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クリスマスのこないナルニアの話につづいて、 まるでクリスマスの願いがかなったかのような 本に出会いました。
ナルニアも、グリーン・ノウもここにあります。 トールキンの手紙を書くサンタも、 妖精のディックも、 ツリーと切ない関係を楽しんだ少女アナ・マライアも ここにいます。
児童書の古典をひもとき、 クリスマスを描いた名場面をあつめたこの本そのものが、 愛あふれるクリスマスツリーのよう。
著者はドイツに留学された経験と長年の探求を活かして、 さまざまな角度から、子どもの本とクリスマスの世界に スポットを当てています。
読んでいけば、本の世界を通して、 クリスマスとはなにか、という歴史的な知識はもちろん、、 欧米の子どもたちにとってクリスマスの喜びがどんなものなのか、 日本人の私たちにも、空気として伝わってきます。
その労力とクリスマスへの想いに、 この先いつのクリスマスも、 感謝しつづけるでしょう。 (マーズ)
『名作に描かれたクリスマス』著者:若林ひとみ / 出版社:岩波書店2005
2003年12月22日(月) 『庭の小道から』
2000年12月22日(金) 『クリスマスってなあに』
先日、古本屋さんで、かつてずっと探していた本を見つけました。
『西瓜糖の日々』(著者:リチャード・ブローティガン)
今では、文庫本で復刊されているので、簡単に手に入れることが出来ます。それまで、長年、読みたいと思い、当時オークションにも参加してみましたが、5000円を超える高値で手に入れることは叶いませんでした。
やっと、文庫本で読むことが出来るようになった時には、どうしても読みたいという強い欲求は過ぎ去り、ページをめくりながら、ぼんやりとしてしまい幻想的な世界の住民になることはできませんでした。そのうち、文庫本は本の山の中のどこかにまぎれこんでしまい、物語は途中で止まったままです。。
目の前にあるのは、当時どうしても手に入れることができなっかったソフトカバーの本(『西瓜糖の日々』河出海外小説選 29)でした。900円の値札がついています。
本をぱらぱらとめくる。文庫本と違い、余白が多い本はゆったりした印象で、読みやすい感じ。本の軟らかさもいい。けれど、家にある一冊を読み終えていないのだからと、棚に戻す。でも、もう一度手に取る。うっすらとベージュがかった紙の質感も、温かい感じがする。うーんと、悩みつつも、やはり、棚に戻してしまいました。
ぶらぶらと棚を眺めていて、今度は『マクリーンの川』(著者:ノーマン・マクリーン)のハードカバーが目にとまりました。ブラッド・ピットの『リバー・ランズ・スルー・イット』(監督:ロバート・レッドフォード )の原作。前に文庫本を手にした時、文庫本の文字の大きさとかあるいは翻訳のせいなのか、なんだかとても薄い本のような気がして、がっかりしたことがありました。
そもそも『リバー・ランズ・スルー・イット』は、私にとっては不思議な映画です。年を経るごとに、印象が強くなっていく映画なのです。初めて見た時はあまりいい映画には思えませんでした。よくあるパターンの映画の一つ。真面目な兄と、無鉄砲だけれど天真爛漫で愛すべき弟。そして、その欠点ゆえに弟を喪失した家族の物語。そんな風に私の中では分類されていました。
しかし、近頃やっと、この映画の美しさがわかるようになり、物語が響いてきました。それで、原作を読んでみたいと、文庫本を手に取ったのでした。ぱらぱらとめくっただけで、『リバー・ランズ・スルー・イット』は原作より映画の方が格段に美しくよくできた映画だと、また誤解をしてしまっていたのです。 ハードカバーの『マクリーンの川』には、以前に感じた薄っぺらさは微塵もありませんでした。
