無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年09月08日(木) なーいないない金がない/『鉄人28号 皇帝の紋章』3巻(横山光輝・長谷川裕一/完結)

 タイトルは『ないない音頭』(by熊倉一雄)から。全く、こんな名曲がいつまで経ってもカラオケに入らないとは、世のオタクはちゃんとリクエストしているのだろうか。
 しげの日記にも書いている通り、今月はかなり財政がピンチなのである。
 もちろん、アソビにばかりカネを使っているからそうなるので、言い訳なんかできないし、同情されることではない。
 でも、我々とて一応モノは考えているので、本を買うにしても映画を見るにしても、ある程度は計算していて、予算オーバーにはならないように気をつけていたのである。見たい映画も涙を飲んでテレビ放送を待つようにして、今月はかなり控えている。
 だから、しげが「金がない」というのがどうにも解せなかった。まだ充分余裕があるはずだったので、「どうしてだ?」と問いただしてみた。
 「車検があるの忘れてたんで、それで予定が狂ったんよ」
 「日ごろから人に無駄遣いするなとか言ってるくせに、なんだよ、それは」
 「じゃ、あんたは金あると?」
 「ないよ」
 「なんで?!」
 「定期が今月で切れるの忘れてた。昨日買ったから、もう金がない」
 「あんたも無計画やん!」   
 まあ、バカ夫婦ここにありである。この日記は我々の恥もセキララに書くと決めているので、ご紹介した次第であるが、恥曝しはまだこれでは終わらない。
 しげがおもむろにこう言った。
 「ねえ……」
 「なんだ?」
 「ハカセの結婚式のご祝儀、減らさない?」
 ……ごめん、ハカセ。フクロが薄いけど、お祝いより自分たちの生活の方が大事だ。  


 各地に甚大な被害をもたらした台風14号、ようやくオホーツク海へ抜けて温帯低気圧に変わった。現段階での死者は20人、行方不明者は7人。自然災害だから諦めなきゃならない面があるにしろ、「事前に来ることが分かっている」のに、どうしていつもいつも犠牲者が出てしまうのか、どうにも歯がゆく、納得ができない。
 特にやりきれないのは、山口県岩国市の山陽自動車道の「のり面」が崩れた事故だ。新聞写真を見てその規模の大きさに驚いたのだが、長さ50メートル、幅15メートル以上にわたる盛り土で建設された高速道路ののり面が、上り線の路面ごと崩れ落ちたのである。この事故で、崖の下にあった家ごと三人が生き埋めになり、二人が遺体で発見された。開通後13年を経て、盛り土も充分安定していたのに、この始末である。耐震建築などもそうだが、どんなに人間が知恵を振り絞って自然に対抗する手段を考えても、それ以上の強大なパワーを持った自然が押し寄せてくれば、ひとたまりもないのである。
 日本の台風よりもはるかに被害甚大なアメリカのハリケーン「カトリーナ」であるが、こちらのニュースはいっこうに私の心に染みてこない。対岸の火事だからと言えばそれまでなのだが、救援の遅れやら略奪やら被害者の見殺しやらの殺伐としたニュースを立て続けに聞いていると、同情よりも先に「結局、あの国はそういう国である」と、国そのものに対する反感の方が先に立ってしまうのである。老人ホームの人たちを見殺しにして係員が全員逃げたって、そりゃなんだよ。ここまで無慈悲な事件はさすがに日本じゃ起こらないと思う(思いたい)。
 日本の治安だって、アメリカ並になってるじゃないかという意見もあるようだが、まだまだそこまでのことはないし、これからだってあそこまで悪くはなるまいと考えるのは楽観的に過ぎるだろうか。


 グータロウ君が、またヒビキ30話について、日記で絡んできた。
 あっ、この野郎、個人攻撃に走りやがったな。そうだよオレは「何様」だよ(笑)。
 って威張るつもりはないんだけれど、再々反論する意味はなくなっちゃったようなので、これだけ言って終わりにしとこう。「脚本の話しかしてないのに」っていうけどさあ、こっちは「脚本の話だけするんじゃねえ。それが、見方が『狭い』ってことなんだよ」って言ってるんだから、そこで「俺たちはあえて狭い見方をしてるんだ!」なんて卑屈に威張るんじゃねーやな。イタいオタクを演じられるってことは、即ち自分がイタいオタクだからだ。
 もともと、「ありゃヘンな脚本だったよなあ」って意見じゃ一致してるんだから、絡んでくる必要なんてないのに、勝手に私が「井上脚本を擁護している」なんて思いこんだ時点で大勘違いなんである。だから、「困ったなあ」と書いたのに、全く、鈍感もここまで来ると罪である。
 カトウ君はカトウ君で、自分の主張は全部「主観」と逃げを打って(これがどれだけ人を馬鹿にしてるかってことに気が付いてるのか?)、しかも「けんちんさんがあまりにも『井上氏の響鬼以外の活動』を引き合いに出してくるからです」とかデタラメ書きやがるし。そりゃ先にカトウ君がやったことだってーの。「響鬼以外の活動」を想定してなきゃ、どうして「井上脚本だめだ」と口にできるかね? 自分の言葉が何を意味してるかまるで理解しちゃいない。「リンク貼るな」なんて妙な正義感まで発揮するし、「何かにハマることでモノが見えなくなっている」典型だ。
 カトウ君が私にぶつけてきた言葉は、全部カトウ君自身に帰せられるものであって、結局カトウ君は「自分はこんなにイタイやつ」だってことを告白しているに等しい。彼が名指ししている「けいちんさん」というのは私のことではなくて、彼の妄想の中にだけいる存在しない私なのである。全く、鏡に向かって文句ぶつけてどうするかね。
 カトウ君のおしゃべりを聞いていると、「ああ、この子はずっとこうやって一人相撲ばかり取ってきたんだなあ」とそぞろ寂しい気分にさせられてしまうが、まあ、オタクが辿る道はだいたいこうしたものなのである。
 グータロウ君も、カトウ君も、一応『響鬼』を愛しちゃいるんだろうけれども、押し付けがましい愛は(押しつけてないと口にするのが一番押し付けがましいのである)大きなお世話でしかなく、相手からは鬱陶しく感じられるだけであろう。まあ、番組は番組で、ファン同士の諍いなどどこ吹く風とばかりに超然とそこにあるばかりだろうがね。

 しげが、「グータロウさんとケンカするの?」とハラハラしているが、おたがい四十を越してそんな体力気力はとうに尽きてるんで、このへんで「もういいよ」に流れるよ。それでも何かしらシコリが残るんじゃないかと心配しているようなのだが、たかがテレビ番組のことでそんなことになるほど私はバカではない。向こうはどうか知らんが(笑)。
 我々はもう、大切なこともそうでないことも、たいていのことは一晩寝れば忘れるようにできているので、しげの心配は杞憂だろう。老人力じゃないが、過去のことに拘らなくなるってことを、年取ることのプラス面だと考えるようにしよう。それってつまりは自然にオタクではなくなってしまうってことだがね。


 マンガ、横山光輝原作・長谷川裕一漫画『鉄人28号 皇帝の紋章』3巻(完結/講談社)。
 発売されて随分時間が経ってるんだけれども、ようやく入手。ネット注文もできない品切れ状態だったんだけれども、手に入れてみれば初版だよ、これ。売れ残ってたわけじゃなくて、いったん返本されたのがまた書店注文で取り寄せられたようだから、売れてるんだか売れてないんだかよく分からないのである。部数あまり出してないことは間違いないな。くそ。
 ギャロン、ギルバート、ケリー、そして最後の敵はやっぱりロビー。紋章を巡る戦い自体は第九話でいったん終わり、フランケン博士は劇的な(本当に劇的な!)退場を見せ、博士の「遺産」はアリスに受け継がれる。しかしそれは物語の終わりではない。
 アリスが背負わされた「運命」の決着、そして“意志を持つロボット”ロビーの語る「ロボット戦争」の真実。エピソードが連続していた前巻までと違って、やや散発的な印象になってしまったが、これぞ「正しいロボットマンガ」という印象は揺るがない。
 『鉄人28号』の物語が、今、なぜ語られなければならないか、その答えは、今は亡き金田博士の言葉に集約されている。

 〉「戦争が終わったって、それで全部が終わりじゃないじゃろう? 人間は、その先だってずっと生きていく。その時、こいつ(鉄人)の力は役に立つじゃろう。だからわしが造っとるのは“でっかい人”なんじゃよ。人間なら、その手に銃を持つこともあるじゃろう。だが、それを鍬や鋤に持ち替えることも……。花を持つことだってできる。こいつに今、何かを持たせちゃいかんよ」

