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一度は人間界に帰った4人の子どもたち、 ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィが ふたたびそろってナルニアを訪れる。
ただし、その間にナルニアでは数百年の時が流れていた。 4人が治めた頃のナルニアは黄金時代と呼ばれたが、 今は外から来たテルマール人が治めるようになって久しい。 弾圧を受ける「ものいうけもの」たち、 小人や妖精たち。眠ってしまった樹々の精たち。 彼ら「もとナルニア」の者たちの存在を信じる若い王子、 カスピアンを王座につけるため、子どもたちは呼ばれたのだった。 コルネリウス博士のもとで、ひそかに侵略の歴史の真実を学んだ カスピアンは、独裁者ミラース王のもとを去る。
今やアスランそのひとと同じく、はるかな伝説となり、 わずかな人々にかろうじて信じられている ケア・パラベル城の4人の王たち。 その彼らが、初めてナルニアに来た頃の子どもに帰って (タイムラグのおかげで)、ナルニア立て直しに活躍する。 彼らがナルニアへやってくるゲートが、ちょうど「さいごの戦い」と 同じように、駅のプラットフォームなのは興味深い。
廃墟と化したケア・パラベル城に到着した4人には、 その後、長い飢えと疲労の苦しい旅が続く。 世界が変わってしまった今、何を信じればいいのか。 一行の、そしてナルニアの人々の問いかけは、 ルイスが古い民を「もとナルニア」と呼んだように、 二度の世界大戦を経て、大戦前から生きているルイスもまた、 新しい世界になじめないという隔絶感をあらわしているようだ。
終盤は、カスピアン軍と敵軍の果し合いや裏切りなど、 血なまぐさい場面も多いが、そのなかにも、 アスランの周囲ではバッカスたちの陽気な宴が描かれている。 アスランの旗のもとに、アナグマの松露とり、 小人のトランプキン、ネズミの騎士リーピチープといった、 ファンにはおなじみのキャラクターの登場をまじえながら、 新しい伝説が、かたちづくられてゆく。
今回は、子どもたちのうち、末っ子のルーシィだけが つねにアスランの呼び声を聞き、姿を見ることができるが、 他の子どもたちは、最初、アスランを求めながらも なかなかその姿を見ることができない。 物語の最後にアスランが語るとおり、ピーターとスーザンは、 成長してしまい、もうナルニアへ訪れることはないのだ。 その一抹のさびしさが物語に入り込んできたことは、 ナルニアが黄金時代を過ぎてしまったことと絡んで、 終わりよければ、では済まない複雑な読後感を与えている。 (マーズ)
『カスピアン王子のつのぶえ』 著者:C・S・ルイス / 絵:ポーリン・ベインズ / 訳:瀬田貞二 / 出版社:岩波書店1966
原題は、『ライオンと魔女と衣装だんす』。 英国の田舎の屋敷にある衣装だんすの奥に、 異世界ナルニアへの入り口がある─という有名な場面で 始まる、シリーズ第一巻。
偉大なるライオン、アスランのもとで、 人間界から来たピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィの 兄弟姉妹が活躍する物語。 善なるアスランをおびやかす悪は、白い魔女。 ナルニアを永遠の冬と化し、魔女の塔には、 石に変えられたナルニアの民が動かぬ彫像となって立ち尽くす。
ところで、悪い魔女と冬、塔というと、新しいファンタジーでは 『レイチェル』シリーズを連想する。 レイチェル第一巻のタイトルにある『滅びの呪文』も、 この白い魔女の十八番である(『魔術師のおい』参照)。 魔導師ラープスケンジャとライオンのアスラン、 彼らと魔女や子どもたちの力関係も、やはりナルニアへの オマージュから生まれたのだろう。
さて、最初にナルニアを訪れるのは、末っ子のルーシィ。 なぜか一本の街灯がともる雪の森に出たルーシィは、 フォーンのタムナスさんに出会う。 やがて全員がナルニアへやってくるのだが、 エドマンドだけは、弱さによって白い魔女にからめ取られている。 本書のテーマとなっている善悪の戦いとともに、 聖なる犠牲と復活に深くかかわるのが、このエドマンド。 他の子たちは、衣装だんすのなかに入ったときも、 扉を全部閉めてしまうのは非常識なこと、という良識が あるのだが、エドマンドだけは、ぴったりと閉じてしまう。 そのあたりも、ルイスの観察眼は抜け目ない。
アスランの力で魔女の力が弱まると、 雪に閉ざされていたナルニアが、春へと変貌してゆく。 その様子は、アニメーションを見ているような躍動感があり、 アスラン復活の喜びと双璧をなす見どころだろう。
今回読み返してわかったのだが、 『ライオンと魔女』でナルニアへの入り口となる屋敷の持ち主、 不思議なできごとに理解を示す老いた学者先生は、 『魔術師のおい』の主人公にしてルイスの分身、 ディゴリー少年であった。 (マーズ)
『ライオンと魔女』 著者:C・S・ルイス / 絵:ポーリン・ベインズ / 訳:瀬田貞二 / 出版社:岩波書店1966
2002年07月30日(火) 『ゴーイング・ウイズィン』