『蜜蜂職人』(著者:マクサンス・フェルミーヌ)でも感じたことですが、多分、私はあの本が文庫本だったとしたら、それほど感動はしなかったのではないかと。ストーリーを追うことよりも、言葉の響きや幻想的な情景、熱に浮かされたような情熱の発露、どれも活字そのものからだけではなく、より多くのものが、ゆったりとした本の余白や行間から伝わってきたのだから。
本を読むということは、決して活字を読むことだけではないのだと、あたりまえのことをしみじみと感じています。余白から言葉にはならない何かに触れる。行間から言葉には表されていない何かを読みとる。本の手触りや質感から、本の持っている温度を感じる。そんなことをソフトカバーの『西瓜糖の日々』から感じたのでした。
物語によっては、大きくて重いハードカバーよりも小さな文庫本で、気軽に読みたいものもあります。物語の圧倒的な力で、単行本であろうが文庫本であろうが、その魅力に違いはない本はたくさんあります。私自身、好事家ではないから本の形にはあまりこだわりはなかったのですが。それでも、物語によっては、その本そのものの形までもが物語の一部である、そういうものもあるのだと。本をじっくり味わうためには、オリジナルの版で読みたいと、今は切に感じています。財布と相談しながらですが…(笑)
…ところで、『下妻物語』(著者:嶽本野ばら)も、面白さはどちらも同じですが、本としては文庫本より単行本の方が圧倒的に大好きです。(シィアル)
『西瓜糖の日々』河出海外小説選 29 著者:リチャード・ブローティガン / 訳:藤本和子 / 河出書房新社1979、(文庫版)河出文庫2003
『マクリーンの川』著者:ノーマン・マクリーン / 訳:渡辺利雄 / 出版社:集英社1993、(文庫版)集英社文庫1999
『蜜蜂職人』著者:マクサンス・フェルミーヌ / 訳:田中倫郎 / 出版社:角川書店2002
『下妻物語』著者:嶽本野ばら / 出版社:小学館2002、(文庫版)小学館文庫2004
2003年12月19日(金) 『クリスマスのまえのばん』
2000年12月19日(火) ☆辞書を引く。
「おもちゃ文学」の現代史をいろどる名作。
アメリカとカナダ生まれで、ニューヨーク在住の女性作家による共著。 コールデコット賞のシルバーメダル(オナー賞)を受けた画家セルズニックが絵を担当。 エンピツ描きならではのぬくもりと存在感ある絵もみどころ。
『床下の小人たち』シリーズをほうふつとさせるようなストーリー展開。 主人公は、好奇心ゆたかな人形の少女アナベル・ドール。 かのアリエッティと同じくイニシャルがAで、本を読むのが好きなのも、 作家の古典への愛情だろう。 ドール(という姓)一家は、イギリスで生まれたヴィクトリアンの陶製人形。 アンティークのドールハウスに暮らし、落とせば割れてしまうし、衣裳もすべて手づくり。
そんなドールさん一家が百年もの間過ごしてきた家に、新しい一家がお目見えした。
ドール家の「お隣さん」となったプラスチック製量産ファミリー、アメリカ生まれのファンクラフト一家だ。一見するところ大ざっぱなキャラクターの人形たちとの、不慣れながらも新鮮味のある「人形関係」を軸に、アナベルとファンクラフトの娘ティファニーが友情を育み、行方不明のおばさん人形を探す冒険が始まる。
本書の着眼点でオリジナリティーを感じるのは、 人形たちの不文律というか、掟。 生きている姿を人間に見られてはならない、それはたいていの人形もので 共通の規則である。小人の家族であってもそうだった。
もし見られたら、どうなるのか。 少々のことなら、数時間や数日の「お人形状態」で済む。 ふだん人間の目が届かないところでは自由に動き回っている彼らだが、 そうなると自力では動けず、固まってしまう。
しかし、人間との決定的なニアミスがあれば、最悪の「永久お人形状態」になってしまう。つまり、それは何も感じない、「物」としての人形人生なのだ。いつか処分されて消えるまでずっと。
