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表紙はなんだか不似合いなほど明るいけれど、 一歩ページにふみこむと、そこは月光の世界。
原書はアメリカで1947年に出版された。 ブラウンは1952年に42歳で夭逝した作家・詩人。 亡くなる5年前に書かれたこの絵本は、うさぎの子どもが、 自分の小さな世界のすべてに、おやすみなさいを言う というシンプルなつくり。
部屋の中に掛かっている絵のひとつ、 お月さまを飛びこす牛は、マザー・グースに出てくる。 メアリー・ポピンズでも、この牛が活躍していた。 うさぎの子は、この絵の牛にもおやすみを言う。
はっきりとしたものから、 ほとんど感じるだけしかできないものまで、 この子の小さな世界すべての、いとおしいものに。
この子の部屋には、おばあさんはいるけれど、 お母さんもお父さんも兄弟もいなくて、 そのちょっとさみしそうな色合いが、 私たちの回想をつっつく。
そういえば、うちの家は、ずっと誰もが 「あいさつ」をしない家だった。 私は「おはよう」を元気に言うには低血圧すぎたので、 「おやすみなさい」だけは、先頭を切って言っていた。 今思えば、寝かしつけてくれないまでも、 ちょっとそこに親をひきとめたかったのだろう。 それもあの頃だけの習慣で、 やがて誰も言わなくなったのだが。
ブラウンは『小さな島』でコールデコット賞を受賞。 姉妹本に、『ぼくのせかいをひとまわり』がある。 (マーズ)
『おやすみなさいおつきさま』 著者:マーガレット・ワイズ・ブラウン / 絵:クレメント・ハード / 訳:瀬田貞二 / 出版社:評論社1979
2003年01月30日(木) 『魔女とネコの家さがし』
2002年01月30日(水) 『草原のサラ』
2001年01月30日(火) 『黒い仏』
祖母と母の間で迷子になってしまった祥子は、 大好きな祖母がくれたひまわりの花を、 母のいる家に持って帰ることができず、 ついに捨ててしまう。
今、祖母は亡く、母はいない。 家族の姿も、すっかり変ってしまった。
大人になった祥子と、子ども時代の祥子が交差しながら、 大切な相手との関係づくりにとまどう姿を描く。
この本を手にとったのは、エンディングが気になったから。 「癒されない孤独」と帯に書かれているけれど、 どうなのだろうと。 そして、もし癒されるのなら、どのように。
若い祥子の不器用な日々を一気に読み終えて、 最後に、ほっとする。
あの日、ほんとうに捨てられたのは祥子自身。 川面を流れていった、ひまわり。 アルコールに依存する祥子の奥底には、 まだまだ溶けきれない思いも残っているだろうけれど、 もしかしたら、あの日のひまわりも、 どこかの岸辺で、誰かの手に拾われたのかも しれないと、思う。
拓海が祥子に、そっと手をさしのべたように。 (マーズ)
『すてられたひまわり』 著者:松山るみ / 出版社:新風舎2004
2003年01月29日(水) 『チープスリル』
2002年01月29日(火) 『やわらかい手』
2001年01月29日(月) 『雪女のキス』
しつこくも、ちょっとプーさんの補足。
私にはク・リが、おそらく6,7歳の子どもにしては大人びていて 考え深いし、責任が重そうだし、さびしそうに見えるという ことのつづき。
プーさんやコブタやイーヨーのいる森に行ける 人間は、クリストファー・ロビンことク・リだけだけれど、 演劇にも才能を発揮したミルンは、物語への導入と 幕引きに、物語の外側のエピソードをうまく用いている。
クリストファー・ロビンと父親(著者のミルン)が 現実の世界で話をしている場面。
そして、ドアのところでふりかえり、 「ぼくが、おふろにはいるの、見にくる?」 「いくかもしれないよ」 (/引用)
英語では、 At the door he turned and said, "Coming to see me have my bath?" "I might," I said.
