無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年01月09日(木) 革命児の帰還/『ヒカルの碁』20巻(ほったゆみ・小畑健)/『ななか6/17』9巻(八神健)/『パタリロ西遊記』5巻(魔夜峰央)

 山上たつひこが帰ってくる。
 いや、ファンならばご承知のとおり、山上氏は別にいなくなっていたわけではない。しかし、本人の意向がどうあろうと、「作家・山上龍彦」に違和感を持った人は多かったと思う。いくつかの本を立ち読みはしてみたが「なんでマンガで描かないかなあ、これ」としか私には思えなかった。
 「山上たつひこ」という名前に何を喚起されるか、既に世代間での格差も大きかろう。『がきデカ』すら知らない若い人たちに『喜劇新思想大系』や『光る風』の話をしても、ポカンとされるだけだ。
 けれど、例えば筒井康隆の『アフリカの爆弾』の狂気、あれを描き得たのは、あのギラギラとした山上さんの筆致あってこそだったと、私は信じて疑わない。
 山上さんはたとえシリアスなマンガであろうとギャグマンガであろうと、常に革新的なマンガを描く作家だと認識していた。けれど、『がきデカ』の後期、山上さんの線は随分と洗練され、固まってしまっていた。その線は10年を経て『がきデカFINAL』に至っても変化することがなかったのだ。
 10年前、私は、こまわり君の自らを山頭火になぞらえた旅立ちを、惜しいと思いつつも、先にもう進むことができなくなった山上さんの勇気ある引退として受け入れたのだ。
 こまわり君は、山上さんは、どんな形で帰ってくるのか。

 『ビッグコミック』に掲載予定の『中春こまわり君』(「中春」とは、「早春」と「晩春」の間だとか)に登場するこまわり君は、38歳。「金冠生々(きんかんなまなま)電機」という家電メーカーの営業マンで、結婚して一児の父親であるという。飲み屋で酔客から「おい、“死刑”やれ」などと言われて、ついついサービス精神からやってしまう。
 同僚の西条君はモモちゃんと結婚して2人の子どもがいる。ジュンちゃんは2度の結婚に破れて、今はブティックの雇われ店長。
 犬の「栃の嵐」はぼけ老犬になって車いす生活。栃の嵐の孫が板前で小料理店を経営している。

 山上さんは、復活の理由を「時代の要請」と言う。
 「時代が一回りし、二回りし、さらにもう一回りしてぼくを訪れ、要請した。ファンと再会する一夜のカーニバルのようなものです」と。
 そうかもしれないが、これは明らかに藤子・F・不二雄の『劇画・オバQ』だ。オバQが再び訪れた人間界、正ちゃんは結婚し、ゴジラやよっちゃんやキザくんもみんなオトナになっている。ハカセだけが少年のころの夢を失ってはいないが、それも一夜の酔っ払いの戯言として翌朝には忘れ去られる。ここにオバQの居場所はもうない。
 こまわり君の場合はもっと悲惨かも知れない。
 彼はどこか自分の世界に消え去ることはできないのだ。
 今、こまわり君がいるのは、かつてマンガの中で描かれてきたナンデモアリな幸福な空間ではない。もともと『がきデカ』の世界には、『サザエさん』のごとく『ドラえもん』のごとく、時間の経過は存在しなかった。しかし、今や20年の歳月は確実にこまわり君の上にのしかかってきている。
 今のこまわり君に「八丈島のきょん」が、「台湾バナナ」が、「ぺぽかぼちゃ」ができるのか。できたとして、それが時間の経過という残酷な現実の前で、何かの力を持ち得るのか。
 既にこまわりくんは「がきデカ」ではないのだ。まだ「オバQ」はオバケであったが、こまわりくんはアイデンティティを喪失したところからあらためて描かれるのである。その意味で、これはただの続編ではない。『翔んだカップル』が延々と続くのとはわけが違うのである。

