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☆再会の喜び。
ある日、ふっと、思い出す本があります。
本というよりは、その本を読んだときの気持ち。
漠然としていて、言葉には置き換えられない微妙な心の揺れが、
不意に蘇ってくる、そんな瞬間。
秋が深まり、遠くに見える山が色づいてくると、
ひんやりとして、清々しい山の空気が私の周りにも満ちてきます。
車の中にいても、職場にいても、
街の中の雑踏にいても、子供の頃の思い出と共に、
すぐそこに、いなかの山があります。
そして。
もうとっくに、本の題名さえ忘れているのに、
ある本を読んだときの小学生の頃気持ちも、
一緒になって、私の元に戻ってくるのです。
山の中で不意に迷ってしまった不安な思い。
何にも悪いことをしていないはずなのに、
山の動物たちから責められて、
どうなってしまうんだろうという怯え。
得体の知れない葉っぱのお化け。
本の題名も、あらすじもほとんど覚えていなくて、
わずかに葉っぱのお化けの挿絵をうっすらと覚えているだけ。
もちろん、その葉っぱのおばけの名前も分からない。
「えっと。“やじろべえ”に似た名前。」
何もかも分からないのに、
小学校の図書室の空気と共に、私の元に戻ってくる本。
えっと、書棚のあの辺にあったけ。
小学校に行けば、絶対に分かるのにと、
そう思い続けて、長い年月が経ってしまいました。
ずっと後になって、
マーズたちのおかげで、本のことが分かりました。
「やまのこのはこぞう」
かいつまんで、あらすじも教えてくれました。
ああ。
“やじろべえ”に似ていると思っていた名前は、
“このはこぞう”
…微妙に、似ていない(笑)
何と、子供の頃の記憶の曖昧なことか。
それでも、いつかめぐり会えたらいいのにと、
この本との再会をずっと待っていました。
地元の図書館でこの本を見つけ、
やっと、今日、読み返すことができました。
懐かしさと、ついにめぐり会えたという満足感。
何より、本のページをめくりながら、
私は小学生の頃の小さな私との再会を果たしたのです。
(シィアル)
※征矢清(そやきよし)/入手できる作品を一部ご紹介します:
「もっくりやまのごろったぎつね」(新装版)
「ガラスのうま」
「ねこっ原のぶちねこ」
「はっぱのおうち」
「A house of leaves」(「はっぱのおうち」英語版)
「ゆうきのおにたいじ」
空を飛ぶ猫たちのお話、第二幕。
第一作のところで書いてしまったけれど、
なんとなく、ゲドの「帰還」を連想させるタイトル
でもあるのだった。
田舎に新しい家をみつけた空飛び猫たち、
セルマ、ロジャー、ハリエット、ジェームズ。
落ち着いてみると、後にしてきた都会とジェーン・タビーお母さんが
なつかしくて、ハリエットとジェームズは、ふたりだけで、
生まれた場所への旅を敢行する。
私はついつい、連想のつばさをはためかせてしまう。
ゲドが、魔法の力を失い、故郷のゴント島へ、
そして自分の人生に立ち戻っていった姿を思って。
さて、久しぶりに見る都会で出会ったのは、
言葉を話さない黒い仔猫だった。
この不思議な子に出会ったふたりは、親がいないらしい
黒い仔猫の面倒をみながら、ジェーンお母さんを探す。
ハリエットやジェームズだけでなく、読者も、
子どもたちを早々と自立させて、順調に
自分の人生を歩んでいるはずのジェーン・タビーお母さんが
今どうしているのか、元気でいることを知りたくて
取り壊しの始まったスラム街でぼうぜんとしてしまう。
「ミイイ!」
「嫌いだ!」
としか言葉を発さない黒のチビ。
ハリエットやジェームズは、本当は急いでいるのだが、
猫らしく、ゆったりと時間をかけて、
チビの傷ついた心を落ち着かせてゆく。
無事にお母さんと再会した三匹には、その後、
またしても大いなる旅が待っていたのだった。
最後には、この仔猫にも名前が与えられる。
「まことの名前」が。
(マーズ)
「英米児童文学の宇宙」(ミネルヴァ書房刊2002)という評論集に、
「多文化社会と子どもの本」と題して、米国の日系作家アレン・セイの
「ミルクティー」(原題「TEA with MILK」)がとりあげられていた。
なぜか、この絵本は、私の本棚に数冊しかない英語の絵本の一冊である。
主人公の女性の名前が私と同じだからというので、
シィアルがいつだったかプレゼントしてくれた本。
この評論を読んで初めて、アレン・セイの絵本「おじいさんの旅」が
コールデコット賞を受賞していると知った。
著者と母(「ティー・ウィズ・ミルク」の主人公)をめぐる葛藤も、
この評論によって初めて知ったし、北米の
児童文学におけるこの絵本の位置付けにも納得している。
