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いつかついに「夢をさがしあてる」ことを、 アンデルセン自身、疑うことはなかった。そして本書を読む私たちにも、 その熱はゴッデンのペンを通して、脈々と伝わってくるのだ。
彼は、いつまでも子どもでした。 子どもというものは、人間性をもたない”物”、つまり、 おもちゃや、棒切れや石ころ、手すりの握り、足台、 キャベツなどに人間性を見いだすという、神様に似た力をもっています。 (引用)
そしておそらく、『人形の家』を書いたゴッデンもそうだったし、 この私ですらも、周囲のものを擬人化するという癖から 死ぬまで抜けられはしないだろう。 というより、そうでない人がいることが不思議なのだから。
本書には、アンデルセンが4歳の少女にあてた手紙も収録されている。 手紙の最後には、
きっと、スズメよりさきに、このてがみがつくでしょう。 いなかにすんで、およいで、いろんなものたべて、 そして、あなたをあいするひとから、 てがみをもらうのは、たのしいことです。 (引用)
と、結んでいる。
その子は、彼の手紙を一生大切にして手放さなかったという。
アンデルセンが、数日間の恋の記念に、愛する人に摘んだ花束も、 いまだに残されている。 そこには、生まれながらに「センス」を持っていた人の 名残が、確かにいまでも感じられるのだ。 もらった人が、ずっと自分のそばにとどめておきたいと思う何かが、 彼の残した童話にあったのと似通ったエッセンスが、 アンデルセンが子どもたちに作って上げた切り絵にも、 スクラップブックにも、手紙にも、花束にも、宿っているのだ。
ゴッデンは、あの錫の兵隊を、アンデルセンの象徴と見る。
『しっかり者の錫の兵隊』には、彼の魂といってよいものが こめられています。(中略)この一本足の錫の兵隊を、最後に、真っ赤に燃える ハート形の錫に変えていったものは、実にこの気丈さであり、分裂し複雑な アンデルセンを、まともな一人の詩人に変えつつあったのは、実にこの堅忍不抜の 精神だったのでした。(引用)
この伝記を読んだ今では、『ヒナギク』の物語を、 アンデルセン自身の体験に照らして読んでしまう。 むなしく棄てられたヒナギクが、報われない想いの象徴であったろうことを。
生前から著名人だったアンデルセン自身が、自分のライフワークであり、 後世に残るものとして「童話」を位置づけるようになったのは、 むしろ晩年の頃だったという。 最初は俳優になりたくて、家を出た。 脚本も書いたし、詩人や作家としても世に出た。
しかし、C・S・ルイスやトールキンがそうであるように、 本当にすぐれた児童書を書いてしまったら、 どんな驚嘆すべき著作よりも、作家の意に反してでも、それらは残ってしまう。
私たちは最初等しく子どもであって、その子どもが私たちより先に 死ぬことはないからで、たとえその期間が長かろうと短かろうと、 いやむしろ短ければ短いほどに、 子ども心をつかまえる物語の力は、生涯消えることはないのだから。 (マーズ)
『アンデルセン 夢をさがしあてた詩人』著:ルーマ・ゴッデン / 訳:山崎時彦・中川照栄 / 偕成社1980
2004年09月30日(木) 『とぶ船』
2003年09月30日(火) 『死霊の王』2
2002年09月30日(月) 『トランスパーソナル心理学』
2000年09月30日(土) 『ラング世界童話全集』
ゴッデンが書いたアンデルセン(1805-1875)の伝記。
母国イギリスと、育てられたインドとの狭間で大人になった作家、ゴッデン。 母国デンマークを愛しながら、貧しい境遇と戦った作家、アンデルセン。 ゴッデンは、アンデルセンの没後に生まれているが、 「みにくいあひるの子」として生きた作家の不滅性を、 児童書の作家としての視線にとどまらず、幼いころの物語を紡いでくれた 心の友として、また、時には母のまなざしで、 「実践的」とでも言うべき想像力を駆使して描いている。
