無責任賛歌
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2005年05月25日(水) |
「『創氏改名』は嘘ですから」は嘘ですから/『メンタル三兄弟の恋』パート2 |
(昨日の続き) 「リフトの上の3人の詩人」 途中で停止してしまったリフトの上で、することもなく3人の詩人が詩を口ずさむ。 大竹「いつ動くんだ」 きたろう「空、どうしようもなく空」 斉木「雲ただただ雲」 大竹「いつ動くんだ」 斉木「今、我ら詩人にできることは、詩を作ることだけ」 きたろう「ここが宇宙の入り口かもしれない」(「出ちゃったね詩が!」と斉木が誉める) 斉木「このリフト 僕のタイムマシンさ」(二人、「だせえ」と嘆息する) 大竹「リフト・イズ・デッド リフトは死んだ」(「何言ってるんだ」と自分突っ込み) 斉木「ほどほどにねえー」 大竹「何してるんですか?」 斉木「溶かしているのさ、言葉を。ちっくたっくちっくたっく、ぼーんぼーん」 大竹「銀河鉄道のリフト」 きたろう「リフトは釣り針 俺たちは餌」 斉木「リフトは山の回転寿司 俺たちは寿司」 きたろう「リフトはクレーン 俺たちは景品」 大竹「いつ動くんだ!」 斉木「今、詩人にできるのは、詩を作ることだけ」 大竹「空にピン止めされた 老人コレクション まだ三体 今ほしい 永遠のように長い 一本の針金」 きたろう「針金ならば5メートルあれば アトモスフィア」 大竹「(きたろうに)おまえの背中は小作農」 斉木「俺の背中は航空母艦」 大竹「お前の肩 ショルダーバックがなぜ落ちる 背中の丸みは縄文人」 斉木「お前の背中 今すぐ見たい」 大竹「お前の背中 カナブンみたい」 斉木「カナブンよ 今すぐリフトのスイッチにぶつかるがいい」 大竹、すぐ後ろのリフトの座席が壊れるのを見て、焦って「一つおきだったらいいなあ」と歌う。もちろん、その前にいるのはきたろうさん。 斉木「一生このままだったらどうしよう」 きたろう「急にモテたらどうしよう」 斉木「今、詩人にできるのは、詩を作ることだけ」 きたろう「空、どうしようもなく空」 斉木「雲 ただただ 雲」 大竹「風」 斉木「ネピア」 きたろう「クリネックス」 大竹「スコッティー」 斉木「エルモア」 きたろう「エルエール」 大竹「バンビックス」 三人「フォクシー!」 思わず「詩」を全部紹介してしまったが、日記にポエムを載せるなら、こういう詩を作りたいものだね(笑)。 「スキル王とメンタル王」 水が吹き出ていて今にも決壊しそうな堤防を、二人の王が何とかしようとするが、どちらも帯に短したすきに長しで役に立たない。スキル王は助ける技術はあるけれど心が弱くて何もできない。メンタル王はイメージトレーニングだけで実行力がない。 虎(のハクセイ)に食い殺されかけている大竹をきたろうが救うのだが、大竹さんがいくら「助けてくれ〜!」と叫んでも、きたろうさんは「意地悪して」反応しない。おかげで大竹さんは間が持たずに「メンタル王って人はいないのか!」と叫ぶ羽目に。アドリブな意地悪だが、実際の舞台でこれをやっても嫌味にならないのはきたろうさんの芸の力というものだろう。一見、何もやってないように見えるんだけどね。
「逃げる警官」 イカレた男(中村)に襲われた二人の警官(大竹・きたろう)が逃げて逃げて熱海まで辿りつく。これも実話を元にしたスケッチだとか。 宿屋の一室でテレビを見ると、どこのチャンネルでも「恥さらし警官逃げだす!」のニュースをやっているのに、テレビ東京だけがアニメをやっているというギャグが秀逸。これは殆ど生版と変化はなし。
「定食屋のパチンコ」 店の前で、客が入るのを待っている店主の斉木。けれどちょうど「3人」が揃わないので、なかなか店の中に入ってきてくれないのである。 最後のスケッチのわりにはもう一つの出来か。
カーテンコールの舞台挨拶で、中村さんが「小倉と博多は仲が悪い。小倉は博多のことを『何をカッコ付けてるんだ』と思ってる」と紹介していたのに大爆笑&大拍手。地元の人間もよく知らない人が多いが、北九州は言語的には山口県に属しているので、実は九州ではないのである。地元を茶化されてもかえってヨロコブ難儀な性格はそっくりなんだけどね。
芝居を見終わってロビーに出てみると、なんと下村嬢の姿が。しげには見に来ることを知らせていたらしいが、私は知らされてなかったのでビックリである。「面白かったでしょう?」と感想を聞いてみたが、どうもイマイチだったらしくて、困ったような表情をされる。そういうときは正直に言えばいいんだけど、なんかみんな遠慮しちゃいがちだね。自分の好きなもの貶されて怒るほうが傲慢なんだけどな。
小倉駅でよしひと嬢と別れて、一路博多へ。 ギリギリ最終のバスに間に合って、帰宅は11時近く。 テレビを点けたら『NHKスペシャル』で、『放浪記』の森光子の特集を放映していた。「自分以外の誰に林芙美子が演じられるものか。やれるものならやってごらんなさい」という言葉は傲慢に聞こえかねないが、森さんの口から流れてくると説得力があるのでまるでイヤミに聞こえない。これが「芸の力」というものだろう。 おかげでしげが「自分なんかが芝居をやっちゃいけないのかなあ」と落ち込む。そう言いながらも芝居をやらずにはいられないのがしげの業というものなので、悩むだけ時間の無駄である。根気も記憶力もないくせに、芝居に関してだけはなぜか「継続力」があるようなのが不思議なのだが。
(これより25日の日記) しげは今日は一人で『メンタル三兄弟の恋』を見に行っている。平日の昼公演なので、当然私は付いて行けない。なんたって全公演の楽日だから、どんな舞台になっているか想像もつかない。行きたい気持ちは山々なのだが、仕事を休んでまでは行けないんだよなあ、なんて良識的な判断をしてしまっているのはオタクらしからぬところであるが、だからもうオタクなんて名乗るのは返上したっていいかもしれない。 帰ってきたしげに話を聞いてみたところによると、昨日の芝居ともかなり違ってるところがあったそうな。まずはきたろうさんがやたらコケていたとか(笑。いや、笑っちゃいかんか)。「余った時間の使い方」コントでは椅子につまずいて転んでかなり間が変わっていたそうだし、「3人のカウンセラー」でも、小山崎さん(中村有志)の留守電を聞きに行こうとして、やはり椅子に躓き、いつもは「あー、うー」としか吹き込まないのに「転んじゃった」と吹き込み、そのあとの「何にも言えなかった」の台詞が「全然別のこと言っちゃった」と変わってしまったらしい。本当は「何にも言えない」のでなければ、次のオチに繋がらないのだが、それでも会場は爆笑だったようなので、結果オーライというやつであろう。 ほかにも、「チャーハンショー」に演出の細川徹さんが飛び入り出演していたり、「武装サラリーマン」の中村有志さんが大熱演で拍手喝采だったり、一日経っただけでも相当違った印象になっていたようだ。やっぱ芝居はナマモノだからねえ。まさしく一期一会。高いカネ払って見るだけのことはあるんである。 パンフレットを買った人だけが見ることのできる(っつってもパスワードをネットでバラしてる馬鹿野郎もいるようだ)ひみつ(「ひみつ」はひらがなだっ!)サイトを覗いてみたら、小倉の町を気に入ったこと、来年も来たい旨のことが書かれていた。ぜひとも実現を。
