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ドイツの森に伝わる人狼伝説をモティーフに、タイムトラベルを 扱った子どもたちのファンタジー。 原題は『A WALK IN THE WOLF WOOD』と、 リズミカルな響きで鼓動が高鳴ってしまう。
ジョンとマーガレットの兄妹は、ある日、家族と訪れた森で、 泣いている奇妙な衣裳の男性を見かける。 その出会いこそ、シュバルツバルト・黒い森のほとりで、冒険が始まるきっかけだった。
兄妹の中世への旅は、オットー公爵の城を舞台に繰り広げられる。 荒れ果てた古城にしか見えなかった城に、灯りが灯り、跳ね橋が上がる。 公爵は妖術を使うアルメリックに陥れられ、親友のマーディアンが夜だけ狼に変身させられているとも知らず、にせのマーディアンをはべらせ、息子とともに操られていた。
マーディアンこと「ウルフ」と友人になったジョンたちは、アルメリックの魔手から城を救うべく、大胆なスパイ作戦に出る。このあたりはかなり映像的で、貴族の館の食事や生活の描写も興味深い。
物語は前半のゆったりしたスピードと、後半の加速度に少し目が回るが、役目を果たした子どもたちは、幼い読者をじゅうぶんに満足させることだろう。
作者のメアリー・スチュアートは英国では著名な作家らしいが、邦訳は数作しかない。しかも深町訳という取り合わせの妙にも感慨深い。血のメアリー女王にちなんだ名前からして、面白い作品が多そうだし、訳が出てくれればうれしい。
タイムトラベルで陰謀に巻き込まれる子どもを扱った作品では、アリソン・アトリーの『時の旅人』も有名だが、アトリー作品は陰謀そのものよりも生活の描写に重点が置かれている(ただし訳者によって印象が違う)。本作では人狼伝説というファンタスティックな変身譚が、大人をも惹きつける魔法として強く働き、独特の薄闇に満ちた世界を浮かび上がらせている。 (マーズ)
『狼森ののろい』著:メアリー・スチュアート / 訳:深町真理子 / 出版社:佑学社1983
2003年08月29日(金) 『ハゴロモ』
2002年08月29日(木) 『いまなぜ青山二郎なのか』
子どものころ読んだ全集の中に、1/10以下のダイジェスト版が 入っていた。物語そのものより、写実的な絵で楽しんだ記憶がある。 ヨーローッパの王侯貴族と、ぼろぼろのこじきが入れ替わる世界。 それ以来、きちんと読むのは初めて。
こじきのトムと替え玉になる王子様が、あのヘンリー8世の息子だったとは。 ヘンリー8世の最後の妻、ジェーン・シーモア(『ドクター・クイン』の女優さんをすぐ連想)が産んだ、英国の希望であるウェールズ王子。
王の死後、エドワード6世となる少年は、実際に病弱で、本の最後で触れられるように、治世は6年しか続かない。悲しいことだが、その短い王位は、メアリ1世からエリザベス女王への絢爛たる権力争いに隠れるような、温室の英国薔薇にも似たゆかしさを感じさせられる。トウェーンはこの時代を設定するのにずいぶん迷ったとも聞く。
史実では9歳で即位した王子を、物語のなかではもう少し上の年齢に想定しているらしい。 ただ、絵によっても印象がずいぶん変わるし、この学研版では9歳ぐらいに見える。
1月28日、ヘンリー8世死去。
前日の27日に物語は始まる。
そして2月20日、大団円の戴冠式。
ダイジェスト版にはもちろん入っていなかったが、遊び相手としてエリザベスとジェーン・グレイ、ちらっとメアリも登場するのが一興。グレイ姫のその後を思えるように性格も描き分けられている。
王子が外の世界で知る、当時の罪人への刑罰や理不尽さは、宮廷でトムが知る虚飾と権力の世界を、バランス的にはしのいでいるかのように迫ってくる。しかもその法律を作ってきたのが、父王ヘンリーをはじめ、他ならぬ自分の先祖なのだから。
さて、『王子とこじき』は、1881年に、米本国に先がけて英国・カナダなどで出版され、 日本でも早い時期に最初の邦訳が出ている。 以来、ほんとうに数多くの訳が出ていて、初版本に忠実な再現を完訳で試みた『王子と乞食』(大久保博訳・角川書店2003)も良いのだが、今回の久保田輝男訳もリズムや臨場感、「らしさ」があって堪能した。村岡花子訳(岩波文庫・絶版)も入手できるが完訳ではない。この版はロバート・ローソンの挿絵で、少年が大人っぽい。
