無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年10月05日(金) 新番第4弾/『クレヨンしんちゃんスペシャル』/『化粧した男の冒険』(麻耶雄嵩・風祭壮太)ほか

 オタアミ当日まであと50日!

 連休前ともなると、仕事がドッと押し寄せてくる。
 で、連休明けも溜まった仕事がドッと来ることが初めから解りきっているのである。
 だったら連休なんかなきゃいい、と言ってしまいたいが、来週は休日出勤があるので、全く休みがないのだ。
 じゃあ、明日休めることを感謝せねば……と気持ちを切り替えてはみたものの、まるでこりゃ「朝三暮四」そのまんまである。
 ……それより悪いな。結局あるはずの休みが潰れていくんだから。

 日々の雑感を書きながら思うことだが、読者のみなさんは、私が自分の商売を隠して日記を書いてることを、どうお感じだろうか。
 と言うか、いちいち「私はナニナニです」と書いてある公開日記もそう多くはないから、「別にカミングアウトするかどうかなんて本人の勝手じゃん」と寛大にお考え頂いているのかもしれない。
 でも、私としては覆面かぶって好き勝手言ってるようで、なんだか申し訳ないなあ、と思ってる部分はあるのだ。
 たとえば私の正体が小泉○一郎だったとしたら(゜∇、°)、こりゃヒミツでサイト持ってるってだけで国民への裏切り行為である。内容を読めば更に非難囂々、内○支持率はあっという間にヒトケタ台まで落ちてしまうであろう。
 ……それくらい、バカなこと書いてるってくらいの自覚はあるのよ、これでも。
 でも、だからこそ、「自分がなんであるか」ってことは、社会的な立場からモノを言う意味でも、あるいは、“いかに社会的な立場を無視してモノを言ってるか”っていう意味でも、きちんと明かしといた方がいいと思うのだ。
 実際、「なぜ私がこんなことを言うのか」ってこと、私の商売を知った人じゃないと意味が分らないってことも多いのだよね。

 たとえば、今日こんなことがあった。
 私の知人が、6年ぶりくらいに私を訪ねて来てくれた。
 しかし、その用件とは、彼の個人的な事情についての深刻な相談だったのだ。
 明言するが、私の人格は「人として最低」である。それはこの日記をお読みいただければよくご理解頂けることであろう。
 しかし、実は私の商売上の肩書きってヤツ、これ、社会的には相当信用に値しちゃうものなのだね。
 だからこそその知人は、「私の肩書きを当てにして」訪ねて来てくれたのだ。
 もちろん、知人の頼みを私はその場で頷いて聞き入れた。
 しかし同時に私は、その肩書きがなかったなら、自分が知人の頼みひとつ聞いてやれないほど卑小な存在だということを自覚せざるを得なかった(いやまあ、たいていの人がそうだろうけど)。昔、しげにも「アンタが○○でなかったら好きになってない」なんて言われたことあるんだよなあ(しげも相当「人として最低」である)。
 っつーかねー、なんか自分の肩書き使って知人に恵みを施してやったみたいでイヤになっちゃったのよ、今日のことで特に。批判されてもいいから、自分の正体明かして心のモヤモヤを取り払いたいなあ、なんて思っちゃったのね。
 でも、私が正体を明かさないのは、私個人の事情ではないので、到底できることではないのだ。ああ、もどかしい。
 ……もう、お解りであろう、私は本当に小泉○一郎だったのである。
 今度から「ソーリ」と呼んでください。って、中村雅俊か。