 なんか「魂の言葉」を聞かされたって気になるなあ。この思想が、現代の、様々なロボット開発に繋がっているのだと言えるね。私ゃ「癒し系ロボット」なんて何なんだよって感想を持ってはいたんだが、そうだよな、「全ての科学技術は容易に戦争に結びつく」という思想を否定するんであれば、「犬型ロボット」だって許せちゃうのである。
 もちろん、マンガは思想を語る道具じゃない。しかし、マンガから思想は自然に表れる。ロボットマンガは純粋にエンタテインメントであることが私にとっては理想なのだが、物語を支える思想が右だの左だのといった狭苦しいものでなくて、ただひたすら人類の未来を信じるものであるなら、物語は決して破綻しないのだ。
 同じようなコンセプトで始められていながら、少年探偵どころか辛気臭いとっちゃん坊やになり下がった正太郎が愚痴を言うばかりの今川泰宏監督アニメ版は、横山光輝の名前を冠するに値しない糞アニメであった。横山さんの衣鉢を継ぐ『鉄人』は、ここにある。

 しかし、個人的に一番のツボだったのは、敷島博士と大塚署長の次の会話だったりする。

 〉敷島「正太郎は私の娘のマキと結婚させるのだ!」
 〉大塚「あんた娘いないでしょうがっ!」
 〉敷島「え? あれ? でも正太郎くんは将来有名なロボット学者と結婚するって決まってるから」
 〉大塚「何 混乱しとるんですか?! あんたは?」

 『鉄人』アニメ化の歴史がいかに黒歴史であったかを象徴するような会話だね(笑)。

2004年09月08日(水) 入院顛末4・絶食したのに太るフシギ
2003年09月08日(月) ボンちゃんって呼び名も懐かしい/ドラマ『血脈』/『×××HOLIC』1巻(CLAMP)
2001年09月08日(土) 半年分の食い散らし/『あなたの身近な「困った人たち」の精神分析』(小此木啓吾)ほか
2000年09月08日(金) 這えば立て、立てば歩めの夫心/『ビーストテイル』(坂田靖子)ほか


2005年09月07日(水) 無責任賛歌事始/『エマ』6巻(森薫)

 台風、午前二時ごろまで吹き荒れる。
 これだけ長い間九州に居座ったってのも、生まれてこの方、経験したことがないが、なんでもいつもは台風を東へ押し流す上空の偏西風が、今回はピタッと止んでいて、それでゆったりゆったりと進んでたってことのようだ。
おかげで、ずっとマンションの部屋に閉じ込められた格好になってしまったが、こうなると落ちつかないのがしげである。そもそも食料の買い置きをしていなかったので(しとけよと言ったのにまたしげがサボったのである)、食うものがない。それで、夜中にいきなり「買い物に行く」と言い出すのだ。外はもう、ビュンビュン風が吹いているし、看板の一つや二つは飛んでそうな気配である。とても外に出せる状況ではないのだが、放っとくとしげは嵐の中に喜んで飛び出していきかねないのである。なんでそんなことをしたがるのか理解の範疇外なのだが、『八月の狂詩曲』の婆ちゃんのように何か止むに止まれぬものに駆り立てられてしまうのだろう。要するにやっぱりイカレているのである。
 だもんで、しげが起きている間中、こっちもずっとしげを見張っているしかなかった。午前三時を過ぎてようやく寝てくれたが、外を覗くと、さっきまでの雨風がウソのようにピタッと止んでいる。これなら仮にしげが置きだして買い物に出かけても大丈夫かと、ようやく寝た。でも結局、今朝は二時間しか寝ていないのである。こんなことがしょっちゅうあったら、体力持たんぞ。もう今年は台風来んでくれ。


 またもやマンガの実写映画化であるが、今度は一色まことの『花田少年史』だって。
 うーん、あまり意外性がないと言うか、ごく普通に実写になりそうと言うか、ということは原作って、絵柄の面白さはあるけれど、アイデアやストーリーは漫画特有のものじゃなかったってことだな。人気のあったマンガだとは思うけれど、何かキャッチーなものに欠ける気がする。もっともそれは「オタク的には」ということで、世間一般へのアピール度は高いのかもしれない。
 主人公の花田一路は当然子役で、須賀健太君と言うそうだ。何か聞いたことある名前だなあと思ったら、『ゴジラ FINAL WARS』で泉谷しげるの孫を演じてたあの子だわ。一路にしてはちょっと線が弱くないかなあ……って、子役の品定めまでしなくてもいい気はするが。
 でも、母ちゃんが篠原涼子で、父ちゃんが西村雅彦って聞くと、どうにもマンガのイメージと違いすぎていて、ああ、やっぱりスタッフは「原作がマンガだ」ということを気にせず映画化するんだなあと思って、ちょっと寂しくなった。一昔前だったらああいうバイタリティー溢れる日本のお母ちゃんは、藤田弓子とか京塚昌子とか市原悦子とか清川虹子とか丹下キヨ子が演じてたようなキャラである。それを篠原涼子とはねえ。それともデ・ニーロばりに太らすのか。西村雅彦も全然キャラが弱すぎるけれども、スタッフは本気でこの映画をヒットさせようって考えてるのかどうか、よく分からないキャスティングである。
 ストーリーは、「オバケの見える能力を持ってしまった一路の前に、おまえの父ちゃんは人殺しで、自分が実の父だと言うオバケの沢井(北村一輝)が現れ、真実を求めて一路は冒険に出る」というものになるらしい。そんなエピソード、原作にあったっけ? とどうにも思い出せないのだが、これがオリジナル・ストーリーだとしたら、本当に原作の設定だけを借りた、「別物」として、割り切って見るしかない、と覚悟するしかなさそうである。
 製作サイドは「和製ハリー・ポッターを目指す」と息巻いてるみたいだけど、それ、作品が全然違うでしょ(苦笑)。


 何だか最近、映画の興行収入を気にすることが多くなっているけれども、これってやっぱり昨年あたりから「オタク仕様」な映画が増えてきたせいかな。それが必ずしもムーブメントとして定着している印象がないのは、残念なんだけれども。
 先週の一位はこれはもう、予想通りの『NANA』の快進撃なのだけれども、初日・2日目の成績だけで動員約39万6000人、興収5億3600万円と、『世界の中心で、愛をさけぶ』並の好スタートだそうな。『セカチュー』がカップル中心に幅広い層に受けていたのに比べて、『NANA』は殆どの客が女子中高生だから、狭いターゲットをよくぞ動員したものだと感心する。しかも彼女たちの殆どがオタクじゃないのだ! 私のような中年男は、子供映画を見に行くよりも足を運びにくい。劇場に一歩足を踏み入れた途端に女子中高生の冷たい視線に晒されるかと思うと……。私がM男くんだったらそれもまた甘美な味わいなのかもしれないが、やっぱそっちの特性は私にはないようだ(笑)。これなら三ヶ月から半年くらいは上映しそうだから、人けのないレイトショーで見に行くことにしよう。
さて、不安と期待の『仮面ライダーヒビキと7人の戦鬼』であるが、『室井慎次』に継いで3位の登場は素晴らしすぎる成績である。動員が23万8000人、興収2億7700万円で、昨年の『剣(ブレイド)』よりも二割増しの好スタート。これで二週目以降も客足が落ちなければ、最終的に12億円くらいのヒットにはなりそうだ。『ハガレン』と違って、オタクや腐女子以外にも親子連れの客を見込めるから、達成不可能な数字ではないと思う。それにそういうフツーの家族は、ネットで『響鬼』が叩かれてる状況なんか知らないだろうしな(笑)。
 それにしても『響鬼劇場版』公式サイトのコメント欄はまた大変なことになっている。「30話の乱」と言ってもいいんじゃないかってくらいに荒れまくってるが、「30話にあまりに腹が立ったから、映画は見ません」とか「もう子供に『響鬼』は見せません」とか「DVDは29話までしか買いません」とか、そんなことを表明してどうするの?という常軌を逸したコメントが続出している。こんな連中の肩を持とうってんだから(持つつもりはないんだろうが、結果的に賛同を示しているのと同じことになっちゃってるよう)、グータロウ君もカトウ君も全くわからんちんなことだが、まあ、「惚れたが因果」だから仕方ない。でも、オタクにはあまり熱くなったりムキになったりしないで、一歩引いてモノを見る視点も必要だよ、ホント。


