無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
2005年08月19日(金) |
映画が「見られる」ことの意味/水野晴郎トーク・ショー&映画『シベリア超特急5』 |
三島由紀夫がかつて製作・脚本・監督・主演を務めた短編映画『憂國』(1966/実際上の監督は劇作家の堂本正樹だったそうだ)のネガフィルムが、東京・大田区の三島邸で発見され、DVD化されることが決まったというニュース。 ちょっと映画やミシマに詳しい人ならこの映画の存在は有名で、その内容に嫌悪感を示した三島瑤子夫人によって、国内にあるフィルムは全て焼却処分され、幻のフィルムとなっていた。私もリアルタイムで見たことはなくて(3歳では無理である)、スチール写真でしか知らない。写真を見る限り、花びらの中で青年将校(三島)とその妻が抱き合い、死んでいる姿は、絢爛なイメージではあるがゲージツゲージツしていて鼻白む印象がないでもない。 ともかくモノホンを見ないことには感想の述べようもないので、いっぺん見てみたいとは思っていたのだが、ともかく瑤子夫人の反対がある以上はかなわぬことであった。不謹慎な言い方で申し訳ないが、今回の「発掘」は、瑤子夫人が亡くなられたために実現している。 夫人の反対は理解できないでもない。三島由紀夫は生前から様々な形で「批評の対象」として毀誉褒貶甚だしいものがあったが、瑤子夫人にとってはそんなことはどうでもよく、三島の割腹自殺以降は「夫」としての「平岡公威」を独占しておきたかったのだろう。ポール・シュレイダー監督の『MISHIMA』も未だに日本公開の目途が立たないが、これも瑤子夫人が本編中の三島のホモ描写に激怒したためだと伝えられている(私はあるルートでビデオを入手したが、それなりによくできた映画ではあった。身内以外の人には面白いだろう)。 けれども、作家とか、役者とか、有名人は、ある程度はプライバシーを犠牲にしなければならないところがある。と言うよりも、もともと私生活も研究批評の対象となることを免れない存在なのだ。ましてや『憂國』にしろ『MISHIMA』にしろ、公共に提供されるべく作られたものなのだから、瑤子夫人が長年取ってきた措置は、横暴と非難されても仕方がない。 『憂國』が公開されるとなれば、どうしても注目は三島の「割腹」シーンに集中することになるだろう。既にニュースの見出しは「自決を予告?」(読売新聞)だったりする。瑤子夫人の危惧が当たったようなもので、結局、世間の興味はそういう扇情的かつ表面的な部分にしか向かない。あるいは晩年の三島の「思想」がらみで、批判的に見られる可能性もある。それは、『憂國』に興味を持つ客の方にも影響を及ぼしかねないことで、つまり、こういう映画を見たがってるやつはみんな「ウヨク」じゃねえかとか、短絡思考で誤解されるかもしれないのだ。 そりゃ、ウヨさんも見たがるかもしれないけれど、私ゃ単純にミシマという作家の軌跡に興味があるんだからね。大学時代、故・小田切秀雄先生の講義を受けて「三島は『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』だけを読んでおけばよい。彼の書く小説は『小説以前』だ」という話を聞いて以来、三島の『黒蜥蜴』(乱歩原作!)がものごっつ好きだった私は、反発するようにその三作以外の三島作品を愛してきたのだ(念のため言っとくが、三島本人は嫌いだ)。ともかく、三島は付与する情報が多すぎて、作品が作品として純粋に見られることがあまりに少ないと思う。 しかしそれを三島作品の「不運」と言い切ることはできないと思う。どんな作品であろうと、それが日の目を見ないことには批評の俎上にすら乗せられることはないのだ。たとえ偏見だらけで見当外れの批判をされようと、「作品」は「見られてナンボ」である。凡百のエセ批評など気にすることなく、『憂國』DVDの発売を待ちたいと思う。
仕事を引けて、しげと博多駅の紀伊国屋書店で待ち合わせ。 天神に移動して食事をしたあと、「ソラリアプラザ」で映画「監督」水野晴郎氏のトーク・ショーおよび『シベリア超特急5』を見る。 もはや説明の必要もないほどに「有名」になってしまった『シベ超』シリーズであるが、なんだかんだで私は全作、付き合ってしまっている。そんなに面白いのかどうかと言われると困ってしまうのだが、ともかくこれは「愛」に満ちた映画だ。それは間違いない。 映画を見れば一発で分かるのだ。スタッフもキャストも、水野晴郎氏を愛している。 毎回、話は殆ど同じだ。水野晴郎氏扮する山下奉文大将がヨーロッパ視察のためにシベリア超特急に乗る。そこで謎の殺人事件が起こる。それは山下大将の名推理によって解決するが、そこには戦争の悲劇が横たわっている。山下大将はひとしきり「戦争はいかん」と言って終わる。そのあとに、「意味のないどんでん返し」が待っている。当然、今回もそんな話だ。 殆ど同じ話を繰り返していながら、誰も水野氏を止めないのは、これはもう「愛」以外の何物でもないだろう。一作目を見たときには破綻したストーリー、トリックとも言えないトリック、意味不明の展開、無駄なアクション、殆ど直感でしかない名推理、不必要な懐かしの名画へのオマージュ、何より水野氏の素の演技に眩暈すら起こし、唖然として怒りもしたのだが、もう六作も作っちまった現在(舞台版の『7』が既に作られている)、映画としてどうこうなんてことを突っ込むのはかえって野暮というものである。 一作目でもうおなかいっぱい、というお方は2作目以降を見る必要はないかもしれない。しかし、一度ハマッてしまえば、たとえ同じことの繰り返しだと分かっていようとも、中毒のように二作目、三作目と見たくて仕方がなくなる。スタッフ・キャストの「愛」に観客も包まれてしまうのだ。だから、取ってつけたような「戦争はたくさんの人を不幸にする」という反戦メッセージも、ここまで続けて念を押されれば、もうその通りだと頷くしかなくなってしまうのである。 本編もものすごいものであったが、トークショーもすごかった。と言うか、「トークショーで予め内容を聞いておかないと、本編がますます分けが分からない」のである。例えば、「冒頭の長回しのシーンで、大陸浪人たちの向かいで顔を見せずに手袋をつけている人物がいますが、これが真犯人です」なんて説明したりする。しかし、そのことを聞いていないと、本編中では実はそいつが犯人であったという説明は一切ないので、「あの人物はなんだったんだ?」という疑問が観客の心の中にわだかまったまま映画を見終えることになる。多分、これは編集で「説明カット」を入れるのを忘れてしまったのだ。 「見所は万里の長城での『階段落ち』です。ロシアのエイゼンシュタインが『戦艦ポチョムキン』でやって、『アンタッチャブル』でマネされましたけど、プライアン・デ・パルマ何するものぞですね」と意気軒昂に語られるので、実際に本編を見てみると、これがまたとんでもなかった。「シベリア超特急から吹っ飛ばされた主人公が、万里の長城の上に偶然あった荷車の上に落ち、そのまま延々とジェットコースターのように階段落ちしていって、勢いがついて更に跳ね飛ばされ、超特急の終点である満洲里まで辿りつく」のである。「エイゼンシュタインのマネがしたかっただけだ」ということを事前に聞いておかないと、画面を見ていて何が起こったのか理解不能に陥る人も多数であろう。 この映画のすごいところを列挙して行けば本当にキリがないので、このへんにしておくが、往年の映画をあまりご覧になってない方や、ミステリーにあまり慣れてない方は、そういうシュミの方と一緒にご覧になって、どこがどうおかしいか、説明してもらうのがよいかと思う。
