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すばらしい作品には、すばらしい装丁がついてくる。 いつもそう思っているが、この本も、書店で手に取って 迷わず入手することとなった。
でも、すばらしいとわかっているし、 厚さからいっても凝縮されたものにちがいないので、 読むタイミングが大切なはず。 かくして本は1ヶ月ほど、部屋で読まれるのを待っていた。
前置きが長くなった。 ストラリスコはこの本の原題で、空想上の植物の名。 「光草」は、訳者のひらめきによって生まれた名前。 どちらも、センス・オブ・ワンダーな命名である。
いつかの時代、トルコに有名な画家がいた。 画家の年齢は若くもなく老いてもいず、 別な言い方をすれば、最も脂の乗った時代。
その時代に、画家は請われて、ある北方の太守のもとを訪れる。 太守の息子のために、部屋の壁に絵を描いてほしいと。
画家の名は、サクマット。 原因不明の病によって、部屋から出ることのできない 11歳の息子の名は、マドゥレール。
この二人がインスピレーションを与え合い、 白い壁を不思議な絵で満たしてゆく物語。
どこまでも、時間さえも紡いで。
絵が描き進むにつれて、 ページをめくる小さな風が、季節をはらみ、 生命のゆりかごをゆらす。
サクマットとマドゥレールの世界が、 私の座っているこの場所とつながって、 読み終えてもしばらく、旅は終らない。
愛情のまわりには愛情だけがあって、 きっと憎しみの回りにも同じものがあるのだろう。 そして、マドゥレールのいうように、 すべての人のうえに、時間は流れてゆく。
I have a dream house.
それは、山小屋のような一軒の家。 その家にあるはずの、暖炉の前のソファーに座って、 秋の夜、もういちどこの本を読みたい。(マーズ)
『光草-ストラリスコ-』 著者:ロベルト・ピウミーニ / 訳:長野徹 / 出版社:小峰書店
私は、「詩」が嫌いなのかもしれないと思った。 詩的なところが、この本のすばらしさなのに。 ずっと、詩は好きだと思っていたが、 それは、誤解だったのかもしれない。
とはいえ、ユニークなこの物語から、 学ぶこと、考えるところも多く、 十分に楽しむこともできた。
言語は思想であり、思想は言葉そのもの。 言葉のないところに、思考はなく、 思考がなければ、それを表すための言葉も必要ない。 言語体系の違いは、 それに属する人々(宇宙人も含め)の、 思考過程の違いをも意味している。
インベーダーの破壊活動に晒された地球(を含む "同盟" の星々)。 インベーダーの侵略の前後に残される <バベル-17>と名づけられた通信。 侵略を防ぐ鍵となる<バベル-17>の解読を命じられた 宇宙的詩人リドラ。 <バベル-17>の謎を解き、 インベーダーから"同盟"を守れるのか?
スペースオペラであると同時に、 これはミステリであり、謎解きの物語なのだ。 リドラがリドル(riddle;なぞ、判じ物)を解くのだ。 そして、リドラこそがリドル(不可解な人)。 凝りに凝って、緻密に織り上げられた物語なのだが。
けれど。
私の中では、
多くのことが、うまく像を結べない。
イマジネーションが豊かすぎて、
あまりに超越的な印象が強すぎて、
登場人物にも、<バベル-17>の謎にも、
実は、あまり興味がもてなかった。
「言語とはいったい何か。
何を意味するのか。」など、
概念的なことがずいぶん面白く語られている。
結局、<バベル-17>の謎も、
そこに帰結していくのだが。
なるほどと。
確かに、感心し、納得はできるのだが。
私は、常に人物に惹かれ、 登場人物に感情移入をすることで、 物語の世界を共に楽しむタイプなのだ。 物語を俯瞰し、 登場人物をも謎の一部として、 張り巡らされた謎を解くことに 興味のあるタイプではないのだ。
だから、リドラやその他の個性的な登場人物に 惹かれなければ、物語の楽しみは半減してしまう。 リドラと一緒に、 謎に挑むことができなかった。 ただ、リドラが解く<バベル-17>の謎、 「言葉の力」というものへの 知的な好奇心が満たされていくだけで。
「うまく像を結べない」 そういうもどかしさがつきまとっている。 ただ、このひっかかり故に、 この物語のことは、ずっと忘れないかもしれない。(シィアル)
『バベル-17』 著者:サミュエル・R・ディレーニ / 訳:岡部宏之 / 出版社:ハヤカワ文庫
オーストリアの貴族として名高いウサギ一族、 エスターハージー伯爵家の王子様、 その名も略称エスターハージー。
ウサギ一族はチョコレートやケーキ、甘いものばかり 食べてきたおかげで、先祖よりも小型化してしまっていた。 そのことに危機を感じた祖父のエスターハージー伯爵によって、 男の孫たちは全員、外国へ、 大きな体型の花嫁を求め、旅に出されたのだった。
この本を書店で手にとって、パラパラとめくったとき、 「あっ、あのウサギだ!」 と、不思議の国のアリスのごとくふるえた。 ベッドルームの大きな鏡に向かって、豹柄のだぶだぶパンツを はいたウサギがポーズをとっている。 私の持っている今年のゾーヴァのカレンダーに、 その絵があったのだ。
ずっと気になっていた。 あのウサギの背後にある物語が。
そのウサギ、エスターハージー王子の冒険の旅の記録。 30分もかからずに読めてしまう寓話だが、 彼がベルリンへお嫁さん探しに出かけたのは、1989年の春。 秋には「壁の崩壊」が待っているのである。
ベルリンで次々に見舞われる、御曹司育ちの エスターハージーの体験した苦労は、 ちょっと「ぬいぐるみ文学」に合い通じるものがある。 ぬいぐるみでなく、ウサギなので動けるし、 ウサギなのに人と話ができて、 新聞だって読めるエスターハージー。 居場所をさがして、ベルリンの街の半分で、 人間たちに翻弄される。
ウサギたちにとって、「壁」とはなんだったのか? エスターハージーは、念願の、 大きなお嫁さんを見つけられるのか? エスターハージーがしたように、 自分の種族の特技を活かせばきっと、 どんなウサギだって 幸せにたどりつけるはずだ。
さて、かくいう私たちも、ひょっとして先祖より どこかが小さくなってはいないだろうか?(マーズ)
