もはや取り戻すことの出来ない過去」が多けりゃ多いほど、アレは「泣ける」ようにできているのである。けれどそれがこの映画の「映像としての力」ゆえであるのかどうか、と言うと、そこに疑問符が付かざるを得ないので、「困った出来だ」と言わざるを得ないのである。
 昭和33年を象徴するものとして、建設中の東京タワーを持ってきた、これはなかなか面白い発想で、「時代を切り取る」方法としては極めて効果的だ。この映画の中で展開される物語はたった一年間の出来事ではあるが、決して「止まっている時間」ではない。鈴木オート社長(堤真一)に従軍経験があるように、アクマ先生(三浦友和)が空襲で妻子をなくしていたように、戦争の惨禍はまだ人々の記憶に新しいものとして残っていた。しかし同時に、昭和31年の経済白書に書かれていた「もはや戦後ではない」という言葉を居酒屋の客たち(温水洋一・マギー)が呟き、鈴木オートの息子・一平(小清水一揮)が「父ちゃんの戦争の話なんか聞きたくないや」と怒鳴っていたように、未来志向が強まり、急速に過去が忘れ去られようとしていく時代でもあった。日本人が敗戦から立ち直り、高度経済成長に邁進して行こうとする時代の象徴として、「徐々に建設されていく東京タワー」ほど象徴的なものはなかったろう。その「未来志向」の時代は昭和39年の東京オリンピック及び昭和45年の大阪万国博覧会で頂点を極めることになる。公害もオイルショックも低成長時代もバブル崩壊も知らず、「中流意識」すらなく、誰もが「それなりに貧乏」で、だからこそ「明日は良くなる」と信じていた、そういう時代なのである。必ずしもそうではなかったのは皮肉屋の東京人・小林信彦くらいのものであろう(笑)。
 しかしそういう時代だからこそ、この映画の描写は極めていびつで、バランスを欠いているのだ。『ALWAYS』というタイトルは、「移り行く時代」を表すタイトルとしては全くふさわしくない。製作者の意図は「時代がどう変わろうとも変わらぬもの」を描くことを目的としているのだろうが、実際に描かれたものは「既に失われたもの」のオンパレードなのである。しかもその「時代の要素」取捨選択はかなり「いい加減」だと言っていい。
 『ALWAYS』には、昭和33年を象徴するものが画面中には「うるさいくらいに」現れる。それこそ役者が演技をしている後ろの通りを、「意味もなく」行商人が歩いていたりする。しかし、いくら地域共同体がまだ機能していた時代だからと言って、表通りじゃあるまいし、そんなにしょっちゅう、路地に人通りがあるというのはかえって不自然である。初めて家にやってきた白黒テレビに近所中の人々があれほどに群がるというのも、全くないとは言わないが、かなり特殊な例ではあるまいか。なぜなら、そういう「人が集まる近所の社交場」は、個人の家よりも「床屋」や「市場の縁台」などのような場所の方が自然だったからである。更に言うなら、昭和33年はいわゆる皇太子ご成婚の「ミッチーブーム」が巻き起こった年であるから、年末ごろにはちょっとした家庭であればもう充分にテレビは普及していたはずである。鈴木オートは近所中の好かれものだったのかも知れないが、やはりあそこまでの描写は過剰演出の感が強い。映っていたのが「力道山のプロレス中継」だというのもわざとらしいし(巷間言われているほどにプロレスにみんながみんな熱中していたわけではなく、それは街頭テレビでの話である)、テレビの普及と同時に失われていった文化として、子供たちが四辻や公園で群がっていた「紙芝居屋」が一切姿を見せないのもアンバランスである。
 山崎貴監督は、当時を知っている人が見ても不自然でないように心を配ったとコメントしているが、確かにうまい演出も目立つ一方、やはり「イメージの中の昭和」でしかないウソ臭い部分が随所に出てきて、どうしても「浸れない」のである。同じように昭和ノスタルジーを前面に打ち出した『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』には「浸れる」のはなぜかと言えば、あの「夕日街商店街」が、初めから失われた「虚構の街」であり、「未来への希望だけがある時代(未来を再生するためにあるわけではなく、時間はそこで永遠に止まっている)」への回帰願望を満たすためだけに機能しており、最終的にはしんちゃんたち家族によって、「そんな過去の幻想にしがみついてないで現実に帰れ」とノスタルジーを否定する枠組みがあったからである。
 原作マンガは、昭和30年代を描写するためだけに数十巻を要し、しかもまだ連載中である。だから、その全てを一本の映画に盛り込むことはもとより不可能である。というより、盛り込もうとすればどうしても「盛り込みすぎ」と「取りこぼし」が同時に生じ、不自然になってしまう。原作はマンガであるからこそ、初めから一つのファンタジーとして成立していたのだ。
 茶川龍之介(吉岡秀隆)と古行淳之介(須賀健太)のドラマは臆面もないほどに『チャップリンのキッド』をなぞっているが、下町とは言え、大通りで「淳之介〜!」なんて大声で叫ぶやつがいたら、昭和33年だってそいつは既知外である(笑)。映画のウソにだって限度はあると言うか、映画表現に節度があったのがまさに「昭和30年代」ではなかったか。原作通り、茶川先生をお爺さんにし、家の調度を荒らしもせず、ただ「背中で泣く」描写で抑えた方が、よりドラマチックだったろう。それが「分からない」人間がこういった題材を監督していることがそもそもの間違いなのである。
 六ちゃん(堀北真希)は私の最近のゴヒイキであるし、ところどころ好きな描写がありはするのだが、全体的には萎える部分が多かった。ラストの「50年先も夕日は一緒よ」のセリフはわざとらしいだけでなく、寂しく響くのみである。今は、あの時代がそこまでいい時代だったのかなあという疑問と(人の心は変わったと嘆くトシヨリはいつの時代でもいるものだ)、ノスタルジーにただ浸るだけの映画に何の意味があるかなという若干の憤りを感じているところである。

