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☆森の迷子は、いついつ帰る。
白いうさぎのぬいぐるみ、てろんてろんちゃんの絵本。
ソフィーという女の子が、ひとりでブルーベルの咲く森へ
入って行って、てろんてろんちゃんを落としてしまうお話。
「てろんてろんちゃん」は、原題では「LOLLOPY」。
耳も腕も足も、てろんとしているから。
LOLLOPは、よたよたっと歩く意味だから、
ともかく、いつどんなときでも、くたっとしている
うさぎなのだろう。
たとえ、森のなかでおきざりにされても。
さて、てろんてろんちゃんは、夜の森で、
本物のうさぎの家族に出会って、やっと助かったと思えば
大変な目に会ったり、おかあさんうさぎに介抱されたりしながら、
おみやげをもって家に帰る。
ほっとさせられたのは、
森のおかあさんうさぎと、
てろんてろんちゃんの友だちのソフィーだけは、
てろんてろんちゃんの気持ちを聞くことができること。
耳をもちあげて、まっすぐ目を見つめれば。
まさにそのおかげで、てろんてろんちゃんは
帰ってこれたのだから。
描かれた女の子の部屋は、とてもかわいい。
ほのぐらいうさぎの巣穴もすてきだけど、
ソフィーの部屋は、外国の作家ならではの、
あたたかい動物のイメージ。
ブルーベルの花と、カエルのぬいぐるみが
どちらの部屋にもあるのが楽しかった。
作者のジョイス・デュンバーはイギリスの児童文学作家。
スーザン・バーレイも、イギリスの人気イラストレーター。
翻訳は江國香織で、この絵本が出た1992年には、
「こうばしい日々」が出版されている。
(マーズ)
かなり季節はずれだが、クリスマスに起こる小さな奇跡を描いた
短編集を読んだ。
昨年買って、なんとなく、読みかけたまま春を迎えてしまっていた。
舞台はアメリカ。家族のいない孤独や、貧乏、偽善、傲慢、老病、
差別といった傷を抱えた『どこにでもいそうな人々』が、
クリスマスの奇跡を─『気持ちが明るくなる』という、ささやかながら
生き方に関わる体験を余儀なくされる、八編の物語。
あたたかい家族の絆の一部分であることを確認するクリスマス・
シーズンに、行き場のない思いを抱える『どこにでもいそうな人々』は、
日本のお正月じゃないけれど、アメリカにもたくさんいるのだった。
ままならない人生、相手を変えようなどと思い込まずに、生活に
根ざした『勇気』をもつこと、それを表現すること。
それこそ、小さな奇跡を呼び起こす種なのだろう。
著者のキャサリン・パターソンは1932年中国生れ。
父が宣教師だったため、昭和30年代に4年間日本にも滞在している。
そのせいか、原爆のジョークがちらっと出てきたりする。
特に印象深かったのは、「主のしもべ」のレイチェルという少女。
クリスマス劇でマリア様の役を演じたいと願っているが、
演技力の問題もあって邪魔される。
まるで作者の分身のように、父親が牧師であろうと、神様は
その子に特別なごひいきはしてくれない、
と思い知っているレイチェルが微笑ましい。
(マーズ)
☆風太郎忍法、再び転生。
子供の頃流行ったんですよ。カドカワ映画のTVCMに登場する、
南蛮風ひだひだ襟にマント姿のジュリー演じる麗しき魔人、天草四郎ごっこ。
今度の映画化では今をときめく窪塚君が演じるそうですね。
でも当時映画は見ていなかったので、原作を読んで敵の本命を
知った時はたまげました。
妖しき伴天連魔術によって蘇る事ができるのは、現世に強い心残りを持ち、
常人を越えた体力気力を持つ者のみ。
世に受け入れられなかった剣豪達こそまさに格好の器。
と言う訳で、望んで魔道に身を堕とし、生前と違わぬ姿と振る舞い、
生者を超える闘いの意志と剣の技を身に付けながら、生者に対する
慈しみの心を全く失って生身の人間を喰らう転生衆の中になんとあの方が!