『エスターハージー王子の冒険』文:イレーネ・ディーシェ、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー / 絵:ミヒャエル・ゾーヴァ / 共訳:那須田淳、木本栄 / 出版社:評論社
猫好き必読の書というと、 以前、 『夏への扉』や『星の海のミッキー』をあげたことがある。
今回は、猫好きのための実用の書(!) 先日、図書館で、 猫のマッサージの本を借りてきた。 今はもう、廃刊になったが、 『SINRA(シンラ)』 という雑誌で 猫のマッサージの特集をしていたことがあった。 なんだか、おもしろそうなので、 うちの猫にも施してみた。 肩(首筋)を揉んだり、 足の裏の肉球をぐりぐりともみほぐしてみたり、 やってみると、猫だけでなく飼い主の方も 結構、安らいでいくのを感じたのである。
そんなことを思い出しながら、 猫の本格的なマッサージとは?と、 手に取ってみたのだった。 あっという間に、 本の至る所に掲載された猫の写真の かわいらしさの虜となり、 すぐに家に借りて帰ったのだ。
結局、マッサージというのは、 もちろん、肉体的にもほぐしていくのだが、 おもに精神的なつながり、信頼関係を深める、 スキンシップなのだ。 お互いにとっての、「癒し」の行為なのである。 とはいえ、猫も肩が凝るのか、 首筋をほぐしてやると、 目を細め、本当に気持ちよさそうである。 まだ、試したことのない方は、 是非、試みて欲しい。
我が家にある『あなたの猫がわかる本』というのを ひさびさに開いてみた。 こちらも、可愛らしい猫の写真満載で、 それぞれの写真につけられたキャプションも 妙にお茶目で可愛らしい。 さらに。 「―飼い主のためのネコの動物行動学」 という、サブタイトルが付いているだけあって、 解説も、的確である。 猫の飼い主なら 「あるあるある」と、しょっちゅう 頷きながらページをめくることとなるだろう。
どちらも、なるほどと、納得のいく本である。
ただ、残念なことに、
両方とも手に入らないようだ。
マッサージの本は、
私も是非、家に一冊欲しかったが、
1999年の出版なのに、
もう手に入らないというのは、
ちょっと納得がいかない。
(シィアル)
・『フォックス先生の猫マッサージ』
著者: マイケル・W・フォックス / 出版社:成星出版(入手不可)
・『あなたのネコがわかる本飼い主のためのネコの動物行動学』
著者:ブル−ス・フォ−グル / 出版社:ダイヤモンド社(入手不可)
「明日、立ち退け!」
カミナリ山に住む恐竜オーザウルス一家のもとに、 唐突に舞い込んだ立ち退き命令書。
オソレ・オノノキ社の社長、ペチャンコアタマが カミナリ山を買ったので、強引に動物や鳥や虫たちを追い出し、 跡地にプラスチック遊園地を建てるというのだ。 そのあかつきには、カミナリ山という名前も オソレ・オノノキ山に変わるらしい。
オーザウルスの子ども、ジムと両親は 仲間の動物やアリたちに助けてもらって、反撃に出る。 果たして楽園カミナリ山は守られるのか? ペチャンコアタマのアタマは無事でいられるか?
悪いことを成功させるのなら、好いこともだけど、 最後まで細かいところをツメないと。 安易に自然保護を謳った本と考えるより、 いろんな見方をしたほうが楽しい。
私がこの本を買ったのは、 ラッセル・ホーバンの本を探していた というのもあったけれど、ヒョウキンなタイトルに くすっと笑ったからだ。 なんか、元気が出そうだった。
たしかに、元気が出た。(マーズ)
『あやうし、カミナリ山!』 文:ラッセル・ホーバン / 絵:クエンティン・ブレイク / 訳:東春見 / 出版社:あかね書房
有名なベッドタイムの絵本です。
シリーズになっていますが、 この『おやすみなさいフランシス』以降の 『ジャムつきパンとフランシス』 『フランシスのおともだち』 『フランシスとたんじょうび』 『フランシスのいえで』 は、画家と出版社が1作目とちがうのも特徴。
といっても、キャラクターは良く似た感じに 仕上がっているので、それほど違和感はないはず。
『おやすみなさい-』の絵の作者は、 『しろいうさぎとくろいうさぎ』や、『大草原シリーズ』の挿絵を 描いたガース・ウィリアムズ。 (2作目以降の絵は、ラッセル・ホーバンの妻である リリアン・ホーバンが描いています)
エンピツのていねいな絵は、 毛皮を着た主人公たちの質感を、 とってもリアルに描いています。 つい手でなでたくなるくらい、リアルな毛皮。 そして、なんともいえない、人間以上に人間らしい瞳の表情。
私はラッセル・ホーバンの本を探していて取り寄せたので、 手にとるまで、フランシスがアナグマの女の子だとは知らなかった(笑) うさぎの男の子だと思っていたのでした。
日本語では、おやすみなさい絵本というのでしょうか、 眠れない子どもたちに親が読み聞かせる絵本には あまりくわしくないのですが、私もこんな本を読んで もらいたかったな、と思います。
しかしなかなか、7時からベッドに入るのは、
どんないい子でも大変ですね。(マーズ)
※ラッセル・ホーバンはアメリカのペンシルバニア州生まれ。
画壇に属さず、絵を教えながら、作家・挿絵画家として活躍しています。
『おやすみなさいフランシス』 文:ラッセル・ホーバン / 絵:ガース・ウイリアムズ / 訳:まつおかきょうこ / 出版社:福音館書店
隣県の町の図書館ホールへ、
講演を聞きに行ったときのこと。
町とはいえ、なかなか充実した図書館だと聞いていたので、
あちこちの書棚をめぐって、児童書などを
チェックしていました。
児童書はたくさんありました。 新しい本に混じって、ながく愛読されてきたような 古い立派な布装丁の本もちらほら。
ゆったりした椅子で閲覧している大人たちも、 本を愛する人たちという印象でした。 床がカーペットで静かなのもいい感じです。 図書館の上にホールがあるっていうのは めずらしいのではないでしょうか。 講演だけでなく、映画なども上映しているそうです。
ふと見ると、 カウンターの横に、青いファイルばかりが ぎっしりと詰まった、大きな棚がありました。 点字絵本、と書いてあります。 深く考えずに手にとった私は、目から くもりが取れたような気がしました。
点字が打たれた、どこまでも白い上質の紙。 そこには、文字とおなじく点で打たれたイラストが ひかえめに添えられていたのです。
世界じゅうの昔ばなし。
児童文学。
動物図鑑。
植物図鑑。
旅の話。
そして、なんとマンガも!
