無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年08月17日(土) しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん/アニメ『プリンセスチュチュ』第1話/映画『ピンポン』

 排水溝が詰まったせいか、クーラーから水がシトシト垂れ始めた。
 3、4年前にもそんなことがあって、そのときは電器屋さんに来てもらって、掃除機でゴミを吸い取ってもらったのである。
 要領は解っているので、今度は自分でゴミを吸い出しゃいいや、と思って、しげに「掃除機出して」と頼む。
 「掃除機あるけど、困っとうっちゃ」
 「何が」
 「本体はあるけどホースがないと」
 「……なんで?」
 「さあ?」
 「さあじゃないだろ、使って片付けたの自分なんだから思い出せよ」
 掃除機の在り処はしげの頼りない記憶を頼みにするしかないが(矛盾した表現だよなあ)、問題は滴り落ちる水である。
 洗面所からバケツを持ってきて、滴りの下に置く。
 ……なんだかこういう光景、昭和初期の日本映画でよく見たなあ。マンガでも40年代頃まではこんな絵がよく出て来てたものだったけど、ありゃ雨漏りだったな。現実の雨漏りを経験したことはもう三十年以上も昔だ。なんだか懐かしいなあ……って懐かしがってどうする。
 バケツを置いても結構な高さがあるので、飛沫が撥ねて絨毯はやっぱり湿ってしまう。それで絨毯の上にバスタオルを敷いて、その上にバケツを置く。バケツはほぼ6、7時間ほどで一杯になる。水をベランダに流そうとして、手がすべる。バスタオルも絨毯も水浸し。
 なにやってんだろうなあ、オレ。


 昼間、しげの白髪を抜きながらCSキッズステーションオリジナル制作アニメ第3弾、『プリンセスチュチュ 卵の章』1.AKT「あひると王子さま」を見る。
 『セーラームーン』『魔法使いTai!』のスタッフが再結集、という触れ込みだが、より原案・キャラデザインの伊藤郁子色を前面に出したって印象。佐藤順一監督はサポートに回ったって感じだね。
 『Tai!』も相当ヘンなアニメだったけれど(なぜナルト?)、それがマトモに見えるくらいヘンなアニメにしあがってるよ。

 一見、ごくフツーの人がごくフツーに生活してるように見える街、金冠町。
 そこにバレエを初め、芸術を教える金冠学園という、大きな学校がある。
 ヒロインの女の子の名前はあひる。
 ドジでノロマだけれど、プリマを目指して、初級クラスに通っている。
 なぜかクラスの先生は猫。でもどうやらそれがこの「世界」では普通のことらしい。
 「世界」?
 そう、この世界はどうやら不思議な世界。
 昔々、悪いオオガラスと戦って、そのときに受けたキズがもとで心をなくしてしまった王子様の、心のカケラが散らばって、どこかに眠っている世界。
 あひるもホントは、ホンモノのあひるなのだ。
 ある日、水辺で悲しみに沈みながら踊る美しい王子様を見て、「この人を助けたい」と思った。
 そこに現れた謎のお爺さん、ドロッセルマイヤー。
 「王子様の心を取り戻すために、プリンセスチュチュになるかい?」
 と、無気味に笑う。
 王子様は今、「みゅうと」という名前になって金冠学園にいる。あひるは言う。「王子様を救えるなら、死んでもいい」。
 そして、契約はなされたのだ。

 うーむ、こりゃ、伊藤&佐藤版の『少女革命ウテナ』だね。
 え? そんなに妖しいのかって? 妖しいですよぉ(* ̄∇ ̄*)。
 なんたって、「心をなくした王子様を助けるお姫様」の話なんですから。

 巣立ちを迎えたヒナ鳥が屋根から飛び立とうとしている。
 みゅうとは、それを窓から身を乗り出してぼんやり見つめている。
 寝起きなのか、彼は裸の上にシャツ一枚。
 風にシャツの端がはためいて見えそうだ(何が)。
 その風に煽られたか、ヒナ鳥はバランスを崩して落ちる。
 みゅうとは思わず窓から飛び出す。
 心をなくしているから、自分の命の危険すら分らないのだ。
 ドロッセルマイヤーの声があひるの心に響く。
 「このままだと王子様が死んじゃうよ」
 そのとき、あひるのペンダントが光る。
 あひるの姿がまばゆいばかりの光に包まれ、プリンセスチュチュに。
 音楽が鳴り響く。あの曲は。
 「花のワルツ!」
 校庭一面に広がる、花、花、花。
 その花の中に落ちるみゅうと。
 こうして、あひるは王子様を助けた。
 けれどドロッセルマイヤーの不気味な声が再び聞こえてくる。
 「でも、お前はただのあひるなんだよ」
 そう、あひるは、本物のあひるになっていた。

