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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2007年02月12日(月) 肩がイタイ/映画『DOA』/『となり町戦争』/『魂萌え!』/マンガ『C.M.B.』第4巻(加藤元浩)

〔11日の続き〕

 映画『DOA/デッド・オア・アライブ』
 (監督:コーリー・ユン/脚本:J.F.ロートン、アダム&セス・グロス、グランツ・ヘンマン)

〔キャスト〕 かすみ:デヴォン青木/ティナ:ジェイミー・プレスリー/クリスティー:ホリー・ヴァランス/ハヤブサ:ケイン・コスギ/あやね:ナターシャ・マルテ/エレナ:サラ・カーター

〔ストーリー〕
> 人里離れた北海道の忍者村を去り、抜け忍として兄の行方を捜すかすみ。南シナ海でクルージングを楽しむ女子プロレス王者・ティナ。香港のホテルで警察に捕まりそうになるものの、警官隊を蹴散らして逃亡する強盗のクリスティー。
> そんな彼女たちに世界最強ファイターを決するトーナメント“デッド・オア・アライブ”への招待状が届く。3人を含めたファイターたちは飛行機で会場となる島ドアテク・アイランドへと向かうが……。

 オリジナルのテクモのゲームはまったくやったことがない。と言うか、格闘ゲームそのものに殆ど興味がないので、ストリートファイターとバーチャファイターの区別もつかない有様である。だから逆に「原作とのイメージの違い」などに惑わされることもなく、映画を楽しむことができた。

 冒頭、いきなり「日本・石狩山脈」とテロップが出て、どう見ても標高が1万メートルは越えているんじゃないかというチベットかヒマラヤかという山奥の修行場(一応、鳥居を立てているので日本だと言いはりたいらしい)で、和洋折衷の珍妙な衣装に身を包んだプリンセス・カスミとハヤブサが国を抜けるの抜けないのと英語で喋りだすのだから、このシークエンスだけでトンデモ映画であることは保証されたようなものである。
 まあ、ゲームそのものがもともとトンデモなんだろうけれど。
 字幕では「抜け忍」となっているのが原音だと「SHINOBI」で、ああ、あちらでは忍者は「NINJA」で、抜けたら「SHINOBI」になるのかと、解釈のズレに苦笑してしまうが、そんなのは序の口である。
 DOAに出ようってほどの腕前のかすみが盗賊に簡単に捕まったことがあったり(修行する以前とは思えない)、王女が抜け忍(忍びの里で「王女」って言い方もヘンだが)になって、このままじゃ跡継ぎがいなくなって大変だろうに、連れ戻すどころか殺人命令が出たり(出してるのは誰なんだよ)、それを追いかける女忍者あやねはどう見ても外人だったり(ノルウェーの人らしい)、デタラメ描写はとてもじゃないが書ききれない。

 もちろん時代考証とか文化考証をやろうなんて気が製作者たちにさらさらないってことは明白である。
 けれども、『パール・ハーバー』や『ラスト・サムライ』や『SAYURI』のデタラメぶりに腹は立っても、『DOA』に対しては笑って見ていられるのは、誰にでもこれが「おふざけ」であって、本物の日本を描いたものではないことが分かるからだ。
 A級・B級という映画の分け方は好きではないが、B級はB級に徹してこそ面白い。ストーリーも人間関係もテキトーで深みが全くないのが逆にいい。ゲームのキャラをとりあえず一通り出してはいるものの、トーナメントの途中、ヒトミとかゲンフーとか、いつ消えたのかよく分からないかわいそうなキャラも何人かいる。

 そこはまあご愛敬で、主要な三人のヒロイン、かすみとクリスティーとティナは全編アクションに継ぐアクションで、三人が協力してラスボスを倒しに行くようになる後半、ああ、これはバカ映画版『チャーリーズ・エンジェル』の路線を踏襲したいのだな、ということがはっきりしてくる。
 ビリングはティナが一番、ポスターはクリスティーが正面、物語の中心はかすみと、それぞれに配慮した扱いも心憎い。
 本家チャリエン同様、アメリカ人から見た東洋人の美人タイプって、こんなの? という疑問をかすみ役のデヴォン青木(お父さんは日本人だが、お母さんはドイツ系イギリス人だとか)に感じはするものの、三人ともスタイルは抜群で、鼻の下を長くしたい目的だけで見に行っても損はしないだろう。てゆーか、こういう映画に余計な期待をしてはいけない(笑)。

 ティナのオヤジが、ベッドで娘と一緒に寝ているクリスティーに向かって、「クリスティーって言うのか? うちの娘もクリスティーナって言うんだ」って言うシーン、「ティナ」が「クリスティーナ」の略だってことに気がつかずに似たような名前を付けちゃった日本人に対するからかいなんだろうな(笑)。


 映画『となり町戦争』。
(原作:三崎亜記/監督:渡辺謙作)

〔キャスト〕 北原修路:江口洋介/香西瑞希:原田知世/智希:瑛太/舞坂町 町長:菅田 俊/前田善朗:飯田孝男/本田:小林麻子/室園 絹:余 貴美子/田尻:岩松 了

〔ストーリー〕
> 舞坂町に暮らし始めて一年、北原修路は町の広報紙で隣の森見町と戦争が始まる事を知る。しかし、開戦初日を迎えても町の様子に変化はなく、戦争を実感することは何一つなかった。広報紙に掲載される戦死者数を除いては……。
> 数日後、対森見町戦争推進室の香西と名のる女性から電話があり、特別偵察業務辞令の交付式への出席を促される。その業務の延長で、やがて北原は敵地へ潜入するため香西と結婚する事になる……。

 ともかく江口洋介の大根ぶりが終始鼻について、見るに耐えなかった。
 町と町とがどういうわけだか戦争を始める、というシュールな設定、それでも平和な日本にいて戦争を実感することのできない日本人の現実感のなさ、自分の身近な環境も含めて、世界を、文化を、日常を、リアルに認識することがどうしてこんなに困難になってしまったのか、そこを問いかけているのが原作小説であり、それは映画にした場合でも動かすことのできないモチーフであるはずだ。
 そのためには周囲の人間の言動がいかに異常であろうとも、主人公の存在だけは実体感をもって描かなければならない。ところがそんな能力が江口洋介にはからきしないのである。妙な格好をつけたポーズ、わざとらしいセリフ回し、笑いを取ろうとするのが見え見えの間、芝居がかった感情の爆発、どれもこれも一人よがりで、主人公の言い知れぬ不安を少しも観客席まで伝えて来ない。
 パンフレットを読むと、「江口洋介主演は監督のオファーがある前に決まっていた(そのために原作のキャラクターを江口に合わせて変えざるをえなくなった)」と正直に告白しているが、だったらそんな演技力のない役者を使って映画なんて作れません、と断りゃよかったのに、とまで思ってしまう。

 江口洋介に引きずられるかのように、他のキャラクターたちもどんどん「下落」していく。田尻役の岩松了は滔々と戦争論を語りだすし、香西役の原田知世は安っぽい恋愛ドラマのヒロインと変わりがなくなってしまった。結果的に原作のラストとは全く逆の結末をつけざるを得なくなったために、最終的な印象として残るのは、陳腐なメロドラマということだけである。私ゃ、ラストが『吸血鬼ゴケミドロ』そのまんまだったので笑っちゃいましたよ。
 何が描きたかったのかまるで分からない、ただ「となり町との戦争がありました」という設定があるばかりで中身のない空虚な映画である。

 江口がダメダメでも、監督にもう少し映画を撮る才能があれば、まだ何とかなったんじゃないかと思う。しかし江口を使ったこと以外の演出の面でも、この監督は独りよがりな演出が多く、信用できない。
 オープニングで音楽をいきなりぶちきったりするのは観客を不安に陥れる演出のつもりかもしれないが、ただの編集ミスにしか感じられないという可能性をこの監督は分かっているのかどうか。「開戦×日目」というテロップが撥ねたり飛んだり回ったり、無言の動きに効果音が付いたり、そんなアニメみたいな演出はうるさいだけでしかない。世界の異常性は世界そのものに語らせなければ意味がない。余計な演出はかえって逆効果である。
 この監督に対しては、「お勉強だけがよくできて、馬鹿な子っているんだよね」と言ってあげたい。

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〔これより12日〕

 左肩の痛みがちょっと激しい。

 今回の風邪っ引き、かなり長引いていて、夜中に咳が止まらなくなって痰が喉に詰まり、苦しくて飛び起きて、寝不足になる、ということを繰り返している。
肩の痛みというよりは、首筋から肩甲骨にかけて、関節炎になっているような感じなので、これは咳が響いているせいだろう。
 この分では連休が明けてもしばらくはつらい日々が続きそうだ。

 そんなに苦しいのなら、さっさと医者に行けと誰ぞから言われそうだが、医者に行ったところで、痛み止めか湿布をもらうくらいのものだろう。
 仕事を休んでゆっくりと養生した方が、治りが早いのは分かっているのだが、そうなると二日三日は欠勤せざるを得なくなる。今はちょっと休めない時期なので、無理をしてでも出かけて行くしかない。一日遅れの「サザエさん症候群」になっちまいそうな気分である。

 誰ぞが気遣って家事をしてくれれば気持ちはかなり休まるんだけどね。部屋の中は相変わらずゴミが散乱したままで、足の踏み場もろくにないケモノミチ状態である。
 本気でこの日記、オニヨメ日記にしてやろうか。


 マンガ『C.M.B.森羅博物館の事件目録』第4巻(加藤元浩/講談社コミックスKCGM)
> 「ユダヤの財宝」の謎を追え!!
> 殺害現場はローマの遺跡“コロッセオ”。被害者が見つけた「ユダヤの財宝」とは!?……二千年もの時を経た壮大な歴史ミステリーが、いま解き明かされる!!