子どもたちに人気のマンガも、 点字絵本になって並んでいたのでした。 これを読んだ子どもは、目の見える子たちと マンガの主人公の話ができます。 著作権のことなどもあるだろうし、なにしろ点で 描かれたイラストなので、そのものズバリではありません。
でも、それらの白い本はどれも つつましい美しさに満ちていて、つぎつぎと手にとって 飽かずながめてしまうのでした。
この白い紙が奏でる無数の美は、 この本を作ってくださっている ボランティアの方々にとって、 よろこびであり、道のりであり。
その他のよろこびと道のりは、 子どもたちのものです。(マーズ)
この物語のテーマとなる怪物は。 人間ならば成長によっていずれ失うはずの天使の歌声を 永遠に留めた奇跡の怪物。
数年前に『死の泉』が出版されて大評判になった時は そのハードカバーの巨大さと ナチの医療施設と人体実験という設定の禍々しさに 手を出しかねていたのですが。 実際読んでみると、前半は厳しい現実に背を向けて 名画や名曲や見事な調度に囲まれた環境で 幼い子供達を慈しむ若い母親の視点ですし、 後半はいずれ劣らぬ美形揃いの若者達の アクションシーンがメインになるので、 設定や構造の重苦しさにかかわらず 意外に軽やかなタッチで流れる様に読む事ができます。 幻想美の大家の皆川先生、年ごとに軽味が増していませんか? ヒロインがかいまみる幻影の輝かしさは格別で、 猟奇度は島田氏の『暗闇坂』に比べれば軽い軽い (比較対象の相手がキツすぎる?)。
自らの身に求めても決して得られないもの、 完全なアーリアンとしての美しい外見と美しい歌声。 美に焦がれて手段を選ばぬ医師と 彼が手に入れようとした美しい者達の図式は 『オペラ座の怪人』そのものだなあと思っていたら、 まさにミュージカルの名場面がナチス・ドイツの旧要塞の あちこちで再現されておりました。 日本の某古典ミステリでおなじみのモチーフも顔を出します。 文春ミステリベストで一位となった作品なのですが、 ミステリアス ではあるけれども特に謎はない 耽美的時代物サスペンスだよなあ、と途中まで思っていたのですが、 ちゃんとミステリにもなってましたよ。
崩壊する第三帝国と響き渡るドイツ・クラッシック、 残酷な童話と崩れた古城と地下迷宮、 選ばれた金色の髪と青い瞳、天に届くソプラノ、 恐ろしい美の長編は秋の夜長にこそふさわしい。(ナルシア)
『死の泉』 編者:皆川博子 / 出版社:ハヤカワ文庫
─ 人生でもっとも大事なことは、
昼の魂に夜の魂を引き合わせることだ ─
(本文より)
舞台はチベットのラドゥン州。 ヒマラヤのふもと、まさに聖なる場所。 中国に統治されるチベットの労働収容所を舞台に、 政治的(北京的)理由で服役中の中国人元刑事、 単(シャン)を探偵役に、 猟奇的(あるいは密教的)殺人事件の謎を追うストーリー。
単は、かつての職業能力を買われて、 収容所の仲間、チベットの僧侶から成る四〇四部隊の安全とひきかえに 上層部から捜査権を押し付けられる。 伝説の荒らぶる魔神タムディンのしわざに見せかけ、 検察官を葬ったのは誰か、その理由は。
であるが、これまた当然ながら、 実際に中国・チベットで取材して書かれた本書への 興味はそれにとどまらない。
知りたいのだ。
中国がどんな風に、あの時以来、彼らを制圧しているのか。 なにが反動的とされるのか。 壊された寺院や、僧たちは今どうしているのか。 収容所で何が行われているのか。 そして、 あの聖なる山脈の背を満たしてゆくマントラの響きに込められた、 祈りのメッセージを聞きたいのだ。 後半では現在と過去のポタラ宮殿も描写される。
ミステリとしてアメリカ探偵作家クラブ賞・最優秀処女長編賞を 受けた本書は、ストーリーテリングや謎解きの醍醐味も当然のことだが、 チベットと中国の闇を舞台に、 ミステリという形式の影へ、ごく自然に埋め込まれた 「夜の魂」の魅力が、本書の何よりの輝きだと思う。 それを期待して読む読者に、 報いてくれる本である。
最後になってしまったが、主人公である単の
繊細でストイックな人生観は、彼が経験してきた国家の裏切りや
家族との別離、奪われた仕事と自由=人生のすべて、
と言い換えてもいいが──そういった試練に、
本質的には影響されていない。
単本人は、そんな風には考えないだろうけれど、
だから魅力的なのだ。
もういちど、単に会ってみたいと思わせるゆえんである。(マーズ)
※第2作は『Water Touching Stone』(2001年英語版出版)
『頭蓋骨のマントラ』(上・下) 著者:エリオット・パティスン / 訳:三川基好 / 出版社:ハヤカワ文庫
ハロウィーンが近いので、猫やは吸血鬼の本を探しています。 ところが。 結構バケモノ好きなはずの私は、 美青年が登場するロマンティックな話が苦手なので 吸血鬼ものは守備範囲ではありません。 という訳で別のバケモノ本捜索中。
私の好みの化物はさておいて、澁澤龍彦先生好みの怪物ならこちら。 古今東西の詩人が産んだ化物を次々と私達の前に蘇らせた 澁澤先生の偏愛するフリークスの原典の断章アンソロジー、 おなじみプリニウスの『博物誌』に実在すると記載されている生物や 西行法師が死者の骨を集めて作った出来損ない、 そんな見るからに化け化けしい怪物から 外見からは判らないけれど逸脱した存在としての性的倒錯者や娼婦、 女性は怪物だとアリストテレスが論理にのっとって説明しているし、 醜いもの美しいもの忌まわしいものから聖なるものまで、 最後に到達するバケモノは天使。 でもピコ・デラ・ミランドラの言葉だと 人間一般が最も変化の幅があるのだから、 私達は怪物中の怪物、キング・オブ・バケモノである事を 誇りに思いましょう。(ナルシア)
『天使から怪物まで』 編者:澁澤龍彦 / 出版社:河出文庫
民子が忘れられない。
そんなふうに、作家浅田次郎は書き出している。