上映後のサイン会で、「鏡のシーンは『市民ケーン』ですか?」と水野さんに伺ったところ、「そうです、さすがよくお分かりになりましたね」と仰ってニッコリされたあと、聞いてもいないのに「あのシーンはラナ・ターナーの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で、あのシーンはローレン・バコールの『脱出』で、あのシーンはマレーネ・ディートリッヒの『嘆きの天使』で」と、どんどん解説してくださった。 正直な話、水野さんの映画評論は大したことがないと長年思ってはいたのだが、こんなに映画を愛している人には滅多に出会えるものではない。これはウソでも何でもなく、本当に何十作でも『シベリア超特急』を作って頂きたいと、心の底から思ったのである。 「ぜひ、十作まで作ってください」とつい言ってしまったが、水野さんはちょっと寂しそうに笑って、「ありがとうございます。長生きしないとね」と仰った。水野さんは『5』の撮影中に転倒して、背骨や左腕など、四箇所も骨折されて、今も歩行がやや不自由なのである。現在製作中の『6』を完結編とするご意向のようで、多分、体調の面でもそれ以上作り続けるのは難しいのだろう。 会場では、その水野さんの右手の骨折レントゲン写真をプリントしたTシャツも売っていた。「転んでもタダでは起きない」と仰っていたが、文字通りである。当然、即買いである。パンフにメンコ、DVDにポスターも買って、サインをしてもらいまくり、ツーショットで写真も撮ってもらった。しかも「こんなに買ってくれてありがとう」と、メンコをもう一組、余計に頂いた。 むちゃくちゃ嬉しかったのだが、こういうときに喜びをうまく表せない自分のポーカーフェイスが恨めしい。
あんまり嬉しかったので、この日記の愛読者の方にも幸せのおすそ分けさせていただきたいと思います。パンフレットは二部買って、どちらにもサインをしていただいたので、一部、15万ヒットのキリ番の方にプレゼントしようかと思います。ほぼ90%の確率で通りすがりさんに当たって、気が付かれないまま終わっちゃうとは思いますが。もし、「当たったー!」と仰る方は、メール下さい。お待ちしてます。
2004年08月19日(木) 香水は12年で熟成するか。……危険だってば。 2003年08月19日(火) 懸賞つき日記(^o^)/『イリヤッド 入矢堂見聞録』3巻(東周斎雅楽・魚戸おさむ) 2002年08月19日(月) 偽善者の宴/『探偵学園Q』6巻(天樹征丸・さとうふみや)/『虹の子』(石ノ森章太郎)ほか 2001年08月19日(日) 毛が三本/『ふざけるな専業主婦』(石原里紗)ほか 2000年08月19日(土) 今日、彼氏彼女は相々傘であった/『占い師はお昼寝中』(倉知淳)ほか
2005年08月18日(木) |
幻想の絆/DVD『盲獣VS一寸法師』 |
休み明けで、久々の出勤。 雑用が溜まってはいるが、まだまだ慌てることはない。ちびちびと片付けて行く。 休みボケがありはしないかと、自分でも心配していたがそれほどでもない。それより、長いこと一緒にいたので、しげがまた私が出勤するとなると「さびしんぼう」に成り果てている。 これが一番困るので止めてほしいのだが、そうするとしげはクスリをまた多飲してしまうのである。まあ、確かにそうやって昼間眠ってれば寂しくもなかろうが、するとまた家事をしなくなるのだ。しげがマトモに日常生活を営める手段はないものだろうか。
URLを変えたせいで、長いことホームページのコンテンツが「NOT FOUND」状態だったのだが、しげが懸命に頑張ってくれて、一部が復旧。 と言っても、マークが元に戻ったのと、「こんなにひどいよ名探偵コナン」の第一回が読めるようになっただけですが。 けれど私が何度操作しても全然復旧できなかったので、しげの奮闘には(私が寝ている間中、ずっとやってたらしい)もう頭が下がって地べたにこすりつけて穴掘って入りたいくらいである。 まあ、それまでに書いた分だけでも膨大な量があるので、完全復帰までには相当時間がかかりそうだけれど、みなさんしげを応援してやってくださいませ。 え? お前は何もしないのかって? だから私が何をやっても言うこと聞いてくれないのですよ、このパソくんは。きっとこいつの前世はスケベな爺さんに違いない。 それにしても四苦八苦しながらもパソコンを復旧させるようなことはできるのに、どうしてしげは「炊事洗濯まるでダメ」なんだろう。よっぽどこっちの方が単純作業のように思えるのだが。
先日、旅行に行ったときの父との会話。 例のゴミだらけのキャンプ場を見ての父の慨嘆であるが、私のココロの声付きで再現する。 「日本人のマナーはどんどん悪くなりような」 「そうだね(昔から悪いよ)」 「事件がいろいろ起きるのもしょんなか(=仕方がない)な」 「そうだね(論理が短絡的だよ)」 「親子の愛情もどんどんなくなりよる」 「そうだね(うちの場合もないけどな)」 「パチンコして子供を車の中に放り出しといて熱中症で死なせる親とか、言語道断やな」 「そうだね(オレも子供のころ、あんたの暴力で死にかけたこと何度もあるけど)」 全く実にいい親子関係を築けているものだと自分でも感心する。 子供のころ、酔っ払った親父に殴る蹴るの暴力を振るわれてお袋が止めに入ったとか、しょっちゅうだったんだが、見事に忘れてやがるんだよな、この親父は。鉄製の盆で後頭部を殴られたこともあったぞ。今だったら児童虐待で逮捕されたっておかしかないと思うが、当時はこのくらいの暴力は「しつけ」の範囲内だったのである。しかし、この躾が本当に躾として機能していたかどうかは、前述の会話で明らかであろう。「仮面親子」だとつくづく思う。 「しつけ」の名目で妻の連れ子の小学4年生女子を殴る蹴るの暴力を振るった挙句、庭に掘った穴に埋め、全治2週間の怪我を負わせた埼玉県春日部市の会社員、三山英志容疑者が傷害容疑で逮捕された。女子の顔の痣に気付いた小学校の先生が児童相談所に連絡して虐待が確認されたという。 「首まで埋める」というのはまんま「犬神」であって、そういう土俗的な知識でもあったのか、この父親、と一瞬、思った。けれど、『戦場のメリークリスマス』でもデヴィッド・ボウイが土の中に埋められて殺されるシーンがあったし、旧日本軍では捕虜に対してわりとこういう刑罰は行われていたもののようである。もしかしたら、この「生き埋め」ってのは日本人の遺伝子の中にスタンダードな虐待手段として脈々と受け継がれているものなのかもしれない。地中に埋められているだけでも長時間に渡れば呼吸困難と脱水症状で死に至るのは当然で、このオヤジに殺意があった可能性は高い。 同時にこれも説教節などで延々と語られ続けてきた「継子苛め」の物語の系譜の果てにある事件なのである。
「親子の絆が失われた」と嘆く向きは多いが、さて、翻って日本の歴史を見直してみたときに、「子供」はそんなに大人たちから大切にされてきていただろうかという疑問も生じてくる。明治期に来日した外国人の多くが、日本国中津々浦々で「子供や赤ん坊が大切にされている姿」を見て、驚いている。「日本は子供の天国か」と。しかし、外国人たちが見たのは主に「赤ん坊をねんねこで背中におんぶした」母親や姉やたちの姿であり、そのような習慣のない西洋人の目にはこれが「過保護」のように映ったのだ。この事実のみを以って即、「子供が大切にされていた」と断じるわけにはいくまい。 ハッキリ言えば、日本の家庭で大切にされていたのはほんの何十年か前まで「跡取り息子」だけだったのである。それ以外の次男、三男はただの「冷や飯食い」でしかなかったし、娘は「嫁」に出すものでしかなかった(嫁に行った先で「母」になってようやく地位が得られるのである)。 こういう言葉がまだ「生きていた」時代に私たちの世代はギリギリ引っかかっている。分かりやすく言えば、長子以外の子供はみな、長子に何か事故があったときの交代要員でしかなく、長子が存在している限り、「虐待されるのが当然」な存在であったのだ。江戸期の武士階級においてこの「制度」は絶対的なものであったが、町人・百姓の間でも、あるいは時代が下った庶民の間でも、この「感覚」だけはかなり長期に渡って継承されていた。うちのオヤジは職人の家に生まれた次男であるが、次男であるがゆえに祖父の跡を継げなかった恨みをかなり長いこと愚痴ってばかりいた。 「惣領の甚六」という諺があるが、これは、惣領(=跡取り息子の長男)はチヤホヤされるので馬鹿が多いという意味である。この感覚が庶民のものであった証拠はあの『サザエさん』にも表れており、磯野家の隣に住む小説家・伊佐坂先生の長男の名前はまさにこの「甚六」である(この長男はアニメ版ではいつの間にか姿を消してしまった。名前が差別語であると判断されたためだろう)。 日本人の家庭の場合、悲惨なのは、長男以外の子供をより迫害しているという自覚が親にはあまりないという点である。「冷や飯食い」であるから、親の財産が必ずしも贈与されるとは限らない。兄弟が三人いたとして、三人に財産を平等に分けて行けば、次の代、次の代と、財産はどんどん目減りしてしまう(財産が「田んぼ」であった時代には、これを指して「田分け者」と言っていたわけだ)。 だから、親は次男以外の子供には自然、独立するための道を勧めることになる。次男以外の子供に辛く当たるのは当然だ、という理屈がここに生まれる。ましてや、長男がいて、もう一人の子供が「継子」であれば、これはいずれ追い出すのが当たり前という感覚であったろう。親にはこれが虐待であるというような意識はない。「辛く当たるのが子供のため」と思い込んでいるのである。 「継子苛め」の物語がシンデレラよろしく、逆転して幸福な結末を迎えることが多いのは、現実には悲惨な目にあった継子たちがいかに多いかを示している。