落ち着いて読みたかったので、昨年からずっと積んであったのを、必要にかられて 手に取り、一気に読み終えた。 途中、この本は人手に渡ることはないだろうからと、 ページのはしを折っていたら、折りすぎて意味がなくなってしまった。
半島と島々からなるデンマークには、首都コペンハーゲンのあるシェラン島と、 アンデルセンの生まれたオーデンセのあるフューン島という、大きな二つの島がある。 貧しい靴職人だった父が死に、愛情を注いでくれた母が再婚したあと、 アンデルセンは14歳で、わずかばかりの貯金を持って家を出る。 まるで昔ばなしの、運だめしのように。
「コペンハーゲンに行って何をするの」と母は、困りぬいて尋ねました。
「有名になりたいの」と、彼はいつもの答えをしました。
「でも、どうやって有名になるの?どうやって」と、母は尋ねました。
ハンス・クリスチャンは、有名になる方法を知っていました。
「はじめはとても苦しい目にあうの、苦しい目にね。でもそのうち、
必ず有名な人になれるんだ。」(引用)
まだほんの少年だった彼がどんな苦労をして、彼の光にふれ、 手をさしのべてくれた人々のおかげで階段を登っていったのか。 頭のおかしい祖父を持ったこと、貧しすぎる生活、父の死と母のアルコール中毒、 それなのに幼い日から決して消えなかった、未来への情熱と確信。 いつも自分が他の人と違うことを自覚していたアンデルセンの感情が、どんな風に揺れ動いたのか。誤解されやすい天才の成長する姿と、誤解した周囲の人々の内面に至るまで。 ほとんど無知に近かった私にも、ゴッデンはしみいるように語ってくれた。
そしてそこには、デンマークという王国ならではの恩恵も あったのだった。力を認められた芸術家に、国から年金が支給されるのだ。 彼が各地を旅行できたのも、国からのギフトのおかげだったし、そう計らってくれた周囲のおかげだった。
アンデルセンの研究書や伝記は多く、自伝も書かれている。 それらの中には、生涯独身で、愛に報いられることのなかった人の、「ふれられたくない部分」にまで、土足で踏み込んだものもある。
ゴッデンはそれをしなかった。そんな必要などなかったからだ。 彼女が教えてくれたのは、客観的に見ても、愛情をもって見ても、ごく妥当でありながら、 新鮮で美しい時間の記憶だった。「結婚するのが当たり前で、しないのは異常」としか考えられない「良き家庭人」には、アンデルセンのように真摯な生涯をまっとうした作家を邪推してほしくない。
→その2へつづく (マーズ)
『アンデルセン 夢をさがしあてた詩人』著:ルーマ・ゴッデン / 訳:山崎時彦・中川照栄 / 偕成社1980
2002年09月20日(金) 『子どもと本の世界に生きて』
2001年09月20日(木) 『魔女ジェニファとわたし』
2000年09月20日(水) 『「我輩は猫である」殺人事件』
シンプルな物語なので、大人になってこの物語と出会った私は、この物語だけで心が揺さぶられることはなかった。そのシンプルさ故に、この物語に出会う状況であるとか、この物語を取り囲む子どもの顔を思い浮かべたりしながら、物語の可能性の深さを考えたりする。
ある日、子ブタが生まれた。子どもたちはそのブタ小屋の片隅にドラゴンの赤ちゃんがいることに気づく。子どもたちは赤ちゃんドラゴンを受け入れていくけど、ブタのお母さんはドラゴンを育てようとしなくなる。子どもたちはドラゴンを育てはじめ、やがて別れの日が訪れる…。
大人は意味を見いだそうとする。たとえば、一匹(?)だけ他と違うドラゴンに比喩を見いだそうとする。確かに某かの意味はあるのかもしれないが、子どもはすんなりと、この物語の主人公のように、ドラゴンをドラゴンとして、あるがままに受け入れていく。
たまに、姪たちに物語を読んであげることがあるが、どんなにシュールな状況でも、すとんと、子どもはわけなくあるがままに世界を受け入れていく。目の前に広がる世界をあるがままに、そのままに受け入れる子どもの能力は、かつては自分自身の中にもあったはずだが、とても羨ましい。