訳者の後書きでやっと気づいたのが、主人公のひとりが「トム」であり、あの有名なミシシッピの「トム・ソーヤー」と同じだったこと。それにしても、生まれ育った世界ではない英国の、しかも歴史物語としての小説を、子ども向けというより当時は大人にも向けて、存分に描ききったトウェーンの力量はやはり重厚かつ繊細で、改めて感銘を受けた。
王子を守ってくれる落ちぶれた貴族マイルズ・ヘンダンと、騙されて弟の妻となったイーディスの悲恋も、脇ではあるが色を添えている。ハッピーエンドの恩恵を彼らもあずかれるのは救いだった。
余談だけれど、これを読んでトウェーンは水瓶座?と思ったら射手座だった。 (マーズ)
『王子とこじき』著:マーク・トウェーン / 訳:久保田輝男 / W・ハザレル / 学研1975(絶版)
2004年08月24日(火) 『銀のシギ』
2001年08月24日(金) 『古い骨』
猫の絵本だから、ハッピーエンドであってほしい。 冬の猫だから、ハッピーエンドであってほしい。 子どもたちの読む絵本だから…
そういう思いに、きちんと応えてくれる絵本。
原題は、『The Winter Cat』(1972)。 ふゆねこさん、というのは、子どもたちが猫につけた名前。
細やかな線で描かれたモノトーンの小さな絵本は、 野原にひとりぼっちだった猫が、だんだん、子どもたちの世界に入ってゆく様子を、 淡々とつづってゆく。
ふゆねこさんは、本当は夏生まれ。 だから冬は初めてで、寒いのも本当は苦手。 人間のことも、よく知らないから苦手。
少しずつ、少しずつ、距離を縮めて。 ハッピーエンドに向けて、勇気を出す。
この物語には、大人が出てこない。 子どもたちと猫の関わりで、完結している。 だからこんな風に、ほっとできるのだろう。
いつもながら、願わずにいられない。
すべての家なき猫たちに、幸せな場所を。
(マーズ)
『ふゆねこさん』(絵本)著・絵:ハワード・ノッツ / 訳:松岡享子 / 偕成社1977
2003年08月15日(金) 『レイチェルと魔導師の誓い』
2002年08月15日(木) 『マッケンジーの山』
2001年08月15日(水) 『鼻のこびと』
数年前に入手しながら、そのまま手をつけずに置いていた。 情報は、タイミングに合わせて入って来るのだと、改めて思う。
原題は、『The Road Less Traveled』。 心理療法を仕事とする著者が、「訓練」「愛」「成長と宗教」「恩寵」というテーマに沿って、実際の事例も多く紹介しながら、人間の本質に光を当ててゆく。 (なお、最終章の「恩寵」はページ数の都合でダイジェスト訳となっている)
内容については、私があれこれ言うよりも、著者の言葉を引用させていただく。
依存性が愛と紛らわしいのは、それが人と人を強く結びつけるからである。 しかし、それが真実の愛であることはない。正反対である。 それは親の愛の欠如から来ており、同じことがくり返される。与えるよりは 与えられることを求め、成長よりも幼児性に固執する。解放するよりも罠にはめ 拘束する。究極的には、人間関係を形成するよりも破壊し、人間を作るよりも崩壊させる。 (106Pより)
一生の間におかす何千何百万にもなる危険の中で最大のものは、成長する危険である。 成長するとは、子どもからおとなへと踏み出す行為である。実際には歩み出すというより 恐る恐る跳ぶ、といった方が近い。それは多くの人たちが、生涯一度も本当にはできなかった跳躍である。表面上はおとな、それも立派なおとなに見えても、「成人」の大半は、 多分死ぬまで心理的に子どものままである。そして親および親が自分に対して持っている 支配力から、本当に自分を切り離したことがない。 (137Pより)
だから、道に迷っているのを承知の上で、意識を拡げていくより他に方法はない。 しかもそのような気づき、意識化は、一瞬の閃きでもたらされるようなものではない。 ゆっくりとひとつひとつ現れる。あらゆるものを観察し検討しつつ、生涯、謙虚に 身につけていくよりないものである。 (292Pより)
愛とは、自分自身あるいは他者の精神的成長を培うために、自己を拡げようとする 意志である。 (79Pより)
(マーズ)
『愛と心理療法』著:M・スコット・ペック / 訳:氏原寛・矢野隆子 / 創元社1987
