無責任賛歌
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| 2005年09月21日(水) |
古希の憂鬱/『昭和の東京 平成の東京』(小林信彦) |
博多駅の「紀伊国屋」と「GAMERS」で本を買い込む。 先週までずっと森田雄三さんとイッセー尾形さんのワークショップ&公演で、本を読む余裕があまりなかったので、いつもより多めに買うことになった。 『のだめカンタービレ』の新刊13巻などは、よしひと嬢のお宅で読ませていただいていたのだが、やはり自分で買って持っていないと落ち着かないのである。これは首尾よく入手できたのだが、同じく、よしひと嬢宅で読んで極悪非道冥府魔道なオタクの実像を活写して思いっきり笑わせてもらったよしながふみの『フラワー・オブ・ライフ』2巻の方は、どうやら売り切れてしまっていたようでどこにも見当たらない。 よしながさんのマンガは、基本的には腐女子仕様だから、東京の高岡書店あたりなら大人気だろうけれども、福岡のようなオタクがオタクとして確立してない田舎ではそんなに売れ行きがいいとも思えない。多分、もともと入荷部数が少なかったのだろう。つかさー、「GAMERS」の店員、「もともと取り扱っておりません」なんて言いやがったぞ。オタクのメッカとしての自覚はないのか(別にメッカにならなくてもいいが)。やっぱりこの手のマンガは「とらのあな」に行かなきゃダメなのかね(注・今回はBLモノではありません。匂いはちょっとあるが)。 十年ほど前に比べれは、大型書店が増えて本は手に入りやすくなったが、反面、近所の小さな個人経営の本屋が潰れていって、売れ残りの本をそこで探すことができなくなったのはかなり痛手なのである。前にも日記に書いたかもしれんが、貸し本屋時代からの付き合いのあった近所の本屋が消えたのは本当に悲しかった。コンビニじゃダメなんだよう。
明日が父の70の誕生日なので、仕事帰りに父を誘ってしげと三人で食事をする。 場所は近所の「かに甲羅」。近所にあるからと言って、しょっちゅう行きゃしない店である。かにの刺身にかにの天ぷら、かにの吸い物にかに釜飯と、かに尽くしである。膳のほかにかにのチリソースまで頼む。父が粗食で(酒は飲むが)自分は控えて私やしげに「どんどん食べり」と勧めるものだから、私もしげも充分以上に腹がくちた。これだから私もしげも痩せないのである。 父は誕生日を祝ってもらえて上機嫌なのだが、口を突いて出るのはまた姉の悪口である。今日も食事に誘われたのを、私らとの食事を口実に断ったとか。 姉に含むところのない私は「姉ちゃんも一緒に誘えばよかったのに」と言うが、父は頑として首を縦には振らない。年を取ると、こういうところだけはどんどん意固地になるのである。「姉ちゃんがつんだお客さんが、また俺につみ直してもらいに来るったい。おれがおらんごとなったら、店は続かんよ。それが姉ちゃんには分からんけん、困っとうったい」。 頑固親父が君臨して新しいお客さんを開拓できずにいたことも痛手だと思うんだけれども、何かもう、何を言っても通じない。姉ちゃん、いつまで持つかなあ。 で、喋ることはもう会うたびに同じことの繰り返しだ。「こないだ近所の敬老会から誘われて飲みに行ったったい。もう70やけんな」と、笑って言うのだが、その話を聞かされるのはもうこれで四度目なのであった。
久々に『トリビアの泉』を見る。と言っても偶然チャンネルが合っただけ。 番組が始まったころは腹を立てながらも毎週追いかけて見ていたものだったが、演出のつまんなさに閉口して、もう随分前から積極的に見ようって気がなくなってしまっているのだ。私も大概馬鹿馬鹿しいだけのギャグであっても嫌いにゃならないんだが、つまんないだけのギャグにはちょっと付いて行けないのである。 今回は『アルプスの少女ハイジ』ネタが二本続いて、アルムおじいさんの過去がどうのこうのという、ネタ自体もつまらないが、演出もわざとらしくて笑えないもの。