2009年11月13日(金)  「クリスマスの贈りもの」に帯コメント!

ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの期間限定サイト「Limited Christmas」で読める今井雅子の初めての短編小説4編「クリスマスの贈りもの」、お読みいただけましたでしょうか(こういうときは文体もあらたまります)。

公開されて今日で2週間ですが、思った以上に評判が良く、脚本作品よりも反響があることに驚いたり戸惑ったりしつつも素直に喜んでいます。USJのクルーの皆さんにも評判上々なのは何より。自分たちが働く舞台をいっそう好きになってくれれば、ゲストの人たちにもっと特別な瞬間をプレゼントできそう。


ユンソナさん、SHEILAさん、近藤夏子さん(キャンペーンソング「全部がプレゼントだ〜クリスマスの贈りもの」を歌っています。タイトルも連動!)、和希沙也さんに帯コメントを寄せていただきました。それぞれ自分の言葉で作品の感想を語られていて、感激。帯をクリックすると、コメントの全文を読めるので、ぜひ「クリスマスの贈りもの」ページへ(2010/1/17追記:2010/1/6サイト終了にともない、縦書き文庫に引っ越して再公開)。

プレスツアー用に作った小冊子の増刷版(地元大阪の幼稚園などで配られるそう)にもユンソナさんのコメントが入りました。無事お子様からパパ、ママの手に渡って物語が届きますように。


2009年11月12日(木)  もはや「森ガール」ではない!?

朝の情報番組で「森ガール」なる言葉を知る。昨日の「リア充」といい、知らない言葉が多い。広告会社勤めを続けていれば、情報にアンテナを張った同僚たちから即座に伝わっただろうことが、こもり型フリーランス仕事をしていると、知るまでの時差が生じる。

「森ガール」とは「森のそばに住んでいそうな女の子」を指し、彼女たちが身にまとうものにその特長があらわれるらしい。原色ではないナチュラルな(森にありそうな)色使い、体をしめつけないゆったりしたライン、森の動物たちを思わせるふわふわ、もこもこした肌触りを好むという。森と相性のいいおとぎ話に出てくる世界観も好む。たとえば、赤ずきん。

テレビ画面に映っていたものも、もしかしたらそうかもしれないが、わたしがここ数年愛用しているfranche lippee(フランシュリッペ)のファッションは、まさに森ガール風。Baby Jane Cacharel(ベイビージェーンキャシャレル)の日本撤退にショックを受けたとき、失望を埋めるかのように目の前に現れたこのブランドの、「着られる絵本」のような服に一目惚れしては、ワードローブに加えている。春には「不思議の国のアリス」をモチーフにしたワンピースの大人用と子ども用を微妙にデザインの違うおそろいで買い求めた。情報番組によると「親子で森ガール」という人たちも見受けられるらしい。

森ガールは人が集まる繁華街や夜のにぎわいよりも静かで穏やかな時間を好み、家でお茶をするのがいちばん落ち着くのだという。それはわたしにも言えること。

わたしって、森ガールだったのか!

そう思ったとき、記憶の底から浮かび上がった情景は、会社でひとつ後輩の男の子と会話しているわたしの姿。5つほど下の新入社員の女の子たちを「あの子は○○系ギャル」などと分類したのち、「わたしは何系ギャル?」と聞くと、その男の子は「今井ちゃんは、もはやギャルではない」。あれから10年あまりの歳月が経っているし、とっくにギャルでないなら、当然もはやガールではない。

森ガールでないとしたら、森女?