2005年01月08日(土) 夢見る頃は過ぎてるか?/映画『悦楽共犯者』ほか
2003年01月08日(水) 肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜(エコー)/『なんてっ探偵アイドル』11巻(北崎拓)ほか
2002年01月08日(火) ココロはいつもすれ違い/『女王の百年密室』(森博嗣・スズキユカ)
2001年01月08日(月) 成人の日スペ……じゃないよ


2006年01月07日(土) まだまだ書き足りないが/舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』

 長いような短いような、結局年末年始のタノシミをことごとく潰してくれた入院生活も今日でやっと終了である。
 本当だったらなあ、年末は上京して「イッセー尾形とフツーの人々」の舞台に参加するつもりでいたんだがなあ。何日も喉の痛みと咳が止まらなくて、鼻血がとめどなく出て、食ったものをゲロゲロ吐いて、腰が抜けて歩くのもツライ状況になって、かかりつけの病院に駆け込んでもロクな検査をしてくれなかったので別の総合病院に行ってみたら有無を言わさず緊急入院させられたのである。精密検査をしてみたら中性脂肪は1500(通常は100以下)、ヘモグロビンA1Cは12.5(通常は5.8以下)、血糖値が500近くあったので(通常は110以下)、医者の話によれば「昏睡寸前」だったのだそうだ。ほっときゃマジで死んでたかもしれないのである。
それが、インスリンの点滴を打ったり、食事制限して運動して、まあ私自身も努力はしたつもりだが、中性脂肪は95、血糖値が85まで下がったのだから、医者も「こんなに早く回復するとは思いませんでした」とびっくりするほど。おかげで10日退院の予定が三日早まった次第である。
 けれどこの病院、看護師がいい加減で入院中は連絡が行き届かず、検査やら栄養指導やら糖尿病教室やらの予定がコロコロ変わって、かなり右往左往させられたのだった。正直、こんなんじゃ医療ミスもしょっちゅう起こってるんじゃないかと疑われるほどで、二度と再入院はしたくないのである。まあ、アバウトだったから、運動療法に看護師が付き添うこともなく、コースを外れて本屋に行ったりしてもバレなかったし、消灯時間後もあまり見回りが来ないので、テレビを見ることもできたりして、気楽に過ごせはしたのだけれど。
 でも病院としてはこんなに管理体制がデタラメなんじゃろくでもないと言われても仕方がないよな。

