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1976年にアメリカで出版された、 子どもたちが主人公のミステリ。 『私』、ウィンストン・エリオット・カーマイケルの家族に、 ある木曜日、人生を変える事件が起こる。 17年前に誘拐された娘、キャロラインが帰ってきたのだ。
ピッツバーグの資産家を舞台に、カニグズバーグの 怜悧に練り上げられたプロットが離陸する。 母親はすでに亡く、彼女の遺産を受け継ぐ期限を目前にした キャロラインの帰宅。 「彼女は本物なのか?」 疑問は家族を覆うが、父は娘をかばう。 (原題『Father's arcane daughter』、父の秘密の娘)
そして、父と後妻との間に生まれた長男の 『私』と、障害のある妹、ハイジは、彼女と関わることで、 後戻りすることのできないスイッチが入ったのだった。
ストーリーは、ウィンストンの回想する少年時代。 1950年代、第二次大戦後すぐといっていい時代の物語だ。 大人になったウィンストンが、 キャロラインと出会ったのは、23年も前のことになる。
『なぞの娘キャロライン』が、なぞを追求する一般ミステリと ジャンルづけされない理由があるとすれば、 プロットよりもなお人間性をゆさぶる、 キャロラインの行為によってうまれた救出劇の リアルさだろう。
カニグズバーグの矢は、 誘拐された娘と家族の悲劇にではなく、 どこにでも起こりうる家族の悲劇を射た。 誰かを罰するためではなく、ただ救い出すために。
主人公の友人ジェニファの秘密を最後に明かした 『魔女ジェニファとわたし』もそうだが、 章のイントロに挿入されるウィンストンの話す相手が誰なのかは、 終幕まぎわまで明らかにされない。 映像ではなく、文章表現ならではのトリック。
「I」(私)とは、かけがえのない、 そして変化する可能性を秘めた言葉である。 (マーズ)
『なぞの娘キャロライン』 著者:E・L・カニグズバーグ / 訳:小島希里 / 出版社:岩波少年文庫1990
2002年11月26日(火) 『狐罠』
2001年11月26日(月) 『黒猫』
2000年11月26日(日) 『Spells for Sweet Revenge』
メアリー・ポピンズ、第四作。 三作までの間に起こった公園でのできごとが、 6つの短編となって収められている。
『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』で ラングの『緑いろの童話集』が出てきたが、 本書でも、『銀いろの童話集』が登場。 ただ、『銀色』は、日本で出ているシリーズの全12冊には 含まれていない。なので、ここに登場する三人の王子様と 一角獣のお話は確認できなかった。あるいはトラヴァースの 創作した王子様かもしれない。
タイトルからもわかるとおり、今回の短編はすべて、 公園が舞台となっている。 だから、例の規則にうるさい公園番のスミスも、毎回いつも登場する。 それにしても、彼のお母さんが、あの人だったとは!驚かされた。
ジェインが公園のなかの手入れされていない場所に 自分で小さな公園をつくり、マイケルと一緒にその庭の なかへ入り込んで、自分のつくった粘土の人形たちと出会う 「公園のなかの公園」。 昔からミニチュアサイズになった自分を空想することが好きな 私には、とりわけ楽しめるお話だった。 ジェインはさいごに、メアリー・ポピンズにたずねる。 決して答えてもらえないことを知っていながら。
「世界じゅうのものは、なんでも、なにかほかのものの なかにあるんだと思う?」(/引用)
トラヴァースは精神世界や「禅」にも造詣があったとの ことだが、こういった入れ子の世界や本質を反映する影の世界という観念は、 イギリスの子どもたちにもキリスト教的な背景を通して 案外受け入れられるのかもしれない。
さて、今回、楽しみにしていたのは、 ラストをしめくくる、「ハロウィーン」。 ケルトの血をひくトラヴァースが、バンクス家の子どもたちに 用意したハロウィーンは、アメリカ式の「トリック・オア・トリート」 とはずいぶんちがう、ずいぶん楽しいお祭りだった!