2001年07月30日(月) 『シンプル・マーケティング』
ナルニア国の始まりを描く『魔術師のおい』は、 ナルニアの年代順では最初の物語。 第一作として発表された『ライオンと魔女』に登場した 街灯や衣装だんすなどの由来も明かされるため、 やはり物語を楽しむという原点からいえば、 最初に通して読む順序は『ライオンと魔女』から、 としたほうが良いように思われる。
私自身が発表順に読んだからで、年代順に読む場合の面白さ というのもあるとは思うけれど。 ただ、発表順だと、どうしても年代がごちゃごちゃに なってしまう。それも、この世界とナルニアを往き来する 子どもたちの体験する時間のSF的ずれを思えば、 混乱とは呼べないのかもしれないが。
本書では、偉大なライオンのアスランがどのようにナルニアを 創ったのか、そこに居合わせた子どもたちの冒険を通じて、 そして創造の直後にナルニアへ入り込んだ悪、魔女ジェイディスの 傍若無人ぶりとともに描かれる。 一方で全能の神、あるいはキリスト者の似姿としての アスランを描きながら、一方では、決して善に屈しない悪、 他者を受け入れない存在、 我が身がすべての存在が撒き散らす毒をも描く。 タイトルになっている魔術師こと、ディゴリーのおじさんの アンドルーにしても、ひ弱な老人ではあるが、身勝手さは ジェイディスと肩を並べている。
ナルニアの創生を見届ける人間界の子どもたちは、 遊び仲間のポリーとディゴリー。 ディゴリーは、異世界で見つけた魔女をめざめさせ、 人間界からナルニアまで連れてきてしまう。 病気のお母さんを治したいと願い、ときどき話の腰を折って しまうディゴリー少年は、ルイス自身の少年時代を思わせる。 ルイスの母は、ディゴリーくらいの年頃に病死してしまい、 以後、兄との仲間意識には支えられたものの、 情を示さない父との葛藤に長く苦しんだルイス。
ディゴリー少年はアスランに頼まれ、ナルニアの守りとするため、 天空の果樹園に魔法のりんごの実をとりにゆく。 ナルニアより何より、すぐに英国に帰ってこれを食べさせれば、 母親の病が治るかもしれない、という逡巡と、 結果的にアスランによって正しくもたらされた生命のりんごを 食べた母が元気になるくだりは、ルイスの切なる願望と 入り混じって、切なくなる。
ところで私は久しぶりに(三度目?)読み返して、 しごく納得のいったことがあった。 もうずいぶん昔、寝言で友人に「それがあんたのりんごの芯?」と はっきりしゃべったらしいのだが、 その理由が今になってやっとわかった。 私は知った。 「りんごの芯」が、ディゴリーの母が食べた、 ナルニアの守りとなったりんごのものであり、やがてそのりんごの芯が ロンドンに植えられて、魔法はもう失われたけれど、 すばらしいりんごに育ったこと、 そしてその木が、『ライオンと魔女』につながってゆくことを。 (マーズ)
『魔術師のおい』 著者:C・S・ルイス / 絵:ポーリン・ベインズ / 訳:瀬田貞二 / 出版社:岩波書店1966
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2002年07月29日(月) 『グリーン・ノウの魔女』(グリーン・ノウ物語5)
ナルニア国物語の最終巻。 偉大なライオンのアスランによって創造された国ナルニアの、 さいごの様子、さいごの悪との戦いが、あまさずに描かれる。
最初に読んだのはもう15年くらい前のことだ。 改めて読み直すと、以前ほどキリスト教的なイメージでは なく、むしろ21世紀に通じる精神世界神話に感じられた。 この15年の間に、現実世界で出会えた人々を思い、 見えない世界の計らいに感謝しながら、アスランの導きを再読した。
発端となる事件をひきおこす、サルのヨコシマと、 ロバのトマドイ。その名の通りの性格の二人組は、 アスランの名をかたって、ナルニアを滅びの方向に引きずり始める。 こんなことがきっかけになるのだろうか、と思うほど 簡単に、世界はほころび、やがて収拾がつかなくなる。 その成り行きは、政治や国のあり方についての示唆とも 受け取れて、居心地が悪い。 それだけのことで滅びてしまうということは、 ひとつの世界としての生命力が、それほどに衰えてしまった ということなのだから。
時代はチリアン王のすえ。 異世界である人間世界から訪れる子どもは、 ジルとユースチス。 ナルニアを支配下におこうとする戦好きのカロールメン人(びと)、 彼らの信奉するタシの神、 誰も信じなくなった偏狭な小人たち、 そのなかでアスランを信じる小人ポギンは チリアンたちと行動をともにし、裏方で旅をささえる。
このポギンは確かに、ナルニアの物語に影響を与えたといわれる 『指輪物語』や『ホビットの冒険』の小人族、ホビットを 連想させるキャラクターである。 旅の途中、料理をして一行をもてなす様子など、 とりわけ似ていて、トールキンの世界との意識的な交歓だろうかと (無意識的にルイスがそれをしたとは思えないので)想像した。