2004年08月12日(木) 『エリナー・ファージョン−その人と作品−』
2003年08月12日(火) 『パリの子供部屋』
2002年08月12日(月) ☆コールデコットの絵本展
2004年の「小説すばる新人賞」受賞作。 タイトルから頭上の空へ向けて想起されるイメージは、まさに不条理に満ちた本作の世界そのもので、友人から耳で聞いてじっとしておられず購入してしまった。内容とタイトルがこれほど合うのも希有ではないか。装丁も万全。
書き出しは、
となり町との戦争がはじまる。 (引用)
そして、「僕」が住民となっている舞坂町は、となり町と戦争を始める。 開戦日は9月1日、それは身近なところでは(なぜか)、1969年にリビアのカダフィ大佐が無血クーデターを遂行した日、後の革命記念日でもある。 この『となり町戦争』は、あくまで自治体どうしの協力を前提にした事業であるため、終了は年度末の3月末となる。そういう意味では終わりがあるのだが、しかし…と割り切れない思いを残して終わる。
随所にお役所からの「23と戦第○号」と記された通達書や、 『広報まいさか』の町勢概況などが挿入されていて、虚構もマニアック。 それでも日常の暮らしから、死者の出る戦争の姿は見えてこないのだという。 「見えない戦争」を感じることがいかに難しいか、そして感じ始めたときは、もう。
私が本来読みたかったのは、「僕」が巻き込まれ、偵察業務を負わされた戦争のなりゆきやお役所仕事の顛末に込められたブラックな笑いであった。しかし、役場の担当女性である「香西さん」が「僕」=北原と分室で勤務するようになってからは、私のなかでロマンス小説熱(あろうことかリンダ系の)が台頭し、もっぱら二人の関係に興味のウェイトが移った。
香西さんは奇妙である。外国で傭兵をしていた「僕」の上司の比ではない。状況設定が設定だけに、よけい彼女の奇行はきわだつ。 (誤解のないように言えば、彼女のしていることはあくまで公務の執行としての戦争であって、女性として見れば変だという意味だ)
で、読み進むうちに、作家は男性なのだろうと推測した。 現段階では私には断定できないが、「香西さん」の行動に潜む心理を思うと、 無性に切なくなってしまう。そこまでさせるのは異性でないと無理だろうと。 誰にでも、どんなに冷静に見える女性にも備わっている女らしさ−理性で押さえられない情念の発露−を時折見せる香西さんだから、よけいに胸せまるものがあるし、本音を言えば「僕」の受け身にも困るのだが、そういう主人公だから成り立つ世界なのだし、香西さんも惹かれるのだろうから。
最後に香西さんへ。
死なないでね。
というか、そのまま生活してたら、反動で死ぬから。
それも長い目で見れば戦死になるのかな。
それとも、世の中には香西さんのような人が、案外いっぱいいるの?
(マーズ)
『となり町戦争』著:三崎亜記 / 集英社2005
“そもそも範疇外、ありえない”男たちと帯に書かれてはいるけれど、何となく表紙の感じから、間宮兄弟って、ちょっとカッコいい兄弟たちだと激しく誤解していた。
そもそも間宮兄弟は、どちらもとっくに30歳を過ぎているのに、いまだに仲良く二人で一緒にマンション暮らしをしている。人付き合いも苦手で、周りから見れば、怪しい変わり者の兄弟。もちろん、範疇外で、カッコいいどころか、最悪の部類。恋愛事では、ことごとく苦い思いを痛烈に味わい、始まる前にすでに終わっているような人たち。最近では、凪いだ生活を送っているけれど、それも恋愛事から遠ざかって、枯れた境地に辿り着いたから。
怪しげで、閉じてしまった人たちだけれど、間宮兄弟それぞれに、静かで大切な暮らしがあって、二人は仲良く遊び、楽しい共同生活を送っている。そうはいっても、彼らにもやはり気になる女性がいて、苦心惨憺、カレーパーティやら花火大会やらを開いて、近しくなろうとする。
範疇外の間宮兄弟だから、恋愛対象としては厳しいだろうけれど、そういう対象でなければ間宮兄弟の醸し出す世界はとても平穏で心安らぐ存在でもある。どこかに置いてきてしまったものとか、捨ててきてしまったものとか、あってもなくてもかまわないものだけれど、あるとやはり、ゆたかなものなどで、満ち満ちている気がする。ちょっと、セピアがかかった世界だけれど。「そういう生き方」もありなんだろうなと。