作家の不遇の時代にひっそりと寄り添った民子。
日々の喧噪の中にふと、その面影をかいま見た人々もいた事であろう。
そしていつか私達の間から姿を消した民子。
民子は。
TVCMで紹介された猫であった。
ペットフード会社が猫大好きな作家浅田次郎氏に依頼した小文から 生まれた名作CMが、フォト絵本風に再現されました。 私には少々情緒過多すぎて、滅多に浅田作品は読まないのですが、 書店の店頭で『民子』をぺらぺらめくっていって 最後に原作となった浅田氏の原稿を見て感動しました。 400字詰め原稿用紙一枚ぴったり。 この分量で作家のかけがえのない思い出の中の一匹の猫が 大勢の人々の心に蘇ったのです。 そして民子はこんな手書きの原稿を読んでいたのでした。 あ、400字越えてしまった。(ナルシア)
『民子』 著者:浅田次郎 / 出版社:角川書店
私のコレクションしている数少ないジャンルに、 「おもちゃ文学」というのがある。 文字通り、おもちゃたちが主人公となって 繰りひろげられる(なぜか移動が多い)世界である。
この絵本は、ジェイムズ・スティーブンソン原作の 『The Night After Christmas』という絵本をベースにリメイクした 人気アニメーション『テディ&アニー』の絵本化。 (えらいややこしいのだが、結果として絵本は2種類あるわけだ) 絵柄は原作とよく似ている。
第1話の本書は、『The Forgotten Toys』(忘れられたおもちゃ)。 シリーズとして続いていて、現在6話まで出ている。 日本では、1999年末からNHK(BS2)で放映された。
またかと思われそうだが、 ティム・バートンがハロウィーンを描いた人形アニメ映画、 『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』とタイトルが通じていて、 個人的には興味深い。 同じくサンタも出てくるし…。
本当に子ども向けの絵本なので、 おもちゃ文学というより「おもちゃ絵本」だが、 主人公はくまのぬいぐるみ「テディ」と女の子の人形「アニー」。 テディはちょっと、くまのプーさんに似ているかな。
クリスマスの次の日、子どもに飽きられて 捨てられてしまったテディとアニーは、 雪の降る街をさまよい、新しい居場所を探そうとする。
普通のおもちゃ文学とちがって、彼らは 食べたり自力で動いたりできるので、 簡単でもあり、それが苦労でもあり。
アニメは未見なのでなんともいえないが、 絵本がつぎつぎ出ているということは、 日本の子どもたちにも人気があるのだろう。(マーズ)
『テディとアニー』 文:ノーマン・レッドファーン / 絵:ポール・シャルドロー&グレアム・ラルフ / 訳:井辻朱美 / 出版社:河出書房新社
はじまりから終わりまで、 ハロウィーンの魔法づくしのファンタジー。 世界中のハロウィーンと死者の国へ 旅をすることができるなら?
謎の怪人マウンドシュラウドに導かれ、 不気味なカボチャランタンが実る ハロウィーンツリーに送られて、 少年たちは旅に出る。
少年たちにだけしか、許されない旅へ。
ハロウィーンの夜に。
世界じゅうのハロウィーンへ、 時のかなたのハロウィーンへ。 このすばらしい夜に、なぜか突然消えてしまった、 気のいい一人の少年を捜しに。
ジェットコースターのように、上から下へ。 無限から有限へ。 回転する地球の風に乗って、 過去から過去へ、未知なる世界へ。
ハロウィーンの起源といわれる、ドルイドの祭り。 エジプトの死者たち。 メキシコの、骸骨まつり。
息もつかせぬ展開は、 ティム・バートンの 『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』を 思い起こさせる。
ブラッドベリの巻き起こす風は、 さながら読むアニメーション! 満月がのぼったら、 ハロウィーンが、ほら、もうそこで 笑っている。(マーズ)
『ハロウィーンがやってきた』著者:レイ・ブラッドベリ / 訳:伊藤典夫 / 出版社:晶文社
☆ファラダの半端じゃない奇天烈メルヘンの世界。
ハンス・ファラダのメルヘンは、 とにかく、半端ではなかった。
徹底的に小狡いねずみ。
とことんせこい悪魔。
何が何でも隠れなければ気が済まない少年。
どうしようもなく不明瞭にしゃべる少年。
果てしなく普通ではないあべこべの世界。
どれもこれもが、既成概念の枠を軽々と越えている。
これでもか、これでもかとばかりに奇妙で、 不思議に魅力的な、愛すべきファラダの世界。 ファラダの尽きることのない 自由な想像力には、心底驚かされる。
たとえば。 『あべこべの日』では、 タイトル通りすべてのものがあべこべになる。 あべこべになるとはいっても、 やはりそのあべこべぶりがフツーじゃない。 フツーじゃないから、あべこべの日なんだけれど。 けれどそれでも、ここまで「フツー」のタガを はずせるというのはすごい。
あべこべの日になると、 白馬は御者台に座って鞭をふるっています。 お父さんは、今まさに馬車に繋がれようとしているし、 馬車のパリッチュ伯母さんは後尾灯として ぶら下げられています。 猫のミーツィは、スプーンの代わりに引き出しにしまわれて、 銀のスプーンはミーツィの寝間着を着て猫のベッドで寝ています。(引用)
けれどこんなに奇妙なのに、 読み終わってみれば、正統派のメルヘン。 そういう印象が残るのはなぜだろう。 この奇妙さは、不条理の手前まで来ているのに、 どれもこれもが見事に、ハッピーエンドにおさまり、 ほのぼのとする。 それは、きっと、ファラダの市井の人々への まなざしがあたたかいからなのだろうと思う。