 ヘンな期待だが、私は山上さんの線がとてつもなくヘタになっていてくれたら、と思う。
 もはや山上さんに70年代の熱い線は描けまい。
 だったらいっそのこと、どうしょうもなくヘタクソな、情けない、最晩年の杉浦茂のような、崩れて乱れて線が線になっていないような、すっかり壊れた状態になっていてくれていたほうが、奇妙な迫力が生まれはしないか。
 晩年の芭蕉か、市川準の『会社物語』のような、枯れたワビサビの世界にこまわり君が復活するよりは、そちらのほうがずっといいように思うんである。


 体調、相変わらず悪い。今年の風邪は長引くかもとは聞いていたがホントに長引いてんじゃねえよ(-_-;)。
 外は寒い。ムチャクチャ寒い。
 仕事を終えて駐車場に行ってみると、しげの姿がない。
 電話を入れて見ようと思ったが、運の悪いことに携帯の充電が切れていた。昨日までは満杯だったのに、なんでいきなり切れるかな。
 仕方なく、公衆電話でウチに連絡を入れるが、応答がない。
 普通ならもうこちらに向かっていて、ウチにいないのかも、と判断するところだが、しげの場合、寝過ごしていることが圧倒的に多いので、信用できない。寒い中、ずっと来るか来ないか分らないしげを待ってたら、ますます風邪が悪化してしまう。
 以前、「1分でも遅刻したら先に帰っていい」と約束していたので、タクシーを拾って帰る。
 ところが帰宅してみたらしげの車が駐車場にない。
 慌ててしげに電話連絡を入れる。
 「今、どこにおるん?」
 「駐車場」
 「なんで遅れたん?」
 「遅れたつもりはないよ」
 「オレ、3分は待ったぞ」
 「オレもウチに電話入れたよ。もしかして先に帰ったかと思って、電話入れたけど誰も出んから、まだ仕事してるんかと……」
 「1分でも遅れたら先に帰るって約束しとったやんか!」
 「だから遅れたって気がつかんやったと!」
 「ともかく帰って来い!」
 もういい加減でこんな下らんことで言い合いをしたくはないので、ともかくも帰宅させる。食事に出かける時間が減るのももったいない。
 出かける前に、忘れないうちにと無駄に使ったタクシー代を請求すると、しげ、烈火のごとく怒る。
 「なんで!? アンタが勝手に使ったんやん!」
 「勝手じゃないだろ!? 送り迎えに遅れたらタクシー代払うって約束しとったやんか!」
 「だから時間に遅れたつもりないって」
 「遅れてたの事実やろうが!」
 「なんであんたがいつも正しいとよ!」
 言い合いをしているうちに吐き気がしてきた。風邪の具合、また少し悪化したらしい。
 しげのカネに拘る態度も下品で憎たらしいが、もう何日もこちらの具合が悪いとわかってるのに、少しも気遣う素振りがなく、こんなことで文句をつけてくるのがますます憎たらしい。

 そうなのだ。
 私だって別にしげから金をせびり取りたいわけではない。
 しげが私のことを気遣って「車で送り迎えしちゃる」と言い出したとき、今まで散々騙されて来ている経験から、「今回もアテにはならんよなあ」と思いはしたのだ。
 しかし、ただでさえ何一つ家事をしない、ウチではただの寄生虫と化しているしげに「ウチにいるための理由」を与えるとしたら、しげに何か「私にはできないこと」をさせることしかないのである。けれど、食事も掃除も私がやった方がずっとマシ。でも車の免許だけは、私には視力がないから取れない。
 となれば、結論はハッキリしている。マジで今、しげにはこの「送り迎え」くらいしか私の役に立てることがないのだ。つまり、私は夫として、たとえしげが自分のした約束を忘れ果てようと、「ちゃんと朝起きて職場まで送れ、帰りは時間に遅れずに迎えに来い」と言うしかない。
 これは横暴でもなければ亭主関白でもない。
 こんなことでしか我々は、夫婦としてのコミュニケーションが取れないのである。
 ……しげが家事をしようって気を起こしさえすれば、こんな送り迎えも要らないんだけどな。