ここを読むと、「行くかも、」って。と私の神経がささやく。 そして次のイラストは、ひとりで、プーさんをバスタブの ふちっこに乗せてお風呂に入るクリストファー。
つまり、このお父さんは、やはりというか、 いつもというか、息子の実生活にはつきあわない人だった ということだろうか。 息子の世界を描いた本のおかげで世界的な名作を残したのだけれど、 途中で息子の将来を考え、執筆をやめたという経緯も読んだ。
この家にお母さんがいるのかいないのか、プーさんの本には まったく出てこないが、現実にはお母さんがいた(ぬいぐるみを 買ってきたのもお母さん)ので、 いつもひとりだったというわけではないだろう。 でも、画家のシェパードは、モデルになったぬいぐるみたちの姿は かなり忠実に描いているし、何度もスケッチに通い、 クリストファーの姿もやはり、本人をモデルにしている。 ということは、シェパードは、一人でいる子どもを、 何度も見かけたのにちがいない。
クリストファーが、プーさんを片手にぶらさげて、 ぱたんぱたんと階段をのぼってゆく姿も、 本の表紙になっているほどだから、覚えている人も多いだろう。 あの有名な絵も、子どものさびしさを象徴している ように思えてならない。あの、傾けた頭の角度も。 子どもたちは往々にして、あのように子ども部屋に あがっていくものだということも、じゅうぶんわかっている けれど、そのように見えてしまうのは、私の問題とも 自動的にかかわってしまうからなのだろう。 観察されるよりも、そばにいてもらいたい。 ぬいぐるみは仲間だけど、親じゃない。 クリストファーが苦しんだ本当の理由は私には わからないけれど、ただ、あの本があったおかげで、 親子の問題をとらえなおすきっかけも生まれた、という ことを、後になって書いているらしい。
ところで。 クリストファーのお母さんは本には出てこないが、 本のなかには、ひとりの強いお母さんが出てくる。 ぬいぐるみのカンガルー、カンガ。 ルーという幼い男の子がいて、その世話ぶりは徹底している。 まったく顔を出さないクリストファーのお母さんとは逆に、 いっときたりとも子どもから目を離さない、 ある意味では同じようなお母さんである。 やがて新入りのはねっかえり、トラーの親がわりにもなる カンガは、ウサギにいわせると、 才女じゃないけど、ルーかわいさに、かんがえもなにもしないで うまいことやっちゃう、そんな母親だ。
とはいえ、ルーがさらわれたとわかったときのカンガの行動には、 その結果責任がすべて神ならぬクリストファーの管轄に されていることは別として、敬意をおぼえる。 ミルンがどうしてカンガをこの物語のなかにおいたのか、 私のなかで、いつか答えが出ることがあるだろうか。
プーさんのキャラクターと世界が古典的名作だということは 重々承知のうえで、このお話を普遍のものにしている 伏流水のようなものが、こうしてかいま見える「さびしさ」では なかったのか、と思わずにいられないのだ。 ディズニーのプーさんには拭い取られている、 あってはならない汚れ。 やはりいつかは、最近再訳されたミルンの自伝 (『今からでは遅すぎる』石井桃子訳)を 読むことになるかもしれない。 (マーズ)
『クマのプーさん』 著者:A・A・ミルン / 絵:E・H・シェパード / 訳:石井桃子 / 出版社:岩波書店2000新版
2003年01月27日(月) 『スチュアートの大ぼうけん』
2001年01月27日(土) 『ピエタ −pieta− (1・2)』
プーさんといえば、クマ。 クマといえば、プー。 私の部屋にも、もう「せんに」やってきた プーという名のクマがいるほど。 (外見はぜんぜん似てないけれど)
今、プーさんの第一作を読み返すと、 クリストファー・ロビンのことが気になって しまって、あれこれと心配してしまう。
たとえば、お父さんはいるけど、 お母さんはいないの? とか、 まだかなり幼いよね、それなのに ぬいぐるみの動物たちにとっては、 ものごとのわかった保護者と思われているのは 重荷じゃない?とか。