この事件をたいていの識者は「残酷な虐待事件」と評するだろう。 しかし私には、この「生き埋め」という虐待の仕方の「古臭さ」を考えると、何となくこれが「未だに残る前近代の事件」であるような気がしてならないのである。 この三山容疑者に、この連れ子の女子以外の「実の子」がいたかどうかは分からない。しかし「継子苛め」であることは確かだ。義理の娘を土に埋めた動機は「女子が学校生活上の約束を守らなかったこと」だそうである。「義理の娘だからと言って、甘やかすわけにはいかない」という道義心も働いていたかもしれない。 ともあれ、この事件は「2週間程度の怪我」に過ぎず、「女子が死んでいない」以上は、これが三十年ほど前であれば、「事件にすらならなかった」可能性も高いのだ。
私は別にこの親父の行為が正しかったと言いたいわけではない。細かい事情が分からない以上は、この逮捕が適切であったのかそうではなかったのかは判断しかねる。 私が言いたいのは、「躾」という概念自体が既に前近代の、言わば旧式の価値観に過ぎなくなっているということである。現代の親は、子供に相対する場合の価値観を一度喪失してしまっており、「子供の個性の尊重」という美名の元に「放任」以外の対応ができなくなってしまっている。子供は子供で、「放任」にすっかり慣れてしまっているために、そこに改めて旧式の観念である「躾」を持ち込んでも、いたずらに反発するだけになっているのだ。 私は、「躾」が、たとえ親の暴力を伴わなかったとしても、ただひたすら説諭のみを以って対応したとしても、それが親と子の人間関係を結ぶものとしては簡単には機能はしない、という事実を指摘しておきたいのである。 近代と現代が、旧式の価値観と新式の価値観がある瞬間を以って鮮明に切り替わるものでない以上、このような事件が途絶えることはないだろう。 こういった事件を「悲惨な事件」の一言で片付けてしまうことは、我々を取り巻く「現在」を構成する要素の全てが「過去」によって成り立っているという事実を忘れてしまうことになりかねない。現実には過去と現在とは常に絡み合い、脈動しながら未来に向かってゆっくりと進んで行く。状況が激変する中にも不変な分子は必ずあるし、逆に自分が今「常識」で不変のものだと思っている「行為」が、次の瞬間には「暴力」と認定され否定される事態だっていくらでもありうる。 さて、そこで我々は過去の価値観に固執して現在に挑戦を試みるか、現在に迎合して過去を捨て去るか、常にどちらかを選択せざるを得ないわけであるが、将来において果たしてどちらが正しいと判断されるのか、それはまさしくケース・バイ・ケースで、我々の浅薄な予測など的中率はゼロに等しく、蟷螂の斧のごとく裏切られる結果となる場合がほとんどだ。結局、未来予測などは「賭け」のようなものである。 子供を虐待死させるのは論外としても、親は子に一切手を上げることができないのか。「親にだってぶたれたことないのに」は二十年前だったら言った当人の「甘ったれ」な台詞でしかなかったが、今や「正当な主張」となりつつある。子供がどんな生意気な口を利いても、「子供の個性だから」と暖かく見守ることだけが親にできる「躾」なのか。親が子供を殴って、「はずみで」歯が折れたりしても、それは軽く「全治2週間」程度にはなる。そこで子供が訴えたら、親はやはり懲罰を受けることになるのか。 それでも親が子に何かを躾けようと思ったら、自らが破滅する可能性も視野に入れた上で「賭け」るしかあるまい。 しかし私には、カルト宗教の事件なども、親がそうした「賭け」に敗れて子供が野放しになってしまった結果であるように思えてならないのである。
高野連が、昨17日、喫煙及び部内暴力で甲子園大会への出場を辞退した明徳義塾(高知)を初め、秋季県大会への参加を差し止めた四校を発表。明徳義塾以外の三校は、熊本学園大付(熊本=複数部員の部内のいじめ)・松本第一(長野=複数部員の喫煙、飲酒)・鶴ケ島(埼玉=複数部員の万引き、飲酒)。 全国でたった三校かよ! ウソつけ! というのが偽らざる心境であるが、なんだかこうなると本当に「正直者はバカを見る」の世界だよなあと、高校野球界の腐敗ぶりにもはや嘆息する気すら起こらない。処罰された学校はまさしくスケープ・ゴートであって、一応、これで健全化は図ってますよというポーズだけは取った形になる。 けれども、自分ところの不祥事をほっかむりして、いけしゃうしゃあと健全なる球児でございという顔をしているやつらは処分された学校の何十倍、何百倍あるか分かりゃしないのだ。もしも高野連が「本気で」不祥事撲滅の大鉈を振るったなら、全国大会はおろか、地方大会大会すら満足に開けなくなるのはまず間違いがないのである。 明徳義塾がかわいそうだ、俺らだけ大会に出られるなんて申し訳ない、正直にタバコ吸ってたこと告白して辞退しよう、なんて学校はついぞ出てこない。みんな、内心では「オレたちはバレなくてよかったよな」とか「あいつら正直に上に報告したりしてバカじゃないか?」と思っているのだ。そんなことはないなどという反論は根拠を持たない。実際に明徳義塾が、匿名投書がなければ堂々と不祥事を隠したまま出場しようとしていたではないか。 高校生にアンケートを取れば、四割強が「喫煙の経験がある」と答える。たとえ匿名アンケートでも真実は答えたくない、と思うやつもいるだろうから、実際には高校生の喫煙経験者は五割を越えるだろう。で、野球部員が全員「吸ってない半分の方」にいるなどという判断するやつがいたらそいつは相当にオメデタイやつだ。この場合、「どの学校でも野球部員の半分は喫煙経験がある」と判断する方が妥当である。で、そいつらはみんな「黙ってればわかんねえよ」と陰で笑っているような根性曲がりなのである。高校球児の殆どはそんな腐れたやつらばかりだ(まあ、高校生の大半が腐れていると言うべきではあるが)。 マトモな神経があれば、もう長いことその腐敗が指摘され続けている高校野球になんか興味が持てるわけがない。青春の汗と涙も、根性と努力と友情も、みんな嘘っぱちだ。なのに未だに興味津々なオトナは、やはりどこかイカレていると判断するしかないのではないか。野球トバクに関わってるか、単に地元の高校が勝つことだけにしか興味がないか、でなければ高校時代に運良く野球部員の知り合いがいなくて未だに幻想を信じていられる幸せなドリーマーだけだろう。
注文していたDVD『盲獣VS一寸法師』が届く。 注文したときには石井輝男監督が亡くなられるとは少しも考えていなかったので、手に取ってみるのもそぞろ寂しい。パッケージはチラシと同じ竹中英太郎画伯の『盲獣』と『一寸法師』の挿画だ。竹中画伯の絵こそが乱歩の幻魔怪奇の世界を的確に描出し得たことを、石井監督はちゃんとご存知であった。旧仮名遣いで書かれた惹句も素敵である。
「お気味がわるいでせうか 何も見えない盲の目で、 あなたをずっと 見つめておりました。 光とどかぬ アトリエには、 三つの顔と、 四本の手、 三本足の裸美人、 さあ、 闇と握手を いたしませう。」