そしてそれ以前に、人形としての誓いについて、新しい提言が登場する。 つまり、人形は、人間の手で創られ、意識をもった瞬間に、他の仲間によって、 生きた人形として過ごすのか、それとも永久お人形状態でいるのかを決める 「宣誓」を教えられているのだ。どちらを選んでもいいのである。
もちろん、アナベルたちは宣誓をした。ファンクラフト一家だって、 アナベルたちとは違うスタイルであったけれど、自分で自分の主人になることを誓っている。
物語のピークは数十年も行方不明だったサラおばさんの救出劇だが、 人間や隣人との付き合い、友情の深め方という、人間と同じ悩みや喜びを きちんと描いた文学作品でもある。
隣人というと、『グリーンノウの魔女』に出てくる、魔女メラニー・デリア・パワーズの ようなおそろしい隣人だって、人形のなかにはいるかもしれない。 そしてもしかすると、続編に出てくるのはそんな人形なのかも。
続編の『アナベル・ドールと世界一いじのわるいお人形』が 2005年に出ているので、こちらも読みたい。 (マーズ)
『アナベル・ドールの冒険』著:アン・M・マーティン、ローラ・ゴドウィン / 絵:ブライアン・セルズニック / 訳:三原 泉 / 出版社:偕成社2003
2004年12月13日(月) 『おもいでのクリスマスツリー』
2001年12月13日(木) 『骨と沈黙』
2000年12月13日(水) 『私のしあわせ図鑑』
先日、『石のハート』(著/レナーテ・ドレスタイン)と『パイロットの妻』(著/アニータ シュリーヴ)を読み終わった。ヒロインの味わう人生の過酷さやそのシリアスで重苦しいストーリーにもかかわらず、読後は幸福な充実感に包まれた。
小説の書き出しももちろんそうだけれど、小説のラストもどう結着をつけるのか、どう決着がつくのか、読み手としても難しいと感じるところだ。
小説のラストについて、砂の詰まった頭で訥々と考えているのだけれど、その前に、何と言っても美しい最初の一行に引き込まれた本。
それは、ウイリアム・アイリッシュの『幻の女』
夜は若く、彼も若かった。
夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。 */ 引用
中高生だった私は、この一文のセンチメンタルかつ、今まで読んでいた日本の小説には感じられなかった文体の「乾き」に一気に引き込まれ、ミステリやハードボイルド(特にチャンドラーの著書)のみならず、翻訳小説そのものを深く愛するようになった。今考えれば、それは、原作の魅力だけでなく、翻訳者の功績でもあるのだが。
小説のラストの話に戻ってくると、私の中では4つの分類があって、
(1).もうちょっと先まで読みたいと思うところで終わっている。
→そして、それが成功しているパターン。
(2).もうちょっと先まで読みたいと思うところで終わっている。
→しかし、その先が書かれていないことで不満が残るパターン。
(3).もうちょっと先まで読みたい、その先が描かれている。
→その先が描かれていることで、さらに深みや魅力が加わっているパターン
(4).もうちょっと先まで読みたい、その先が描かれている。
→それが完全な蛇足となっているパターン。
私にとって、(1)のパターンの代表が『しゃばけ』(著/畠中恵)のシリーズで、それぞれの短編は収まるところに丸く収まって、できればそのうまく収まった先まで読みたいなあと思う、絶妙なタイミングで話は終わる。多分読み終わった読者の心の中で、それぞれの幸福な続編が綴られているのだろう。
(2)のパターンは、ラストに賛否両論があった『柔らかな頬』(著/桐野夏生)
確か、直木賞の選考委員の誰かが、あと何行かでラストをはっきりさせることができたのに、不親切な小説だというようなことを書いていたのを読んだ記憶がある。私自身も読み終わって、そうあと2-3行あればすっきりできるのにと、小説の主人公と同じような煩悶を味わった。それがその終わり方の狙いなのだとわかっていても。