実際のクリストファー・ロビン本人は、 大人になって、この本の話をされるのを嫌がっていたという。 ミルンの自伝を読んでいないし、くわしい事情は わからないのだが、 プーさんを読むかぎり、ク・リが 大人になるための愛情をたっぷりもらっていたとは 思えない描写が、はしばしに顔をのぞかせるからだ。
そんなことは抜きにしても、 この本と続編の「プー横丁にたった家」は 世界中の読者に不変的な愛情を感じさせる価値観を与えた 児童文学の名作であることは確かだし、 邦訳もすばらしいと、改めて感じ入る。
抜きにしてもいいのだが、シェパードの絵にも、 クリストファー・ロビンのさびしさは にじみでていて、もしも、「ばっかなクマのやつ!」と 彼をよろこばせるプーさんがあれほど意図せざる詩人でなかったなら、 覆いようがなく、あらわれてくるのではないだろうか。
そんなことを思わずにはいられないのだ。
ウサギにそそのかされたとはいえ、 プーやコブタたちのいくつかの行為は、 平和な動物たちの森にはあるまじき 「ひっどい」ことだったという思いとともに。 (マーズ)
『クマのプーさん』 著者:A・A・ミルン / 絵:E・H・シェパード / 訳:石井桃子 / 出版社:岩波書店2000新版
血生臭いミステリを読む傍ら、絵本や児童書も大好きです。 大人のくせに、子どもの本なんて読んで退屈じゃないの?と、 そういう人もいるけれど、大人になった今だからこそ、 響いてくることもあるのです。
もちろん、絵本や児童書を読んでいて、 ああ、この感動には、子供の頃に出会いたかったと、 そう切に思うこともあります。 でも、その反面、大人なればこそ、味わうことのできる 深い喜びに触れることもできるのです。 面白いものをただ面白いと、 美しいものをただ美しいと、 シンプルに、ただそれだけを受け取ることのできる 子供の素直さやおおらかさは今となれば、 羨ましく思えるけれど、 醜く思えるものの中に美しさを見つけ、 悲しみの中に喜びを見いだしていく、 大人の目で、物語を再発見していくことができるのも、 歳月のなせることでしょう。
細やかな表現の美しさ、言葉そのものが放つ言霊の力、 無限の想像力を持って読む者を包み込む、 作家の構築したした世界、創造力のパワーの前に、 大人となったかつての子供は、 さらに目を開き、何一つ見逃すことがないよう、 その物語の世界を堪能しています。 子供の頃に汲みきれなかった深い深い泉のさらなる 深い場所から、際限なく湧き出てくる美しく清らかな水に やっと手が触れ始めたように感じます。
絵本であろうと、児童書であろうと、 素晴らしい本には、世代を越え、 人を揺さぶる「力」があるのです。 (シィアル)
2003年01月23日(木) ☆冬のロマンス
2002年01月23日(水) 『気持ちよく暮らす100の方法』
2001年01月23日(火) 『閉じられた環』
レクター博士、数年ぶりに性懲りもない標的に(私の)。
先日観た、劇団四季のミュージカル『オペラ座の怪人』。 日本では専用劇場がなく、1988年から全国各地で公演している。 本家のロンドンでは、1705年開業という、なんともゴージャスな古さの、 ハー・マジェスティーズ・シアターで1986年からロングラン公演。
『オペラ座の怪人』は、今ではこの劇場のオーナーとなった、 作曲家アンドリュー・ロイド・ウェバーの金字塔である。 私とシィアルは、2000年の秋にマチネーを観たのだが、 当時私は、チケットに書かれていた「ストール」という 言葉の意味がわからなかった。この劇場は4層になっていて、 1階席をストールと呼んでいたのだ。
ゆらゆら、ぐらぐらと傾(かし)ぎながら天井へ引っ張り上げられる シャンデリアのあやうさ、衣装の微妙な色合い、 うすぐらく秘密めいた劇場の空間。
久しぶりに、処は変れど、かの怪人に再会して、 やはりそうだったのだ、と改めて思い込む。
トマス・ハリスは、『ハンニバル』で、この世界を ハッピーエンドに描きたかったのだと。 彼は、異形で孤高の名優レクター博士に、 オペラ座の怪人が叶えられなかった、見果てぬ夢を叶えさせた。
