無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2001年02月12日(月) 来年の『ゴジラ』はあるのか/『アニメージュ』『ニュータイプ』3月号

 一昨日買った『アニメージュ』『ニュータイプ』をやっと読む。
 テレビの新番組でこれは、と思えるものは殆どない。相変わらずやおいかロリコン向け要素満載の、まあ、私が燃えるにゃちょっと二の足を踏む類のものばかりだ。かと思うと、『サラリーマン金太郎』アニメ化って、誰が見るんだそんなもん、という企画もあり。でもこんなのがマニアックなやつよりかえって視聴率稼いだりするんだよな。制作会社も手抜きして作ったってそれなりの日銭が稼げるとなりゃ、こんなクソみたいな企画でも立ち上げたくなるんだろう。……しかもスタッフ表に監督名が書いてない。多分制作はしてるけど未だに責任者が決まってないということだな。『真ゲッターロボ』より酷い状況だな。
 『コメットさん』アニメ化。おいおいマジか? 今時の若い連中は九重佑三子版はおろか、大場久美子版すら知るまい。ましてや原作があの横山光輝御大であることすら。実は私も原作をまともに読んだことがない。出来れば横山さんの絵柄できちんとアニメ化して欲しいもんだが、『魔法使いサリー』みたいに妙に淡いピンクの色ばかりが強調された、無表情なものになりゃせんかと心配である。旧作もオープニングだけはアニメだったけど、それより落ちる出来にはして欲しくないなあ。
 『逮捕しちゃうぞ』新シリーズもどうせ福岡じゃやるまい。以前テレビ局に勤めてたウチのメンバーの話によると、たとえ系列局であっても、東京で放映しているものを地方で放映しないこともあり(たいていは地方の番組がブッキングされるため)、特にアニメ関係は編成会議で落とされることが多いそうである。その点を考えてみてもまだまだ世間のアニメに対する偏見は強く、逆に「テレビQ」(テレビ東京系列)の偉大さは際立つのである。何しろ福岡のテレビQの社屋の壁面、どでかくポケモンだものな。少しは見習え「F○S」(T○S系列)。
 『ARMS』は原作読んだことないのでどんなのか分らん。でも原作者は『スプリガン』の人だよなあ。あれは漫画も大したことなかったし、アニメも今時インチキがバレバレの「ノアの箱舟」出すなよ、なにトチ狂ってんだ大友克洋、という感じのバカ映画だったし、期待は出来んな。

 結局、期待したくなるのはもっぱら劇場あるいはオリジナルものばかり。というか、今年の豊作ぶりはどうしたことだろう。2001年に合わせて、各社が総力を結集して来たかのようだ。
 サンライズの『カウポーイビバッブ 天国の扉』、ジブリの『千と千尋の神隠し』、マッドハウスの『メトロポリス』、もうこれだけで『ナウシカ』と『マクロス』と『うる星2』が出揃った1982年に匹敵するのではないか。
 しかも今年は既に押井守の『アヴァロン』(実写だけど)公開、シリーズ継続中の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』や『名探偵コナン 天国へのカウントダウン』はおそらく水準以上、となれば「アニメ新世紀」を本気で謳ってもあながち的外れではあるまい。
 更に『ポケモン』『デジモン』『ドラえもん』の「3モン」(^o^)もあるんだよな。これは時間の余裕があれば見に行くかも。
 『少女革命ウテナ』『エクセル・サーガ』のJ.C.STAFFは、OVAで富沢ひとしの『エイリアン9』をアニメ化。これも作画レベル次第で「買い」だ。
 こうなると庵野秀明の新作アニメがまだ企画進行中のままなのがじれったい。早いとこ『蒼きウル』完成させろよう。

