無責任賛歌
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2003年01月11日(土) |
妊娠来たかと鸛に問えば/『今日も映画日和』(和田誠・川本三郎・瀬戸川猛資)/『ワイルダーならどうする?』(キャメロン・クロウ) |
タイトルは西村知美さん妊娠記念。 「鸛」は「コウノトリ」と読みます。私も初めて知った。あまりその点、突っ込まないでね。 いや、別に深い意味はないです(^_^;)。 西村さん、不妊治療が失敗続き、流産も二度経験して、あきらめてたところの自然妊娠だそうである。 こういうニュースを聞くと、「不妊治療」ってアテになるんかな、という気がどうしてもしてしまう。医学の発展にイチャモン付ける気はないけど、医者が自分たちの研究してることをきちんとオープンにしてないことが誤解を呼んでること、多すぎないか。 ウチにも子供いないけど、しげは「不妊治療してまで子供ほしくない」って言ってるもんなあ。なんか怖そうだし。 それは私も同じ考えなんで、お医者さんにはさ、『ブラック・ジャック』で本間丈太郎が「人の生き死にを医者がどうこうしようというのはおこがましいとは思わんかね」って語ってるセリフ、よーく考えてほしいんだけどね。少なくともこれをただの姿勢の問題に過ぎないとか、哲学的なだけで現実性のない言葉って受けとってるような医者にはかかりたくないよ。 ラエリアンムーブメントのクローンがどうたらって話もよ、クローン技術があいつらに可能かどうかってこと以前に、クローンに関する知識そのものが一般化してないじゃないかよ。本気で「自分と全く同じ『記憶』を持った人間が生まれる」って信じてるヤツいるんだぞ。だからあんなフツーだったら東スポでしか扱わないようなガセが一般誌や全国ネットのニュースになっちまうんだよ。 それにしても、クローンに反対してる方も賛成してる方もどっちも宗教がらみってか。こうなると信教の自由の保障自体、いっぺん考えなおして、お布施の3分の2は税金で徴収するくらいのことしなきゃならんのじゃないかね。で、国自体が宗教国家ってとこは問答無用で滅ぼすと(^o^)。 ……地上から人間がいなくなるな。 明日が劇団の練習日、台本も今日が〆切ということなので、ひたすら朝から書いて書いて書きまくる。 疲れて風呂に入って、もう1回書きだして、合間に本読んで。 なんとか目途がついたところでひと寝入り。
和田誠・川本三郎・瀬戸川猛資『今日も映画日和』(文春文庫・660円)。 オビには「心から映画を愛する3人だから、こんなにたのしい! SF超大作から青春映画、西部劇に法廷ものまで、語った映画実に1200本!」 珍しく、惹句に掛け値なし、このお三方の対談本なら、1200本でも少ないくらいだろう。
書かれたもの、語られたものを読んで、ああ、この人はちゃんと映画を見てるんだなあ、と感心し、そして尊敬する評論家って、ホントに数が少ない。 そりゃ、どんな批評だって、最終的には個人の主観なんだから、何言ったって構いはしない。けれど、あるジャンルの作品について語ろうと思えば、そのジャンルについての基礎知識が必要になる場合ってのが必ずあるのだ。それを無視した批評や論議は、どんなに感動的な筆致で書かれていたとしてもクズである。