 ここんところ、また少しずつ「エンピツ」のアクセスランキングが上がってきていて、50位前後に位置している。毎日、300人近くの人が覗きにいらっしゃっている勘定だ。もっとも、最近は「積木くずし」関連の検索で来られる人が何十人もいらっしゃるから、実質しょっちゅう来られている方は、100人くらいのものであろう。「友達100人できちゃった」ってとこだろうか(笑)。でもそろそろパソコンの向こうのお客さんの顔が「見えなく」なってきてはいるのだ。
 五年前の日記を読み返したりしていると、「今日は20人もお客さんがいらっしゃった」とか書いている。私にイメージできるのはこの程度の人数で、まあそれくらいなら、こんなシロウトが好き勝手書いてるだけのサイトを覗いてやろうなんて奇特な人もあろうなと納得できなくもないのである。
 時々、更新が遅れたときに、見知らぬ方から激励のメールが届いたりして、勇気付けられたりすることがある。私自身は書いてる内容に対してどんな批判や反論をされても構わないと思っているのだが、思いもよらず、賛同を示されるとかえって恐縮してしまう。
 いったい私の書く文章の内容にどれだけ説得力があるのだろうか? 自分ではできるだけ客観的かつ冷静に努めているつもりではあるのだが、世間サマを見渡してみれば、「私は冷静です」と言ってる人間が本当に冷静だったタメシがない。鏡に映さない限り、自分自身の姿が一番見えない、というのはどんな知恵者と言われる人であってもその通りである。いや、「知恵者」なんてものは存在しない。当たり前の話であるが、人間はラプラスの悪魔にはなれないのだ。全ての人間は等しく愚か者である。この事実を認識できずに「全てを見通し真実を語れる」などと公言すれば、それはただの傲慢でしかない。
 しかし、たとえいかに自分の知識が浅薄で、判断力も洞察力もなかろうと、ない知恵を絞り、その時々でモノを考え行動していくのも自分しかありえない。人は「愚かでしかありえないから」、自分が言ったこと、行ったことで誰かを傷つけ、怒らせ、泣かせてしまうことから逃げられはしないのだ。だからまあ、「無責任賛歌」という日記タイトルの由来ということになるのであるが、これは「責任放棄して好き勝手やる」という意味ではなく、人間が等しく愚かであるならば、そもそも「責任を取る」なんてことはできない、という現実を冷徹に見つめよう、ということである。
 ほんの些細な言葉が、人を傷つけ、死に至らしめることすら世の中にはある。しかし、その責任を誰に帰属させられるだろうか。ある総理の「黙殺する」の一言が何十万の人間を殺すきっかけになったことがあった。しかし、それを「総理の責任」と追及することができるか。そのときの総理が誰であっても、その時点ではそう言わざるを得なかったのではないか。責任の取れない一言である。しかしもしその総理が「責任」を感じていたとしたら、世間の轟々たる非難をただ一身に受け止めひたすら耐えるしかなかったであろう。
 人間は等しく、自らの言動については「無責任」を「覚悟」するしかないのである。しかし世間は、責任の所在を「自分以外の誰かかどこか」に求めることに汲々としている。自分には責任感があると堂々と標榜している。そのほうが楽だからだ。自らの愚かさに目をつぶっていられるからだ。他人を見下して悦に入っていられるからだ。そんなウソツキの卑劣漢は、そこにも、あそこにもいる。
 だから、私の「自らの愚かさを自覚し、無責任を覚悟する」などという意見は少数意見でしかないと思う。だから、この日記の賛同者が百人も二百人もいる、ということがどうにも実感できない。自分をもっと見つめたい、なんて考えている人間に出会うことなど、現実には極めて稀だからだ。ネットの向こうにはそれだけの覚悟をしている人たちがそんなにたくさんいるということなのだろうか? 
 もちろん常連の方がみな「覚悟している人たち」であると断定することはできない。私は日ごろから日記の中で、「覚悟のないやつ」は徹底的に揶揄し罵倒しこき下ろしている。生半可な気持ちで読んでいたら、そいつらは、「これはオレのことを馬鹿にしているのか」と確実に不快になることだろう。私はそんなやつらを燻し出すためにあえてフレーミングを行っている。だからいったんは「楽しく読ませていただいています」というメールをくれた人でも、次第にキツい口調のメールをくれるようになり、疎遠になってしまうことはよくある。
 だからまあ、お客さんはどんどん減って行って仕方がないと、そのことも「覚悟」しているのに、現実にはこの五年間で、少しずつ、少しずつ、増えて行っている。いったいどういう気持ちで私の文章を読んでいるのだろう? 
 私は特にオタクや腐女子を罵倒している。もちろん、彼ら彼女らが「自分を見ようとしない」人種の最たるものだからだ。そして私が彼らを非難できるのも、紛れもなく私自身の中に、私が非難する「オタクのダークサイド」が確実に存在しているからである。
 「批判」が単純に「他人を馬鹿にし、見下す」行為だと勘違いしている人間は多い。しかし、ある言動が「愚か」であるかどうかを判断するためには、「そういう愚かさ」が自分の中にも存在していないとできることではないのだ。人が誰かを非難するのは、すべからくそこに「自分自身」を見ているのである。まあ、親が子の失敗を叱る時に、「同じ失敗を自分も過去にやらかしている」のと同じ理屈だ。
 ハッキリ言っちゃえば、私は自分自身も含めて、全人類が大馬鹿野郎のコンコンチキであると「平等かつ公平に」決め付けているので、私の罵倒から逃れられる人間はいないのである。だからまあ、私の文章を読んで、少しも不快にもならず怒りもせず、という人が常連さんの中にいらっしゃるとすれば、それはもう天使のような心の広いお方か、超鈍感か、はたまた罵倒されて喜ぶMさんのいずれかではないかとしか私には思えないのだが、あなたは、どのタイプでいらっしゃいますか?


 マンガ、森薫『エマ』6巻(エンターブレイン)。
 第一巻のころは、ほのぼのメイドさんものかと思っていたのが、何かもうものすごい大河恋愛大ロマンになりそうな気配の第六巻だけれども、アニメはたった12話ではとてもそこまでは行かなかったようだ(DVDで買ってるから、まだ最終回までは見てないのである)。しかし、原作がまたある程度進んだら、再アニメ化してほしいね。もう話はどんどん凄いことになってるから。
 エレノアとの婚約を解消し、エマとの結婚を決意するウィリアム。しかし、エレノアの父・キャンベル子爵は、ウィリアムの父・リチャードからの手紙を読んで、「陰謀」を巡らし始める。エマは、ウィリアムの名前を騙った手紙におびき寄せられ、拉致されてアメリカ行きの船に乗せられようとする……。
 何かもうここまで来ると、少女マンガの三大ロマンは『ベルサイユのバラ』『キャンディ・キャンディ』、そして『エマ』だと言いたくなるくらいの怒涛の展開。
 前巻から登場のキャンベル子爵、貴族主義の塊のような人物で、本当はウイリアムのジョーンズ家のことも「成り上がり者」と嫌悪しているくせに、なぜか娘との結婚話は強硬に実現させようとしている。そのハラがまだいっこうに見えないので、いささか不気味である。こういう紳士然とした悪役、『三銃士』のリシュリュー卿かドラキュラ伯爵かってもので、私の好みにドンピシャなのだ。もう、『エマ』が実写化されるんだったら、ぜひクリストファー・リーに演じてもらいたいってくらいなもので(キャンベル子爵はそこまでトシヨリじゃないけど)。こいつは自分が貴族だから、何をやっても許されると思っている。裏でエマを誘拐させといて、サロンで「近頃何か変わったことでも?」と問われて、「ないですね。退屈なものです」と無表情で言い切るこの冷たさ! こいつ、本当に「退屈」してるんだよ! エマのことなんて、歯牙にもかけてやしないのだ。ああ、やなやつやなやつやなやつ。
 権謀術数はお手のモノってな子爵にかかっては、ウィリアム坊ちゃんなどはとても立ち打ちできそうにないのだが、ラストのリチャード父ちゃんとの怒涛のような(この形容詞がどうしても多くなっちゃうな)応酬に、ちょっと「イケるかな?」と思い直した。
 ヒーローは常に逆境に立ち向かう。そして、その逆境に打ち勝つことができるのなら、ウィリアムとエマは絶対に幸せにならなければならない。ヒーローとヒロインもそうなろうとしているし、読者もそれを望んでいるし、当然作者もハッピーエンドを目指して、そこに至るまではこれでもかこれでもかという困苦と愛憎の物語を展開させてくれることだろう。
 その三者がみな幸せになるのが「ロマン」というものの正体なのだ。二人は決してロミオとジュリエットにはならないのである。

2004年09月07日(火) 入院顛末3・徒労
2003年09月07日(日) 「時代劇の復興」というのはこういうのを指すのだ/映画『座頭市』ほか
2001年09月07日(金) 夢の終わり/映画『王は踊る』ほか
2000年09月07日(木) 涙のリクエスト/『冷たい密室と博士たち』(森博嗣)ほか


2005年09月06日(火) ぴゅーぴゅーざーざー/『サマー/タイム/トラベラー1・2』(新城カズマ)

 台風直撃。電車が動いてないので出勤はムリ。
 朝、最寄り駅まで一応、行きはしたのだが、そこまででも突風と雨に煽られて、歩くのもちょっと怖い。どこぞの看板がいつ飛んできてぶち当たってもおかしくない状況である。
 職場に電話連絡をして今日は休む。週の合間に休めるのは嬉しいのだが、仕事が滞るので明日がちと大変なことになりそうだ。
 終日、寝るか本読むかCSで映画見るかして過ごす。台本はやっぱり遅々として進まない。しげの「いいよね巨匠は」の声がキツい(涙)。