が、ひとつ気になったところがあった。
絵本を読んだことがある方でもおそらく見過ごしてしまう
と思われるので、あえて。
アメリカで生まれ育った主人公が、両親とともに日本に帰る。
慣れない日本で文化のギャップに悩みながら、
大阪のデパート(内装から心斎橋の大丸と思われる)で
働き始め、交際を始める男性と、初めてお茶を飲む場面。
画面の手前のテーブルには、着物姿の女性が、
奥のテーブルでは、男性と向かい合って座る洋装の主人公。
評論にも補完的に原画が掲載されているのだが、
モノクロで小さい。
評論の著者は、手前の女性客がミルクティーを飲む姿に
からめて、こう評している。
『口元を手で押さえて笑う女性客の様式化されたしぐさや
紅茶のスプーンを手みやげとともに箸のように、
直接テーブルの上においている不自然な姿は、
背後で紅茶を飲んでいる将来の父と母がのびのびと
自由に生きている時間に、
ついていけないことを示している。』(/引用)
たしかに、手前の女性は、スプーンを、カップ右側のテーブル上に、
縦に置いている。
しかし、絵本をよく見ると、
主人公の女性も、同じようにカップの受け皿ではなく、
テーブルの上に、縦にスプーンを置いているのである。
サンフランシスコで生まれ育ったにもかかわらず
そうしているということは、
著者アレン・セイがその事実にこだわっていないのか、
当時のアメリカではテーブルマナーとして一般的だったのかもしれない。
使った後のスプーンについては、カップの右側に縦置きする方法、
カップの向こう側に横置きする方法の2種類がともに伝統的らしい。
この場面は本来、仕事を通じて出会った異邦人である
主人公たちが、お互いに英語を使って話し、
「最近、こんな会話らしい会話をしたことがなかった!うれしい!!」
とばかりに喜びあう、ハッピーな場面である。
ミルクティーそのものは、タイトルにもなっているように
彼女の『奪われた』アメリカでの生活を象徴している。
前のページでは日本の茶道とも比較されているのだから、
ここで彼らが全員ミルクティーを飲み(和服の女性が飲んでいるのも
ミルクティーだという前提のもとに)、楽しんでいることは、
ついに、この瞬間にいたって、彼女を長く苦しめてきた
東西の壁がとけ始めた、というふうに考えてもよいのだろう。
(マーズ)
2002年06月26日(水) 『イギリスとアイルランドの昔話』
2001年06月26日(火) ☆ネットの中身になる。
☆猫の背中には羽がある。
『これまで私が愛したすべての猫たちに』
というグウィンの言葉どおり、
愛猫の背中に、天使の羽を見る人はたくさん
いるのだろう。
スティーブン・D・シンドラーの絵は、猫の毛の一本一本を
愛するまなざしだ。
細かいタッチできっちりと描かれた世界は、
このファンタジーの根源にある事実─『つばさのある猫』を、
すんなりと受け入れさせてくれる。
言葉の魔法使いグウィンの寓意に満ちたシンプルな語り口も
もしかすると言葉がいらないほどにビジュアル化されているのだった。
この絵をながめるだけで、グウィンの言葉が浮かんでくると
言えばいいだろうか。
羽のない普通の猫、しかも都会のゴミすて場を家とする野良猫、
ジェーン・タビーお母さん。
彼女の仔猫たちへのまなざしには、
確かに、見慣れぬ翼への不思議な思いや、住みづらくなる
世のなかへの不安、子育ての多忙さなどが宿っているように見える。
今年、猫好きのグウィンが「アースシーの風」で、長いシリーズ中初めて
愛らしい猫を登場させたのを喜んで読んだ。
「空飛び猫」の寓話においても、猫として生まれる存在への
愛情とともに、ゲドの物語でも描かれてきた女性(猫)として
生きることへの共感や、他者との距離を保ちながらも
深く触れ合おうとする哲学を感じる。
ゲドに登場するつばさのある存在、『竜』とはまたちがった意味で、
太古から人のそばにいながら、人智をこえた瞳をきらめかせる『猫族』。
猫の瞳孔が、まるで爬虫類のように中央の細い線になったとき、
彼らは竜のことばを語りかけているのかもしれない。
そういう意味では、ゲドと空飛び猫の物語は、シリーズである
ことも含めて、双子の姉妹かもしれないのだ。
4匹の仔猫たちの冒険旅行を描いたこの第一作目は、
『もっと続きが読みたい』という熱心な声を受けて、
次々と続編が登場している。
(マーズ)
シンプルでセンシティブな絵本。
黒いペンの線だけで描かれた、小さな絵がつづいてゆく。
『めいのサラ・ゴフスタインに』捧げられている。
主人公は、旧約聖書の時代から生きているようなおばあちゃん。
もちろんそんなはずはないのだけど、じゃあ、
宝物にしている「ノアのはこぶね」はどこからきたの?