ああ、詩だなあ。こういう文章が書けてこそ、「作家」だと威張って言えるんだと思う。 今でも劇場で『盲獣VS一寸法師』を見たときのことを思い出すが、見終わったあと、若いカップルが「思ったほどヘンじゃなかった」とか拍子抜けしたような発言をしていた。彼らは『恐怖奇形人間』の「オカアサン!」(乱歩よりもこれは夢野久作だが)くらい意表を突いた展開を期待していたのだろう。しかし、石井監督が目指していたのは、あくまで「乱歩世界の映像化」である。トンデモ映画を作ることではない(『奇形人間』だとてトンデモ映画ではない)。 DVDのメイキングを見ると、このころの石井監督はすこぶる元気で、八十に垂んとして全くボケを感じさせない。以前も書いたことだが、物語の破綻は乱歩の原作にそもそも存在するもので、それをあえて破綻のまま、いや、破綻を拡大する形で2作を合体増幅する形で混迷の世界を描いたのは、石井監督が確信的に行ったことなのである。 超低予算ゆえにセットすら作れず、そこに造形の原口智生氏が手弁当で助っ人として参加し、ようやく撮影できたシーンもある。小林紋三役のリリー・フランキーさんは役者でもないのに石井監督に請われて主演した。ほかの監督だったら、リリーさんはきっと断っていただろう。集結するキャスト、スタッフの名前を見ているだけでも、監督がどれだけ愛されていたかがよく分かる。 この映画の批評で、「昭和初期の設定のはずなのに、あちこちに現代のものが映りこんでいる」と批判していた人がいた。確かに低予算ゆえに「ありもの」で勝負するしかなかった弊害と言えばその通りなのであるが、そんなことは大した問題ではない。乱歩の小説は時代を映す鏡であったが、同時に普遍的な人間の心の闇を描いていた。時代がいつとも知れぬ混乱と違和感は、かえって乱歩らしいほどだ。 「盲獣と一寸法師が戦っていないじゃないか」という批判も全くの見当違いである。これは物理的な戦いではなく、狂気と狂気の精神的な戦いなのだから。 この映画に関しては、本質を見ずに瑣末的な印象批評だけが横行し過ぎていたように思う。 2001年には完成していた本作が劇場公開されたのはようやく昨年。その間、3年の月日が経っている。日本人が、乱歩の描いた「人間の本質としての変態性」を本当に受け入れられるだけの「健全さ」を持ち合わせていたなら、劇場公開も速やかに行われたであろうし、あと一本くらいは石井監督が映画を撮ることも可能だったように思えてならないのである。 奇しくも石井監督の「異常性愛」シリーズが続けてDVD化されることになった。劇場公開時、私は小学校低学年で、当然リアルタイムでは見られなかった。若い人には刺激が強すぎるだろうからあまり勧められはしないが、少なくとも「こういう世界」が自分よりも遠いところにあるとは思わない方がいい。嗜虐は全ての人間の原初的な嗜好として、必ず意識の底に偏在しているものだからである。
2004年08月18日(水) 見てない映画は☆の数。 2003年08月18日(月) ギャグをやるなら命がけ/『魔法先生ネギま!』2巻(赤松健) 2002年08月18日(日) 草臥れ休日/アニメ『サイボーグ009』地下帝国“ヨミ”編/『エキストラ・ジョーカー KER』(清涼院流水・蓮見桃衣)ほか 2001年08月18日(土) オトナの玩具はコドモ/『悪魔の手毬唄』(横溝正史・つのだじろう)ほか 2000年08月18日(金) 気が滅入る話/『明日があるさ』(林原めぐみ)ほか
2005年08月17日(水) |
危険が迫っていても手抜き/『GUNSMITH CATS BURST(ガンスミスキャッツ バースト)』1巻(園田健一) |
劇団のですね、あるメンバーのですね、掲示板にですね、書き込みがあったんですけどね、そこにこういう文句がありまして。 「ヲタク名義に尽きます」 いや、それは「冥利に尽きる」だっ!
※冥利(みょうり)に尽(つ)きる 自分の立場や職業などによって受ける恩恵が、もったいないほどありがたい。「役者―」(旺文社 『旺文社国語辞典[第九版]』) 「名義に尽きる」ってなんだよ、意味不明じゃないか。名前とか肩書きをたくさん持ってて、もう作りすぎてこれ以上は作れないってことか。「私はアニメオタクでマンガオタクで特撮オタクでアイドルオタクでゲームオタクでミリタリーオタクで乙女系で……」って、そういうことか。 これがメンバー本人の文章だったらですね、私も遠慮なく突っ込むんですよ。でも、書いてらっしゃるのはそのメンバーのお友達の方。横から無関係な私が「言葉間違えてますよ」なんてとても言えるもんじゃない。 気になるのは、その書き込みにレスを付けてるメンバーのコ、「それを言うなら『冥利』でしょー?」とか突っ込み入れるかと思ったら、全然してないのね。やっぱりお友達に遠慮してできなかったのか、それともそのコも言葉を知らなかったのか……? うう、気になる(本人に聞けよ)。 ああ、一応その子のサイトにもリンク張ってますけど、誰のことかなーとか探さないであげてくださいね。
先週の映画興行収入、一位はなんと、ドリームワークスのフルCGアニメ『マダガスカル』だった。ちょっとこれは驚きである。 アニメ関係はとりあえず見たいことは見たいので、一応、しげに声をかけてはみたのだが、ニベもなかった。設定を聞く限り、「都会生活に慣れた動物たちが、マダガスカルで苦労する」って、「まんま『ジャングル大帝』じゃん!」と思っちゃったので、それほど興味が惹かれなかった。レオが実は都会育ちだってこと、もう忘れてる人も多くないかな。別に「動物もの」に拘らなきゃ、「都会人が田舎で苦労する」話なんていくらでもあるわけで、『おもひでぽろぽろ』のパクリだと言おうと思えば言えるのである。要するに新味というものがまるでない。 更に言うなら、主人公の動物たちもマダガスカルの動物たちも、全部CGで擬人化されているわけである。それで「都会」のキャラと「自然」のキャラの絵的な違いが表現できるものかどうか? いろいろ疑問があったので、みんな気持ちは似たようなものだろう、たいしてヒットはしないんじゃないかと思っていたのだが、全然そんなことはなかったのだね。 公開2日間の成績は、動員が24万人、興収が3億円。これは今年の3月の『シャーク・テイル』(興収20億円)を上回って、興収30億円も狙えそうな勢いだということである。 そうかあ、『シュレック』『シュレック2』よりも上ってことは、やっぱり世間の親たちは毒のあるアニメよりもキレイゴトのアニメの方がお気に入りということなんだねえ。ますます私の趣味の映画ではなさそうな気配が濃厚で、どんどん興味はなくなりつつあるのだけれど、ヒットする作品をヒットしているという理由で毛嫌いするのはあまりに狭量というものである。一回、アタマをリセットして、見に行った方がいいカなあと思うのだが、それを言い出すとほかにも見たいアニメはあって、実は『ミュウと波導の勇者ルカリオ』も『NARUTO 大激突!幻の地底遺跡だってばよ』も『金色のガッシュベル!! メカバルカンの来襲』も見たいのである。でもさすがにコレを全部見るなんて言い出したら、しげがどれだけ怒り出すか見当もつかない。大半は諦めてテレビ放送を待つしかないのだが、民放が殆どだから見逃すこと多いんだよなあ。 それにしても今夏のアニメは小粒なやつが多い。昨年の「大作」連発が印象的だったせいもあるが、「目玉」がないんだよなあ。予想通り『鋼の錬金術師』もはやばやとベストテン圏外に去ってしまった。『キネマ旬報』でも「中高生以外に広がりがない」と書かれてしまっているくらいで、やはり映画としての体裁を整えることをもうちょっと考えた方がよかったよなあと思う。
宮城県沖地震の続報。 天井板が落下した仙台市の「スポパーク松森」のプール、天井をつり下げる「つりボルト」に本来は横に渡しておかなければならなかった揺れ止め金具が殆ど付いていなかったことが国土交通省の調査で判明した。 プールの建物自体も揺れやすい構造になっていたそうで、テレビの取材に設計技師が答えていたが、殆どマトモに喋ることができておらず、どうやら設計段階からの「手抜き」だったようである。 国交省は芸予地震や十勝沖地震のときにも同様の事故があったとして、落下防止対策を取るよう、通知していたそうな。だとすれば、「スポパーク松森」はその通知を守っていなかったのか、忘れていたのか。どっちにしろ、地震が頻発していた地域ですら、対策が取られていなかった施設はあるという事実は変わらない。災害に対する意識の低さに、地域差はないようである。 福岡でも、地質研究の結果、再び地震が発生する確率は高まったと報告されているのに、「これでもう福岡に地震は来ない」と思い込んでいる人間はやたら多いのだ。あるいは、「天災だから悩んだって仕方がない」という開き直りである。私の場合は、どっちかというと後者に近い。地震が起きても大丈夫な土地があるなら教えてもらいたいものだが、だからと言って引っ越すカネだってない。またこないだよりデカイ地震が来たら、落ちてくる本に押しつぶされて死ぬしかないのだ。助かれば「ああ運がよかった」と思うだけである。 しかし、何度も言うように、個人はそれで構わなくても、行政が「天災だから仕方ないっスね」で済ましちゃ、大いにマズイのである。 地震調査委員会は、今回の地震は、本来「M7・5前後の地震が30年以内に起こる確率が99%」と想定されている宮城県沖地震とは別の地震だったと判断したとか。今回の地震が「呼び水」になる可能性も高くなったというわけだ。「スポパーク」の負傷者は、本来、怪我をせずにすんだはずの人たちだと思う。次の地震でまた同様の負傷者が出たとしたら、これはもう「人災」というほかはない。宮城のお役所の人たちが馬鹿じゃなきゃいいと願うばかりである。