 うわあ、なんだか女の子の願望を突き放すような冷たいアニメだなあ。
 御伽話のお姫様は、普通、王子様に救われるのを待っているものだ。
 『少女革命ウテナ』では、お姫様を助ける王子様がいないから、お姫様が王子様になろうとした。「でもいいの? それで」と突っ込まれながら。
 本作では既にお姫様自体、救われる側にいない。王子様の方が、お姫様が来るのを待っているのである。
 けれど、お姫様は実はただのあひる。みにくいあひるの子。だからこそ「お姫様」のつもりになって、自分が助けられる夢に浸っていたかったのに、気がついたら自分が王子様を救う側に回らなきゃならなくなっていたのだ。
 え〜、女性の方にケンカ売るような解説になっちゃいますが、要するに女性の客観的な価値って、美貌と若さしかないって話なんですよ。それがあるからこそ、それにすがって、女の子は王子様を「待って」いられた。けれどアナタに美貌も若さもなかったらどうします? ただのあひるだったら。「王子様を救う」って新たな価値を持つしかないんですよ。自分をプリンセスだと信じて。
 どうですか? アナタに王子様は救えますか?
 久しぶりに毎週がタノシミなアニメが出てきました♪ CSに入ってる人はぜひ見てみましょう。


 博多駅でよしひと嬢と待ち合わせ、シネリーブル博多駅で映画『ピンポン』を鑑賞。
 松本大洋の原作は読んだことがないので、虚心坦懐に見ることが出来たんだけど、映画として多少メリハリがない点や、マンガチックな表現が足引っ張ってる点はあるものの、全体的には悪くない。

 マンガと映画の表現は、ムカシムカシ、それこそ天と地ほども違っていた。
 手塚治虫の例を引くのは今更だが、まずはマンガ側が積極的にクローズアップやカットバックなどの映画技術をマンガ的表現に組み替えていったのが戦後のこと。70年代あたりになると、マンガ的カリカチュアを映画も取り入れるようになり、双方の「乗り入れ」が頻繁になっていく。もちろんマンガを映画にそのまま持ち込むわけにはいかず、そこにはやはり「映画的処理」というものが必要になるのだが、それはある意味、原作の否定にもなる。そこが原作ファン、映画ファンとの間に確執を生むことにもなった。問題はなかなかに難しい。
 具体的に言えば『ブラック・ジャック』の映画化である。大林宣彦の『瞳の中の訪問者』には宍戸錠のブラック・ジャックが、あのツギハギの顔、半白髪に黒マントという姿で登場したが、当然、リアリティのカケラも感じられないヒドイ出来だった。常識的に考えるならせいぜい頬のキズ程度に留めておくのが賢明だろう。しかし、それが手塚治虫のブラック・ジャックではないことは明らかである。
 葉っぱをくわえてない『ドカベン』の岩鬼正美、「ちょんわちょんわ」をやらない『花の応援団』の青田赤道なんて意味がないことはわかるが、原作どおりのスタイル、行動を実体を持った人間にやらせれば、結果的には失笑もの、あのテイタラクになってしまうのだ。これだからマンガの映像化は難しい。だからたまに「原作から抜け出たような」イメージの映像化に出会うと、我々は狂喜したものなのである。木の内みどりの水原勇気はよかったなあ(* ̄∇ ̄*)。薬師丸ひろ子の山葉圭や、宇佐美ゆかりの若松みゆきも。なんか単にかわいい女の子ならどれでもいいみたいだが。