なんか、お気に入りの日記を回っていて、ちょっとウンザリしたこと。 何度も「政治的なことはあまり書きたくないなあ」とこの日記にも書いちゃいるのだが、歴史の事実というのはこうも消えていくものなのだねえ、と実感したもので。 何のことかと言うと、「戦時中の朝鮮人の創氏改名は強制されたものではなかった」という主張がされていたのだね。その根拠というのが、「創氏改名は申告制だったから」というので思わずずっこけちゃったのだけれども、この人は「申告しなかった朝鮮人がどういう目に合わせられるか」ということに想像がまるで至らないらしい。 日韓併合は双方の合意の上になされたんだから、創氏改名も施行上は当然「申告制」になるわなあ。けどそこで気が付かなきゃならないのは、そもそもなんで「創氏改名」をしなきゃならなかったのかってことで、その人の主張する「氏(ファミリーネーム)を持たない朝鮮人に氏を創らせた」ってのは、大嘘なんである。当時も朝鮮人はみんな姓(厳密に言えば「姓」と「氏」は違うんだけど、とりあえず同じものということで話を進めます)を持ってたよ。ただ、一族みんな「金」さんとか、朝鮮人の名字数は日本人に比べれば圧倒的に少なかったので(この「名字が少ない」「戸籍が整備されていない」というのが、「朝鮮人には姓がない」というデマを生んだのである)日本人の感覚からすれば区別が付かず「金田」「金本」「金山」とか名前を付けて区別しようとした。そこには「五族協和」と言いつつ、実際には「みんな日本人になっちゃえばサベツがなくていいじゃん」という意識が働いていて、日本人は“みんなに優しい”政策のつもりでいたけれども、朝鮮人の民族としてのアイデンティティーを踏みにじってることに少しも気づいていなかったのだ。 現在でも、別に「強制」されてるわけでもないのに、多くの在日朝鮮人が「日本人名」を通称として使ってることをこの人はどう考えているのかね? 「それはその朝鮮人に勇気がないからだ」で済ませるか? “日本人にならないと”どれだけの差別を受けるか、知り合いに一人でも朝鮮関係の人がいれば気づいてておかしかないんだけどねえ(本名でがんばれ、というのは理想論で、人間、みんなそんなに強いやつばっかりじゃないのだ)。過去のことは知識としてしか知らないとしても、目の前の現実も見えてないという点で、この人は情けないくらいの馬鹿なのである。 逆の立場で考えてみて、「日本人、明日から、名字を朝鮮名に変えなさい。でも強制じゃないよ。申告制よ」と言われて、「なんてありがたい申し出なんだ!」って思えるかね? 思えるんだろうなあ、その人には(その人に言わせれば、「当時朝鮮人の位置付けは中国人より下だったので、日本名改名希望者が殺到した」んだそうな。で、その「位置付け」とやらは「誰」が決めたの?) さらには「将校で朝鮮名のまま活躍した人もいた」と主張しているのだけれど、ここまで来ると、イデオロギーに凝り固まって思考力自体をなくしてしまっているとしか思えない。あのね、それはね、「将校」だからこそ、創氏改名はされなかったのだってことなんだよ。つまり、「日本に協力している朝鮮人」として「広告塔」に使われてたのよ。 その人の言によれば、「朝鮮人の誰もが日本名に改名したがっていた」ということだけれど、だったらどうして、朝鮮人の代表ともいうべき「将校」が創氏改名していなかったのかな? 自分で書いててこの人はその「矛盾」に気が付いていないのだ。「広告塔に使われてた」という理由に納得が行かないのなら、将校本人たちが「朝鮮人のアイデンテイティーを失いたくなかったのだ」と解釈してもいい。けれど、どちらの理由で解釈しても、「創氏改名」が当時から「代表的な朝鮮人には拒絶されていた」という事実がハッキリ見えてくるのだ。 史料にこだわる人は往々にしてその背景にある人間心理の機微を見落としがちなのだけれど、それにしてもこれはひどい。こんなに人の気持ちを推し量ることができない人が、政治や国家を論じようってんだから、全く情けないやら馬鹿馬鹿しいやらなのだが、困るのは、こんなにアタマが偏っちゃってる人の書いてる内容を読んでも、少しもウソを見抜けない人は世の中には結構いて、簡単に「日本は朝鮮にいいことばかりしたんだ」と思いこんでしまうことである。現在までの北朝鮮・韓国の反日政策に批判的な人だって、この「創氏改名」については「やるべきじゃなかった」って思ってる人は多いんだけど、そういうことも知らない。結果、馬鹿な言を吐き散らして、「日本人、反省しない」の印象を裏付けてしまうことになるのである。 私だって、今の北朝鮮・韓国は圧倒的におかしい、と思ってはいるが、だからと言って、「日本には過去に一点の曇りもない、日本が反省すべきことは何もない」とばかりに事実を捻じ曲げてまで自己主張したいとは思わない。つか、「平和な現代」ですら、日本国中にありとあらゆる不祥事が蔓延しているのを目の当たりにしているのだ。ましてや、戦時中、日本人が常に冷静かつ紳士的に行動していたなんて幻想、誰が信じられるもんか。 小泉首相は靖国参拝していいし、呉儀副首相の会談キャンセルには厳重抗議していいし、扶桑社の教科書を採択する自治体があっていいと思うけれど、「創氏改名」を正当化しようってのはもう相当アタマがイカレているのである。誰が何書いたっていいから別に当人に抗議する気なんかないが、どっちの言い分が正しいかは、それこそ読んだ人が自分の頭で判断してちょうだいね。
2004年05月25日(火) 『バナナがすきな人』&また来た首吊り。 2003年05月25日(日) すっ飛ばし日記/エロくて見せられない女 2002年05月25日(土) サヨナラを言いたくない人/『真・無責任艦長タイラー外伝 LOVE&WAR』(吉岡平・森小太郎)ほか 2001年05月25日(金) ドームにぃ、轟くピンのぉ音ぉ♪/『ウインドミル』11巻(橋口隆志)
2005年05月24日(火) |
死者にムチ打て/『シティボーイズミックスPRESENTS メンタル三兄弟の恋』パート1 |
葛飾北星原作・浦沢直樹作画のマンガ『MASTERキートン』が絶版状態にあるとか。 ニュースソースは『週間文春』なのだが、その理由というのを浦沢直樹氏、編集者の長崎尚志氏(現在『PLUTO』をプロデュース中)などに取材してまとめている。その内容をかいつまんで書くと、以下のような次第になるそうな。 まず、原作者の「葛飾北星」氏であるが、本名は菅伸吉、「ラデック・鯨井」や「きむらはじめ」のペンネームでも活躍していた人気原作者である(昨年12月に死去)。『キートン』に原作者として付いたのは、当時作画の浦沢直樹氏が『YAWARA!』を連載中で多忙であったため、編集部の要請があったためだという。 ところが浦沢氏は葛飾氏の提供する原作が気に入らず、長崎氏と協力して話を作っていた。従って、実質的に葛飾氏は名のみの原作者に過ぎなかった。 そういう事情なので、『キートン』の増刷に関して浦沢氏は「葛飾氏の名前を小さくしてほしい」と小学館に申し入れ、いったんはそれが了承されたのだが、葛飾氏の友人である雁屋哲氏がその話を聞いて、「葛飾氏の名前を小さくすることはまかりならん」と横槍を入れてきた。結果、増刷の話は宙ぶらりん、事実上の絶版状態に陥ってしまったというのだ。 この話がどこまで真実なのかはちょっと分からない。話をそのまま鵜呑みにするなら、雁屋哲、何考えてるんだ、ということになるのだが、「葛飾北星は『MASTERキートン』の原作を書いていなかった」というのもどこまで本当なのか、そこから既にウワサの域を出るものではないから、もしも「葛飾原作」がちゃんと存在しているのなら、雁屋氏の怒りももっともだ、ということになるのである。 細野不二彦の『ギャラリーフェイク』について細野さん自身が『ベスト版』でこう語っている。美術マンガという新境地を開拓するがゆえに、第1話こそ、編集部から原作を渡されたのだが、細野さんはその原作が気に入らずに放棄して、殆ど自分で物語を書き上げてしまったというのである。クレジットが細野さんのみになったのはそのためだろう。 「葛飾原作」が存在していないのなら、あるいは存在していても浦沢さんがそれを使わなかったのなら、どうして細野さんと同じく自分だけの名前で発表しなかったのか。そこが腑に落ちないというか、なんだか胡散臭くすら感じられるのである。「原案協力・葛飾北星」程度の表記にしてもよかったのではなかろうか。浦沢さん自身がそのあたりの事情をきちんと語ってこなかったことがそもそものトラブルの火種になってるんじゃないかという気がしてならない。 マンガ制作に関して「原作をどの程度使っているか」はケース・バイ・ケースで、クレジットだけではその実態が分からないことも多い。『あしたのジョー』では冒頭のドヤ街のシーンが梶原一騎の原作には全くなく、作画のちばてつやのオリジナルであることは、今でこそ有名な事実として知られているが、連載当時世間一般には全く知られていなかった。 