 夜、よしひと嬢のお宅に電話。
 今度の森田雄三さんのワークショップが北九州であるので、しげを泊めてもらえないかお願いするためである。さすがに三日間、通いで北九州に行くのはちょっとキツイしねえ(私は仕事があるのでそうせざるを得ないんだが)。
 電話口によしひと嬢のお母さんが出られたので、事情を説明したのだが、快諾していただけたので安心。
 だいたい、こういうのはしげ本人に関わることなんだから、自分でやりゃあいいのだが(電話だけでなく、よしひと嬢へのメールまで全部私に代行させているのである)、メイワクな「おねがいごと」なんかして、よしひと嬢やご家族に嫌われやしないかと疑心暗鬼にとりつかれているのである。
 しげは、自分の好きな人に対してはこの「嫌われたくない」モードにスイッチが切り替わってしまうので、かえって疎遠になったり「どうせいつか嫌われてしまうなら!」と迷惑な言動を取ってしまうという悪い癖がある。
 おかげで私なんか、この十年以上、毎日毎日、私がしげのことを嫌ってないかどうか、私を怒らせるような失敗をわざとやったりして「試されて」いるのだが、私の体力が持つのもあとたいして時間はなかろうから、いい加減でそんなアホなまねは止めてほしいのである。
 まあ、止められないから病気なんだろうけど、それで私が早死にして困るのはしげなんだと思うんだけどなあ。


 『仮面ライダー響鬼』の脚本交代について「まあ、アレもアリなんじゃない?」と書いたら、グータロウ君が日記で「いや、ナシだ!」と反論してきた(笑)。正直な話、ちょっと困っちゃったのであるが、「アリだよ」とハッキリ書いちゃった手前、再反論をしなきゃなるまい。
 と言っても、別に30話が傑作だなんて「弁護」したいわけではもちろんなくて、私が言いたいのは「テコ入れなんてよくあることなんだから、過剰反応して自分を見失わないようにね」ということなんである。『響鬼劇場版』公式ホームページのコメント欄を見てご覧よ。劇場版のサイトなのに、30話批判の「荒らし」が大挙して押し寄せてるから。「今までのヒビキを返して!」なんて書き込みのうすら寒さはどうだ。作品を私物化しようとするファンの典型じゃないか(まあ、肯定派も否定派もどっちもイタいんだが)。
 自分の好きな作品が台無しにされた悲しみはそりゃ分からんでもない。
 『ウルトラQ』がトワイライトゾーン路線から怪獣路線に変更されたりな(まあアレは放映前の変更だから視聴者は気が付かなかったんだが)、『どろろ』が『どろろと百鬼丸』になったりな、『マイティジャック』が『戦え!マイティジャック』になったりな、『シルバー仮面』がジャイアントになっちゃったりな、『ルパン三世(旧)』の宮崎駿化とかな、いやもう、『ヤマト』『ガンダム』『ゴジラ』の「続編」というやつもどれだけ我々のアタマを悩ませてくれちゃったことか。
 オレたちゃそんなトホホな目にイヤんなるほど遭遇してきてるんだけれど、同時にそれはそうなっちゃうだけの仕方のない状況(必ずしもオトナの事情ばかりではない)もあったんだってことを学習もしてきたんであって。
 けれど、荒らし連中は「自分が正しい」と思い込んだ「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」の群れだから、恨み骨髄になっちゃってて、ヒステリックに泣き騒ぎ脅すことしかできなくなってしまってる。いくら路線変更が悲しくっても、そんなアホどもと歩調を合わせちゃいかんよ。2ちゃんねるは覗いてないけど、状況は多分、もっとひどいだろう。山本弘さんとこの掲示板はどうなってるかな(笑)。
 みんな、何を勘違いしてるかって、そもそも29話までだって『響鬼』には「絶対崩してほしくないドラマ全体の匂いやバランス」なんてものは無いじゃん、ってことなんで。「いきなりミュージカル」で始まって、「魔化魍」に「ディスクアニマル」に「音撃戦士」に「猛士」に「鬼は名字と名前のイニシャルが同じ(ってことは桐矢君も鬼候補か)」に「葛飾柴又の甘味屋の下條のおやっさん」に「擬似寅さんと満の関係(と思ってたらいつの間にかヤオイ)」にと、こんなデタラメな話のどこに「世界観」なんてもんがあるかい。いくら平成版『仮面ライダー』が旧版からのイメージの脱却を狙ってるからと言っても、やりすぎだろうって反発はあって当然なんだが、それがさほど言われなかったのは、これはもう「ライダーファン」から「あきらめられてる」面もあったからなんだよ。
 だから『響鬼』は同じ石森原作でも『ゴレンジャーごっこ』か『ちゃんちきガッパ』だと思って見るしかないなあ、だから「なんでもあり」なんだよなあと思ってたんで、それが百も承知なら、「崩してほしくない世界観」なんてものを自分勝手に脳内補完しちゃいけないよ。昨日の日記にも書いたが、安易に「こんなの(オレの)ヒビキじゃない」なんて言うのは現場の役者さんたちに対して失礼だ。せいぜい、「桐矢のキャラ、何もあそこまでマンガにしなくてもよかったんじゃないか」くらいに留めておいたほうがいい。でないと「荒らしさん」と同じ穴の狢だ。
 ああ、それから送ればせながら、誕生日おめでとう。また一つ先を越されてしまった。ちなみに今日は永井豪の60歳の誕生日だ(笑)。


 新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー1』・『同2』(ハヤカワ文庫)。
 作者の新城カズマさん、生年不詳の架空言語設計家さんだそうである。でも、小説の中身を読んでくと、SFに対する言及の様子から見て、まあ三十代以上ってことはまず間違いないなってところである。四十代越えてるかもね。
 二巻に渡る長めの長編だけれども、粗筋だけを紹介すれば、ある日、時間跳躍の能力を手に入れた何の変哲もない少女が、「ここではないどこかへ」行きたくて、友達も家族も、街も置いて、未来に向かって駆け去っていく、それだけの話である。それがなんでこんなに長い話になっちゃってるかって言うと、あいまに登場人物たちの「SF談義」とかが延々と書き続けられてるからなんだね。普通の小説ファンにはまず付いてこれないだろうことは間違いない。もちろんこれは作者の確信犯的なシワザであって、つまりこれは、「SFファンのSFファンによるSFファンのためのSF」であることを高らかに謳ってるんである。
 そのエッセンスを説明することはなかなか難しいんだけれども、例えば物語の語り手の卓人が、友人のコージンと初めて出会うときの会話を見ていただきたい。

 ある本を読んでる卓人に、コージンが声をかける。
 〉「『伝奇集』かよ。面白れえのか。それ」
 〉「まあね。『円環の廃墟』とか」
 〉「ふん。わかってねえのな。『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』だぜ。一番は」
 読んだ瞬間、背中がゾクッとした人は私のお仲間である(笑)。でもって、もし私が彼らと同じ高校生で、彼らの会話に参入できるのなら、「ルイへ・ボルヘスはなぜ英語で小説を書くことをせずに、母国語のスペイン語に回帰したのか」とか、どこぞの本から受け売りで仕入れた知識で論争を吹っかけたことだろう(若いときはこういう青臭いことをしてもいいのである)。

 「SFとは何か」って論争は、我々の世代が学生のころにはそれこそ毎日のようにやっていた。世界の全ての問題に優先することだと思っていたと言っても過言ではない。けれど、SFが死滅してしまった現在では大学のサークルですらあまり語られていないのではないかという気がする。だからそれだけでもこの小説は懐かしい。作者が同世代じゃないかと考えるのはそのあたりにも理由がある。
 けれども、この小説がさらに「懐かしい」のは、「SFとは何か」だけではなく、「SFがなぜ好きか」って我々の思いを、この小説が持っている雰囲気全てで表現しているからである。しかし、その懐かしさにはそれだけでは終わらない、何とも言いようのない切なさも伴っている。

 主人公の住む「辺里(ほとり)」という町。何とも皮肉なネーミングだが、東京郊外の、何の特徴もない、それこそ「ジャスコ」があることで繁盛しているように住民が思っているような逼塞した町である。でも、日本中にこんな町はありふれている。平凡で無個性な人間が日々時間を浪費するためだけにある町なら、「SFが好き」で現実のつまらなさをイヤというほど感じている、普通の人よりも「ちょっとだけ賢い」若者なら、そこから出たい、「ここではないどこかへ行きたい」と思うのは自然なことだろう。しかし、そういう若者に現実に機会が与えられることなんてない。
 本編での“時を駆ける少女”悠宇(「悠久の宇宙」とはまた素晴らしいネーミングだ)は、何の特徴もない、100人人間がいれば、その中に埋没してしまって全く目立たないような少女である。ところが、そんな少女にタイム・リープ能力が授けられたのだ。そして、彼女は誰も見ることができない未来に向かって旅立って行く。彼女の能力は、「未来に向かってしか発動しない」。そして、卓人たちは彼女に見事に「置いていかれる」のだ。
 即ちこの物語は、「時を駆ける少女」の物語である反面、「置いていかれた我々」の物語でもあるのだ。卓人たちは、確かに没個性な人間たちから見ればちょっとは「賢い」のだろう。ただ時代に流されることを潔しとせず、現代を凝視し未来を展望した。「SFが好き」ということは、即ち自分たちがそういう「目」を盛っているということを意味していた。その目があれば、いつかこの町を出て、自分たちの「本当の未来」を築けると信じていられた。「ここではないどこかへ」行けると思いこんでいた。SFは「未来」の象徴であり、自分たちは「未来の子」であるという自負があった。
 しかし、全ては我々の幻想である。
 SFは今や死に絶え、時代を語るタームとして機能しなくなってしまった。平凡と無個性は、結局は我々にまとわりつき、若さと、夢と、ほんの少しの賢さすら奪っていった。我々には現実を変えることも、未来を築くこともできない、そんな力などもともとないのだということに気づかされてしまったのである。「オタクエリート論」など、何の意味があろう。これは「オタクが置いていかれた」物語なのだ。悠宇が、時間跳躍能力がなければ「平凡な少女」として設定されている皮肉を、我々は噛み締めて読まねばならない。
 卓人は、我々かつての「SFファン」の象徴である。そして、今も我々は「悠宇」から「置いて行かれ続けている」。それが切ない。それが寂しい。ラストの、怒涛のような「未来予測」は、それが当たろうと外れようと、未来が現在の地続きでしかないことを表している。本当に未来に夢を見るためには、悠宇のように「未来に飛び続けるしかない」のだ。それができない我々「凡人」は、ただ「時に置いて行かれる」ことしかできないのである。