90年以上も生きているおばあちゃん。
子どものころ、おばあちゃんのお父さんにつくってもらった
おもちゃの「ノアのはこぶね」も、いつのまにか90歳。
お父さんは、とっても楽しみながら、はこぶねをつくった。
そのことを、おばあさんは、ちゃんと知っている。
ちゃんと今でもおぼえている。
はこぶねができてから、
ノアとノアのおくさんができて、
それから、おばあちゃんの成長につれて、一組ずつの動物たちが
プレゼントされていった。
いろんなことがあったおばあちゃんの人生を、ずっと、
そばにいて、みまもってきたはこぶね。
はこぶねをみまもってきた、おばあちゃん。
身近に90歳を見ていると、
人生がおわりにちかづいて身体の機能が失われていくとき、
ほとんどの人は、持ちものを、ベッドと、小さな台がわりの机ひとつ、
一個のいすに集約して暮らさねばならない。
ものを集めていたい人には、これがなかなかできないものだ。
かといって、これだけは手放せないという、他のものとは
とりかえられない『もの』は、何ひとつもっていない。
だれかの写真とか、大事にしていたお守りとか、そういったもの。
もっていない人のほうが、ずっと多数派なのだろう。
病院だって、余分なものをもちこまれるのは嫌う。
特に、衣食住に不必要なものは。
でも、どんなに口うるさい病院でも、
「ノアのはこぶね」のようなものをとりあげることはしないだろう。
おばあちゃんの胸の中の思い出とおなじに、
それは、ふれてはいけない大切なものだし、
ベッドのよこの台の上におかれたはこぶねを見るたびに、
皆が大事なことを思い出すだろうから。
はこぶねをもっていない大多数の人たちにとっても、
形にはのこらなかったけれど、胸のなかに息づいている過去の
すべての思い出があるのだと。
(マーズ)
☆たましいに、近く。
臨床心理学者・心理療法家の河合隼雄が、
「たましい」の視点から、
児童文学系ファンタジーの名作を読み解く。
同じ著者の「猫だましい」にもあったが、
たましいという見えないものを、心と身体にセットした
のが人間だという仮定をもつと、児童書ファンタジーはまさに、
見えないものの王国で、古典的名作といわれるものは
なおさら「たましい」だらけである。
『人間のたましいは常にファンタジーを人間の心のなかに
送りこんできていると言うべきであろう。』(/引用)
とりあげられた作品は、
ストー「マリアンヌの夢」
ゴッデン「人形の家」
リンドグレーン「はるかな国の兄弟」
ギャリコ「七つの人形の恋物語」
カニグズバーグ「エリコの丘から」
ピアス「トムは真夜中の庭で」
ノートン「床下の小人たち」
マーヒー「足音がやってくる」
マクドナルド「北風のうしろの国」
ボスコ「犬のバルボッシュ」
ル・グウィン「ゲド戦記」(1-3)
ストーリーそのものも詳細に読み込まれているため、
未読の作品については、意を決してほしい。
本当を言えばもちろん、先に読んでおくべきだと思う。
半数しか実際に読んでいなかった私は、
マーヒーの「足音がやってくる」でミステリの答えを知った。
「はるかな国の兄弟」も、未読だけれど筋はわかってしまった。
「床下の小人たち」のシリーズは、十代で一作目を読んだだけなので、
近いうちにきちんと読みたいと思っている。
(ネット界のように「ネタバレ注意」は無い)
最終章の「ゲド」では、各巻に相当のページを割いて、
この「たましい」の書を照らしている。
王子アレンが大賢人ゲドに抱く気持ちとその変化についても
くわしく言及されている。
本書では、「帰還」「アースシーの風」以前の三作を
論じているが、その三作から、明確にその後のゲドたちの姿を
抽出し、予見していることに共鳴させられた。
(最初の出版は「帰還」以前の1991年)
今回思ったのだけれど、河合隼雄の名前にある「はやぶさ」と
ゲドの通称である「ハイタカ」は、たましいのレベルで
空高くシンクロしていると言えないだろうか。
「たましい」の出現の深さを考える手引書としてだけでなく、
名作のストーリー展開を名手の導きで
概観できるという意味でも、
手もとに置いておきたい。
(マーズ)
2002年06月20日(木) 『マレー鉄道の謎』
2001年06月20日(水) 『クマのプーさんティータイムブック』
☆茶色い髪と金色の髪、どっちがすてき?