なんだか、森の奥でスープをぐつぐつ煮ている魔女みたいだ。

2008年11月12日(水)  いろんな思いがぐるぐると『ぐるりのこと。』
2007年11月12日(月)  寝耳に水
2006年11月12日(日)  マタニティオレンジ27 川の字 朝の字
2004年11月12日(金)  何かと泣ける映画『いま、会いにゆきます』
2002年11月12日(火)  棗
2000年11月12日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2009年11月11日(水)  生まれる前の記憶の追伸

朝ドラ「つばさ」の撮りきりセレモニー後のキャスト・スタッフ集合写真を「みせて」と娘のたまが手をのばした。百人以上が集まった写真だから一人一人はずいぶん小さく写っているのだが、その中から「ちゅばさ」「ゆうかちゃん」とお気に入りの登場人物を見つけて行く。「ちゅばさのおじいちゃん」と指差したのは竹雄役の中村梅雀さん。「おじいちゃんじゃなくて、お父さんよ」と訂正すると、「このひと あまたまどう つくってるんだよ」と教えてくれる。「甘玉堂じゃなくて、あまたまだよ」と正したが、惜しい。靴に砂が入ったときに「くつに おすなば はいっちゃった」と言うのと同じく、意味はわかっているのかもしれない。

「つばさ」の放映中は内容がわかってるんだかいないんだかという感じだったが、放映が終わってから言葉が追いついてきて、「ちゅばさとなかよしのしょうたくん」と言ったりする。実はわかって観てたんだなあとうれしくなる。

言葉が追いつくといえば、以前日記に書いた生まれる前の記憶をときどき話してくれる。「たまちゃん おなかのなかでも おゆび すっていたのよ」と言うので、「そんなに長く吸ってるなら気が済んだでしょ」とわたしが言うと、「まだ きは すんでない」と妙に正しい日本語で言い返す。指を吸い続ける言い訳なのかなとも思うが、エコー写真を撮ると、いつも指をくわえていたのは事実だ。「かたが でなかったんだよね」とも言う。超特急で子宮口全開まで進みながら、頭はもう出ているのに肩が引っかかり、その数センチを進ませるのにあと数時間を費やした。「ママを ぎゅって おしてたのよ」とも言うから、たまもたまなりにお産を進めていたらしい。

この話をすると、「うっそー」「へーえ」などと最初は驚かれ、やがて「神秘ねえ」としみじみされる。ノストラダムスの大予言と同じく、言葉をどう解釈するかで「そうとも取れる」という範囲のことかもしれないが、生まれる前から記憶があるということに、やすらぎを覚える人は多い。

2008年11月11日(火)  四半世紀前の「今」の『昔も今も笑いのタネ本』
2007年11月11日(日)  マタニティオレンジ202 子育て戦力外の鈍感力
2006年11月11日(土)  ウーマンリブvol.10『ウーマンリブ先生』
2003年11月11日(火)  空耳タイトル
2002年11月11日(月)  月刊デ・ビュー


2009年11月10日(火)  「リア充」と朝日歌壇

たまった新聞をまとめて読む。新聞ではなく旧聞である。毎日ちょこちょこ目を通せばいいのに、それをさぼって、古新聞が雪崩を起こしそうなほどたまった頃に格闘の決意をする。ばっさばっさとページをめくってもけっこうな時間がかかる。日記も同じく、ためてしまう。この日記を書いているのは約3週間後の11月24日。「新聞整理」というキーワードを手がかりに記憶を掘り起こしている。

「リア充」という言葉を新聞に教わる。リアルな生活が充実していること、の意味らしい。恋愛なりサークル活動なりバイトなり、生身の人間の実感に、ネット上でのつながりや楽しみと区別してわざわざ名前がつく。そういえば、5、6年前に、友人が「ネットの友もリアルの友も大事」と言い、そういう区分けがあるのかと驚いたが、彼女の中では当時すでに二つの生活が並行して存在していた。

自分が手がけた作品をネットで知らせ、反響をネットで知るわたしの場合は、ネットとリアルは分けられるものではなく、密接に結びついている。ネット上で知り合う人とは作品が仲人になる場合が多いし、ネットの生活の充実とリアルな生活の充実は連動している。USJの期間限定サイトLimited Christmasに書き下ろした短編小説は、長年応援してくれた友人の熱意で実現した仕事で、ネットでの広がりをメールで分かち合うことで、また友情をあたためあうという、まさにネットとリアルの掛け合わせだ。