(4)のパターンは、そのラストのあり方で今までが全部ダメになってしまうので、駄作として、結局、何の印象も残さず、作品そのものが忘れ去られている。だから、あげるべき例が思い出せない。そう考えると、たとえ不満が残っても、『柔らかな頬』は忘れられない一冊ではある。
最後に、(3)のパターン。
これも色々あるけれど、今はやはり『パイロットの妻』
物語は3部構成になっている。しかし、たとえ2章で結末を迎えても、充分完結している。もしかしたら、ここで終わった方が、インパクトは強かったかもしれない。けれど、500P弱(文庫版)の小説の中のわずか20P程度の3章があることで、読後の充実感が大きく違った。
もともと図書館で借りてきた本だったが、ちょうど文庫版が出たこともあり、本を返したその足で、この文庫本を買ってきた。もちろん、3章を読み返す。
そしてやはり、物語にも人生にも、希望は必要なのだと、そんなことを思いながら、ここに忘れないようにと、書き残している。
『パイロットの妻』をいつかちゃんと紹介したいなと思いつつ。(シィアル)
2001年12月11日(火) 『ウッドストック行最終バス』
2000年12月11日(月) ☆ ムーミンとわたし
私たちの想像の世界には、ちいさな人たちがよく暮らしています。 とりわけ子ども時代の空想には、ポケットに入るような魔法の生きものがいて、 そんな時間をいつまでも愛したまま大人になった子どもが、 『床下の小人たち』や『ちいさなちいさな王様』のような物語を 私たちに紡ぎ聞かせてくれるのだと思います。
この本に出てくる王様は、 なぜだか、十二月王二世という名前です。 偶然十二月に読めたことに感謝しました。 人さし指ぐらいの大きさですが、幅はたっぷりあって、つまりおデブさんで、 頭に王冠を乗せ、王様らしい真っ赤なローブをまとっています。
そして、「僕」の部屋の壁のなかにある部屋に住んでいて、 いつも退屈しているかと思えば、僕に、思いがけない人生というものを 理解たらしめ、くぐもった気分を吹き飛ばしてくれるのでした。
王様と僕の一番大きな見かけのちがいは、人間は生まれてから徐々に大きくなって、 最後に少し小さくなって死ぬのですが、王様たちは、最初一番大きくて、 少しずつ小さくなっていって、最後にはいつのまにか見えなくなってしまうそうです。
だから今、小さい王様の心は少年なのです。
そのころの僕は、悲しみのあまり、
夜になると、ひとりで街を歩きまわった。
そんなとき、雨が降っていたりすると妙にほっとしたものだ。
というのも、雨が降ると、通りは濡れてもっと暗くなり、
あたりの水たまりに、自分の沈んだ気分がうつっているように
感じられて、それが僕の気持ちをなぐさめてくれたからだ。
水たまりを見ると、僕はなんだかそれほどひとりぼっちでは
ないように思えた。
(引用)
王様は、そんな時期に現れたのです。 くまのグミ、ドイツでは「グミベアヒェン」というそうですが、 それが王様の大好きなお菓子。 背丈と同じぐらいのぷよぷよしたグミにかぶりつく様子がすてきです。
あるとき王様は、「絵持ち」という存在の話を僕にしてくれます。 人が一生の間に見た映像が絵になって部屋にかかっているという説明は、 まるで『めもあある美術館』を想わせて、切ないようななつかしさです。
私も王様に教えてもらったことがあります。
これからはそうすることにします。
「どうなの?」と聞かれれば、
「ばかにいい」と答えてあげるのです。
(マーズ)
『ちいさなちいさな王様』著者:アクセル・ハッケ / 絵:ミヒャエル・ゾーヴァ / 訳:那須田 淳 / 出版社:講談社1996
2002年12月09日(月) 『アタゴオルは猫の森』
2000年12月09日(土) 『ミミズクとオリーブ』