「大草原の小さな家」としてTVドラマ化された
アメリカの開拓者一家の物語、第一作。
この文庫版では、日本人におなじみのガース・ウィリアムズの
挿絵ではなく、アメリカで初版本に入っていたヘレン・シュウエルの
絵が採用されている。
きちんと読むのは実は初めてなので、細かい違いはわからないが、
こちらの絵のほうが、両親(特に父親)の描写がインテリっぽい。
というと語弊もあるけれど、彼らの教育方針ともあいまって、
森のなかで自然あいてに暮らすことを「選択した人たち」
という印象を与える。
子どもたちをしつける言葉や方法も、隣家もない森の中に
住む家族として想像していた以上に理知的だった。
原語では、父さん・母さんという呼び名は、もっと
方言の入ったくだけたものだというが、この家族の暮らし方から
判断すれば、やはり、「父ちゃん」とか、「おっ父」というより、
「父さん」なのではないだろうか。
ここでは森の中に住んでいる5歳の女の子ローラが、
家族の引越していった草原や湖、町での暮らし、
やがて結婚するまでを描いたシリーズは、9巻にのぼる。
書き始めたときローラはすでに64歳、出版は65歳、1932年。
亡くなる90歳まで、冷静に考えれば25年もあるのだが、
25歳からの25年とはちがって、老齢期の執筆を続けられたのは、
ローラその人の生きる力の強さと、あざやかな開拓暮らしの魅力、
そして編集者となった娘の励ましもあったという。
「大きな森」は、北アメリカ・ウィスコンシン州にある。
森にはオオカミや熊、ヤマネコなど、野生動物もたくさん住んでいる。
ローラの家族は、父さん母さん、姉のメアリーと妹のキャリー。
犬のジャックと、猫のブラック・スーザンもいる。
父さんは外へ働きに行くサラリーマンではないから、
現金収入などはない。
あっても物々交換が多いからあまり役には立たないだろう。
冬は森へ猟に行き、春と夏は作物を育て、
衣類や保存食はほとんどすべて自給自足、まさに、
今でいう「スローライフ」である。
ただし、そのために費やす時間と労力は、外でフルタイム働くのと
大差ないようだ。
ローラたちの暮らしのように、すべてをまかなうことは
現在の私たちにはむずかしいことだけれど、
何割かは、こういう方法を復活させていければ、
親子代々うけつぐ生活文化を残せるのだろう。
すべての家が屋根で太陽光発電をするとか、
風力発電を増やすとか、少なくても、電力の供給を
何割かでも自給できて、市民菜園などを増やして、
食べものの自給率を10%でも上げれば、
ただ自虐的でない精神が育つと思う。
子どもたちにとっても、親とのやりとりをする機会が増える。
ローラたちの生活は、季節ごとに計画立てられた、
細やかな家事の記録でもある。
子どもたちも、自分の仕事をもっている。
それらのほとんどは楽しいものとして描かれているが、
その後の家族の団欒なくしてこの物語は成り立たないだろう。
親が喜んで働き、仲良くしていてくれるならば、
子どもにとってそれ以上のご褒美はないではないか。
小さいころから、親のために少しでも何かを手伝う習慣は、
決しておろそかにできないと思う。
それは、親の気まぐれで思い立ったように与えられてもいけない。
まったく何も、親や家族のためになることを受け持っていない子どもは
自分が何の役にも立っていないことを知っている。
逆に、何かひとつでもお手伝いを持っている子は、価値を知っている。
お互いに多少の迷惑を上手にかけあってゆくことは、
人間関係の基本であり、上級の技にも通じるのだから、
おろそかにすべきではない。
本国アメリカにとどまらず、世界中で愛され、古典となった作品にとって、
もちろん、そんな教育的側面は二の次であるが。
おりこうさんで美しい姉のメアリーと自分を比べるローラ。
姉の金髪が、自分のくすんだ茶色より、ずっときれいだと思う。
姉は何でも自分より恵まれていると。
(しかし、ドラマでもおなじみのように、姉はその後失明する。)
物語は主人公ローラの一人称ではないが、語り手はいない。
ローラとメアリー、幼いころの年齢の違いは1年が途方もなく大きい。
メアリーの内面はここには描かれないので、あくまで
すべてはローラ側から見たものである。
姉のメアリーにとってみれば、幼いローラは意地っぱりで欲張りで、
そのくせ甘えるのが上手。
何かというと父さんに贔屓されているように思いもしただろう。
メアリーが髪のことで多少妹をからかったとしても、
メアリーだって、まだまだ子どもなのだ。
子どもが二人の場合は、仲が良いか悪いかだけど、
子どもが三人いると、そこには敵味方だけでなく、
社会が生まれる、と、三人を育てた知人が言う。