リアルかバーチャルかということを考えつつ新聞を整理していて、朝日歌壇はどちらだろうと思う。インターネット応募はできず、ハガキで出して紙面で確かめるアナログな世界であるが、応募者同士のつながりはリアルではなく、紙面を共有する縁はバーチャルなものだ。けれど、新聞の活字のもたらす効果か、短歌の向こうに生身の人間や生活を感じる。

ホームレス歌人の公田耕一さんとアメリカの獄中から投稿する郷隼人さんが気になり、朝日歌壇観察を続けている。2009年08月03日(月) 応援団と朝日歌壇と子守話はエールつながり以来日記に綴っていなかったので、ひさしぶりの観察記を。

8月16日 公田さん、郷さんともに採用。
馬場あき子選
マクドナルドの無料コーヒー飲みながら方代さんの伝記読み継ぐ (ホームレス)公田耕一
精魂をこめて造園せし我の禅ガーデンは踏み躙らるる (アメリカ)郷隼人
高野公彦選
朝顔もラジオ体操も〈白熊〉もみーんな懐かしい祖国(くに)の夏休み
公田さんのマクドナルドの歌は高野さんにも選ばれていて、「方代さんの伝記」とは「田澤拓也著『無用の達人 山崎方代』か」と選者の推測がコメントされている。
この日は他に、
大寺も我も等しく青時雨回廊に添ふ水音聞くなり
(飯田市)福岡重人 
に心惹かれた。「毎回点字の応募」と選者・永田和宏さんのコメント。

8月30日 この日は郷さん採用、公田さんの歌は見当たらず。
辞書もあり、三食・洗濯(ランドリー)・医療にシャワー全て無料(フリー)のわれらの暮らし

9月7日
瓢箪の鉢植えを売る店先に軽風立てば瓢箪揺れる
公田さんの歌を見つけると、ほっとする。歌が届くことで、安否確認をしている。
点訳の朝日歌壇の今届きなぞりてさがす公田耕一(都留市)長田美智子
この人の歌に、そうそう、と共感。この後約一か月の朝日歌壇が行方不明。毎週月曜の朝日歌壇だけは目を通し、切り抜いて別にまとめてあるのだが、公田さん、郷さんともに掲載されていない場合は切り抜かないので、もしかしたらそういう週が続いたのかもしれない。

10月12日以降、郷さんの採用は続くが、公田さんが姿を見せなくなった。
ソルダッド山の禿げたる稜線に月の船出づ絵本の如き (アメリカ)郷隼人

10月19日  
日本より一日早し秋分の日も真珠湾攻撃慰霊日も
「ひとり寝の子守唄」など呟きて寝床(バンク)より観る月の光(かげ)かな

10月26日 
獄中死遂げたる人が二人共我と同居したことがあった 
夏時間おわり標準時となりぬただそれだけのこと秋は来にけり


11月2日
銀舎利のご飯を常に夢みるは我も山頭火のようなもの

11月9日には郷さんも姿を見せなかったが、興味深い歌があった。
菜菜ちゃんがママになったとアテネから写真が届く「美菜(ミイナ)エレニ靖子」(横浜市)宮本真基子
佐佐木幸綱選第10席のこの歌について、〈安楽死の詠み人 孫の名に「再生」〉の見出しでコラムがあり、オランダで10年、がんと闘った後、97年に安楽死を選択、52年の生涯を閉じたネーダーコールン靖子さんのことが紹介されている。歌にある「菜菜ちゃん」は靖子さんの娘、「美菜エレニ靖子」さんは孫となる。靖子さんは朝日歌壇の常連であり、「臨終を看取った知人が作歌ノートから筆写、ファクス投稿し、選者全員が採り、共選の星印が四つついた」という。その歌、
座すことの叶う日再び来ることを祈りて入りし三たびのオペ室
に覚えがあった。掲載時に見たのか、その後どこかで紹介されていたのが目に触れたのか、一度読むと記憶にくっくり刻まれる強い歌だ。そうか、この歌を詠んだ人の娘さんがお子さんにお母さんの名を……。ここにもバーチャルなはずなのにリアルな生の実感がある。「没後10年余、遺族との連絡を保った歌友の存在に心打たれた」とコラムにあるが、常連だった頃から知る人にとっては感慨もひとしおだろう。巻頭に家族の肖像写真が付されているという遺歌句集『オランダはみどり』も手に取ってみたくなった。