物事の意味を探さない、求めない。それはとても自由なことで、あらゆる価値や意味からの解放だと思う。こんなことをじっくりと考えてしまう時点で、物語が与えてくれる純粋な楽しさからぐんと、遠ざかってしまう。
これは子どもが読めば、あるいは、読んでもらえば、きっと楽しいだろう。ドラゴンの成長にどきどきしながら、ページをめくるだろう。「子どもにとっては○○だろうなあ」といちいち、客観的な注釈がついてしまって、残念な思いが残る。
素敵な物語に出会った。ただ残念なことに、物語が与えてくれる喜びをあるがままに受け止めるには、大人になりすぎている。素敵な物語に出会う。私自身に直接もたらされる喜びはさほど大きくはない。けれど私は、たとえば姪の顔を思い浮かべたりする。きっと、あの子たちの年齢なら、この物語から大きな喜びを見いだすだろう。素敵な世界の橋渡しをする私を思う。
そうすることで、この物語から、大きな喜びを受け取る。姪たちが喜ぶであろう、その笑顔や束の間よぎる切なさのかげり。大切な物語を次の世代へと伝えていく。それが子ども時代を通り過ぎた者の、大切な役割なのだろう。
『赤い目のドラゴン』は心の成長の寄り添う物語だ。姪たちはきっと、その成長の節目節目で、異質なものへの純粋な好奇心と必然的な好意を感じたり、避けられない人生の中での数々の別れの予告編に涙を流したりもするだろう。多分、それが幼い私が感じたであろう、この本への思い。
姪がやってきたら、今度読んであげるのは、もちろん『赤い目のドラゴン』。きっと姪たちと一緒に、幼い私も耳を傾けているだろう。(シィアル)
『赤い目のドラゴン』著:アストリッド・リンドグレーン / 絵:イロン・ヴィークランド / 訳:ヤンソン由実子 / 出版社:岩波書店1986
2004年09月16日(木) 『夕顔』
2003年09月16日(火) 『銀のいす』その1
2001年09月16日(日) 『イラストレイテッド・ファンタジー・ブック・ガイド』 (参考)
「惚れたって言えよ」と李歐は美しい北京語で言った。 美貌の殺し屋(※あらすじにある李歐の枕詞)李歐が、その発音からあきらかに中国のエリート階級育ちであることを、一彰は察する。
なぜ、エリート階級出身の李歐が各国の国際的なシンジケートから追われる殺し屋となったのか。 なぜ、一彰はその発音から、李歐の出自を推察できるのか。それぞれにシリアスな過去がある。
吉田一彰の過去。彼の過去は、喪失の繰り返しのような気がする。喪失を繰り返す中、自分自身の実態までもが徐々に薄れていくようだ。阪大の学生であるが、学業には興味はなく、昼の工場のバイトと夜のクラブのボーイのバイトに身を沈めている。両親の離婚で、母と共に関西にやって来る。隣の町工場には、アジアからの外国人労働者が。外国の言葉と機械の音の中に、一彰は自分の居場所を見つける。
しかし、それも、母親が中国からの違法労働者と駆け落ちをするまでのこと。大学生になると一彰は、あの頃工場にいた外国人労働者を探しながら、彼らと接点のあるクラブでボーイのバイトをはじめていた。やがて、そのクラブで襲撃事件が起こる。その時の殺し屋が李歐。李歐とは、一彰がわずかな期間子供時代を過ごした工場で再会する。瞬時に互いに惹かれあった二人は、やがて大陸に連れ出して欲しいという、約束を交わす。
工場で再会後、李歐は密輸拳銃の横取りを計画する。計画実行の当日、時間まで退屈潰しにと、李歐の出生の話が始まる。李歐が殺し屋になった背景にあったもの、それが「下放」だった。文化大革命の最中、エリート階級出身の両親は「反革命修正主義分子」として処刑され、李歐は農村に「下放」に出される。文革で家族や家、故郷を失い、「下放」先では、紅衛兵の出現によって、生きるためにまた、その村を捨て、命がけで逃げ続ける中、仲間を失っていく。