この物語でもっとも論議がわかれるのは、 人間世界の英国、つまり今までにナルニアを訪れたあの 子どもたち(老いた者も含めて)が、列車事故にあって、 その世界では死んでしまったが、こちらの世界では永遠の生命を 得ているという設定だろう。 ナルニアと強く深く結びついている子どもたちが ナルニアの死と同時に現実の世界で死んでしまうというのは、 物語の性質上、避けられないことかもしれない。 しかし、まだそのあとがあるのだ。 そこを力強く描いているからこそ、 本書はカーネギー賞を受賞したのでは ないだろうか。
シリーズを通して、発表年は異なるが、ナルニアの国が生れた瞬間から 終わりを迎え、その後の世界が始まるまでが描かれる。 アスランは言う。 私達はみな、本当の世界の写し絵、鏡に映った影のような 現実世界に生きている。 しかし、やがて旅立つときがやってくる。 真実、そう願う者はすべて、「さらに高く、さらに奥へ」 進んでゆくのだ。 あるいは、還ってゆくのだ。 「影の国」をあとにして。 (マーズ)
『さいごの戦い』 著者:C・S・ルイス / 絵:ポーリン・ベインズ / 訳:瀬田貞二 / 出版社:岩波少年文庫1986
今や子供からお年寄りまで、世界全体を巻き込んだ エンターテイメント中のエンターテイメント、 「ハリー・ポッター」シリーズ第5作目です。
4作目の華やかなゲーム設定とアクションにつぐアクションから一転して 今回はサスペンスにつぐサスペンス? 15歳のハリーは滅茶苦茶不機嫌。子供扱いされて何も知らされないのは 我慢がならないけれど、子供らしくかまってもらえないと淋しくなる。 頑張ったのに正当に評価されていないと不満を感じる一方、 そんな大した力は自分にはないと不安になって落ち込む。 傷付き易くて傲慢で孤独。ただいま思春期真っ最中。
ヴォルデモートの復活を信じない魔法省は、 ハリーとダンブルドア校長の証言を黙殺し、 監査役を送り込んでホグワーツを支配下に置く事を企みます。 ハリーにとっての大切な居場所である学校は、ひどく息苦しく 居づらい場所となります。 状況はあまりにもハリーに苛酷なので、ムカつくなキレるなと 言うほうが難しいのですが、それでも我慢して、落ち着いてハリー、と ほとんどハリーの理性と頭脳の役割を担ってしまったような ハーマイオニーのように、本に向かってしょっちゅう呼びかけてしまいます。
学年最大の行事がO.W.L.s(普通魔法レベル試験)だけ、 監査役の締め付けは常軌を逸して厳しく、しかも主人公はどん底、 というこの重苦しいシチュエーションで、 それにしてもなんで場面場面はこんなに笑えるのでしょうか。 あちこち思わず吹き出してしまうシーンや小ネタ満載で、 読んでいる最中はハリーには悪いような気がするくらい 笑いっぱなしでした。
主人公が一人で暗くなっている間、光るのはこれまでお馴染みになった 脇キャラの面々。 ハリーの友人の少年少女達は健気で颯爽と格好良くて、 ハリーを支える大人達は優しくて一途で可愛い! いろいろな面が現れて、成長してゆく各キャラに対する愛着もひとしお。 抑えに抑えた勢いがついに爆発するクライマックス、 ディテールの遊びのように見えた情報が伏線としてつながって来る手際、 毎度ながらお見事な技です。
作者発言から話題となっていた主要登場人物の死も、私としては 次回作からエンディングにかけての大きな伏線だと信じています。 5巻そのものの位置付けは、ハリー・ポッター後半部の始まり、 物語の終焉に向けての序章、といった控えめながらも 転機となる感じでしょうか。 いつも皆を助けてくれた小さな正義のヒーローは、 自らの運命と闘う若者になってゆく。 今は辛くても絶え抜いて、お父さんやその友達みたいな いい男になってね、ハリー。
原書を読みたいけれど厚さにたじろいでる皆様、 5巻は4巻より日常的な設定で、コミカルな場面が多いので 理解しやすいうえ、文章が更に読み易くなっています。 書店での値段に二の足を踏んでいる皆様、 amazon.comでUK版は3割引、 US版はなんと5割引!一度原書で読んでおけば、 6巻7巻は確実にずっと楽に読めますよ。 読み終わるとずーんと淋しくなってしまいますが、 読んでいる間の楽しさは格別。 さあ、一夏で一年分の魔法生活を! 日本語訳は2004年、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』 (静山社)というタイトルで発売される予定。お楽しみに。 (ナルシア)
『Harry Potter and the Order of the Phoenix』 著者:J・K ・Rowling / 出版社:Bloomsbury(ブルームズベリー:英国),Scholastic(スカラスティック:米国)2003
2002年07月25日(木) 『オペラ座の怪人』(その2)
2001年07月25日(水) 『死の接吻』
猫にとって、ひげは命。 危険をも教えてくれる、大切なセンサー。 でも、この絵本の猫(のひげ)は、もっとすごい。
ある日、釣りをしていた女の子が釣り上げたのは、 ふしぎなひげの白猫いっぴき。 自分のひげにぶらさがって、水から上がってきたのだ。 いったいどこからきたの? いったいいつから生きてるの? 誰かの猫だったの?