コミックスで、TVドラマでただいま大人気のあの孤高の剣豪。
なるほど、彼なら剣の道のためにヒトの心を捨てても転生を望むに違いない、
と思わせる気迫。
しかも転生仲間にはドラマにも登場している高名な武芸者、
エリートなあの方とか温厚なあの方とか。
うわあすごい!と思ったら彼等はなんと全て倒すべき「敵」なのです。
じゃあ彼等と戦う正義のヒーローは?
こちらはおおらかで人懐こい青年、柳生十兵衛。例の剣豪モノで言えば、
将軍家兵法指南・柳生宗矩の息子です。
剣の腕は確かですが、生身の人間である十兵衛にヒトならぬ魔人共を
倒す事ができるのか?
こちらの味方は十兵衛を師匠と慕う、性格はいいけど腕は頼りない
道場の弟子達、腕は滅茶苦茶たつ美しい三人娘、おまけに子供が一人、
武器は知恵と勇気と友情か!
しかし微笑ましい若者達も鬼気迫る魔人達も風太郎忍法帖の性、
一人また一人と凄惨にして壮絶な最期を遂げてゆく。
日本が世界に誇る「対戦コミックス」のモデルにして究極の闘い、ここにあり。
先日紹介した大塚氏の「キャラクター小説」をめざすみなさん、
まるでアニメのようにキャラの立ったエンターテイメント小説のお手本
というのはこんなのですよ。
とはいえ、デフォルメされたタッチの奥には恐ろしいデッサン力と
膨大な歴史知識が潜んでいるのです。
(ナルシア)
2002年04月24日(水) 『「指輪物語」 完全読本』
2001年04月24日(火) 『メリーゴーラウンド』
孤独な大人や子どもを主人公に、ふしぎの混じりあった世界を
のぞかせてくれる短編集。
安房直子の透明な絵の具は、
『寂しさ』を、よく描く。
「カスタネット」
「緑のスキップ」
「夏の夢」
「天窓のある家」
「声の森」etc.
これらの短編は、安房直子の樹木に寄せる
複雑な思いをうかがわせる。
ひそやかに息づく、
うすみどりにいろどられた物語。
あるときはやさしい母、あるときは冷たい聖霊、
人をうつす鏡でもある樹木たち。
ときには敵、ときには味方となって。
そして、海。
安房直子の物語の主人公たちは、
海と森をつなぐ光の道を、往き来する。
あるときは逃げながら、
裏切りの苦悩に息を詰め、
またあるときは情に駆られて。
(マーズ)
2002年04月23日(火) ☆ロード・オブ・ザ・予備知識
2001年04月23日(月) 『シャルトル公爵シリーズ』
この本の副題は、「しあわせな大詰めを求めて」。
『しあわせな大詰め』とは、猪熊葉子が師事した
トールキン教授の造語、Eucatastropheを彼女が訳したもの。
平たくいえばハッピーエンドということになるとして、
本書の半分は、この最後の講義、人生の『大詰め』に際して、
児童文学に没入した彼女の子ども時代をふりかえる
ことにあてられている。
過去の、そして今も彼女のなかにいる子どもについて
語る口調は、晴れてオープンである。
なぜ、これほどまでに自身の子ども時代を語ったのか。
『はっきり自覚はしていなかったが、不幸な家庭環境』(/本文より)
のもと、ハッピーエンドの児童書を読みつづける体験が、
いかに必要な糧だったのか。
ACという言葉こそ使っていないが、
虐げられた子の立場から、母であり歌人であった葛原妙子を
語り、母自身もACであったことを語ってゆく。
母親だけが糾弾されているのではないが、母との関係が
子にとっていかに影響力を持ちうるか、猪熊葉子は
勇気をもって書いている。
『残された人生の課題は、そこからどのように抜け出て
自由に生きることが出来るようになるか、その道を探すことだろう』と。
すぐれた児童文学を共感し、『しあわせな大詰め』を
繰り返し体験することで、自分のなかの子どもが癒される。
現実の世界で幼い身体に生じてしまった不具合も、
本の世界で学んだ暖かいコミュニケーション、
書き手からの励まし、まっとうで人間らしい感情の定義づけによって、
安心して生きてゆくための力に変えられる。
数々の『子ども時代の生き直し』体験をさせていただいた