風が不気味に吹き荒れる秋の夕方、 公園もまた、ハロウィーンの精霊たちに場をゆずる。 すべての「影」たちが抜け出して大騒ぎする夜、 鳥のおばさんは子どもたちに言うのだ。
「なんにもなしじゃ、なんにもできないよ、いい子ちゃん。 それに、そのために影があるんだよ──ものを通りぬけるって ことさ。通りぬけて、むこう側へ出るのさ──そうやって、 賢くなるんだよ。」(/引用)
鳥のおばさんの言う「影」こそ、メアリー・ポピンズの 魅了する空想世界の引き出しでもあるのだろう。
ああ、まこと、私たちの家の灯りが、 遠い星の影であるのならば。 (マーズ)
『公園のメアリー・ポピンズ』 著者:P・L・トラヴァース / 絵:メアリー・シェパード / 訳:林容吉 / 出版社:岩波少年文庫2003(新版)
2002年11月25日(月) 『うわの空で』
2000年11月25日(土) 『日本語の磨き方』
メアリー・ポピンズ、第三作は、本編の最終幕。 四作目の『公園のメアリー・ポピンズ』は 三作までの間に起こった公園でのできごとが短編形式で 描かれているからだ。
これまでもそうだったけれど、 メアリー・ポピンズが何者なのか、 最後まで明らかにはされない。
「せんさくすぎては身の毒!」(/引用)
とメアリーに一蹴されるのだろうが。 あるときは、『絵のない絵本』のお月さまのようにも感じられ、 めぐる季節の精のようでもあり、 星々をめぐる彗星のごとく、とらえどころのないナニー。 そしてあまりにも人間的な、うぬぼれの化身。
ガイ・フォークスのお祭りに帰ってきた、 メアリー・ポピンズ。 いつも何かが起こる場所、桜町通りの公園で、 待ちかねていたジェインとマイケルのもとへ。
今回のタイトルにもあるように、 扉が開くまでバンクス家にいる、と子どもたちに答えたメアリー。 彼女が去っていったのは、ジェインとマイケルが成長し、 人生の新しい扉が開くときでもあった。
物語が幕を開ける11月5日のガイ・フォークス・デーは、 イギリスではハロウィーンに代わる楽しいお祭り。 由来やトラヴァース女史の言葉も、巻末に紹介されている。 (第4巻ではハロウィーンが登場するので、これも楽しみ)
さて、第7章「すえながく幸福に」で 登場する3冊の本。 ジェインの好きな『ロビンソン・クルーソー』と、 『緑いろの童話集』、『マザー・グース童謡集』なのだが、 子どもたちが、これらの本から出てきたキャラクターたちと 楽しいひとときを過ごすというお話。 昔話を集めた『緑いろの童話集』というのは、 A・ラングの再話による、私にとって因縁深い(笑) あの色別シリーズの1冊だと思われる。 今のイギリスではどうか知らないが、19世紀後半から20世紀前半に 育った子どもたちにとって、ラングの本が、マザー・グースと 肩を並べていたことがうかがわれるエピソードだった。
この巻では、いままでになく、子どもたちと、 その青い瞳を通して、言葉にならない理解を交し合った メアリー・ポピンズ。 のりのきいたエプロンのたてる音、トーストの香りとともに、 いつどんなときでも自分に満足している彼女の姿。 マイケルに問われて、『末ながく幸福に』暮らせるかどうかは、 私たちそれぞれにかかっているのだと、メアリーは答える。 幼いマイケルへの答えであっても、大人への答えであっても、 メアリーは同じことを言っただろう。 (マーズ)
『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』 著者:P・L・トラヴァース / 絵:メアリー・シェパード、アグネス・シムス / 訳:林容吉 / 出版社:岩波少年文庫2002(新版)
2002年11月21日(木) 『シルクロードの鬼神』その2
2001年11月21日(水) 『図説 ニューヨーク都市物語』 / 『イスラームの日常世界』
2000年11月21日(火) 『十月のカーニヴァル』
あの高橋真琴(まこと)の絵で、 新しい『お姫様』のシリーズ絵本が出ている! しかも一冊300円の安さ!全部そろえても5冊で1500円! 文章を書いている作家もベテラン揃い。 これは自分のためだけではなくて、子や孫の代まで 値打ちが伝えられるものだから、ぜひ買わねば。
と、そんな決意で買ったのはもうはるか昔、 1982年ごろのことだった(第1刷を持っている)。 正確にはシィアルと分けて買ったので、手元には3冊しかない。 書店の前の回転式の什器に、いろんな子ども向け絵本とともに (もったいなくも)置かれていた『おひめさまえほん』。
本を見て、まだ消費税がなかったことを思い出す。 300円といえば、300円だけで買えた時代だった。 500円硬貨が初めて流通した頃でもある。 当時、今のような高橋真琴ブームがあったのかどうか定かではない。 ただ、子ども向け雑誌などで親しんだ懐かしいイラストレーターの 新刊が、今ごろになって手に入るとはラッキーと思った記憶がある。 ちなみに、初めての作品集だったという画集『あこがれ』は 1995年刊行で、こちらも持っている。