 今回は一巻で一編の長編『ユダヤの財宝』。
 『Q.E.D.―証明終了』の姉妹編として始まったこのシリーズ、本編との差別化を図ろうとして「博物館」をネタにしたんだろうけれども、その割には、これまでのエピソードは、ミステリーとしてはちょっと小粒、という印象だった。
 主役の榊森羅と七瀬立樹のコンビ、『Q.E.D.』の燈馬想・水原可奈に比べると、より無邪気で子供っぽいのだけれどもキャラクターとして魅力的かと言われると、まだまだ弱いかな、と感じていた。

 それが今回のネタはいきなり「ユダヤの財宝」である。いきなり壮大なイメージになっちゃったけれども、果たして広げたフロシキをうまくたためるものかとドキドキしながら読み進めてみたのだが、やはり小説に比べてコミックには情報量に限界がある。
 残念ながら『ダ・ヴィンチコード』ほどのボリュームは感じられなかった。もしも全世界にこの作品が発信されたら、バチカンを怒らせてしまうんじゃないかという点はそっくりだけれども(笑)。

 ベネディクト(ベネディクティス)14世はなぜコロッセオ(コロセウム)を殉教地として保護したのか。これは確かに歴史上の謎ではあるけれども、本作のような推論は荒唐無稽である。いや、歴史ミステリーというのは荒唐無稽であって然るべきなのだが、それをそうと納得させるだけの傍証の積み重ね、常識をひっくり返すための論理のアクロバットが必要なのだが、いかんせん、そこまでには至っていない。このネタ、コミックなら本当は、最低3巻分は必要な話なのだ。
 小さな謎を積み重ねて複雑に見せかけてはいるが、一つ一つのトリックは案外単純であり、装飾がまだ足りない。カール殺しのトリックもどこかで見たか読んだかしたような気がする。

 とまあ、随分貶しているように見えるかもしれないが、紙数があればもっともっとミスディレクションを仕掛けられるはずだ、ということなのである。


 夕方から、ダイヤモンドシティルクルに出かける。咳はとりあえず薬で抑えているが、肩の痛みは取れない。カバンはできるだけ右肩に掛けるようにする。
 このところ映画と言えばキャナルシティに出かけることの方が多かったのが、久しぶりにダイヤモンドシティの方を選んだのは、こちらに「こまねこ」グッズが売られていることが分かったからだ。
 妻は最近、すっかり「こまねこ」にハマッていて、私がゲーセンで取ったこまちゃんのぬいぐるみをカバンに付けて提げているくらいなのである。

 今日はこまねこシールに『こまねこ現場レポート』(トヨムラカオリ/こまねこ出版)を購入。ボールペンや絵葉書、絵本やCDもあるので、それらはおいおい買っていくことにするつもり。


 ダイヤモンドシティのフードコート、ワンコインセールとかで、各店舗でステーキや焼きめし、たこ焼きなんかが500円の安売りセールを行っている。
 単価がもともと800円前後でお高いので、500円になって普通の値段かな、という印象なので実はあまり安売りという感じはしないのだが、よその店だとやっぱり1000円2000円はかかってしまうので、これを利用しない手はない。
 一番安売り感がするのはどれか、と妻に聞いてみたら、「ステーキ!」と答えた。質問するまでもない返答であった(笑)。腹ごしらえをしてルクルへ。


 映画『魂萌え!』
 (原作 桐野夏生/監督 阪本順治/プロデューサー・李鳳宇)

〔キャスト〕
 風吹ジュン、三田佳子、加藤治子、豊川悦司、常盤貴子、寺尾聰

〔ストーリー〕
> 定年退職から僅か3年、夫・隆之は心臓発作であっけなく逝ってしまった。葬儀の後、隆之の携帯にかかってきた電話がきっかけで、敏子は夫に10年来の愛人がいたことを知り愕然とする。さらには、突然同居を宣言する長男の身勝手さにも嫌気がさし家を飛び出すが、行く宛てはない。生まれて初めてカプセルホテルに泊まり、そこで宮里という老女に出会う。宮里は悲惨な身の上話を聞かせ、お代として1万円を要求するのだった……。

 福岡のシネコンの中で、恐らく一番客が入ってないであろうルクル。立地条件が悪い上に、レイトショーがキャナルの1000円に比べて1200円とちょっと割高。最近ようやくポイントカードを作ったが、レイトを他と同じく1000円かそれ以下にしないと対抗は難しいと思うが、今更もう遅いかもね。
 ヒット映画でも休日に楽々席が取れてしまうのだから、はてさてどれだけ持つものやら。

 アイドル時代の風吹ジュンのスキャンダルを記憶している人はもうそう多くはないと思う。『がきデカ』のジュンちゃんのモデルになったくらいだから、それなりに人気はあったのだけれども、いったんそれは地に落ちた。それからお定まりのお色気路線での復帰、『蘇える金狼』で松田優作と大胆なシーンを演じたりして、とりあえずの浮上は果たしたが、その後、役者として大成するとは誰も予想はしていなかっただろう。
 本人もそのあたりを自覚していたと見え、大林宣彦監督と出会ったときに「もっと早くに監督に出会えていれば」と言ったという話であるが、もっと早くに出会っていたら、もっと早くに脱がされていたことであろう(笑)。
 でもって54歳になっての風吹ジュンの風呂場シーンが話題になっている本作であるが、別に前を見せるわけでなし、内容は初老を迎えた女性の自立の物語なのだから、そういう方面での話題作りはこの映画にはふさわしくない。というよりは失礼である。

 さりげなく地味に見える物語であるが、この映画が風吹ジュンと同年代の女性に対して訴えかけるメッセージ性はかなり強い。
 あなたは今一人ですか、それとも家族に包まれていますか?
 そしてあなたは今の人生に満足していますか?
 あなたはあなたの側にいる人を本当に理解していますか?
 あなたはあなた自身が何を欲しているか、本当に知っていますか?
 そういった質問に対して、正面から答えることをこの映画は女性たちに求めているのである。

 「関口敏子」という主人公の名前はあまりに平凡である。おそらくは同姓同名の人間が全国には何百何千といると思われるが、そのことでトラブルになる可能性も覚悟の上で原作者は「平凡さ」を重視して主人公にこの名前を付けたのだろう。
 「鬼龍院華子」とか「萬里小路綾香」なんて名前は、本作には似合わない。このネーミングは松本清張の系譜に連なっている。すなわち、「どこにでもいる一介の主婦」、つまり「読者であるあなた」の共感を求めるために付けられた名前なのだ。
 本作は厳密な意味でのミステリーではないが、未亡人となった敏子は夫に「謎」があったことを知る。現象としてはありきたりな「夫の浮気」という事実に過ぎないが、自分の知らない夫の姿を知るにつれ、夫と自分との間にどれだけ高い壁があったか、どれだけ心理的に離れていたかということを、否応なしに突きつけられることになる。
 浮気相手の伊藤昭子(三田佳子)が「私は隆之さんのお葬式にも出られないのよ」と狂気の目で涙ぐむ。しかし、一人の女を狂わせるほどにまでに愛した男としての夫を、敏子は全く知らないままであった。この二人のいったいどちらがより不幸なのだろうか。
 多分、不幸とは本人が不幸と自覚したときに生じるものなのだ。敏子がこれまで全く不幸でなかったはずはない。しかし、不幸に対してあまりに鈍感であった。あるいは目の前の不幸からあえて目を背けていた。
それが、夫の死後に鈍感さのツケを払わせられるかのように「自覚」を迫られたのだ。敏子の経験する不明も混乱も失敗も、全ては敏子自身に原因がある。夫が愛人にいみじくも伝えていたように、敏子は自ら「置物」になっていたのだ。

 鈍感さはたとえそれが本人の本性であったとしても罪であるのかもしれない。
 敏子のお人好しぶりを見るにつけそう思う。身の上話詐欺師の宮里(加藤治子)に自分から一万円を払い、塚本(林隆三)の誘いに乗って簡単に不倫に走る。いかに動揺して心が定まらない時であったとは言え、あまりに軽率で、50を過ぎた大人の女性といった印象は薄い。
 このままで行けば、息子の彰之(田中哲司)や娘の美保(常盤貴子)に住居を乗っ取られるかもしれない……その寸前で、ようやく敏子は自分の愚かさに気付く。
気付いたのは、多分、敏子が「自分は一人」ということを知った瞬間だ。結局人は「自分しかいない」と知ったときにようやく自立できるのだ。