二作目以降では、赤ん坊だったキャリーも成長してゆくので、
そこで描かれる人間関係を楽しみにしている。
(マーズ)
2002年06月19日(水) 『横森式シンプル・シック』
2001年06月19日(火) 『ウィッチ・ベイビ』
☆あのひとに、会いたい。
青々とのびているひょうたんの蔓。
その、たった一本の茎を、つい、
手がすべって、ちょきんと根元から切ってしまった。
だれにでも起こりえそうな最初のページの出来事が、
時間を超えた冒険へと、少女サキをつれだしてゆく。
日本を舞台にした歴史ファンタジーで、
藤原氏とその周辺は、変わらず人気が高い。
強きものと、弱きもの、心やさしきものたちが
生れ落ちたそれぞれの立場で、入り組んだ「藤棚」のごとく
歴史を塗り替えてゆく。
そこに悲劇も生まれるが、奇跡もまた顔を出す。
現代に暮らす平凡な中学生、サキは、ある夜、
ひょうたんにみちびかれ、古代の日本で男に出会う。
不破麻呂と名乗るその男は、サキと再び出会うことを
強く願うようになる。
家に戻ったサキも、不破麻呂との再会を夢見て、
やがてふたりは、再び、時間を超える。
そういう意味では、猫や的に「タイムスリップ・ロマンス」でも
あるのだが、サキが中学生であるせいか、
恋愛の生々しさは感じない。
(なんとなく不破麻呂のイメージは江口洋介)
そこには歌がある。
本書のすみずみまで満ちている、古きあの歌。
わが国に 七つ三つ
つくりすえたる 酒壺に
さしわたしたる 直柄(ひたえ)のひさご
南風吹けば北になびき
おっとっと…
(/引用)
おかしみのあるこの歌に、新しい意味、生き生きとした力を
惜しみなく与えてくれた物語、
ただなんとなく生きることから踏み出し、旅立った人たちの
物語に、ひょうたんのなかに入っているという
天の川の流れを、しばし想う。
この本は、猫やのお客さんから教えていただいた。
タイトルがなぜサラシナなのか、
ずっと気になっていた本である。
(マーズ)
2002年06月18日(火) ☆『忘れたハンドバッグ』/ Aardman collection
2001年06月18日(月) 『ウィーツィ・バット』
☆魔女はあなたの隣にもいる。
「魔女の宅急便」で、修行に出る魔女の女の子を描いた
角野栄子と、耽美な画風で一線に立つ東逸子の黄金コンビ。
(月刊MOEに連載されたシリーズ)
魔女について、魔女とよばれる存在についての考察や
ドイツの魔女祭りや猫祭りなど、現地をおとずれての紀行も。
随所に、4歳で母を亡くした著者の思いがイバラのようにからまっている。
とりわけ「魔女のほうき」は共感した。
魔女は空の底に行ったことがある、
不思議な人のはずだと思ってしまったのだ。
(/引用)
魔女はドイツ語でヘクセ、『垣根の上にいる人』という意味だという。
どちらの世界にも属さない存在、どちらをも見ている
存在というと、「ゲド戦記」の生と死を隔てる垣根、
そして大魔法使いゲドその人を思い出した。
ルーマニアの魔女ばあさんのような人は身近にいないけれど、
魔女を名乗る女性、名乗らずとも魔女的な女性は
と思い浮べると、けっこう身近にいるような。
かくいう私たち猫やも、魔女を名乗ったりしている。
では、今夜も飛び始めることにしよう。
とりあえず、猫はいるし。
ほうきのかわりにキーボードを、
7つのつぎあてがあたったスカートのかわりに
7冊の本を用意して。
(マーズ)
世界の果ての、といえば。
モリスの「世界のかなたの森」(萩原規子もタイトルに使っている)
ではないけれど、
なにかこう、ぱーっとイマジネーションがひろがりそうな
予感がして、図書館にて探し出してきた。
著者はヴァージニア・ウルフやマンスフィールド、
チェスタトンなどの翻訳家として多くの仕事をしている。
「世界の果ての庭」は、30代後半の作家、リコを表の主人公に、
短編の連鎖として多層的に描かれたフィクション。
リコとアメリカ人学者スマイスとの理想的な恋愛、
スマイスが研究している江戸の学者のこと、
若くなる病気にかかったリコの母をめぐる苦悩、
リコの作品世界、
リコが惹かれる英国庭園を通じて語られる「庭」への洞察、
リコの祖父が体験する別世界。
なかでも、太平洋戦争末期にビルマで行方不明となった
祖父の、迷い込んだ別世界での描写は、
幽界譚めいて、先へ先へと拾い読みしたくなる。
縦横に階層をめぐらした「駅」のある果てしない世界。
その駅に、乗ることのできない列車が停まっては去ってゆく。
リコは「庭」というものの意味を、移動を内包した
中間的な場、家でも外でもない存在であり、
庭を通過するとき、人間は『通行者』(パッセンジャー)になるのだ