マンガ、園田健一『GUNSMITH CATS BURST(ガンスミスキャッツ バースト)』1巻(講談社)。 園田健一の代表作が新シリーズで復活。『エグザクソン』のあと、何を始めるのかなあと思ってたら、やっぱりここに戻ってきたね。以前から単発で短編を描いていたから、予測はしていたのだけれど、やはりラリーの活躍が見られるというのは嬉しい。 私はガンマニアでもカーマニアでもなければ、園田健一の作るオハナシもそれほど好みではない。キャラクターがやたらココロもカラダも傷ついてしまうのだが、リアルな世界を描いているようでいて、単に作者のシュミなんとちゃうかという気がしてならないからである。簡単に犯される女の子キャラが多いのが何ともねえ。 じゃあなんでついつい買っちゃうかというと、やはりアクションの快感、これに尽きるんである。 マンガは当然「絵」だから、実は全く動いちゃいないのだが、それが「動いている」ように見せるためには、やはりレイアウトやコマとコマの間の取り方にセンスが必要になる。いしかわじゅんが安彦良和の絵について「動きが描けない」と指摘したのはまさにそのことで、安彦さんの絵は「止まって」いるのである(もちろん、止まっていたところでそれがすぐに欠点に繋がるわけではない。安彦さんを非難してはいないので勘違いしないように)。 同じアニメーター出身でありながら、安彦さんの絵が「止まって」見えて、園田さんの絵が「動いて」いるのはなぜか。一言で言ってしまえば、安彦さんの描くキャラクターは今でも「アニメーションのためのキャラクターデザイン」であって、「マンガ」にはなりきれておらず、それに対して園田さんの絵は、「マンガ」として確立しているからだと言える。 安彦さんはいしかわじゅんに反論して、「今でも中割りして見せられる」と主張されたが、それが大きな勘違いで、「中割りできるような絵」は、マンガの場合は読者の読むテンポを遅くし、さらには想像力を減殺してしまうことにしかならないのだ。 読者はマンガを読む場合に、「コマに描かれていない」部分も想像力で補完し、無意識に繋げて読んでいる。そこに「連続する動き」を持ち込むと、かえって情報が増えて、間延びしてしまう。例えば、安彦さんがしばしば数コマに渡って、「原画を並べたような」連続の動きを描くことがあるが(『アリオン』の冒頭シーンなどである)、これは読者には「スローモーション」にしか見えない。最近のマンガではここまで露骨な描写は減ったが、それでもアングルを変えて、同じシーンをゆっくりとトレースすることがよくある。もちろんそれは安彦さんの場合は効果的に使われていて、サム・ペキンパーかジョン・ウーのようなスローモーション効果を生んでいるので、決して欠点ではない。安彦さんのマンガでは、爆発ですらスローモーションである。 それに対して園田さんのマンガは岡本喜八である。アクションは省略に継ぐ省略、必要なカットは見せるが、それもロングとアップを何度も切り返し、コマとコマとは殆ど絵として連続していない。だから逆に「動いて見える」のだ。 文章で説明をするのはとても難しいのだが、たとえば66ページで、銃を突きつけられたラリーが、足でシートを引っ掛け、上半身を倒し、マガジンを投げて敵の銃にぶつけ、跳ね上げたシートを敵のタマを受けるバリアーにし、再びマガジンを装填して攻撃するまでの流れなどは、間に「中割り動画が全く存在していない」ことが理解できるだろう。これがスピード感を生むのである。ガンアクションをマンガとして描かせた場合、園田さんが紛れもなく第一人者であるのは、この「省略の妙」にあると言える。 ストーリーの紹介をせずに、絵の魅力ばかり語っているけれど、物語にはあまり興味がないんだから仕方がない。つか、園田さんの場合、ストーリーの方がガンアクションを見せるための道具だからね。 ああ、あともちろん、女の子がアニメ絵でむちゃくちゃ可愛いです。巨乳かロリータで中間が殆どいませんが(笑)
マンガ、ゆうきまさみ×田丸浩史『マリアナ伝説』3巻(完結/角川書店)。 男シンクロナイズドスイミングという、決して『ウォーターボーイズ』をパクったわけではない(連載はこっちの方が先)、鍛え上げられた男の肉体がムリムリ出てくるちょっと気持ち悪いマンガも、掲載誌を変えた末にようやく完結。とりあえず「大会で決戦して終わり」というマンガの王道はちゃんと辿ったのかな(笑)。 一応ラブコメ要素もあったようななかったような微妙な感じではあったが、まあゆうきまさみさんにはなかなか普通の恋愛は描けないから、結末もこんなものだろう。つか、ああいう結末にするなら、寺澤と天野、無理にカップルにする必要なかったんじゃないのか(オビに「衝撃のエンディングが君を待つ!?」とか書いてあって、どうやらネタバレ禁止みたいなので、一応オチは書きません)。 何となく作者“たち”の女性に対する怨念がそこはかとなく漂ってるような感じだったねえ。男はバカだけれど、それを許せないのは女の罪、みたいな。でも、天野とか、キャラがいい具合に立ちかけてそこまで行かなかったような、ちょっと惜しいキャラだったと思う。生徒会長はもう、『究極超人あ〜る』のときまんまだから、声もちゃんと川村万梨阿で聞こえてくるんだが、天野はイメージボイスが浮かんでこなかったからなあ。 いやね、ゆうきさんのマンガの場合(これは絵は田丸さんだけど)、キャラクターのイメージボイスが聞こえてくるかどうかで、作品の成否が決まってくるような気がするもんで。もっとも私は新しい声優はあまり知らないので、寺澤の声とか神谷明が浮かんだりするんですが。 あと、会長の弟のセリフで、「予約特典が気に入らないからってCD買わないくらいヘンな理屈」ってのには受けた。しょうもない特典が付いて怒るのは分かるけど、ヘンクツなオタクにこういうやつ多いからね。自分が鬱陶しいやつだってことに気づいてないんである。
マンガ、丸川トモヒロ『成恵の世界』8巻(角川書店)。 えー、隠れ人気キャラの一人、古本屋の娘さんで、太い眉毛がチャームポイントの永岡四季ちゃんがメインのオハナシ……というよりは実質上の主人公は、今は亡き、そのまたお婆ちゃんの折さんであります。 と言っても、今回は別に回想話ではない。四季ちゃんが働いてる古本屋「時台屋」がオーナーでもある爺ちゃん・光太郎の横暴で、潰されてしまいそうになる。ところがそこに、突然「結婚直前」の若き日の折さんがタイムスリップしてきて、爺ちゃんに出会って……という展開。だからまあ、これもまた『時をかける少女』のパターンなのだけれども、この手の話に付きものの「奇跡」の描き方が、なかなか上手いのである。 キーワードになるセリフはコレね。 「ねえ、光太郎さん。私たちの未来は、悪いことばかりでしたか?」 目の前に、死に別れた妻が、若き日の姿のままで座っている。彼女は、これから先、自分とどのような未来を築いていくかは知らない。けれども、その未来を現実に知っている年老いた夫に向かって、自分の未来を信じていることを告げているのだ。折さんが爺ちゃんをどれだけ深い愛で信じていることか。作者が何歳なのか分からないけれど、これはなかなか若い人には書けないセリフだ。それが描けたのは、「SF」という仕掛けがあったからこそだろう。 『成恵の世界』は、一般的なマンガファンの間では、数あるハーレムマンガの中の一本に過ぎないみたいに扱われてて、ちょっと損しているなあと思う。これは立派なSFマンガなのに。 所詮はご都合主義である点では違いはないじゃないかという批判に対しては、こう答えよう。確かにご都合主義と言われればその通りだけれども、学園ものとか下宿もので美少女いっぱいものをやられた場合、一応、その世界は「現実」なのだから、ご都合主義はわざとらしく目立ち過ぎて、読者は今ひとつ乗り切れなくなるのだと。けれどヒロインが宇宙人だったり未来人だったり異次元人だったり女神だったりすれば、「価値観がフツーの人間とは違うんだろう」で納得できなくはない。 つか、SFマンガだと、主人公を巻き込むトラブルが破天荒でキャラクターも暴走しまくるから、「なんでこんなフツーのやつがモテるんだ?」って疑問に気付く間もないのである(笑)。今回も和人の影が薄いこと。つか、名前も読むまで忘れてたよ。