 病院での最後の朝食は七草粥。
 テレビでちょうど「最近は七草粥を作る家庭も少なくなって、七草を言える人も殆どいなくなりました」なんてニュースを放送している。昔は七草粥を食べない家庭なんてなかったから、本当に誰でも暗唱できていたのだが、イマドキは世の中馬鹿ばっかに成り果てているから、下手すりゃ七草を「しちぐさ」とか読みかねない。私なんぞは幼稚園のころから「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ これぞ七草」と呪文のように口にして覚えていた「常識」なのだが、これも言えないというのなら、若い人の持っている「常識」というのはいったい何なのか。モー娘。のメンバーを全員言えることか。
 しきたりとか伝統とか、そういうものの中には確かに旧弊で因循なものも多々ある。しかし、「災厄除け」という迷信的なタテマエはともかく、七草粥が、まだ名のみの春の時期に採れる野草をうまく調理して栄養価の高いものとして食膳に供することができるようにしたものであるということは、先人の季節の生活に密着した知恵の産物であり、決して簡単に捨て去ってしまってよい習慣ではないと思うのである。
 モノを知らないだけならそりゃきちんと教育してくれなかった親や教師や環境のせいに責任を転嫁することもできるが、いったん知識を提供されても「そんなもの知らなくてもいい」と馬鹿であることに開き直ってりゃあ、「馬鹿の中の馬鹿」だともっと蔑まれるだけである。そんな端から見ていて恥ずかしくてたまらなくなるマネなんかしてないで、少しはモノを知ろうって努力をしてみろよと言いたくなるのは当然の帰結だろう。上から見下ろしたようなモノイイほするんじゃないよとお叱りも受けそうだが、言いたくなるんだよ、あまりにも馬鹿だから。
 でも、世間は、そんなこと言ってもわかんないくらいの馬鹿ばっかりになっちゃってるから、私の文句も所詮は愚痴にしかならないんだけどね。

 迎えに来た妻が、テレビカードの残りを換金し忘れて家と病院を2回も往復したり、というドジは踏んだものの、九時には無事に帰宅。帰る間際にも運動はしていたので、風呂に入って汗を流す。病院の風呂より狭いが、くつろぐのはやっぱり自宅の風呂だ。
 メールのチェックなどをするが、正月早々からスパムも何件か。以前に比べればかなり減ってはいるけれど、鬱陶しいことは鬱陶しい。テレビを点けると、下関駅が74歳のジイサンに放火されたとのニュース。放火未遂の前歴があり出所したばかり、「腹が減ってムシャクシャしたので火をつけた」という、イカレてることがハッキリ分かる例。だから刑務所放り込まれてる時点で、こいつは外に出したらなんかまたやるって分かるだろう。いくら刑務所が満杯だからって、簡単に外に出しすぎだ。
 江戸の昔なら火付けは死罪だったんだが、どうして今はこんなに刑が軽くなったかね。一歩間違えれば何十人と人死にが出る危険があるんだから、これって立派な殺人未遂ではないの。どうせ老い先短いジジイなんだし、看守が黙ってりゃバレないからこっそり首締めとこうよ。90になっても絶対またやるぞ、このジジイ。