それが、ここに来て復刊されるというニュース。 高橋真琴ブームもあって、鳴り物入りである。 12月中旬から発売されるらしい。 しかも、箱入りセットで、4900円。 3倍以上の値段になって帰ってくるのだ、なんと。 以前の本は300円だけあって、印刷はあまり美しくなかった。 紙の質からしても、300円で40ページの限界だったのだろう。 今回の版では、おそらく、原画のデリケートさを、より 忠実に再現しているにちがいない。
ディズニー映画のプリンセスにとどまらず、 今、世の中はお姫様ブームなのだそうだ。 そういえば最近のゴシック・ロリータ系雑誌でも、 高橋真琴が表紙になっていたっけ。
高橋真琴は、お姫様を描いて!という求めに応じて、 シンデレラもおやゆび姫も、何度も描いたことだろう。 たとえば、今回のシリーズに登場する「おやゆびひめ」も、 画集『あこがれ』のなかで紹介されているものとは、 時期は近いが別の作品である。 画集のほうは、1981年に『よいこ』7月号に掲載されたもの。 印刷の仕上がりは画集が上(300円の版に比べて)だが、 絵そのものは、この『おひめさまえほん』のほうが素敵に見える。
なぜか彼の描く王子様には思い入れがないのだが、 女の子が自分自身を投影する分身のヒロインとして、 「はかなさ」や「いじらしさ」を一身に映し出すあの姿は、 かけがえのない美の基準を、私たちの胸に植え付けたのだった。 (マーズ)
『おひめさまえほん』 著者:武鹿悦子・立原えりか他 / 絵:高橋真琴 / 出版社:小学館1982(絶版) 復刊『おひめさまえほん』 / 出版社:小学館2003
2002年11月20日(水) 『シルクロードの鬼神』その1
2001年11月20日(火) 『なぞのうさぎバニキュラ』
2000年11月20日(月) ☆ 訂正記事
それでも、『ごんぎつね』だけでなく、『めもあある美術館』など、 小学校時代の思い出に残る物語もいくつかはある。 けれど、それよりはるかに、図書室で借りて読んだ、 世界各国の民話伝承をベースとしたアンソロジーの方が ずっと私の中に残っていた。 ただ、「三つ子の魂 百まで」というけれど、 『めもあある美術館』のことを大人になって、 とても懐かしく思い出すようになり、 あるサイトのオーナー様のご厚意で、 再び読むことができた時、 初めてこの物語を読んだ時のさまざまな思い、 不思議なこの物語に触れることのできたその喜び、 そういうものを追体験することができた。
中学生の頃は、思い出が空っぽだ。 なぜだか分からないけれど、教科書の内容を ほとんど思い出すことができない。 当時、自分自身が一生懸命読んでいた本は、 よく覚えている。 毎日、毎日、友達と一緒に通った本屋さんの棚の本だって覚えている。 友達が読んでいた本だって、知っている。 でも、教科書に載っていた作品は、思い出せない。 思い出したくない何かが、そこにあるのだろうか(笑)
しかし、高校の教科書に載っていた 安部公房は、強烈だった。 そう、教科書で『棒』を読んだ時、 そのシュールさには驚いた。 高校生の時、現代国語の授業で読んだっきりだが、 今もふっとラストシーンを思い出す。 日曜日のデパート雑踏の中で、 棒になり、階段の手すりをすり抜けて落ちていく男。 当時は、設問に答えるべき「答え」としてだけしか男のことが分からなかった。 面白いとは思ったが、理解を超えるものだった。 だが今は、その男の渇いた孤独を理解できるようになってきている。 映像のように鮮やかにそのシーンが思い浮かぶし、 床に落ちた棒の虚ろで乾いた音も確かに聞こえる。
また、同じ安部公房作品の『赤い繭』もショッキングだった。 数年前に、知人から見せてもらった教科書の中の一編。 これを読んだ高校生たちは、どんなことを考えただろうか。 これもラストシーンだけれど、 男が、糸をたぐりどんどんと引っ張っているうちに、自分自身がほつれはじめる。 そのうち、糸は勝手にほぐれていき、ついには、自分が消滅してしまう。 そして、そこには大きな「繭」が残り、その中でやっと安息を得る男。 国語の授業ではないから、何の意味づけもテーマ探しもせず、 ただただ、唖然とした気持ちのまま、本を閉じた。 仕事や人間関係に疲れ切った時、 そんな時によく、この物語を思い出す。 私も無になりたいのだろうか。 私も解放され繭になりたいのだろうか。 そんなことを自分に問いながら。
つまらないと思ってはいても、 教科書は、確かに「きっかけ」をくれた。 普通なら、自分が選ばないような本との出会い。 自分の好みからはかけ離れているようにずっと思っていた本を 確かに、引き寄せてもくれていたのだった。