こういうのはかなり特殊なケースであるが、予め「小説」の原作があった場合には、マンガ家がどのようなアレンジを施したのかが比較できるが(例えば、鳥山明の『ドラゴンボール』などは兎人参化のエピソードあたりまでの展開は、意外にも呉承恩の『西遊記』に忠実なのである)、マンガのためのオリジナル原作となると、それが読者の目に触れる機会は殆どないに等しく、これだけ「マンガ文化」が世界的に普及している現在でも、その研究が立ち遅れている原因の一つになっている。 浦沢さんが自作に自信を持っているのなら、「インタビュー」という本人のコメントを中実に再現しているのかどうか分からないもので勝手に憶測ばかりされている状況を打破して、制作の事情を公開して「自分の言葉」で堂々と雁屋氏を論破すればいいし、小学館だって「葛飾北星原作」の文字を外して増刷に踏み切ればいいのである。自分が書いてもいない原作にクレジットされている葛飾氏のほうがよっぽど草葉の陰で自らの虚名に泣いていよう。逆に浦沢さんが何のリアクションもしないでこのまま『キートン』の絶版状態が続けば、雁屋氏の主張のほうが正しいということになってしまうのだ。印税目当てで、葛飾氏の名を小さくしようとした卑劣な人間、と後ろ指を差される事態にもなりかねない。あれだけの名作がこんなくだらない事態で読めなくなるようなことになれば、たとえその作品の描き手自身であろうと、責任は重大だろう。 真実が未だ不明瞭であっても、「『葛飾北星・原作』のクレジットについて、長いことクレームも付けずに放置してきた」点において分が悪いのは浦沢さんのほうだと思うのである。それって結局、「著作権を半分放棄してた」ってことになるんだからね。今までどおりの表記で、増刷、あるいは文庫化されるようにオトナとして引いてくれてもいいんじゃないかと思うんだけどなあ。
この『MASTERキートン』に関する「ウワサ」については、もうネット上のあちこちで批判の記事が書かれているが、特に「死人に口なし」「欠席裁判」な浦沢・長崎両氏の言に対する不快感がかなり大きいようである。なんか宮崎駿が手塚治虫死去直後に「手塚治虫のやってきたことは全て間違いだ」発言をやらかして手塚ファンの猛反発を呼んだときと状況が似てるよなあ。やっぱり誰かへの批判は「その人が生きてるうちにしとかないと卑怯」ってことじゃないのかね。「その人と一緒に仕事をしているときは悪口は言わない」なんてのは「キレイゴト」の「コトナカレ」でしかないのである。それで仕事が滞ったりトラブル巻き起こしたりしてる自覚がない馬鹿が世間に蔓延してるから、尼ヶ崎事故起こしたJR西日本みたいな体質をあっちこっちで作ってるんだからね。
仕事を一時間早引けして、L特急に乗り込む。 座席には、頬を紅潮させ、潤んだ目で私を待っていた女がいた。 っつってもこいつはしげなんで、別に浮気旅行に出かけようとしてるわけではありません。誰もそんなこと私がしてるとは思わんだろうが。 今日は『シティボーイズ・ミックス メンタル三兄弟の恋』の北九州公演の当日なのである。昨年まではゴールデンウィークの飛行機代が糞馬鹿高い時期に上京していたのだが、今年はついについに北九州公演があるということで、感無量である。もうアンケートにどれだけ「福岡に来てください!」と書いてきたことか。たとえ北九州公演でなくても長崎だろうが鹿児島だろうが、飛んでいったことは間違いない。私もしげもここ何日かはいささか興奮気味でなかなか眠れない日が続いていたのだ。 会場のリバーウォークまでは、特急を使っても小一時間くらいはかかるので、一度帰宅してから出かけていたのでは開演に間に合わない。それでしげには予め博多駅からの4枚切符を買って乗り込んでもらって、途中合流、という形を取ったのである。しげは、予定通りに会えてホッとしたのか、「おなかすいたろう」と声をかけたら、車内中に響き渡りそうな声で「腹減った!」と吼えた。残念ながらこちらも急いでいたので、弁当を買う余裕はなかった。会場ではよしひと嬢と落ち合う予定でもあるし、そのとき食事を一緒にすればいいだろう、と提案して我慢させる。
小倉駅に到着したのは5時をやや過ぎたころ。会場のリバーウォークまでの距離はバスで一駅ほどだが、歩いても10分ほどで辿りつける。開演は六時半だから、時間的には十分余裕がある。 けれどしげは眉間にシワを寄せた仏頂面で、いかにも機嫌が悪そうである。腹が減ってるときのしげはいつもこんな顔だ。気遣って声をかけたら、これがまたトンチンカンなやり取りになってしまった。 「食事は着いてからでよかろ? 指定席だから慌てなくていいし」 「指定じゃないよ、自由席だよ」 「え? ウソ!?」 「本当だよ! 何言ってんの!」 「じゃあ、急いで並ばないと。食事はどうする? ハンバーガーでも買って、並んで食べるしかないか?」 「なんで並ばないといかんの! 指定席なのに!」 「はあ? 今、自由席だって言ったじゃん!」 「それは電車の話!」 「誰が電車の話してたよ?! 『着いたら食事』って言ってんだから、会場の話に決まってるじゃん!」 「いや、だからオレもなんでアンタが今更電車の話をするのか、馬鹿になったのかコイツって思って……」 「勝手に脳内で話を変えてるのお前だ!」 しげの妄想は普段でもいつ何どき発動するか分からないから怖い。相手の言葉の脈絡を掴む術に劣ってる分、妄想でそれを補っているのだが、もちろん妄想だから補ったことには全然ならないのだ。意志の疎通ができなくて困ることも多いのだが、これが単純にコトバを間違って覚えてるだけならたいした問題ではないと言えなくもない。コトバの誤用は時代を経れば市民権を得ることもあるからだ(『情けは人のためならず』も誤用のほうが多かったりするからねえ)。でもしげのような先走った妄想や思い込みで会話が成立することは永遠にない。しげのもうそうはこういう「空腹時」にやたら発動するので、しげにマトモな会話をさせようと思ったら、四六時中食わせとくしかないのである。 おかげでしげの体重は年々増加の一途にある。そろそろ「逆転」が近いかな。
「リバーウォーク」内の「福家書店」で、よしひと嬢と待ち合わせ。ここで福岡じゃ売り切れてて買えなかった吾妻ひでおの『ななこSOS』3巻(ハヤカワ文庫)を入手。ちょうどそこによしひと嬢が現れて「何か新刊出てましたか?」と聞かれたのだが、「いや『ななこ』がね」と言っても伝わらないだろうなあと思ったので、「あまりないねえ」と答えてしまう。多分『不条理日記』あたりだったらよしひとさんも面白がるだろうと思うのだが、『ななこ』はなんたって『ななこ』だからなあ(笑)。 3人で何とかという名前の“肉の店”に入ってハンバーグセットを一律注文。ハカセ(穂稀嬢)の結婚式の話などでひとしきり喋る。ラクーンドッグさんの公演と期日が重なっているので、PPのメンバーで分担して行くか、何とか掛け持ちできないかなどの相談。ハカセ、“本当に”祝福されてるんだなあと実感する(笑)。
北九州芸術劇場大ホールで『シティボーイズミックスPRESENTS メンタル三兄弟の恋』。 会場に入る前に、ダイレクトメール用のチケット半券に住所と名前を書いていたら、しげとよしひと嬢に数歩遅れた。と思っていたら、二人の姿があっという間に見えなくなる。脱兎の如く走って行く二人の姿がチラッと眼の端に見えたので、指定席なのに何をそんなに焦っているのか、と思って追いかけると、しげは公演パンフを買って、「先着サイン付きだよ!」と叫んでいた(お三方+中村有志さん。まぬけ会のサインはなし)。 これまでの東京公演でも、シティボーイズのみなさんのサイン付きパンフが“抽選で”当たることはあったが、先着順とはなかなかの大盤振る舞いである。今日、明日が楽日だから、これで売りきっちゃおう、ということだろうか。私のように映画や芝居を見たときには必ずパンフを買う人間はどうやら世間には少ないらしいのである。よく「類友」だとからかわれるのだが、どうしたことか知り合いの「オタク」と呼ばれる人たちで、パンフを必ず買うって人はただの一人もいない。パンフは必ずしもオタク属性と関わらないと見るべきか、単に金をケチってるだけなのか。 よしひと嬢も、普段、パンフは買ったり買わなかったりなのだが、今日はしげと一緒になって嬌声を上げている。一冊一冊、パンフのサインは別々で、しげは中村有志さんの、よしひと嬢は大竹まことさんのサインパンフをゲットして、飛び跳ねているのだ(最初に買ったのは逆だったのだが、交換したのである)。しけがまた目を潤ませていたので、結局、大竹さん、きたろうさん、斉木しげるさんのサインパンフも買った(別に慌てなくても係りの人に言えば希望の役者さんのサインパンフがもらえたのである)。というわけで実は私のウチには『メンタル三兄弟』のパンフレットが4冊あるのです(笑)。