 『ピンポン』の話に戻そう。
 原作を読んでいないだけに、逆にこのへんはマンガの表現そのまんまだなあ、とか、ここはマンガを映画的に改変したんじゃないか、というところがかえって目につく。
 もともと、キャラクターにペコ、スマイル、アクマ、チャイナ、ドラゴンなどとニックネームをつけるのは1、2時間という短い時間でキャラクターを印象付けるための映画的手法である(もともとは短編小説の手法。長編だと主人公は逆に名前を変え職業を変え、という場合が東西を問わず圧倒的に多い。ジャン・バルジャン=マドレーヌとかね)。長編で仇名を使うと、これ、かえってキャラクターが無個性化かつ匿名化するんだよね。マンガ長編でこの手を使った松本大洋がどれだけこのことを意識したかは分らないけれど、恐らく、マンガは「妙な違和感」を内包してしまったのじゃなかろうか。
 ペコにだって本名はあるはずだ。マンガの中で彼がどれだけ本名で呼ばれるかは知らないが、しかしペコと仇名をつけられれば、ペコはペコ以上のものでも以下のものでもなくなる。ペコでない時間を過ごすときもあるはずなのに、読者は彼をペコとしてしか認識しない。これは作者にとっては不利なはずなのだ。それを松本大洋が押し通して長編をものにしたとすれば、さて、マンガのほうはどんな展開になっているのか、気になるところだ。
 映画のほうは2時間しかないから、そういう「違和感」はほとんど存在しない。ペコにも星野裕という本名があるのだが、彼は常にスマイルの目を通して見つめられる構造になっているので、終始ペコとして機能している。スマイルやアクマには、まだ、スマイルやアクマでない時間も描かれているのだが、ペコだけは特別なのだ。まさしくペコは、子供のころもスランプのときも、映画の間ずっとペコであった。「『さん』くれろ」のセリフは「ペコ」の枕詞であり、まさしくこのセリフがペコを「映画」の主人公に仕立てている。マンガが取り入れた映画的手法が、本来の生まれ故郷である映画に戻っていったような印象だ。
 逆に、マンガチックな表現が違和感を生じさせているシーンの最たるものはバタフライジョーの背に生えた蝶の羽である。一見、映画的に見えるが実はリアルさに欠けるあの表現は、映画の整合性を考えればカットしてしかるべきであった。原作を読んでいるよしひと嬢に「あのシーン原作にもあるの?」と聞いたら頷いていたから、これがまさしくマンガを映画に移すときの困難さを克服できなかった実例だろう。
 これは映画オリジナルじゃないか、と踏んだのはオババだ。
 あんな艶っぽいキャラは松本大洋の原作にはとても登場しそうにないなあと思って、よしひと嬢に聞いて見たら、原作はホントにただのオババなデザインだそうな。この変更は正解で、奇しくも映画とマンガとでは「婆さん」の持つ記号の意味の違いを表している。
 マンガだと「婆さん」はどのマンガでも地位を確立していて、「仙人」であったり「マスター」であることの記号をデザイン段階から持ち得ている。『らんま1/2』のシャンプーの婆ちゃんなんかがいい例だ。それに対し、映画では婆さんは何かを付け加えない限り、どうしたってただの婆さんにしかならない。北林谷栄も三戸部スエも丹阿弥谷津子も千石規子も野村道子もみんな普通のお婆ちゃん。日本のお婆ちゃんで普通でない婆あを演じたのは、『紅孔雀』で黒刀自を演じた毛利菊枝さんとか、『大盗賊』で地獄谷の婆を演じた天本英世さんくらいのものかも(^o^)。原泉も確かなんかの魔女演じてたような。
 つまり、オババを市原悦子や泉ピン子が演じてもインパクトがないのだ。夏木マリを配役し、艶っぽさを加えたことによって、彼女に関わるペコやバタフライジョーにまでその「魔力」が伝播する。夏木マリがかつて憧れた男だからこそ、竹中直人は竹中直人なのにカッコよく見えるし、ペコの復活にも説得力が生まれるのである。
 彼女をオババと呼んだのはペコたちだろう。この呼称はまさしく「魔女」としての「オババ」である。だとすれば、そのキャスティングに関しては、マンガの絵面よりも、「魔女」を演じることのできる俳優は誰か、という視点で選ぶのが当然の帰結だ。「マンガのイメージと違う」ということで、夏木マリを否定するなら、映画の見方をまるで知らないと排斥されても仕方なかろう。
 だから、頬擦りされるなら市原悦子と夏木マリのどっちがいいですかって話で(^o^)。こういう姐さんに「愛してるぜ」と言われたら死んでも悔いはないですよ、ホント。


 よしひと嬢の希望で「五風」で食事。
 真っ先にタコワサビを頼むよしひと嬢。しげは辛くて食べられないが、こういうところでオトナとコドモの差が出るな。
 刺身、テンプラ、焼肉と三人で食いまくる。おかげで昨日取り戻した税金が一気に吹っ飛ぶ。しげ、少しは手出ししろよな。

 帰宅して、DVD『ミニパト』や『ラ・ハッスルきのこショー』『パパ・センプリチータ』など、よしひと嬢に見せてなかったモノを連続してかける。
 『ミニパト』は押井守&榊原良子ファンのよしひと嬢には痛く楽しんでもらえたよう。一心に画面に食い入る様子を見てると、オタクの血がうずいてきて、ついつい聞かれもしないことをトウトウと喋る。
 「今のとこ、セリフが飛んだでしょ? 実は押井さんの脚本、カットされてるんだよ。何しろ押井さん、メカデザインの○○○さんが大っ嫌いでさ、そのことまんま脚本に書いちゃったもんだから、監督の神山さんが削ったんだって」
 オタクがモテないのはこういうところなんだよなあ。なのに、イヤそうな顔一つしないで、ニコニコ聞いてるんだから、全く、よしひと嬢も心が広い。でも内心では実は、「ウゼェよこのオタク」とか思ってんじゃないかなあ(^_^;)。
 今朝見たばかりの『プリンセスチュチュ』も録画しといたのを見せたら好評。やっぱり猫先生が可愛いみたいだね。みゅうとがシャツ一枚で鳥を助けようと身を空へ投げ出すシーンで、思わず「か、『風と木の詩』!」と叫んでいたのは内緒にしておいてあげよう(^o^)。
 そうこうしているうちに深夜。
 しげは「まだ『カタクリ家の幸福』見せてない」と不満気であったが、よしひと嬢がダウン。なんだかウチに来るたびにビデオ責めにされてるような気がするが、これも我々夫婦に関わってしまった不運と思って諦めて頂きたい。勝手ですみません。

2001年08月17日(金) 代打日記
2000年08月17日(木) 明日から仕事/『夜刀の神つかい』(奥瀬サキ・志水アキ)ほか



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