 この映画には随所に「何気ない風景」が挿入される。
 それは例えば、敏子が電子ジャーのふたを開けて、炊き上がったご飯をただ見つめているだけ、というカットだったりする。そこで敏子が何を考えているかは分からない。ぼーっとしているだけで、何も考えていないのかもしれない。それは分からないが、敏子がそういった「時間」を欲していることだけは分かる。
 何かを考えているにしろ考えていないにしろ、自分としての第一歩を踏み出すためには、「時間」が必要なのだ。そうこの物語は語っているように思える。

 「自分探し」の物語というものを私は基本的に好まない。探すまでもなく、自分はここにこうしてある。今の自分がニセモノで、他に真実の自分があるなどというシンデレラかみにくいあひるの子のような物語は、お伽噺の中だけでたくさんである。
 敏子もまた、いったんは物語の中の自分に逃げ込もうとした。不倫という名のフィクションに身を置こうとした。けれども彼女は最後に自分の愚かさに気付く。それが敏子を最後の最後で救うことになる。観客もまた、そこでようやく敏子に共感できるようになるのである。


 あと一本、映画を見たけど、やっぱり字数オーバーではみでたので、明日の日記で。

(続く)

2005年02月12日(土) 死んでもゲーム/舞台『BIGGER BIZ 〜絶体絶命!結城死す?〜』
2004年02月12日(木) 入院日記11/存在の耐えられないデカさ
2003年02月12日(水) ラブラブブラブラ/『逆説の日本史6 中世神風編』(井沢元彦)/『バロム・1』1巻(さいとう・たかを)ほか
2002年02月12日(火) 気がついたらマヨラー(笑)/『ブギーポップ・アンバランス ホーリィ&ゴースト』(上遠野浩平)/『大秘密』(W・パウンドストーン)
2001年02月12日(月) 来年の『ゴジラ』はあるのか/『アニメージュ』『ニュータイプ』3月号


2007年02月11日(日) 特に悲しくはない死/『轟轟戦隊ボウケンジャー』最終回/マンガ『観用少女 ―明珠―』(川原由美子)ほか

 『キネマ旬報』2月下旬決算特別号を読む。
 2006年第80回ベストテンの発表号だから、ともかく分厚い。受賞結果だけは既にウェブで知っていたが、受賞理由や経過など、選考委員たちのコメントを確認するのが毎年の恒例なので、かなり丹念に読んでいる。おかげで、もう何日間も読み続けなのである。

 何が疑問って、昨年は『フラガール』に『グエムル』という、まあ駄作とまでは言わないけれども、かなり陳腐で冗長なところのある2作が、あろうことか日本映画の1位と外国映画の3位にランクされてしまったという、こりゃいったいどういうわけだと首を傾げて三回転半はしなきゃならない状況が生じてしまっていたので、そのへんのところを探ってみたいと発売を心待ちにしていたのである。

 さて、得点表を仔細に見てみて驚いた。
 日本映画の選考委員は60人。そのうち、『フラガール』に投票したのは40人。しかし、10点満点を入れているのはわずかに2名しかいないのである。
 それに対して、2位の『ゆれる』の投票者は35人だが、そのうち1位に挙げているのは7名、3位の『雪に願うこと』は31人中6名、4位の『紙屋悦子の青春』は30人中7名、5位の『武士の一分』も30人中6名と、軒並み『フラガール』よりも1位率が高い。
 実は「1位に選出した選考委員の数」だけで集計すれば、『フラガール』は同率7位にまで後退してしまうのだ。
 要するに合計点数方式の落とし穴というやつで、ベストワンじゃないけど、一応ベストテンには入れておこうか、という判断で得点した作品が、集計してみたら1位になっちゃってた、という現象なのである。
 『グエムル』もまた、同じように細かく点を稼いで、3位にまで上昇しているのである。

 そもそも、プロの批評家であっても、決して対象作品を全て見ているわけではない。それなのにベストテンを選ぶこと自体、無意味なことなのだ。だからどんな結果が出ようと泰然自若としていればよいのだが、やはりどうしても納得しがたい思いに苛まれないではいられないのである。
 傑作とは言いがたい映画が、いかにも傑作であるかのように喧伝されてしまうというのは、映画界全体にとって不幸な事態を招くことになりはしないか。

 1位、2位に『フラガール』を推している選考委員のコメントも、腑に落ちない。
 石上三登志は「映画的に巧い」と記しているが、困った事態が生じるとタイミングよく救いの手が差し伸べられるご都合主義のどこをどう評して「巧い」と言えるのか。
 襟川クロは、コメントで「アニメは『パプリカ』『鉄コン筋クリート』『ドラえもん』が最高」と書いていながら、ベストテンには一本も入れていない。アニメはまるで映画ではないとするような偏見のある態度は、既に映画を批評する資格自体がない。
 大森望は「娯楽映画の王道」とまで言い切る。貧乏臭い映画が王道であったために日本映画が衰退してきた事実を認識していないのだろうか。
 角谷優は「変わりゆく産業構造の背景をきちんと踏まえた娯楽作」と語る。しかし、全国的には常磐ハワイアンセンターの成功に倣ってアミューズメント施設を立ち上げ、逆に失敗した例の方が圧倒的に多いのである。九州でもネイブルランドは廃墟と化したし、スペースワールドだっていったん破綻している。成功例だけを取り上げている我田引水な映画を「背景をきちんと踏まえた」と評するのは笑止である。
 木村啓子の「直球勝負で心に迫った」などは、変化球の映画は評価されにくいということか、と映画作家の努力を考慮していないかのようにすら聞こえて、暗澹たる思いにさせられる。
 佐藤忠男は一番熱く『フラガール』を賞賛しており、李相日監督の『青 〜chong〜』と合わせて、「非常に正統的な作り方」「起承転結のしっかりした、折り目正しい、かつての撮影所システムの秀作のような作風」とえらい持ち上げようである。しかしこの批評は同時に「昔はこの程度の映画はいくらでも作られていた」ということをはっきり指摘してしまっている。秀作ではあっても傑作とはいえない、そんな映画を、あえてベスト2に選んでしまっているというのは、結局は古きよき日本映画の黄金時代への郷愁、つまりは感傷的な気分に浸らされているだけのことではないのか。
 高橋聰は「映画的カタルシスは圧巻」と言う。カタルシスとは、いったん主人公たちが落ち込んだ逆境が大きければ大きいほど、それを跳ね除けたときに得られるものである。あの程度の逆境のレベルで「圧巻」と言えるのなら、日本人の大半は大苦労人ばかりである。実際、『フラガール』の何がイライラするかと言うと、「その程度の逆境で泣いたり悔しがったりするなよ、みっともない」という点なのだ。『フラガール』を評価した人たちはよっぽど苦労知らずの人生を送ってきたらしい。
 土屋好生は「日本映画再興の象徴」「笑いあり涙あり、そして怒りあり哀しみあり。映画に必要な全てがそろっている」と言う。映画に必要なものはそういうものか? それに笑いや涙はまだ分かるとしても「怒り」を観客は何に対して感じるのか。娘に暴力を振るう父親に対してか。定型文で何も評していないに等しい駄文である。

 『フラガール』を2位にまで入れた選者に拡大しても60人中8名で、しかもそのコメントは批評家としての資質を疑いたくなるようなあやふやなものが多い。『ゆれる』は2位にまで投票した選者を含めれば15人にまで増える。実質的な昨年の日本映画ベストワンは『ゆれる』であったと考えた方が妥当だろう。
 『フラガール』は米アカデミー賞外国語映画賞の日本代表作に選ばれ、あっさり落選してしまったが、もしもこれが『ゆれる』の方であったなら……と、考えてはいけない「IF」を夢想してしまいたくなるのである。

 こういう不正確な順位が生じてしまうのであるから、もっとそれぞれの順位の得点に幅を持たせたらどうだろうか。例えば次のようにするのである。
 1位46点 2位37点 3位29点 4位22点 5位16点 6位11点 7位7点 8位4点 9位2点 10位1点
 これで計算すれば、『ゆれる』は『フラガール』を楽々抜いて1位に躍り出る。それでも不満が生じないわけではないのだが、現行の得点制度よりははるかに妥当な結果が出ることになるだろうと思う。


 『轟轟戦隊ボウケンジャー』第49回「Last Task 果て無き冒険魂」
 (脚本 會川昇/監督 諸田敏)
> 最終決戦を前に、全ての冒険者が揃う! 6人はそれぞれのプレシャス、それぞれの冒険を胸に、決戦の地へ向かった。
>世界のあらゆる災厄の塊である絶望=デスペラート。さらには、プレシャスを取り込む能力を手に入れた大神官ガジャ(大高洋夫)、いや、ゴードムの心臓を取り込み究極進化したガジャドム。最強最大の敵を相手に、彼らはいかに戦うのか?