 『アニメージュ』、新作情報以外の記事では、脚本家の浦沢義雄のインタビューが圧巻。デビューが『カリキュラマシーン』と『なんでそうなるの?』だとはなあ。もういいおトシなのに、未だにその頃の先鋭的な感覚を持ちつづけているのがすばらしい。
 浦沢さんのテレビシリーズはヒットすることが解りきっているので(1クールなんてことはまずなく、最低一年、2、3年の作品もザラ)、とてもビデオ録画してられないのだが、それでも気がつく限り見るようにはしている。去年の『ごぞんじ月光仮面くん』が局側のテコ入れで失速しちゃったのは惜しまれるが、自由に書かせれば、傑作しか書かないという稀有の人なのだ。
 『バビロンの黄金伝説』だって、公開当初は旧作なんかとやたら比較されてまともに評価されなかったが、今、虚心坦懐に見れば実に面白い。宇宙人の千年の思いも屁とも思わぬルパンの自由人ぶりがよく出ているのである。……言っちゃなんだが『カリオストロの城』はルパンとして考えるとやはり駄作だよな。ルパンが小娘に拘る理由が分らない(描写が不充分である)ので、「ただのロリコンはルパン、テメエの方だろう」とどうしても突っ込みたくなるのである。
 宮崎駿と浦沢義雄の一番大きな違いは、ハッタリのあるなしであろう。もちろん浦沢さんのほうが「ない」のである。
 インタビューでも浦沢さんは「人間を描くことに興味はない、芝居がかった芝居は嫌い」とはっきり言っている。実際、舞台で「芝居がかった芝居」をやると覿面に客は確実に「引く」。それが役者の自己満足に過ぎないことを客は一発で見ぬくからだ。
 平田オリザの提唱する「現代口語演劇」は「芝居」を極力殺ぎ落とすことで舞台を成立させているが、ドラマらしいドラマが一切起こらず、二時間見続けることが退屈であるにもかかわらず、目が離せないという、極めて不思議な空間を作り上げている。恐らく浦沢さんはこの平田氏の「静かな演劇」も見ているに違いない。演劇に実は「ドラマ」は必要なく、「アイデア」の連続さえあれば、映画も舞台も成立する。そのことは、既に初期のチャップリン、キートンが証明してくれていたことではなかったのか。「泣き」の要素、即ち「人情」はこのアイデアの連続をともすれば中断させてしまうのである。
 本格探偵小説などは、実はドラマを一番作りにくい欠点を持っている。何しろ「謎とき」というのは基本的に「盛りあがらない」ものだからだ。だからミステリ作家は無理矢理「名探偵みんな集めてさてと言い」という状況を作り出し、長々と衒学的な長広舌で場を持たすことをよくするのである。
 浦沢さんがミステリーのパロディものをやってくれると面白くなるだろうなあ。『ルパン』でそれをちょっとやって見せてはくれてたけど。

 今日は女房は朝から仕事の打ち合わせ。
 私は父に呼び出されて、背広を仕立てに店屋町までお出掛けである。今年は母の七回忌であるが、父はわざわざ礼服を仕立てるというのが嫌いなので、普段も使える背広を新着したらどうか、と持ちかけてきたのである。普段着でいいなら殊更作る必要はない、と断ろうと思ったのだが、さすがに親父はその辺の私の気持ちは見抜いている。
 「もう予約したから来い」
 有無をも言わせぬというのはこのことか(^_^;)。誕生日のプレゼント代わりということなので(とうに過ぎとるがな)、仕方なく承諾。
 約束では「呉服町の寿屋の前」で待ち合わせ、ということにしていたのに、念のため直前に電話すると父は「博多駅の前」と勘違いしている。
 「二回も確認したろうが? 寿屋の前って」
 「違おうが。博多駅の前て言うたやないか」
 「お父さんは何も言うとらんやないね」
 「お前とギロンしようとは思わん」
 私が博多弁を使うのはもう父との間だけなので遠慮がない。人によっては私と父はとても仲が悪く見えるかもしれんが、この会話には実は翻訳が必要なのである。
 「お父さん、寿屋の前で待ち合わせにしてよかったの?」
 「いや、博多駅の前にしてくれてた方が覚えやすかったなあ」
 「そうすればよかったね、駅から歩けば話もできたし」
 「まあ、積もる話はそのうちゆっくりしよう」
 ……全然そんな会話になってないじゃないか、と思う向きには博多の文化は永遠に分らないであろう。博多弁はストレートなもの言いが特徴的でありながら、言葉と心の乖離がとてつもなく大きい言語なのである。
 で、もちろん待ち合わせは「寿屋の前」。
 自転車をすっ飛ばして10時に父と会うと、父は手提げ袋に以前プレゼントした藤田まことのサイン入り『必殺!』巾着を使っている。父は、会うたびに必ず私が贈った時計だの帽子だの、そういうアイテムを使っているところをさりげなく見せる。なかなか奥ゆかしいことではあるが、しばらく経つとどこへやったか忘れて別のものを買ってたりするので、苦笑することもしばしばである。
 色弱で私には色がわからぬので、生地の見立てはすべて父に任せる。ごくごく地味なものを選んでくれたようでありがたいことである。
 女房からバレンタインのチョコを預かってきたので、父に渡すと苦笑される。これももちろん喜んでいるのである。
 私も父も嬉しさというのはあまり表面に出さない方なので、女房などはかえって嫌われてるのではないかと誤解するようだが、本気で嫌ってるのなら私も女房と別れているだろうし、父も無理矢理にでも別れさせているだろう。
 「いい嫁さんもらったなあ」というのを「お前が選んだんなら仕方がない」としか言わないのが博多人なのである。……こんなん確かに女房にゃ分らんのも分るんだがなあ。かと言って、今更親父に「素直に言え」なんて言うのも無理な話だし。

 帰りに切手と封筒を買おうと思っていたのに、財布を忘れていたことに気づいて慌てる。で、父におごってもらう。不思議だなあ、ン万円の服を親父に仕立ててもらったのは恥ずかしくないのに、三百円おごってもらったのは恥ずかしいぞ。金額の多寡ではないとするとこれはいったいどういう心理なのかな。