 夕方から、博多座で舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』。
 テヴィエ役は市村正親。アニメファンには『ジャックと豆の木』のジャック役で有名。ってそこから入るか(笑)。最近では『砂の器』で妙に芝居の濃い劇団主宰者役を演じていたが、一般的には当代随一のミュージカル役者として評判の高いこの人の演技、私はあまり買ってはいない。『探偵スルース』や『デモクラシー』といったストレート・プレイでは、その口跡の明確さや派手な仕草がかえって災いして、どうしても芝居が不自然に見えてしまっていた。ミュージカルならばそういった欠点は目立たないかと思って今回の舞台はかなり期待して見に行ったのだったが、やはり「臭さ」が先に立ってしまっている。結局、この人を「演技派」と呼ぶのは間違いだろう、という印象をまたまた強くしてしまったのであった。
 困ったことに、私は、1986年、森繁久彌がテヴィエを演じた全盛期の『屋根の上のバイオリン弾き』(「ヴァイオリン」は「バイオリン」だったのだね)を帝国劇場で見ている。「翻訳劇の日本化に最も成功した例」と評された初代版と比較されれば、分が悪いのは必然である。市村正親も決して手を抜いているわけではないのだろうが、森繁のあの「絶妙の間」には遠く及ばない。去り際に妻ゴールデに向かって「クソババア」と小声で捨て台詞を残して逃げて行くタイミングとセリフの速さ、これが市村は森繁よりも0.5秒ほど遅い。しかしこのほんの遅れが「命取り」になる。
 森繁版では帝国劇場内は大爆笑の渦に包まれていたが、市村版は「そこそこの笑い」しか生まれてはいない。それは殆ど役者陣の「間の悪さ」に起因している。森繁版『屋根』が成功したのは、この芝居に従来のいわゆる「翻訳劇臭さ」が感じられなかったおかげなのだが、それは森繁以下の役者陣が、浅草軽演劇の俗っぽいくらいの「間」を導入し、この「外国劇」をあたかも戦前からの人情喜劇のように「見せかけ」て、「日本化」することに成功していたからである。「ホームドラマ的な要素が強調されたため」と評する演劇評論家は多いが、それもやはりこの「下町的な間」が生み出した効果なのだ。これがなければ、翻訳劇によく見られる「わざとらしさ」ばかりが目立つのも当然である。
 更に言えば、ラビ役を演じた益田喜頓の不在、これはあまりにも大きい。今回、ラビを演じているのは青山達三という人だが、笑いが取れるべきところで殆ど客を笑わせることができなかった。間が悪いのみならず、セリフの解釈を殆ど間違えまくっていたからである。のほほんとした口調ですっかりボケているのではないかと見せかけて、村人たちに離村の決意を促す要となるセリフのみは重厚かつ理性的に語るあの緩急の妙、これは他の俳優にはちょっと無理である。今思い返せば、森繁版は益田さんのために「見せ場」を増やしてさえいた。
 まあ、役者たちも演出家も、「翻訳劇の日本化」などには全く気を配ってはいなかったのだろう、ということは見当が付く。それは、メインテーマである『陽は上りまた沈む』が、森繁版では日本語歌詞で歌われていたものが、原タイトルどおり『サンライズ・サンセット』と「英語に戻されていた」からである。しかしそうなると、この物語は所詮は我々とは縁もゆかりもない「ユダヤ人の物語」でしかなくなり、登場人物たちに感情移入することが困難になってくる。
 父親テヴィエが娘たちの結婚に反対するのはユダヤ教の「しきたり」に彼女たちがことごとく背くような結婚を望んだためだが、これをそのまま舞台にかけても、ユダヤ教徒でも何でもないごく普通の日本人にとっては、まさしく「他人事」でしかないのだ。日本人に感情移入させるためには、そういう宗教的な部分を「薄め」なければならない。その配慮が今回の舞台にはあまりにも足りなかったのである。
 じゃあ、誰に森繁の跡が継げるかって言うと、そんな役者はいるわきゃないんで、現実的には市村さん程度で我慢するしかないんだけどね。歌は名曲揃いだから、役者に多少難があっても退屈するほどではないのが救いと言えば救いか。



 マンガ、六道神士『エクセル・サーガ』15巻(少年画報社)。
密かに「またアニメ化してくれないかな、エルガーラとか宇美ちゃんとか巨乳キャラ増えてるし」とか考えてるそこのキミ、夢から早く覚めて現実に戻りなさい。
 それはさておき(何がさておきだ)、蒲腐博士の本名ってジークスだったんやね。あそこへはウエストの焼肉店以外、殆ど足を踏み入れたことはありません。天神でも外れの方にあるんだもの(何のことかよく分からない人のために簡単な説明。このマンガの舞台は福岡で、キャラクターの名前には全て福岡の地名ないしは建造物の名前が付けられてあるのです)。更にイルパラッツォが福岡征服のために開店した「新しくできた駅前の量販店」というのはヨドバシカメラのことで、これでようやく福岡住民にとっても「カメラはヨドバシ、カ・メ・ラ♪」のテーマソングがポピュラーになりました。ライバル店の「ベター電気」(「ベスト電器」だよ)が「感じの悪さに拍車がかかってる」ってのもマジな話で、これまで地元で殿様商売してきたツケが回ってきた感じですね。私もベスト電器には段々足を運ばなくなりました。
 えー、それからどうしてドカベンが出てくるかって言うと、水島新司がソフトバンクホークスファンだってこともあると思うけれど、社会人野球クラブチーム「福岡ミサキブラッサムズ」の監督がドカベン香川伸行だという関係があると思われます(ちなみに総監督は森口博子)。
 本筋と無関係な話ばかりで申し訳ない。まあ、戻ってきたエクセル、絶対六本松の返信だよなってことで。あとコメントすることないんか(笑)。

2005年01月07日(金) キネ旬ベストテン発表/『3年B組金八先生 新春スペシャル』ほか
2003年01月07日(火) 顔のない時代、歌のない時代/『全日本ミス・コンビニ選手権』(堂高しげる)ほか
2002年01月07日(月) 食い放題に泣く女/『エンジェル・ハート』2巻(北条司)ほか
2001年01月07日(日)  ああ、あと三日休みが欲しい(贅沢)/アニメ『人狼』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)