「下放」−私が「下放」というものを知ったのは、というより、それ以前も知ってはいたのだろうけど、「下放」が何か、それを意識したのは、ほんの数年前だ。何かの世間話で、「下放」の話が出てきたが、プロレタリアートとして再教育するために、裕福なエリート階級の子どもたちが貧しい農村に養子に出されたのだと、そういうような説明を受けた。酷なことをするなあと、ぼんやりとは感じたけれど、その時は「下放」の残酷さ、悲惨さには思いも至らなかった。
それ以後、ぽつり、ぽつりと、「下放」をテーマにした映画や小説に行き当たるようになった。振り返ってみると、気づかなかった、気にも留めなかっただけで、「下放」や「文革」の狂気は虚構の世界ではあるけれど、映画でもドラマでも目にしていた。『覇王別姫』(監督:チェン・カイコー)もそうだったし、小説は読んでいないけれどドラマで見た『大地の子』(原作:山崎豊子)でも確かに、それを見ていた。
「文革」「下放」の歴史を知った後、直ぐに見たのが『シュウシュウの季節』(監督:ジョアン・チェン)だったので、震え上がるほど「下放」を恐ろしいと感じた。『バルザックと小さな中国のお針子』(著者:シージエ・ダイ)は、「下放」そのものは悲惨であり、やはり人間性を奪う恐ろしいものと感じたが、物語の結末としては決して暗くはない。
下放運動は1957年から始まり、1968年から文革末期まで、大々的に展開されたという。(※文化大革命は1960年代後半から1970年代前半まで続いている。)文化大革命については、それを検証した書物をきちんと読んだわけではなく、映画やドラマ、小説の中で主人公たちを苦しめている物事の背景としてしか触れてきていないので、余計、感情的に恐ろしい。
ハードボイルドなエンターティメント(+ロマンス)小説『李歐』を読んで、「下放」に思いを巡らせるのもどうかしているけれど。でも、そういう悲惨な歴史が李歐という魅力的な男の背後にあるのだ。もっとハードで耽美な男の世界に胸躍らせて、この世界を楽しまなければならないが、何となく、「下放」とか物語の中でうち捨てられていく「咲子」の存在とか、おおよそエンターティメントではない些事に私は興味を持ってしまった。
「下放」のことを意識した頃、わずかな期間であるけれど、私はこの『李歐』の舞台の近くに住んでいた。『李歐』はもちろん虚構の物語だけれど、住んでいた街、よく通りがかった街、好きだった賑やかな街の、闇に隠れている横顔を、見てはいけない闇に沈んだ顔を、私は垣間見てしまったのだという、興奮もあった。(シィアル)
『李歐』 著:高村薫 / 講談社文庫 1999
☆かつて見たドラマは良くできていたのだと実感。
久々に高村薫を読んだ。
高村氏の本を読むたびに思うけれど、「男」は美醜を越えて、醜悪さすら美しく描かれているのに対し、『マークスの山』を読んだ時にも漠然と思ったが、「女」の描き方には何の思い入れもないように感じられる。しみじみ冷たい。
ストーリーの流れ上必要だから、必要最小限に存在しているような。そんな思いを、以前にドラマで『李歐』を見た時にも感じたし、やっと原作を読んでみても、あのときに感じた「咲子とはいったい何だったのか?」「咲子の人生は何なんだ?」という不安を帯びた懐疑は消えなかった。
自分自身の輪郭も定かでないような希薄な人生を送る吉田一彰。彼の前に鮮やかに現れた美貌の殺し屋・李歐。二人の間に芽ばえる非常に濃密な男同士の友情。しかし、互いに「友達だ」という言葉はあったが、二人の関係を友達とか友情とかでは括りがたい。きっと、友情ではないだろう。二人の結びつきは言葉に置き換えるのが難しい。お互いの魂が強く惹かれあい、長い年月をかけて、互いの約束を、夢を実現していく物語。そこに国際的なアンダーグラウンドの世界がハードに絡んでくる。
WOWOWで映像化されたドラマを見たのは随分前だったけれど、読んでいると意外に鮮明に情景が浮かんでくる。高村氏の映画やドラマはこれ以外にも見ているけれど、今までの印象では肩すかしだった。本を読んでから、映像を見たせいかもしれない。映像は文字の世界を越えることはできなかった。 今回は先に映像を見ていたせいか、うまく3時間くらいのドラマにまとめていたんだなあと、ドラマのできの良さに感心した。地味なキャストだったが、読みながらドラマのキャスティングには抵抗はなかった。