会場は三階席までほぼ満席で、これなら来年以降の九州公演も期待できるんじゃないかという感じ。大ホールではあるけれども、客席の勾配がよく計算されていて、後ろの席でも舞台が間近に見える。しげとよしひと嬢は下手のほうの席に、私は上手の席に分散する。座席についてはプレ抽選に私としげと二人で応募して、両方当たっちゃったので、チケットは計4枚あった。一枚はよしひと嬢に渡したが、もう一枚は希望者を募ったところ、早い者勝ちで草野(加藤)さんのお友達がゲットした。私の隣に座った人が確実にその人なのだが、面識がないので声はかけられない。あちらはあちらで隣に座っている変なオジサンがチケット提供者であるとは夢にも思わなかったであろう。芝居の間、よく笑っていらっしゃったので、楽しんでもらえてよかったなあと独り合点でホッとする。
オープニングはメンタル三兄弟の紹介。 きたろうさんが大竹さんにポットのお茶を注いであげるのだが、いきなりポットにお湯が入っていないというミス。大竹さんが「いきなりかよ!」と突っ込んで、きたろうさんも困った顔。これがホントにハプニングだということは生中継ライブを見ていればこそである。 長男・斉木しげるは「自分がホログラムではないか」という妄想に囚われている。 次男・きたろうは「この家が縁の下に住んでいるサラリーマンの吉田さん(中村有志)に支えられている」という妄想。 三男・大竹まことは「誰かにダンスの振り付けをしたくてたまらない」という妄想。 だから「メンタル三兄弟」というわけなのだが、パンフにも書いてあったが、このネタ、実際にそういう兄弟が知り合いにいて、モデルになってるんだそうな。こないだ『犬神の悪霊』を見たばかりだから、「家族そろってイカレてるっての、現実にもあるよなあ」と不謹慎なことを思う。 斉木さんときたろうさんが妄想の中でニコール・キッドマンを譲り合って、「ニコールからは手を引くよ」「オレこそ手を引くよ」と言ってるのを聞いてた大竹さんが、「いつ手を出したよ!」と突っ込むギャグがよい。WOWOWでの生中継(以下、「生版」と略す)よりも大竹さんの声に張りがあるのも分かる。まさに舞台は生き物だ。 この三兄弟、そろって独身で同居しているという設定。だからギャグはもちろんおかしいのだが、もう初老の域に入ろうとしているお三方が演じると、笑いの向こうに寂しさ、切なさが漂う。ラストにまたこの三兄弟は再登場するのだが、きたろうさんは、家族ができて妻の実家に帰ることになる吉田さんと、悲しい別れを迎えることになる。妄想の友からも去られてしまう寂しさとは、かなり深刻なのだが、それをさらりと流すように演じるのはきたろうさんならではの持ち味だろう。シティボーイズのお三方は、昔のようなアナーキーでラジカルな芝居よりも、孤独と、今や死を身近に思うほどに研ぎ澄まされた感覚を描くほうに、芝居の興味がシフトしてきているのかもしれない。 便宜上、タイトルを勝手に付けて各スケッチの内容を紹介すれば以下の通り。
「パッション・ショー」 寿司屋の店員たちが、「この店にないものは客とパッションだ」と、パッションショーを催すことを企画する。みんなで義太夫を唸ったり、暗闇の中で駆けまわったり。地元に来て張りきっているのか、中村さんがシーツを「パッション!」と叫んで“はたく”のが生版よりも激しい。ラストは斉木さんが不動明王に扮して登場。でも台詞は「悪い子はいねが〜」と、なまはげ。
「予期せず余った時間の使い方会議と謎の編物集団」 調整課の社員3人が会議室に行くたびに謎の編物集団が現れるというシュールなスケッチ。 生版にあった中村さんが万年筆のインクを吸うギャグがカットされ、、中村さんが指にボールペンを刺してエイリアンのパフォーマンスをするギャグも短縮されている。そのかわり、生版でタイミングが合わずに幾多郎さんが言い損ねていた「キャサリン・セタ・ジョーンズと言おうと思ったけど、やめたよ」の台詞が復活。これは生版だけを見た視聴者には一生わかんない「真実の台詞」だ。 生版のときにはなかった、逃げ回る編物集団の中にいる斉木さんを見て、大竹さんが「中にロシアの人が混じってませんでしたか?」と突っ込むギャグが追加。
「武装サラリーマン川柳」 激しくトレーニングする中村さんの前で、斉木さんが「何かと危険に出会うことの多いサラリーマンが“武装”する川柳」のコンクールをアナウンス。 佳作「職場でも 書類丸めて 武器にする」 「会議中 挙手 する右手も こぶしを握る」 「ホッチキス 武器にならないか考える 会議中」 紫賞「無意識に まず急所みる 初対面」 ゴールデン・ジョンイル賞「サージャンニン サージャンニン サーランヘーヨ トンカジオライ」 選外の斉木個人賞「武器だらけ スーツの重さ50キロ 海外出張できんぞなもし」 部長賞「どんなにえばる部長も 急所は延髄」 最優秀作品賞 宮本武蔵賞「ボーナスで まとめて払う 武器ローン」 アンコール賞「定年だ 自分にプレゼント 仕込み杖」 字幕でも川柳は紹介されるので、生版と殆ど内容は変わらないが、明らかに中村さんの動きははじけていた。
「3人のカウンセラー」 何をやっても元気が出ない小山崎さん(中村)が紹介されて訪ねた神経科のカウンセラーはなぜか3人協議制だった。精神科医の胡散臭さを象徴したようなギャグで、今回のお気に入りスケッチの一つ。他人の受け売りばかりのきたろう、やたら激烈な薬を飲ませたがる斉木、本人がメンタルな大竹と、キャラクターの描き分けも上手い。 きたろうさんが、「バルビタールを飲ませても死ななかった報告もある!」と不平を言う斉木さんを壁にぶつけて黙らせるのだが、生版より激しくぶつけるのでセットが思いきり揺れていた。きたろうさんは中村さんの名前を最初「山崎さん」と言い間違えるのだが、言い直したときに「オ・山崎さん」と強調するのが生版にはなかった演出。大竹さんが中村さんを「どうしてこんなにハゲちゃったの?」と言った途端に中村さんが床で転げまわるのも今回新たに加わったアドリブらしい(カーテンコールのときに、大竹さんか「いつもはあんなに転げないんですよ」と説明していた)。ともかく中村さんは全編に渡ってサービスサービスである。
「ニコール・キッドマン・ショー」 中村のMC、そして斉木、きたろう、大竹がそれぞれのニコール・キッドマンになりきる。 斉木は『アイズ・ワイド・シャット』のニコール。 きたろうは『陽のあたる街角』からのお色直しで『ムーラン・ルージュ』のニコール。 大竹は「死んでもやだって言っただろ!」とカツラを投げ捨てながら『ドッグヴィル』のニコールを演じる。続けて4人は「チャーハン・ショー」でフライパンを持って「それそれそれそれ!」とチャーハンを炒める。多分チャーハンに見えたのはそれらしい「塊」で、フライパンからこぼれない仕掛けになっていたと思うのだが、きたろうさんはしっかりこぼしていた(笑)。
長くなったので明日の日記に続く。
2004年05月24日(月) 徒労の木馬。なんつて。……イヤ、つい思いついちゃったので(^_^;)。 2003年05月24日(土) すっ飛ばし日記/穴子に拘る女 2002年05月24日(金) カニの味がわからない/『かしましハウス』7巻(秋月りす)/『焼きたて!! ジャぱん』2巻(橋口たかし) 2001年05月24日(木) 幻想の帝国(改)/『作画汗まみれ』(大塚康生)ほか
2005年05月23日(月) |
人間嫌いなわけではないのですが/『新暗行御史』第十一巻(尹仁完・梁慶一) |