ロボットと人間の間にわきおこる感情は、しばしば「おもちゃ文学」 のなかで、魂をもつ人間とおもちゃの間にあるとされる感情にリンク しているように思える。そのどちらにおいても、外見や機能ではなく 中身が問題なのだ。ほんとうのこころ、それがあるのかどうか。 オズに出てくるブリキの木こりも、それが悩みの種だった。
『ハル』は、日本の科学者たちの夢の結晶ともいえるアトム型ロボット 誕生への道程、その後の文明衰退が、手塚治虫をめぐるあまたのキーワ ードとともに、ここ数年に実際起こったできごととタイアップさせなが ら、短編形式で描かれている。その効果は深く、そして細部まで徹底 した取材による描写には、文系の人間も酔わされる。
アニメのアトムを知っている世代にとっては、生きてきた時間をひっく るめて未来へとつながるフィクション。手塚治虫ファンにとっては いうまでもなく感情を揺さぶられる展開にちがいない。
人間のような寿命をもたない彼らは、もし人間たちが地上から消えても、 「自動巻き」(『親子ねずみの冒険』ラッセル・ホーバン著より)にな る技術を獲得している。その点でも、おもちゃとロボットには共通の 時間が流れているのではないだろうか。おもちゃが人類の過去に属するとしても、未来のロボットだって玩具としての価値が大きいのだから。
ヒューマノイド(人型ロボット)があたかも魂を宿しているように見え るというのは、石や昆虫にも感情移入ができる人間にとっては、いずれ 日常的な現象になるのかもしれない。そのうえで、ロボットたちが本当に自 由意志や個性を培っているのかどうかが知りたい―それはロボットに人 間が贈りうる、最高の愛情だと思える。相手と心を通わせ、相手を絶えず成長させたいと願うのだから。
瀬名秀明が「和製クーンツ」と呼ばれていることは知らなかったが、本書にはクーンツを2冊しか読んでいない私にもアンテナを揺らす名前が登場する。ジャーマンシェパードの地雷探知犬「アインシュタイン」と、『ぬいぐるみ団オドキンズ』。
前者は『ウォッチャーズ』のレトリバー犬と同じ名前、後者は、おもちゃたちが主人公の児童書で、最後にはおもちゃの「魂」が描かれていた。『ウォッチャーズ』といえば、『ハル』で犬の登場する章は「見護るものたち」というタイトル。クーンツへのオマージュたっぷりだ。『ウォッチャーズ』の悪役である「アウトサイダー」には、決定的で平凡な子どもとしての個性があり、感嘆した。
もともとロボットと人間の間に通い合う割り切れない感情や一方的な愛、けなげな言動に反応しやすい私だが、『ハル』の世界をくぐり抜けて、おもちゃとロボットと子ども、人間(そして創造主)との関係に思い巡らすという、さらなる探求を意欲的に始めたくなった。
「ほんものの」アトムが誕生する日、人間たちは、否、彼を生み出した科学者は、どんな感情をいだくのだろう。そのとき、『2001年宇宙の旅』とコンピュータのハルをロードショー公開で観た世代は、この地上にまだいるだろうか。(マーズ)
『ハル』著:瀬名秀明 / 文春文庫2005
2001年12月07日(金) 『ちびっこ魔女の大パーティ』
2000年12月07日(木) 『絵画で読む聖書』
”すべての母なるものへ”捧げられている。 ミステリとしての帰結はあるが、 アダルト・チルドレンへの、大人からのメッセージとも読める。
「いちばん初めにあった海」と「化石の樹」の二編から成る構成で、 読み進むうち、二つの話がくるっとつながってゆく。 それぞれの話のなかでも円環は完成し、二編が表裏一体となるかのようだ。
「いちばん−−」の主人公は、千波と麻子。 高校で出会った二人の少女は、どこか、カニグズバーグの『魔女ジェニファとわたし』を ほうふつとさせる。(麻子がジェニファなのだが) 女性どうしの友情をちゃんと描いた作品は男性どうしのそれよりも極度に少ない、というのが私の持論だが、本書はそれをちゃんと描いて見せてくれる。