 という最終回。一年間楽しませていただきました♪ 当初の全50話の予定が1話減ってるけれど、別に人気がなかったわけではなかろう。風のシズカ(山崎真美)もいたし(笑)。
 あー、ミスター・ボイスの正体、こいつだったか。って、誰も正体なんか詮索してなかったと思うぞ。あまり意味がない意外な結末(笑)。
 一番ショックな展開は、ボウケンピンク(末永遥)に牧野センセイ(斉木しげる)がヘンソウしていたことか。体型、完全に変化させてたけど、おまいはポルターガイストかっ(by『鉄面探偵ゲン』。義手義足で身長を変化させられる怪盗)。これもサージェス財団の技術力なんですかね(苦笑)。

 細かいことにツッコミ入れちゃうと、今回のシリーズ、テキ役が増えてプレシャスの争奪戦という「タイムボカン複数化」みたいな展開だったので、「悪と戦う」イメージは希薄になってたんだよね。テキ役、みんな愛敬あるやつばっかりだし。
ガジャがラスボスってことになるのは仕方ないとしても、悪の要素としては既に倒されてしまっていた闇のヤイバの方がインパクトはあった。ガジャも結局完全には倒せず仕舞い。「冒険はまだまだ続く」と言われても、若干、消化不良のまま終わったかな、という印象は拭いきれない。
 もっとも、ダークシャドーと言うか、風のシズカに爆死とかは似合わないから、「今日もみんなは相変わらずのドタバタ騒ぎ」的な終わり方って、心和みはするのだけれど。でもこれって『うる星やつら』『天地無用!』ラインのアニメの手法だよなあ。そのへん、脚本が會川昇だったからだろうか。

 最近は何年か置いて『〜ジャーVS〜ジャー』みたいな企画スペシャルを制作するから、殆どの敵が倒されないままに終わった(ジャリュウ一族もボスいないのにちゃんと頑張ってるし)のは、そういった「続編」構想のためなのかなあと思っていたら、もう来月、オリジナルDVDで『轟轟戦隊ボウケンジャーVSスーパー戦隊』が発売されるのが決まってるのね。はい、ガジャはしっかり出演します。長い眠りにつくどころか、仮眠しか取ってないんじゃないか(笑)。
 しかも『ハリケンジャー』のフラビージョ(山本梓)も復活ってんだから、こりゃもう絶対に「買い」なんだけれども、風のシズカとフラビージョの競演が見られないのは残念。山崎真美のスケジュールが合わなかったのか、悪のヒロインが多すぎてもという判断なのか。せっかくの30周年記念なんだから、劇場版でもよかったと思うけどね。フラビージョと一緒にウェンディーヌ(福澄美緒)が復活しないのは、結婚引退されたからだそうである。
 そしてこれが一番悲しいことだが、敵方に曽我町子さんがいらっしゃらない……。


 『仮面ライダー電王』第3話「アウトロー・モモタロー」
 (脚本 小林靖子/監督 長石多可男)
> 電王として戦う決意を固めた野上良太郎(佐藤健)だったが、慣れない戦いに疲労困憊。
> そんな彼が倒れたスキに、モモタロス(桃太郎型イマジン/関俊彦)が憑りついては、勝手に体を使う。今日も今日とて、良太郎の体を借りてケンカざんまい。
山越佑(波岡一喜)。売れないミュージシャン。借金を重ねたあげく、盗みにまで手を染めてるヤバイ男……。
> そんな山越に、「面白え!」と手を貸してしまったことから、良太郎+モモタロスが裏の世界に?!

 あー、あのイマジンの名前、「モモタロス」で定着するんだ(笑)。
 前作同様、フィルム撮影だし、脚本が小林靖子さんなんで、ドラマとしてはそれなりに安心して見られはするのだけれども、かと言ってハマってしまうほどに魅力的とも言いにくい。毎回言ってるように旧ライダーファンはこのシリーズを『仮面ライダー』と認識してはいないだろう。
 3話見た段階では、シリーズの方向性がまだつかめない。善の人間と悪(というかやんちゃ坊主)のイマジンとの合体って、『仮面ライダー』としては新規軸でも、まるで『デビルマン』のような『鉄腕バーディ』のような『クロザクロ』のような、要するにマンガじゃよくある設定である。ありきたりと言ったらそれまでなんだが、この基本設定をどう面白くするかが問われるわけだから、今のところはあまり目くじら立てなくてもいいかな、とも思う。
 状況説明の方が先行しているので、一人一人のキャラクターもまだ充分に描写されてはいず、人物同士の掛け合いも真剣味に欠ける。
 時間移動もどの程度ドラマに絡んでくるのか、別の時代は全部CGで表現するつもりだろうかとか、不安材料はいくらでもあるので、期待するようなしないような、テキトーな姿勢でキラクに見るのがよかろうか。


 マンガ『観用少女 プランツ・ドール ―明珠―』(川原由美子/朝日ソノラマ)
> ミルクと砂糖菓子と愛情を栄養に愛しみ育まれ、極上の微笑みで見る者の心をとらえて放さない“観用少女”――。
> その美しさに魅せられた人々の、さまざまな愛と喜びと、哀しみの物語。
> 超ロングセラーの傑作コミック、完全版・全2巻で遂に発売。単行本未収録作品を含む「観用少女」シリーズ全作品を収録! 雑誌掲載時のカラー原稿を完全収録! 一部原稿に加筆・修正、彩色! 第二巻は1月発売予定。

 私には、少女マンガで最も美しい絵を描くのは川原由美子である、と感じていた時期があって――(苦笑)。
 それがこの作品が発表されていた90年代前半であったので、つまりは私もプランツ・ドールの妖しい魅力にすっかり虜にされていた、ということなので、もしも本当にプランツ・ドールが売り出されていて、少しでも私に微笑みかけてくれたなら、子孫までのローンを組んででも、購入していたかもしれない(実際には結婚後のことなので買うに買えなかっただろう……って、妻の方に微笑んでいたらどうするのだ)。

 ヒトガタをしていて生きてはいても、人間ではない――。プランツ・ドールのその設定に、初めは随分と悪魔的なアイデアを思い付くものだと感心と同時に畏怖も感じた、というのが初読のころの印象である。
 生きていてヒトガタをしていて、しかも教育次第で感情表現もできるようになり喋れもする、大人の女にもなれる、となればこれはもう人間に他ならない。「ドール」などとはうっかり枯らしてしまった(殺してしまった)罪の意識から逃げるための欺瞞ではないか、ドールが往々にして「姫」と呼称されるように、これは自己の「姫に奉仕したい」というマゾヒズムを充足させるための物語なのではないか。そんなことを当時は考えていたのである。
 プランツ・ドールは決して安い買い物ではない。しかも充分に栄養と愛情を与えたとしても、必ずしも自分の思い通りの微笑みを返してくれるとは限らない。愛情を注いだ分、自分に微笑み以上の何かを帰してくれるわけでもないのである。ペットに限りなく近いが、ペットではないのは、やはりそれが少女の形態を取っているからで――。まさしく王女に恋をしつつその王女に触れることもできない従者のごとく、男は満たされない自己の欲求を抱えながら、それでいて少女から離れることができない――。これがマゾの物語でなくて何なのか、こんなものを楽しんで読んでいる私もまた精神的マゾヒストなのかもしれない、と、自分に畏怖を覚えたというのは、そういう意味なのである。

 それから10年以上も経っているので、私ももう、プランツを衝動買いしてしまうような無分別ではなくなっていると思うが(笑)、世間的には「プランツを欲する潜在的な欲求」はむしろ高まっているように思えて、別の意味での畏怖は感じざるをえない。
 プランツ・ドールとの交情はやはりいびつである。「予め微笑むだけの姫」を求める心理というのは、一見、相手を自由にさせているように見えるがそうではない。逆に「微笑む以外のことを求めない」不自由の檻の中に閉じ込めていることである。プランツ・ドールに羽が生えることを、涙を流すことを望む客はいるだろう、しかし、大人になって自立し、自分の力で働いて新しい家庭を持ち、子を育む客はいない。いかに姫に奉仕しているように見えても、やはり主人は購入者であり、プランツは「飼われている」のである。もちろんそのことに不満を抱くプランツもいないわけで、これもまたある特殊な趣味の男の欲求に答えただけの存在であり――。
 そして生身の女性にもプランツ的要素を求める男たちが現実に存在していることを思えば――。
 やはり10年まえより男たちは病んできていると思わないではいられないのである。