ハカセ(穂稀嬢)から、結婚式の案内メールが届く。 個人情報を垂れ流すのは人としてどうか、と非難される方もいらっしゃるだろうが、別にこれでハカセの人生が狂わされてしまうようなことにはならないので、まあ、いいんじゃないか。ちゃんと「書かないでくださいね!」って言われてることはいつも書いてないからね。 結婚式はもう何ヶ月か後のようだが、当日はほかに先約の用事があって出席できるかどうか分からないので、その旨を連絡した。返事はすぐに返ってきたが、ハカセも案内を送るかどうか、ちょっと迷ってたらしい。多分、ハカセも知ってることだと思うが、私としげは結婚式を挙げていない(写真だけは撮った)。その辺の事情まで詳しく話したことはないが、まあ、一応何やらありそうだと気遣ってくれたのかな、と思う。
私は自分の結婚式を挙げなかったばかりか、ここ20年ほどは親戚や友人・知人の結婚式なども殆どオミットさせてもらっている。どうにも断りきれなくって出席したことは何度かあったが、気分を悪くして吐いたりした。酒に酔ったとか。そういうことではなくて、結婚式に出たこと自体が私にとっては苦痛だったのだ。条件反射のようなもので、これも一種のPTSDかな、とも思う。 子供のころはこんなことはなかった。小学生の時分に、両親に連れられて父方の叔母の結婚式に出席した記憶がある。しかし逆にそのころから、両親も、親戚の結婚式になかなか出席しなくなった。正確に言うなら、母が、父方関連の結婚式には殆ど出なくなったのだ(母方関連でもかなり少なくなった)。「言い訳」は「仕事が忙しくて休めないから」である。確かに床屋は月曜が定休日なので(地方によっては違うのだろうが、博多はたいていそうなのだ)、土・日が定番の結婚式には出席しにくいのは分かる。しかし、それならどうして私が子供のころには家族そろって出席していたのが、パタッとやんでしまったのか。 おかげで私はまだ小学生でありながら、一家の代表としてたった一人、あちこちの親戚の結婚式に送り出されることになったのだが、どうして母が晴れがましい席を避けるようになったのかはすぐにそれと知れた。要するに母が父なし子だったからである。 母は生前、私に「何かあったとき、お父さんの親戚は当てにならないからね。お母さんの親戚を頼りなさい」としょっちゅう言っていた。現実には父方の親戚のほうが穏やかな人ばかりで、母方の親戚はほとんど金にだらしなくて母に借金しに来る連中ばかりだったのだが、それでも母は意地になったかのように父方と縁を結ぼうとはせずに自分の親戚の求めるままに稼いだ金を吐き出していた。 幼心にも私は「どうしてそこまで」と思っていたものだったが、つまり母は、父方の親戚に(多分、祖母か曾祖母だろう)、「何か言われた」のである。母が父方に顔を出さなくなれば、当然、父も遠慮をせざるを得なくなる。かと言って義理を欠き過ぎるのもまずいので、両親はまだ子供の私を代理として送り出していたのだろう。とんだスケープゴートであったが、そこには、まだ小学生の子供に対してまで、親戚連中も何か言うことはなかろうという甘い判断があったと思われる。 両親がお人好しだなあと思ったのは、世の中には、たとえ相手が世間知らずのガキであろうと、「何か言う」腐れた連中は確実にいるということをよく知らなかったことだ。そのあたりの「事情」を両親に話したことはなかったが、長じるにつれて明らかに私が「式」と名のつくものに強い不快感を示すようになったから、ある程度は察していたのではないかと思う。私が自分の結婚式を挙げるつもりがないことを「だってお金がもったいないから」と、普通なら「ふざけるな」って怒鳴られてもおかしくない理由を挙げて両親に告げたときも、全く何も言わなかった。母が死んだ後、父は「今まで不義理ばかりで悪かったね」と、親戚の結婚式に出るようになったが、私には一切「一緒に来い」とは言わない。 親戚の結婚式じゃなければ平気か、と思って、知り合いの結婚式に出たことも何度かあるのだが、既に私には「式」そのものに拒絶反応が出てしまうようで、熱は出る、動悸は激しくなって、吐き気はする、PTSDと言ったのは別に誇張でもなんでもなくて、本当に体調が悪くなってしまうのだ。リクツで割り切れるものではないので、治療のしようがない。ひたすら「自分のようなものがこんなところにいていいのか」って強迫観念が頭の中に広がって、立っていられなくなるのである。 今だからもう言っちゃうけど、よしひとさんのお父さんのお葬式に出た後で体調崩したのも実はそれです(笑)。焼香だけでさっさと帰ったから、たいして響かんだろうと思ってたんですが、判断が甘かった。あのときは関係各位にご心配をおかけして申し訳ありませんでした。 もちろん結婚を祝いたい気持ちはあるので、ハカセの結婚式にも時間の余裕ができるなら出席したいし、仮に体調崩しても翌日も休日なんで静養できそうではあるから何とかなりそうな気もするのだが、それでも滞在は2時間が限度だと思うので、お色直しは一回くらいだったらありがたいなあ。ハカセはメンバーの日記もちゃんと覗いてるって言ってたから、ちょっと注文つけとこうかな(笑)。 ……いや、ホントに回数減らされたら困るけど。
意外や意外、ハカセは毎日買い物もすれば、食事もきちんと朝晩自分で作っているそうで、しげよりよっぽど普通の主婦している。漢字や日常語を知らなくても、生活手段知ってるほうがありがたいわなあ。 私も人並みのことしかしげには要求してないんだけど、なんとか二月近く続いていた弁当作りもそろそろ朝寝坊で時々忘れかけてきているのである。洗濯やゴミ捨てなどの家事も、まるで実行に移さない。「トイレに紙を貼って忘れないようにする」って言ってたくせに、案の定小さな紙を「貼っただけ」で安心してしまい、肝心の家事をすること自体を忘れてしまっているのだ。私から「洗濯忘れてるぞ」と言われて初めて動くのなら、結局はこれまでと変わりがない。 なかなか人に言っても信じてもらえないのだが、しげの健忘症は、家事を始めた途端に都合よく発動するらしく、白昼夢や妄想も併発して、全て中途半端に終わってしまうのだ。例えば台所で食器を洗っていても、疲れてくると健忘症のスイッチが入って全部洗った気になってしまい、途中で作業を放棄して寝てしまうのである。目の前にまだ洗ってない食器があるだろう、と突っ込みたくなるのだが、その食器が「見えなく」なるのだ。おかげで洗い場にはまた小バエが発生し始めてしまった。 「やれ」と言われた次の瞬間に「やった気になる」のでは、処置なしである。昼間グーグー寝ていれば、家事なんてできるはずがないのだが、どうして「やった気になれる」のか、どうにも納得ができない。根本的に心がどこか壊れているか脳に疾患があるのかもしれないと、私もしげ自身も、そこんとこを病院にもきちんと診断してほしいのだが(しげが単なる虚言症であるという可能性も含めて)、もう一年以上通院しているというのに最近はまるで進捗が見られない。面談してお話を聞いてそれで終わりってのは何なんだろう。 最近はやっぱり医者を変えたほうがよかないかとも感じているのだが、そうするとまた薬をもらえるようになるまでに手間がかかり、診療費がかさむことにもなるらしくて、踏ん切りがつかないのである。こっちはしげが家事ができるようになればそれだけでいいんだけど。