ファラダの人生は、少なくともその半生は、 決して、恵まれたものとは言えない。 人生を踏みはずしかけた彼を、引き戻し支えた理解者がいたので、 作家としてのファラダが誕生する。 とはいえ、その後も心身共にすり切れるほどの苦労が続くが、 その苦労もなかなか認められない。 けれど、その不遇の時代、恵まれない日々の生活が ファラダの弱き者へのあたたかいまなざしを育てたのだろう。 どの物語にも、 貧しき者、弱き者、小さき者への やさしさ、慈しみの心があふれている。
無限のイマジネーションで 登場する人物や設定は奇天烈だが、 すべてのストーリーの芯にあるものは「愛情」だ。 だから、どんなに突拍子もない物語でも 読む者の心をあたためるのだろう。 おもしろおかしく、あたたかな物語の数々。 ファラダの世界には、広々としたのびやかさを感じる。(シィアル)
『あべこべの日』 著者:ハンス・ファラダ / 出版社:ハヤカワ文庫(絶版)
→ ※ 古書から探す 古書検索サーチエンジン スーパー源氏
追記;私もネット上の古本屋さんから、1000円近く出して買いました。
決して安いとは思いませんが、この本が読めてよかったと思っています。
といいながら、原作はまだ読んでいない。 英国で20人に1人が読んだというベストセラーなのだから、 読み応えのある作品にはちがいないだろう。 本格的な文学作品で、今秋、邦訳も出ている。 だから、ここでは映画についてだけ言いたい放題。 (ときどき、こういう日もある)
傷付き、涙でうるんだ上目づかいの瞳。 「俺ぁどうしてこんなことに…」 打ちのめされた猫背の歩き方をさせれば天下一品。 出る映画出る映画、ジャンルに合わせて 「そういう人」になってしまう役者といえば、 ニコラス・ケイジ。
舞台となったギリシアのケファロニア島。 イタリア軍の行進のはしっこに登場したと思ったら、 開口一番、「2時の方向に美女発見!!」と叫ぶ。 ニコラス・ケイジ隊長である。
本人は音楽の才能がないと謙遜しているらしいが、 このために猛練習したというマンドリンはいっぱしのもの、 指先から奏でられるのは、とぼけたジョークとは裏腹に 涙を誘う繊細な雅歌。 さすがのプレイボーイ、ニコラス・ケイジである。
ちょこんと被った兵隊帽を取ればやっぱり額が薄くて、 それもやっぱりセクシーな、 要するに、これはニコラス・ケイジの映画である。
なつかしい顔にも会える。 『エイリアン』でまっ先に寄生された乗員役のジョン・ハート。 (エレファント・マンでもおなじみ) ヒロイン、ペラギアの父親の医者役で、 ひたすら動じず渋く決めている。
ペラギアの幼なじみで、 コレリ大尉の恋敵になる漁師の青年マンドラスは 『太陽の帝国』で主役の少年を演じたクリスチャン・ベール。 その母親役で、強烈に脇を固めるギリシャ人女優イレーネ・パパス。
コレリ大尉と恋をするヒロインは、LUXの黒髪CMでおなじみの ハリウッドスター、ペネロペ・クルス。 彼女の家がコレリ大尉の宿舎になるのだから、 親しくなるなというほうが無理。 個人的に少し消化不良だったのは、彼女の描き方。 もう少し深入りして欲しかったところもある。 友人との関係や、医者をめざす田舎のインテリ娘なのに、 勉強しているところは見たことが無いとか。 …そんなことも思うのだが、そこはそれ、 ニコラス・ケイジの映画なのだから。 原作ではそのあたりの掘り下げも深いのだろう。
そして映画の後半、場面は一転する。 耳に突き刺さるような爆撃の鋭い金属音。 牧歌的な前半とは対称的に、戦争の悲劇と大地の怒り(大地震)が、 情け容赦なく、ギリシア・イタリア・ドイツの民族を、 風光明媚な地中海の島を引き裂いてゆく。
ムッソリーニの亡き後、イタリアは連合国に降伏。 イタリア軍の武器が、もしパルチザンに渡ったら? それを怖れた同盟国ヒトラー・ドイツとの戦闘で 生き残った兵士は、わずか34人。 ギリシャに駐留した9,000人のイタリア軍のうち、 たった34人だった。 コレリ大尉のように、それまでの生活で 銃を持ったこともないような兵士たちが経験した地獄。
この映画の撮影はすべてケファロニア島で行われた。 戦争が残した傷や影を、映画に重ね見るうちに、 音楽を愛し、人生を楽しんでいたコレリ大尉も変わってゆく。 一触即発の平和が放つもろい輝き、犠牲のうえに成り立つ自由、 歴史が繰りかえしてきた悪意を、今の現実と絡め、 私たちは暗い側でただ眼を見張り、密かにたじろぐ。
あれやこれや考えると、やはり原作が読みたくなった。 映画を観たあとウェブサイトに行って、マンドリンを弾いてみた。
なお、早目に行けば、ロードショー会場には 『コレリ大尉のマンドリンハンドブック』なる フリーペーパーが置いてあるので、 実話にもとづいたこの島での戦争悲劇の詳細や、 映画の逸話が読める。(マーズ)
(映画)『コレリ大尉のマンドリン』2001年 監督/ジョン・マッデン
(原作)『コレリ大尉のマンドリン』 著者:ルイ・ド・ベルニエール / 出版社:東京創元社
メリングの本はこれで4冊目になる。 (『妖精王の月』『ドルイドの歌』『歌う石』) 現実のアイルランドと妖精の住まうアイルランドが 違和感なく、一続きの世界として、目の前に現れる。 本を読んでいる間中、私のそばで、 美しく、この上もなく残酷な妖精たちが ずっと、物語の成り行きをうかがっている。 そんな風な空想がいとも簡単にできてしまう。 −リアルな夢想。
ケルトの神話。妖精の物語。 それらが、今、この現実の世界に複雑に重なり合い、 さらに壮大で美しい物語へと、 メリングの手によって見事に紡がれていく。
私がメリングの物語を好きな理由は、 いろいろとあるが、 ファンタジーとしての魅力だけはでなく、 だいたいにおいて、 そこには、等身大の現実の少女が描かれているからだ。 物語の中の彼女たちがそれぞれに傷つき、 苦しい旅(それは精神的にも)をしながらも、 精一杯に恋をし、その恋と共に成長していく姿が そこにあるからだ。