翻訳児童書について、ずっと想像していたことがある。
作家だけでなく、訳者の方々もまた、一読者と同じ思いを
抱いているのではないだろうか、と。
満たされない子ども時代を過ごされたとすれば、
この作品の、この部分に、
涙されずには進めなかったのではないだろうか。
そしてその作品と出会わせてくれた運命に、
感謝したのではないだろうか、と。
(マーズ)
「最終講義」とあるように、1999年に白百合女子大学で
行われた猪熊教授の最後の講義を本にしたもの。
読みやすくまとめられているが、ここに凝縮された情報や
『感じ方』は、研究者の世界から遠いところで
ただ児童文学を読みふけっている私にとって、
生涯をかけてそのことに関わってきた人だけが与えてくれうる
『そうだったのか』の連続だった。
翻訳児童文学をある程度読んでいれば、「猪熊葉子」という
翻訳者名が、要所要所で出てくるのは知っている。
ゴッデンやサトクリフ、ピアス、ノートン。
研究や翻訳をする人たちが、多くは大学に籍をおいていること、
白百合女子大学が児童文学関係者の灯台となっているらしきことも
うっすらとしか知らなかったから。
他に数人の、要となる人物も、ここで一気につながった。
その世界にかかわっている人たちには何でもないことだろうけど、
一般書の作家とちがって、児童書、翻訳となると情報は少ない。
本気で知りたいと思えば方法はあるとはいっても。
何によらず、体系的に指導を受けるという方法を取らない
学びは、いろいろと前後しながらインプットし、
全体像を獲得していくしかない。
猪熊葉子は、研究分野にはどうかと思う、といわれ続けながら
聖心女子大学で児童文学の研究に没頭していたという。
ついにオックスフォードへ留学し、『あの人』に師事した。
あの人、ビルボ・バギンズの生みの親、
トールキン教授にである。
これにはさすがに、周囲もびっくりしたという。
周囲はもちろん、「指輪物語」の作者だからではなく、
偉大で高名な学者としてのトールキン像にひれふしたのである。
当時すでに、トールキンはルイスと疎遠になりつつあったのか、
ナルニアを読めとはすすめられなかった、と書かれている。
当時のオックスフォードにすら、児童文学の講座はなかった、とも。
須賀敦子と同級生だった、という事実もまた、熱いものが走る。
ひとは深いところでつながっていて、そのつながりを思いがけなく目にするとき、
一瞬の虹を見た心地になる。
須賀敦子が子どものころ読んだ本について書いた
「遠い朝の本たち」を、ぜひ読みたい。
(マーズ)
☆誰もが持っている、ACの要素。
自覚のあるAC(アダルト・チルドレン/アダルト・チャイルド)なら
タイトルだけで想像がつくと思う。
副題は『幸せなアダルトチルドレンになるために』。
'97年に出た本書は、臨床心理士の著者による、
アダルトチルドレンの気づきと再生へのガイドである。
ACの実例だけでなく、過去の自分を癒しに出かける方法、
自律訓練法などのテクニックも紹介されている。
80年代にアメリカから入ってきたACの概念と、日本の現状
(当然、過去についても)の違いをふまえながら、
ハンモックのようなフィット感覚で包み込む文章。
実際に、著者を目の前にカウンセリングしているような感覚を持つのは、
柔軟で真摯な文章から立ち昇る「母性」にもよるのだろうか。
本書のなかでも説明されているように、
ACというのは病名ではない。
ACの度合いも人によってさまざまに異なり、
そこに病気か正常かの線引きをすることは、
確かに、学問的には正しくないかもしれない。
それでも、悩む本人にとって、『AC』という言葉に出会い、
みずからのままならない人生の原因を『AC』という
概念に置き換えて見ることは、名もなくわけもわからない
恐怖におびえて人生を転がり落ちていくのとは、
まさに天と地のちがいがある。
「ACという言葉は、多くの人の琴線にふれました。
おかげで、現実に臨床現場で心を病み苦しんでいる人々と