マンガ、尹仁完原作・梁慶一作画『新暗行御史』第十一巻(小学館)。 曼陀羅華の鍼を打ち、過去の幻想の中を彷徨う文秀(ムンス)。夢の中という設定で、これまで語られた物語の間隙を補完する形で、山道(サンド)が文秀に付いて行く決心をしたエピソードなどが描かれる。しかし、ファンの最大の関心を引くのは、待ちに待ってた“聚慎滅亡”の顛末を描くことになる「快惰天戦」のエピソードだろう。 悪獣どもの母体・快惰天を辺境の地に追い詰めた文秀率いる聚慎軍。しかし最終決戦を覚悟した悪獣どもの反撃は激しく、聚慎軍は「絶対聚慎!」を叫びつつも逆に劣勢を強いられる。歴戦の英雄たちが次々と命を落としていく中、文秀の副官・阿志泰(アジテ)は一時的な撤退を進言するが、文秀は自ら突撃部隊を編成し、先頭に立つ。対峙した快惰天は少女のように美しい本体を現し、雷撃で自ら生み出した悪獣どももろともに聚慎軍を全滅させる。果たして文秀はこの戦いに勝利することができるのか。そして、この戦いの中、暗躍する阿志泰の本心はどこにあるのか。 梁慶一氏の緻密な作画はこの「快惰天戦」を圧倒的な迫力で描き出しており、さながらハルマゲドンを彷彿とさせる。しかしだからこそ文秀と元述(ウォンスル)しか生き残らない状況で、なぜ快惰天を倒せたのか、そこにも実は阿志泰の陰謀が働いてるのだろう、ということは予測が付くことではある。読者はこれが文秀の見る「過去の夢」であって、既に聚慎が滅亡しているという前提を知っているから、「このままではすまない」ことも分かっている。 この『新暗行御史』のストーリーの背景には、「人間は、真実を知ることを極力嫌っている」という作者の人間認識がある。これまで登場してきた主要キャラクターたちはみな一様に「目の前の現実」を認めようとせず、自分の作り出した妄想、幻想の中に生きてきた。フィリップ・K・ディック的というか『マトリックス』的というか押井守的というか、この作品はその発想において極めてSF的である。SFは、幻想にすがらなければならない人間の弱さを切なく描いてきたが、この『新暗行御史』の第一の魅力はまさにそこにあるのだ。そして、幻想が現実に打破され、謎が明かされていく展開はミステリー的であって、そこから立ち直って現実を認めていく人間の「強さ」が爽やかな感動、第二の魅力に繋がっているのである。 そして、これまで彼らに向かって「奇跡なんかない」と言い続け、現実を認識させようとしてきた文秀自身が今、「夢」に囚われてしまっているのである。ドラマ展開の流れから言っても、この「夢」から覚めたときが、文秀対阿志泰の最後の決戦のときとなるのだろう。 もちろんその前には「更なる悲劇の夢」を文秀は見なければならないわけで、これから先、どれだけ物語を盛り上げていけるのか、前巻までの「活貧党編」がちょっと低調だっただけに、ぜひ読者の心を切なくかつ熱く感動させてほしいと思うのである。
2004年05月23日(日) 庵野秀明インタビュー&カンヌ映画祭閉幕! 2003年05月23日(金) すっ飛ばし日記/寝ると怒る女 2002年05月23日(木) 風邪さらに悪化/『パワーパフガールズDVD−BOX/バブルス缶』/『何が何だか』(ナンシー関) 2001年05月23日(水) できれば私への電話はご遠慮下さい/『真夜中猫王子』2巻(桑田乃梨子)ほか
2005年05月22日(日) |
どうしてみんなあえて狂いたがるのか/舞台『お父さんの恋 -Family Tale-』 |
JR九州にも尼崎事故以後もオーバーランが何件かあったとかで、国土交通省から厳重注意があったって。でも、尼崎事故はオーバーランそのものが問題なんじゃなくて、その失敗を取り返さなければと高見運転士を精神的に追い詰めた「日勤教育」のほうに問題があったんじゃないの? なんだかこの注意の仕方って、逆にJR九州に対して「事故を起こしやすい」プレッシャーを与えてることになってるんじゃないかね。「オーバーランするな」だけなら、結局はJR西日本と同じ指導の仕方じゃん。客のことを考えてない体質は上からしてそうなんで、これじゃあJR九州にも早晩、事故が起きるかなあ(涙)。
また飲酒運転による悲しい事故が発生、しかも今度のはかなり悪質。 宮城県多賀城市で、佐藤光容疑者が運転するレジャー用多目的車(RV車。ったって、クルマに興味関心のない私には、どんなんだかよう分からん)が、乗用車に追突した上、学校行事のウォークラリーをしていた仙台育英高校の生徒の列に突っ込んだ。ちょうど横断歩道を青信号で渡っていた生徒たちがはねられて(30メートルも吹っ飛ばされた子供もいたという)、3人が死亡、4人が重傷、16人が軽傷という悲惨な事態に。佐藤容疑者は七軒の店をハシゴしてすっかり泥酔、居眠りもしていたというから、同情の余地は全くない。 同じことを何度も繰り返して書くのはうんざりするのだが、この日本の「酔っ払い天国」状況は何とかならないものか。佐藤容疑者、一人で飲んでいたわけではなくて、同乗者もいたのだがこいつもすっかりへべれけ、それまで居酒屋を飲み歩いてた仲間もみんなぐでんぐでんだったのである。誰一人、「お前、運転あるんだろ? 飲むなよ」と止めたやつがいない。間違いなくこいつらは「常習犯」で、全員で子供たちを殺したようなものだ。 オタクが事件を起こせば、すぐに「ゲームが悪い」「マンガが悪い」と、すぐに有害なものは規制しろという声が上がるのが常だが、飲酒運転の事故(つか殺人)はそれこそ頻繁に起こってるのに、何で「酒のせいだから規制しろ」って声は上がらないかね? もちろん、本当は酒のせいではなくて本人のせいだから、そんな声は上がらなくっていいのだが、だったらオタクの犯罪もオタク本人のせいで、マンガやゲームのせいじゃないだろうが。なのにどうしてオタクに対しては世間の目が厳しいのに、酔っ払いには甘いかね。つまりは世の中、下戸に比べて酒飲みの数のほうが圧倒的に多いってことだね(笑)。行政も世論も腐ってるから、結局は腐れた酒飲みの味方になってんだ。 酒飲みはすぐに「酒を飲んで何が悪い、酒は日本の文化だ」と嘯くが、日本には「酒を飲まない」文化だってあるのである。 基本的に私は文化相対主義の考え方をしてるから、酒自体を撲滅しろとまで言うつもりはない。確かに酒は日本の文化を代表するものの一つだろう。けれど文化によってはどうしてもお互いに「相容れない」ものも存在しているわけで、例えば「首狩り文化」を持ってる部族と対等に付き合うのは到底不可能だ。嫌でも向こうがその習慣を捨ててもらわなきゃ、怖くて仕方がないのである。同様に考えれば、「下戸の存在を認めない酒飲み」には「酒は文化」なんて主張する資格はないのだ。「俺の酒が飲めないのか」なんて言ってるやつはそもそも人間として性根が腐っているんだが、そんな最低レベルのメンタリティしか持ち合わせてない輩が、この日本にどれだけ蔓延していることか。 ハッキリ言うが、酒とタバコに関して日本人は、誇りを持って「文化」と呼べるほど成熟したものを築き上げているとは言いがたい。銘柄なんてどうでもよくて「酔えりゃいい」「吸えりゃいい」の安酒安煙草で満足してる連中がゴマンといて、何が文化か。 事故そのものもどうにもやりきれないのだが、もっと胸糞が悪いのは、これだけの事故が起こったからといって、今現在酒かっくらってる連中がこの事故を他山の石と考えて自己反省するわけではないってことである。つまりこれから先も飲酒による被害者は少しも減りゃしないのだ。たいていの酒飲みが「自分は大丈夫」って高をくくってるんだろうが、そういうやつほど危ないってこと、これまでの事故の例を見ていて気がつかないものかね? 今度の事故の佐藤容疑者も、日頃はすごく真面目な、普通の会社員だったって言うぞ? つまり、いったん酒を飲み始めたら、「飲んだら車を運転しちゃダメだ」という判断自体、できなくなるということなのである。たとえごく普通の人間であっても「酒を飲んでる限り、事故を起こす危険性を常に持っている」のだ。そんな単純なことにも気がつかないくらい、酒飲みってやつは馬鹿で糞っ垂れなやつばかりだ。つか、もうただの既知外ね。否定できるか? そこの酒飲み。 そこまで言わんでもいいじゃないかとこれ読んでムカついてる酒飲みの人もいると思うが、警察庁の発表によれば、「酒気帯び運転」の取り締まり件数は、毎年20万から30万の間を推移しており、車による事故およそ4千件のうち、酒酔い運転が原因の事故は常に1千件以上、死亡事故もそのうち200〜400を数えている。つまり毎日一人は酔払い運転のために人が死んでいるのだ。オタクの犯罪よりよっぽど発生率が高いだろうが。自分たちが「犯罪者予備軍」「人殺し一歩手前」なんだってこと、少しは自覚してくれよ。 酒税で日本経済がまかなえているんだから、と反論される向きには、次のデータをお示ししたい。厚生省の発表によれば、アルコールによる社会的・経済的損失は、年間に6兆6000億円以上に上るということである。