でも、女の子はそんなこと気にしない。 猫だって気にしない。 女の子の家で暮らすことになった猫は、 毎日楽しく遊んで過ごしていたものの、ふとした好奇心から 街へと出かけ、サーカスにさらわれてしまう。 そこで一躍人気者になるが、猫はさびしい。 もう一度、あの女の子のいる家へ帰れるか?
伸び縮みする魔法のひげで、いろんなことをやってのける猫。 歌も歌えば、絵も描くし、ボール遊びもひげでする。 ペンの線に赤、黄色、茶色などで簡単に色をつけた シャルメッツの絵を見ていると、いろいろ考えずに まずやってみればいいのだ、と思わされる。
猫が、サーカスを逃げ出して家に帰るために、 ひげを駆使して旅をする後半は微笑ましい。 どこかとらえどころのなかったような猫が、 人間くさくなるからだろうか。 世界じゅうの、行方不明の猫たちが、みんな、 こんなふうにひげを使えればいいのにと思う。
訳者の長谷川集平は、絵本作家・ミュージシャン。 (マーズ)
『とてもかわったひげのねこ』 (絵本)著者・絵:ビル・シャルメッツ / 訳:長谷川集平 / 出版社:福武書店1982
2002年07月23日(火) 『耳部長』
2001年07月23日(月) ☆ヤンソンさんが教えてくれたもの。
幸田露伴、幸田文、芥川龍之介、佐藤春夫らの 文章を引用しながら、 子ども時代の記憶や体験を通して明治以降「日本」の近代を 「観念的に」描く。
「そんな観念的な話をするな」というように、 今の日本では軽んじられやすい、『観念』という観念。 詩人・長田弘は、 「世界というのは、観念」 「観念を感覚できるかどうかということで ぬきさしならないのが、言葉の問題」と言い切る。
敗戦後の不思議な明るさをもった時代。 そのころ小学生となった著者は、 実体験と入り道は異なるが、同じように 記憶のなかにとどまってゆく名作と出会う。 ここに描かれた名作の多くは、私たちの世代までに どこかへ隠され、新しい作家たちに道をゆずった。 今こうしてひもとかれ、ふたたびの命を得るだろうか。
このごろ思うのは、私たちの子ども時代が 高度経済成長のまっただなかであったこと。 それまでの日本になかったものや思いにとりまかれ、 社会全体が上をめざしてがんばって、 やがてオイルショックが来て、繁栄の限界を刻まれる。 長田弘は、無という観念を、幸田文の描いた父母の喧嘩から 悟ったというが、私の場合は、オイルショックの感じが それに近いのかもしれない。
子どもにはどうしようもない、行き止まりの標識。 死は体験のなかにもあったけれど、無、死の後に来るもの、 とおそれたあの重たい恐怖は、死よりもはるかに手ごわかった。 幸田文の研がれた文章から無を知った少年は、 深く文学的な体験を記憶してゆく。
巻末には、「故郷としての『あの時代』をつくったもの」 として、さまざまな物の名前が記されている。 百葉箱、鉱石ラジオ、石炭ストーブ。 その多くが、なつかしの食玩商品となって、 ノスタルジーを誘っている。
いま、ここにある時間の奥にある、もう一つの時間。 ──言葉の仕事は、そのようなもう一つの時間をもった言葉を、 いま、ここにみちびく、祈りです。(/引用)
(マーズ)
『子どもたちの日本』 著者:長田弘 / 出版社:講談社2000
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佐藤初女さんの名前は、映画『地球交響曲』を観てから 知るようになった。「森のイスキア」という、異国風な 館の名前とともに。 そして、佐藤さんの活動を知ってから、食べることを おろそかにしていては、人は深く生きていけない ということを思うようになった。
佐藤さんは何冊かの本を出されているが、読んだのは 初めてで、扉をあけたとたん、亡くなった息子さんに 捧げられていることを知り、しばし呆然とした。
手書のメッセージとともに、食や暮らし、生き方にまつわる 数行の思いが集約されて、できあがった本。 こころの扉を開く「おむすび」として、佐藤さん直伝の おむすび作りも、写真入りで紹介されている。 巻末には、愛情こもった季節のレシピ集も。
「おいしいものを食べるのではなく、 おいしく食べることが大事」と佐藤さんはいう。 その人のつくった、何ということのないおむすびを、 ひとくち、食べる。それだけで、涙ぐんでしまうほど、 魂がゆさぶられる人が、たくさんいる。 そんなおむすびをつくる人、というイメージが、 読むにつれ、さらに深まった。
これまで、どうしてイスキアという名前をつけたのか、 知りたいと思っていた。 本書にはそのいきさつも、詳しく書かれている。 イスキアとは、イタリアにある島の名で、 ナポリの青年が生きる力を取り戻した故事にちなんだという。 島には修道院の遺跡なども残っているそうだ。