直に接する者にとって、きわめて有用なキーワードとも
なったのです」(/本文より)
ACの多くが、幼い頃、無自覚なACの大人たちによって、
言葉の刃で深く徹底的に傷つけられ、そのことすら抑圧していることを
思えば、言葉による癒しの効果も、広く認知されてしかるべきだろう。
ここに紹介された実例は30代、40代が多い。
やはり、自律的にでも他律的にでも
何らかの形で気づきを得たり、本を読んだり相談に来たりするには、
若さというシールドのある20代のうちはむずかしいのかもしれない。
いつであろうと、気づきが遅すぎるということはないけれど、
世代にかかわらず、ACの広がりを、地球の温暖化よりも身近に
感じている人が増えていけば、どれだけ世界は暖かい場所になるだろうか。
こういう温暖化ならば、環境問題にはならない。
心の闇のすみずみを訪ね歩き、その結果、暖かさのなかに身を置く人が
増えてゆけば、世界は根本から変わる。
誰のなかにも、ACの要素はあるのだから。
他者を責めるよりも、何かがおかしいと気づいた人が変われば、
必ず変化は起こってゆく。
世界がお互いを認め、成熟した「大人」に育たなければ、
争いは終わらないし、国と国との争いは、ACをまた増やす。
『癒し』がブームとなっていることへの批判めいた論調を
メディアで目にすることは多い。そのことこそ偏狭でAC的だと嘆く
著者とおなじく、私も、『癒し』という言葉が好きで、その力を信じている。
私たちの地域でいうところの、『癒る/いやる』とは、
傷や穴がふさがることなのだが、「じきにいやる」といわれたら、
本当にそんな心持ちになるものだ。
人それぞれだが、私は、『アダルト・チルドレン』という複数形を
好んで使っている。
独りではないという思いを込めて。
(マーズ)
1955年の作品。
ロンドンに住むひとりの少女、ロージー・ブラウンのもとに、
ひょんなことから黒猫カーボネルと
魔法のほうきがやってくる。
ロージー・ブラウン(なんてやさしい色の名前!)は
お針子で生計を立てる母親と、貧しいアパート暮らし。
その日暮らしの家計は、とてもきびしい。
そんな家にやってきた黒猫カーボネルは、
実際、ほんとうのところ、
いじわる魔女の魔法にかかった、猫の国の王子様だった!
それ以来、平凡だったロージーの毎日は、
カーボネルの魔法を解くために、今まで思いもつかなかった
知恵やら、大人との交渉やら、試練に満ちた胸おどる日々となる。
新しい友だち、お金持ちの息子ジョンも仲間となって。
ほうきに乗って飛んだり、魔法の呪文もおもしろいけれど、
ロンドンのあちこちを探検するロージーたちと
冒険をともにするという、旅行的楽しみもある。
黒猫をしたがえて(カーボネルは断じてしたがっているつもりは
ないだろうけれど)ほうきに乗る少女は、
「魔女の宅急便」の元祖的イメージ。
けれど、この物語を何より特徴づけているのは、
ロージーという、どこにでもいそうな少女のなかに
息づいている、たぐいまれな他者への思いやり。
こういうことをしたら、この人はこんな風に思ってしまう
かもしれない。
あの人は、今こんな状態だから、これをあげよう。
だれだって、ちゃんとできたときはほめてもらいたい。
大げさなことではなく、相手への信頼や誠実さを示したり、
相手のよろこぶことばを伝えること。
誤解なくわかるように、思いやる気持ちを注ぐこと。
誰かのよろこぶこと、悲しく感じることを、
ちゃんと察知する力。
つまりは、コミュニケーション能力。
かといって、
ロージーが日常的に大人の顔色をうかがっているのではない。
お母さんは、ロージーとの暮らしのなかで、普通に
思いやりをもって接している。
たとえば、お休みの始まった日は、ロージーにとって
うれしいうれしい日だから、ちょっとだけ豪華で、ロージーの
大好きな食事を作る、といったふうに。
ロージーはどんな大人になってゆくんだろう。
カーボネルの続編に、成長したロージーは出てくるだろうか?