※物語は私の記憶の中で再編されて、 元々の物語とは大きく変化しているかもしれません。 (シィアル)
『友達 棒になった男』著者:安部公房 / 出版社: 新潮文庫1987 『壁』(「赤い繭」収録)/ 出版社:新潮文庫1969 ※『棒』はのちに、『棒になった男』として、戯曲化されました。
2001年11月19日(月) ☆新聞の訂正記事 その(2)
2000年11月19日(日) 『万国お菓子物語』
大学生の頃、友人が、
「教科書で取り上げられていた作品は全部、本で読んだ」
と言った時、正直、とても驚いた。
学生の頃から、本を読むことは好きだったけれど、
どうしても、教科書の作品群をわざわざ本で読もうとは思えなかった。
そんなことを言ったら、友人は、
読書家じゃなかったから、教科書を読もうと思ったのだ、と。
好みの本も作家も分からなかったから、とりあえず教科書作品を読んだと、
付け加えた。
なるほど。
教科書と、そういうつきあい方もあるのだなと、
妙に感心した。
そうか、教科書は、読書指南のガイドブックだったのか。
私にとって、国語の教科書は、割とつまらないものだった。 作品がつまらなくも思えたし、 みんなが同じ思いを共有しなければならないような、 作品それぞれへの意味づけが、よけいなことのようにも思えた。
それに、小学生の頃のどうにも苦しかった授業の思い出とかも、 若干影を落としている。 国語の時間はつまらないと。 小学校3・4年生のころ勉強した「ごんぎつね」は、 ラストの非情とも思える悲劇に授業中にもかかわらず、 涙がこぼれそうになった。 今でも心に深く残る物語であるが、 あのころは、その感動は長くは続かなかった。
当時の先生は、時間ができると書写と称して、 教科書の書き写しを課した。 どんなに大好きだった「ごんぎつね」でも、 その日、その時間のノルマを果たすために、 ただただ文字を書き連ねることだけを繰り返していれば、 感動もへったくれもない。 おまけとして、スピードまで要求されるこの書写で、 クラスの大半の子が字が下手になっていったのだった。(つづく) (シィアル)
『ごんぎつね 最後の胡弓ひき ほか十四編』 著者:新美南吉 / 出版社:講談社文庫1972 『ごんぎつね―新美南吉童話集』/ 出版社:偕成社文庫1982
2002年11月18日(月) 『ゆき』
2000年11月18日(土) 『心霊写真』
メアリー・ポピンズ、第ニ作。
帰ってきた、帰ってきた! しかも、思いもかけない方法で。
ジェインとマイケル、双子のジョンとバーバラのもとへ、 あの完璧なナニーが!
子どもたちの想像をかるがると超えてしまうくらい、 すばらしいファンタジー世界をのぞかせてくれるのに、 後でその話をすることを絶対に許さないメアリー。 まったく関係ない、知らない、私を侮辱してるのか?と怒りだす。 でも、どこかに、きらっと光る証拠が残っていて、子どもたちは 目くばせをして納得するのだ。 本気で怒るその様子が、昔お世話になった学校の先生方を 思い出させる。怒るべきだから怒っているのと違って、 本気で怒っているので、口が出せないのだった。
二作目の本書では、メアリーと子どもたちのたずねる 不思議な世界も、さらにスケールアップして、 しかも神聖なムードを色濃くもって描かれている。 生きること、死ぬこと、変わること、変わらないこと。
バンクス家の生まれたての赤ん坊とムクドリとの おなじみのやり取りも、さらに深みをおびてくる。 赤ん坊の最初の泣き声が、どんな悲しみを知ってのことか、 私たちがどうやってここにやって来たのか。 そんなことも、メアリーだけはすべて忘れない。 けれど、メアリーがだれなのか、それは誰にもわからない。 いつも何を考えているのやら、普通の大人とまったくちがう 人だということぐらいしか、私たちにはわからない。 メアリーがいつかまた帰ってきて、そして どんな夢を見せてくれるのかも。
「いつも、ほんとのことだけ、いうようにしています。」(/引用)
と得意そうに言うのも、ある意味、嘘ではない。
メアリーが見せてくれるのは、不思議な世界だけではない。 何でもファンタジーの砂糖衣で甘くするのではなくて、 しつけには相当に厳しい。 失礼な人にも負けていないし、誰にも自分の打ち明け話などしない。
そして、「かまうもんか!」と子どもが生意気を言うと、 メアリー・ポピンズは、こう言ってからかうのだ。
「かまうもんかが、かまわれた!かまうもんかが、ちゅうぶらりん!」 (/引用)
(マーズ)
『帰ってきたメアリー・ポピンズ』 著者:P・L・トラヴァース / 絵:メアリー・シェパード / 訳:林容吉 / 出版社:岩波少年文庫2001(新版)