佐藤さんはクリスチャンで、悩みを抱えた人々の 受けとめ場所、再生へのきっかけになる、ふところのような 場所をつくりたいと、強く願った。 もともと、青森県弘前市の自宅で、「弘前イスキア」を 始めたのが、こういう形での奉仕活動の始まりだったという。 その活動によって多くの人と出会い、「森のイスキア」が誕生し、 やがて全国から、佐藤さんのつくる食事と佐藤さんを求めて 見ず知らずの人々が訪れ、そこでの癒しを、次への一歩と するようになっていった。
佐藤さんのいうように、 人はまわりからいくら諭されても、動けない時がある。 自分でどうどうめぐりに気づいて、変わるしかない。 死ぬまで成長をやめない人間の、それは特権だろう。
食べることの重みを考えていると、 ときどき出かける自然食のお店のことを思い出す。 ひとりでも何度か行ったが、一度行くと、また行きたいなと 思う。メニューがいつも変わっているわけではない。 季節の野菜や穀類中心の、やさしいごはん。 そこに行くと、自分をいたわることができるし、 食事によって、大事にもてなされていると感じる。 身体を癒しながら、心や魂までも、しみわたる滋養。
反対に、体調をこわしたとき、スーパーで買った栄養のありそうな 食材をいくら食べても、いっこうに回復しないことがある。 これは青々としたホウレンソウに見えるけど、中身は別の ものなんだなぁ、とがっかりしたりする。
誰かが愛情をこめてこしらえてくれた、身体に必要な生命力が いっぱいにつまった「ごはん」。 人に押し付ける愛情ではなく、流れ込む愛情。 私たちの体は、それをきちんと受けとめる力をもっている。 (マーズ)
『いまを生きる言葉「森のイスキア」より』 著者:佐藤初女 / 出版社:講談社2002
原題は『DREAM MAN』。 リンダを15冊ほど読んで初めて、これまでの 作品に似た設定に出会った。 男性が南部の刑事だった『二度殺せるなら』と 女性が霊能力者だった『黄昏に生まれたから』。 この二作が好きな方なら、『夜を忘れたい』も きっと気に入るだろう。
マーリー・キーンは、かつて霊能力者として捜査に協力し、 ある事件によって大きなダメージを受けた女性。 彼女は、回復をはかるためオーランドに移り住んだが、 一度は失っていた感知能力に目ざめてしまう。 しかも、相手は凶悪きわまる連続殺人鬼。 そのビジョンが、体験として流れ込んでくるのだ。 勇気をふるって警察へ出向いたマーリーは、 デーン・ホリスター刑事と出会う。
今回、デーンの盟友、オーランド警察の洒落者、トラメル刑事も なかなかに魅力的である。刑事ものの定石では、 案外、最も信頼していた仲間に裏切られ…などということも あるだろうが、リンダにおいて、それはない。 男性も女性も、友人は選んでいるのである。
途中からは犯人のモノローグも並行して入り、 捜査の結果、マーリーのビジョンの信憑性が裏付けられてゆく。 そして、お互いに殻を破って近づいてゆくマーリーとデーン。 二人で嵐のなかをドライブする場面は面白かった(笑)
いつも思うのだが、リンダの描く恋人たちの世界は、 ハリウッド映画にはできそうにない。 ラブシーンさえ適当(男性側から観た許容範囲)なら、大丈夫なのだろうけど。 そうなると、リンダでなくなるし、 ラブシーンを小説の1/10でも映像にしたら、 映像ではイロモノになるし、リンダファンも世の男性達も、 堂々と観れなくなる。
懲りない妄想をするならば、リンダなら、 『ハンニバル』を、サイコスリラーな場面はそのままに、 ラブシーンを10倍増やしても、納得がゆくように書くだろう。 リンダは主人公に犯罪者は選ばないが、 『ハンニバル』でのレクターは、ごぞんじのように、正当防衛くらいしか 暴力には走ってない。そもそも、クラリスみたいなタイプは リンダのヒロインとして、指定席に座ったようなもの。 …男性読者に嫌われるだろうなぁ、レクター博士。 (マーズ)
『夜を忘れたい』 著者:リンダ・ハワード / 訳:林啓恵 / 出版社:二見文庫2001
『からくりからくさ』の主人公「蓉子」が、「ようこ」として 登場する、子ども時代の物語。 書かれたのはこちらが後で、他の登場人物たちも 何人かは再登場している(過去の話であるが)。
意志を伝えることのできる市松人形の「りかさん」が、 おばあさんから託され、ようこのもとに来て、 やがてようこの人形として、人形の使命をまっとうしてゆく。 私たちは、『からくりからくさ』の蓉子が身に付けていた 不思議なほどの同調感、そこに触れた者が感染するやさしさ、 言い換えれば他者への寛容性をひもといてゆくことになる。 そして、この物語は、前作が大人(少女)の物語であったのに対し、 「人形」という造形物の「生態」や「記憶」を描いた という意味で、「おもちゃ文学」でもあるのだった。
ようことりかさんの出会いの物語、 ようこの仲良し、登美子との友人付き合い。 雛人形や諸々の人形たちの、感受性の波をつぎつぎと受け、 幻想と怪奇の面も強く描かれているが、 やはり、他者との距離、間合いといったものを学ぶ少女の 物語なのだと思う。その意味では、『からくりからくさ』との 共通したテーマがつづいている。