 夕方から、父と待ち合わせて天神へ。
 車上で、大叔母が先月亡くなったことを聞かされる。生前、習い事だの遊び事でしこたま借金をこさえ、母にもしばしば借金を頼んでは踏み倒し、母の死後はお定まりのように街金から返せもしない金を借りまくってローン地獄、結局自己破産してしまい、それでも借金して遊んでの生活は改まらなかったという、私の知る限りでもかなりろくでもない部類に属する人間だったが、父も結局は葬式には参列しなかったそうである。
 大叔母の死を知らせてくれたのはやはり借金まみれの大叔父からだったということである。
 「縁を切っとるから、知らせてくれんでもよかったとばってん」
と父は言っていたが、確かに母の死後、いったん縁を切ってはいたが、数年して  「いつまでも昔のしこりを残してもいかんな」と言って、再びやりとりはしていたのである。父も脳梗塞以来、記憶がますます怪しい。
 こないだ、「店の本が盗まれとる」と憤慨していたが、そんなのはもう何年も昔からだ。トシもトシだし、引っ込んで養生していたらとも思うが、儲からなくても少しは働いていないと、ますますボケていくかもしれない。
 しかし、親戚が死んでも、その人に何の思いいれもないと、涙の一つも出ないものである。


 天神東宝で、映画『DOA/デッド・オア・アライブ』。
 客が数人しかいなくて、父が「この映画館は大丈夫か」と心配していた。
 『DOA』を上映しているのはこのあたりでは天神東宝だけなので、単に映画に人気が無いだけだと思う。
 でもこういうバカ映画を楽しんで見る感覚がないと、人間、マジメになりすぎてかえって歪んじゃうと思うけどね。
 ついでだが、この映画を一番見たがったのは71歳になる父で、目的は当然きれいなねーちゃんたちのむちむちボディであろう。それでいいのだ(笑)。


 映画を見たあと、いつの間にできたのやら、天神東宝の一階の天ぷら屋「ひらお」で食事。
 空港横の店が本店だと思うが、いつの間にこんなチェーン展開をするようになったのか。いかの塩辛や漬物の食べ放題が売りの店だが、なんとこの支店ではかぼちゃまで食べ邦題になっていた。
 食事代を安く済まそうと思えば、500円程度で腹いっぱいになる感じである。父もいささか食べ過ぎていたようだった。


 父をマンションまで送った後、しげ。が「もう一本映画が見たい」と言い出したので、取って返すように今度はキャナルシティへ。映画『となり町戦争』を見る。
 公開二日目だと言うのに、先着者サービスの江口洋介・原田知世サイン入りブロマイドがまだ余っていた。劇場内にも客は数えるほどしかいない。これも一、二週間で打ちきりだな、と見当が付いたので、早めに見に来てよかったな、というところである。


 どうして映画の感想を書いていないのかと言うと、2本とも感想を書きはしたのだが、いつものように枚数制限をオーバーしてしまったのである(苦笑)。
 というわけで、それは明日の日記に。
 って、明日も映画を見る予定なのだが、またはみでちゃうんじゃないかな(苦笑)
(続く)

2005年02月11日(金) 狂っても人生/映画『新暗行御史』
2004年02月11日(水) 入院日記10/さらば関西人
2003年02月11日(火) 映画を見る以外に休日の過ごし方なんてあるんですか/映画『音楽』/『プーサン』/『エデンの海』/『日本一のホラ吹き男』
2002年02月11日(月) うまいぞもやしマヨネーズ/『ONE PIECE ワンピース』22巻(尾田栄一郎)
2001年02月11日(日) 水の中の失楽/アニメ『も〜っとおじゃ魔女どれみ』1・2話ほか


2007年02月10日(土) 『のだめ』エランドール賞/『裁判狂時代』(阿曽山大噴火)/『シャアへの鎮魂歌』(池田秀一)

 体調不良で、先週は予定していた映画や芝居をかなり見逃してしまっている。
今日からの三連休で、見損なっていた映画をハシゴして見て回ろうと思っていたのだが、今度はしげ。が「キツイ、出かけるのやだ」とゴネ出した。
 こちらも油断をするとまた咳が治まらなくなるので、養生のために一日ゆっくりすることにした。
 しかし、風呂に何度か入るが、左肩の凝りがいっこうに取れない。
 ふと般若心境を唱えてみたら、幾分肩が軽くなった。なんか憑いてたのかよ(苦笑)。


> エランドール賞:「のだめ」主演コンビが新人賞 「デスノ」の松山ケンイチも
> 06年、映画やドラマで活躍したプロデューサーや俳優、作品を表彰する「エランドール賞」の授賞式が8日開かれ、新人賞にドラマ「のだめカンタービレ」の主演コンビの上野樹里さん(20)と玉木宏さん(27)や、映画「デスノート」に出演した松山ケンイチさん(21)らが選ばれ、「のだめ…」は特別賞を受賞するなどマンガ原作の映像作品がヒットした06年を反映する結果となった。
> 同賞は、日本映画テレビプロデューサー協会が会員のアンケートを元に、新人賞、作品賞、特別賞などが選ばれる。二ノ宮知子さん原作のマンガをドラマ化した「のだめカンタービレ」は、「クラシック音楽界を舞台にドラマを成功させ、世にクラシックブームを巻き起こした」として特別賞に選ばれた。ヒロインのだめをコミカルに演じた上野さんは「舞台に出たいのでダンスを練習しています」と語り、ピアノに続く新たな挑戦に意欲を見せた。指揮者を目指す千秋役の玉木さんのプレゼンターとして、千秋の師匠である名指揮者のシュトレーゼマン役の竹中直人さんが登場。ドラマ同様のコミカルな雰囲気で受賞を祝った。
> また、「週刊少年ジャンプ」で連載され、大人気となったマンガ(大場つぐみ作、小畑健画)を映画化し、前後編で計600万人以上を動員する大ヒットを記録した「デスノート」で、主人公・夜神月のライバル・天才捜査官Lを好演した松山さんは、Lを主人公にしたスピンオフ作品の製作も決定、今後は「社会問題を扱った作品に出てみたい」と語った。
> 新人賞ではほかに、蒼井優さん(21)や綾瀬はるかさん(21)、劇団ひとりさん(30)が選ばれ、特撮ヒーローシリーズ「ウルトラマン」や映画「帝都物語」などを手掛け、06年に亡くなった実相寺昭雄監督らに特別賞が贈られた。

 「世にクラシックブームを巻き起こした」って、そうなんですか?(笑) 

 「ブーム」という言葉の胡散臭さにはかなり食傷しているので、せいぜい「あ、『のだめ』のCD」が出てる。買ってみよーっと」なんて言ってCDとやらにがちょっと売れた、程度のことだろうと解釈しておきたい。
 にわかファンであろうとなんだろうと、クラシックに対する偏見がマンガやドラマを通じて薄れていくのならば決して悪いことではない、というご意見もあるだろうが、世の中、本気でオタク属性を持っている人間なんて、さほど多くはないのである。寂しさをかこっている昔からのクラシックファン諸兄、あまり期待はしないように(苦笑)。

 『のだめ』の受賞にイヤゴトを言いたいわけではない。
 上野樹里は『出口のない海』や『笑う大天使』より、よっぽどいい仕事を『のだめ』でしていたと思う。実際にピアノも弾けて、かなり吹き替え無しで撮影にも臨んだというし、もしもコンサート中の着ぐるみの中にまで入っていたとしたら、これはもう脱帽ものだ(多分別人だろうけれど)。
 コンサートシーンは千秋の余計な解説を除けば出色の出来だった(あの千秋のモノローグは音が聞こえないマンガだからこそ必要なので、映像の場合は不用どころか邪魔ですらある)。正直、竹中直人さえ出ていなければ、DVDボックスを買いたいほどだ(竹中直人本人を嫌いなわけではない)。

 けれども、どうしてもドラマとしての欠点の多さに目が行ってしまい、「この程度のドラマで受賞? ほかにも出来のいいドラマはいくらでもあっただろう、『アンフェア』は、『時効警察』は、『のだめ』より劣るのか?」と、どうしても不自然さを感じてしまうのである。

 そもそもがこのエランドール賞、記事にもある通り、「日本映画テレビプロデューサー協会」の会員による選出である。プロデューサーと一般の観客と、映画やドラマに対する視点が違うのは自明の通り。要するにドラマとしての完成度やオリジナリティーよりも、「流行にうまくハマッてヒットした」という事実の方が受賞理由としてより考慮されることになるのだろう。
 下世話な表現になるが、「売れてナンボ」の感覚の方々が選出している賞なのである。それがいけないということではなくて、我々は「ナントカ賞」と聞くと、ついその「内容」が評価されたと思いがちなのだが、これはそういう賞とはたいして関係のない賞なのだと理解する必要があるだろう、ということである。
 「クラシック音楽界を舞台にドラマを成功させ、世にクラシックブームを巻き起こした」っていうのは、つまりは「現象」を評価しているだけのことで、ドラマの中身については触れていないのだから。


『裁判狂時代 喜劇の法廷★傍聴記』(阿曽山大噴火/河出文庫)

> 世にもおかしな仰天法廷劇の数々! 大川興業所属「日本一の裁判傍聴マニア」が信じられない珍妙奇天烈な爆笑法廷を大公開! 石原裕次郎の弟を自称する窃盗犯や極刑を望む痴漢など、報道のリアルな裏側。