 しげが拘っていたのは、「携帯の電池が切れてなかったら」ということだったが、それはしげが時間に遅れたこととは別問題である。遅れなきゃ携帯の電池が切れてようがいまいが関係ないんだから。そのリクツがアホなしげにはなかなか理解できなかったが、興奮しているのを落ちつかせて、なんとか理解させた。
 それでも不満は残っているようだったので、携帯がどの程度電池が持つものか確認することで折り合いをつけた。
 また、これまで「1分でも時間を過ぎたら帰る」という約束だったのを、「5分は待つ」ということでも合意。それでも遅れたらちゃんと文句を言わずにタクシー代を払うことを約束させたが、どうせまた忘れるんだよな。自分が貸したカネのことは忘れないが、人にカネを払う段になると自分に都合の悪い約束はケロッと忘れやがるのだ、この卑怯者は。
 結局、今回の取り決めも、しげを少し楽にさせたってことなんだよな。私がトクしたことって、やっぱりないのである。

 本屋を回ったあと、トンカツ屋に行く予定だったが、しげが急に「焼肉」に惹かれた。まあ、いつものことだ。「カルビ大王」で食事したあと帰宅。
 疲れがどっと出て寝つく。
 私が「少しはオレのこと気遣え」と言うと、「だったらそういう人を探しい」としげはすぐ不貞腐れる。そのモノイイ自体が、自分の妻としての立場を放棄してるんだってことに気づかんのかなあ。
 ああ、また熱が……(-_-;)。


 マンガ、ほったゆみ原作・小畑健漫画『ヒカルの碁』20巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 表紙のキャラ、一瞬加賀かなと思ったら、新登場の社なんだね。ベロ出して挑戦的だけれど、関東人から見た関西人ってこんな感じなのかな。本編ではここまでアホな印象ないんだけど。
 第2部に入ってつまらなくなった、とまでは言い切れないんだけれど、やっぱり佐為がいない喪失感が少しずつ大きくなってきている。
 マンガとしての“華”が明らかになくなっちゃったし、ヒカルとの掛け合い漫才が消えたせいで、ドラマの緩急の“緩”の部分が失われて、どこか単調な印象になってしまっている。
 単行本の売り上げも落ちてるんじゃないかなあ。今回カラーページを初めて収録してるんだけれど、これもいかにもテコ入れっぽい。でもカラーページで一番目立ってるの森下先生だぞ。あまり意味ないんじゃないか(^_^;)。
 本当なら、国際棋戦開催、ということでもちっと盛りあがってもよさそうなものであるが、なんだかイマイチなんだよねえ。出て来る韓国のライバル陣も、そんなに魅力的に感じない。いや、高永夏とか、ミーハーな美形好きはキャーキャー言ってるのかもしれないけど、私がキャーキャー言うワケないし(^_^;)。
 私は好きじゃないが、ジャンプの「対決もの」って、究極のライバルってやつは決まって「異形」だったのである。ただ単にガタイがデカイだけなら、簡単にザコキャラとして倒されてしまう。『ドラゴンボール』のピッコロもベジータもフリーザもセルも、見た目が「強そう」ってだけじゃなくて、プラスαのキャラクターを持っていた。『北斗の拳』のラオウ、『幽遊白書』のトグロ、『るろうに剣心』の志々雄真実も然り、みんな何らかの意味での「異形」なんだが、さて、『ヒカ碁』の場合、この手のヤツラは極めて出しにくい。
 もともと囲碁ってもの自体、盤面だけ見てたって静かな印象しかない。それを非現実の存在である佐為が画面に“異形さ”に代わるものとして“雅さ”を与えていたのだ。これは佐為が幽霊であったからこそできたチカラワザだったんで、今や『ヒカ碁』は「ただ絵がキレイなだけ」のマンガになってしまっている。
 これがねえ、小畑さんの絵が尾田栄一郎並にヘタクソだったらさあ、かえって泥臭い迫力が生まれるんだけど、ここにきて小畑さんの「絵のうまさ」が、かえって物語を平板なものにしてしまってるのは皮肉だよねえ。
 もうこうなったら、どうせ美形を出すにしても「仮面の美形」とか「覆面の美形」とか出すしかないんじゃないか(^_^;)。