 秋の新番組アニメ、全部見ちゃうぞ(ムリだって)ツアー、個人で勝手に始めているが、そのためには仕事を定時で切り上げて猛ダッシュで帰って来ねばならない。
 ……できるこっちゃないのだが、今日もちと帰りが遅くなり、それでも『VANDRED the second stage』、前半を見逃しながらもテレビにかじりつく。
 なんだかね〜、男と女がそれぞれの文化圏を持ってて、宇宙戦争繰り返してるって聞いたらもう、真っ先に「『マクロス』やん」と思ってしまうのだが、第2シリーズに入っても、まだ仲直りが出来ていないらしい(^_^;)。
 ……SFの名を借りた集団ラブコメだからなあ。批評がどうのこうのって言えるほどのものでもないんだけど、これも制作はGONZO。この、CG使いまくりの違和感アリアリの、ストーリーやプロットは定番どころか陳腐のパクリのって、なぜこれだけのクリエイターが集まっててそんなになっちゃうかね。
 今回もラストでお約束の新キャラが導入、やっぱりボケ美少女で、主人公といちゃいちゃ、ヒロインがヤキモチ焼くっていうトホホな展開。
 もうどーにでもして(-_-;)。

 口直しにと見た7時からの『クレヨンしんちゃんスペシャル』。
 前半の『魔法使いしんちゃんだゾ』は、しんちゃんの被害にあうカザマくんがいい味出していて、なかなか笑えたのだが(でも「『サリーちゃん』も『アッコちゃん』も『マコちゃん』も人間界に行ってるのに!」としんちゃんが叫ぶところ、確かにサリーちゃんとマコちゃんは魔法界、人魚界のお姫様だけど、アッコちゃんはもとから人間で鏡の国の王女様は別にいるのだけれど)、後半の『おうちはなかなかできないゾ』はちょっとダレた。
 原作はこんなにスペシャルにするほど長くないのに、妙に幸田露伴の『五重塔』みたいな職人話にしちゃったからねえ。
 しんちゃんがイタズラして「先行者」作ってたギャグはよかったけど(^^)。

 8時から、あともう一本の新番組、CSカートゥーンネットワークの『パワーパフガールズ』、もちろんテレQでやってるやつの再放送なのだけれど、局が変わるんで(っつーかもとのところに帰るっつーか)、声優の変更があったりするのかなあ、とか心配していたのだ。
 でも、心配は杞憂に終わり、テレQではカットされてた本国版のOP&EDも復活、しかも日本語版のエンディングもフルコーラスでインターバルに放送と、CS版は結構豪華。ホッと胸をなでおろしてひと安心。
 パワーパフガールズへの視聴者の質問コーナー、「どうしてブロッサムだけマントをつけてるんですか?」(ポニーテールのことだな)なんての、いかにもヤラセだが、かえって楽しい。あれは、そのために新作のアニメ作り下ろしてるのかな、それとも既成のフィルムのツギハギだけで作ってるのかな?
 一つだけ不満だったのは、日本語版サブタイトルが紹介されなかったこと。
 何か理由があったのかなあ。版権とかは関係なさそうだけど。


 そんなこんなの埒もあかないことを、毎日「オタアミ会議室」に書きこんでいるのだが、少しは関心を集めていただいているのだろうか、今日はあの「と学会公認(笑)」占い師の、稗田オンまゆらさんからレスがついてしまった。
 しかも、リクエストつきだったりして(^_^;)。

 「今日夜中3時10分からテレビ東京で放映される「バビル2世」リメイクはいかがざんしょうかどうやら、声優総とっかえだそうなので、見たいような見たくないような、なんですが、、、、、、、」

 ああ、ちゃんとアニメ見てレスをつけたい!
 けど、テレQの○○野郎、テレ東のネット局のくせに、『バビル2世』を放
送しやがらないのだ。
 鈴邑君がなー、以前そこに勤めてたんで、裏事情を聞いたことがあるんだが、編成会議で「アニメは何本か落とす」ことになってるみたいなんだなー。
 たいてい、深夜ワクがターゲットになってカットされちゃってるんだよなー。
 で、今日、何をやってるかって言うと、映画『極道戦国志 不動』。……こんなんに三つのシモベも歯が立たないってかよう。
 泣くに泣けねーや。うううう(T∇T)。泣いてるじゃん。