 『キネマ旬報』の映画『それでもボクはやってない』特集号に、「この映画の描写はホンモノ」と太鼓判を押していたのが、著者の阿曽山大噴火氏である(「あそざん」の「そ」の字が「蘇」じゃないのね)。
 寡聞にして昨今の「傍聴ブーム」(そんなのがあったのかい)の火付け役であることも、大川興業の人であることも知らなかったのだが、やや「斜め読み」な視点に違和感は感じるものの、日本の裁判の珍妙さを知るには格好のテキストであるように思う。

 かつて私自身も知人が起こした事件に関連して、裁判の証人に立ったことがある。
 そのとき実感したことは、あそこは真実を解き明かす場でも何でもなく、有罪か無罪か、そのどちらかを「勝ち取る」場なのだということだ。
 ちょいとアナタ、証人席に立って、被告人の弁護を行っていたら、裁判官から(検察官からではないよ)「どうしてこんな被告人を弁護できるのか」みたいに突っ込まれてごらんなさいな。「わしゃ、そのためにここに来とるんじゃい!」と怒鳴りたくもなりますよ。いえ、本当に怒鳴ったりはしてませんけどね。
 別に理想主義者ぶるつもりはないが、裁判というものにどこか白々しいものを覚えてしまって以来、その手の話題には触れたくないというのが正直な気持ちであったのだ。

 それがどうして本書を手にする気になったかと言うと、最近、偶然その裁判の時の関係者に道端で逢うことがあって、あの裁判が決してムダではなかったのだということが確認でき、少し気が安らいできたという事情が作用している。『それでもボクはやってない』を冷静に見られたのもそのおかげだろう。

 宣伝の惹句にもある通り、これは著者がこの七、八年の間に傍聴してきた裁判のおもしろレポートである。「裁判という神聖なものを茶化すとは何事か」というマジメな方の謗りがあるかもしれないが、実際に傍聴経験を一度でもして見れば分かることだ。裁判は神聖なものでも真面目なものでも何でもない。
 いや、当事者たちはいたって真剣なのだろう。しかし事件というものはいずれも日常の掛け金をどこかで掛け違えてしまったために起きてしまう「非日常の世界」である。フツーの感覚がどこかで捻じ曲がり歪んでズレてしまっていることは否めない。そこに関わってしまえば、たとえ常識をもって対処しようとしても、弁護士も検察官も裁判官も、みなどこかでズレちゃってしまうのは仕方のないことなのだ。

 エンコーの相手に暴力を振るっていったん払ったお金を奪い返した「強盗致傷」の事件。検察官が事件の認定よりも、「常習犯」である被告人に、「何人と会ったことあるの?」「具体的にはどうやるの?」「射精はしたの?」とか、興味本位の質問に偏っちゃってしまって話にならない。検察官もオトコなんだねえ、というよりは、これじゃ屋台の酔客である。
 かと思うと、思いっきり熱血漢な検察官も。満員電車で犯行を繰り返した前科二犯の痴漢の裁判で、モゴモゴ言い訳をする被告人に対して、「被害者の心情を考えんのか!」「病気だろう、専門家に見てもらえ!」「裁判官の前では反省してるって、全然してないじゃないか!」と完全にキレている。圧倒された被告人が「極刑にしてください」。いいなあ、痴漢三回なら死刑。犯人自身がそう望んだからそうしましたって判例ができれば、痴漢も減ると思うんだけど。

 ほかにも被告人を全然弁護しないで検察官と一緒になって責め苛む弁護士とか、傍聴人をやたら注意する裁判官とか。
 本書で扱っている裁判は、そんな、新聞の片隅にも載らないような本当に些細な事件ばかりだけれども、いくつかは超有名どころの裁判レポートも紹介されている。
 一つは「法の華」事件。あの「最高ですかあ?」で有名になった福永法源の詐欺事件だ。被告人が「本なんて一冊も書いてない」と、そこでは正直に語るけれども、信仰上の件に関しては「私には天声が聞こえる」と主張して曲げようとしない。そこで裁判官が突っ込む。「なんて声が聞こえたの?」
 被告人の答え。「法源誕生だよ」。
 裁判官、「日本語で? お釈迦様はインド人だけど」。
 被告人、「い、いやあ、どこの出身かは知りませんけど」。
 ……笑っちゃうと言うかあきれちゃうと言うか、この程度の言い訳も考え付いてなかったんだねえ。「意識を感じるので、それを私が日本語に翻訳してます」くらい言えよってねー。
 もう一つの重大事件は、オウム真理教事件だけれども、その醍醐味は本書を読んで味わっていただきたい。

 しかしあれだ、裁判員制度が2009年度から実施されようと言うのに、このクニの愚鈍で卑怯で無責任な一般大衆の6割以上が「裁判員に選ばれたくない」とかほざいているのだそうだ。小学生かお前らは。シゴトと言うのはやんなきゃならないときには四の五の言わずにやんなきゃならないんだから、今のうちにちょこちょこ裁判を傍聴しといた方がいいと思うんだけど。
 え? 裁判って誰でも傍聴できるのかって?
 そうだよ!! ……。


『シャアへの鎮魂歌 わが青春の赤い彗星 A Requiem For Char Aznable』(池田秀一/ワニブックス)

> 人気アニメ「機動戦士ガンダム」でシャア・アズナブルを演じる声優・池田秀一の初の自伝! まるでドラマのようなシャアとの運命的な出会いから、池田さんから見たシャアの魅力、アムロ役・古谷徹さんら仲間たちとの知られざるエピソード、そして今年8月に死去したブライト・ノア役・鈴置洋孝さんへの別れの言葉……。涙なしでは読めない、永遠のヒーロー・シャアと共に生きたその27年間を余すところなくつづります。

 池田秀一の自伝というよりは、「シャア・アズナブル」の自伝と言っていいくらいに、シャアに関する思い入れが全ページに渡って書き連ねられている印象。
確かに現在の視点で俳優・池田秀一を鑑みるならば当然のことなのだろうが、子役時代の『路傍の石』や『次郎物語』の池田秀一も印象深い身にしてみれば、いささかの物足りなさ、わびしさを感じるのも事実である。石原裕次郎とのエピソードなどはもっと詳しく書いてほしかったところだ。

 けれども、いかに惹句でそのように謳われていようとも、本書は事実において池田秀一の「自伝」ではない。「はじめに」で著者自身が語っている通り、本書執筆の動機は、『機動戦士Zガンダム』の映画化をきっかけにして、「僕とシャアが一緒に歩んで来た道をお見せすることで、今、何かを生み出そうとしている次の世代の人たちの手助けになるのであれば」という思いが募ってきたから、ということなのだ。
 従って、「池田秀一はどうして戸田恵子と離婚して玉川紗己子と結婚したのか」とか、芸能雑誌的な興味で本書を読んだとしてもその結果は徒労に終わる。もっとも、たいていのアニメファンは、そういう「二次元のイメージを破壊すること」に対しては生理的に拒否反応を示すだろうから、そのあたりの事情について書かれなくて正解だったと思う。良くも悪くもアニメファンはピュアな人が多い。

 そういったアニメファンの「ピュアさ」に対して、著者が気遣っているような描写も本書には散見する。いささか苦笑してしまったのは、「シャアのイメージを崩してはいけない」ために、できるだけファンの前に姿を見せない、どうしてもファンの前に立たなければいけないときには「自分がシャアであること」を意識して、サインなどもしない、といった態度を取る、という件だ。
 いやまあ、確かに二次元キャラクターと実際の声優との間にイメージのギャップがあることはままあることではあるけれども、そこでファンが「幻滅」してしまうのは、声優本人に責任があることではなく、ファンの幼児性の方に問題があるのではないか。それに池田さんはそこまで気を遣わなければならないほどに外見上、シャアのイメージを崩してしまうような人ではないと思うのだけれど。
 声優さんも大変だ(苦笑)。

 当たり前の話であるが、役者がそのキャラクターを演じるときには、その役になりきるべく、最大の努力をする。池田さんもやはり『ガンダム』の第一シリーズでシャアその人にならんと一つ一つのセリフに心を込めている。
 セリフとは物語の登場人物間の「関係性」によって成り立つものであるから、そこを捉え間違えると、画面とセリフとの間に乖離が起きてしまう。たとえば、「友達の会話に聞こえない」「兄弟の会話に聞こえない」という事態が生じてしまうわけだ。案外そのことを考えていない役者はいるもので、そこが演技というものの難しいところだ。
 その「関係性」のことを池田さんは「温度の違うキャラクターの対比」と表現している。
 例えば、第12話『ジオンの脅威』で、左遷されたシャアがとあるパブで酒を飲んでいるシーンがある。男が一人、シャアに近づいてきて酒を奢ろうとするときの、お馴染みのあの会話だが、池田さんは「シャアは相手の放つ『匂い(雰囲気)』だけで相手をジオンの間諜だと見破ります。この会話のみで、シャアと相手の立ち位置が逆転し、シャアは優位に立ちます」と分析する。
 実際、相手の男は、最初は「それは私に奢らせてもらおう、いいかね?」とやや高圧的だったのが、シャアに正体を見破られた途端に、「さすがですな、少佐」と口調もですます体に、シャアを敬服していることが明らかな態度に変わっているのだ。