ゲンナリして、もう何がどうつまらないか詳述するのもツラいくらいだ。そんな「常識」がなんで「へぇ」のネタになるのだ。 いや、ネタが薄いことを今更あげつらったところで仕方がない。スタジオで「へぇへぇ」と暢気にボタン押してる連中が『ハイジ』のアニメをまともに見たことがなければ、原作を読んだこともないやつらだということについても怒りはすまい。「常識」とか「素養」なんて言葉はとうにこの国では無意味に成り果ててしまっているからだ。 けれどそれでもどうにも情けないのは、「どうせ視聴者は馬鹿なんだからこの程度のネタと演出で充分」という番組作りを、たいていの視聴者が無批判に享受している現実である。知識とか素養ってのは、そのバックボーンに複雑に絡み合った膨大な大系があるもので、それを我々は普段は自覚してはいないけれども、日常のちょっとした場面で、ひょんなことからその繋がり合っているものがひょいと顔を出してくることがある。知識を売りものにするのなら、そういう部分にこそ着目しなきゃならないのだが、それが『トリビア』にはないのである。 既に巷では「へぇ」を口にすること自体、恥ずかしい行為に成り果ててしまっているんだけど、まだ続くんかね、これ。
今日読んだ本、小林信彦『昭和の東京 平成の東京』(ちくま文庫)。 1964年から2002年までの「東京」をキーワードにしたエッセイを集めた本の文庫化。 「東京」に思い入れがない(大学時代の四年間しか住んだことがない)地方人がこういう土着エッセイを読んで面白いかというと、これが実に面白いのである。 一つには、私が博多の「職人」の家に育ったということがあると思う。小林さんが活写する「東京の職人」像、「土着の人間は実にていねいな口調」というのは、「博多の職人」にもそのまま当てはまるのである。物腰の柔らかさが、東西を問わずの「職人」の共通項なのだろうかと思ってしまった。 「博多弁」と聞くと、江戸っ子の「べらんめえ」以上に乱暴で、始終喧嘩を売っているように聞こえる、というのが世間のイメージであるようだが、私の記憶する限り、祖父や祖母の使う博多弁は実にきれいなものであった。孫が遊びに来ても「よう来んしゃったね」と、必ず敬語を使う。子供に対しても敬語を使うことを忘れないのが博多の「職人」の文化だったのである。「よく」「長く」「若く」などの形容詞の連用形が古文よろしく拗音に変化して「よう」「なごう」「わこう」と柔らかくなるから、耳にも聞こえよい。差別的な物言いになるので控えるが、現実に「汚い博多弁」を使っているのは、一部地域の博多人なのである。 「下町人情」についても、東京と博多とでは共通点が多い。「人情」などと言うと、どうしたって我々は映画のイメージが優先してしまうから、東京の場合、それは中村錦之助の「一心太助」とか、渥美清の「寅さん」が脳裏に浮かんでしまう。けれど、もちろんそれが虚像に過ぎないことを、小林さんは自分の「実体験」から照射していく。「下町の人というのは、自分の感情をかくすものです」と書かれているが、「ああ、爺ちゃんも婆ちゃんもそんな感じだったよなあ」と納得してしまうのである。 小林さんの経験は小林さんの個人的な経験でしかなく、これをもって「下町」のイメージを規定してしまうのはどうか、という意見もあるとは思う。私の「博多っ子」のイメージだって、煎じ詰めれば「ウチの近所はそうだった」ということであって、普通のサラリーマンの家庭の博多っ子が私と同様の感覚を持っているとは考えにくい。けれど、「下町」が一般的なイメージとしても「職人と商人の町」であり、博多もまたかつては「そうであった」ことを考えると、その視点から街を見てきた小林さんの視点に一定の根拠があることは決して否定できることではないと思うのだ。 東京もこの50年の間に変貌し、博多もまた変わった。博多もまた「職人と商人の町」ではなくなった。私の博多人のイメージもまた過去の郷愁に彩られたものでしかなくなってしまっているが、だからと言って、「今の博多が正しい」と過去を何も知らない若造に抜け抜けと言わせておくほど、過去は歴史になっちゃいないのである。なくなったものを元に戻せと言いたいのではない。「一度お前たちが無くしてもう元に戻らないものは、こんなものだったんだよ」ということを知った上でないと、「自分もまたいつか何かを失う」事実を現代人が受け入れられなくなると思うのである。 その喪失感を覚悟することができなければ、人は簡単に「幻想の世界」にさまよい出てしまうことになるのだが、そういった事件、最近はやたら増えちゃいないかね。