という。
現世から浄土への道をめざすべき死者が、
通過する世界が、この幽界めいた「駅のある世界」なのだとしたら、
リコの庭への洞察と、顔も知らない祖父のさまよいこんだ世界の
シンクロが、通行者というキーワードで結ばれるという
とらえ方もできるのだろう。
そして祖父がさまよったこの世界、
J・G・バラードのSF短編「大建設」(創元推理文庫「時間都市」に収録、現在絶版)
と比較すれば、さらに奥行きが深まりそうだ。
「大建設」では誰でも列車に乗れるが、
こちらでは乗れないという違いも興味深い。
こちらで想えば、その世界をさまよう魂は救われるだろうか。
果てのない、外のない世界、不可解な法則にもとづいて
確かに存在しているはずの世界を。
(マーズ)
人間の子どもに忘れられたおもちゃたちが
集まって住むサンクチュアリがあった。
サンタクロース通りに住んでいた黄色いテディベア「くまくん」は、
ある日、外が見たくて、子どものバケツにしのびこむ。
でも、子どもたちは、公園の砂場で、くまくんに気づかず
帰っていってしまった。
途方にくれるくまくんを、木のうろのなかの家に迎え入れるのは、
同じ黄色いくまの、大くまさん。
その快適な家には、たくさんの、忘れられたおもちゃたちが
暮らしていたのだった。
おもちゃ文学の多くは、家をなくしたぬいぐるみやおもちゃたちが、
新しい家族を探して放浪する。
でも、くまくんたちは、もとの子どもたちにこだわりはするけれど、
新しい人間の家族は、どうやら求めていないらしい。
落ち葉の季節に新入りとなったくまくんは温かく迎えられ、
やがて冬になる。
大くまさんの家はとても住み心地がいいのだけれど、
でも、ときどきは、公園の近くへソリ遊びにくる子どもたちを見に行く。
だって、そこには、くまくんのもとの家族も来ているのだから。
人間の子どもたちは、まさか、いなくなった
おもちゃが、こっそり物陰から自分たちを見ているなんて
思いもしない。子どもたちを責めることもなく、
いつか迎えに来てくれると信じているなんて。
ひとつの家族に見放されても、新しい人間の家族が
またあらわれる、というのが、おもちゃたちのハッピーエンド
とされる結末だとしたら、この物語は、
そこに救いを求めないという意味で、
より「人間的」なのかもしれない。
文章も絵も著者の作。おもちゃたちの暮らしぶりが
絵のなかに生き生きと細部まで描かれている。
彼らは、世のなかのことを新聞で拾い読みしているし、
食べるものや日用品を集めて、冬に備える。
聖ルシアのお祭りをしたり、クリスマスを祝ったり。
泣き虫のサンタクロース、カバさん、
スヌーピー、あひるちゃん、ビロードねずみさん。
どの仲間もみな、過去との決別を強いられている。
口に出そうと、出すまいと。
「プーさん」の絵本がクライマックスで果たす役割を知ったら、
作者のミルンも思いがけないことだろう。
(マーズ)
児童文学の辞典類は、非常に高価である。
私にはとても手が出ない。
部数が少ないこともあるだろうが、そんななかで、このガイドは
2800円(税別)という手ごろさと、時代を測る新しいものさしの
意義を問うている。
2003年4月、つまり、「ハリー・ポッター」と「指輪物語」の
世界席捲を経たのちに出たガイドとして。
21人の研究者が、古典的評価の定まった英語圏の作家(画家も含む)
45人を取り上げ、彼らのプロフィール、創作の背景と、
代表作一点を詳細に解説している。
(ただし、J・K・ローリング自身は、まだ登場しない。
もちろん、J・R・R・トールキンは登場)
主目的は大学での卒論研究なので、論文のテーマ例も
併記されている。
たとえばモンゴメリの場合、執筆は「『赤毛のアン』の挑戦」の著者、
横川寿美子(巻末に名前があるのでそう推測するものの、
署名がなく断定はできないが)。
テーマ例は、「フェミニズム批評と作品世界」
「なぜ日本で人気が高いのか」という見出しになっている。
…というと、アカデミックな印象を受けるかもしれないが、
横書きでゆったりと一人一作をとりあげているし、
随所にコラムや情報が掲載されているので、
児童文学を専攻する学生や研究者でなくても面白く読めると思う。
ただ、ストーリーの公開は避けられないため、
作品によっては、未読の醍醐味が失われる場合もある。
「赤毛のアン」のように、ストーリー紹介だけを読んでも
その真髄が全く伝わらないタイプの作品は別としても。
ところで、素朴な疑問。
「赤毛のアン」の翻訳は、『集英社文庫ほか』
となっているが、あえて伝統の新潮文庫(村岡花子訳)を入れないのは
完訳ではないという理由からだろうか?