 これだけの分析をしているから、シャアというキャラクターに対しての池田さんの思い入れには説得力が生まれる。『Zガンダム』以降のシャアに対して、「シャアってこんなに子供だったのか?」と違和感を覚えたというのは、当時のファンもまた同様だったと思う。
 20年ぶりに『Z』の劇場版が作られ、シャアが「大人のキャラクター」としてリライトされるに及んで、ようやく池田さんの心から「シコリが取れた」というのは、演技というものの本質を考える上で極めて重要なことだと思う。
 劇場版リメイクにあたって、このあたりの分析をきちんと行った批評を雑誌でもウェブでもついぞ見かけなかったが、出演者に説明してもらって、「ああそうか」とうなづくというのは、ファンとして忸怩たるものを感じないではいられない。

 シャアのセリフの分析は、本書の随所に、終章に至るまで挿入されている。イントーネーション、言葉の区切り方次第でキャラクターの心情がどのように変化するかを、具体例を挙げて示しながら、池田さんは声優の演技について以下のように総括する。
 「役作りをしながら状況に合わせてセリフを言うことって、実は非常に難しいことなんですが、僕はそのセリフと芝居を音符だと捉えています」
 「僕たちは声の芝居を受け持つのですから、僕たちがもう少しキャラクターを深く捉えることによって、そのキャラクターが正義の味方だろうが悪役だろうが、ファンから支持を受けるキャラクターへと成長する可能性があるのであれば、僕たち声優は芝居というものを真摯に受け止めるのが正しい姿勢でしょう」
 本書を声優のアイドル人気に乗っかったキワモノ本だと思って油断していた人がいたら、これらの言葉に刮目していただきたいところである。

 本書には声優同士のあたたかい交情なども描かれている。
 亡くなった井上瑶さん、鈴置洋孝さんへの思いを綴った件などは涙無しには読めない。トミノ御大の例の「トミノ節」を紹介した裏話なども楽しい。
 けれども、私が一番面白く読んだのは、こういった詳細なセリフの分析が、分かりやすい表現で書かれていたことだった。

 何だかまた『Zガンダム』が見たくなってきた。
 劇場版三部作のDVDを見返してみようか。鈴置さん、井上さんへの追悼の意も込めて。

2005年02月10日(木) 宮崎駿監督、栄誉金獅子賞/映画『きみに読む物語』ほか
2004年02月10日(火) 入院日記9/お薬の正しい飲み方
2003年02月10日(月) 夢見が悪い日ってあるよね/映画『金髪の草原』/『うさぎとくらたまのホストクラブなび』(中村うさぎ・倉田真由美)ほか
2002年02月10日(日) 男が女に暴力を振るうワケ/『仮面ライダー龍騎』第02話「巨大クモ逆襲」/アニメ『サイボーグ009』第17話「決戦」ほか
2001年02月10日(土) 「html」って、はいぱあ・てくのろじい・まきしまむ・ろぽ……じゃないよな/映画『狗神』ほか


2007年02月09日(金) いつのまにかの240000ヒット/舞台『ブラックコメディ』(劇団四季)

 またまたちょびっと(どこが?)間が空いてしまったが、休みごとに自主映画の撮影なんぞをしていたもので、こちらの日記を書く精神的余裕がなかったのである。
 先週からずっと風邪っぴきというのもあったし。まあ、そのあたりの事情については追々に。つか、仕事に関連したことなので、ここには書けん(苦笑)。

 しかし、ほったらかしといてもやっぱりお客さんは連日押し寄せてくる大盛況で、24万ヒットをとうの昔に越えてしまっている。いったいどんな人がそんなに覗いていらっしゃるのか、掲示板に足跡でも残していただけるとありがたいのだが。
 実際はお客さんの顔が見えないからこそ、遠慮せずに好き勝手書けるのではあるけれどもね。


> 「ジャーナリスト宣言。」広告、朝日新聞が自粛
> 2月9日3時11分配信 読売新聞
> 朝日新聞社は、写真記者(46)(諭旨解雇)の記事盗用問題を受け、「ジャーナリスト宣言。」と題した企業イメージの向上を図る広告キャンペーンを自粛した。
> 社内の不祥事による広告自粛は同社で初めてという。
> 同社によると、このキャンペーンは昨年1月に始まり、テレビ、ラジオでCMを放映したり、新聞、雑誌、公共交通機関に広告を出したりした。
> しかし、1月31日に写真記者が読売新聞の記事を盗用していたことが発覚したため、今月1日夜からすべてのキャンペーン広告を取りやめた。
> 同社広報部は、自粛の理由について「今回の事態を重く受け止めたということに尽きる」と説明している。

 件の「ジャーナリスト宣言。」というのは、あちこちで物議を醸したアレのことである。

「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」

 私は「アンチ朝日」というほどは朝日新聞を嫌っているわけではなく、かと言って好きでもないのだが、さすがにこれをCMで聞いたときには「アサヒの独裁を目論むヤカラが何を言うのか」とブライト艦長的な言質を弄したくなってしまった。
 要するに誰もが指摘していた通り、「お前が言うな」ということなのだが、こういう自己を顧みないと言うか、心に棚を作ってると言うか、何様のつもりと言うか、言語学の基礎知識もないということが明確に分かってしまうコピーを作ってしまうから、平気で「自主規制」という名の「言葉狩り」をやらかしてしまえるのだろうと納得したことである。

 今回「自粛」が行われたということは、アサヒ自身も「自分たちが言えた立場じゃない」と自覚したと解釈できはするのだが、もしも本気で反省をしたのであれば、新聞発行をしばらくやめるとか、それくらいのことをしてもおかしくないのだが、ヤクでとっつかまった芸能人よろしく、「禊」がすめばいけしゃあしゃあと言葉の揚げ足取りを再開させるつもりなのだろう。
 てゆーか、もう禊はすんだつもりでいるだろうねー。

 基本的なことを書くことは気恥ずかしいのだが、言葉は人間が生み出したものであるが、大多数の人間にとって、言葉は常に自分よりも先に存在している「記号」である。ある言葉を最初に作り出した人間にとってはそこにかなり明確な範囲での「意味」が存在していたのかもしれないが、それが社会に蔓延していった際には、「概念化」「通念化」され、そののち個別に「解釈」されることになる。
 言葉が「共通概念」を持つが故に、我々はコミュニケーションを図ることが可能なのだが、同時に個別に解釈されるということは、「完全に意味が一致した言葉は存在しない」という事態も生じているということなのである。
 したがって、われわれの会話は必ずどこかで齟齬を来す。言葉のチカラとやらをどう信じるのか、この広告は全く不明瞭な言葉の使い方をしていて分からないのだが、何をどう信じたところで、言葉を使った会話で「感情的で、残酷で、ときに無力」な結果に陥ることを回避することは不可能なのだ。

 もちろん、会話のトラブルを避ける方法がないわけではなくて、言葉には「概念」と「個別の解釈」の両面があることを理解して、「個別な解釈のズレ」に関しては許容するなり「そのズレを認めるか否か」で議論をするなりすればいいのだが、たいていの人は自分の個別の解釈を「絶対的な共通概念」だと勘違いしてしまっているのだ。
 だからある言葉について、「差別用語か否か」などという不毛な議論が行われてしまうことになるのだ。
 そんなの、「差別用語」だと思う人間にとってはその通りで、そうでない人にとってはそうでないという「個別」の問題に過ぎない。どっちかが正しいということにはならないのである。だからこそ言葉を一方の解釈にのみ基づいて禁忌扱いするということは、それ自体が、言葉を知らない人間の愚かな行為だと断定するよりほかはない。

 「誰か一人でも傷つくのであれば、その言葉は使ってはいけない」。こんな屁理屈をまともな理由として受け入れるのなら、我々は言葉を棄てるしかない。人を傷つける可能性のない言葉など、この世には存在しないからだ。

 言葉に鈍感な人間は永遠に鈍感なままで、しかも始末に悪いことに自分は言葉には敏感だと信じ切っているものだ。アサヒが今後も同様の不祥事を起こすことは火を見るよりも明らかだろう。


●福岡シティ劇場『ブラックコメディ』(BLACK COMEDY) 午後7:00〜 (1時間20分)