2004年08月17日(火) 「狐の嫁入り」考。…いや、そんな大層なもんじゃなくて。 2003年08月17日(日) 穏やかな休日/映画『宮本武蔵』『續宮本武蔵 一乗寺の決斗』『宮本武蔵完結篇 決闘巌流島』 2002年08月17日(土) しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん/アニメ『プリンセスチュチュ』第1話/映画『ピンポン』 2001年08月17日(金) 代打日記 2000年08月17日(木) 明日から仕事/『夜刀の神つかい』(奥瀬サキ・志水アキ)ほか
2005年08月16日(火) |
対策なんて何もない/『素晴らしき特撮人生』(佐原健二) |
しげのクスリがまた切れたので(飲みすぎだっちゅーの)、病院に回って処方してもらう。 医者からも「飲みすぎですよ」と注意されているのだが、「だって落ち着かんっちゃもん」とすぐに飲み過ぎてしまう。マリリン・モンローみたいになりゃしないかと(スタイルのことではない)心配しているのだが、もう完全にヤク中状態で、クスリが手放せなくなってしまっているのである。飲んでないときは今まで以上に情緒不安定で、部屋の中を意味なくウロウロ歩き回っているのだから全く始末に悪い。 結局、心を落ち着けられるのは自分自身で、自分以外の何かに頼っちゃダメってことか。
合同庁舎の郵便局で、新しく通帳を作る。 局員さんに「お名前の漢字が違うようですが」と言われて、また説明に手間がかかる。前にも日記に書いたが、戸籍係が漢字を書き間違えたおかげて、私の名字は先祖代々の本当の漢字と、戸籍の漢字と、更に父の名字の漢字の三者が全部違ってしまっているのだ。どれに統一にするにしても手間がやたらかかるので、結局放り出したままである。しようがなく、もう一度書き直すが、その訂正印の印鑑の漢字がまた字体が違うことにまでは局員さんは気がつかなかったようだ(笑)。
父のマンションに通帳を届けに行って、やや遅めの朝食を福岡空港国際線のレストランで。 うちと父のとことを往復するときには必ずその横を通るのだが、国際線の中にまでは入ったことがない。見物がてら中を見回るが、周囲を飛び交う言葉は韓国語ばかりだ。ハワイ航路もなくなっちゃうし、韓国線と言い換えたほうがいい感じね。 送迎ロビーで飛行機の離着陸をちょっと見物して、買い物を少し。売ってる品はハンカチやらTシャツやら湯飲みやらマグカップやら扇子やら、全部、浮世絵柄である。まさにエキゾチック・ジャパンってな感じだが、Tシャツの柄で「新撰組の格好をしたポパイ」があったのには笑った。アチラの人には「シンセングミ」は理解可能なのだろうか。更に発見したのは「花魁ベティ・ブープ」(「ベティ・ザ・ゲイシャ」と言った方がいいのか?)。これが実に可愛い。『ロジャー・ラビット』じゃ、「モノクロじゃ仕事ないのよね」とボヤいてたベティさんだけれど、ちゃんと色を塗られて仕事も見つけているのである。よかったよかった。 一階のロビーで小さな海洋写真展などが開かれている。その横にリンドバーグ夫妻が福岡空港まで乗ってきたという飛行機の模型が展示してあって、その時の写真も公開されている。昭和四年のことだそうで、さすがに父もこのころには生まれていない。これはまだあの「リンドバーグ事件」が起きる前だろうか。先日、あの悲しい事件を元にしたクリスティーの小説を映画化した『オリエント急行殺人事件』のBS放送を見たばかりだったので、夫妻の笑顔が何となく寂しげに見えた。
父を博多駅で下ろして、いったん帰宅して一休みする。 何気なくテレビを見ていると、また地震のテロップが流れる。 今度は前々から危険区域とされていた「宮城県沖」である。マグニチュードは7.2、震度は6弱を記録した地域もあるとか。負傷者もかなり出た由である。 印象としては福岡の西方沖地震と同程度のような気がする。新築されたばかりのプールの天井が落下して二十人以上が怪我したとかで、地震に対する防備が福岡よりも進んでいたはずの宮城でこのテイタラクかと思うと、本気で国の地震対策なんて口だけじゃないかという気がしてくる。 『地震列島』って映画のタイトルがフィクションじゃなくて切実感を伴って聞こえる状況になってしまっている。しかしもっと悲しいのは、地震対策がマトモに行われない行政の現状である。『地震無防備列島』と言い直した方がいいんじゃないのか。我々の税金は、ホント、どこにどう使われてるんだろうかね。
天神の福家書店で京都帰りのよしひと嬢と待ち合わせ。 ゲームの攻略本を探しているということで、ジュンク堂、紀伊国屋と何軒か本屋を回るが、売り切れでないとのこと。 喫茶店でひと休憩でも、とスターバックスなどを回って見るがどこも満席。結局、天神コアの七階レストラン街まで登って、そこの喫茶店でお土産交換などする。 よしひと嬢はそれまで「アニメイト」や「まんだらけ」などを回っていたそうだが、かなり「いたたまれなかった」そうな。もうどんな客が群れ集っているのか目に見えるようであるが、私などが足を踏み入れた日には違和感ありまくりであろう。それでも平気で入り込むことあるけどね(笑)。
佐原健二『素晴らしき特撮人生』(小学館)。 表紙は『ウルトラQ』の主演お三方、佐原健二・桜井浩子・西條康彦のスチール写真。このカバーを外すと、今度は“現在の”お三方が全く同じポーズで……。考えてみれば、『ウルトラQ』に携わったスタッフ・キャストの方々の多くが鬼籍に入られた中で、主演の三人がまだ活躍して(西條さんは一応、役者を引退なされているけど)いらっしゃるというのは本当に嬉しい。佐原さんは母と同い年だ。 実を言うと、『ウルトラQ』で佐原さんが演じた「万城目淳」というキャラクターはそれほど好きではなかった。子供の目にはあまりにもヒーロー然としていて「ええかっこしい」に見えたし、星川航空のパイロットとという設定はまだしも、「SF作家」というのがどうにも似合わないような気がしていたのだ。本書を読んで、「実は平田昭彦がこの役をやりたがっていた」というのを知って、「ああ、平田さんが演じていてくれたら!」と思ってしまったのは、もちろん私が平田昭彦絶対主義者であるからである。冷静に考えて見れば、クールさが魅力の平田さんが万城目を演じるよりも、佐原さんの方がよりベターなキャストであるということは理解できるのだが。 「万城目」が嫌いだからと言って、佐原健二さんが嫌いなわけではない。何と言っても『モスラ対ゴジラ』の虎畑次郎はゴジラ映画史上でも、最も印象的な悪役の一人だろう。この役を演じるために「本物の不動産屋に役作りのためという目的を隠して会った」というのだから、その役者魂には感動する。虎畑のあの人を小馬鹿にしたようなせせら笑い、あれは「ナマ不動産屋」の表情だったのだなあ。全ての不動産屋さんが虎畑みたいなカネの亡者だというわけでもなかろうが、いかにも「らしい」のは佐原さんの演技力である。 しかし、佐原さんが虎畑を演じてくれていなかったら、私は多分、長いこと佐原さんの演技力に気がつかないままだったろう。佐原さんは、主役から脇に回るときに内心忸怩たるものがあり、恩師である本多猪四郎監督に相談したというが、「ちっぽけなプライドは捨てろ」の言葉に勇気付けられたと言う。実際、主役にこだわって、佐原さんが役者を辞めてしまっていたら、たとえ『ウルトラQ』があったとしても、長く特撮ファンの間で佐原さんが愛され続けることはなかったのではなかろうか。佐原さんが万城目淳から虎畑次郎までを演じられた「役者」であったからこそ、「ゴジラ映画出演最多俳優」にもなれたと思うのである。 本書には当然のごとく、数多くの特撮映画・ドラマに関わった人々が登場してくる。そのエピソードをとても全部は紹介できないが、「ウルトラマンの生みの親」金城哲夫についての次のエピソードだけは紹介しておきたい。 ゴジラ映画がヒットを飛ばしていても、東宝では「ゲテモノ映画なんて」と陰口を叩いているやつの方が実際には幅を利かせていたそうである。もちろん佐原さんはそんな腐れた人間ではない。『ウルトラQ』のロケ中に、金城さんは佐原さんにこう言ったという。 「佐原さんはやっぱり研究熱心ですね。(中略)私は、特撮が本当に心底好きでしかも手を抜かない俳優さんは、私なりに見抜けるつもりでいますよ」 昔も今も、特撮に偏見を持っている人間はいくらでもいる。最新作の『ゴジラ FINAL WARS』でも、「ちょっとこいつは」という役者がアレとかコレとかいなかっただろうか? ある意味、映画そのものが「特撮」であることを理解できない人間は、役者も、監督も、いや、ファンである資格すらないと思うが、どうだろうか。 東宝で、「怪獣映画に出ようとしなかった主演級の役者」は、たいていが映画界から姿を消して行ったと思う。役者とは何か、答えはももう出ているのだ。