そして、公田耕一さんはどうしていらっしゃるのか。

2007年11月10日(土)  「神憑り」な女優・内田淳子さん
2004年11月10日(水)  トレランス二人芝居『嘘と真実』
2002年11月10日(日)  黒川芽以フォトブック


2009年11月09日(月)  ベルリンの壁崩壊20周年で東ドイツを想う

新聞で「ベルリンの壁崩壊20周年」を知る。壁の残骸の亀裂に一輪一輪花を差し込んだり、美しくペイントされた発泡スチロールの壁を倒したりという祝い方にドイツらしさを感じる。

そうか、あれから、もう20年か。

中学一年の夏休み、母に連れられ、妹とともに向かったはじめての海外旅行先は、旧東ドイツだった。若いうちに地球にはこんな国もあるんやでと教えたいということで社会主義の国を選んだ母のセンスはなかなかのもので、その後のわたしの人生は、この旅行におおいに影響を受けている。

ベルリンの壁の存在を意識していたのも、そのひとつだ。

20周年ということは、壁崩壊は1989年。1993年実施の第2回学生「大陸・夢の旅」作文コンクールで受賞した「再会旅行」には、その興奮が綴られている。旅行で知り合って以来文通を続けて来たアンネットとの再会を計画する内容で、大賞賞金を射止めたら双方の国を訪ねあう往復旅行にできたのだけど、賞金に見合った片道旅行となった。(2019年11月10日、脚本家・今井雅子facebookページのノートに全文掲載)

旧東ドイツとアンネットのことは、日記にもときどき登場している。

2002年10月24日(木) JSAを読んで考える 北と南 東と西

2005年03月25日(金) 傑作ドイツ映画『グッバイ・レーニン!』

2009年08月07日(金)  聞きたくないレーガン大統領と東ドイツの絵はがき

アンネットの家へは何度か訪問し、毎回歓待を受けている。いつか彼女の一家を日本に招待して、往復再会旅行を実現させたいと思う。

2008年11月09日(日)  はじめてヤフオクで買い物
2007年11月09日(金)  島袋千栄展『メリーさんの好きなもの』
2006年11月09日(木)  マタニティオレンジ26 六本木ヒルズはベビー天国
2005年11月09日(水)  『ブレーン・ストーミング・ティーン』がテレビドラマに
2003年11月09日(日)  小選挙区制いかがなものか
2002年11月09日(土)  大阪弁


2009年11月08日(日)  ゆったりまったりご近所さんの会

ひさしぶりにご近所仲間でお昼を食べましょうとなり、このメンバーでよく行く播磨坂のイタリアン「タンタローバ」へ。このお店のワンプレーとランチは何度食べても裏切らない。それを知っている人たちで店はいつもにぎわっている。

天気がいいので腹ごなしに小石川植物園まで歩く。そこでまた知り合いの一家に会い、合流する。子どもたちが走り回る傍らで、大人たちは大人の話をする。どんぐりを拾ったり、落ち葉の絨毯を踏みならしたり、体いっぱい秋を味わう。

おいしいカレー屋の話が弾んだせいか(素揚げ野菜どかどかの小金井のプーさんにまた行きたい!と話す)、今度は小腹が空いて、植物園から5分ほど歩いた白山ベーグルで、お茶。高温でカリッと焼き直して出してくれるベーグルは、これまた裏切らないおいしさ。お茶を飲んでベーグルを食べても500円でおつりが来るのもすばらしい。

よく歩き、よくしゃべる。万歩計は11227歩。

2008年11月08日(土)  7か月ぶりにご近所さんの会
2005年11月08日(火)  『スキージャンプ・ペア〜Road to TRINO2006〜』
2003年11月08日(土)  竜二〜お父さんの遺した映画〜