ハリスが仮に舞台を観ていなくても、ガストン・ルルーの原作小説の ファンであったことは、想像に難くない。 が、原作への思い入れが深ければ、アレンジの好みがどうであっても、 劇場へも足を運ぶと考えるのが普通だろう。 私は信じる。 ハリスはこのミュージカルを、どこかで観ていると。
2作品の共通項は、5ポイント。 かつての覚え書き、『ハンニバル3』にも書いたのだが、 この舞台は、オークションに続く劇中劇から始まる。 劇中劇が始まると、一人の役者が舞台中央で、 巻紙を、ぱっと開いて見せる。 そこには、『ハンニバル』と書かれている。 実在のハンニバル将軍の話だが、まず、このタイトルが1点。
ハリスの『ハンニバル』で、最後近くに出てくる 豪華なオペラ座でのシーンと、 『オペラ座の怪人』の演じられる ハー・マジェスティーズ・シアターのイメージも重なる。 ここで2点。
そして前にも書いたことだが、男性二人の共通点。 二人とも、種類はちがうが、奇跡的な才能の持ち主である。 知的で、凶暴で、影に生きる男たち。 怪人のつけている鬘の後頭部は、レクター博士と同じく、 ふさふさ、つやつやとして「カワウソ」そっくりだ。 ただし、その描写が登場するのは『ハンニバル』だけ。 しかも、この本でのレクター博士は、怪人の仮面を象徴するかのごとく、 整形手術で顔を変えている。 3点入った。
そしてやっぱり、ヒロインの名前も似ている。 クラリスとクリスティーン。若くて純粋で、美しい。 生来の才能にあふれながら、怪人の手ほどきによって開花する クリスティーンと、レクターのご指名で有名になるクラリス。 これで4点。
劇場に棲みつき、自在に行方をくらましながら、 舞台の表と裏を恐怖に陥れるファントムと、 この世界の背後にひそむ悪意の象徴として描かれた、 逃亡犯カニバル・レクター。 ほら、やっぱり、5点満点(少なかった?)。 (マーズ)
『ハンニバル』上・下 著者:トマス・ハリス / 訳:高見 浩 / 出版社:新潮文庫2000
2003年01月22日(水) 『滅びのモノクローム』
2002年01月22日(火) 『いまやろうと思ってたのに…』(その2)
2001年01月22日(月) 『ザ・マミー』(上・下)その2
とても可愛らしい本を貸してもらいました。 まず、はらだたけひでさんの 何ともあたたかで柔らかな色の表紙に惹かれました。
森の中の動物たちのお店やさんのお話です。 小さな子どもたちは、きっと、 目を輝かして、森のお店やさんのお話に引き込まれそうです。
「できたての音」や「今日しか聞けない音」を 聞かせてくれるお店があります。 誰のお店でしょうか? きつつきのお店の「おとや」です。
かわいらしい木の葉のポケットを売っているお店、 「ぽけっとや」さん。 はりねずみがちくちく、ぽけっとをつけてくれます。 みんな新しいポケットに大喜び。 ぽけっとには、何が入っているのでしょうか?
ぎんめっきごみぐもは、金色のあみに銀色の糸で 森のみんなの伝言を届けます。
森のおおらかな息吹が伝わってくるような 美しくてすがすがしい短編集です。
そうそう、とっておきの素敵なお店があります。 そのお店は、「おやおやや」 どんな素敵なものが待っているのかは、 是非、本を開いて欲しいです。
「空のおふねや」「かげ売り」e.t.c. 子どもだけでなく、大人の想像力もくすぐられます。 ページをめくりながら、にこにこと表情が柔らかく なっていっていることが、自分でもよく分かります。 (シィアル)
『森のお店やさん』 著者:林原 玉枝 / 絵:はらだ たけひで / 出版社:アリス館1998
2003年01月21日(火) 『種をまく人』
2002年01月21日(月) ☆本をどこで買いますか?(その6)
修道士といってもカドフェルは、若いときは十字軍の戦士で、 海千山千の強者です。 このシリーズの魅力は、カドフェルの冷静な犯人探しだけでなく、 カドフェルの豊富なハーブの知識が描かれていることや、 どの物語にも、若い恋人たちのロマンスが描かれていること でしょうか。 さらに、作者エリス・ピーターズの文章は時に繊細で、 この物語では、久々に心に残るとても美しい文章に出会うことが できました。