2004年08月16日(月) 老けてるけどトシヨリってほどじゃないぞ。 2003年08月16日(土) 危険な予感/『空想科学大戦1』(柳田理科雄・筆吉純一郎) 2002年08月16日(金) ドリンクバーの果てに/『フラッシュ!奇面組』1巻(新沢基栄)/『永遠のグレイス』(川崎郷太・伊藤伸平)ほか 2001年08月16日(木) 代打日記 2000年08月16日(水) 橘外男&中川信夫ワンダーランド/映画『女吸血鬼』ほか
2005年08月15日(月) |
いつでも危険と隣り合わせ/『沈夫人の料理人』3巻(深巳琳子) |
昨晩、家に帰る途中で福岡空港のそばを通っていたとき、カメラマンがやたら集まって、滑走路に向かってシャッターを切っていた。何やってんだろうと思っていたのだが、朝のニュースを見ると、一昨日、JALウェイズ機が離陸直後にエンジン部分で爆発を起こし、600個あまりの金属片を散らばらせていたのである。 幸いにもすぐに着陸したので乗客に死傷者は出ずにすんだけれども、落下物に当たってやけどなどの軽傷を負った人はいたそうである。 しかし、テレビの映像を見ると、エンジンはかなり火を噴いていて、全くこれでよく墜落しなかったものだと呆れるほどだ。怪我人ゼロっての、奇跡に近いんじゃないか。 ところが国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会は、これを「航空事故とは見なさない」とし、調査官も派遣しないと決めたとか。さすがにこれには無能で知られる本県の麻生渡県知事も、現状を視察した後で「市街地の真ん中にある空港。重大な事故ではないとの考えは非常におかしい」と批判のコメントを出した。出したところで状況を改善できる力はないのだろうがね。 実際、福岡空港くらい「市街地に近い」空港というのも全国でも珍しいらしい。しかし何も市街地の真ん中にわざわざ作ったわけではなくて、市街地が後からこの空港を取り囲んでしまったわけだが。もともとは終戦間際に軍用に作られ始めたのだが結局は間に合わず、米軍に摂取されて基地として整備され、そのあと返還されて空港として使用されるに至った、というのが時代を知る父の説明である。民間のことを考えていないのは初手からだったわけだね。 今となっては、福岡空港は博多の町の再開発にとって(しなくていいとは思うが)目の上のタンコブになってしまっている。町が東に伸びるのをここで堰き止めてしまっているので、だからこそ今の福岡空港は潰して更地にしてしまって、交通と街の開発の邪魔にならない新宮沖とか雁ノ巣とかに新空港を作ってウォーターフロントに、なんて計画も何度となく俎上に上るわけだが、バブルがはじけちゃった後じゃあ、画餅どころか税金の無駄遣いで福岡経済の命取りにもなりかねないのである。こういう計画をポンと立てて進めちゃおうとするから麻生知事は評判悪いんだけどね。 今回の事故で、福岡のテレビ各局は一様に何年か前のガルーダ機の墜落事故を思い出して「福岡空港の危険性」を訴えているのだが、実際、これまで民家への墜落事故などがなかったのが不思議なくらいである。 そのことを考えれば、確かに「事故の原因究明」なんて悠長なことを言ってるんじゃなくて、今の空港を取っ払っちまった方が「危険のモト」自体が断てるわけだが、でもじゃあどこに新しく作ったらいいかって言うと、もう海を潰すか山を潰すしかないというところにまで来ているのである。そりゃ簡単に実現はできんわな。 結局、こんな事故がどれだけ続出しようと、こんな空港のそばに住んでること自体、運命と思って我慢していくしかないってことなんだね。NHK料金が安くなるのだけはメリットだけど。
夕方から父のマンションで送り火。 五時の約束だったが、もちろん父は三時に電話を入れてきた。 つか、マナーモードにしていたので気が付かなかったのだが、私の携帯を見てみると、既に二時に電話を入れてきていたのである。せっかちにもほどがあるってば。 ちょうど外出中で寿司屋にいるというので、そこで合流する。昔なじみの寿司屋で、もちろん回転などではない。当然、ネタは時価だが、美味さは格段だ。トロの脂身が舌の熱でとろけて、口いっぱいに甘く広がるのがもう至福の味わいである。適当に握ってもらったけれども、あとで勘定を聞いて目の玉が飛び出た。 「普通の寿司屋」ってのはやっぱり高級料理でさ、百円寿司って、ネタがよくないから当然なんだけれども、破格の安値なんだよねえ。
マンションに着いて、一息つく。 テレビを見ると、終戦記念日で(でも段々と「終戦の日」って呼び方をするようになったな)、また靖国参拝のニュースなど。 私がしげを指して、「こいつ、よく僕に『進駐軍に会ったことある?』って聞くんよ。いったい何歳だと思ってるんかねえ」と言うと、父は「それはおれのことやな」と言って笑った。 「お父さんは『ギブ・ミー・チョコレート』って言ったことあるん?」 「おうあるぜ」 「進駐軍を追いかけよったと?」 「道に落ちとるのを拾いに行きよった」 「チョコレートを?」 「チョコレートもあったばってん、缶詰を拾いに行きよったな。あれは米軍がわざと撒きに来よったっちゃろうな」 「ジープで?」 「そう。ともかく何にもないけん、何でん美味しかった。チョコレートも、多分、今のに比べたらたいして美味しゅうはなかったと思うばってんがな。 お前の婆ちゃんと、大きい婆ちゃんと、畑やら家の前の道で野菜ば育てて、それで料理ば作ってくれよったとやが、これがまたよう盗まれるとたい。ころあいやなあと思っとったら、次の朝、見たらくさ……」 「盗まれとる」 「そうたい」 父は笑った。 「ばってん、おれはお母さんみたいに苦労はしとらんけんな。お母さんの苦労はどんだけか分からん。引き上げでどんだけ苦労したか……」 「引き上げの途中で殺された人もおったやろうしね」 多分、それ以外にもいやなことはあったと思う。普通に考えれば、台湾にいた母の家族が、何事もなく帰って来れたはずはないのだ。父も母からそういう話は聞いているのだろう。それきり、口をつぐんだ。
道が混まないうちに、早めに送り火を焚くことにする。 焚き付けの新聞はこちらで用意してきたので、今度はオガラもすぐに燃えた。 父がまた「お母さん、長生きするって言いよったとに」とブツブツ文句を垂れるので、「お母さん、ずっと自分の方がお父さんより年上だってことで引け目感じてたから、お父さんが追い越すの待っとったっちゃろ」と言って揶揄する。 「おれは全然そんなこと気にしよらんかったとになあ」と笑う父。「十年やなあ」としみじみと呟いた。 祖母の死からはもう25年である。祖母が死んだとき、母が「婆ちゃんはまだどこかにいる気がするとよ」と呟いていたことを思い出した。人間は、死を実感することが一番難しいのかもしれない。葬式も盆も、儀式はみなファンタジーである。
所定の場所に線香を立てに行く。 毎年同じ川岸だというのに、しげはいつも道を覚えていなくて、自身なさげに車を走らせている。父も父で、もう十年このあたりに住んでいるのに「ここやったかな?」とやはりよくわからない様子。せっかちなところと言い、道をおおまんたくり(=適当)にしか覚えていないところと言い、血が繋がってないのに、こういうところは父としげは実の親子の私よりも似ている。 それでもさほど迷いもせずに現場に着くことが出来た。まだ五時前だというのに、マコモに包まれた供物も山と積まれているし、何蝋燭も何十本も立っているが、風で全て火が消えている。毎年思うんだけれど、風除けくらい付けられないものなのかな。