マンガ、夏目義徳『クロザクロ』5巻(小学館)。 面白くなって来てるんでしょうか、このマンガ。表紙イラストは毎回凄くいいんだけど、本編のモノクロマンガになると、一気に絵に華がなくなっちゃうんだよね。 いや、話そのものも『寄生獣』の安易なパクリっぽくなってきて(ザクロがミギーなわけだな)、やっぱり「対決モノ」にシフトしていっちゃって、「乗っ取るもの」と「乗っ取られるもの」のコミュニケーションのズレの面白さがなくなってきてしまった。ザクロの真の姿が「青年」というのも興醒め。子供の姿だからこそ、その冷徹さが際立つのに。 なんだかだんだん『トガリ』の二の舞臭くなりつつあるように思えてならないんだけど。
マンガ、ゆうきまさみ『鉄腕バーディー』10巻(小学館)。 話がちょっとモタモタしてきたかなあ。キャラクターが増えすぎて、うまくまとめられなくなってきてるような、全体的に印象が薄くなっちゃってる。だいたい、主役のバーディーがここんとこ失点続きで、カッコよくない。今巻でも、千明の奪還に完全に失敗してしまっている。ゴメスに預けといた方がなんぼかマシって、その通りじゃん。主人公なんだからさ、もうちょっとアタマ使った活躍させてほしいよなあ。 つとむの姉ちゃんのはづみがどうも獣人化計画に巻き込まれそうなんだけれども、これも前巻あたりから延々引いてて、ちょっと飽きが来ているのである。この姉ちゃんに魅力があれば、まだハラハラドキドキもしようってものなんだけれども、フツー過ぎて、緊迫感が出ないんだよね。総じて最近のゆうきさんの描くキャラはデザインはいいんだけれども、内面的には底が浅くてイマイチ立ってない。私ゃもう、このマンガはゴメスが好きで読み続けてるようなもんだ。オジサンがオジサンに萌えてどうするよ(苦笑)。
「萌え」で思い出したが、昨日、電車に乗っていたら、男子高校生一人と女子高校生二人が乗り込んできて、こんな会話をしていた。 女子1「あんたさあ、メイドカフェとか興味あるやろ。オタクやし」 男子「何それ? メイド……何?」 女子2「メイドカフェ。天神にあるっちゃろ? 行ってみたくない?」 男子「よう分からん」 女子1・2「(唱和して、両手を男子に向かってヒラヒラさせながら)萌え〜、萌え〜」 男の子は剣道の市内を持っていたから基本的にはスポーツ少年なのだろうが、こういう男の子にもオタク菌は蔓延しつつあるようである。 つか、電車の中で「オーレ、オーレ」みたいな口調で「萌え〜、萌え〜」とやらかす女子高生が存在するような時代になるとは、オジサンちょっとビックリしちゃったよ。
2004年09月21日(火) マーシーって愛称もなんか好きになれなかったが/DVD『Re:キューティーハニー』天の巻 2003年09月21日(日) 劇団の激談/『美女で野獣』3巻(イダタツヒコ)/『バジリスク 甲賀忍法帖』2巻(山田風太郎・せがわまさき) 2002年09月21日(土) 世界の王/『パラケルススの魔剣 アトランティスの遺産』(安田均・山本弘)/『パンゲアの娘 KUNIE』5巻(ゆうきまさみ) 2001年09月21日(金) 子供のころは本屋さんになりたかったのさ/『多重人格探偵サイコ』7巻(大塚英志・田島昭宇)ほか 2000年09月21日(木) 笑顔とブレゼントとオタアミと
| 2005年09月20日(火) |
森田さんとイッセーさんのワークショップ余燼/舞台『ドレッサー』 |