2009年11月07日(土)  『本からはじまる物語』

読書の秋にふさわしい『本からはじまる物語』という名の本と目が合い、手に取った。

「18名の作家が「本」「本屋」をテーマに掌編小説で競演!」という惹句がついている。

「飛び出す、絵本」恩田陸
「十一月の約束」本多孝好
「招き猫異譚」今江祥智
「白ヒゲの紳士」二階堂黎人
「本屋の魔法使い」阿刀田高
「サラマンダー」いしいしんじ
「世界の片隅で」柴崎友香
「読書家ロップ」朱川湊人
「バックヤード」篠田節子
「閻魔堂の虹」山本一力
「気が向いたらおいでね」大道珠貴
「さよならのかわりに」市川拓司
「メッセージ」山崎洋子
「迷宮書房」有栖川有栖
「本棚にならぶ」梨木香歩
「23時のブックストア」石田衣良
「生きてきた証に」内海隆一郎
「The Book Day」三崎亜記

気に入っている作家さん、気になっている作家さんの作品が「当たり」だとほくほくする。巻頭を飾る恩田陸さんの「飛び出す、絵本」は、さすが。ひとつ前に読んだ長編『MOMENT』で出会った本多孝好さんの「十一月の約束」も好き。この人の書く人と人のべたべたしすぎないけれどしっとりした距離感が好き。ずいぶん前に『プラネタリウムのふたご』という分厚い本でファンタジーン世界に浸らせてくれたいしいしんじさんの「サラマンダー」は、やっぱりいしいしんじ色をしていて、大人の童話という雰囲気。一時期はまった篠田節子さんの「バックヤード」は、本屋の地下に集まる霊たちの正体の設定(ネタばれになるので読んでみてのお楽しみ)が秀逸。

面白いのは、本を「鳥」にたとえた作品が多いこと。ページを翼にたとえた作品もあった。一作目と最後の作品がそうだったので、とくに印象に残ったのかもしれないし、あえてそうした編集者も「本とは鳥のようなもの」だと感じたのだろう。本はページの翼でどこへでも連れていってくれる。

そういうわけで、わたしも本を鳥にたとえた子守話を考えてみた。まとめる時間がないので、後日。

2008年11月07日(金)  お風呂で牛乳屋さんごっこ
2006年11月07日(火)  シナトレ6『原作もの』の脚本レシピ


2009年11月06日(金)  クリスマス映画だった『曲がれ!スプーン』

本広克行監督最新作『曲がれ!スプーン』を試写で観る。函館イルミナシオン映画祭で監督と知り合ったときにひっさげてきていた『サマータイムマシーン・ブルース』(>>>日記)と同じく劇団ヨーロッパ企画の戯曲の映画化ということで、観る前から期待は膨らむ。

原題は『冬のユリゲラー』で、エスパーのお話。クリスマスイブに超能力者を探して放浪する超常現象番組スタッフ・米(よね)を演じるのが、長澤まさみさん。ほぼ紅一点と言ってよいキャスティングで、他は舞台系を中心にかなり渋い男性キャストに占められている。エスパーの皆さんそれぞれいい味を出していて、とくに透視の中川晴樹さんから目が離せなかった。テレパシーの辻修さんも雰囲気がある。舞台の人というのは、やっぱり独特で、まわりの空気まで演技しているように見える。寺島進、松重豊、ユースケ・サンタマリアといった名のある役者さんを脇役に持ってくるというぜいたくさも遊んでいて、役者さんたちも楽しんで参加している感じ。

「カフェ・ド・念力」という名のカフェに集まる、世を忍ぶエスパーたちの超能力の使い道のしょぼさが、小市民らしくて、なんともお茶目。そこに現れた米(この「よね」という狙ったような名前にも意味が!)は、彼らにとっては天敵! 果たして米はネタを持ち帰れるのか? エスパーたちはわが身を守れるのか? という一見シンプルな筋立てながら、終始ドキドキし続けてしまう。エスパーの話なのに、彼らの困っちゃったぶりに共感して、観てしまう。