比較研究のためにも、主だったものは
すべて紹介してもらえると良いのだが。
(マーズ)
2002年06月12日(水) 『幽霊宿の主人-冥境青譚抄-』
2001年06月12日(火) 『ネバーランド』
☆アリスな安房直子。
「あなたは、なんでも知らない知らないと
言うけれど、本当に、何も知らないのですか」
(/引用)
などと、うさぎの親分に問い詰められた日には。
9歳の私は、まだ幼い妹と森へゆき、
もの言う不思議なうさぎと出会い、
私ひとりが、彼らの世界へ踏み込んでしまう。
トランプの中の家に。
そこにはうさぎのお屋敷があって、
私の追いかけていったうさぎは、
そこの料理人だったのだ。
安房直子の他の話とは、ちょっと毛色がちがう。
パタンパタンと世界がひっくり返される魔法の瞬間は
やはりあるのだけれど、この短編は、どこか元気がいい。
といっておかしければ、独特の影がほとんどなくて
ちゃんとハッピーエンドになっているし。
アリスの世界を下敷きにしているといっても
トランプやお茶会などのモチーフの合い間には、
安房直子ならではの視点が入る。
草原にちらばってトランプをさがすうさぎたちを見た私が
「ああいうのを、むなしいっていうのね」(/引用)
とつぶやくあたりは、
その情景が目に浮かんで、ちらちらしてしまった。
この本のあとがきで、安房直子は書いている。
ふしぎな世界の入り口は、どこよりも
深い森や山のなかにこそあるのだと思う、と。
その緑の樹々に見えないものたちが隠れていて、
風のひと吹きで、たちまち踊り出てくるのだと。
(マーズ)
子どもって、ほんとうに『おばけ』が好きなんだなぁ、
と思う。図書館で借りたこの本は、貸し出しスタンプがぎっしり。
表紙には、クリスマスツリーのオーナメントみたいな
白い服の小さな『おばけ』たちが、枝先にふわふわとまっている。
森のなかの木の上に家をつくって住んでいた
ひらりぼうやの一家。
彼らは『森おばけ』という種族のおばけで、
仕事は樹木や草花を元気にすること。
そんな森おばけの家族が、あるとき、森から出て
小学校の教室に住むことになったから、
さぁ、一年生のクラスは大騒ぎ。
おばけのおかあさんは、『おばけ・びん』で
においを集める。このにおいが、おばけのごちそうなのだ。
白くゆれるカーテンのかかったおばけの家は、
人間の家みたいにごちゃごちゃした持ち物がなくて、
こころ休まる避難空間という感じ。
引越しの方法がまた、とってもおばけらしくて、
これを読んだ子どもたちの反応が知りたくなった。
小学校の教室には、もう長いこと入ったことが
ないけれど、ああ、そうだったよね、こんな風に
毎日過ごしていたんだよね、と、
おばけが引っ越した一年生のクラスの、
29人のフルネームを順になぞりながら、思い出すのだった。
決められた日課を集団でこなしながら、
クラス全員のフルネームを皆が知っていて、
担任の先生の家のことが気になったり、
見えない誰かに手紙を書いたり、
危ないところに探検に行ったり。
そんなことをしていた日々を。
いまでは、人のフルネームをおぼえることすら
めったにないことだけれど。
来年の桜の季節、夜空を見上げたら、
おばけたちの、きらっと光る『ほしボタン』が
見えるかもしれない。
(マーズ)
「時の旅人」や「グレイ・ラビット」シリーズの
アリソン・アトリーの短編絵本。
繊細なタッチの挿絵は、アトリーのムードをさらに深め、
細やかさでもって、読者を不思議に高揚させてくれる。
どうも昔から私は、靴屋の小人譚に弱い。
あれは、正直者で貧乏な靴屋に、妖精の小人が住んでいて、
一足ずつ作った靴が売れると、そのお金で皮を買い、
またもう一足すてきなのを作って売り、
だんだんにお金が入るというようなお話だった。
こちらは、貧乏で正直な、くつの修理をする店のおじいさんと、
孫のジャック、友だちのポリー・アン、
そして、あの小人たちとはちょっとちがった種族のお話。
なおし屋さんといっても、たまには新調の靴だって作る。
あるとき、おじいさんが作ったのは、まっ赤な、かわいい靴。
そのときから、魔法が働き始める。
300年もの歴史があるイギリスの田舎の古い通りに、
いろんなお店に交じって、くつ直しの店はあった。
いまでは、そんな田舎の庶民御用達のお店たちも、
安さで勝負する工場の製品とは競争できず、さびれる一方だ。
手で作った本物の良さなんて、求められなくなってゆく。
でも、その良さをちゃんとわかっている種族がいた。