 マンガ、八神健『ななか6/17』9巻(秋田書店/少年チャンピオンコミックス・410円)。
 東京のほうではアニメも始まったそうだけれど、福岡での放映予定はなし。
 必ずしもアニメ放映に関して福岡は恵まれてないほうではないと思うけれど、それでも見損ねてCSで見ることになるものも多い。
 いちいち感想書いてられないくらい多いから省略してるけど、ファミリー劇場、キッズステーション、カートゥーンネットワークをチャンネル変えつつ見るだけでも相当量のアニメを見ることになる。来月からはこれに「アニマックス」が加わるのだ。こうなると生活の中心が完全にテレビに移行してしまいそうで怖い。マジでアニメ評論家になるつもりか、オレ。
 『ななか』もどこかで再放送してくれると、これ以上DVD買わずにすむんでありがたいんだが。

 アニメ化記念か、表紙はオールスターキャスト。と思ったら、なぜか氷室さんがいない。せつなはちゃんと出てるのにねえ。
 9巻まで来てようやく気がついたんだけど、キャラクターの名前、みんな「気候」の字が使われてたんだね。
 「“霧”里七華」「“凪”原稔二」「“雨”宮ゆり子」「“嵐”山五月」「“霰”玉九里子」「“氷”室那由」「“雪”ノ沢せつな」「“風”祭千恵」。
 こんなところかな。次に出るキャラクターは霞か雲か(^o^)。
 名前に数字が使われてるのも共通しているから、雨宮さんの名前は多分ホントは「百合子」と書くのであろう。……それにしても、気づくの遅すぎだな。

 マンガのほうは今巻より第2部。
 ななかの第3の人格、「ヒロ」が登場してきたことで、俄然面白くはなってきたのだけれど、二重人格どころか多重人格ものにシフトするとは意外であった。つくづく『ビリー・ミリガン』のドラマ・マンガ各方面への影響の強さを思うことよ。『幽遊白書』の「仙水編」でもこのネタを使ってたけど、アレは行き当たりばったりの印象が強く、あまり成功したとは言えなかった。読者の興味を引きはするけど、うまく収めるのが結構難しいんだよな。その点、三谷幸喜の『出口なし!』は、多重人格ネタをミステリー仕立てにして、なかなかいいオチのつけ方をしていた。さて、21世紀ラブコメ中、屈指の傑作になるであろう(マジかよ)『ななか』は果たしていかなるオチをつけてくれるか?
 もっとも、人格が「理想の男」に変わったからって、女の子のななかがいきなり万能になっちゃうって展開、ムチャクチャではあるんだが、まあ、「火事場のバカ力」だと思ってそこは許そう。キン○マンかい(^_^;)。
 しかし八神さん、絵が上手くなったなあ。もともと上手いヒトではあったんだが、「三人」のななかを、同一人物である基本のフォルムをちゃんと残しつつ、ハッキリ違うキャラとして描き分けている。ラブコメだのアニメ絵だのとバカにしたもんじゃないんだよ。


