無責任賛歌
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2004年02月11日(水) |
入院日記10/さらば関西人 |
吉野家の牛丼、最後の日。 どのテレビ局も、「最後の一杯」を食べるお客さんのインタビューを取ろうとして駈けずりまわっているが、そんな様子を映すことのどこがどう面白いんだかわからない。インタビューったって、「淋しいですね」とか「早く再開して欲しいです」とか、あたりさわりのないコメントしか取れまいに。つか、「そういうコメント」を求めているという事実自体はわかるのだが、どうしてそれにニュースバリューがあるとテレビ局が判断しているのかということがわからない。 いや、本当はわかっている。結局これは、何かが変化している様子を映し出しているように見せてはいるが、実は本質的なところで人間の反応に何も変わりはないことを見せて、視聴者に安心感を与えているのである。昭和が平成に変わっても、海の向こうで戦争が起きても、牛丼が消えても、今日とさほど違った明日が来るわけではない、という安心感である。なんたって全ては「淋しいですね」の一言で片付けられてしまうのだから。 時代を画するような大きな事件が起こると、キャスターは興奮して「今、私は歴史の節目に立ち会っています」と述べるが、このセリフももう腐るほど聞かされている。この数十年でも節目は数え切れないほどあるわけで、歴史は関節だらけだろう。結局はハレ(非日常)もまたケ(日常)の一部にすぎないのであって、「平和だねえ」と自嘲的に嘯くことでしか、我々はこの垂れ流されるクズ情報の洪水に対処する術を持たない。それが一番「淋しいこと」である。
午後、突然職場の上司が見舞いに来る。……そう言えば今日は休日だった。入院してると、休みの感覚がなくなっちゃうな。運動療法も糖尿病教室も今日はお休みである。 「何を持って来たらいいかわからなかったんですが」と言って手渡されたのがカスミ草である。非常に体格のよろしい方なので、そういう可憐な花を持っている姿が何ともオカシイ。いや、もちろん嬉しいんですけどね。 職場も変わりなくみなさんお元気だそうで(一人、スキーで骨折して入院したそうだが)、ホッとする。現在の病状など、ついつい話しこんでしまって1時間。そろそろ私も人恋しくなっているのだろうか。
同室の関西人、今日で退院。こんなに気分がハレバレとしたのは、入院して以来はじめてである。「退院します」と声をかけられて、思わず「いやあ、よかったですねえ!」と満面の笑顔で返事してしまったが、私が心の底から喜んでいたことに関西人は気づいてくれたであろうか(^o^)。
だがコイツ、最後に強烈な最後っ屁を食らわしてくれたのである。 向かいの部屋に、痴呆症らしい患者さんがいるらしく、夜昼問わず、「あー、あー」と叫んでいるのだが、それを聞いた関西人、「また吠えてますなあ」とあざ笑った。この人の発言にはもう充分ウンザリしていたのだが、これにはさすがに耳を疑った。 それから先はもう言いたい放題で、「あれはもう人間じゃなくてケダモノですな。意志なんてないんでしょうな」「ほかの病棟に隔離できんものですかね」「面と向かってパンチ食らわしてやりたいですわ」と聞くに堪えない。 いくらなんでもそれは言い過ぎだろう、とひとこと言ってやろうかと思ったそのとき、その場で話を聞いていたもう一人の同室のご老人が、ポツリと「でも、私ももうすぐああなるでしょうから」と呟いた。 さすがの関西人もここで絶句である。ようやく自分の傲慢さに気がついたらしい。
この同室のご老人、数日前までずっと点滴を受けていて、夜昼問わずしょっちゅうトイレに立っていた。そのとき、点滴を吊り下げている移動式の柱をガラガラと音を立てて動かしていたものだから、関西人は看護師さんに「うるさいから、あの人の部屋を変えてくれ」と要求していたのである。もちろん看護師さんはそんなわがままを許しはしなかった。 核家族化と福祉施設の充実が、老人や病人、障碍者に日常接することのない人々を増やしている。そういう人々には、「老人のいる家庭」自体が我慢のならないものに感じられるのであろう。この関西人は、ある意味自分の気持ちを偽ることのない、正直な人であるのだが、自分が病人に向けた嫌悪が自らに撥ね返ってくる可能性については思いを致せないでいる。そちらのほうがよっぽど精神的な片輪なのではなかろうか。
先頃亡くなった松田修氏は、近世文化を研究をする中で、例え「蜘蛛男」や「一寸法師」のような「見世物」という形であっても、障碍者が社会的に認知されている状況があったことを示唆し、現在の、言葉狩りを含めて、「差別を許さない」という美名のもとに、実質的には障碍者の活動の場を奪い社会から隔離している状況を、痛烈に批判していた。近年ようやく主張され始めたノーマライゼーションのあるべき姿を、20年以上前から発言していたのである。 人はみな、自らも含めて障碍者である。健常者などというものは存在しない。そういう認識を人が「持ちたくない」のは、何らかの形で他人に対して心理的に上位に位置しなければ精神の安定を図れない人間の心の弱さである。しかし、バリアフリーの理念が浸透し、現実として老人が、病人が、障碍者が社会に参画して行ける環境が整っていけば、人はまた別の精神を安定させる方法を強制的に図らねばならない状況になっていくのではないか。 老人や病人や障碍者は、自分が他人に迷惑をかけているなどと、ヒクツになってはいけない。どんどん迷惑をかけていいのである。それを引き受ける義務は、社会そのものにあるのだから。
2003年02月11日(火) 映画を見る以外に休日の過ごし方なんてあるんですか/映画『音楽』/『プーサン』/『エデンの海』/『日本一のホラ吹き男』 2002年02月11日(月) うまいぞもやしマヨネーズ/『ONE PIECE ワンピース』22巻(尾田栄一郎) 2001年02月11日(日) 水の中の失楽/アニメ『も〜っとおじゃ魔女どれみ』1・2話ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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