人間以外の生きものたちにだって、わかっていた。
正直にこつこつと日々を過ごす人が救われるファンタジーは、
現実のリアルさを織り込むことで、いっそう輝く。
私は靴屋の小人譚を読みながら、
助ける小人になりたいのか、助けられる靴屋になりたいのか、
いつも決めかねてしまう。
でもやっぱり小人かな、純粋に楽しそうだから。
(マーズ)
2001年06月06日(水) 『二千年めのプロポーズ』 (1)
☆暮らしのなかに、いつも元気の種。
先日ご紹介した本が、ついに発売なった。
本を読むことを泳ぎにたとえれば、
足の立つ浅瀬もあれば、底の知れない大海原もある。
コピーライターならではの演出で、ときに東北弁を交えながら
ユニークな視点で語られる話題は、笑いをちりばめた体験談や雑学から
ほろっと涙する真面目な話までレンジが広いが、
その海域は、とても不思議な海である。
どこまで深くもぐっても、私たちを溺れさせたりしない。
体温に近いあたたかさで、底まで光のとどく海。
はてしないけれど、迷い込んだ船を受け入れ、傷んだ帆が
いつのまにか癒されている、そんな潮風を吹かせている。
こころならずも、人生の舞台で弱い立場にいる人、
さらには、もっと行き詰んでしまった人。
いつそうなっても、おかしくない自分。
なんとなく、過ぎてしまっている一日一日、一年一年。
大事にしたいことを大事にできなくて、あれよあれよと
生きているけれど、ここにこうして『生き延びて』いることは
負けとか勝ちとかじゃないんだな、とうなずかせてくれる。
なさけない自分を否定する矢を胸に撃ち込まなくても、
普遍的なものさし、『ほっこり』で測りなおせば、
過ぎていく今日も、いずれ来るはずの日々も、
明るさの密度は変わっていくのだろう。
表紙の絵は、谷内六郎画伯。
郊外の道を、女子学生が歩いている。ときは春。
そばの電柱の上で、おじさんがひとり、
電線にト音記号をからめている。
五線譜になった電線に、やがて音楽が生まれるのだろう。
もくもくと作業に精を出すおじさんは、後ろ姿。
きいろいヘルメットが、花曇りの空に映えている。
このおじさんの姿こそ、著者が本書を世に出すことで
読者にあてて発してくれたメッセージを象徴している
のではないだろうか。私にはそう思える。
あとがきによると、著者は、大好きな谷内六郎の絵をながめ、
原稿を書く孤独な集中作業のなぐさめにしていた。
本がほぼできあがってから、装丁に谷内六郎の絵を、
という話が編集サイドから持ち上がり、目に見えない赤い糸を
深く感じたという。
(マーズ)
→「その1」
→「松島エリ公式サイト」
2002年06月04日(火) 『風と共に去りぬ』(その2)
2001年06月04日(月) 『人魚とビスケット』
5月のメルマガでも特集した「からくりからくさ」、
この作品には、唐草紋様のようにうねりながら
絡み合って伸びるテーマが幾本も織り込まれている。
お人形の「りかさん」と会話する蓉子を軸に、
機を織る紀久、与希子、
異国の娘マーガレット。
四人の若い女性たちが、一軒の古い家につどい、
その出会いが織りなし、四方に広がる物語。
謎かけ遊びや、植物の薀蓄、能面の話、過去の逸話、
シルクロードを挟んでたどられる文化の痕跡、
ものの本性とは何か、と考えさせられる草木染めの世界。
そこに織り込まれた唐草のつるは多様で、
それぞれが意志をもっているかのようだ。
「りかさん」と四人の関係も、植物と、染めの仕上げに使う
媒染剤にも似ている。
きっかけを与えれば、それまで見ていた色が、ぱっと変化し、
見えなかった本質をあらわす。
おたがいに自分の色はもっているけれど、
彼女達の、相手を尊重するコミュニケーション能力は
ただ仲の良いというのを通り越して成立している。
そこに男性が入り込んできてもなお。
日本の四季を追って描かれるこの物語を読み終え、全景を
ゆっくりとまぶたに思い描くとき、
胸にのぼってくるのは、
『女性のこころのふくよかさ』の場面である。
あの、なにげない沈黙で灯されたシグナルは、
すべての唐草をよりあわせたこの織物が
発する灯りの本質なのではないだろうか。
(マーズ)
2002年06月02日(日) 『一八八八 切り裂きジャック』
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管理者:お天気猫や
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