「そういう生き方」の根底にあるのは、諦念だろうか。背伸びせず、無い物ねだりせず、自分の手の届く範囲だけで満ち足りて、静かに暮らす。そういう人の側にいれば、そういう世界に触れていれば、現実のなかでぎざぎざととがったり、ささくれたりする気持ちも穏やかになるかもしれない。 現代版の世捨て人?でも、完全に隠遁生活を送っているわけではないから、間宮兄弟だっていつでも心穏やかに暮らせるわけではないけれど。間宮兄弟の日常の暮らしぶりとともに、彼らの恋愛、彼らの巻き込まれるけれど決して当事者にはなれない複雑な恋愛事情が描かれている。
読み終えてみると、私はどうやら最近、間宮兄弟的生き方に近づきつつある。そんな私が何だかいいなと感じた「読書日」…とにかく本を読み続けて、読書だけをして何もしない。外食に出ても本は離さない。
夜。兄弟は読みかけの本を持ったまま、馴染みのつけめん屋のテーブル席に腰掛けている。どちらも食事中に読むことはしないが、それでも持ち歩くことが「読書日」のならわしになっている。本をというよりその世界を持ち歩いているということが、二人でいるとよくわかる。互いに相手の持っている本は物体にしか見えないが、自分のそれはすでによく知っている人物や風景が詰まっていて、ここではないどこかにつながっている道のように思える。(引用P101)
読み終わっても、しばらく大事にベッドサイドに置いておく本とか。まだ読んでいないけれど、これから読む本を入れておく大きなバスケットではなくて、小さなかごに別に分けている本とか。図書館で借りて読み終えたのに、まず二度読みすることはないと知っているのに、わざわざ買ってしまう本とか。
言われてみれば当然なのだけれど、私は本を所有しようとしているのではなく、その本の中の世界にいつまでも触れていたいのだと。その世界を一時の間だけでも、所有し続けたいのだと。いまさらながらに、気がついたのだった。(シィアル)
『間宮兄弟』 著:江国香織 / 小学館2004
原題は『THE HEAVENLY VILLAGE』
「人間が死ぬと、天国という、すばらしいところに行くといわれています。そう、たいていのひとは天国に行くようです。」(引用 P8)
たとえ天国がどんなに素晴らしいところでも、中には天国へ行くのにためらいを感じる人々もいます。神さまは<天国へ直行しないひとたち>と呼んでいます。<天国へ直行しないひとたち>のための天国へ行くまでの息つぎの場所が、<天国に近い村>です。
ライラントの『ヴァン・ゴッホ・カフェ』と同じく、短い物語で、あっという間に読み終えてしまうのですが、大切な言葉がたくさん詰まっています。エヴァレットさん、ヴァイオレット・ローズ、ハロルドと愛犬フォーチューン、アイシャム、コーディー、トマス、みんな<天国に近い村>に住んでいる人々です。それぞれの章には聖書が引用されていますが、キリスト教の神さまに限らず、この神さまは、自分の信じる神さまでいいのだと思います。
<天国に近い村>に住んでいる人々にはそれぞれ、天国に直行できない、直行したくない理由があります。漠然とした理由もあれば、あとに残してきた者を思い、見守り、待ち続けたいという気持ちから、天国へ行くのをためらう思い。自分自身の今という時間が、突然、断ち切られたとしたら。あるいは、愛する者たちが先に旅立ってしまったら。きっとそうあって欲しいと思う、そういう、魂の救いが淡々と描かれています。
ほんとうに、私たちを必ず待ち受けている死というものの先にあるものが、ライラントが紡ぎあげた<天国に近い村>で過ごす時間のように、愛情と優しさに満ちた時間であればと、しみじみと思います。
そうあって欲しいと、本を閉じた後、癒されつつも、静かな悲しみに包まれました。(シィアル)
『天国に近い村』 著:シンシア・ライラント / 訳:森中村妙子 / 偕成社2001
2002年08月02日(金) 『愛は命がけ』
2001年08月02日(木) ☆O・メリングの新作『夏の王』と、『ジャッキー、巨人を退治する!』
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管理者:お天気猫や
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