日記の更新はしないつもりだったけれども、いくつかの「出会い」があったので、簡単に。 昨日の今日だと言うのに、またまた仕事帰りにしげと「リバーウォーク北九州芸術劇場・大劇場」まで舞台『ドレッサー』を見に行く。舞台劇の映画化で、アルバート・フィニー主演で映画化もされたこともあるバックステージものだ。「リア王」を演じる座長役が平幹二朗、ドレッサー役が西村雅彦、「コーディリア」を演じる座長の妻役が松田美由紀。 平幹二朗の演技はまさに磐石なのだが、やっぱり西村雅彦が台詞を覚えて言うので手一杯のシロウト演技で見るに耐えない。平さん相手に緊張したのか、何をどう演技しているのかも自分では見えていない様子だ。完全に自分の役どころを間違えていると言っていい。おかげで戯曲の面白さ自体が半減してしまっているので、これはもう平さんの演技を楽しみに行くだけの意味しかなかろう。
客席に座っていたら、肩をポンと叩かれたので、誰かと思えば、昨日までワークショップでご一緒していた若い女性の方であった。オバサン声と言うか、ちびまる子ちゃん声のOLを演じられて、昨日の交流会では「こんな声を出したのは中学以来です」と仰っていた方である。 「昨日ははぐれてしまって一緒に写真を撮れなかったので、ぜひ」と頼まれて、観劇のあと、しげと私と、それぞれその方とツーショットで写真を撮る。ワークショップの間中、私は皆さんの足を引っ張っているなあと感じていたので、こんな風に声をかけていただけたことがとても嬉しい。 「もう公演はないのに、つい、『今度はこんなセリフを言ってやろう』とか考えてませんか?」と聞くと、「そうですね。また舞台に立ちたいです」と仰る。あれだけ森田雄三さんに怒鳴られまくったというのに、みんな「懲りて」いないのだ。演劇の魔力に取り憑かれたと言った方がいいだろうか。 「来年またお会いできたらいいですね」とお話しして別れる。実現するかどうか分からないけれども、あれは、参加者のみんながそんな風に思えるような、素敵な舞台だったのである。うちの劇団の舞台がそんな風にならないのは、やっぱり「たいして芝居に興味もないのにつきあいやらで参加している」連中ばっかりだからだろうな(涙)。
帰宅してネットを開いてみると、掲示板にやはり公演でしげと同じシーンに出演されていた方からの書き込みがあって、返事を書く。そんなことをしていたら、昨日までの興奮がまた心の中に蘇ってくる。職業も年齢も立場も全く異なる人々ばかりだったが、かけがえのない「出会い」がそこには生まれていたと思う。「何かを共有した」そういう「絆」のようなものがなければ、こうして声をかけてきては下さらないだろう。 森田さんやイッセーさんが、どシロウト相手に自らの寿命を確実に縮めているに違いない(苦笑)こんな企画を、なぜ続けているのか、実はずっと疑問であったのだが、その理由はまさにこのワークショップの「あとの出会い」にまで森田さんたちが目を届かせていたからなのではなかろうか。ともかくこの一週間で、森田さんの、イッセーさんの人間洞察力には圧倒されてきた。「演劇」にはそれが何より必要なのである。 私がワークショップで適当な知識を披露していた時(もちろん「そういう演技」をしていただけで、ウソをつこうとしてついていたわけではない)、回りの人たちはそれをみんな本気にしていたのに、森田さんだけは「デタラメもそれだけ続けば立派だよな」と笑って仰っていた。何という慧眼であろう。 昔、森田さんやイッセーさんのスタッフだったけれども、仲違いしてプロの評論家になられた方を私も知っているが、その方と森田さんが「合わなかった」のも、森田さんのワークショップを受けたあとでは充分に納得できるのである。森田さんから見れば、あの人は「かわいそうな人」でしかないだろう。底の浅さを知識で糊塗しようとしても、見抜く人には見抜かれてしまうものなのである。