例えば、あちこちで話題になった、『アルマゲドン』問題。 あれを「コメディである」と語る人がいたけどさ、そう主張したいんだったら、そもそもコメディってのが作り手の意図はどうあろうと、観客が笑えりゃそれでいいんかってことまで含めて論議しなきゃならなくなる(そう言えばあれ見た感想、日記に書くのケロッと忘れてたな。いろいろ腹立つ描写があったんで描く気が失せたんだろう。今からでも書いたがいいかなあ)。コメディってのはそんなもんじゃないよ、ということで「バカ映画」とか「トンデモ映画」という呼称をしてる人が多かったと思うんだけれど、「作り手が確信犯だから」ということで「コメディ」と言いはってたんだよ、あのアホ連中はさ。果てはあの映画を非難してた人たちに向かって「映画の見方を知らないヤツラだ」とか悪態ついてたしなあ。そりゃ、どっちの話だよ。本気でその件について論議するなら、その「映画の見方」ってことについて、作品論、作家論、読者(観客)論、全ての立場から論破してやってもいいぞ。 でも、どうせそういうヤツラは、たいてい自分の知識のなさを棚にあげて、「あなたの話題にしていることは私にとってはどうでもいいことなんです」「結局は主観の相違ですね」とか言って、逃げるんだよな。だったら世の中に「客観描写」なんてものは存在しないってことになるだろう。それは「映画」ばかりでなく、芸術作品、引いては人間自体の否定だ。 そんなヒキコモリの言い訳みたいなモノイイするんだったら、最初から土俵に登ってくるんじゃねえや(`´)。 百歩譲って、その「確信犯だから」って主張を受け入れたってさ、別に確信犯がバカじゃないってことにはならないんだから、やっぱりコメディとしても駄作だとしか言えないんだが。私ゃあれ見て、笑う気にすらなれなかったよ(-_-;)。
じゃあ、そんな映画の見方もわからないシロウトやエセ評論家どもとは一味違う人たち、ということになると、私にとってはこれはもう3人しかいないのである。 荻昌弘、淀川長治(ボケる前)、そしてこの瀬戸川猛資さん(小林信彦や森卓也あたりが次点。あとは十把ひとからげ、水野晴郎やおすぎ、襟川クロなんかは論外である)。 でも三人ともすでに故人。なんか最近、故人の話ばかりしてるなあ(T-T)。
川本三郎さんが、あとがきで瀬戸川さんに対してこう語っている。 「瀬戸川さんは博識だった。ミステリ、SF、映画に関して、実によく知っていた。この三つのジャンルは、子どものころから好きでないと深い知識が得られない。学校での勉強とはわけが違う。大人になってからのにわか知識ではだめだ」 まず、この文章に反発を抱いて、「大人になってミステリやSFや映画を好きになっちゃいかんのか」なんて思う人間は、そもそも大人ではない。いやもうはっきり言って超低級のバカであって、私ゃ口も利きたくないよ。 何歳で何を好きになったって構わないが、そんなことを話題にしてるわけじゃないじゃん。知識や判断力について、子供の頃から読んでる人の方が一日の長があるのは当たり前だって話をしてるんである。たいていこんなこと言ってるやつは、本も読まず、映画も見ず、自分のバカを開き直って肯定するためか、本好き映画好きをからかうためにこんな言い訳をしてるんである。要するに「勉強できないガキが『数学できんとがなんで悪いとや』と叫ぶタワゴト」から一歩も出ちゃいないんである。 瀬戸川さんの『夢想の研究』(創元推理文庫)を未読の方は、ぜひ一読していただきたい。映画一本を見て語るために、どれだけの知識が必要となるか。
本書の内容について語りだすと、これも果てしなく続きそうである。 いやはや、私ごとき浅薄な人間が口を差し挟む余地など本来はないのだが、対談本の唯一の問題は、話の流れで、もっと語ってほしい話題がサラリと流れてしまうことがある点だ。 例えば「スクリーンの中の酒場で会おう」の章で、和田誠さんが「チャップリンの初期の短編で、冒頭で奥さんが喧嘩して出ていってしまう。次のカットでチャップリンの後ろ姿が映って、こう肩を震わせている。誰が見ても泣いてるんですよ。で、カメラが前に回るとカクテルを作っている(笑)」 この映画のタイトルが脚注でも紹介されない。編集者に知識がないと、こういう「穴」が往々にして起こるんである。 答えは『のらくら(“THE IDLE CLASS”)』。私が劇場で見たときには『ゴルフ狂時代』と解題されていた。 