昨年、ある展覧会で、ラオスの少数民族の刺繍を見た。 そこにはやはり、「背守り」があった。 赤ん坊の衣類の、背中に刺繍された紋様が、 魔よけとなって子どもを守る、その「つもり」になる。 親の目にとどきにくい場所だから、魔が入り込まないよう、 護符をつけておくのだろうか。 「つもり」といえば、人形遊びもそうだろうし、 言い始めると、すべての社会生活が「つもり」になってしまう。 この物語のなかでも大切なモチーフとして登場する 背守りのことを、折に触れて私も思い返している。
※文庫には『からくりからくさ』の外伝となる『ミケルの庭』も収録。 (マーズ)
『りかさん』 著者:梨木香歩 / 出版社:新潮文庫、偕成社
惑星イスレアから無事に帰ってきたレイチェルと弟のエリック、 そして転がり込んできた(居候という意味で)モルペス、 2羽のプラプシー(人面鳥)のチビたち。 今回はなぜかパパがほとんど登場せず、ママと子どもたちの 家族の絆が強まっている。前回はママが(そういう意味ではパパもだが) ほとんど出てこなかったので、次回作ではどうなっているのだろう。
彼らが立ち向かわねばならない相手は、 魔女ドラグウェルの母ヒーブラと妹カレンからなる、魔女軍団。 こちらのほうは、女系も女系、全員が女。 しかし、本当の意味でレイチェルが魔女と立ち向かうには、 究極の善、魔導師ラープスケンジャの登場を待たねばならない。
タイトルにもある「魔法の匂い」とは、 誰かが魔法を使った痕跡、誰かの使う魔法に特有の匂い。 その跡をたどることで、レイチェルのように魔法を使う子どもも、 魔女も、相手の居場所がわかるのだという。
レイチェルは魔法の痕跡をさがして世界中を 瞬間移動して回るのだが、今回大きな役割を果たすのが、 アフリカ生まれの赤ん坊、イェミ。 無邪気なイェミと、いつも一緒にいるキタテハたちが 未知のおおいなる力を秘めていることに、 やがて双方が気づくことになる。 第一話ではレイチェルの弟エリックがそうであったように。
地球の子どもたちから見込みのある者を選び、魔女の手下に 仕立て上げようともくろむ魔女たち。 魔女に利用される少女ハイキとレイチェルの戦いも、 壮絶なものとなる。 イスレアと同じように、戦いの舞台は雪原。 地球の未来を決めるのは、大人ではなく、 子どもたちの意思。
そして訪れる大団円は、前回以上に すぐれてニューエイジ的であった。 (マーズ)
『レイチェルと魔法の匂い』 著者:クリフ・マクニッシュ / 絵:堀内亜紀 / 訳:金原瑞人 / 出版社:理論社2001
魔法少女レイチェルのシリーズ第一巻。 (魔法少女、っていうのは私が勝手につけたのだが)
ハリー・ポッターの後で出版された魔法系冒険ファンタジー群の なかにあって、いつも書店で見かけながら、 なんとなく引いていたのだが、読み始めると速かった。
個人的には、魔女に変身する少女(とかわいい弟)という設定から、 ハリーよりもむしろ、M・マーヒーの『めざめれば魔女』を連想する。 そして魔女の気味ワルさ加減は、『グリーン・ノウの魔女』(L・M・ボストン) の流れを汲むのでは、と推測する。 健康的なファンタジーではなく、ダーク。 そうと知っていたら、もっと早く読んだのに(笑) ただし、一巻には翻訳と校正が少し粗い箇所もあって、 いずれ修正されることを願う。
平和な生活を送っていた少女レイチェルは、ある日、 突然に、魔女によって暗黒の惑星イスレアにさらわれてしまう。 弟のエリックと一緒に。 そこは黒い雪に閉ざされ、太陽のない世界だった。 レイチェルは地球(宇宙)を守る魔導師によって魔力を与えられた 子どもたちの一人、モルペスに出会い、助けられる。 彼は、レイチェルこそ、イスレアにつれて来られた子どもたちの間で 「希望の子」として待望された救世主だというのだ。
どんどん魔法を自分のものにしてゆくレイチェルと イスレアを支配する冷酷な魔女ドラグウェナとの戦いが、 ビジュアルイメージ豊かに展開されてゆく。 雪のなかでの追撃や逃走、魔女と善なる存在、 人間のなかの善と悪の戦いといった構図は、 指輪物語風でもあるが、本質的にはナルニアを思わせる。
ダークなファンタジーと書いたけれど、エンディングの 大団円は、まさにナルニア的な神話世界である。 しかしそこに、続編へと続く種が仕込まれ、次の舞台は 地球となる。魔法をわがものとしたレイチェルの活躍に期待。 (マーズ)
『レイチェルと滅びの呪文』 著者:クリフ・マクニッシュ / 絵:堀内亜紀 / 訳:金原瑞人 / 出版社:理論社2001
2002年07月10日(水) 『シャングリラ動物園』
2001年07月10日(火) 『紫苑物語』
大魔法使いクレストマンシーのシリーズ、 4作中第2作にあたるが、邦訳では連作の完結編(現段階で)。 この世界ではイタリアが都市国家のまま現代にながらえている。 舞台となる架空の小国カプローナは、悪い魔法のたくらみによって、 ローマやミラノ、フィレンツェといった実在の都市との 抗争に巻き込まれてゆく。(ヴェネツィアの名が出てこない、と 思っていたら、最後にちゃんと場所を与えられていた)