2004年09月20日(月) 爆睡の一日/『名探偵コナン特別編』22巻 2003年09月20日(土) 優柔な憂愁/『よみきりもの』5巻(竹本泉) 2002年09月20日(金) ついに発売! アレとアレ(^o^)/映画『インソムニア』ほか 2001年09月20日(木) ま、映画さえ見られりゃいいんだけどね/『夜刀の神つかい』4巻(奥瀬サキ・志水アキ) 2000年09月20日(水) 頭痛と頭痛と頭痛と……/ムック『山下清のすべて』
| 2005年09月19日(月) |
自分が出演したから言うわけじゃないが/舞台『イッセー尾形とフツーの人々 北九州編』最終日 |
四日間のワークショップ、三日間の公演と、一週間に渡る『イッセー尾形とフツーの人々』の日々が終わった。 この間のエピソードを綴っていけばそりゃもう面白いことの連続であるのだが、そんなん全部書ききれるはずがない。レポートを一日刻みで書くことなんか、私ゃもう放棄したぞ。それに、今回の公演は本名での参加なので、あまり具体的に書いちゃうと参加者の誰が私であるか、知人以外にもバレちゃうのである。だから詳しいことはそのうち詳しいレポートがアップされるであろう「イッセー尾形のホームページ」をご参照いただきたい。もしかして写真がアップされていても、「藤原敬之ってこいつかな」とか類推しないでいただけると助かります(笑)。 総括的に書くなら、今回のワークショップは、演劇を本格的に学ぼうという人のためのものではないにも関わらず、最も演劇的であったという点で刺激的だった。発声練習もなければ肉体訓練もない。森田さんは演技指導すらしない。参加者が「ここはこうすればいいんですか?」と聞けば「知らねえよ!」と怒鳴り、質問を禁止する。 あったのは、私たちの考えてきた演技に対して、森田さんが延々と発し続ける「面白くない!」「それは違う!」「受け答えをするな!」「喋り続けろ!」というダメ出しだけである。「こんな感情で演技してみて」なんて決して言わない。「こう動けば、観客はこう想像する」という指摘の意味を考えた役者だけが選抜されていく。参加者の中には、「これはいったい何のためのワークショップなのか?」と疑問を抱いたまま去って行った人もいた。森田さんは「それがフツーの人なの。残った人がヘンなの」と笑って仰っていたが、果たして本当にそうだろうか? 森田さんは、ドラマとは名ばかりで、ただの「説明」に堕しているテレビドラマが大嫌いだ。そんなものに関わりたくないからイッセー尾形さんとだけ組んで、これまで一人芝居を作ってきた。そこには「観客の想像力を信じよう」という確固たる信念がある。「こういうセリフを書かないと視聴者や観客は分からないだろう」なんて、人を馬鹿にした発想は取らない。観客をそのようにして「信じる」のならば、当然、役者に対してもそれが「要求される」のである。たとえシロウトであったとしてもだ。「想像力のない人間」に、役者は務まらない。いや、社会生活においてもそんな人間にどうして人間としての価値があると言えるだろう? 人間を信じるならば、人間の想像力も信じるしかないのだ。 だからこのワークショップは、単に演劇のためのワークショップには留まらなかった。舞台に立つという経験を経て、日常に帰り、「困難にぶち当たったとき、とっさの判断をいかにするか」、そのための訓練として機能していたのである。ダメ出しされ続けて、どうしていいやら分からなくなって、困ったところから初めて「芝居」が生まれる。「ただのアドリブじゃん」なんて軽く考えるのは適切ではない。人生はアドリブでしか成り立っていないと言ってもよい。人生とは劇場であり、まさにこの一週間は、「人生のシミュレーション」としての意味を持っていたのだと断言できる。 で、公演を終了して、自分に芝居ができたかどうかということになるとこれがまたはなはだ心許ないのであるが、少なくともシロウトの私たちに本気でぶつかってきて下さった森田さんに対して、ケツまくって逃げるようなマネはしなかったと思うのである。 全く、ケツまくってばかりのうちの劇団の連中にこそ、こういうワークショップが必要だと思うんだが、私程度の人間からも逃げてたんじゃ、どうしようもないんだよな。