魔法のとびだすファンタジックな物語を楽しみながら、
ロージーのやさしさこそ、相手への魔法なんだな、
と思わされた。
(マーズ)
2002年04月16日(火) ☆風と共に去ったグルーチョ。
2001年04月16日(月) 『モリー先生との火曜日』
明らかにシンクロはつづいており、「妖魔をよぶ街」を
読み終わったとたん、人づてに井辻朱美自身の著書が
手もとにやって来た。この春出た本である。
しかも、「赤毛のアン」までファンタジーとして
論じられているのだから、
読み始めてすぐ、個人的な興味のメーターが上がってしまった。
副題は『ファンタジーの癒し』。
タイトルの「魔法のほうき」が、ハリー・ポッターの
ほうきを具体的に思い起こさせるように、
ハリーも本書全体を飛び回っているのだった。
私たちにとって、ファンタジーを読む(体験する)ことが
どのような意味をもっているのか、クスリとしての
ファンタジーの効能を主題に、
『場所』や『時』を鍵としたファンタジーの分類を、
アカデミックな天上世界からではなく、本好きな者どうしの、
『通じる言葉』を使って次々に繰り広げていて、
「アン」に関しても、新しい視点を得た。
『場』としての『公園』も、メアリー・ポピンズを引用して
論じられている。これも、公園を重要な場所として登場させていた
「妖魔をよぶ街」を連想せずにはいられない。
そういえば、井辻朱美の著作リストを見て、
「妖魔--」を読みたいと思ったのも、精神世界の本だったっけ。
と思い出したりした。
面白いところは読んでのお楽しみということで、
とりあえずは、ここに論じられている上記以外のタイトルを
少しだけ紹介させていただく。
「指輪物語」「ナルニア国ものがたり」「トムは真夜中の庭で」
「クローディアの秘密」「ヴァン・ゴッホ・カフェ」etc.
・・読みたいと思っていた「屋根裏部屋のエンジェルさん」、
ストーリーと象徴されるものの深層がわかってしまったけど、
よけいに読みたくなってしまった。
(マーズ)
ネストやジョン・ロスには見える(デーモンにも!)
『喰らうもの』という種族が登場することを書いたが、
そこで関連して思い出すのが、『喰らわれしもの』。
こちらは、グウィンのゲド戦記第二巻、「こわれた腕環」の
主人公となる巫女アルハそのひとを指す呼び名だ。
神によって人間としての過去を喰われ、聖なる存在となった少女は、
迷宮にとらわれ利用される奴隷でもあった。
『喰らうもの』は、デーモンのように『悪』ではない。
ただ、そういうふうにできているだけなのだ。
負の感情や血を好み、光から逃げようとする
見えない存在。
だから、たとえば、怒りや憎しみの感情を発してしまったとき、
見えない『喰らうもの』がエネルギーを吸うために、部屋の隅から
わらわらとこちらへ近づいてきたとしても、
私たちには見えない。
ジョン・ロスの見る予知夢のなかで、悪に征服されたアメリカの都市に
『喰らうもの』は、やはり存在している。そうなってもなお、
奴隷となり、文明を奪われた人々には、彼らの姿は見えない。
彼らの格好の糧となるだろうエネルギーは、
今の世界にもあふれている。
グウィンのいう『喰らわれしもの』と同じ意味あいではないが、
シニシッピー公園をとりまく世界でも、喰らわれた人々は
それぞれの現実を生きている。
母の情夫に虐待されている少年、ジェアード。
過去に起こったことの秘密に隔てられた、ネストの祖母と祖父。
会社と対立する組合員たち。
そんなことを思いながら、
『喰らうもの』『喰らわれしもの』を
この世界にあてはめてみる。
『喰らい』、『喰らわれる』競争に、あまりにもなれてしまった
力の論理が敷かれたこの世界に。
同じように、目には見えないけれど『与えるもの』が、
ただそう生まれついた存在もいるのだと、
身勝手にその姿を思い描く。
ネスト・フリーマーク。
私たち読者にとっても、孤独なジョン・ロスにとっても、
虐待された級友の少年にとっても、
避難所のようなその名をつぶやきながら。
(マーズ)
このファンタジーを読もうと思ったのは、