父からまた食事に誘われたが、さっき寿司を食ったばかりで、また食事ができるはずがない。通帳を早く作れとせっつかれたので、明日また会う約束をして辞去。 今年の盆も終わった。
毎日新聞が戦争の評価などについて、電話で全国世論調査を実施したところ、日中戦争・太平洋戦争などについて以下のような結果が出た。 「間違った戦争だった」43% 「やむを得ない戦争だった」29% 「分からない」26%。 アンケートというものがその質問の仕方によっていくらでも大衆操作ができることはもはや説明するまでもないことだが、この手の質問にうかうかと乗せられちゃってる人も結構いっぱいいると思う。何がインチキって、このアンケート、項目が少なすぎるのよ。肝心な質問項目が決定的に欠けている。 何が言いたいかっていうと、これにもう一つ、こういう質問を付け加えたら、「目からウロコ」だと思うんだけどね。 「やむを得ないが間違った戦争だった」。 あるいは、「間違っているがやむを得ない戦争だった」。 どっちを先にするかでニュアンスが変わるから、両方入れてもいい。そしたらこの二つの質問だけで六割以上は行くと思うが、どうかね。 つまり「大東亜共栄圏」という日本のスローガンは、「自衛戦争」でもあったが「侵略戦争」でもあったということである。中国も朝鮮も欧米列強の前ではまるでアテにならなかったのは事実だし、同時に資源のない日本が大陸の権益を独占しようとしたのも事実である。だとしたら両方の面があったって判断したらどうしてダメなのかね。 太平洋戦争についてだって、「アメリカに経済封鎖を受けたから、南進するしかなかった」。即ち、「やむを得なかった」面と、南方は日本の領土じゃないんだから「侵略」の面の両方があったことは事実で、どっちも否定できないでしょうが。 なんかね、二十年くらい前にね、「日本は侵略もしたけど、中国・朝鮮に対していいこともした」と誰ぞが意見を言ったらね、「侵略を正当化している」とアチラさんに曲解されて非難されてたんだけどね、そのときは決して「あれは侵略戦争ではなかった」とは誰も言ってなかったのよ。「侵略」の面だけをより強調したりするなって言ってただけで。 それが段々と論点が二極化されてね、もう「果たしてあの戦争は自衛だったのか侵略だったのか」ってどちらか一方しか認めないような二項対立の図式に意図的にずらされていったのね。だから上記のアンケートも、多分、毎日新聞自体、おかしいってことに気付いてないんだよ。 今や、「侵略」の面を強調するあまり日本の立場を全否定するサヨク連中と、逆に「自衛」やら「共栄圏」の面を主張することで「侵略」が全くなかったように装うウヨクの連中とに日本人は二極化しつつある。アンケート電話を受けた連中も、「質問がおかしい」とか「両方の面があるだろう」って見抜けなくなってるんだよね。 どっちの意見であろうと「洗脳」されてる点では同じ。まだ「分からない」って答えた人間の方がマトモだ。つまりマトモでない人間が七割以上いるってのが日本の現状なわけだ。たいへんな事態じゃないか。 私が何が言いたいかよく分からない人がいるなら、もっとストレートに言うけど、つまり、先の質問を受けて、質問のおかしさに気付かずに、「分からない」以外の答えを選んだ人は、もうそれだけで「洗脳されている」人か、「洗脳されやすい」人のどちらかなんだってことなんだよ? あなたはそうなってないか、自問自答してみたらどうかな? 日本にはね、「本気で戦争したがってる」人間は実際にいくらでもいて、別に街宣車でがなり立てるような行為に走らなくても、何食わぬ顔をして社会の中に溶け込んでるんだからね。自分の頭で考える力をなくしてる人たちは、気が付かないうちにいいように動かされちゃうかもしれない。もう動かされてないかな? 国家のことや政治のことを日頃から得々として語る人は、右だろうと左だろうと、それだけで既にイカレちゃってると判断されても仕方がない。身近にそんなやつがいたら、上記の質問をしてみよう。それでその質問のおかしさに気付かなかったり、ムキになって自分の主張を押し付けようとしたりしてきたら、その人はもう考える力を根元からなくしてしまっていて、その思想はとっても危ない誰かさんに植え付けられたものだってことなんだよ。 危ない危ない。近づかない方が無難無難。
マンガ、深巳琳子『沈夫人の料理人』3巻(小学館)。 精進料理の「精進」は、中国語だと(北京語かな?)「jingjin(チンチン)」というのだそうな(笑)。誰かもう『トリビアの泉』には送ったかな? 美食家の沈鳳仙夫人のために料理の腕を振るう李三の奮闘を描くシリーズ第三弾。苛められれば苛められるほどその技量が発揮されるという李三のキャラクターは、あまりにも卑屈すぎて好感は持てないのだが、Sっ気(サドの方ね)のある人は、沈夫人になったつもりで、李三の右往左往を楽しめるだろう。 正直、料理マンガというのは本当に料理が食えるわけじゃなし、料理を取り巻くシチュエーションやドラマがいかに工夫されているかによって良し悪しが決まるものだ。今回は李三を陥れようとする新しい召使・高子安や、ついにその究極の麺打ちの技を披露する李三の兄・李大など、李三が始終オドオドビクビクしているのを叱咤するようにアクの強い魅力的なキャラクターがどんどこ登場してくる。 何よりやはり、ヒロインである沈夫人のサドな魅力が、本作を他の凡百の料理マンガと一線を画す要因となっている。もちろん、サドなだけが彼女の取り柄なのではない。彼女はただの意地悪女ではなくて、豊かな知性と、李三の料理人としての類稀なる腕を見抜いている洞察力、あまりに惨めっぽい李三についほだされてしまう可愛らしさ、そういったものを併せ持っていて、だからこそどんなに高慢ちきな態度を取っていても許せてしまうのである。 最初は前近代の中国を舞台にした料理マンガとは、気を衒ってるばかりでそんなに続かないんじゃないかと思っていたのだけれど、1巻より2巻、2巻より3巻と、俄然面白くなっている。1巻のころにはまだ自信なさそうな線も次第に伸びやかに、整ってくるようになり、登場人物たちの表情も実に生き生きと、微妙な感情まで表現できるようになっている。
マンガ、細野不二彦『ダブル・フェイス』7巻(小学館)。 『ギャラリーフェイク』に比べるとエピソードごとに何となくムラがあって、これまではやや停滞気味だった感じの本作。『フェイク』がめでたく完結したので、作者はこちらの連載の方に力を入れるようになったんじゃないかと想像していたのだが、これがそれほど面白くなってはいないのだね。 まあ確かに「春居筆美」の正体に小泉じゅんが少しずつ迫っていく過程は面白くはある。けれど、Dr.WHOO以外のキャラクターをあまり非現実的なものにしてしまうと、肝心のDr.WHOOが霞んで見えてしまうのである。あの「シロウサギ」ってのは何なんだろね。 シロウサギの陰謀(ってのが、Dr.WHOOとの過去が具体的に描かれないから、どういう陰謀かもよく分かってないのだが)を食い止めるために、Dr.WHOOがシロウサギの愛娘を誘拐するってのは、細野さん、アタマでもイカレたのかと疑いたくなるくらいにデタラメな展開である。 それじゃあ、Dr.WHOのほうが明らかに「ワルモノ」じゃないのよ。読んだあと、何とも重苦しい気分なって、とてもカタルシスなどは得られなかった。 連載が長くなると、「これはいったいどうしちゃったんだ」って言いたいくらいに話が矛盾だらけになり、迷走する癖をこの作者は持っているのだが、今回もそんな感じになりそうな気配である。 あまり長く続けずにあと1、2巻くらいで完結させるのがよかないかなあ。
2004年08月15日(日) この日を記念日にしたのは「盆」だから? 2003年08月15日(金) 記念日って何の/DVD『レッド・ドラゴン』 2002年08月15日(木) 母の呼ぶ声/『フルーツバスケット』5〜9巻(高屋奈月)/『神罰』(田中圭一) 2001年08月15日(水) 代打日記 2000年08月15日(火) 盆休みも終わり……なのに毎日暑いな/映画『シャンハイ・ヌーン』ほか
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
☆劇団メンバー日記リンク☆
藤原敬之(ふじわら・けいし)
|