半年も前の事になります。 学生時代から時々エッセイ等を愛読している先生の 新刊が書店に出ていたので、何気なく手に取りました。 ふーん、新潮も新書を出す事にしたのか。 家にかえってぺらぺらと見たら、御本人の文体ではなくて、 話し言葉を編集者が文章に置き換えたものでした。 雑誌のインタヴューや講演内容の書き起こしのような感じです。 なんだかいつもと勝手が違います。 日頃文章を書き慣れている著者(?)からみても、 喋った内容が他人の手によって文章になっているのは 不思議な感覚だったようで、まえがきで「一種の実験」と仰っています。
その「実験」は誰もの予想を超える大成功を納めました。 半年前私が首を傾げたお手軽な新書は、発売後半年で今だに 書店のトップセールスを続けています。 その本こそ今年最大のベストセラー『バカの壁』。 驚きましたね。 かつての東大解剖学教室の主、ヒット作『唯脳論』の著者、 読み易い評論や楽しい随筆で人気の養老孟司先生御自身も、 このブームは予想外だったのではないでしょうか。 あえて崩した話し言葉にしたとたん爆発的に本が売れたというのは、 つまりこれまでは内容が面白くても文章が難しくて読めなかったという事? あるいは「著作」というより話の「ネタ本」という感じが受けたのでしょうか。
御自分自身の文章より語り下しのほうが売れてしまった養老先生、 やはり先日新聞インタヴューに書き言葉について語っていました。 『新聞の文章などは、今の私達が樋口一葉を読むように難しく感じるのかも』 今や教科書に漱石が載らなくなるくらいですものね。 私達はたまたま家族や友人等周囲に本好きがひしめいているので 普段はそれほど感じませんが、そうか、わざわざ固い書き言葉を読む事に 喜びを覚えるというのは今どきかなり変な趣味なのかもしれません。
以前シィアルが 『新書ブームにもの申す』として書いた内容が やはりこの新書でも感じられます。
『どれも「素材」がいいから、興味深いし、面白く読める。 でも、「本」としては、作りが荒い、雑な印象を受ける(シィアル)』
しかしこれだけ「雑」なほうが売れてしまうと、 本来の「本」のほうが特殊な嗜好品になる日も近い? (ナルシア)
『バカの壁』 著者:養老孟司 / 出版社:新潮新書
2001年11月14日(水) 『最新ニュースが一気にわかる本』
2000年11月14日(火) 『魔女の1ダース』
メアリー・ポピンズのシリーズ第一作。
黒いコウモリ傘をさして、東風にのってやってくる 背の高い、家庭教師のお守りさん。 若すぎず、かといって年齢不詳、 黒い髪、青い目、やせてキリッとしたその姿は、 「ちょっと、木のオランダ人形みたいね」とジェイン。
その登場のしかたは、昨日紹介した『フレッドウォード氏のアヒル』に 似ていなくもなくて、またシンクロしているようだ。
主人公は、桜町通りに住むバンクス家の子どもたち、 姉のジェインと弟のマイケル、双子の赤ん坊に、 彼らをつかさどるメアリー・ポピンズ。 メアリーと一緒なら、何をしていても冒険が待ち受けている。 たとえ子ども部屋のなかにいても。
口調はかなり手きびしいけれど、 決して甘やかしもしないけれど、 子どもたちを磁石のように惹き付ける。 わかっているのかいないのか、それすらもわからない同志。 魔力と魅力の境い目が見えなくなってしまうほど 不可解なあの女性、それがメアリー・ポピンズ。
ショー・ウィンドウに自分の姿を映して見るのが、 街を歩く第一の理由にすらなる、うぬぼれの強さ。 たとえば、ガイ・フォークスが一週おきの日曜の晩ごはんに 何を食べたかまで知っているような、 とんでもないほどすばらしい知り合いがたくさんいて、 次の瞬間にはなにごともなかったかのように切り替える。 今私たちの隣にいても、その眼の奥は、 空の星と踊っているのかもしれなくて。
メアリーがお休みの日に、うきうきと街に出て、 貧しいボーイフレンドとデートする場面には ああ、メアリーも普通の女性なんだ、と思ったりするけれど。 帰ってきて、子どもたちに行き先をたずねられると、 「おとぎの国。」と答え、質問責めにされるや、 「知らないんですか?だれだって、じぶんだけの おとぎの国があるんですよ!」とあわれむように言うのだ。
大人になると、プチご褒美を自分にあげて、 ちょっとした達成感を日々味わってゆくのが健康上良いという。 それはたぶん、私たちがもう、 本当に必要なときにだけ、メアリーがくれる 甘さひかえめの愛情を、子どもたちがするように、 せいいっぱい大事に受け取ることができないから。
気持ちがしずんだときは、メアリーのおまじないを唱えてみる。(マーズ)
「しんぱいをしんぱいしてたら、しんぱいになっていいでしょ!」 (/引用)
『風にのってきたメアリー・ポピンズ』 著者:P・L・トラヴァース / 絵:メアリー・シェパード / 訳:林容吉 / 出版社:岩波少年文庫2000(新版)