井辻朱美訳だったのと、小さな田舎町が「悪いもの」に
おそわれる話を探していたから。
(そしてそのとき読みかけていたスティーブン・キングの
古典を、まだ読み終わっていない)
イリノイ州ホープウェルは、風光明媚な田舎町。
その町の『公園』と深いかかわりのある
14歳の少女ランナー、ネスト・フリーマーク。
ひそやかな猫の踊りを思わせるシニシッピー公園の名は、
かつてこの地に住んでいたシニシッピー族に由来している。
原題は「ランニング・ウィズ・ザ・デーモン」と
なっていて、少女とデーモンの対決を描いている
のだが、ここには別の意味も隠されている。
公園のあたりを根城にして巣食う『喰らうもの』は、
普通の人間には見えない。彼らは、恐怖や苦しみなど、
負の感情を喰らって増え続ける。
そしてそこに跳梁する「悪いもの」こそ、
人類を滅ぼそうとたくらむのが仕事の『デーモン』。
ネストの世界をいろいろな側面から支えてくれるのは、
それぞれの背景を持った騎士、森の精や家族、級友たち。
ネストには魔力の血統が受け継がれており、
人間でそのことを知るのは祖母だけである。
しかも、彼女は存在理由の情報をほとんど与えられていない。
つぎつぎと彼女の前にあらわれる不思議な人物や
非人物たちによって明かされる秘密、現実、愛と憎しみは、
ネストを痛めつけながらも、成長させる。
皆が少しずつしか教えてくれない真実と自分の直感によって、
ネストは時間のなかを未来に、思いきり息のできる世界に
到達しようとあがく。社会の現実や、見えない世界の闇に
おびえながら。
このファンタジーはシリーズ化されていて、語り部となるのは
もうひとりの主人公、ネストを守る使命を持ったジョン・ロス。
彼が何ものなのか、詳しくは書けないが、どうにも非力に
見えて(笑)、そのおかげで相当はらはらさせられるのも
確かである。しかも、彼の不安が取り越し苦労ではないとくれば。
この不安の一因は、彼がもともと、目的を見つけられずさまよう
タイプのACであった、という事実にあるのかもしれない。
下巻の「訳者あとがき」は、ブルックスの作家論としても
アメリカンファンタジーの論考としても、力作である。
(マーズ)
2002年04月09日(火) 『妖精国の騎士』(その2)
2001年04月09日(月) 『レベッカへの鍵』
タイトルと作者を見れば、普通ならサブカルチャーのカリスマによる、
若者に人気の「アニメっぽい小説」を書くための指南書だと思うでしょう。
実際そうです。それで合ってます(笑)。
本書はもともとアニメ風イラストを表紙にしたような、ジュニア向けレーベル、
ここでいうところの「キャラクター小説」の書き手を目指す人たちに向けて
書かれた「教科書的解説」が下敷きになっています。
しかし、作者とほぼ同じ世代のマンガ・アニメの「教養」を持つ私としては、
本を見たときピンときてしまいました。
「さては大塚さん、高尚なる日本文学、『私小説』に喧嘩売る気だなっ!」
そしてこの直感もまた当たっていたのですよ(笑)。
その件につきましてはまた後ほど。まずは「教科書」的側面から。
現在はただの大量消費商品でしかない「キャラクター小説」は言わば商業
アニメの代用品です。ならば今や「芸術」の一分野となったアニメと同様、
人を惹き付けるパワーのある文学もここから生まれてくるのではないでしょうか。
もっとも、もと編集者として箸にも棒にもかからない「駄作」を死ぬほど
見てきたであろう大塚氏はすぐにはそんな甘い事は言いません。
しかし、レベルの低い書き手を叩く代わりに、新人発掘のための応募作品に
向けた「編集部」の抽象的な「酷評」を悉く逆批判しながらキャラクター作りの
「問題点」を洗い出していくのが痛快です。
例えば、「オリジナリティが欠けている」として編集部から切って捨てられた
「左右の瞳の色の違う」キャラ(5作に1作の割合で登場!)について。
それはアイディアが駄目なわけではなく、その特異な「外見」を「物語」に
結びつける必要があるのだとして、大塚氏は「左右の瞳の色の違う必然性のある、
魅力的な」キャラをさくさくさくっと作ってみせる。言われてみれば、