『夏の王』は、 物語としては独立しているが、 『妖精王の月』の後日譚ともいえるので、 『妖精王の月』から読むと、物語が深まり、 眼前に現れる世界をより楽しむことができるだろう。 (たとえ一瞬でも、かつての仲間たちと再会できる喜び!) しかし、続編というわけではないから、 もちろん独立した魅力がある。
世界は光と影とで織り上げられている。 影のない昼はなく、真に暗闇の夜もない。 人の世界も、妖精や神々の住まう世界もまた同じく、 踏み込むことも、触れることすらも、ためらう闇の領域がある。
主人公ローレルは、 事故死した妹オナーのために、 妖精国とこの世を救うための旅に出る。 その旅は、心の中の悲しみ、苦しみをたどり続ける旅。 悔やんでも、悔やみきれない。悔悟の果て。 妖精国への憧れのために、命を落とした妹。 ローレルは、その妹の魂を救うためにも、 『夏の王』を見つけなければならない。
物語に描かれた、光と影。 光がまばゆければまばゆいほどに 影は色濃く、重苦しくありながらも、 弱い心をあらがいようもなく力強く引きつけている。 そういう心の闇が『夏の王』では、 くっきりと描かれているように思う。 ローレルと共に旅する少年、イアン。 彼の姿に、そういう負のエネルギーを感じた。
妖精達の美しさや狡猾さ。
ローレルの苦悩。
さけられない戦。
喜びと悲しみ。
失うために得るのか、
得るために失い続けるのか。
憎しみからの解放。
いろんな思いがくるくると、
読後も頭の中、心の中を駆けめぐる。
そして、
最近とみに、ロマンス至上主義者となりつつある、
私の中に残った、思いのかけら。
− 世界は悲しみだけではなく、
甘美なロマンスからも成り立っている −
そんなことを思いながら、
美しい物語『夏の王』を閉じることにしよう。
(シィアル)
『夏の王』著者:O・R・メリング / 訳:井辻朱美 / 出版社:講談社
そもそもの発端は、ネットで検索していて、 「癒し系のおすすめSF」という掲示板に 行き当たったことだった。
私は、宇宙ものはあまり読まない。 SFであろうが、ファンタジーであろうが。 考えてみれば、乱読ではあるが、 その割に、読んだSFは確かに少ない。 SF映画は好きなのに、 我ながら、不思議である。
久々に、 『アトムの子ら』 『星を継ぐもの』 これらを読み終わって、 SFのおもしろさを再確認したのだろうか。
そんなところに、件の掲示板がHitしたのだった。 無数にあがった、書名はなじみのものもあれば、 初めて聞くものもあった。 名作から、最近の佳作まで。 本をたくさん読んでいるつもりでも、 全然追いつかないほどに、 本って、たくさんあるんだなあ。 と、当然のことながら、心底感心してしまった。 匿名の大勢の人たちが、 持ち寄った、とっておきの本の山。 宝の山といってもいいのかもしれない。 さあ、これから何を読もうか。 そういう時の、いいとっかかりになった。 何冊か読んでいるが、 確かに、いいラインナップだと、私も思う。 ただ残念なことに、 すでに品切れの本も多いのだが。 → (参考)☆SFの佳品リスト
書店の棚からは本が溢れているのに、 書棚から消えていく、名作の数々。 「悪本は良本を駆逐する」と、 有名な言葉を借りて現状を憂う。(シィアル)
→ 復刊ドットコム
http://www.fukkan.com/
現代アメリカの麻薬戦争を多面的に描いた映画、 『トラフィック』の脚本が文庫になった。 巻末に若手脚本家ギャガンとソダーバーグ監督の 対談もついていて、それを読むために買う。
映画自体は今年の5月に観た。 脚本がすばらしかったのでぜひ観て欲しいと 信頼のおける知人にすすめられたのがきっかけ。
予告編では、緊迫した場面が小気味よく続くアクション大作 というイメージだった。 実際に映画を観て、売るための予告編とはいえ、まったく ちがう切り口の作品だったのに驚く。
『トラフィック』は第73回の2001年アカデミー賞では 監督賞、助演男優賞(ベニチオ・デル・トロ)、脚色賞、編集賞を 受賞している。
監督のソダーバーグは、『セックスと嘘とビデオテープ』で カンヌ国際映画祭グランプリデビューを飾り、 近作『エリン・ブロコビッチ』が『トラフィック』と ともにアカデミー賞でダブルノミネートされている。
麻薬を供給するメキシコ側、追う側、持ち込まれる側。 3つの場面で画面のトーンを変え、同時進行してラストに収束する アイデアと脚本の秀逸さ。 麻薬戦争の本音を描いた傑作と評価された反面、 同じその脚本が物議をかもしている映画でもある。
脚本を書いたギャガン自身が、麻薬体験に苦しんだという。 麻薬によって社会が崩壊する前に、家族が崩壊してゆくという アメリカの日常描写に役立っているらしい。
私が興味深く感じたのは、麻薬を売りさばくサラサール将軍や 娘が麻薬中毒の全米麻薬対策本部長、 麻薬と闘うメキシコ人の刑事ハビエールや二人組みの刑事など、 ステレオタイプな人物像でありながら、 観客を飽きさせない点。 改めて、小手先の洒脱さよりも、 ステレオタイプ強し、との思いに打たれた。 膨大な資料をもとに、圧縮され、削ぎ落とされたという脚本は、 ギャガンが語るように、確かに断片のすべてが全体を 象徴している。
製作側の裏話では、善人として出てきたハビエール刑事は、 当初の予定では悪人だったという。 若いハビエールが、これから一生善人でいられるのかどうか、 そのあたりの不確実性はあるのだが、もし悪人として 登場したら、彼の魅力は半減しただろう。 なんといっても、多くの人が感情移入してしまうのは ハビエールだろうから。
エンディングに向けて、ひろがる風呂敷のゆくえは。 この戦争に勝つのは誰か?麻薬コネクションの解明は?
映画を観たあと、脚本を読みたくなる人が多いからこそ、 この文庫本が今ここにある。(マーズ)
『トラフィック』 著者:スティーブン・ギャガン / 訳:富永和子 / 出版社:新潮文庫2001
―「癒し系」のSF?