それに対して、国税庁が発表している酒税収入は、年間およそ2兆円。利益よりも損失のほうが圧倒的に多いのだ。単純計算でも、酒の値段が今の4、5倍しないと、ペイしないってことになる。もちろん、だからと言って、それで失われた人の命が戻ってくるわけではないのだ。 そこの酒飲みさんよ。これはさ、下戸な人間がみんな等しく願ってることなんだけどさ、アンタがどんなことがあろうと酒文化を守ろうって気概の持ち主じゃないんならさ、もう無理して酒飲むのやめてくんないかね。人の趣味嗜好の問題だ、ガタガタ文句言うなって気分なんだろうけどさ、心構えや覚悟のない人間が趣味云々言うのって、一万年早いんだよ。本気で酒が好きで節度守った飲み方してる人間から見れば、アンタらみたいな存在は鬱陶しいだけだ。日頃どれだけ鬱憤やストレスが溜まってるのか知らないがな、そんなの酒で誤魔化そうとするな。酒飲んでるだけで人間としてのランクを確実に下げてんだ、これ以上恥の上塗りしてんじゃねえ。開き直って「へいへい、どうせオレは酒飲みでござんすよ」と卑下して見せるのはもっと最低。飲酒運転のせいで死んだ子供の遺族の前でも、そんな態度が取れるか? 下司めが。 どうせ酔っ払うならさ、いつか人を殺したり女子高生襲って犯したりする前にね、側溝に落ちるか豆腐の角に頭ぶつけるか自分の臍噛むかして、早いとこ死んでほしいよ。性犯罪者には刑務所から出た後も監視がつくようになるみたいだけど、酔っ払いにも同様の処置をしてもらいたいね。中毒になったやつってのはどうせまた同じこと繰り返すんだからさ。
休日だけれど、午前中は出張。六時にゃ起きないとバス、電車に間に合わないのだが、目覚ましが鳴る前に5時に目覚めてしまう。不眠症(つか、深く眠れないのね)も役に立ってる面はある。 かなり田舎のほうに出かけたので、空気だけはいい。多少小雨は降っていたが、涼しいくらいのものである。間近の山も少し霞んで見えるのがいい風情。仕事は予想外にきつかったけどね。 午後までかかるかと思っていたのが、意外に早く片付いて、帰宅は午後3時。おかげ出昼寝ができて、昨日の寝不足をちょっと回復。やっぱり休日はできるだけ睡眠時間を確保しておきたいものだ。
出張のため、『エウレカ7』は今日も見られず。評判いいんで、来週こそは何とか。 録画しておいた『仮面ライダー響鬼』十七之巻 「狙われる街」。 ついに魔化魍が街中に……つか、こないだから続いているレギュラー陣の「私服編」ですな。イブキ(渋江譲二)のショッピングはどうでもいいが、香須実(蒲生麻由)の薄黄色一色のファッションセンスってのはどうなんかね。あまりチャラチャラしてるのもよくないだろうが、ヒロインなんだから、もう少し華やかさがあってもよかろうとは思う。 華やかといえば、ひとみ(森絵梨佳)とあきら(秋山奈々)に挟まれた明日夢(栩原楽人)君、両手に花ですごく幸せそうだったなあ(笑)。でもこれで明日夢君、全国のロリ系オタクは敵に回してしまったね。どうせスタッフもオタクだろうから、ファン心理というものは先刻ご承知だと思うのである。これからは視聴者の溜飲を下げるためにも、明日夢君を何かと苦しめる展開になるんじゃないかと予測するがどうか。盲腸とか万引き犯に狙われるとか、そんな生ぬるいことじゃまだまだだね。 関係ないけど、「天美あきら」の「天美」って、ずっと「てんみ」って読んでました。今日初めてこれが「あまみ」であることに気がついた(ボケボケである)。というとやっぱりこの子もイニシャルが「姓・名」ともに同じ。やっぱり「鬼」になる運命なんだねえ。けど、明日夢と同じイニシャルってことは、二人で「逢引鬼」(アイビキ)とか……。すみません、座布団一枚返上します。
昨日WOWOWで録画しといた、パルコ+サードステージPresentsの舞台『お父さんの恋 -Family Tale-』を見る。 これも福岡公演があって、私はすごく見に行きたかったのだが、しげは全くと言っていいほど興味を示さなかった。主演、前田吟だぞ、オイッて言っても全然伝わんないのがちょっと寂しい(タイトルロールは境雅人が筆頭だが、実質的な主役は前田吟である)。 前田さんはこないだ『キネ旬』でも、1968年の初主演映画『ドレイ工場』に出演したときの思い出を語っていらっしゃったが、俳優座養成所出身だからやはりもともとは舞台の人なのである。『男はつらいよ』で長く博役を演じてこられたから、どうしても実直で融通が利かない、けれど下町の人情味に溢れた労働者、というイメージが付いて回るが、そこから「解放」された現在、どんな演技を披露してくれるのか、それが楽しみであった。 タイトルだけだと確かに地味で興味を惹かれないのも無理からぬことだけれど、これはかなり意欲的な脚本、演出の舞台である。開幕当初、上手のベッドに前田吟扮する“お父さん”杉本正樹が寝ていて、そこへ派遣ホームヘルパーの深谷さおり(星野真里。『三年B組金八先生』の金八の娘・坂本乙女役の美人さん)が入ってくる。二人の会話が“噛み合っている”ので、いっときは“気が付かない”のだが、杉本家の次女・美樹(菊池麻衣子)が登場してきたあたりから、なんだか“雰囲気がおかしい”ことに観客も気付き始める。父親が娘に声をかけても、何の反応もしないのだ。娘には父親の姿が見えていないのか? と一瞬訝るが、どうもそうではないらしい。美樹は正樹がちゃんとベッドにいるものとして、様子を窺っている。正樹は当然、美樹に声をかけるのだが、その声は“美樹には届いていない”のだ。長女の武藤正子(七瀬なつみ)、医者の藪一平(池田成志)が登場するに至って、正樹は実は「寝たきり」の植物人間で、喋っているのは正樹の「心の声」に過ぎないことが分かる。冒頭、さおりとの会話が成り立っているように見えたのは、さおりが「正樹さんには意識がある」、と信じて声をかけていたからなのだ。 全編、お父さんは植物人間のままで通し、その声が他の家族に届くことはない。ある意味、これは「幽霊もの」の変形であって、映画『ゴースト ニューヨークの幻』のように、現世の人間との交流は可能か、という興味で物語を引っ張っていく。ところが、お父さんはちゃんと「生きていて意識もある」のに、ほんの少しも家族との会話が成立する様子を見せないのだ。植物人間は植物人間、決して目を覚ますことはない。だからいかに前田吟が熱弁を振るおうと、これは極めて現実的な物語であって、「幽霊もの」のようなファンタジーではないのだ。 長女の正子は家庭が崩壊し、現在不倫中である。次女の美樹は会社の金を騙し取られていて、父親の財産を狙っている。長男の大樹(堺雅人)は今流行りのニート(要するにプー太郎だよな)だ。そんな家族のテイタラクを目の当たりにしても、正樹には何もできない。しかし、そんな彼らを見ていて、さおりが突然、思いもよらないことを言い出す。「あなたたちには正樹さんを任せておけません。私は正樹さんを愛しています。正樹さんと結婚させてください」。 もちろん、“意識のある”正樹は、もうずっと先からさおりのことが好きだった。妻をなくし、孤独に耐え切れなくなった正樹は、家を新築すれば子供たちが戻ってきてくれると信じて、この家を建て替えた。子供たちが好きだと言っていたシャンデリアに暖炉……。めちゃくちゃなインテリアだったが、それで家族の絆がつなぎとめられると思っていた。ところが、子供たちは父親を見捨てた。正樹は自殺を決意したが、その直前に脳溢血で倒れる。自分には死ぬことすらかなわない。悔し涙を流すこともできず、絶望のどん底に陥れられていたちょうどそのときに、さおりが現れ、実の子供たち以上にかいがいしく自分に尽くしてくれるようになったのだ。正樹は恋をした。そして、生きる気力を取り戻したのだが、情熱を傾けたいと熱望するその人とは、会話することすらかなわなくなっていたのだ……。 正樹は確かにさおりに恋心を抱いている。けれど、自分の娘たちよりも若い、この美しい娘が、寝たきりの老人に恋をしたなんて、本当だろうか? 物語は、家族一人一人の隠し事を少しずつ暴きながら、その心の奥底を覗いて行く……。 