最も売れてる大塚キャラだって「左右の瞳の違う」バリエーションですね。
そしてキャラクターはパターンの組み合わせだ、と断じる。
こういうテクニック部分だけでも十分面白く読めます。
実際「創作」の上での「オリジナリティ」なんて、どんな芸術分野でもほとんど
存在していません。皆なにがしかの過去の遺産を引き継いでいるのですから。
意外というか、やっぱりというか、自分達の世代の「サブカル的教養」を
次世代に伝える使命に燃える大塚氏は、いわゆるゲーム小説のここに至る
「歴史」なども成立の事情を知らずに形式だけ真似る書き手のために
懇切に解説しています。つまり。「君ら、『テーブルトークRPG』知らんの?」
熱心な先生らしい修行法の伝授の中で、カルトっぽいTVドラマや人気アニメの
検証とともに、民俗学者が論文を書くために使った「カード」を利用した
編集方法とか、人が「心地よい」と感じる「お話の法則」を知るために民話や
昔話をたくさん読もうとか、「柳田国男の孫弟子」らしいアドバイスも登場
します。
的外れな批判に無自覚な編集部、現実社会の存在に無自覚でいて空想世界を
描く投稿者、商業主義的である事に無自覚な文壇の重鎮、四方八方に怒りを
滲ませ、実際あちこちでもめ事を起こすので有名な真摯な「批評家」は、
そうするうちにもせっせと「証拠」を積み上げてゆきます。
そして。ついに、日本近代文学の始祖の一人とも言える文豪の「無自覚」の
罪を問う!
例によってアクロバティックにして「おお!」と膝を打ってしまうミステリ
的結論!
ワカモノは唖然としたかもしれないけれど、私はまたも大笑い。いやあ。
面白い。
ところで、大塚氏は自ら作り出した「記号的身体」にどうやって「死」を表現
させるのか、「壊れた」事をどうやって読み手に理解させるのか、ものすごく
苦心し試行錯誤されています。そのために自分のルーツとしての手塚治虫の
「血を流す記号的身体」を重く取り扱っています。
しかしながら私は思うのですが、記号的キャラに「死」を与えるのはその
身体表現ではないのではないでしょうか。
大塚氏が「手塚治虫にあって僕にない」という特別な「もの」を持つ天才
表現者の作り出したキャラでいえば、おなかの蓋がぱっくり開くと中の配線が
丸見えで、しょっちゅう首を簡単に取り外すブリキのお人形のようなアトムや、
黒光りする鋼鉄の塊のプルートが、痛むはずのない身体を壊されると、
見ている私達が悲しくなるのは手塚治虫の身体表現の工夫の結果ではないのです。
そのキャラが失われると悲しい。同じ形の身体は別に用意できても、その個体
はかけがえがない。私達は記号の中に「身体」ではなくて「魂」を見ている
からです。
こちらもテクニックを駆使して与える事ができるものですが、身体以上にその
出来不出来にバラツキがあります。
上手に作れると、作った人間よりもはるかに長生きするキャラになりますから、
みなさんがんばりましょう。
(ナルシア)
アトムはもともと、人間の労働力としてではなく、事故で死んでしまった
少年の身代わりとして造り出されました。
小さいとき、私はアトムの生みの親・天馬博士はなんて悪い人だろうと
思っていました。
息子の代わりに造ったロボットが、やがて自分の思い描く「息子」とは
違う事に気が付き(人間と違って成長しない)憎くなって捨ててしまう。
ひどい。アトムかわいそう。
(ちなみに父の蔵書の光文社カッパ・コミックスでした。)
少し大きくなったら(アトムじゃなくて私が)、天馬博士ってカッコいい、
と思うようになりました。(その当時は朝日ソノラマのサンコミックスで
出ているのを、おこづかいで買いました。父のカッパ・コミックスは
引っ越しで処分したらしい)
自らの冷たい仕打ちを悔いて、陰から秘かにアトムを支える、言わば
「名乗れぬ父親」。息子を失った悲しみに打ちひしがれ、
「二人めの息子」の大切さに気が付いたのはずっと後になってから
だったのでしょう。
だいたいアトムは機械で作られたお人形なのですから、捨てられる
リスクはとても大きいのです。
なんでかって?