 マンガ、魔夜峰央『パタリロ西遊記』5巻(白泉社/花とゆめコミックス・410円)。
 今回初めて気がついたんだけれど(最近こんなのが多いな)、目次のところに小さく「この物語は『西遊記』をもとにして描かれています」と書いてある。
 ……いや、別にそんなこと説明されなくてもタイトルに『西遊記』ってしっかり入ってるのに。古典だから版権とか関係ないと思うし、なんでこんな但し書きがいるのかなあ。意外と原典に忠実にマンガ化してるから、そこんとこを強調したいのかも。
 いや、忠実っても、パタリロのしょーもないギャグは当然原典にはありませんが(^_^;)。
 冒頭、門づけ(要するに物乞いですな)するパタリロが歌ってるのが、「沖のくらいのに白帆が見える〜♪ あれは紀ノ国ミカンぶね〜♪」ってアレ。孫悟空に日本の俗謡を歌わせてどうするよ(^_^;)。
 でもどうせ、こんな歌も若い人はまるで聞いたことないって言うんだろうな。昔のヒトなら誰でも知ってる紀伊國屋文左衛門のエピソードだって知らないんだよ、参っちゃうね。
 とかなんとか言いながら、私もこのフレーズを含んだ全歌詞は知らない。っつーか調べてみるとこの俗謡、全国各地に広まってて、バージョンが腐るほどあるのである。原典はどのへんだかようわからん。とりあえず、ネットで拾ったいくつかのパターンをご紹介。

「みかん採み唄」(江島節)
 沖を走るは丸屋の船か 丸にやの字の帆が見える
 沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国みかん船

「みかん採み音頭」  
 沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国みかん船
 江島唄うて向かいの山で みかん採るのはわしの殿
 今度いんだら持て来ておくれ みかんは紀州の有田もの
 有田みかんと道楽息子 色ではだかになりまする(後略)

「大町天王唄」
(前略)
 揃ろた揃ろたよ若衆揃ろた 稲の出穂より良く揃ろた
 八雲の社ののぼりを見たか あれは関東一の旗
 沖のかもめに汐時問えば 私ゃ立つ鳥波に聞け
 沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国みかん船(後略)

「馬子節」
(前略)
 沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国みかん船
 今日は目出度い御りょうさんの 年に一度のお祭り日
 馬がもの云うた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗せよというた(後略)

「八剱神社御柱祭の木遣り唄」
(前略)
 曳け綱 えんやはーりはさんのーえー よいしょ よいしょ よいしょ
 えー沖の暗いのに白帆が見ゆるね よいよい あれは紀の国みかん船 えんやはーりはさんのーえー よいしょ よいしょ よいしょ(後略)

 どうもめでたいことがあるときは全国津々浦々まで、必ず沖からミカン舟が来てくれるものらしい。紀文大尽も気前のいいことである。
 って、パタリロの話がどっかに行っちゃったな(^_^;)。
 いや、このひとのマンガも、こうやってギャグの元ネタを説明してったらキリがないんだよね。このあとパタリロは「トンヤレ節」まで歌ってるんだけど、こんな明治維新時の流行歌までどうしてパタリロは知ってるのだ(私がこの「トンヤレ節」を初めて知ったのはフォーリーブスがなにかの番組の主題歌で歌ってたからだったんだが、あの番組、なんて言ったかなあ)。
 ほかにも古いネタだと、どうしても元がなんだったか思い出せないのがいくつかある。
 「あっ御家令様」「ヒラメの仲間の?」ってダジャレの元ネタ、確かなにかの落語の中にあったような気がするんだが、全然思い出せん。google検索しても出ないのよ、これが。
 「八戒、どっちにつく?」「女ー!」は説明要らず。魔夜さん、意外に宮崎駿が好きらしい。昔「風の谷のハナシカ」ってギャグもやってたしなあ。

 ギャグネタばかり説明して筋についての感想がなにもないが、魔夜峰央のマンガで、ストーリーだのプロットだのと、作者自身があまり考えずに書いてるのがハッキリしてることについて解説することくらいむなしいことはないので、そのへんはご容赦。
 そのうち牛魔王もピョートル大帝(『パタリロ!』中、バンコランの最大の敵だったが、連載が長く続くうちにいつの間にか消えた)みたく、どっか行っちゃうんじゃないか(^o^)。 

2002年01月09日(水) 多分初雪/映画『大菩薩峠』(岡本喜八監督版)ほか
2001年01月09日(火) 仕事初め



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