 マンガ、大場つぐみ原作・小畑健漫画『DEATH NOTE(デスノート)』8巻(集英社)。
 第二部に入って、ちょっと人気が落ちちゃってるんじゃないかと心配ではあるが、まとめて読んでみるとまだまだ面白い。けれども、対立するライト、ニア、メロの三つ巴の戦いが、これまでのライト対Lの物語よりもインパクトが弱くなっているのは事実である。
 まず第一に、この三者のキャラクターとしての書き分けが明確でなくなっている。「知恵比べ」の難しさは、どちらも同程度の「知恵」を有していると、思考の過程がどうしても似通ってしまうために、キャラクターの内面の差異を付けづらくなってしまう点にある。だからまあ、頑張ってニアには玩具に拘る幼児性を、メロには残虐さを付与しているわけであるが、かえって「取って付けた」感を生み出してしまつている。
 さらに問題となるのは、肝心の主人公であるライトに感情移入がしづらくなっていることだ。デスノートによって犯罪者を罰する。そこには法治国家としては許されないが、庶民感情としては納得できる「正義」があった。しかし今のライトは、理想社会を築くと言いながら、実際には自分に逆らうものを粛清しようとするだけの、「独裁者スイッチを握ったのび太」状態になってしまっている。純粋な悪ならばそれはそれで魅力は生じるのだが、ただの「勘違い野郎」に成り下がっているライトには、以前の魅力が殆ど感じられない。
 このままの流れで行けば、最終的に勝利を得るのはニアになりそうな気配であるが、ここはもうちょっとライトに踏ん張ってほしいところである。それとメロをただの「噛ませ犬」に終わらせないようにしてほしいと思う。この三者の中で一番人気がないのは多分メロなんじゃないかと思うが、今んとこキャラとして一番立ってるのはこいつなんだからね(笑)。

2004年09月06日(月) 入院顛末2・ブラッククイーン?
2003年09月06日(土) 学校が守っているものは何か/『死神探偵と幽霊学園』第1巻(斎藤岬)
2001年09月06日(木) 裸という名の虚構/『アイドルが脱いだ理由(わけ)』(宝泉薫)ほか
2000年09月06日(水) 妖怪っぽい〜妖怪っぽい〜♪/『ブロックルハースト・グロープの謎の屋敷』(シルヴィア・ウォー)


2005年09月05日(月) 切れる信者/『コメットさん』第一話「星から来たお手伝い」

 台風14号が接近していて、昼あたりからずっと雨。
 今年は台風が殆ど九州を避けてるなあと思っていたのだが、来るときゃ来るでまた特大のが来やがった。中心はまだ奄美大島のあたりだっていうのに、暴風圏がバカでかくて、何と東京に集中豪雨まで降らせているのである。
 油断して、傘を持って行かなかったので、帰りはかなり降られた。しげに「タオル用意してよ」と頼んで迎えに来てもらう。
 「レッドキャベツ」で水を汲んで、「マクドナルド」で秋限定発売の「月見バーガー」を食べる。何度か日記にも書いたが、日本中でしげほど月見バーガーを愛している女はいないのではないかと思う。ともかく発売されるたびにテレビCMを見て、「月見バーガー食べに行くよ!」とうるさいのだが、いったん食べたあとでCMが流れると、今度は「もう食べたよ!」と突っ込むのである。なぜそこまで執着するのかよく理解できないのであるが、これも「女のウラの顔」というやつであろうか。思いっきり表に出てる気がするが。
 そのあと帰宅したあとも食欲魔人なしげは「オムライス作って作って作って」とうるさい。ケチャップが切れていたので、ソフトスパゲティに付いてた粉末トマトルーの余りを使って、まあ、チキンライスと言うか、「鶏肉混ぜご飯」を作る。卵の薄皮でライスをくるむなんて高等技術は私にはないので、厚皮の卵をご飯の上に乗せるだけだ。それでもしげは気に入ったようで、二人前くらい盛ってやったチキンライスを一粒残さず平らげる。今更ながらに思うことは、しげの人生の八割は、食うことへの情熱に支えられているのである。脳の隙間にまで焼肉とかが詰まってるんじゃねえか。


 テレビ&劇場版『響鬼』のショックは各方面に多大な影響を及ぼしているようで、あっちこっちのサイトで、ヒステリックな書き込みが続出している。
 いくつか、その痛さぶりを引用して笑い飛ばしてやろうかとも思うのだが、万が一そいつらにここが見つかるとまた面倒な事態になってしまいかねない。たとえ「引用」が公的に認められている権利であっても、そういうキレてる連中は、まず間違いなく自分がからかわれていると分かると、「よくも人のことを馬鹿にしてくれたわね、きいいいい」と髪振り乱して粘着してくるのである。
 だから、ごくかいつまんでそいつらがいかに馬鹿かということだけ指摘しておこうと思うが、馬鹿が何に文句を付けているかというと、一に時代考証、二にご都合主義なんである。
 時代考証については、そもそも『響鬼』にマジメな時代考証を求めること事態、ナンセンスであるということを昨日の日記にも書いた。あるサイトでは、「タケシが組織されたのが戦国時代なら、どうやって古代の土蜘蛛の資料があるんだ」なんてツッコミを入れていたが、単に古文書を集めただけだろうに。「井上敏樹憎し」菌が脳内に蔓延していて神経がイカレているから、もう何でもデタラメにしか見えなくなっているのである。
 物語のご都合主義を非難するのも、時と場合によっては的外れであるということを考えなければならない。ご都合主義がなければ成立しないドラマにご都合主義だと文句を付けるのはロミオに向かって「どうしてあなたはロミオなの?」と問いかけるようなものじゃないか。確かに劇場版の脚本は陳腐で安っぽいが、もともと信者がこれまで『響鬼』を過剰に持ち上げすぎたことが、反作用的に「よくもないが貶すほどのこともない」脚本を「最低」なもののように錯覚させているのである。テレビシリーズだって「ご都合主義」の塊で、基本的にはB級作品だ。B級作品はB級作品として楽しむのが妥当なのに、それをA級であるかのように思いこむから目が曇る。
 「危険が迫ったときに限ってヒーローが助けに来る」というヒーローものの定番だって、腹を立てる人は「都合がよすぎる」と言って怒るものだ。まるで物語の体をなしていない映画『デビルマン』に比べれば『響鬼』劇場版は立派なものである。……(まだ『デビルマン』ショックは尾を引いているのである)。

 前回のテレビ版第30話についても、もう一言付け加えておこうと思うが、脚本の落差の激しさに過剰反応するのは、結果として役者さんたちの演技や監督の演出などを貶めることになるってことに半可通なオタクや腐女子はいい加減で気づいた方がいいと思う。
 こんな芝居の基本を今更語るのはこっ恥ずかしいのだが、脚本はあくまで「土台」なのであって、それを「映画」に昇華させているのは役者の演技であり監督の演出であり、その他もろもろのスタッフの努力、音楽に編集である。私は、あれだけ雑な脚本が、結果としてちゃんと「響鬼」になっていたことに驚いたのだ。
 たとえば、これまで殆ど行われなかった「楽屋落ち」、あの頭を抱えたくなった「昨日から映画が」のセリフであるが、あれがちゃんと「ヒビキのセリフとして聞こえている」ことに気付いたファンがどれだけいるのだろう。書かれたセリフはふざけているが、発声されたセリフはふざけていないのだ。あれが「演技力」というものである。
 ヒビキはヒビキだったし、明日夢君は明日夢君だった。土台がぐらついていたにもかかわらず、『響鬼』が『響鬼』であって、決して「モドキではなかった」ことは賞賛されていいくらいである。つか、「ヒビキファン」を名乗るんなら、もっと役者さん、監督さんたちを信頼しろってば。これはいくらなんでもおかしい、と思ったら、現場で脚本変えるくらいのことは、あの人たちならするぜ。つか、断言するが、まず確実に30話は役者さんたちによってセリフが「『響鬼』らしく」変えられている。初登場の桐矢は井上敏樹っぽいのだが、ほかのキャラはそれまで自分たちが培ってきたキャラに合わせて、セリフを仕立て直していると思しい。細川さんを始め、『響鬼』の役者さんたち、みんなそういう人たちだってことに、これまで付き合ってきて気付かないかなあ? その努力があったからこそ、30話は、まだ充分「響鬼」の世界観の範疇にある話になってるんである(勘違いするやつがいると困るから念のため付け加えておくが、私ゃ別に脚本がダメでも構わないなんて言いたいわけじゃないからね)。
 だからさあ、オタクがよう、思い込みばかりが先行して、個々の作品に適した批評ができなくなるとさあ、せっかく市民権を得かけたってえのに、また「ただのバカないしは変態」というレッテルが貼られることになるんで、迷惑なんだよ。

 昨日、書き忘れてたけど、秋山奈々の父親役で、小倉一郎がカメオ出演していたんだけれど、これが字幕にもパンフレットにも全く名前が出てこない。映画でこういう「サプライズ出演」ってやつが行われるのって、決して珍しくはないんだが、字幕に名前も乗せないってのは、理由がよく分からないのである。急遽出演が決まって、タイトルロールに間に合わなかったとか、そういうことなのかな?