2001年11月13日(火) 『イギリスのかわいいアンティークと雑貨たち』
かの動物語を解する名医、ドリトル先生の家には、 白いアヒルの家政婦、ダブダブが君臨していた。
略称『F氏のアヒル』では、腕の立つアヒルの家政婦「ローズマリー」が、 物語のもう一人の主人公である。 田舎へ引っ越した若手売れっ子作家、 ケヴィン・フレッドウォードのもとへ、ローズマリーがやってくる ところから、物語は始まる。
先日、ドリトル先生の話をしていたとき、同じ趣味の大先輩が 「あの、アヒルの家政婦さんが出てくる漫画、何だっけ」 と振ってこられたのだが、私が知らないというと、 貸してくれたのだった。
さて、ローズマリーがあらわれてからというもの、 ストリートチルドレンを体験し、殺人鬼ホラーが得意だった ケヴィンのまわりに、家族や仲間が増えてゆく。 やがてケヴィンは心機一転の児童書で、作家としてもチャンネルを変えた。 9冊という長い物語のなかで、ケヴィンは人との付き合い方を ローズマリーの示唆から学び、実践してゆく。
最後の最後まで、ケヴィンの跳ばねばならない対人関係の ハードルは高く、その都度コケながら、弱さを思い知り、 子ども時代の傷を乗り越えねばならない。 自分の人生を生きるために。 けれど、そのたびに乗り越えるからこそ、同じ問題はもう訪れない。 このことは、RPGゲームが私達に教えてくれる真理ではないかと 思っている。
順を追って登場するキャラクターたちも魅力的だが、 なんといっても、最初に『家族のようなもの』を形づくるのが アヒルの家政婦で、次が子犬、というのは順序正しい。 その後、近所に人間の友人ができ、元恋人とのあれこれやら、 過去との再会などを経て、庇護するべき子どもや、 かけがえのないパートナーと出会うケヴィン。 ローズマリーの取り仕切る一家の人数は、なんと 増えていったことだろう!
それは夢だというだろうか? でも、私だって信じている。それは法則だと思っている。 自分らしい生き方をして、人と関わることを怖れなければ、 いつか誰のまわりにも、温かいつながりができていって、 居場所も─自分以外の誰にも埋められないような窪みも─ 形づくられてゆくのだと。 庭の犬一匹と、部屋でくつろぐ猫二匹をながめながら、 次はなんだろうかと思うこのごろである。 もし私が逃げていたら、彼らはここにいなかったのだから。 (マーズ)
『フレッドウォード氏のアヒル』1-9 著者:牛島慶子 / 出版社:アスカコミックス(角川書店)1992-1995
2001年11月12日(月) 『小さいとっておきの日曜日(2)』
2000年11月12日(日) 『ハンニバル』 (3)
子ども部屋からの冒険、その続き。
『ピーターとウェンディーのすれ違い』というのは、 男と女の『夢の見かた』の違いだと書いた。
と同時に、この奇妙な物語は、親と子のすれ違いと 理屈を超えた結びつきをも描いている。 『お母さん』と徹底的にすれ違ってしまったのがピーターならば、 ウェンディーをはじめとするダーリング家の3人姉弟は、 夫婦関係はすれ違っていても、受け入れてくれる親をもった 幸せな子どもたちである。
つまり、彼らは、親として、かけがえのない『子』を 受け入れ、きちんと仕事をするからというので、 犬のナナを『乳母』としても受け入れる人たちなのだ。
「ただ考えていたんだ、」 ピーターは、少しこわごわ言いました。 「ぼくがみんなのおとうさんだってことは、 ただの作りごとだねえ?」 「ええ、そうよ。」 ウェンディーはしかつめらしく答えました。 (/引用)
ピーターの感じた不安は、大人になりたくない少年の恐怖が 言わせる、現実と空想の区別がつかないピーターだけの言葉だろうか。 しかし、考えてみれば、世のなかのことは、すべて 『つもり』のなせるわざと言いかえてもいいのだろう。 『生まれた』と思い込み、『私』という人生を背負って、 名前そのものになって生きているが、これも別の次元から見れば、 『生きているつもり』なのかもしれない。 生まれたときから世話されているから、『親』。 お腹をいためて産んだから、『わが子』。 般若心経の『一切空』ではないが、世界のすべてが幻であっても、 そのなかで私たちは一心に自分の役割を演じ続けている。 『お金』だって、ただの紙きれや金属の塊であるものが、 それさえあればたいていのことは解決する、という『つもり』に なることで、経済を循環させている。 『愛している』には勘違いもあるかもしれないが、 『受け入れる』という態度には、無条件の永遠性が見え隠れする。
『ただの作りごと』、つまりピーターの好きな『うそっこ』と、 私たちが信じきっている『つもり』のあいだには、 いったいどれほどの違いがあるというのだろう。