 主役の名前が山野浩一から神谷浩一に代わってるのは、笑っちゃったけど。
 「やっぱ山野浩一はマズイでしょ(←特にオタクでない人のために解説。SF作家で山野浩一って人がいて、そこから勝手に拝借したらしいんだよね、この名前。原作の横山光輝、パクリに関しちゃ感覚が結構ユルイのよ)」
 「じゃあどうする?」
 「せっかくだから神谷明さんに名字だけ借りましょうか?(←これも解説。最初のテレビアニメ化で主演したのが神谷明さん。しかもこれが主演第一作だ)」 「おお、それいい!」
 ……てな発想で決められた過程が見えるその安易さからして、脱力ものだ。
 なんで放送しなかったかなあ、ポスター見ると、ヨミのそばにいかにも『ジャイアント・ロボ』の銀鈴っぽいキャラがいたりして、以前のOVA版より、はるかにヘタレそうな気配が濃厚でタノシミだったのになあ。
 時期遅れでもいいからやらないかな。
 ……けど、局にリクエストハガキ送るほどの出来でもないんだよな、きっと。


 ネットを渡り歩いていて、岡田斗司夫さんの「OTAKING SPACE PORT』の巻頭言に目が止まった。


「 あるサイトでこんな「フロン」感想を見つけました。

>『フロン』読んでわたしは違和感を持ちました。
>著者には申し訳ないけど、しょせん頭のなかで生きてる
>オタクの言うことだなあ、と正直言って思いました。

 本を出したからには、どんな感想を持つのも本人の自由です。
 でも、上の感想は、なんかイヤな感じがしました。ちょっと考えたらわかったのですが、これを書いた人はオタクを差別しています。これが「しょせんバカの書いたタワゴト」と書かれたら、別にイヤな気分はしなかったと思います。
 この感想を書いた人の「オタクだからダメ」という視点が、なんかイヤだったんでしょうね。

 たとえば「オタク」を「女」と言い換えてみましょう。
 
>『フロン』の感想を読んでわたしは違和感を持ちました。
>書いた人には申し訳ないけど、しょせん頭のなかで生きてる
>女の言うことだなあ、と正直言って思いました。

 ね、けっこうひどいでしょ?
 
 今まで「しょせん女だから」「女の考えることなんか」と差別される側にいた女性でも、こんなに簡単に人を差別して、おまけにそれには無自覚な様子なのでイヤになっちゃいました。」


 私は岡田さんが怒ってくれてるってことで嬉しくなっちゃったぞ。
 『オタク』と言うコトバが一般に浸透した原因は、ルーツと言われる中森明夫のエッセイよりも、宅八郎と宮崎勤の存在が大きい(それが証拠に、私の大学時代、既に中森氏のエッセイは発表されていたが、私を含めて、私の周辺のオタク的な人々の誰一人として「オタク」と呼ばれたことはなかった)。
 言わば、全くのマイナスイメージだ。
 そのとき作られたマイナスイメージは、未だにあちこちで偏見と差別を生んでいて、「アニメが好きだ」と言っただけで「え〜、キミ、オタク?」なんて言われちゃうこともままある。

 宮崎勤事件が起きた時、たいていのオタクは「アレはホンモノのオタクではない」と、そのコレクションの「レアものならなんでもいい」みたいな嗜好性のいい加減さを指摘して、オタク仲間からの「追い出し」を図ろうとしていた。
 私の場合、当時は逆に「俺はオタクじゃない、マニアだ」とか言ってたなあ。でも実質、宮崎勤との間に差別化を図ろうとしてた点では同じだ。でもなあ、やっぱり社会的常識から言えばさ、何万本ってビデオを持ってるってだけで、充分「オタク」なんだよな。いくら本人が否定したって、物理的な共通項があれば、世間は一つのカテゴリーでくくっちゃうよな。
 かと言って、くくられて仕方ない、と諦観できるわきゃない。
 なんたって相手はヘンタイの犯罪者だ。当時のオタクたちはたとえムダだと知りつつも、宅八郎や宮崎勤なんかと同一視されることを嫌がる言質を繰り返して訴えてきたのである。……まあ、嫌がらないほうが不自然だよね?