この内乱の中で、身の安全のために先に逃がされた娘ゴディス。 女帝モードの拠点が陥落し、同志たちは全員処刑されたが、 辛うじて父親が脱出したことを知る。 それを知ったゴディスの複雑な心とわき上がる喜びが、 美しくそして、あますことなく表現されています。
ほんの一瞬、春の雪解けのように彼女の目に涙があふれたが、 すぐに春の日差しのように彼女は光り輝いた。 悲しみの種は多く、うれしいことも同じくらい多かった。 彼女はどちらを先に表したらいいかわからなくなり、 四月という季節のように同時に表現したのだ。 しかし、彼女の年齢は四月そのものだったから、 希望に輝く日差しが勝ちをおさめた。(P60より)
ゴディスの心だけではなく、四月という季節そのものの力強さや 生命力までもが、あらためて、伝わってきます。 物語のおもしろさはもちろん、 こういう気の利いた表現に出会うと本当にうれしくなります。
小説は、まだ全巻読み終えていないのですが、 ドラマでも小説でも、もっとも面白かった物語が、 この『死体が多すぎる』と、『氷の中の処女』 私にとってのカドフェルシリーズの一番の魅力は、「情」。 どの物語も、「情」がしっかりと描かれていること。 愛情・憐情・人情、そしてまた憎しみも。 しかし、どの物語も、若い恋人たちの愛は成就し、 修道士であるカドフェルの「情」の深さが強く伝わってくるのです。 (シィアル)
『死体が多すぎる』―修道士カドフェルシリーズ(2) 著者:エリス・ピーターズ / 訳:大出 健 / 出版社:光文社文庫2003
2003年01月20日(月) 『町かどのジム』
2001年01月20日(土) 『わたしの日曜日』&『とっておきの気分転換』
CS放送で再放送されていた『修道士カドフェル』シリーズを、 遅ればせながらも、熱心に見ていました。 社会思想社(現代教養文庫)で発行されていたシリーズは、 今、光文社文庫から再発行されています。 ドラマはとりあえず13作全部見終えたのですが、 小説の方は、気に入ったエピソードから、 順番お構いなしに自由に読んでいます。
探偵役の修道士カドフェルと代理執政官ヒュー・ベリンガーとの 出会いを描いたこの第二巻は、ドラマでは第一作となっていました。 ドラマでは、どのエピソードも1時間15分とコンパクトに 収められているので、 小説を読むと、物語はより複雑で、また、テレビドラマでは 描ききれなかったより細やかな「情」を読みとることができます。 とはいえ、テレビドラマの方も、ほんとうにうまく物語を削って いるので、小説と読み比べれば、登場人物のちょっとした 違いが出てくるのですが、 何の違和感もなく楽しむことができます。
物語の舞台は12世紀内乱最中のイングランド。 王位を主張する王と女帝の間で揺らぎ、国中に混乱が広がっている。 シュルーズベリーでは、今まさに、女帝モードの拠点が、 スティーブン王によって陥落しようとしていた。
処刑された女帝側の捕虜は94名。 しかし、カドフェルが埋葬のために遺体をひきとりにいくと、 そこには95名分の遺体が。 その1名は、卑劣な殺人の犠牲者。 この遺体は誰なのか。 誰が、何のために、彼を殺したのか。 カドフェルはその犯人を捜し始める。(その2へつづく) (シィアル)
『死体が多すぎる』―修道士カドフェルシリーズ(2) 著者:エリス・ピーターズ / 訳:大出 健 / 出版社:光文社文庫2003
P・D・ジェイムズ、デビュー2作目のミステリは、 シンプルな構成の犯人探し。 本国では1963年に発表されている。
富裕な客を相手にする精神科の診療所を舞台と しているため、医師やスタッフたちの 心理描写にもジェイムズらしい『ねじれひねりむすび』が あるのだが、 なんといっても、今回、ダルグリッシュ本人の ユニークさが醍醐味、と思うのは、私もまた それなりに馬齢を重ねているせいだろうか。 いやまったく。 (がんばってほしいものです、あきらめずに)