クレストマンシーの少年時代を描いた『クリストファーと魔法の旅』 とはまた別の意味で、完成度の高いファンタジー。 保安官のごとく魔法使いを監視するクレストマンシーの活躍ぶりは、 シリーズ中でも白眉といえる。 といっても2作目らしく、あのぼうっとした目つきをしないクレストマンシーは、 強く頼れるヒーローで、とらえどころのなさが魅力の彼とは別人のようだ。
イタリアの小国、そして反目する勢力と聞けば すんなりと受け入れられる、『ロミオとジュリエット』の設定。 ただし、二つの名家モンターナとペトロッキがシェイクスピアと ちがっているのは、これらの家が、代々、大公に使える魔術師の家系 だったということ。 そして、ロミオとジュリエットは一組だが、こちらは何組も カップルができそうなところ(笑)。
「呪文使い」の両家は、歌に乗せて魔法を使い、カプローナの安定と 繁栄を紡ぎ出すのが仕事だった。 お互いに大家族で、相手方を蛇蠍のごとく嫌う彼らにとって、 「カーサ」と呼ぶわが館への愛情、連帯感はイタリアならではの 面白さもあるが、我が身の周辺にあてはめれば痒いところもあるだろう。
主人公のトニーノはモンターナ家の少年。 本人は出来の悪い魔法使いの卵と自覚しているが、一家は少年の 成長をやさしく見守っている。魔法使いにとって重要なパートナーである 猫の言葉がわかるのはトニーノだけだからだ。 そこにペトロッキ家の同じく出来の悪い少女アンジェリカが絡み、 世界を戦争に陥れようとたくらむ悪の勢力と立ち向かってゆく。
途中から重要な魔法のモチーフとなって登場する 「パンチ アンド ジュディ」の人形たち。 これを読んで実物を見たら、気楽に笑い飛ばせなく なってしまうことだろう。 といっても、実際に町角で人形劇を見たことはないのだが。 解説によれば、この英国伝統の人形喜劇のさらに原点は、 イタリアにあったという。
ともあれ、偉大なるローマに連なるイタリアの文化は、ヨーロッパの 人々にとって、泉のような意味合いをもっているといっていいだろう。 イタリアと魔法、という組み合わせは、少なくても私には、最初 しっくりこなかった。しかし、オペラの伝統を思わせる「歌う魔法」と なると、これ以上ないほどのマッチングだと納得したのだった。
もう一冊の外伝短編集『魔法がいっぱい』では、このトニーノと 『魔女と暮らせば』の主人公キャットが 共演する話もあるというので、楽しみである。 (マーズ)
『トニーノの歌う魔法』 著者:ダイアナ・ウィン・ジョーンズ / 絵:佐竹美保 / 訳:野口絵美 / 出版社:徳間書店2002
2002年07月09日(火) 『オリガミ雑貨BOOK』
2001年07月09日(月) 『教養としての〈まんが・アニメ〉』
私の好きなクリスティ作品をあげると、 No.1が『茶色の服を着た男』、No.2が『死への旅』で、 No.3が『バグダッドの秘密』だ。 なんだか、マイナーなラインナップだけど、 私はクリスティのシリーズものが苦手で、 読まず嫌いだとはわかっているけれど、 ポアロもミス・マープルもトミーとタッペンスも ほとんど読んでいない。
だから、高校生のある頃まで、 ミステリ好きでありながら、クリスティとはあまり縁がなかった。 何がきっかけだったのか、ある日、ずらりと並ぶ、 早川文庫のA・クリスティ作品の赤い背表紙に圧倒されつつ、 手を伸ばして、一冊を取った。 裏表紙のあらすじを読み、ポアロでも、ミス・マープルでもなく、 単発の冒険ミステリ(スパイ・スリラー)が何冊もあることを、初めて知った。 一番最初に読んだのが何だったのか覚えていないけれど、 高校生の私は、瞬く間に、クリスティの描く冒険譚に引き込まれていった。 以来私は、ポアロもマープルも出てこない作品だけを、 読むようになってしまった。
その中で特に好きだった冒険ミステリの中の一冊が、 『死への旅』である。 私は、ほとんど同じ本を読み返すことはしないのだが、 最近、どうにも懐かしくなって、 新しく本を買ってきてまで、読み直した。
鉄のカーテンによって、東西に分断された第二次世界大戦後の世界。 西側の優秀な科学者たちが次々と失踪していく。 今また、ZE核分裂という最先端分野を研究していた科学者が消えた。 共産国側の仕業なのか? 真相を突き止めるために、 スパイとして協力することになったヒラリーは、 行き先のしれない目的地へと旅立つ。
この作品が発表されたのは1954年。 この50年で、時代は、大きく変化してしまった。 高校生の頃、あんなにどきどきして読んだはずなのに、 いま読むと、物語のテンポは、緩慢にさえ感じられる。 しかし、もともとクリスティは、スパイ・スリラーといっても、 細部のリアリティにこだわっているわけではないから、 最近のスパイ小説のような緻密で臨場感たっぷりの展開を 求めてはいけない。 未知の世界への冒険と、ミステリの女王クリスティらしい謎解きを あわてずに、ゆったりと気楽に楽しまなくては。