普通、「チャップリンの初期短編」という言い方をすると、これはメーベル・ノーマンドあたりと組んでいたキーストン社時代(チャップリンも日本では「アルコール先生」と呼ばれていたころ)や、エッサネイ社時代、せいぜいミューチュアル社時代(エドナ・パーヴィアンスとのコンビが最も多かったころ)までのもの(概ね1914年から1917年)を指す。長さも2巻ものが多く、20分程度が普通だった。従って、1921年、ファーストナショナル社制作で3巻もの32分であるこの『のらくら』は、ちょっと「初期短編」とは言いきれないのである。 和田さんも相当な映画ファンではあるのだが、こういう間違いは淀川長治さんなら絶対に犯さない。これが「一日の長」ってやつなのだな。
瀬戸川さんの見識に驚いたのは、「法廷から正義が消えた」の章で、アガサ・クリスティー原作(『検察側の証人』)、ビリィ・ワイルダー監督作『情婦』のラストシーンについて触れているところ。 私もあの映画は何度も見ていたのだが、全く気づかなかったことを指摘してくれていた。 ……ここから先は、『情婦』を見てない人は絶対に読まないように。(V^−°)イエイ!
最後の最後のドンデン返しのあと、レナード・ヴォール(タイロン・パワー)に裏切られたと知ったクリスチーネ・ヘルム(マレーネ・ディートリッヒ)が、レナードを“そこにたまたま置きっぱなしにされていた証拠のナイフ”で刺す。ところが、それは、やはりレナードにまんまと一杯食わされた弁護士のウィルフリッド・ロバーツ卿(チャールズ・ロートン)の「作為」であったというのだ。
瀬戸川「ロートンが片眼鏡(モノクル)持ってたでしょ。あれでね、こう(とおなかのあたりで両手で眼鏡を動かす)やっているシーンがあるんですよ。その先にナイフがあるんだよね。ディートリッヒに、ここにナイフがあるぞ、と示してるわけ。それで、ディートリッヒはカーッときて、刺す。そういう流れになってるの」 川本&和田「えーっ?」
うわあ、川本さんも和田さんも気づいてなかったのか。 私も驚いて、慌てて『情婦』のDVDを引っ張り出して見返してみた。 すると……まさしくその通りだったんですね。( ゜.゜)……ポカーン。 なんで今まで気がつかなかったのか。確かにロートンは「片手で」モノクルをぶら下げ、回転させている。その反射光が、机の上のナイフを照らして……って、問題はその位置だ。 ナイフは左画面の下ギリギリのところにあって、最初、ウチのテレビのモニターでは左端画面が切れていてそれが見えなかった。普通のテレビサイズだと、ちょうど画面が切れる位置にこの光は映るのだ。それがどうしてわかったかと言うと、パソコン画面で見なおしてようやく左画面の切れない位置を確認できたというわけだ。 川本さん和田さんは、当然初見は劇場でだろう。これは想像だが、劇場ではその光、下手の袖幕に隠れて見えず、それで川本さんも和田さんも気がつかなかったのではなかろうか。私も基本的に「映画は劇場で」と考える方だが、実のところ、この上映条件に関して言えば、画面のサイズばかりでなく、明るさ、音響等について列悪な環境の劇場は、昔から腐るほどあったのである。 この「反射光の画面切れ」は、断じてビリー・ワイルダーのミスなどではない。これこそが「確信犯」である(『アルマゲ』賛美者は「確信犯」って言葉もこういう具合に使ってほしいものである)。 『情婦』の制作は1958年、カラー映画が普通になり、テレビもお茶の間の寵児となっていた時代であれば、自作の「画面切れ」についてもワイルダー監督は何度も煮え湯を飲まされているはずだ。そんな状況にあって、あえてモノクロ・ヨーロピアンビスタサイズで撮影したワイルダー監督が、「画面の両端が切れることの実作での弊害」を演出してみせたと考えるのは、決して的外れではなかろう。 瀬戸川さんは、舞台版『検察側の証人』の脚本と舞台も見て、その上で「これはクリスティーの創作ではなくワイルダーの演出である」とはっきり断言してるんである。 ……いやね、あのジジイ、それくらいのことは絶対にするヒトなんだよ(^_^;)。そう断言できるのは、ワイルダーの映画をずっと見続けている人になら、説明は要らないだろう。そう判断できるのが本当の意味での映画を見るための「知識」というやつなんだよ。
