無責任賛歌
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2001年03月22日(木) |
DO YOU REMEMBER?/『梶原一騎伝』(斎藤貴男)ほか |
探偵作家・水谷準と俳優・新珠三千代、死去のニュース。 どちらも好きな方だったので、何か書こうと思って、ふとカンが働いて唐沢俊一さんの裏モノ日記を覗いてみたら、しっかりお二人について語られている。しかも私が書こうと思っていたエピソードまで同じ。 まさしくシンクロニシティってやつなのだが、世代が近いと、その人物に対するイメージというものは自然と似通ってくるものなのだろう。 とは言え、好きな人がなくなったというのに他の人が書いているからと言って書くのをやめるのも変な話である。特に日頃「ミステリ」という一般的な呼称を使いつつも、本当に好きなのは「探偵小説」なのだ、と思っている私が(エラそうに)、水谷準の死に何の反応もしないというのは、ファンとしての名がすたる。というわけで、唐沢さんのとあまり話がダブらない程度に書いとこう。
「水谷準」という名前を聞いてもピンと反応する人は殆どいなくなってしまったのではないか。 戦前、モダニズム文化の発祥、探偵小説の牙城として一世を風靡した雑誌『新青年』の編集長も勤めたが、創作、翻訳にも健筆を振るった。『お・それ・みお』や『カナカナ姫』などの幻想探偵小説は今でも各種作品集で読むことができる。丁度角川文庫で『新青年傑作選』が復刻されていた矢先だったので、興味のある方は読んでみてもらいたい。
代表作の一つ、『恋人を喰べる話』はこんな筋である。 浅草の歌劇団に通い詰める一人の青年がいた。彼はその歌劇団の踊子の一人、百合亞という名の少女に恋していたのだ。青年はやがて百合亞と知り合い、心を交わし合う。しかし百合亞は病魔に冒され、余命幾ばくもない身となった。百合亞はさりげなく青年に自分を殺してくれるように頼む。 「私の首を絞めて下さらない? そしたら私はきっといい児になれますわ……」 数刻後、百合亞は青年の腕の中で息絶える。 青年は百合亞を庭に埋め、その上に無花果の木を植えた。 数年の後、青年自身も胸を病み、死の床で友人に一個の無花果の実を振舞う。 「君も僕の恋人の肉を食べては見ないか……」
大正15年にして「ユリア」というネーミングもすごいが、清廉さと凄惨さの入り混じった独特の作風がご理解頂けただろうか。 筋を全部明かすのはあまりよいことではないが、謎解きものではないし、他の傑作短編もまだまだあるので、そのガイドということで今回は諒とせられたい。 タイトルから「サガワくん」や「レクター博士」みたいな猟奇的人肉くらいの話かと思った人もいるかもしれないが、そう思わせておいてさらりと流すオチが秀逸なのである。 水谷準はあの「金田一耕助シリーズ」の横溝正史の畏友としても知られる。私の手元には、横溝正史の『真珠郎』の復刻版があるのだが、これが題字・谷崎潤一郎、序文・江戸川乱歩、口絵・松野一夫という大変なもので、その装丁を担当しているのが水谷準なのである。 表紙を「紫」の絹地で覆い、「横溝の作品はいつまで経っても完成されない。紫という色は悟り切れない人間臭い色である」と、賞揚する。でもその「人間臭さ」はそのまま水谷自身のことでもあった。水谷は「紫の弁」をこう結ぶ。 「横溝よ、この次には、俺が浮浪人生活をするようになったら、精魂を打ち込んだ装丁をしてやるよ。長生きをしようぜ」 横溝正史は1981年に79歳で死んだ。水谷準は丁度20年、友よりも余計に長生きしたことになる。享年97歳。
唐沢さんは「今まで存命であったことに仰天」と書かれていたが、横溝正史が死んだ時に、「最後の探偵作家死す」の活字が新聞に踊り、「まだ水谷準と西田政治と渡辺啓助がいるぞ」と憤慨した記憶がある。 西田政治は1984年に91歳で死んだ。 渡辺啓助は現在101歳、新作こそないものの、作品集が未だに再刊され続けている。