そして、小さな事件を積み重ねた先に、ああ、これをやりたかったのか、という大きな奇跡を見せてくれる。映画作りではよく「ひとつだけ大きな嘘をつくために、あとの部分をいかに真実に見せるか」ということが話されるけれど、超能力とか超常現象ってあるかもしれないけどないかもしれないと思ってるところに、どかんと大嘘。「曲がれ!スプーン」を信じていた頃の気持ちを持ち続けていたいなと思わせてくれるラストに、予想した以上にじいんとなった。

奇跡が起こりそうな夜だからクリスマスイブにしたのかなと思っていたけど、観終わると、これは絶対クリスマスイブじゃなきゃと思える。

子どもの頃、サンタクロースを信じて、待っていた人には、ど真ん中。
UFOを見つけては大人の手を引っ張って大騒ぎしていた人も。
学研の「ムー」を毎月読んで、本気で驚いていた人も。
テレビのユリゲラー特集を観て、真似していた人も。
ESPカードで透視に挑戦したことがある人も。
マジックや大道芸を見るのが好きな人も。
舞台を観るのが好きな人も。
ムロツヨシファンも。

全部あてはまるわたしには、思いがけないクリスマスプレゼントのような作品。11月21日よりロードショー。サイトも、まあかわいい。

UFOの存在は、子どもの頃、かなり本気で信じていて、幼なじみのヨシカとしょっちゅう空を見上げては「確認」し、「今日は何台見た」と親に報告していた。小学校3年ぐらいの頃だったか、ある子ども雑誌で「UFO目撃情報の99%は誤報」という記事を見つけて、相当ショックを受けた覚えがある。

というわけで、今夜の子守話は、UFOのお話。

子守話97「まほうつかいたまちゃん そらとぶえんばんのまき

まほうつかいの たまちゃんの きんじょの こうえんに
うちゅうから そらとぶえんばんが とんできました。

「まほうを つかって こっそり しのびこんでみようじゃないか」と
たまちゃんに まほうを おしえている まじょが いいました。
「まじょの ほうきでは うちゅうまで とべないからね」

たまちゃんと まじょは とうめいになる まほうを つかって
そらとぶえんばんに しのびこみました。

ところが なかに はいったとたん
たまちゃんも まじょも まほうが とけて すがたを あらわしてしまいました。
どうやら そらとぶえんばんの なかは まほうが きかないようです。

たまちゃんと まじょに きづいた うちゅうじんたちは おおよろこび。
ちきゅうに やってきたのは ちきゅうじんを つかまえるためだったのです。
めずらしい ちきゅうじんを うちゅうサーカスの にんきものに するつもりなのです。

たまちゃんと まじょを のせて そらとぶえんばんは
うちゅうへ とびたちました。
たまちゃんと まじょは うちゅうじんに「たすけて」と うったえましたが
ちきゅうの ことばは つうじません。

「まほうが つかえないんじゃ おてあげだ」と まじょ。
まどの そとに みえる ちきゅうが どんどん ちいさくなります。
もう にどと おうちには かえれないのでしょうか。
たまちゃんは パパと ママの かおを おもいだして かなしくなりました。

うわああああああん!
そらとぶえんばんが われそうな おおごえで たまちゃんが なきだすと
なみだが ふんすいみたいに いきおいよく とびちりました。
すると うちゅうじんたちは にげまわるではありませんか。
なんと うちゅうには みずが ないので
うちゅうじんは みずが だいの にがてだったのです。
「いいぞ。そのちょうしだ。もっと おなき!」と
まじょが ばんざいして いいました。

たまちゃんは かなしいことを たくさん おもいだしました。
だいすきな クッキーを ママに たべられてしまったこと。
あめが ふって おさんぽに いけなかったこと。
かくれんぼで かくれたのに みつけてもらえなかったこと。
おたんじょうびを おいわいしてもらったのは うれしい おもいで でした。
でも こんどの おたんじょうびには ちきゅうに いないかもしれません。
そう おもうと なみだが あとから あとから でてきました。