ピーターとほかの子どものちがうところは、 みんなは「うそっこ」だということを知っていますが、 ピーターにとっては、「うそっこ」と「ほんもの」とは、 まったくおなじなのです。これが時々、みんなを閉口 させるのです。(/引用)
知っていても、いつのまにか『うそっこ』と『ほんもの』を 人はまぜこぜにしてしまう。 夢の島・ネバーランドに住んでいる海賊も、インディアンも、 迷い子の男の子たちも。 みんな、それぞれの役割を受け入れて殺し合いまでするのだが、 ふとしたきっかけで、役割はゆらぎ、逆転することもある。 ちがう人生に、すりかわって夢を見るときもある。 思いもよらずしのびよった影に、自信を吹き消される瞬間も。
私達が『今』を生きて、そして死んでいったとき、 死者はただ忘れ去られてゆくのだという作者のあきらめもまた、 ページの片隅に、寂しさをにじませている。 妖精ティンカー・ベルの粉をかけ忘れたために、 そこだけ飛べなくなってしまったのだろうか。
そしてまた、語り手は、ピーター以外のだれも、 不当なことをされて期待を裏切られ、傷ついた子どもが、 最初の痛手から立ち直ることは できないのだとも言っている。 ピーターだけは、『忘れる』ことで、それができるのだと。 そこが、ほかのぜんぶの子どもたちと、ピーターの 本当の違いなのだと。 (マーズ)
『ピーター・パン』 著者:J・M・バリ / 絵:F・D・ベッドフォード / 訳:厨川圭子 / 出版社:岩波少年文庫(新版)2000
2002年11月11日(月) 『ビロードうさぎ』
2000年11月11日(土) ☆ アメリカ大統領選
ピーター・パンといえば誰でも知っている 永遠の少年だけれど、バリが1902年に最初のピーターを 送りだすまでは、そんな少年はどこにもいなかったのだ。
いや、はたしてそうなのだろうか。 ピーターはやっぱり、もっともっと前から、 子ども部屋の窓から、出入りしていたのではないだろうか。
本書は1911年刊行の『ピーター・パンとウェンディー』の新訳。 ピーターとウェンディーのすれ違う関係を借りて、 男と女の「夢の見かた」の違いを描いた本書は、児童書と呼ぶには ほろ苦く、残酷な面も併せもっている。 ディズニーのキャラクターが一般化されているおかげで、 特にウェンディーは、ずっとアニメの少女のイメージ。 ピーターはといえば、読みながら徐々に挿絵にあるような 裸足の少年に近づいて、ケンジントン公園でたずねた銅像も なつかしく思い出した。 そして、鉄のカギ爪を振りかざす孤独なフック船長には、 『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジャック・スパロウ船長 (ジョニー・デップ演じる)が、どこか重なってしまったり。
ダーリング家の子どもたちをネバーランドへ連れてゆく途中、 ちょっと離れていると、ほんの数分前のできごとを忘れ、 旅の目的だったはずのウェンディーの存在さえ 定かでなくなるピーター・パン。 まるで、仕事に追われて忙しいお父さんが、家族の誕生日や 何か大事なことを、すっかり忘れてしまっているみたいに。
「お父さん」と、「お母さん」。 ピーターとウェンディーも、ネバーランドでは 迷子の男の子たちのお父さんとお母さんになったふりをするのだが、 ウェンディーたちの本当のお父さんとお母さん、 とりわけお母さんについての描写が多くて深いのには驚いた。 お母さんというものは、子どもが眠っている間に、 子どもたちの「心の整理」をするのだという。 そしていなくなった子どもたちを待ちながら、ずうっと、 窓を開けたままにしておくのだ。
ウェンディーも、弟のジョンにもマイケルにも、 お父さんにももらうことができなかった 「お母さんの口の右すみに浮かんでいるキス」をもらったのは、 いったい誰だったか。 それは、お母さんも少女のころに知っていた、 けれど今はもう信じていない、 ピーターという名の少年。 お母さんの息子になることもできたけれど、夢の国へ 飛んでいってしまった少年。 誰よりもピーターのことを知っている語り手の「わたし」が 一番好きな人も、ウェンディーたちのお母さんなのだ。 (マーズ)
『ピーター・パン』 著者:J・M・バリ / 絵:F・D・ベッドフォード / 訳:厨川圭子 / 出版社:岩波少年文庫(新版)2000
先日、展覧会に行った帰り、その1時間後に始まる超多忙の津波の音を 水平線の向こうに聞きながら、ちょっとだけうろうろした。
そのときに、新しくできていた本と雑貨の店を見つけ、 2階への階段をのぼっていった。 あとで店の人に聞くと、夏にできて、定期的に開店するように なったのは、ここひと月のことらしい。 それにしても繁華街の一角なので、家賃のことなど 想像してしまう。若い世代が午後に集まる店なのだろうか、 それとも過去をなつかしむ大人?