 北九州芸術劇場から、今月13日から四日間行われる、演出家・森田雄三さんのワークショップ「イッセー尾形のつくり方」の案内が届く。これで「正式参加」が決まったわけだが、ここに至るまでには、ちょっとした紆余曲折があった。
 三ヶ月ほど前だったろうか、私としげは、参加者応募が始まってすぐにメールを送って、いったんは受け付けてもらっていた。ところが、先月になって、「参加希望者多数のため、選考を行います」という封書が届いたのだ。予定もしっかり空けておいたのに、なんちゅうこっちゃとは思ったが、人数に制限があるのなら仕方がない、選考基準はなんじゃらほい、と思って手紙を読んでみると、「あなたがワークショップの参加者に質問してみたいことを書いてください」とのこと。同じ参加者に対して、という形式ではあるが、つまりは、参加者が「どういう気持ちでこのワークショップに参加したいのか」、自分自身に問いかけてみよう、ということなのだろう。
 そういう次第で、私は、「日ごろ、芝居がかった仕草をしちゃったという経験はないか」とか「身近な人の仕草を真似できるか」とか「芝居をすることが自分の日常のどういう役に立つと思うか」とか「こんなやつと芝居をしたい、こんなやつとは芝居をしたくないというのはどんな相手か?」「でもイヤなやつと芝居をしなければならないとしたら、どうするか?」とか、オーソドックスな質問をいくつか書いて送った。その返事が今日ようやく来たのである。
 どうやら参加してよい、とのことらしいのでホッとしたのだが、森田さんの手紙を読んで、いささか眉を顰めることになった。森田さん、かなり「困って」いるようなのである。
 というのが、集まってきたアンケートが、「ドラえもんの道具は何が欲しいか?」「世界を相手に何を叫ぶか?」「死ぬ前に食べたいものは?」「ブラックホールの先には何があると思いますか?」など、演劇とは何の関係もないものばかりだったというのである。森田さんには「なぜこの質問が、このワークショップで必要なのか」不可解で仕方がなかったと仰っているが、そりゃ私だってそう思う。本人たちは奇を衒って目立とうとしているのかもしれないが、下手の考え休むに似たりで、逆にみんな没個性な質問ばかりになってしまったということだ。世の中、十把一絡げのオタクのくせに「自分は個性的だ」と思ってるやつとかも多いし、こういう手合いと一緒にワークショップをするのかと思うと、ちょっと暗い気分になる。
 最近の若い連中の中には、こちらがある質問を投げかけても、「なぜその質問が発せられたのか」、状況を把握できないアホンダラがやたら増えてきているが、いやしくも「自己表現」を目指す演劇関係者にこういうコミュニケーション不全なやつらがいっぱいいるというのはどうしたことなのだろう。いや、コミュニケーション不全だから演劇をしたがるのだろうか。
 森田さんが困ったのは、「そういう人たち」を落としていけば、今度は参加者がいなくなってしまうということだったのだろう。自分とこのスタッフにも四国四県が言えなかったり、夏目漱石がどういう人か知らなかったりする「バカを気取った」「アンチ優等生を誇る」人たちがいて、「そんな彼らがイッセー尾形の芝居を支えている」と納得した上で、「あれこれ考えるより、顔を合わすのが一番なんでしょう」「失敗したって、笑われるだけなんだから、いい思い出になるじゃありませんか」「お会いできるのを楽しみにしています」と手紙を結んでいる。
 この日記読んでる人の中にも「バカを気取った人」はいるだろうから、あえて解説するけどね、これ、そういう人たちに対して「あんたがたがワークショップに参加しても失敗して恥かくだけだよ」「目立とうと思ってこんな質問送りつけてくるくらいだからプライドだけは高いみたいだけれど、恥かいてもいいの?」と、暗に「あんたらには来てほしくない」ってことを示唆しているのである。
 かましてくれるなあ、森田さん、と思ったが、この「皮肉」がその「バカを気取った人」「アンチ優等生を誇る人」たちに果たして通じるものかどうか。いや、通じないと思いつつ、もう森田さんは腹を括っているのだろう。となれば、こちらも「やだなあ、そんな人たちと一緒になるのは」なんて言ってはいられない。どんな芝居を作ることになるのかわからないけれども、私も腹を括るしかないなと思うのである。

 今度のワークショップには、下村嬢も参加すると言ってたので、首尾はどうかと電話をかけてみたのだが、「うっかり忘れて」アンケートを送らなかったとのこと。思わず「何やってんだよ!」と口を突いて出てしまったが、何とももったいない話である。せめて公演本番は見に来なよ。
 森田さんの手紙のことを紹介すると、「そういう人たちに限って、自分たちはすごくよくやってるって思ってるんですよ」と仰る。確かに、演劇関係者にしろ、オタクにしろ腐女子にしろ、「当たり前」や「普通」ができない人ってのが「悪目立ち」しているのである。
 ほかにもいろいろ雑談をしたのだが、「最近、よく、人から『オタク』だって言われるんですよ。けいしーさん見てるととても自分がオタクだなんて思えないのに」と言うので、「別にオレも自分がオタクだなんて思ったことはないよ」と答えたら、「けいしーさんはオタクですよ! 絶対!」と、目の前にいたら力瘤作ってたんじゃないかってくらいの勢いで力説されてしまう。「オタクって言えるほど濃くないよ、オレは」と言って笑ったが、これ、謙遜じゃなくて実感なんだけどね。ただ、人が私のことをどう呼ぶかは気にしないんで、あえて「オタクじゃない」と力説するつもりはないんである。
 下村嬢、前々回の『響鬼』29話(ヒビキと明日夢君キャンプ編ね)を見たそうで、「あれってヤオイでしょ! どういう視聴者を狙ってるんですか!」と興奮している(笑)。「いや、だからそういう視聴者層でしょう」。ずっと『響鬼』を見続けてるとあれを「感動もの」と思っちゃうけど、ドラマの枠組み自体がそもそもヘンなんだから、やっぱり初めて見る人にはアレはアレだとしか捉えられないわな。アレ好きなお客さんは、劇場版でタンデムしてヒビキにしっかり抱き付いてる明日夢君とか見たらもう萌え萌えーになっちゃうであろう。
 だから「ヤオイ編」までやっちゃった番組が、その先どう転ぼうと「想定の範囲内」なんだよね(笑)。