今日は昨日より受けがよかった。昨日一昨日はガヤの一人でしかなかったが、今日はイッセーさんともちょっとだけ絡んでもらえた。これは嬉しかった。 私だけではなく、殆ど全てのキャストがネタを変え、果敢に最後の舞台を勤め上げようと挑戦を試みていた。 公演後に、ワークショップ見学者も含めた全キャストで、イッセーさん、森田さんとの交流会がロビーで行われたが、開口一番、森田さんが、「最後の舞台が一番手応えがあったでしょう。シロウトの演技でもお客さんは見てくれるんですよ」と仰ったのが印象的であった。三回公演は北九州編だけである。そして一回ごとにお客さんの反応が如実に違う。「次こそは」という思いが、出演者たちの「自由度」を増していったように思う。 一人一人の挨拶も、全部を紹介したいくらいにそういった思いが伝わってくる。イッセーさんが「心を病んでないのは詩吟のセンセイ(出演者のおばちゃん)一人だけだということが分かりました」と冗談めかして仰ったほどに、みんな、それぞれに問題を抱えている人ばかりだった。みんな、自分の「何かを変えたい」と思ってここに集まり、そして「自分を変えられるのは自分だけだ」ということに気付いて旅立っていくのだ。 私もこれまで演出家、役者さんのいくつものワークショップや講演に出席してきたが、こんな「身のある」ワークショプに参加できたことはこれまでにない。誇張ではなく、「至福の時間」が過ごせたと思う。 私としげの挨拶では(交流会まで、お互いの名前や立場を語ることは禁止されていたのである)、私の本職にドヨメキが起き、しげが「妻です」と言った途端にもっと大きな(多分今日一番の)ドヨメキが起きた。多分、たいていの人が「親子」だと思っていたのだろう。まあ、いいけどさ(苦笑)。
公演中はもう食事から何まで、よしひと嬢のお宅でお世話になった。本当に涙を流してしまい、みっともないところをお見せしてしまったことは真に申し訳ないと思っています。二日目、お母さんと一緒に見に来てくれて嬉しかったです。楽日に見に来てくれた下村嬢にも感謝。お会いできなくて申し訳ない。 そして、こんな零細サイトの日記なんて読んでないだろうけれども、公演で一緒に舞台に登った「仲間たち」一人一人に感謝を。心を病んでる人たちばかりだったけれども(笑)、そういう人たちが集まって、一つの「街」を作れたことそのものが素晴らしいと思います。そしてもちろん、イッセー尾形さん、森田雄三さん、スタッフの人たちに、心よりの愛を込めて。「イッセー尾形と共演したんだ」なんて人に言って得意になったりするような情けないマネだけはしないようにしようと決心しています。一月の公演も、絶対見に行きますので。
さて、そろそろ本気で次の芝居の脚本を書きあげないといけないので、来週アタマくらいまで日記を書くのを中断します。この三日間ほども、更新できないよって書いといたのに、150人以上、お客さんが来てくれてるんだけど、まあこれは殆ど通りすがりさんなんだろうな(笑)。全く、何のキーワードで来てるんだか。
2004年09月19日(日) 大掃除大パーティ/『かりん』2・3巻 2003年09月19日(金) 回想の妻/『にっちもさっちも 人生は五十一から』(小林信彦) 2002年09月19日(木) 騒ぎどころが違うぜ/『仮面ライダー龍騎 13RYDERS』/映画『恐怖の火星探検』/『ロケットマン』3巻(加藤元浩) 2001年09月19日(水) ヤンキーたちの好きな戦争/『日露戦争物語』1巻(江川達也)/『探偵学園Q』1巻(さとうふみや) 2000年09月19日(火) 塩浦さん、今度はご夫妻で遊びに来てね
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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