ある掲示板で取り上げられていたタイトルから、 翻訳物を取り上げ、調べてみました。(→ 本文は10月9日火曜日)
『ラモックス―ザ・スタービースト』
ロバート・ハインライン
東京創元社 (1987-11-13出版)
『歌う船』
東京創元社 (1984/01出版)
アン・マカフリ
『軌道通信』
ジョン・バーンズ
早川書房 (1996-04-30出版)
『銀色の恋人』
タニス・リー
早川書房 (1987-07-31出版)
『ヴァーチャル・ガール』
エイミー・トムソン
早川書房 (1994-10-15出版)
『星の海のミッキー』
ヴォンダ・N・マッキンタイア
早川書房 (1989-12-15出版)
『中継ステ−ション』
クリフォ−ド・D・シマック
早川書房 (1977/10出版)
『地球人のお荷物』
ポ−ル・アンダースン;ゴ−ドン・R・ディクソン
早川書房 (1994/03出版)
『残像』
ジョン・ヴァーリー
早川書房 (1995/09出版)
『一角獣をさがせ!』
マイク・レズニック
早川書房 (1990-12-31出版)
『タイムスケープ』
グレゴリイ・ベンフォード
早川書房 (1988-06-30出版)
『竜の歌い手』
アン・マキャフリイ
早川書房 (1988-12-31出版)
『竜の卵』
ロバ−ト・L・フォワ−ド
早川書房 (1982/06出版)
『ロシュワールド』
ロバ−ト・L・フォワ−ド
早川書房 (1985/08出版)
『小鬼の居留地』
クリフォ−ド・D・シマック
早川書房 (1977/03出版)
『たんぽぽのお酒』
レイ・ブラッドベリ
晶文社 (1997-08-05出版)
『バベル-17』
サミュエル・R・ディレイニー
早川書房 (1977/07/08出版)
『イルカの島』
アーサー・C・クラーク
東京創元社 (1994-02-18出版)
『ベティアンよ帰れ』
クリス・ネヴィル
早川書房 (1980/12出版)
『槍作りのラン』
クリス・ネヴィル
早川書房 (1975/11出版)
霧のむこうに、なつかしい町がある。
知る人は知っているけれど、そんなにメジャーな作品では ないというのが、この本の位置付けだったと思う。 今では一躍記録を塗りかえたアニメ映画の影響もあって、 初めて手に取る人も多いようだ。
この本が、あの『千と千尋の神隠し』にインスピレーションを 与えた本だったとは、本当におどろきだった。 霧のむこうのふしぎな町は、私たち猫やの3人にとって とても、なつかしい町だから。
私たちが、いなかの高校生だったころ。 シィアルが文芸部をやっていた関係で、美術部の私や 絵の描けるナルシアたちが、やや強引な勧誘にあった。 文化祭の演目に、シィアルが選んできた本の紙芝居を つくろうではないか、というのである。
それまでの文芸部は、むずかしい文学的な活動しか していなかったが、一般の人に喜んでもらえるものを つくりたかったのだと思う。 (すでに猫やの原型がそこにあったのかも)
文化祭までけっこうタイトなスケジュールで、 苦労の末にできた本編とパンフレットを用意して、 教室をひとつもらった我々は、 カフェみたいな紙芝居小屋をつくった。 お客さんは、主に小さい人たち─子ども。 どうやって上演したものか、今ではそれこそ霧のなか。 机の前に座っている写真があるので、わたし自身も上演 したらしいのだが。 惜しむらくは、紙芝居そのものも、手もとには残っていない。
不思議な町へ行く主人公は、リナちゃん。 今でも私たちにとっては、くりっとした瞳の、 肩より少しのびた茶色い髪の女の子。 「リナちゃん、サーファーカットだね」なんていいながら。 手分けして何人もでつくるわりに、 キャラクターはわりとすんなり決まったのをおぼえている。
不思議な町には、ピコットばあさんやナータ、イッちゃん、 猫のジェントルマンやジョンなどなど、 世界中の寄せ集めかと思うような、いろんな無国籍キャラが あたりまえのように暮らしている。 だからこそ、不思議と呼べるのだろう。
そして、不思議の町ではなぜかいつも、お菓子やパンの おいしい食べもののにおいがしていて。 そんな色合いを、紙芝居のなかに入れるのが 楽しくもあり、できあがった作品は、とてもほのぼのと 明るい色調だったことが、仲間意識とともに、 忘れられない理由のひとつなのかも。
洗練された和製ファンタジーがまだほとんどなかった頃、 散歩がてらに歩いていけそうな不思議の町に、 あったかい思い出をもらった人がたくさんいた。 そのなかのひとりが宮崎駿監督だった。 彼は、不思議の町で、どんなリナちゃんに出会ったのか。 きっと、千尋みたいな子だったのだろう。(マーズ)
『霧のむこうのふしぎな町』 著者:柏葉幸子 / 出版社:講談社(青い鳥文庫)
知識欲、とは言っても、雑学本のたぐいであるが。 「学校では教えない」というサブタイトルの付いた 地理の雑学ネタの本である。 それでも、手軽に楽しめ、ちょっと物知りになったような、 得した気分になれるから、たまにはいいかもしれない。
最初から最後まで、きっちり、じっくり読むよりは、 目次をざっと見渡し、ページをぱらぱらとめくり、 気になるページを開く。 よく知っているようで知らなかった憧れの国を いつもと違う角度から、ちらりと眺めてみる。 あるいは、全く興味を持ったことのなかった国々の、 思いも寄らなかったユニークな一面。 傍らに地図があれば、地図を開きながら、 ちょっとした、世界旅行を楽しんだりもできる。 教科書はもちろん、 旅行ガイドにも載っていないような「もうひとつの顔」。
随分前にニュース番組で、中国のある街を取り上げていた。 そこでは、秋(ちょうど今頃)になると、 海から川への大逆流が起こり、 波がクロスするというスペクタルな現象が起きるそうだ。 毎年、中国各地から見物人が集まり、 例年、大混乱の見物人の何人かが、 川やら海やらに落っこちるという事故も多いというような報道。 杭州地方ということしか覚えていなかったが、 そのことも取り上げられていた。 杭州湾の河口・銭塘江のことであった。
→ 参考サイト
杭州市旅游局公式サイト
http://www.xitong.net/hztour/top.html
(2001年9.10.11月の銭塘江逆流日程、掲載)
満月の日、海から大逆流が起こる川とは?
『世界地図の楽しい読み方<2>』
もちろん、雑学本なので、 おもしろおかしく脚色され、 当然学術的というよりは、表層的な書き方である。 それでも、知的好奇心もちょっぴり満たされるし、 世界の多様性に触れることもできる。 ほんとうに、世界はいろいろなのだ。 ひとくくりにはできないし、してはいけない。 そんな大仰なことを考える必要はもちろんなくて、 ただ、ふんふんと、感心しながら ページをめくり楽しむライトな本。
・南極大陸はいったい誰のもの?
・ヒマラヤ奥地の知られざる王国はなぜ消えた?
・スペインの南端の岩山にイギリスがサルを増やし続けるわけ
・中国の重慶にはレモンジュースの雨が降る?!