 CSチャンネルNECOで『コメットさん』第一話「星から来たお手伝い」。
 大場久美子のでも前田亜季のでもない、九重祐三子の『コメットさん』である。いやー、懐かしい! 1967年製作だよ。オレ、これの本放送、幼稚園時代に見てたんだな。
 白黒作品だから再放送だって殆どなかったし、マトモに見たのって何年ぶりだろう。1970年、大阪万博に行ったとき、泊まったホテルで、朝、テレビで再放送してたのを見たのが最後だから、35年ぶりだ。テレビ放送はカラーが当たり前の時代になると、白黒作品はほぼ「封印」されることになる。1970年がいろんな意味で時代の「節目」だというのは、こんなところにも現れている。
 で、久方ぶりの再会なのだが、これがまた、とんでもないドラマ展開であった。オープニングアニメだけはしょっちゅう「なつかし番組特集」なんかで放映されていたから、「コメットさんがイタズラ好きで地球に『追放』されていた」ということは覚えていた(このへん、モデルは『竹取物語』の「かぐや姫」ね)。
 だから当然、コメットさんは魔法を使うことを先生から禁じられているのだが、地球に着いてからもコメットさん、全く反省せずに魔法を使いまくりなのである。行き場がなくて学校に不法侵入したまではまあ事情を知らないから仕方がないとしても、食ってかかってきた先生を魔法でプールに叩きこむとは、イマドキならばともかく、シトヤカな女性の方がまだまだ「女らしい」と思われていた時代背景を考えると、かなり乱暴である。うわあ、こんなに傍若無人なキャラだったかなあと、何分、記憶ははるか彼方のことなので、首を傾げるしかない。
 考えてみれば、日本の魔法使いものに多大な影響を与えた『奥さまは魔女』のサマンサは、セクシーな美女でしかも基本的にはダーリンを立てる「妻の鑑」的なキャラである。それとの差異を計ろうと思えば、コメットさんがボーイッシュでトラブルメーカーに設定されたのも当然のことだったのだろう。おかげで、もう始めて見るような新鮮さで、目が画面に釘付けにされてしまった。
 圧巻だったのは、コメットさんが既知外と間違われて、警察の折の中に叩きこまれたり精神病院の檻の中に閉じ込められてしまうシークエンス。檻の囚人たちの前で主題歌に合わせて踊ったりもするぞ、おお、ジェイルハウスロック!(ロックじゃないけど) 一部屋に何人もの患者が押し込められている状況も今では考えられないが、コメットさんに向かって患者の一人が声を描けるシーンがものすごい。「あなた星から来たんでしょ?」「ええ、分かるんですか?」「私も冥王星から来たのよ」
 今、テレビでこんな脚本を書いたら、脚本家生命絶たれちゃうだろうなあ。脚本家は佐々木守だ(笑)。やたらキケンな脚本ばかり書いてるのかと疑われそうだが、昔はみんなサベツとか気にせずに自由に書いていたのである。もっとももっと自由な時代だったら、サブタイトルは「星から来た女中さん」になっていただろう。
 トリビア的な見所はほかにもいろいろあって、主題歌の作詞が寺山修司で作曲が湯浅譲二であるとか、アニメ担当は長浜忠夫演出・芝山努作画であるとか、若い人には「へええ」どころか「誰それ?」な人たちであるのだが、もうとんでもなく豪華なスタッフなのである。いちいち説明しないから、どんな人たちかは自分で調べなさい。
 ゲストの校長先生役は往年の松竹のバイプレイヤー・斎藤達雄。あまり演技のうまい役者さんじゃないんだけど、いつも気難しい顔をしているわりにはどこか間延びしていて飄々とした味があるんだよね。かと思えば、陰険な悪役を演じることもある。片岡千恵蔵版『獄門島』で了念和尚を演じていたのがこの人。
 あと先生役の人は東光生だが、アテレコしてるのは近石真介さんだと思う。こういう声優さんの記録が全然残ってないのはやっぱり問題だよなあ。

2004年09月05日(日) 入院顛末・その1
2003年09月05日(金) 土の下には虫くらいいます/映画『からっ風野郎』/『地震列島』
2001年09月05日(水) 中華幻想/『仙人の壷』(南伸坊)ほか
2000年09月05日(火) 日向ぼっこしてるヒマに本が読みたい/ムック『アニメスタイル』2号ほか


2005年09月04日(日) ヒビキヒビキヒビキ/『劇場版 仮面ライダーヒビキ(響鬼)と7人の戦鬼』

 『仮面ライダー響鬼』三十之巻「鍛える予感」。
 久方ぶりの井上敏樹脚本ということで、世間のオタクがこぞって不安感を表明していたが、見てみて、これまでのまったりした雰囲気とのあまりの変わりように驚きである。「こんなのヒビキじゃない!」って驚愕・呆然・絶叫・失神・失禁したオタクは全国で推定57,463人はいると思われる。早速カトウ君も過剰反応してた(笑)。あっちこっちのオタクサイトも、今日明日はさぞや喧しいことであろう。
 私は井上敏樹にはそんなに反感は持ってなくて、『うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー』のころからどっちかっって言うと「自分の勝手な思い入れだけで脚本書いてるみたいだけど、ああいうのもアリでいいんじゃない?」というスタンスだったので、今回も違和感はあったが、別に怒るほどのことはない。
 まあねー、確かに新登場の桐矢京介(中村優一)って、金持ちで語学はできるわマンガは上手いわ(でも少女マンガ)、でもマザコンで運痴という弱点もあってって、まるで面堂終太郎みたいなやつで、こんな「いかにも」なキャラを脈絡もなく投入してくりゃ、ヒビキファンの反発・非難・憤慨・怨嗟・呪詛は必至だろう。
 けれども、明日夢くんがヒビキの弟子になるためには、もちっと「後押し」してくれるキャラが必要になる。もちろん、これまでにも何度かそういう機会はあったものの、「たとえ鬼の弟子にならなくても、明日夢君が自分の道を一歩一歩進んで行くことを見守る」という立場をヒビキが取ったことによって、基本的には明日夢君は弟子になる必然性が失われてしまった。作品カラーもそのおかげでより「まったり感」が強まることになっている、というよりは、もうこれで「いつ最終回になっても構わない」状況ができあがってしまったのだ。まだ2クールも残っているというのに。
 即ち『響鬼』はメインライターたちが意図したのかどうかは分からないが、「最終回用の台詞」をヒビキに語らせてしまったために、ドラマを放棄する結果になってしまっているのである。もしこれがメインライターたちの「失敗」であるとすれば、いささか強引な手段に出てでも、これまでの路線を壊す必然性が生じる。その意味では、井上敏樹の参入は決して間違いだとは言いきれない。あいつ以外に「終わっちゃった物語を再開させる」なんて力業&泥被りのできるやつがおるかいな。「『ヤマト』の続編作れ」と言われたようなもんだ。
 明日夢君は前話までで、「自分の道」を確定させてしまっている。これを「崩す」ためには、「君って、つまらないやつだな」と決め付けるキャラが必要になったということである。生半可なキャラでは、ヒビキの薫陶を得た明日夢君の心は揺るがない。リアルに明日夢君の心を「崩す」のなら、「ヒビキよりも大人」なキャラを投入し、説得力のあるセリフを吐かせなければならなくなるが、それはヒビキを「小粒」に見せ、ヒビキと明日夢君の関係そのものを破壊しかねないのでできることではない。桐矢君のような、あくまで「明日夢君のライバル」に位置する人物が必要になるのである。
 まあ、あんなエキセントリックなキャラの導入で明日夢君を動揺させるのは、強引過ぎて決して最善の策とは言えないのだが、仕方のない面はあったのだ。そもそも話を終わらせちゃった大石真司がよくないとも言えるのだし。
 早い話が、「展開がどうにもモタモタしてるから、一気に行っちゃってくれ」という要請が、テレビ局か石森プロかから、東映スタッフに対してあったのではないかということなのだ。だって、そうとでも考えないと、いくらこれまで『ライダー』シリーズでの実績があるとは言え、2クール過ぎていきなりメインライター以外の脚本家をぶち込んでくる謂れがない。要するにテコ入れである。
 穿った見方だが、もしかしたら大石真司は、井上敏樹の参入を知って、あえて29話までで「最終回」を書いてしまったのだろうか。ウラ事情は全く分からないので、このあたりのことは憶測でしかないのだが。
 『響鬼』、結構人気出てると思ってたんだけど、視聴率あんましよくないんかな。『NEWTYPE』が月間視聴率を掲載しなくなったんで、そのへんのところがどうもよく分からんのだ。
 今回のエピソードに対してオタクが反発する気持ちは分からんでもないのだが、突拍子もない展開という意味では、第一話を初めて見たときと、印象はたいして変わらないのである。「音撃戦士」の設定に視聴者が慣れてしまったために、ここしばらくは「まったり」と感じてしまっているのだが、相変わらずこれは「ヘンな」ドラマだ。そのヘンな話にうまく乗せられて油断している心の間隙に、リアルな人生の指針がぽこっと嵌め込まれていく。だから感動が生まれる。そこが面白い。
 オタクはすぐに冷静さを失うから困ったものなのだが、もともと「こんなの『仮面ライダー』じゃない」シリーズの中で、更に「鬼っ子」である『響鬼』について、また「こんなの『響鬼』じゃない」と騒ぐことが、あまり意味のあることのようには思えない。どうやらこれで「明日夢君弟子入り路線」が引かれそうな感じだから、あまり文句付けずに今後の展開を見守るのがいいんとちゃうかね。
 ああ、でもヒビキが「昨日から始まった面白い映画」の宣伝をしてたのはふざけすぎ(笑)。 


 台本を書こうと机に向かうが、遅々として進まず。
 気分転換にテレビを見たりDVDを見たり。『アッコにおまかせ』の総集編など。
 こういうバラエティ番組に出たときのゲストって、どうしてイヤなやつにしか見えないのかね。もしかしたらもとからイヤなやつなのかもしれないけれど。

 G2プロデュースからDVDが届いたので、『おじいちゃんの夏』2002年初演版を見る。青山円形劇場での収録なので、北九州芸術劇場での再演のときのように、幽霊を舞台上に台移動で見せる手段は使えないので、幽霊はみんな歩いてくる(笑)。 
 学歴自慢のギャグで、北九州版では「西南学院大学」と「東大」のどっちが上か、という比較であったが、東京版では「青山学院大学」と「東大」になっている。要するに「青学青学と威張るじゃないよ、東大出には敵いやせぬ」というギャグなのだが、北九州でこのギャグがあまり利かなかったのは無理からぬ話である。「西南」って、決して悪い大学じゃないが、かと言って威張れるほどの大学でもないし、東大と比較して笑うには中途半端なんである。それに福岡ならともかく北九州じゃ地元とは言えないし。「北九大」か「九大」にした方がよかったと思うが、こっちの事情に詳しいスタッフがいなかったんだろう。
 キャストは初演版なので一部が変わってはいるが、筋に違いはない。笑いがイマイチ取れていない点も共通している。そういうところは再演版で改定しといてほしかったなあ。