物語は「男のロマン」満載だった。拳銃の造形や一彰が子供の頃が心惹かれていた町工場の情景は事細かに描かれている。馴染みのない国際的な裏社会に生きる者の暗躍とか、非常に濃いハードボイルドなエンターティメントの小説。ドラマを見ていたこと、ドラマ自体の力もあって、さくさくと読み進み、確かにラストもハッピーエンドにまとめられていて、面白かった。
しかし。
私の中で引っかかるのは、李歐を、李歐との約束の成就を待つ一彰と結婚した咲子の人生。咲子という人間の存在意義。まるで、一彰と李歐との間に子を授けるためだけに存在したかのような彼女の人生。そんなことが何年か前にドラマを見終わってから、そして先日、本を読み終わって、ますますひっかかったりする。高村氏が書きたいのは「女」ではなくて、「男のロマン」とか「男の生きざま」だと、分かった上でもなおかつ。
それはそれとして。
私がしみじみとページを開く手を止めて、思いめぐらせたのは「下放」だった。『李歐』という物語の中で、ひっかかりどころ、つっこみどころとしては、全く的外れなことなんだけれど。(シィアル)
※次回へ続く
『李歐』 著:高村薫 / 講談社文庫 1999
2003年09月12日(金) 『ドリトル先生アフリカゆき』
2002年09月12日(木) 『西風のくれた鍵』
2001年09月12日(水) 『R.P.G』
ゴッデンの「四つの人形のお話」シリーズその第2作。
うれしいことに、古書店で¥105にて状態の良いのを入手。 原題は『The Fairy Doll』。 いつも失敗ばかりしている四人きょうだいの末っ子、 外見も他の子とはちがう、いわゆる「みそっかす」のエリザベスが、 クリスマスツリーの飾りについている妖精の人形に助けられ、 少しずつグラウンディング(という感じなのだ)してゆくお話。
地に足がつく、というのは、世の中になじむということなんだろう。 上の兄や姉三人は、もうとっくに世渡りをおぼえている。 それなのに、エリザベスだけは、何をやってもつまずいてばかり。 物によらず、人間関係によらず、大事にしようとしたものさえ、壊してしまう。
けれど、導いてくれる人形のことだけは、大事にできた。 そのことが、きょうだいたちにも一目置かれるステップになる。 妖精の人形が教えてくれる正しい選択の声を信じられたのは、 エリザベス本来の心の底にあった答えと同じ方向を向いていたから。
幼いエリザベスのことを私たちは笑えない。 いい大人の私も決して地に足がついているわけではないから、 イライラして大事なものを壊してしまったり、 心の声に従う勇気がもてなかったりする。 そして、人形ではないにしても、よりどころに頼りきってしまう。 それはシンクロ信仰であったり、過去の体験であったり。 ほんとうのことは、いま、目の前にあることのなかに 感じられるはずなのに、希望が信じられなかったりする。
妖精人形は、自分の意志でエリザベスを守ろうとしたのだろうか。 それとも、エリザベスの心の声が、人形を生かしたのだろうか。 彼女の幸せは、周囲の大人たちが、彼女のことを 理解しようとしていたことだろう。
本作はどちらかといえば、シリーズのなかでも『ゆうえんちのわたあめちゃん』の ような非日常の物語や、「小鬼のジェーン」と呼ばれた人形のような個性に比べると 人形そのものの魅力には欠けるかもしれない。 しかしやはりそこには共通して、未熟な幼いものを見守る、 ゴッデンのまなざしをたたえている。
カヴァーに印刷されたゴッデンのポートレートは、まるで妖精のゴッドマザー!そして、妖精の家づくりは『台所のマリアさま』にも似て芸術的。
(マーズ)
『クリスマスのようせい』著:ルーマー・ゴッデン / 訳:久慈美貴 / ベネッセ(福武書店)1989