うちゅうじんたちは たまちゃんの なみだが とんでこない
そらとぶえんばんの かたすみに あつまって そうだんを はじめました。

ちきゅうから とおざかっていく そらとぶえんばんを 
みあげていた ひとたちは びっくりしました。
とつぜん そらとぶえんばんが まわれみぎして ちきゅうに もどってきたのです。
うちゅうじんたちは こまった みずを まきちらす ちきゅうじんを
ちきゅうに かえすことに したのでした。

こうして たまちゃんと まじょは まほうを つかわずに
ぶじ ちきゅうに もどってくることが できました。 
「こどもが びいびい なくのも たまには やくにたつもんだね」
いじっぱりな まじょは すなおに おれいを いいませんが
おやつを にばいに ふやす とっておきの まほうを
たまちゃんに おしえてくれました。

2008年11月06日(木)  「遊園地のドレス」「音が降る傘」
2007年11月06日(火)  整骨院のウキちゃん1 伝説の女編
2003年11月06日(木)  よかったよ、ガキンチョ★ROCK


2009年11月05日(木)  レヴィ=ストロース氏を知っていますか

先日のこと。
「レヴィ=ストロースって読んだ?」とある人に聞かれて、咄嗟に何のことだかわからなかった。わたしの耳には「ベビーストロース」と聞こえ、煮込み料理か肉の部位か、がっつりした食べものを連想したが、読むというからには書名か著者名だろう。

「知らないの? 20世紀を代表する文化人類学車だよ。ついこないだ100歳で亡くなった……」と質問した相手は呆れ、
「その人、日本人?」とわたしが聞いたら、絶望的な目をされた。
だって、紛らしい人いるじゃない。ユースケ・サンタマリアとかリリー・フランキーとかケラリーノ・サンドロヴィチとか。
「あのねえ、レベルが違うよ」
その人は、かつて「ケラリーノ・サンドロヴィチって外人?」と聞いたことを棚に上げて、わたしの無知をなじる。悔しいので、レヴィ=ストロースについて解説してみせてよと言うと、文明社会より劣っているとされていた未開社会にも秩序と構造があるという構造主義を唱えた人だと説明された。
「なんとなく、大学の文化人類学の講義で聞いたことある気がする」と言うと、
「だから、さっきから言ってるでしょ。文化人類学車だってば!」
「その人に影響されて本とか書いてる人、けっこういるんじゃない?」
「そんなの、いくらだっているよ!」
「自分だって、コーヒー豆のキリマンジャロをミケランジェロって言ってたくせに」
「あれは言い間違いだよ!」
そうして、その人は、「知らないなら、知らないと、はっきり負けを認めなさい」とわたしの知ったかぶりを責め始めた。

負けずぎらいで意地っ張りなせいもあるけれど、知らないことを聞いたとき、わたしは少しでも、その知らないものと自分との接点を見つけようとしてしまう。それは、人にはみっともない悪あがきに見える。でも、それは、興味を示していることの表れでもある。その後にはちゃんと知ろうとするし、少しずつながら無知を克服しているのだから、いいじゃないのと反論した。

知ったかぶることもなく、自慢することもないかわりに、聞けば何でも知っているご近所仲間のT氏に、「レヴィ=ストロースって知ってますか」と聞くと、当然のように知っていて、「同じくユダヤ系のリーバイ・ストラウスとスペルが同じで、よく間違われるんですよね」と豆知識を授けてくれた。

調べてみると、ジーンズのほうはLevi Straussで、レヴィ氏はLévi-Strauss。レヴィが名でストロオースが姓だと思ったら、レヴィ=ストロースが姓で、ファーストネームはクロードということがわかった。名乗ったときに「pants or books?」と聞かれたというエピソードが面白い。