 オタクたちは、自分たちが好きなもの好きだって堂々と言えるだけの文化的土壌を持っていなかった。それどころか、宅や宮崎の登場で、自分たちの立場を社会的に認知させるためのコトバすら奪われてしまっていた。
 「オタクのどこが悪い!」
 たったこれだけのことを、口に出せないムードが、社会を支配していたのである。
 それを、「オタク」というコトバはそのままに、内実のイメージを全く逆にプラス転換するというアクロバットのような手法で逆転させてしまったのが岡田さんの「オタクエリート論」なのだ。
 もちろん、その論の創始者は必ずしも岡田さん一人に限定は出来ないが、世間に対して積極的に戦略を展開していったのは紛れもなく岡田さんだ。
 「夢と現実との区別がつかないオタク」なんて陳腐なイメージの中に、「何かに熱中する人間を全て放りこんでしまおうとする」世間の人々の偏見を、次々に遺伝子操作よろしく「組み替えて」いった手腕は、もっともっと評価されていい。 

 そして、岡田さんは未だに怒ってくれているのである。
 この『フロン』について、女の人が「頭の中で生きてる」って批判したってのはつまり「夢と現実の区別がつかない」って批判と同質のものであろう。
 しかし、人間は「心」を持ってしまった時点で、現実を認識できる能力を殆ど捨て去ってしまった動物であるのだ。

 ……あの、今回のテロ事件だって、我々がどれだけあれを「現実」として認識できてると思います? というか、「現実」と認識すれば認識するほど、心がその事実の重みに耐えられなくなってしまうとは思いませんか?
 あるいは、こういう例を考えることもできるよね。何か事件が起こるたびに「まさかあの人がこんな事件を起こすなんて」ってみんな言うじゃない。てことは、その事件を起こした本人じゃなくて、周囲の人間の方が犯人の「現実」が見えてなかったってことでしょ?
 人間の防衛規制って、全部「現実から目を背けること」から成り立っているのよ。

 この女性も、自分が「頭の中で生きてる」人間であることに気付いていない。気付いていれば、こんな言葉は使えないからだ。
 というか、「現実を見てない」なんて批判は、もとから批判としての機能を持ち得ない空虚なコトバなのだという「現実」すら、世間の差別者たちには「見えていない」のだ。
 ……悲しいよな。


 作り置きのカレー、やっと全部食えた。
 前のよりは「美味い」と言って食べたしげだったが、最後はあまり食べてくれなかった。
 「肉が固い」というのである。
 鶏肉の切り落としを具に使ったのだが、確かにコリコリした肉が入っていたのは事実だ。けど、それが私には美味しかったんだがなあ。
 だいたい、ウシとブタの区別もつかないくせに、ウマイのマズイのって言えるってのがいい根性してるよなあ。


 マンガ、神坂一原作・トミイ大塚作画『スレイヤーズすぺしゃる』4巻(完結/角川書店・546円)。
 映画公開が近いのに、本編シリーズもこのすぺしゃる版のマンガ化も終わっちゃった。
 結局、マンガ版はあらいずみるい版、義仲翔子版、そしてこのトミィ大塚版と3種類も出たわけだけど、ほぼオリジナルといっていいあらいずみ版を除けば、原作のノリに迫り切れたものはない。この4巻も、ページ数の限界で、今一つ感が強い。原作を消化しきれずにここで終わりってのも無理からぬ気はする。
 でもなあ、ラストはもうちっと最終回らしくしてほしかったなあ、とは思うのだ。ラスト前の1話をフィリオネル王子編でシメてたんで、てっきりナーガとの親子対面があるかと思ったのに、すれ違いなんだものなあ。
 いい加減、このすれ違い、引きすぎじゃないのか、『君の名は』じゃあるまいしよ。まあ、マンガ版より先に小説版でやんなきゃいけないことだけどね。
 そのためには、本編の第3部を神坂さん、書かなきゃいけないと思うんだけど、そんな気配もないよなあ。


