無責任賛歌
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2001年03月31日(土) |
藤村俊二はよかったけれど/舞台『ラ・テラス』ほか |
わああ、ね、寝過ごしちまった。 起きたのが八時過ぎ、『幻のペンフレンド2001』の最終回、せっかく再放送やってたのに録り損ねちまった。仕方がないので途中からテレビにかじりついて見る。 『六番目の小夜子』を見た後だと、どうしても見劣りがしてしまうのはいたしかたないか。『小夜子』の出来がよかったのが、NHKにしては稀有であったのである(こらこら)。ドラマはやはり時代との関連無しには語れない。「学校の怪談」を巧みにドラマの中に組みこんだ『小夜子』に比べて、「ネットが人間とアンドロイドをすりかえて人類を支配しようとしている」という設定はどうしても70年代の名残にしか思われない設定なのである。さらにはキャラクターの配置も今一つで、後半、主人公とアンドロイドの少女以外のキャラクターの存在感がどんどん希薄になっていったのが痛い。ラスト、敵基地の突入の時、ほかのキャラが邪魔にしかなっていないのだ。 それにラスボスがひさうちみちおってのはいったい何を考えているのか。黒板にイラストまで描きだしたときには頭抱えちまったぜ。裏ボスにエビスが出てくるんじゃないかと一瞬、妄想しちまったよ。 全体的に間延びした印象を受けたのは、そう長くもない原作を12回連続に引き伸ばしたせいだろう。
『マンガジンマガジンvol.2 江川達也』読む。 良かれ悪しかれ、江川達也というマンガ家はマジメな人である。江川さんには明確な社会認識、教育観、人間観というものがあり、児童向けマンガであろうが、エロマンガであろうが、それを打ち出そうとする。 マイナー作品ならそれはそれで70年代マンガ風で悪くもないんだろうけれど、メジャー作品でそれをやれば、読者の反発を食らうのは当たり前だ。マンガで説教を聞きたいヤツはそうそういない。 『タルるーとくん』と『DEADMAN』くらいしかまともに江川作品を読んだことのない私が言うのもなんなんだが、もともと江川さんの絵がアピールする読者層というのは非常に狭い範囲に限定されていると思うのだ。ヒロインはかわいらしい顔、スレンダーなボディで、でもチチだきゃデカい。これに引っかかってくるヤツって、はっきり言えばラブコメ(清純系とエロ系の中間あたりの)好きなオタク連中だよね。で、なぜ江川さんはそういう客をターゲットにしておきながら「教育論」をぶち上げるのか。 かと言って、コチコチの本当にクソマジメな教育家に江川さんが受けがいいかというと、それも違うのである。現行の教育システムを完全否定する江川さんの意見が受け入れられるはずがない。 言ってみれば、江川さんは釣り上げられた魚に向かって「なんで釣られたんだよ、馬鹿だな」と言っている釣り人みたいなものだ。そりゃ、魚にしてみりゃ腹立つわなあ。いくら江川さんが「洗脳されるな、自分の頭で考えろ」と言ったちころで、オタクも教育家も、さらにはそれ以外の読者も、みんな「考える」ためにマンガを読んでるやつなど殆どいない。「洗脳されることで安楽な位置にいたい」ことを無意識に選択している連中に向かって、どんな言葉が通じるというのか。江川さんの立っている位置は本当に江川さんしかいないところなのだ。 少なくとも田島陽子と本気で言い争うのはやめた方がいいと思うがなあ。
女房の夢の話。 五月に東京に行く予定なのだが、当日の朝、飛行機に乗り遅れた夢だそうだ。 当日、どういうわけか私と別行動をとり、買い物をしていた女房、気がついたら出発30分前、慌てて自転車をかっ飛ばすけれど、カードを持っていないことに気がついて万事休す、東京のこうたろうくんからも「それ見たことか」とわらわれるという、なんだかなあ、な夢。 基本的に強迫神経症なんだよなあ、女房のヤツ。
夜、メルパルクホールでジャン・クロード・カリエールの『ラ・テラス』を塩浦ご夫妻と一緒に見る。 あの『小間使の日記』の、『欲望のあいまいな対象』の、『ブリキの太鼓』の、『存在の耐えられない軽さ』のジャン・クロード・カリエールですよ。ちったあ期待しようってもんじゃないですか。なのに……。 つまんないぞ。 原因は脚本ではない。役者と演出だ。役者はセリフを覚えて喋ってるだけで、役をまるでつかんでいない。女房が辛辣にも「みんな所詮小劇場あがりじゃん」と言ってのけたが、実際、その通りだ。 脚本を頭の中で反芻し、別の演出プランを構築してみて、これが上質の不条理劇であるということに気づいた。不条理劇を演じる役者が何に気をつけねばならないかというと、自分の立っている位置が、実は現実とずれたところにあることを意識しなければならないということだ。それができなきゃ、そこで何が行われているのか、客に伝わりはしないのだ。 離婚寸前の夫婦の部屋にやってくる謎の訪問者たち、不動産屋の女、傍若無人な中年男、若い色男のスケコマシ、ボケた将軍とその若い妻の織り成す群像劇。……って、私も似たような芝居以前書いてたな。 端的に言って、不条理劇がハッピーエンドになることは絶対にないのね。彼らは殆ど最後にはこの「テラス」を去って行くのだけれど、妙な余韻を残そうとする演出は、脚本家も役者もホンが読めていないことの証拠だ。ラストは、脚本では残された二人が「時間はたっぷりある」なんてセリフを未だにはきつづけている不気味なムードで終わってるのに、なぜか演出はほのぼのムード。何を考えているのだ? 翻訳劇を日本の舞台に移すのは本来不可能に近い。『屋根の上のバイオリン弾き』がおもしろかったのは、森繁久彌が無理にテヴィエを演じようとせず、あくまで「森繁久弥」を押しとおしたからで、それくらいの開き直りがなきゃ舞台は映えない。カリエールの『小間使の日記』を昔、吉行和子の一人芝居で見たことがあったけど、これも役を自分のものにしきれていない、つまらない芝居だった。 今回の舞台で唯一よかったのは藤村俊二の「将軍」である。藤村さんは少しも無理をしていない。そこにいるのが紛れもなく藤村俊二であるために、カリエールはどこかにすっ飛んじゃってるんだけど、それでいいのだ(ほかの人たちは自分が演じられるはずもない役を演じようとして失敗している)。滑って倒れてソファーでそのまま寝てしまうベタなギャグで笑いをとるって、芸がないと出来ないよ。やはり鍛えられてた芸人さんは強いよなあ。 今回の芝居、昔の友達も出てるんで悪口あまり言いたくないんだけど、もっといい役者で見たかったなあ。
ロイヤルホストで四人で食事。 塩浦さん、大学の単位を二つも落としたとかで、しばらく劇団の役者は無理のよう。これからは小倉に行ったっきり、アパート住まいでDVDもパソコンもない生活になりそうだとか。でも学生はいつだって時間はあっても貧乏なものである。貧乏の中でしかつかめないものもあるし(なんなんだ)まああまり道を踏み外さないようにしてもらいたいものである(^^)。就職はまだ3年先、しばらくはウチの劇団も戦力が落ちることになりそうだが、それはそれでなんとかしていくしかないな。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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