物語は微妙な鎖でつながっているから、あまり詳細は書けない。 クスノキとキンモクセイ、それぞれの古木が 物語の芯に立っている。
どちらも個性的に薫る。花の季節はちがうけれど。 大きな木の下に立って、人は願いをこめる。 誰かを待つ想いを、未来への夢を。 その体内に、太古の海を宿しながら。
余談だけど、ギンモクセイとは別に、 白に近い花の咲くキンモクセイが出てくるが、その名前は 「ウスギモクセイ」というのらしい。ちょうど訪れた植物園で見かけた。
終わりのほうで、『おおきなきがほしい』(村上勉・佐藤さとる)の絵本も登場するし、 児童書好きの友人からすすめられたのも納得。(マーズ)
『いちばん初めにあった海』著:加納朋子 / 出版社:角川書店1996
2002年12月06日(金) 『はじめてのことば』
2001年12月06日(木) 『サンタ・クロースからの手紙』
2000年12月06日(水) 『ACTUS STYLEBOOK』
『平家物語』二次創作では、史実や物語本編では実現しなかった人気キャラの顔合わせも可能です。
先日、TVで歌舞伎の『船弁慶』を放映していました。
文治元年(1185)11月、兄・頼朝の追討の手を逃れ、都から西国に落ち延びようと瀬戸内海へ船出した義経一行が、折からの暴風に阻まれ漂着した──という史実から生み出された謡曲『船弁慶』をそのまま歌舞伎に写したものです。
浦々島々に打ちよせられて、互いにその行くへを知らず、忽に西の風の吹きける事も、平家の怨霊のゆゑとぞおぼえける。 『平家物語』巻第十二 判官都落
『平家物語』ではこれだけの世間の噂だったのが、後に書かれた『義経記』の中で弁慶がこの雲は平家の悪霊に違いない、と言いだして、謡曲『船弁慶』で、ついに「平家の一門雲霞の如く、波に浮みて見えたる」話が完成します。
大物浦で静と別れた義経主従が沖へ漕ぎだすと、
やがて沖に黒雲が現れ海が烈しく荒れる中、平家の亡霊達が姿を現す。
抑もこれは、桓武天皇九代の後胤、平の知盛、幽霊なり
知盛の亡霊が大薙刀を振りかざして義経を襲う。
義経は太刀で立ち向かうが相手は亡霊、
やおら弁慶巨大な数珠を押し揉み、悪霊調伏の経文を唱える。
打ちかかる知盛、祈り返す弁慶、やがてさしもの悪霊も払い除けられ、
舟は浜辺に打ち寄せられた。
弁慶、貴殿、そんな法力あったんかい!
‥‥弁慶といえば見せ場は怪力頼みのアクションや命懸けの主従愛ばかりだったので、すっかり法師だという事を忘れていましたよ。
その手があったか。
お懐かしや知盛様、『平家物語』ではあんまり怨念を持ちそうにないクールでさっぱりしたキャラの新中納言が亡霊の総大将なのは、『平家物語』にはなかった義経様と知盛様のライバル直接対決が見たい!というファンの声を反映しているのでしょうね。
猿之助の狐忠信の宙乗りで有名な歌舞伎『義経千本桜』の、二段目「渡海屋」になると、死んだと思われた知盛が身を窶して義経一行を迎え、亡霊のふりをして復讐を遂げようとするという更にひねった話になっています。
『義経千本桜』には知将・知盛の他にも美男・維盛、猛将・教経ら死んだはずの平家の人気キャラが、皆実は生き延びていて活躍します。
あんまり歴史を曲げ過ぎても困るので、全員またやられてしまいますが。
それにしても、かつて暴風雨の海をものともせず屋島に攻め入った義経が逃亡の際嵐の海に阻まれたのは、実は西国の海を統治し、西国の海に沈められた平家の怨霊のせいだ、というのは良く出来た話ですね。
本編の表面には現れていない部分の人間関係や事件を、本編の世界を崩さずより深めるように「妄想」するのはまさに二次創作のお手本。
TVで見た歌舞伎では、弁慶・中村吉右衛門、知盛・中村富十郎。
華麗な怨霊メイクの小柄な知盛が幕の後ちょこちょこと花道を出で、大薙刀を鮮やかにぐるぐるぐるぐると捌いて拍手喝采。
十二月大歌舞伎(十二月二日初日〜二十六日千秋楽・歌舞伎座)夜の部で『船弁慶』。平知盛の亡霊(静との二役)は玉三郎、船頭に勘三郎、機会のある方は是非どうぞ。(ナルシア)