そんなことがあったので、今日の読売新聞文化面に掲載された「レヴィ=ストロース氏を悼む」の見出しが目に飛び込んだ。人類学者の中沢新一氏が「彼の精神こそ私の神」と題する追悼文を寄せている。レヴィ=ストロース氏を大鷲にたとえ、「その鋭い目は、地上を動くどんな小さな生き物の動きも見逃すことがなく、現代人が無価値なものと打ち捨てて顧みない、ささやかな事象の中に、人間精神の秘密を解き明かす可憐な花を探し当て、その美しさと賢さを賞賛した」彼の精神に神を見ている。「私が思考しているのではない、私をつうじて、人類の心が本性にしたがって思考しているのだ」と語っていた謙虚さをたたえ、「この謙虚を剣として、現代文明という巨大な風車へ立ち向かっていった、偉大なるドン・キホーテなのであった」と評する。「二十世紀文化をかたちづくる星々の中でも、とりわけまばゆい光を放っていた孤独な魂」という例えも美しい。

格調高く力強く尊敬の念に満ちた追悼文の書き出しに、画家だった父が描いたという「少女の格好をして大きな本を読むふりをしている」幼年期の肖像画の話が出てくる。百歳を超えて長生きしたという父親は、息子にも長生きを願って女の子の格好をした絵を描いたらしい。この絵のエピソードに、とてもあたたかなものを感じた。

2007年11月05日(月)  捨て台詞
2005年11月05日(土)  開東閣にて「踊る披露宴」
2004年11月05日(金)  『催眠リスニング』1か月


2009年11月04日(水)  『風が強く吹いている』をもう一度スクリーンで

マスコミ試写で観た(>>>日記)『風が強く吹いている』を劇場公開中のスクリーンでもう一度観る。わたしのサイトに熱烈な感想が書き込まれているのを見て、また観たくなってしまった。試写室のスクリーンは小さいし、映画関係者の多い試写と一般公開では反応が微妙に違うので、同じ作品でも異なる味わいがある。

大きなスクリーンで観ると、美しい場面はより美しく、たくさんの観客の中で観ると、笑える場面はより笑える。登場人物一人一人が物語の時間をしっかり生きていて、いとおしくて、あらためて愛せる映画だなあと思った。でも、二度観てしまうと、もう少しずしりと来るものが欲しくなってしまったのは、欲張り過ぎだろうか。展開を読めてしまっているがゆえに新たな衝撃を求めてしまうのかもしれない。

大学陸上部で長距離をやっていて、へなちょこながら駅伝も走っていたダンナにも、しつこく勧誘して観てもらったのだが、設定を聞いただけで「ありえない」と鼻白んでいた態度は覆せなかった。「でも、箱根のレースの臨場感はすごかったでしょ」と食い下がると、「物心ついたときから箱根を観てるから、既視感があるんだよな」。映画の受け止め方というのは、ほんとに人それぞれ。長距離をやっていたか、箱根を何回テレビで観たか、そんなことが共感の温度差をつくる。

わたしがこの作品に共鳴したのは、授業にも出ないで無謀な夢に向かって走り込む彼らのひたむきさに、応援団で若さを燃焼させていた自分を重ね、「走る」ことの意味を「書く」ことの意味に置き換えて観たからで、陸上から少しズレていたのが幸いしたのだろうか。鐘をついて音を響かせるには引いてみる幅が必要で、実体験にくっつきすぎていると、既視感との答え合わせに忙しくなってしまうのかもしれない。

実際に箱根を走った人たちはどう観たのか、感想を聞いてみたい。関西育ちで箱根駅伝になじみがなかったわたしは、この映画に出会って、来年早々のお茶の間鑑賞がうんと楽しみになった。そして、テレビで箱根を観たら、また映画を観たくなる気がする。そのときまで、スクリーンで走り続けてくれますように。

2008年11月04日(火)  気功教室初級編修了
2005年11月04日(金)  名久井直子さんの本
2002年11月04日(月)  ヤニーズ4回目『コシバイ3つ』

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