・ヨーロッパに降る赤い雪の秘密とは?(引用)
(シィアル)
『学校では教えない 世界地図の楽しい読み方』 編集:ロムインターナショナル / 出版社:河出書房新社(文庫と大型本あり)
8月のある日、ふと。 同じ頃に読んだ2冊の本の内容を 全く覚えていないことに気がついた。 それらの本を読んだのは、随分と前のことにはなる。 季節やその時の状況、相前後して読んだ本のこと、 それらは覚えていたのに、 『アトムの子ら』と『星を継ぐもの』については、 皆目覚えていない。 再読はめったにしないのだが、 何ページめくっても、いっこうに思い出してこないので、 結局、2冊とも最後まで読み通してしまった。
どうして忘れてしまったのだろう。 そう首を傾げたくなるほど、 どちらも忘れるにはもったいない本であった。
『星を継ぐもの』は、これ1冊でも物語は完結しているが、 これ以降2冊『ガニメデのやさしい巨人』『巨人たちの星』と続く。 人によっては、蛇足のように思う人もいるかもしれないが、 私はどれも、秀作だと思う。 (さらには、『内なる宇宙』という同じ主人公が 登場する物語へと続いているらしい。※未読)
・『星を継ぐもの』
私たちはいったいどこから来たのだろう?
ジャンルはSFであるが、
人類の出自を問う壮大なミステリということができる。
・『ガニメデの優しい巨人』
『星を継ぐもの』では、人類の出自の答えは明かされるのだが、
それでは、いったい"彼ら"はどこへ行ったのか?
前作で提示される"彼ら"と人類の物語。
・『巨人たちの星』
3冊の中で一番、派手ではらはらするエンターティメント(?)な物語。
その分、精神性は薄いが、"人間"という生き物の愚かさに
頭を抱えたくなる。
どちらかというと、ミステリ読みで、 あまりSFは読んでこなかった。 ハインラインを少し読んだくらいで。 けれど、これらの本以降、SFのおもしろさに触れ、 SFの名作を読み始めた。 たとえば、ジェイムズ・ティプトリ−・ジュニアやマッキンタイアである。 とても、新鮮である。(シィアル)
『星を継ぐもの』 著者:ジェームズ・P・ホ−ガン / 訳:池 央耿 / 出版社:創元推理文庫1980
コーネル大学の教授で心理学博士が伝授する、 パワー・スリープの理想と現実。
理想の睡眠スタイルを身につけて習慣にすれば、 人生が変わりますよ、という指南書だ。
睡眠生理学や眠りの研究は、けっこう新しい学問で、 眠っているあいだ何が起こっているのか、 ほんとうのところ、まだまだ謎は多いらしい。 毎日とりあえず「死んで」「生き返る」を 繰り返しているというのは、考えれば重いことである。 よりよく生きることは人生のテーマになっても、 よりよく死ぬ(眠る)というのは、どうもマイナスイメージがある。 すぐにあやしい世界に行ってしまいそうで。
しかし、この本を読み終えれば、 どんなにすばらしい生き方も、根底にある「正しい眠り」なしには なしえないこと、起こりえないことだと納得するだろう。
自分にとって定められた最適の睡眠時間を割り出すことすら 不規則なこの生活ではむずかしいが、 この心強い本を読んでひとつ、いやふたつ、 わかったことがある。
その一。 ひばり型とふくろう型、つまり朝型と夜型。 この類型は生まれつきの遺伝によるもので、 決して生涯変わらないのだそうだ。 変更できないプログラム済み。 そして、わたしはやっぱり、夜型なのだから 朝早く起きる仕事なんかできない。 その分、夜はたらく。 ひばりが高いびきをかいて畑を舞う夢を見ているあいだ、 ふくろうは月光を浴びて木の上から仕事をするのだ。 これは損も得もなくそういうものなわけで、 ひばりをうらやむ必要はないということである。 朝日が見られないからといってなんであろう。 夕陽のすばらしさを知っているではないか。 そして結婚相手には、ひばりを選んではいけない(笑) (睡眠障害も覚悟の上なら別だ。) ただし、ふくろうも年を取ると少しはヒバリ型に 近寄るらしいが。
そのニ。 20分程度の昼寝は、サボリではない。 毎日眠っていいのだ。 むしろ、毎日眠ったほうがいいのだ。 だれにも、なんの気がねもいらない!(マーズ)
『快眠力』 著者:ジェームズ・M・マース / 出版社:三笠書房
20世紀末を飾る人類の最も偉大なる発見の一つ、 それは「老人力」の発見であろう。 人類のみならず万物全ての発展の果てに必ず出現する 謎の新エネルギー「老人力」、 本書は発見直後世間を震撼させ瞬く間に認知された 「老人力」の最前線での研究報告書として ベストセラーとなった二冊の新書を文庫としてまとめたものである。 ‥‥いや、いつもの赤瀬川さんのエッセイですってば。
「老人力」が流行語として世間を席巻してから数年が経ちました。 当時(1997年)南伸坊さんと藤森昭信さんが このごろ物忘れをするようになった 長老・赤瀬川さんを「ボケた」と言わず 「老人力がついた」と表現する事にしたという話を あちこちで読んで学生時代からの「路上観察学会」ファンの私も なるほど!と大笑いしていたのですが、 それはやっぱり分る人の内輪受けだけで まさかそんな洒落がその後あれほどの社会現象を巻き起こすとは 当の御当人達も読者も思いもよらなかった事でした。
経済成長の坂道を息も付かず駆け上がった末 バブルの崩壊で人生も世の中も永遠に上り調子では 終らないんだと悟った時、 人々は「力を抜く」という事の重要性、というか 嫌が応でも「力が脱ける」という事の意味あい、 言葉を変えると「老い」というものの訪れを 肌で感じ取ったのでありました。 そして一瞬焦ったものの、結局のところ 「老い」「衰え」という事象が恐ろしい事、忌むべき事とされるのは 思い込みの問題なんじゃないか?と言う発想の 「老人力」という言葉の明るい気楽さに光明を得たのです。
しかしそれまで頑張り続けてきた元社会人の多くは このパラダイム・シフトが理解できず 「老人力」を「まだまだ若い者には負けやせん」という 同位相の「老人パワー」と間違えていて それが一層時代の言葉としての流行と混乱に拍車をかけました。 一方、素直に老いを感じている人々、私のような若隠居体質者、 それにおそらく今どきのワカモノのように ぱりぱりに頑張る事に価値を置かない者達には すうっと意味が通り楽しめる言葉だったのです。
世の中のひと休み感覚が終り、そろそろ今度は 「また熱血してみるか!」という雰囲気が戻って来たところに 文明社会は長らく忘れていた感情「恐怖」に張り倒されました。 それに対する反応は武力による「報復」? お待ちなされ、米国、おぬしやはり若いのう。 もっと長い目で見なされ、まだまだ老人力が足りぬわ。 ふぉっふぉっふぉっふぉ、、、、、(ナルシア)
『老人力』 著者:赤瀬川原平 / 出版社:ちくま文庫
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管理者:お天気猫や
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