謡曲『船弁慶』 作:観世小次郎信光
人形浄瑠璃・歌舞伎『義経千本桜』作:竹田出雲・三好松洛・並木千柳
2002年12月05日(木) 『チョコレート工場の秘密』
2001年12月05日(水) 『不眠症』(その2)
2000年12月05日(火) 『誰か「戦前」を知らないか』
琵琶法師によって諸国で演じられた『平家物語』は、鎌倉時代の聴き手のみならず、後の世代にとっても大きな贈り物となりました。
物語本編を楽しむばかりではなく、人気キャラクターを用いて新しい作品を生み出す楽しみも、現在放映中の大河ドラマに至るまで脈々と続いています。
源平など名のある人のことを花鳥風月に作り寄せて、
能よければ何よりもまた面白かるべし 『風姿花伝』世阿弥
共通に知られるキャラクターと背景を流用して、大きな作品世界と繋がった創作物を作り出す。室町時代に生まれた謡曲(能の歌詞)の多くは、源平説話を発展させた二次創作作品と言えます。琵琶法師の一人語りで想像するだけだったおなじみキャラクターが、能の舞台で役者の演技によって活躍する訳ですから、これはファンにとって嬉しいですよね。
特に、『平家物語』では本筋とは全く関係ない脇役なのに、江戸時代はもちろん、現代作家によっても単独で取り上げられるほど不思議な人気のあるのが、例の「鹿ヶ谷」の陰謀に加担して清盛の逆鱗に触れ、鬼界が島に流された僧・俊寛。
共に流された二人の貴族が許されて都に戻る中、ただひとり絶海の孤島に取り残され狂乱する。
僧都せん方なさに、渚にあがりたふれ臥し、をさなき者の、乳母や母なンどを慕ふやうに足摺をして、「是乗せてゆけ、具してゆけ」と、をめきさけべ共、漕行舟の習にて、跡は白波ばかり也。 『平家物語』巻第三 足摺
絶望の化身のような俊寛のエピソードは、『平家物語』の流れの中では清盛の怒りの恐ろしさを思い知らせるものでした。
室町時代に世阿弥の書いた謡曲『俊寛』は、膨大な『平家物語』のテキストの中から切り取られた情景そのままなのですが、語られる物語以上に、役者が舞台の上で演じる演技が観客の胸に悲運の男の強い印象を残したのでしょう。
続く江戸時代になるとこの切り取られた俊寛像に新解釈が展開します。
先日TVでも放映されていた歌舞伎の『俊寛』、鬼界が島にいきなり美少女キャラが登場。
一緒に流された若い貴族・成経が、島の若い海女と恋仲になると、俊寛はこの可愛いカップルを家族の様に思い、赦免された自分の代わりに彼女を成経と共に都に連れていかせるために役人を殺し、自分はただひとり孤島に残る。
うわあ、映画『カサブランカ』のボギーみたい。
誰です、こんなハードボイルドなウラ設定考えたの。
心中ドラマの巨匠、近松門左衛門です。もとは人形浄瑠璃の脚本だそうです。
以降、俊寛は惨めなだけの負け組キャラではなくなります。
美しい自然に十分な食べ物に良い女が揃えば、島の暮らしも悪くない。
現代になると、未開の地に置き去りにされ、絶望し死にかけた俊寛が、やがて大自然の中で生命力を取り戻し、健康美あふれる土人の恋人と共に、自給自足の生活に充足するという、ワイルド俊寛に大変身してしまったりしています。
これは昨今昼ドラ『真珠夫人』で復活した大衆文学の巨人、菊地寛のパワフルな俊寛。
一方、島の価値観を受け入れて淡々と暮らす冷静な俊寛は、芥川竜之介の作。
島には都のものがなんにもない、と泣く成経くんなんかほとんど、田舎暮しにはスターバックスがない、とパニくる今の都会人。
都サイドの解釈を片っ端からひっくり返し尽くす、皮肉で知的な一編です。
一体琵琶法師などと云うものは、どれもこれも我は顔に、嘘ばかりついているものなのです。が、その嘘のうまい事は、わたしでも褒めずにはいられません。(中略)たとい嘘とは云うものの、ああ云う琵琶法師の語った嘘は、きっと琥珀の中の虫のように、末代までも伝わるでしょう。 『俊寛』芥川龍之介