セレクトされ、ジャンル分けされて壁に並んだ古書と、 60年代なのか70年代なのか私には正確にわからない雑貨、 地元のアーティストが作ったグッズなどもある。
ほとんどが流通する古書だったので、定価よりかなり安い。 ゆるやかな「過去」の流れが、棚にそって続いている。 それらの何割かは、郊外の大型古書店で探せば手に入るが、 「過去」をすくい取る網は、大型店には置いていない。
知るかぎり、本のセレクトショップは地元になかった。 本と雑貨のあるカフェ(ここのカフェは数席だけど)には 経営者としての夢を感じている。本が7、雑貨が1、お茶が1、 外国が1、くらいでいいと思う、私には。
今年出ていた、絵本のガイドムックを半額で買って、 階段を降りた。
名刺がわりになっている、手づくりのブックマークを 何人かの人に見せて、少しばかりのPR。
このところめったに街中の書店へ足を運ばない。 児童書の古典を探して読んでいるから、 情報さえあれば、図書館やネット、人に借りたりで済んでいる。 勤めているわけでもないし、車の生活だから、 ついそうなってしまうのだ。 でもやっぱり、街も歩かないとね。 (マーズ)
2002年11月07日(木) 『アリスの見習い物語』
2001年11月07日(水) 『台所のマリアさま』
1900年生れのE・グージ。
イギリスで最初に出版されたのは1946年。 グージの作品は初めて手にする。 J・K・ローリングが、ハリーの原点といえるほど 愛読した作品だというのも、後から知った。
イギリスの児童書らしい几帳面さと、 少女の一途でリリックな感性、母への思慕、歴史ある一族への想い。 孤児となって、英国の「ウエスト・カントリー」と呼ばれる ロンドン東南部シルバリーデュー村の、 メリウェザー一族の城へ引き取られた少女マリアの身に つぎつぎと起こるファンタジイの洗礼と、 奇妙にゆがんだ登場人物たちの洗礼。 このゆがみに、今はない芳香が漂っている。
パラダイスの丘、 ムーンエーカー館、 料理番のマーマデューク、 コーンウォールの誇り、ピンクのゼラニウム。 海からやってくる白馬たち。
そんなあれこれが、なぜこうも なつかしく思えるのだろう。 イギリス人でもないというのに! お話を読んで育った者のなかに、 少しずつ溜められていった毒が効いてきたのだろうか。
ところで、マリアが暗い松林に足を踏み入れる描写は、 一瞬、私を、時間も場所も越えて、京の都を舞台にした 『えんの松原』(伊藤大八著)の世界に飛ばしてしまった。 ローリングの感じたようなシンパシィが 両者にあるのかどうか、全く定かではないが。
他にも、宝石にまつわるエピソードで、これはグージのほうが、 L・M・モンゴメリの『エミリー・シリーズ』を愛読していたのでは、 と思わせられる場面もあったりした。 牧師とのやり取りや、孤児であること、一族のなかでの立場や 他の誰にもできなかった問題の解決など、 エミリーとマリアの共通点は多いように思う。
この福武文庫版は、1964年にあかね書房から、 国際児童文学賞全集の一冊として出版されたものの復刊。 石井桃子の解説に書かれているが、原書のなかで、 デボン州の風俗や細々とした部分を省略したという。 この後で出た岩波版(同じ訳者)では、全部かどうかは わからないが、略した部分も復元されているようだ。
アリソン・アトリーの『時の旅人』がそうであるように、 特別な場所があり、その土地に根付いた一族がおり、 時代時代に、自分の分身や、身内の分身のような人物がいる。 「家族」という壊れがちな単位を越えて、時を旅する「同族」という 「流れ」への信頼感と安心感。 その感覚はこれらに共通しているように思える。 『時の旅人』では実際に過去へ旅をするが、 『まぼろしの白馬』では、過去が現在と混在している という違いはあるけれど。 (マーズ)
『まぼろしの白馬』 著者:エリザベス・グージ / 絵:ウォルター・ホッジス / 訳:石井桃子 / 出版社:福武文庫1990
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管理者:お天気猫や
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