イマドキの演劇の常として、むりやりギャグでつないでいく展開があるのはちょっと気に入らないが(もっぱらギャグは成志君が担当してるんだが、正直な話、物語の展開上は殆ど必要ないキャラである)、前田吟の演技、自分の意志が伝わらないもどかしさが、話が進むにつれて切実感を増してくる。見ているこちらは、「いつか何らかの形で意志が伝わるようになるのではないか」と期待しているから、それが外されるたびに、悲しみが弥増していくのである。いや、前田吟自身は決して悲痛な演技はしていない。その演技はあくまで軽い。しかし、軽いからこそ、寂しいのだ。『男はつらいよ』シリーズのファンなら、すぐに気づくだろう、これは、渥美清の演技である。 物語の冒頭、さおりが家族みんなに向かって「正樹さんを愛しています」と啖呵を切り、正樹に「行きましょう、正樹さん」と声をかけるシーンがある。そのときの正樹の返事が、一拍置いて、上ずった声で短く「はい」である。ああ、この「間」と「発声」は「寅さん」だ。自分がモテるなんて露とも考えていなかったのに、急に告白されてドギマギしてしまったときの寅さんだ、まさしくそうなのである。 フーテンで、家族に迷惑ばかりかけている「お兄ちゃんの恋」と、寝たきりで、家族の絆を結べない「お父さんの恋」。どうにもならない恋をしている図式も同じなら、その悲惨さを悲惨と見せない喜劇としての作劇の仕方も、実は全く同じなのだ。前田吟は明らかに渥美清を念頭において演技プランを立てている。脚本の中谷まゆみが前田吟を主役に据えたのは、渥美清を20年以上にわたって見てきて、その「芸」を盗んでいるに違いないと確信しての起用であったのだろう。前田吟はまさにそういう役者であった。だから、観客が正樹に感じる切なさは、寅さんに感じるものと同質なのである。 前田吟の前では、形式上の主役(失礼)、NHK大河ドラマ『新選組!』で山南敬助を好演した堺雅人もいささか影が薄くなってしまうのが残念だが、共演した役者さんたちも、何らかの形で前田さんの「芸を盗」んでくれればいいと思うのである。ああ、やっぱりこの芝居、ナマで見たかったなあ。
2004年05月22日(土) 関係者にしか意味が分らない文章ですみません。 2003年05月22日(木) すっ飛ばし日記/本な男 2002年05月22日(水) 風邪引き第一日目/『クレヨンしんちゃん映画大全』(品川四郎編)/『ビートのディシプリン SIDE1』(上遠野浩平)ほか 2001年05月22日(火) 我々は夢と同じものでできている/『MY SWEET ANIME 私のお気に入りアニメ』
2005年05月21日(土) |
今度はいつまで/映画『交渉人 真下正義』 |
またちょっと疲れ気味なので、短く書く。
しげのアルバイトが決まる。 「家事をちゃんとするから」と言いつつ、またやっぱりちゃんとしなかったので、「芝居したいならその分くらい働け」と言ったら、なんか急に思い立ったらしくて、面接に言っちゃったようである。「返事が来ないなあ、きっと落ちてる」とか愚図愚図とうるさかったので、「連絡取れよ」と言って電話をかけさせたら受かっていたのである。今度も接客業だけど、食料関係ではありません。 心配なのは今度はどれくらい長く勤められるかどうかなのだが、職種よりも人間関係によるので、数週間とも数年とも言いがたいのである。
昼まではのんべんだらりとテレビを見る。 CSキッズステーションで劇場版『MARCO 母をたずねて三千里』など。日本アニメーションの劇場版シリーズが『フランダースの犬』とこれの2本だけで終わってしまったのは未だに残念に思う。テレビシリーズ至上主義の方にはいまいち受けが悪かったようだが、一年間のシリーズにし立てるために不要な「引き伸ばし」も多かったテレビ版に比べ、原作に近い形で凝縮された作品に両作とも仕上がっていたのに。次は絶対『赤毛のアン』だろうと期待していたのである。
夕方から、キャナルシティのぽんプラザホールで、劇団ぎゃ。第8回公演『裏庭(野田和佳菜「ガーデン」より)』。 ストーリーの紹介は自分でまとめるのがつらいのでまんま引用。
> レアモノと呼ばれる奇形の女たちが働く女郎屋、ガーデンに幽閉されている美しい遊廓、胡蝶は、大好きな人形遊びに没頭するあまり、すっかり人形に乗り移ることが出来るようになっていた。 > 人形になって初めて部屋から脱出した胡蝶の不思議な物語。
「美しい遊郭」って、「美しい遊女」の誤植じゃないかな(笑)。 役者さんたち、一応熱演はしてるんだけれど、フリークスの悲しみみたいなものがもちっと出せたら面白くなったと思う。 こういう「演劇をミセモノとしてとらえる」劇作家は、寺山修司という偉大過ぎる先人がいるので(海外だとフェデリコ・フェリーニかな)、どうしても比較して見てしまう。脚本家さんは寺山さんやトッド・ブラウニングの『フリークス』やフランケンシュタインとかにも影響を受けているように見えるが、どうしても「若書き」で深みのなさが目立つ。若くしてドロッとした情念をピュアに演じられる人たちでないと面白くなんないのよ、こういうのは。
続けてAMCで映画『交渉人 真下正義』。 公開2週を経て、興行収入一位を爆走中だが、ヒットしてるからと言って面白いとは限らない。実のところそんなに期待してたわけじゃないんだが、青島が出ないだけで、『踊る大捜査線』シリーズがこんなに面白くなるとは思わなかった(笑)。こういうのも「嬉しい誤算」と言っていいものかどうか。 映画第1作も第2作も、青島が叫ぶたびにドラマが停滞していた。主役も馬鹿、敵対する犯人も馬鹿では、知的エンタテインメントとしてのミステリーなんぞ成立するわきゃない。ミステリーはやっぱり知性と知性のぶつかりあい、騙すか騙されるか、裏をかけるかかけないかの権謀術数がなきゃ面白くはなんない。ユースケ・サンタマリア演ずる真下正義を「知性派」と呼べるのかっていうと、ちょっとどころかかなり厳しいのだが、あまり知性派過ぎても観客はついて来れないから、恋人の尻に敷かれてる程度でちょうどよいのだろう。 脚本家が君塚良一から十川誠志に変わったのも今回の成功に繋がっている。横枝が多くて幹がシャンとしてなかった前作までと違って、交渉人の真下と、地下鉄を暴走させている犯人との対決だけにストーリーが絞られているから、否が応にもサスペンスは盛り上がるのだ。 ただその「面白さ」というのが全て過去の映画の「引用」、悪く言えば「パクリ」で成り立っている点が道義的にどうか、と思わざるを得ない。映画中でも『ジャガーノート』や『オデッサ・ファイル』などにインスパイアされていることが示唆されるのだが、それだけに留まらない。地下鉄の××だの鴉だの犯人は××だの、これって全部『劇場版 ××××××××××』だし、ラヴェルのボレロでクライマックスって映画はもう何本見たかわかんないくらいだ(十川さんがアニメ畑から来た人だってこと考えると映画『デジタルモンスター』の影響が強いかな)。でもって「××××」はヒッチコックの『××××××××』だもんねえ。名作の「いいとこ取り」なら、一見「面白く見える」のは当然なんである。 でもそういった「寄せ集め感」がしてしまう以上は、面白いって言っても、オリジナルな魅力と言うには程遠い。それに、「前作までが酷すぎたから総体的に面白くなった」ってこともあるんで、未見の方はあまり期待して見に行くのはどうかとは思う。 役者陣ではもう何と言っても出ずっぱり國村隼さんの演技が最高である。こちらはお母さんの八千草薫の尻に敷かれているのだね(笑)。
2004年05月21日(金) 『イノセンス』カンヌ上映。 2003年05月21日(水) すっ飛ばし日記/モンティ・パイソンな女 2002年05月21日(火) ハコの中の失楽/『KATSU!』3巻(あだち充)/『アリソン』(時雨沢恵一)ほか 2001年05月21日(月) アニメな『ヒカ碁』/『臨機応答・変問自在』(森博嗣)ほか
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☆劇団メンバー日記リンク☆
藤原敬之(ふじわら・けいし)
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