平安末期に島流しにあった実在の僧・俊寛が、実際は何を思いどんな生活をしたのかなど、誰も知りません。
私達が知っているのはみんな、「琥珀の中の虫のよう」な嘘。(ナルシア)
謡曲『俊寛』 作:世阿弥
人形浄瑠璃『平家女護島』二段目『俊寛』 作:近松門左衛門
『俊寛』 作:菊池寛
『俊寛』 作:芥川龍之介
(菊池・芥川の両『俊寛』は「青空文庫」http://www.aozora.gr.jp/で読めます)
どうもストーリー紹介といっても、ついつい合戦場面ばかり並べてしまったので、ここまでおつきあいくださった方は、『平家物語』は殺伐とした戦争の話、みたいな印象を持たれてしまわれたかもしれません。
大きな合戦を並べておけば歴史の流れに沿って説明しやすいという理由と、個人的にラブストーリーより戦闘シーンが好きという妙な傾向のせいでこんなふうになってしまいました。
実際には『平家物語』本編には、貴族文化が武家文化に取って代わられる最期の輝きの雅びさがあり、優美な女人にもお薦めの、美しくもの哀しい場面が多いですので、どうか敬遠されませんよう。
岩波文庫版は語り本系覚一本高野本というテキストを底本にしています。
なにしろモトが文章ではなくて語りで伝えられた文学ですから、いろいろ微妙に違うバージョンがあって、前回の、六代が斬られた所で終る本もあるそうですが、この本のラストは大原寂光院で静かに平家一門の菩提を弔う建礼門院が主人公。
ある日、後白河法皇が大原へ御幸します。
女院の住まいする庵はあまりにも侘びしく、法皇の突然の来訪に女院は呆然。
『平家』本文にはあまり下世話な噂は書かれていませんが、高倉帝が亡くなったとき、徳子を後白河法皇に入内させるという話があったのだそうです。普段自分の意見を言わない徳子が拒否したので、周りがびっくりして沙汰止みになったそうで。ちなみに大原の建礼門院、二十九歳。
でもまあ、実際にはそんな場合ではありません。
これまでの波乱の人生を語って二人涙涙です。
女院は人の一生で六道を経験した、と語ります。
地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道。
天国から地獄を全部味わった、というところでしょうか。
それで思ったのですが、宮尾登美子が女性メインの視点で平家を書こうと思ったのは、この女院の「六道の沙汰」がヒントではないでしょうか。
男性はみんな途中で死んでしまうから、平家の全てを語る事は出来ない。本編の中に次々と登場する女性達は、皆変転する運命に翻弄されながらも、男性達と違ってしっかりと生き延びています。
夫の後追い心中をしたのは絶世の美女・小宰相ただ一人、そういう事は珍しかったので物語になったのでしょうね。
建礼門院の傍らの尼は、南都の僧に仏敵として処刑された夫・重衡の菩提を弔う大納言佐・輔子。ドラマでのキャストは、今話題の中心の戸田奈穂。
やがて女院は病に伏し、念仏を唱えながら臨終を迎えます。
みな往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。
このパート、灌頂巻は仏教の儀式「灌頂」になぞらえた秘伝の曲という意味だそうです。
ここまで語り終えれば、平家一門の魂は、極楽往生を遂げる事が出来るのだと。
ですから。大雑把ではありますが、私も最後まで語らせていただきました。(ナルシア)
『平家物語(一)〜(四)』 校注:梶原正昭・山下宏明 / 岩波文庫
2003年12月01日(月) 『羊飼いとその恋人』
2000年12月01日(金) 『よくわかる広告業界』
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管理者:お天気猫や
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