ロンドンのスティーン診療所で起きた、殺人事件。 殺されたのは、敵の多い女性事務長。 せっかくの夜をふいにして駆けつける、 アダム・ダルグリッシュ警視。
定石通り、延々とつづく関係者の聴取。 ジェイムズらしく、シンプルな動機と結果の裏に、 後のジェイムズ作品に深く沈殿する特性、 手でふれられそうな心理の火がかいま見える。 じゅうぶんに燃えた炭の奥で高温を発する、 あの赤い火種にも似たもの。
ジェイムズらしいといえば、 診療所にモディリアーニの二流作品がこれみよがしに 飾られている、という描写は、 モディリアーニには悪いけれど、皮肉な話だ。
ダルグリッシュは詩人として数冊の詩集を出版しているが、 そのパーティーに登場する版元の社主の描写も秀逸だった。 この出版社は、パーティーに安いシェリー酒を出せず、 レベルの低い作品を出版することもできないのだという。
彼にとって作家はすべて早熟な子供だった。 (引用)
(マーズ)
『ある殺意』 著者:P・D・ジェイムズ / 訳:青木久惠 / 出版社:ハヤカワ文庫1998
2003年01月16日(木) 『ギルドマ』
2002年01月16日(水) 『いまやろうと思ってたのに・・・』
2001年01月16日(火) ☆ 身の回り整理術
新年から、そんな感じ。 ちょっときゅうきゅうになってきた。 ふだんの私のペースを大幅にオーバーしてしまっている。
友人に借りたり、図書館で借りたり、取り寄せたり買いに行ったり。 仕事で読み直さねばならない本がたくさんあって、 この1年は、児童書を「買う」ことも増えそうだ。 ただし、いまのところ、読むことはほとんどできず、 本棚はすでにいっぱいで、床にたまる一方。
昨日は郊外の古書店で、新品同様の『星の王子さま』を 300円で入手。これはお買い得。 『スター・ガール』400円も、きれいだったし、いい買い物。 梨木香歩の『裏庭』とグウィンの『ゲド戦記1』は、 ついにハードカバーで新本を買ったばかり。 同じく新本『二つの旅の終わりに』(エイダン・チェンバース)は、 急いで読む必要がある本。 取り寄せた『クマのプーさん』2冊も、急ぎの本だ。
図書館では『ガラスのエレベーター宇宙にとびだす』(ロアルド・ダール)、 『風をつむぐ少年』(ポール・フライシュマン)、 『アリスの見習い物語』(カレン・クシュマン)を数館回って借りた。
児童書は新品より古書のほうが「なじんでいる」感じがして好き。 図書館の本ほどではないけど、ページが自然に開くような 読み込まれた本のほうがいい場合もあると思う。
逆に、新品でないといやだと思う本も、あるけれど。
P・D・ジェイムズの『ある殺意』、 これは読み終えて明日のエンピツになろうとして ずっと待たされている、100円の本。 (マーズ)
2003年01月15日(水) 『海の魔法使い』
2002年01月15日(火) ☆本をどこで買いますか?(その3)
2001年01月15日(月) 『アムステルダム』
ヴィクトリア女王の時代に生きた架空の王女、 マリゴールドと、王女に瓜二つの少女アヴィラ。
王女は女王の反対する恋人と過ごすため、 一計を案じる。 しかし、ギリシャへの身代わり訪問という前代未聞の くわだてによって、ギリシャ人の母を持つアヴィラは、 生涯の伴侶となる男性と出会うのだった。
原題は、『アポロの愛の光』で、 まさに内容は純粋な愛そのものである。 決して日本語のタイトルから憶測するような、 18禁的なものではないので、念のため。
カートランドの作品のほとんどは、英国やスコットランドを 舞台としているので、今回のようにギリシャが主人公たちの 心の故郷として描かれるのは異例だろう。
パルテノン神殿やアテネ、アポロ神、カニドス島。 そして主人公たちの語る、ギリシャ語のひびき。 ギリシャ語はイメージがほとんどないので想像だけれど。
カートランドがすごいなと思わされるのは、 毎回、舞台となった文明や地域の歴史的意味を、 読むうちに観念として私たちに植えつける構成力だ。
時も折、今年のオリンピックはギリシャである。 ギリシャの光にふれずにいられるだろうか?という気にさせる。 この本は、田舎の市場の片隅で、良心市にて100円で 売られていたのだけれど。 (マーズ)