 作=ピーター・シェーファー
 訳=倉橋 健

●スタッフ
 演出 浅利慶太/装置 土屋茂昭/照明 沢田祐二・長谷川智子/衣裳 大石若草子/舞台監督 嶽本由郎/舞台 松信子・松木克憲/音響 佐々木紀子/舞台装置 大野陽介・冨沢奈美/小道具 杉田 都・深沢幸徳/コスチューム 後藤利江・山本サナエ/ヘアー・メイク 前野香代子/協賛 九州電力・NTTドコモ九州・西日本シティ銀行・積水ハウス/協力 九州旅客鉄道・西日本鉄道・日本航空/後援 福岡県・福岡市・福岡県教育委員会・福岡市教育委員会

●キャスト
 ブリンズリー・ミラー(自称彫刻家):石丸幹二/キャロル・メルケット(ブリンズリーのフィアンセ):坂本里咲/ミス・ファーニヴァル(二階の住人):はにべあゆみ/メルケット大佐(キャロルの父):岡本隆生/ハロルド・ゴリンジ(古美術商):栗原英雄/シュパンツィッヒ(電力会社従業員):川口啓史(劇団俳優座)/クレア(ブリンズリーの別れた恋人):八重沢真美/ゲオルク・バンベルガー(大富豪・美術収集家):盒鏡郎(劇団民藝)

●ストーリー
 舞台はある日曜の夜。
 無名の若手前衛彫刻家ブリンズリー・ミラーのアパート。
 ブリンズリーはフィアンセのキャロルと、華やかな骨董品で部屋をにぎやかに飾りつけている。優美な椅子、精巧なランプ、上等な花瓶、値打ち物の仏像などなど……。
 実はこれらの作品は、現在旅行中で不在の隣人、古美術商ハロルド・ゴリンジのコレクション。こっそりと無断で持ち出し、さもブリンズリーの調度品のように装って来客をもてなすというキャロルの計画なのだ。
来客のひとりは億万長者の美術蒐集家ゲオルク・バンベルガー。ブリンズリーの作品を見に訪ねてくることになっている。もうひとりはキャロルの父親であるメルケット大佐。娘のフィアンセとしてブリンズリーがふさわしい男なのか値踏みするためにやってくる。
 並べられた骨董品が老大富豪のお眼鏡にかない、賞賛される姿をフィアンセの父親に見せることができれば、ブリンズリーにとっては富も名声も愛する女性も手に入れることのできる一世一代の大舞台になるはずなのだが……。
 「よりによってこんな日に!!」
 突然部屋は真っ暗な停電状態。
 そんな中、隣人が予定変更で帰宅。上階に住む婦人や電気会社工事人、ブリンズリーのかつての恋人クレアまで登場し、事態をさらに混乱させていく。
観客からはすべてが見える“明るい暗闇”の中、パニックがパニックを呼び、窮地に陥るブリンズリーの運命。果たしてその結末は……。


 「演出 浅利慶太」とあるが、この舞台の最大の演出は、既にピーター・シェーファーの戯曲の中にある。
 つまり、停電中の真っ暗闇というシチュエーション、これが舞台では全体照明の下で描かれ、ほんのかすかでも明かりがある状態(マッチやライターの火や、懐中電灯など)のときは照明が落とされている、という「逆転照明」の演出である。

 映画と演劇の違いから詳述していったら字数の限界も越えてしまうだろうから、かいつまんで書くより方法がないが、これが映画なら、実際に闇は闇として描くしかないところだ。「明るい闇」などは、演劇の持つ「見立て」の表現効果を知悉していなければとても思いつかない発想だろう。この一点をもってしても『ブラックコメディ』が傑作であることは論を俟たない。シェーファーの代表戯曲は『エクウス』も『アマデウス』も映画化されているが、この『ブラックコメディ』だけが未だ手付かずであるのは、まさに「演劇でしか表現できない」魅力に溢れているからだろう。
 結果、観客は「暗闇の中のスラップスティック」を「白日の下で」観劇するという、実にスリリングでエキサイティングな、現実にはありえない体験をすることになる。これがなぜ観客に快感をもたらすのか、それは他人のヒミツをこっそり垣間見る「覗き穴願望」を劇場全体に拡大して充足させて見せたからだと言っていいだろう。
 まさに我々観客もまた、この「明るい闇の住人」としてここにある。

 これだけ上等の戯曲であれば、多少、演技に難のある役者が演じたとしても、充分面白い芝居になる。実際、ストレートプレイを得意としない四季の役者ではあったが、今回の舞台はこれまで私が見てきた四季の舞台の中でも上位に位置するものであった。
 しかし、『ブラックコメディ』の実演としては、最低レベルの舞台化であろう。観客はそれなりに笑ってはいたが、これが最適な役者と演出で行われていたなら、こんなものではすまないはずである。まさに抱腹絶倒、呵呵大笑、膝を叩き、息を詰まらせ、涙を流し鼻水垂らし、椅子から転げ落ちて床を叩き、ヒキツケを起こした挙句に心臓麻痺を起こして死んでもおかしくないほどに狂い笑うことは間違いないからである。
 なぜそうならないのか。役者の誰一人として、闇の中の演技ができていないことが根本的な原因としてある。

 役者たちは果たして、実際に目隠しをして演技をしてみる、などの試みをしただろうか。学校の同和授業などでよく「盲目の人になってみる」ために目隠しをして部屋の中や路上を歩く、などのシミュレーションを行うことがあるが、実際に一度何人か集まって試してみれば私の言いたいことは即座に納得していただけるはずである。実に千差万別、一人一人が奇妙でいびつな歩き方をし、そこには統一性も均一性もなくなるのである。
 ある者はひたすら壁を探し、そこから伝うように出口を探し、ある者は四つんばいになり、ある者はへっぴり腰になってあとずさり、ある者はうずくまったきり動けなくなる。歩くスピードも決して均等ではない。一歩進んでは立ち止まり、からだをいびつに曲げ、手を伸ばすかと思えば足で床を探り、見ようによっては暗黒舞踏を目の当たりにしているように思える時もある。
 それをいかに舞台上に再現して見せるか。工夫のしようはいくらでもあるはずだ。明るいところでは立派な態度の紳士が、闇になった途端に豹変しておかしな仕草を見せるとか、役者も演技のし甲斐があるはずである。

 ところがそういった工夫がこの舞台には一切ない。彼らは全員一様に手を先に伸ばす姿勢で歩き回り、スピードも均一で、あたかも目が見えているかのごとくである。いや、随所で偶然ではなく相手をするりと交わし、「確実に目が見えている」動きをしてしまっているのだ。これで「私らはプロの俳優でございます」と大口を叩くのであれば、「客を舐めるな」と言いたくなる。
 もしもあれで「暗闇の練習もちゃんとしました」と言うのであれば、もう役者としての資質自体に問題があると断定せざるを得ないだろう。

 一番どうしようもないな、と感じたのは、階上にいるクレアが、階下の男たちに次々に水を浴びせていくシーンである。これが実に正確で、目が見えていて目標を捉えているとしか思えない。実際に役者はちらちらと階下を覗いていた。これを、声の聞こえている位置で判断しているのだろうと解釈するのは好意的に過ぎる。ここは正確に頭に注げなくても構わないから、水は適当に振りまいてみせるのが「リアル」というものである。一事が万事この調子で、少しも舞台に説得力が生まれない。
 「闇の中の練習をしていない」あるいは「おざなりな演技をしている」と確信をもって言えるのは、こういう「手抜き」がはっきりと見えるからだ。
 いつもながらの「四季喋り」も、セリフのテンポを遅らせるばかりでキャラクターの個性を殺いでおり、この戯曲にはふさわしくないとしか言えない。

 これだけ面白い芝居なんだからねー、四季にやらせるんじゃなくて、PARCOプロデュースでもいいから、ちゃんとした役者を集めて、もっと面白い芝居にしてほしいよ。四季もさー、自分とこに合わないと分かってる芝居なら、版権は取らないくらいの理性は働かせてほしいものだ。
 ちなみに、1966年の本国イギリスでの初演のデータは以下の通り。

Black Comedy
 Chichester Festival Theatre, then Old Vic Theatre, then Queen’s Theatre,London, 1966.

 Directer:John Dexter(ジョン・デクスター)/Designer:Alan Tagg(アラン・タグ)

cast
 Brindsley Miller:Derek Jacobi(デレク・ジャコビ)/Carol Melkett:Louise Purnell(ルイーズ・パーネル)/Miss Furnival:Doris Hare(ドリス・ヘア)/Colonel Melkett:Graham Crowden(グレアム・クラウデン)/Harold Corringe:Albert Finney(アルバート・フィニー)/Schuppanzigh:Paul Curran(ポール・カラン)/Clea:Maggie Smith(マギー・スミス)/Georg Bamberger:Michael Byrne(マイケル・バーン)

 当時のスチールを見てみたが、それだけで演技のレベルが格段に違うことが見てとれる。
 これだけの名優が演じた舞台を再演するのはかなり勇気の要ることである。よくぞやったものだと感心してさしあげられればよいのだが、四季の場合、これが名作への「挑戦」ではなくて、ただの「増長」としか言えないのが残念なところだ。それは、出来上がった舞台が如実に語っていることなのである。

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藤原敬之(ふじわら・けいし)