 何気なく『平成教育予備校』を見てたんだけど、ゲストが『容疑者室井慎次』の柳葉敏郎、佐野史郎、八嶋智人。これがまた、みんなからきし問題が解けない。柳葉敏郎がましなくらいで、意外なことに佐野史郎がてんでダメである。
 けれどこれは、別に佐野史郎が馬鹿だってわけではなくて、やはり「スタジオで解く」緊張感が焦りを誘発しているせいだろう。「一分以内に解け」というのはかなりのプレッシャーである。
 入試問題なんてのは、中学レベルならどんな進学校であっても、落ちついてさえいれば、誰にでも解ける。例えば、今日出た国語の問題で、「上と下の漢字を入れ替えると意味が変わる二文字」、ということで、「生まれ持った能力」「つつましくすること」というヒントがそれぞれに出されるのだが、答えは「素質」と「質素」である。この二つの漢字を知らない大人は多分殆どいないだろうが、いざ解答させようとするとなぜか思いつかなくなってしまうのである。だから実際、入試ってのは知識よりも「度胸」の方が必要になってくるのだ。
 威張るわけではないが、この手のクイズ番組は、私はたいてい満点を取る(だって、所詮は中学入試の問題だからね)。今回も全問正解したのだが、多分、スタジオで解答させたら、一、二問は間違えていただろう。それくらい、「入試」などのプレッシャーは大きいのである。


 夜、キャナルシティのAMCで『魔法戦隊マジレンジャー THE MOVIE インフェルシアの花嫁』&『劇場版 仮面ライダーヒビキ(響鬼)と7人の戦鬼』。
 レイトショーを選んだので、劇場内に親子連れは一、二組しかいない。つか、こんな夜に小学生を連れてくるな馬鹿親。後はカップルが私たちも入れて二、三組、それ以外の数十人は全員、見てすぐに分かるオタクである。男五人くらいで来てるやつもいた。しかもみんなメガネ。彼女作れよお前ら(涙)。

 『マジレンジャー』の方は、もう見所は「魁と山崎さんのおっかけっこ」と、「曽我町子」に尽きる。
 『スターウォーズ』の「草むらゴロゴロ」は許せないのに、『マジレンジャー』なら許せてしまうのは、やはりドラマのレベルが格段にこっちの方が上だからであろう(笑)。ついでに言えば、殺陣も段違いにいいしな。ライトセーバーなんて結局、最後までただの光る棒をフラフラ振り回してるだけだったじゃねえかよ。カット割りもジョージ・ルーカスは戦隊シリーズを見て研究すべきだ。断言するが、アクション・シーンでのスピード感、スローモーションの適切な使い方、戦隊シリーズは黒澤明、サム・ペキンパー並に上手いんだぞ。
 曽我町子は「天空大聖者マジエル」の役であるが、事前に出演するなんて情報、一切知らなかったのに、リンが「マジエル様に報告しなければ」と言った途端に「曽我町子かな?」とカンが働いて当たってしまった。一瞬、「オレってエスパー?」とか思ったが、考えてみれば、「魔法モノ」で「大ボス(今回は善玉だけど)」と来れば、曽我さんを連想しても全然おかしくないのである。アバクラタラリンクラクラマカシン。

 『ヒビキ』は劇場版もやっぱり井上敏樹脚本であるが、これも「戦国もの」ということで、半可通なオタクがあっちこっちのサイトで「時代考証がなっとらん!」と馬鹿な文句を付けまくっていた。
 ……だから『ヒビキ』に時代考証を求めてどうするよ。もともと「鬼」の設定自体が時代考証無視してるだろうが。各地の鬼が野球チームになぞらえてあったからってそれがどうした。「実は世間では知られていなかったが、名古屋には戦国以前から金のシャチホコ伝説があったんだろう」と突っ込んで笑ってやればいいじゃんか。少なくとも怒ることはないんだが、『ヒビキ』ファンも、『ハガレン』ファンと同じく、腐女子化しているから、とうに常軌を逸してしまっているのである。
 ついでに言っておけば、「博多」の場合、この地名は平野が鳥の羽のように広がっているから「羽形」と言ったのが語源であるという説がある。やや牽強付会な点はあるが、博多の土地が古代から南側の山の上から見て「鳥の羽の形」だと認識されていたのは事実だ。博多に「ダイエーホークス(現ソフトバンク)」が来たのは全くの「偶然」であるが、少なくとも「ハバタキ」は伝説の博多の鬼として全く違和感がない。こういう符合もあるんだから、あまり時代考証を四の五の言うもんじゃないんだよ。井上脚本ってだけで、批判のための批判をしてるとしか、一般人には見られないよ。「これだからオタクは」とまた言われたいんかね。

 そういうどうでもいい難癖を気にせずに見れば、これは見所満載の映画である。もちろん、マトモな映画を期待して見るんじゃなくて、「ヘン」なところを楽しむためのものだ。

 最初は物語の舞台はまだ現代。明日夢君が既にヒビキの弟子になっているのにまずビックリ。多分、テレビシリーズの後日談、という設定なのだろう。これまで戦ってきた魔化魍の中でも最大級と言える「オロチ」との戦いで、ヒビキは傷つき、病院に運ばれる。自分の無力を恥じた明日夢君、オロチの攻略法はないものかと古文書を紐解く。そこに「明日夢」の文字を見つけ、自分と同じ名前を持つ少年が戦国時代にもいたことを知り、その符合に明日夢は驚く。ここから物語は、「オロチ退治に関わった七人の戦鬼」の物語にスライドしていくのだ。
 ご覧の通り、物語の設定自体が「偶然の一致」から始まっているのである。時代考証を云々することがいかに下らないかがこの点でも分かる。まあ、ツッコミを入れるとすれば、「オロチのいけにえにされる村の娘を守るために、七人の鬼を集める」という設定が、「『日本誕生』+『七人の侍』かよ」とありふれすぎている点であるが、これも集まってくる鬼たちのユニークさ、おかしさに、まるで気にならなくなる。
 いちいち全員は紹介してられないが、私がツボにハマッたのは、なぜか鬼のくせに戦国大名になってしまっているイブキ。オロチ退治に誘われた途端に「殿様飽きた」とまた普通の鬼に戻ってしまういい加減さとか、鬼ってこの時代サベツされてるはずなのにどうして殿様になれたんだよとか、そういう不自然さにも増して、異様に長いチョンマゲに脱帽である。しりあがり寿かい。腰元相手に「鬼さんこちら」をしてくれるのもいいんだよなあ。これぞ時代劇の醍醐味(って、有名なのは殿様よりも大石内蔵助の方だが)。

 これ以上、中身を書くとネタバレ過ぎるから控えるけれども、このあとも「なんでそうなるの?」「そりゃないだろ」ないい加減でご都合主義で中途半端でトホホな展開が怒涛のごとく観客を翻弄するのである。それを「つまらない」と言うなら、テレビの『響鬼』本編だって「下らない」と言わなければ平仄が合うまい。テレビと違って一切の感動要素がない分、テンポは実にいい。井上脚本が基本的に薄っぺらなドラマしか書けないことは認めるが、そもそも『響鬼』に感動が必要なのか?
 要するにこの話、「七人の鬼がよってたかって安倍麻美をボコる話」だと思って楽しめばいいのだ。安倍麻美嫌いは溜飲を下げなさい。

 それでも納得できない『ヒビキ』信者には、当初、時代劇化に反対したというヒビキ役の細川茂樹さんがパンフで述べているこの言葉をお贈りしよう。「時代劇というより、時代を巻き戻したファンタジーというものだったので納得できたんです」。要するに「何でもあり」なのよ、『ヒビキ』の世界は。ディテールに文句付けるやつは野暮。

 まあ、不満と言えば私のゴヒイキである神戸みゆきさんと秋山奈々ちゃんの出番が少ないことであるが、『ハガレン』ファンみたいに「何でマスタング大佐の出番が少ないの!」とヒス起こすような、みっともないマネはしません。出番が少なくても二人は超絶的に可愛いからいいのだ。特に奈々ちゃんのテレビシリーズ以上の健気さ、可憐さは必見。ああ、白無垢が白無垢が(笑)。

2004年09月04日(土) 血の海の涙
2003年09月04日(木) また誤読する人はいるかもしれないが/『福岡口福案内 地元の美食家が自腹で調査』(口福倶楽部代表ヤマトモ)
2001年09月04日(火) 虚構としての自分/『マンガと著作権 〜パロディと引用と同人誌と〜』(米沢嘉博監修)
2000年09月04日(月) また一つ悪いウワサが……?/『マンガ夜話vol.9 陰陽師・ガラスの仮面』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)