『オリンポスの饗宴』 著者:バーバラ・カートランド / 訳:荻原明美 / 出版社:サンリオ1997
ヴェルヌの本を読むのは、小学生以来だと思う。 何を読んだことがあったのか、どれを映画で見たのかもう判然としない。 同僚の子供さんの愛読書で、すごく面白いということで ちょこっと貸していただいた。 解説によると全体を1/4くらいにダイジェストしたものだそうだが、 ダイジェスト版にありがちなあらすじを追うだけの退屈なものとは全然違う。 それどころか、 読み終わるまでこれが要約された物語だとは気づかなかった。
『神秘島物語』は、『ロビンソン・クルーソー』以来の漂流物のひとつで、 時代は南北戦争の頃、大人四人と少年一人、犬一匹が乗った気球が遭難し、 南半球の無人島でのサバイバル生活が始まる。 何一つ持たない全くのゼロからの生活だが、それぞれが知恵と力を出し合い、 見事なチームワークで様々な困難を乗り越えていく。 実際、たびたび生命を脅かされる危機に直面するので、 一体どうなるんだろうと、大急ぎで、子供のような無邪気さでページを めくっていった。
サバイバル生活は大変だけれど、彼ら五人と一匹はとても仲が良く、 信頼しあっている。本を読みながら、温かな気分になったのだけれど、 それは原作の魅力だけではなく、著者である佐藤さとるさんの力による ところも大きい。 著者のあとがきによると、ダイジェストを担当した佐藤さんは、 子供の頃、この本を「のめりこむように」読み、 「どこがおもしろくどこがよりおもしろいかったか」を熟知していたのだ。 だからこそ、大胆にページ数が削られているにもかかわらず、 違和感がなく、生き生きとした山場の連続を楽しむことができたのだろう。 佐藤さんのこの本への愛情が感じられた。 それがこの本の魅力で、子供向けに書かれたにもかかわらず、 惹きつけたのだと思う。
子供のために編まれたこの冒険文学のシリーズは、 子供のためだけあって資料や解説が豊富で、物語にでてくる動植物や 船の絵が紹介されている。 解説によると、ヴェルヌの生きた時代というのは、幕末から明治にかけて。 日本の江戸時代に、すでにヴェルヌの頭の中にはネモ船長が住み、 空の冒険、地底や海底の冒険、さらには月への冒険と、未来の世界が 息づいていたのだと思うと、しみじみと彼我の違いに不思議を感じるし、 また人間の想像力の果てない力に感動する。 (シィアル)
『神秘島物語』世界の冒険文学5 原作:J・ベルヌ / 著者:佐藤さとる / 出版社:講談社1998
前作『審問』から、3年。 待ちに待ってやっと届いた新作は、主人公ケイ・スカーペッタと共に、 年月を重ねてきた読者にとっては、困惑する作品だと思う。 長く続いてきたシリーズだから、それなりの変化・変節は しようがないと分かってはいるが、いろいろと驚かされてしまった。
『業火』では最愛の人を失い、今は検屍局長の座も追われ、 バージニアを離れ、病理学者としての日々を送るケイ・スカーペッタ。 しかし、バトンルージュの連続殺人鬼や狼男シャンドンの影が ケイに迫る。
作者にも出版社にも、このシリーズへの色んな思惑があるのだろうけど、 スカーペッタの年が46歳(シリーズの流れでは60歳前後)に 再設定されている。 文章のスタイルも変わった。 物語を多角的に展開していく意図もあろうが、人称が一人称から 三人称に変更されている。 これからの物語への新たな可能性と広がりを持たせるためかもしれないが、 ストーリーの展開上、将来、得るかもしれないものよりも、 失ったものの方が大きいとしか思えない。
一番の喪失はケイ・スカーペッタ自身だと思える。 年齢の再設定は、単に年齢の読み替えではなくて、 ケイの刻んできた人生の年輪を否定することのように感じられるし、 老いの訪れは確かに、小説の登場人物でも、寂しいことだと思うが、 老いの否定はケイの人生の深みや円熟を奪い去ることのようにも 思えてくる。 確かにいつまでも年をとらないヒーロー、ヒロインは存在するのだから、 ケイにもずっと生き生きと若々しく活躍して欲しいと、 それを望んでのことだろうけれども。