 切手と封筒は『シティボーイズ・ライブ』と『地球防衛企業ダイ・ガード』のDVDの全巻購入予約特典のプレゼント応募用のものである。『シティボーイズ』の方の特典は、未公開のライブビデオだとか。2月末までの応募なので、シティボーイズファンなら『ウルトラシオトシオハイミナール』『夏への無意識』『真空報告官大運動会』の3枚のDVDを慌てて揃えるがよろしい。今年のゴールデンウィークのライブはぜひ東京まで見に行きたいものだなあ。メンバーの中で、お金貯めてぜひ東京に行くって人、いますか? チケットは毎年即日完売なんで、ご連絡は今月末までにお願いします。

 帰宅した直後に女房も帰宅。なにやらいろいろとパンフレットをもらってきているが、いわゆる接客マニュアルというものであろう。客の中には店に絡むのが趣味のようなやつもいるので、小心者の女房に仕事が勤まるかどうか心配ではあるが、店長さんがしっかりしていれば、そう大層なことにはなるまい。
 不景気ではあっても、人手が足りないのはどこでも同じで、下働きをうまく使いこなせない店長もやはりダメの烙印を押されるのが今の風潮である。記憶力がなくドジではあっても基本的に真面目な女房を使いこなせないとすれば、その店も大したことはない。
 無理ならやめればいいとは簡単には言えぬが、ガマンのしすぎはよくない。女房には、自分がどこまでやれるかを考えてくれればそれで十分である。

 ホームページに載せるためのイラストなどを描いているうちに眠くなり、昼寝。女房は「せっかくの休みなのに一緒におしゃべりもできない」と不満げだが、急激に眠気が来たのだ。
 昼寝の時に見た夢というのは結構覚えているものである。
 何と今日は私に『ゴジラ』の新作の脚本が依頼される夢。マニアからは「大層な夢見てんじゃない」と叱られそうだが、見たものは仕方がないのである。
 ゴジラが出現したということで、政府はその対応に追われるのだが、その無策ぶりに責任を追及された首相が、事態の真っ只中であるにもかかわらず悲痛のあまり自殺してしまうのである。……夢から覚めて思ったが、これまでのゴジラ映画、そういったゴジラの脅威に対抗する人間側の悲壮感を描いた作品というのが第一作を除けば皆無だったのではないか。
 第一作に散見する「死」のイメージ、実況中継をしながら死んでいくアナウンサー、戦争未亡人が幼子を抱えて「もうすぐおとうちゃんのとこへ行くのよ」と呟くシーン、何より、芹沢博士の「さよなら」のセリフ、彼らは本来「死ななくていい」人々であった。
 実はゴジラに対抗する人々が、善玉であろうが悪玉であろうが、死んでいくのは、ドラマとしては予定調和の域を出ないのである。ゴジラに向かって「ゴージラー」と叫びながらツブされるバカを描いてなにが面白い。作り手の自己満足しかそこにはない。
 ゴジラに神だか自然の脅威だか核の恐怖だか帝国主義だか、何の象徴を見出すも自由だが、そこに映像としてのインパクトを持たせようと思うなら、「無作為に」、「無辜の人」が死ぬ様子をきちんと描かなければ効果はない。それができないのは所詮ゴジラ映画が子供だましに堕していることを証明することにしかならないのである。
 『ゴジラ×メガギラス』中の秀逸な描写は、メガギラスが町の人々を襲うシーンに、恐怖のイメージが復活しているところである。それだけに惜しく思うのは、ゴジラ自体でそれがやれていない点だ。だから結局「ゴジラ」は、メガギラスという「悪」を倒す、「正義の味方」的な位置から遠く離れられない。『ゴジメガ』が構造的に平成ガメラシリーズのマネになっていることを否定することができないのである。
 それにしてもゴジラの脚本、私家版でいいから書いてみたくなったな。で、「東京ゴジラ団」もしっかり出すと(^o^)。

 夜、知り合いのUくんから電話。
 何でも今朝方、竹下(ウチの近所だ)で事故があって友達が死んだとか。その友達の方はもう顔を覚えてはいないのだが、ハタチは過ぎていたはずである。車を盗んで、パトカーに追いかけられて、踏み切りに突っ込んだ末、同乗者の若い子二人も巻き添えにしての死だったという話であるが、いい大人が何を考えていたのか。
 今晩が通夜だと知らされたが、いくら昔の知り合いだからといって、そんなアホウのところに香典持って行きたくはない(特に私に連絡があったわけじゃなし)。遺族はおそらくこれから補償で大変になるだろうが、そういうバカを育てた責任をとるのは当然のことであろう。
 Uくんには、昔、言葉の行き違いで随分迷惑をかけたことがある。そのうちヒマな時にでも遊びにおいで、ただし赤ん坊を連れてきたら命の保証はない(本が上から落ちてくるので)と話をする(^_^;)。

 女房、私が相手をしてやらなかったので、ふてくされて寝ている。腹を減らしているだろうと肉を焼いてやるがあまり食べない。父と会って、知り合いと電話して、楽しそうなのに自分と一緒にいても楽しそうじゃない、とふてくされているのである。
 最近その手のストレスがたまっているようだが、私は女房のそばで無表情で何のリアクションもしないのが心をゆだねている証拠なのだが。おかげで女房の顔を見るたびに眠たくなってホントに寝てしまうのである。会話がしたけりゃ、そっちから話しかけてくれ。



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)