新珠三千代が夏目漱石の『こころ』(1955年・市川崑監督版)のヒロインだった、と知ったら、テレビの『細うで繁盛記』しか知らない若い人(若くもないか)はビックリするだろうか。 今月の『キネ旬』で、偶然にも車谷長吉がこの『こころ』を「駄作」と切って捨てているのだが、そういう意見が出ても仕方がない面がある。何しろ、第一部の「先生と奥さん」、そして第三部の「私とお嬢さん」、その間十年以上の時が隔たっているのに、演じているのは同一人物、つまり先生は当時44歳の森雅之で、奥さんが24歳の新珠三千代であったのだ。 トシとってからのシーンはともかく、原作の設定でいけば第3部の「私」はハタチ、お嬢さんは17歳である。……森雅之にツメエリの学生服ってのはいくらなんでも無理があった。 でも、新珠三千代は違ったのですね。下宿に帰ってきた「私」と「K」(若き日の三橋達也!)を出迎えて駆け足で玄関に飛び出してきた時の笑顔……「可憐な女学生」というのはああいうのを言うのでしょう。……コギャルも少しは見習え。 十年後のシーンでは一転して「先生」の苦悩の理由が分らず眉をひそめる奥さんの心痛を微妙な仕草で演じきっていました。いや、うまい人でしたよ。 演技の幅ということでなら、岡本喜八の『江分利満氏の優雅な生活』の奥さんも忘れられない。道を歩いている時にまっすぐ前を向いていながらその眼はどこか空ろでたゆたっているように見える。それに対して夫の江分利満氏(小林桂樹)、彼は現代人の空虚さにため息をついて、いかにも戦中派らしく苦虫をつぶしたような顔をしている。二人は実に対照的で、ああ、新珠さんは自分の現実以外は夫すら見ようとしない女を演じているのだな、と気づいて、舌を巻いた覚えがある。 晩年は他の女優同様、舞台に活動の中心を移してテレビや映画に出なくなったのは寂しいことであった。
唐沢さんが紹介している新珠さんの精神病院でのエピソードは実はデマで、出典はフランスの小話である。だから別に新珠さんでなくても、浅丘ルリ子でも三田佳子でもいいのだが、何となく新珠さんだとそれらしく聞こえてしまうのも人徳と言うものだろう。 唐沢さんはかなり簡略化して書いているので、その全貌を(^^)。
京都で映画の撮影中、右眼にものもらいが出来てしまった新珠三千代、ある人の紹介で、嵯峨野にある眼科医へ、撮影所の助監督を伴って出かけていった。 ところが近くに眼科医と同姓の神経科があった。もちろん二人は迷わず神経科の方へ(^_^;)。 院長が出て来て、新珠さん、美しいポーズですっと立ち、サンローランの絹のハンカチをちょっと眼のあたりに当てて挨拶、 「新珠三千代でございます」 すると院長先生、助監督に小声で聞いたことには、 「このかたはいつから自分を新珠三千代だと思いこんでるんですか?」
ちなみにこの話が紹介されてた本は、『シャボン玉ホリデー』や『8時だヨ!全員集合』の構成作家だった故・前川宏司の『猛爆ドジ全集』である。 唐沢さんに教えてさしあげてもいいのだが、誰かがもう言ってそうだし、でしゃばるのもなんだからやめとこう。
斎藤貴男『梶原一騎伝』読む。 私を含め、現在30代後半から40代の人間で、梶原一騎作品に熱中したことのない人間は皆無だろう……って書き出しで始められないんだよね、これが。実は梶原作品で完読したことのあるもの、皆無なのである。 『巨人の星』も『あしたのジョー』も『愛と誠』も、拾い読みしかしていない。というか子供のころはハッキリ嫌いだった。物心ついた頃からテレビアニメと言えば『鉄腕アトム』『鉄人28号』『8マン』『宇宙少年ソラン』『遊星少年パピイ』などなど、SFづけで宇宙や未来に夢をはせていた子供にとって、たかが地上の野球やボクシングごときのすったもんだが面白いはずがない。唯一好きで読んでいたのは『タイガーマスク』だったが、これは覆面プロレスラー同士の戦いを怪獣ものと同じような感覚で見ていたからである。「ちびっこハウスの子供たちのために」という偽善性は子供の眼にもイヤらしく見えていたのだ。 「東宝チャンピオンまつり」では、『巨人の星』だけ退屈なのでロビーに出て終わるのを待っていたという生意気なガキぬだった私である。それらの作品が全て「カジワラ印」だと知った後は、飛雄馬やジョーについて熱っぽく語る連中を知性のないバカなのだと断ずるようにまでなってしまった。 大学生になった頃、ガキの頃は偏見でものを見てたかもしれないなあ、真面目に読んでみようか、と思って読み始めたことがあったのだが、『巨人』も『ジョー』もやはりつまらなくて読み進められないのである。ともかくセリフが臭い。キャラクターがみな自分に酔いしれているばかりのバカ揃いでどう感情移入せよと言うのか。 三十を過ぎてもう一度挑戦してみたら、このときは発見があった。『ジョー』の中で琴線に触れるシーンが結構あったのである。 特に、ジョーが初めて紀子と二人きりで語り合い、「拳闘が好きなんだよ、真っ白な灰になって燃え尽きる……」というジョーのセリフと、「矢吹君にはついていけない」という紀子のセリフ。二人の男女のすれ違いの描写が見事であった。 ところが、そういった私が「いいな」と思ったシーン、それらはことごとく梶原の原作にないものだったのだ。 『タイガーマスク』の怪人たちの原案や、『聖書』についてのルリ子さんの話、『あしたのジョー』のドヤ街の子供たちとの交流、これらはみな作画を担当した辻なをきやちばてつやのオリジナルだったのである。 