とはいっても、残念なことはまだ続く。 文章のスタイルを変えてしまったこと。 一人称には、物語を展開していく上で、 さまざまな制約があっただろうけれど、 一人称を捨てたことで、ケイの心の中の繊細なゆらめきまで 捨ててしまったのだ。 その揺らぎこそが、このシリーズの魅力で、 猟奇的な殺人犯と冷静で理知的な検屍官の対決を ただセンセーショナルなだけのミステリに終わらせずにいた 大切な要だったのに。
物語は、まさにオールスター・キャストだが、 シリーズとしての整合性やら継続性とは何なのかと、 そんなことまで、悩ましく考えさせられてしまう。 色々と考え込まされる物語ではあるが、 今までのような濃密さ、緻密さはなく、淡々と読み終えてしまった。
とは言っても。 事件はすべて解決したわけではなく、次へと繋がっていくのだ。 きっと、次作も待ちかねて手に取るのだろう。 (シィアル)
『黒蠅』(上・下) 著者:パトリシア・D・コーンウェル / 訳:相原真理子 / 出版社:講談社文庫2003
2003年01月09日(木) 『魔女ファミリー』
2002年01月09日(水) 『青い瞳』
2001年01月09日(火) 『キリンと暮らす、クジラと眠る』
『自負と偏見』(あるいは『高慢と偏見』)というタイトルから、 恋愛小説を想像するのは難しいので、 手に取るまでに長いことかかりました。 やっと読んでみようかと、本を開いたきっかけは、 映画『ユー・ガット・メール』と『ブリジット・ジョーンズの日記』 どちらも『自負と偏見』が重要なモチーフとなっています。
けれど、最初に手に取った『高慢と偏見』(岩波文庫)は、 文章が単調な気がして、数ページで断念してしまいました。 その後、コリン・ファース・ファンの知人が 『高慢と偏見』のDVDを貸してくれて、 この物語の魅力がやっと分かったのでした。 やはり、コリン・ファースのおかげでしょうか(^^)。 もちろん、気むずかし屋の青年紳士ダーシーも 才気煥発なエリザベスも素敵でしたが、 イギリスの田園の美しさにも惹かれました。 訳が読みやすいという評判のようなので、 新潮文庫の『自負と偏見』を手に入れ、 やっと読み終えることが出来ました。
読み終わってみれば、 本当に機知に富んで面白い娯楽小説でした。 物語は他愛なくて、18世紀頃のイギリスを舞台にした クラシックな恋愛小説です。 イギリスの田舎町のベネット家の娘エリザベス(リジー)と 大金持ちで気難し屋のダーシーが誤解と思い込みを互いに乗り越え、 結婚に至るまでの物語。
しかし、オースティンの鋭くスパイシーなユーモアが効いていて、 人物描写が的確で、主人公は魅力的だし、敵役も生き生きしています。 例えば、リジーの母親の俗物ぶりや、意地悪な恋敵ビングリー姉妹、 慇懃無礼でおしゃべりの自慢屋ミスター・コリンズ、 それぞれの欠点が容赦なく炸裂し、同時に強烈な個性を放っています。 リジーとミスター・ダーシーのロマンスの展開は言うまでもなく 素敵なのですが、私にとっては、リジーの父親の辛口のユーモアや 愛情ではなく安定を求めて、ミスター・コリンズと結婚したシャーロット の結婚観など、いろいろと心に残る小説でした。 (シィアル)
※読み比べたわけではありませんが、『自負と偏見(高慢と偏見)』は、その他、岩波文庫、河出文庫、ちくま文庫から訳出されています。好みの問題だと思いますが、一番読みやすいと言うことで新潮版を再度買ったのですが訳はやはり古いです。ちくま文庫が一番新しいようです。
『自負と偏見』 著者:ジェーン・オースティン / 訳:中野好夫 / 出版社:新潮文庫
2003年01月08日(水) 『天使のせせらぎ』
2001年01月08日(月) 『FAST FLOWER ARRANGING』
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管理者:お天気猫や
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