積読の山の中から、キャメロン・クロウ著・宮本高晴訳『ワイルダーならどうする? ビリー・ワイルダーとキャメロン・クロウの対話』を引っ張り出し、当該部分に当たってみる。 ワイルダーはロートンの演技を絶賛してはいるが(クライマックスシーンを二十通り演じ分けてみせ、そのどれもが一つ前の演技を上回った!)、光の演出については触れられていない。ちゃんと聞いてくれよ、キャメロン・クロウ。
この本で語られているロートンの最晩年のエピソードは、涙なしには読めない。 ワイルダーの『あなただけ今晩は』にロートンは出演する予定だった。 しかしそのころ既にロートンはガンに冒されていた。ロートンはワイルダーに伝えた。 「少しすればよくなる。四月ではなく、夏の終わりに来てくれ」 夏の終わり、ハリウッド大通りのロートン家をワイルダーは訪ねた。 体重が60ポンド(27キロ!)減っていたロートンは、プールサイドを看護士に付き添われて歩いてみせた。けれど、最後の数歩は息も絶え絶えだった。 「医者の指示は一つ残らず守ったんだ! 看護士も四六時中ついている! だから9月には万全だ!」 それを聞いたワイルダーは答える。 「すごいじゃないか! 続けるんだな! じゃあ、9月から始めよう!」 ロートンが亡くなったのは、その一週間後のことである。
映画に関する本を読むと語りたくって仕方なくなるなあ。 もちろん、この本を読んだら、ロートンのほかにも触れたくなる人々がいくらでもいるのである。いや、一つ一つのエピソードの面白いこと。 ジャック・レモン、ジョー・E・ブラウン、I.A.L.ダイアモンド、マリリン・モンロー、アーサー・ミラー、シャーリー・マクレーン、ウォルター・マッソー、オードリー・ヘップバーン、トニー・カーティス、ピーター・セラーズ、ピーター・ローレ、セシル・B・デミル、チャールズ・リンドバーグ……。 とても語りきれないことの中で、少しだけ触れたいのは、ワイルダーが会社とトラブッて編集を放棄し、本編の三割が失われた『シャーロック・ホームズの冒険』である。見たことのある人にはわかると思うが、あれはいいところもたくさんありはするのだが(マイクロフト・ホームズ=クリストファー・リー!)、ホームズファンにはイマイチの評価だったりする。しかし、もしもカットされたフィルムが見つかれば、もしかして評価は逆転するのではないか。 そういう努力をこそ、映画会社はしてほしいものである。
ワイルダーの語る「最高の映画」は『戦艦ポチョムキン』。 自作の傑作は『アパートの鍵貸します』『お熱いのがお好き』『サンセット大通り』の三本。 傑作コメディと認めるものは『イヴの総て』『雨に唄えば』『フォレスト・ガンプ』『恋愛小説家』『フル・モンティ』。周防正行監督の『Shall We ダンス?』も傑作と認めてくれている。 「いいコメディはまじめに監督しなくちゃいけない」 このセリフ、聞かせてやりたいヤツラって、やたら多いような気がするな。
2002年01月11日(金) 先陣争い雪隠の役/『雪の峠・剣の舞』(岩明均)ほか 2001年01月11日(木) 一週間が長いなあ/映画『ノース 小さな旅人』
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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