2003年09月09日(火) 『紙の町のおはなし』
2002年09月09日(月) 『花豆の煮えるまで』
そもそも読後の思いというのは、非常に個人的なものであるけれど、私の好きな要素がぎっしりつまった大当たりの物語であった。
ずいぶん「タイムスリップ・ロマンス」を読み重ねてきたけれど、妖精王の嫉妬心によってヒロインが20世紀から時を遡り、16世紀のスコットランドにタイムスリップさせられるというのは、新しいパターン。確かにいろんな強引な形でヒーローやヒロインが時を越え、そして互いに艱難辛苦を乗り越え、ロマンスを成就させていくが、妖精王によって、時を越えるというのは、これはちょっと、どうなんだろうと、恐る恐るページを開いたのだけれど。
当然ながら、何があろうと、どんなに二人が反目し合い、どうしようもないような困難が二人を待ち受けていようと、かならずハッピーエンドになるというのがお約束だから、いまさら、二人の愛の行方にはハラハラしたりはしない。私がハラハラしていたのは、ヒロインが20世紀に残してきた愛猫の処遇。このラブ・ロマンスは、かなり濃厚でなかなかに執拗であった。しかし、読み進めば進むほどに、この物語の底にはさりげなく、かつ明確に(!)『夏への扉』(ロバート・A・ハインライン / ハヤカワ文庫)が潜んでいる。
最近、メールでのやりとりで、私自身のタイムスリップロマンスの原点が『夏への扉』であることに気づき、同じような読書体験の方の存在に嬉しくなったばかりだった。ヒロインの愛猫のことは、確かに物語の目まぐるしい展開からいえば、ささやかなエピソードなんだけど、確かにカレン・マリー・モニングは『夏への扉』のファンであると、私はそう確信している。
物語は、妖精たちが深く関わってくる。妖精の女王すら虜にする魅力を持つ男ホーク卿への復讐として、ホークのような美しい男には絶対に恋をしない女性エイドリアンが現代から、16世紀へと連れ去られる。邪悪な妖精の執拗な妨害が芽生え始めた二人の信頼や愛情をことごとく打ち砕いていく。
この大胆な設定に、最初はどうかなと、違和感を持ちつつ読み始めたが、もともとケルトの妖精物語が大好きなこともあって、すぐに物語に没頭し、大いに楽しんで物語を読み終わった。他のケルトの妖精譚でも、妖精とは時に邪悪で理不尽なことを平気でやってのけるのだから、確かにそれくらいのことはやるだろうと、納得してしまう。
奥付を見ると、7月20日初版第1刷、8月5日第2刷発行となっている。不覚にも、この本のことは全く知らなかった。いくつかの偶然の積み重ねで、先日、ショッピングモールの本屋さんの中で出会うことができた。多分、あの気まぐれがなかったら、この本にはまだまだ出会ってなかっただろうと思う。さらには、あの本屋さんで本を探すことなんてほとんどないのだから、やはり、あの時の急な気まぐれは、本に引かれたのかなと、そんな気もしている。
あるいは、出会うべき本には、どんな形であっても、やはり出会うのだと。私にとっては、そう思えるような、特別の本であった。
付記;これはベスト・ヒストリカル・タイムトラベル賞を受賞していて、すでにアメリカでは6作目が刊行されている人気シリーズだということです。翻訳予定もあるようで、楽しみです。
あ。取って付けたように言いますが(笑)、ヒロインもヒーローも魅力的でしたし、ヒーローのお母さんも素敵でした。(シィアル)
『ハイランドの霧に抱かれて』 著:カレン・マリー・モニング / 訳:上條ひろみ / 出版社:ヴィレッジブックス2005
2004年09月01日(水) 『仲世朝子・のんちゃんジャーナル』
2003年09月01日(月) 『バルザックと小さな中国のお針子』
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管理者:お天気猫や
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