 麻耶雄嵩原作・風祭壮太作画『メルカトル鮎の事件簿 化粧した男の冒険』(秋田書店・540円)。
 原作は短編集『メルカトルと美袋のための殺人』(講談社)。
 ここ数年で随分増えたよねえ、新本格ミステリのコミック化。
 しかも、こないだ読んだ『モーツァルトは子守唄を歌わない』もそうだったが、必ずしも原作におんぶに抱っこの、マンガとしての工夫のないつまらないものではなく、意外といい出来ってのが多いのである。
 あ、内田康夫原作のは除いてね。ヽ(^。^)丿
 おかげで、「原作読まなくてマンガでいいか」って気になっちゃうのはよくないけど。
 この『メルカトルの事件簿』も、最後の『水難』が真犯人が○○という、掟破りの手に出ている点を除けば、まあ、悪いデキではない。
 探偵の性格が悪い(何しろ自分の天才を証明するために犯人の殺人を誘発さえする。……ってそれって真犯人って言わんか)、というのは実はミステリーの伝統だといってもいい。
 シャーロック・ホームズだって「自分の知的好奇心を満足させてくれる事件が起きないか」っていつも考えているし、明智小五郎だって、ある事件じゃ真犯人の片棒担いだりしている。
 ラスト・ケースの真犯人が探偵ってパターン、どれだけあるかね(^.^)。
 マンガが犯罪の誘発要因のように言われ出す前、目の敵にされてたのはミステリーだった。戦前、乱歩の小説が谷崎潤一郎と並んで、有無を言わさず全作発禁になったのは、そのエロ・グロ性ゆえであったが、そういった暗いイメージを払底しようと、戦後は「ミステリーは健全な読み物です」みたいなキャンペーンが張られることも多くなった。まあ、悪は滅びるっていう「勧善懲悪」的な物語ばかりが量産されちゃったんだね。
 けれど、探偵と犯人の知恵比べっていう設定は、実は勧善懲悪とは何の関係もない。探偵が悪に手を染めることだって、あるのが「自然」だ。
 シルクハットにタキシード姿、自分は名探偵ではなくその名を後々まで人々の心に刻む「銘」探偵である……って、性格が悪いっていうより、破綻してるぞ。
 だからこのシリーズ、ある意味で全ての事件の真犯人は、メルカトル自身とも言えるのだ。
 凄いんだかヘンなんだか。


 マンガ、清涼院流水原作・蓮見桃衣漫画『エキストラ・ジョーカー JOE』(角川書店・588円)。
 で、これもミステリの漫画化ってことになってるけど、「日本探偵クラブ」とか、「L犯罪」とか、非現実的な設定がやたらぶちこまれてるので、どこまで事件をまともに受け取っていいのかわかりにくい。なんだか『ケイゾク』の後半のようである。
 まだこれが前編ということで評価は下しにくいが、新時代のミステリの一つの形式を作るのか、ただの大バカ漫画になっちゃうのかは、神一重ってとこだろう。
 少なくとも「ファジィ推理」ってのが、「直観」とどう違うのか、くらいは説明してほしいもんだけど。

 ……それにしても、まさか『全てがFになる』までが浅田寅ヲで漫画化されるたあ思ってもみなかったなあ。買いはしたが、怖くてまだ読めないでいるのである。

2000年10月05日(木) ちょっと浮気(?!)とSFJAPANと/『荒野のコーマス屋敷』(シルヴィア・ウォー)ほか



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