そして、ロマンス。 冒険も、恋もロマンティックなものなのだ。 ヒロインが活躍し、冒険を成し遂げるだけでなく、 ちゃんとロマンスまでも手に入れている。 『死への旅』も『茶色の服を着た男』も、 そんなところが好きだったのかもしれない。 今でこそ、物語のヒロインたちが恋にも冒険にも 積極的にチャレンジして、どちらもうまく手中に収める話は珍しくないけれど、 クリスティのこれらの物語は、先駆けのようなものだったのかもしれない。 高校生の私には、男性顔負けの生き生きと飛び回るヒロインたちが とても魅力的だった。
そして、ゆっくりと時は流れ、 21世紀のヒロインは、昨日紹介のリンダ・ハワードの描く主人公たち。 冒険ロマンス好きのルーツを遡ると、 私の場合、そこにアガサ・クリスティがいた。
ところで、クリスティ。 ミステリや戯曲だけでなく、ロマンス小説も残している。 『春にして君を離れ』とか、そのうち読んでみようと思っている。
※原題は『Destination Unknown』 私の頭の中で、映画『トップガン』の挿入曲の Mariettaのカッコイイ『Destination Unknown』が ついつい、回り出してしまいます。 (シィアル)
『死への旅』 著者:アガサ・クリスティー / 訳:高橋豊 / 出版社:ハヤカワ・ミステリ文庫
2002年07月08日(月) 『ニューヨークの恋人』(その3)
☆リンダ版インディ・ジョーンズ。
舞台はアマゾン、ヒロインはジリアン・シャーウッド、
アメリカ人の考古学者。
インテリで気の強いジリアンと、
アマゾンのガイドにしてアラバマ生まれの無頼漢、
飲んだくれの仮面にナイトの精神を宿した
ベン・ルイスのラブ・アドベンチャー。
ベンがアラバマ生まれというのは、ファンにはおなじみ、
リンダ自身と重なる設定である。
その間延びしたしゃべり方に特徴があると描かれているが、
アメリカの読者なら、実感をもって理解できるのだろう。
学会で孤立したジリアンは、亡き父の残した地図をもとに、
石の都と呼ばれる失われたアマゾネスの遺跡、アンザルを探す旅に出る。
しかし、財宝目当ての異母兄リックをはじめ、危険な同行者に恵まれた
ジリアンが頼れる人間は、最初の予想に反して、唯一ベンだけだった─。
アマゾンを奥地へとたどるという遠征の道すがらには、
当然のこと危険がともなう。
一行には、殺し屋まで入り込んでいる。
命の危険と危険な男性たちとのダブルブッキングな旅だから、
ロマンス小説としての素材にもこと欠かない。
もちろん、女性はジリアンひとり。
帰り道で、ちょっと枯れたいい女が一人登場するので
お楽しみに。
「二度殺せるなら」の次に邦訳された作品とのことで、
そういえばまだ(笑)ヒロインが若いかな、とは思う。
なかなか素直になれないベンとジリアンの、
丁々発止のきわどい掛け合いがまぶしくもある。
(マーズ)
直球ストレートだが、タイトル通り、
英国のとある長高級住宅地で起こった謎の大量殺人事件の
てんまつである。実際に、ではない。
がしかし、そんなことは絶対に起こりえない、
などと無邪気に否定することも、
おそらくはできない。
原題は「RUNNING WILD」。
バラードの近年の作品タイトルは、
「クラッシュ」
「ウォー・フィーバー」(文庫では「第三次世界大戦秘史」と改題)
「コカイン・ナイト」
のように、犯罪への傾倒が顕著で、敬遠気味だった。
「奇跡の大河」以来、久しぶりに読んだのが本書である。
一冊にはなっているが、文字組の上下に余裕をもたせているので、
実質は中短編。
『パングボーン・ヴィレッジ』と名付けられ、
セレブリティーファミリーの住まう、
厳重にセキュリティをほどこされ隔離された住宅地。
1988年6月25日が、事件の起こった日となっている。
すべての家族の大人だけ32人がほぼ同時に殺され、13人の子ども全員が行方不明。
その犯行の真相を、精神分析医ドクター・グレヴィルの日誌が解き明かす。
ドクターと一人の刑事だけが知り得た事実は、
さらに未来への不穏な予測に満ちたものだった。
一対一の殺人にしろ、戦争にしろ、
暴力の現れ方は、状況によって変化する。
だが、人間が人間に対して行う暴力の底には、
共感はできなくとも、引き金となる、くりかえし刻み付けられたパターンが
「必ず」あるはずで、まったくの絵空事から暴力は生まれない、
バラードのそんなつぶやきが聞こえてくるような
始末記であった。
それは、「太陽の帝国」を読んだとき悟った(と思った)、
バラードの初期のSF的イリュージョンの故郷が、
彼自身の過去の戦争体験と陰陽を成して結びついていたことへの、
どこか安心をともなった眩暈に似た感覚を
思い出させる。
(マーズ)
2002年07月02日(火) 「金田一耕助に捧ぐ九つの狂想曲」
2001年07月02日(月) 『ショート・トリップ』
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管理者:お天気猫や
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