あの『ジョー』の感動の最終回も、梶原の原作無視の結果だったのだ。というより、原作がどんどん手抜きになっていくので、オリジナルにせざるをえなかったと言った方が正しい。 ちばがキャラクターを掴めなくて梶原に質問する。 「葉子はジョーが好きなんですか?」 適当に答える梶原。 「そのうちわかるよ」 しかし梶原は全く葉子の心情を描かない。仕方なくちばは最後に葉子に告白させる。 「好きなの、矢吹くん! 私のために行かないで!」 ……しかし、ジョーは葉子の制止を無視してホセとの試合に赴く。試合が終わり、グラブを葉子に渡す。 「あんたにもらって欲しいんだ」 そしてジョーは白い灰に……。 ここには梶原の原作は全く使われていない。原作は丹下段平が戦い終わったジョーに「お前は試合にゃ負けたがケンカには勝ったんだ」と声をかけて終わるものである。……どこが面白い、こんなもん。 この評伝は懸命に後年スキャンダルにまみれた梶原一騎の魅力を浮かびあがらせようと「子供の魂を持った人だった」と強調しているが、さて、「子供」ってことが下らんマンガ原作を書き、暴力や脅迫で良心的なマンガ家たちをつぶそうとしたことの免罪符になるのだろうか。 いみじくも選挙に出ようとした梶原に、その母が「あんたはファシストなんだから、政治家になるもんじゃない」とたしなめたというのは、さすが息子の本質は見抜いている、といったところか。 梶原マンガが面白かった、というのは幻想ではないのか。「飛雄馬の目がホントに燃えてやがる」と笑って楽しむならともかく、本気でアレに「猛烈に感動する」連中って、いささかヤバイと思うのである。
4月からの卓上カレンダー、『ひめくりあずまんが』、女房が本屋で見つけてもの欲しそうにしてたので買ったのだが、単行本からの再録のイラストぱかりであったので拍子抜け。セリフをちょっ変えてはいるがそれもそんなに面白くない。 ……しかしウチには「机」も「テーブル」もないというのに、女房はどこに置こうというのだろうか。
晩飯は近所のカレー屋「ココイチ」で季節メニューの「あさりカレー」を食べる。辛さや量を選べるのはいいのだが、単価が高いのがこの店のイマイチなところである。 「ココイチじゃなくてイマイチだな」というシャレを思いついたが、女房に言ったってジト目で見られるだけだから言わない。 女房はそのまま仕事に行くので、今日は映画はナシである。物足りないので馴染みの本屋を廻り、電気屋で安売りのS‐VHSビデオテープを30本買いこんで帰宅する。この30本がひと月できれいサッパリ消えてなくるから不思議なのだよなあ。
昨日あたりから、マンションのエレベーターに防犯カメラがついている。 警備員室から中が見えるようになってるのだが、その警備員室に誰もいないんじゃ意味がないのではないか。 それにそんなものがついていたら、エレベーターに乗った時に、 「だめよ、こんなところで……」 「体はそう言ってないぜ……」 と、「ミサトとカジごっこ」が出来なくなるではないか。 ……って今までそんなことやってたみたいなこと書いてるだが、誰がやるか。
テレビ『カバチタレ!』最終回、偶然見る。 あっ、これって法律モノだったのか。どうせクソつまらんほれたはれたのトレンディドラマだと思って全くチェックしてなかったが、結構面白いぞ。 常磐貴子はクソ大根演技だし、『タイガーマスク』や『鉄人28号』の主題歌を意味なくBGMに流すし、つまんない要素は腐るほどあるのだが、罪に問えないセクハラ男を誘導して新たに犯罪を犯させて告訴するって手は、刑事コロンボ的で面白い。 深津絵里も整った顔を崩して頑張っている。常磐貴子のツッコミが弱くてテンポが合わないのが難だけど。 でも無茶苦茶面白いから見てねと人に勧めるほどじゃないのであった。原作マンガは『ナニワ金融道』の青木雄二で、女房も興味があるみたいだったから、そのうち読んでみようかな。 ……で、「カバチタレ」ってどんな意味なの。
夜中に仕事から帰ってきた女房、もう眠っていた私をたたき起こしてムダ毛の処理をさせようとする。 「起こしたらやってくれるって言ったじゃない!」 女房はそう主張するのだが、私はいったん眠ってしまうとそれ以前のことをたいてい忘れているので覚えがないのである。 とは言え、「そんなん知るか」と言えばまた拗ね始めるのは分り切っているので、しぶしぶ始める。しかし夜の夜中、3時も回ってるってのに、女房のムダ毛を毛抜きでプチプチ抜いてる私って、何なんだろうか。 馬鹿なのだろうな(-_-;)。
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