誰よりも優しい心を持っているのに、本当の人間にはなれないアトムの
悲しみは「おもちゃ文学」の王道をゆくものではありませんか。
人間と同じようにお父さんお母さんが欲しい、人間のように「感動」する
心が欲しい、強いパワーも特別な能力も、全て自分のためではなく人間の
幸せのため。
おもちゃは一度捨てられてから自分の幸せをみつけるもの。
そんなけなげなお人形も、やがて愛情いっぱいのお爺さん、失礼、
お茶の水博士に出会い、人間の少年達にも自分達の仲間として受け入れて
もらいます。
手塚治虫先生はディズニーアニメ「ピノキオ」からロボット少年アトムの
インスピレーションを得た、とも言われています。(「ブラックジャック」が
人間の形を与えた少女「ピノコ」も「ピノキオ」から名前を貰っていますね。)
それならばなおさら間違いなく「鉄腕アトム」生誕の物語は、日本の誇る
「おもちゃ文学」なのでした。
(ナルシア)
来る2003年4月7日。
誰が生まれる日か御存知ですか?
小さな体に強い機械の力と電子頭脳、正義の心を持った優しいロボット、
我らが永遠の友達、「鉄腕アトム」の誕生した日です。
1952年に連載が開始された少年漫画は、当時からすればずっと未来の、
機械技術が進歩した21世紀の日本を舞台にしていました。
小さい頃アトムのマンガが大好きだった私は、漫画の中で紹介される
「ロボット技術の歴史」を現実の年代と比べながら、
「今ならこの超小型電子頭脳はもう発明されていないといけないのに、
現実にはまだ出来ていない、どうしよう、アトムは出来ないのかも」
と心配しておりました。
そしてあっというまに、あの遠く思えた21世紀に私達は来てしまいました。
「アトムの誕生日」を記念して、数々の手塚漫画の出版特集はもちろん、
新作テレビアニメとして明日4月6日(日)朝9:00から
「アストロ・ボーイ 鉄腕アトム」(フジ系)が始まり、
ハリウッドでも映画「アストロボーイ」の制作が始まっています。
ところで、おそらく世界一有名な「ロボット」アトムを通じて、様々な角度から
日本特有の「ロボット文化」が語られています。
欧米では違和感や恐怖を与える存在である「ロボット」がなぜ日本では人間の
友達なのか。自らの姿を似せて創造物を造るのは神にだけ許された行為である
キリスト教圏と、無生物にも魂を感じるアニミズムを持つ日本の違いなのか。
等等。
もっと猫や的な答えは、我々の「夢の図書館」の得意ジャンル(いつから・笑)
の一つである「おもちゃ文学(命名・担当:マーズ)」の中にあります。
そう、可愛い少年の姿をした機械人形アトムは子供達にとって、労働力としての
「ロボット」としてよりも、大好きな遊び相手としての「おもちゃ人形」
なのです。そしてアトムと一緒に育った子供達は、姿が人間に似ていなくても
アトムの仲間達であるロボットの事を、友達として愛する事ができるのでした。
(ナルシア)
2002年04月05日(金) 『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』
☆平和をうたう、もうひとつの風。
「アースシーの風」、ストーリーの柱となっているのは、
竜と人、生きることと死ぬこと、そして、
竜と人を含めた登場人物たちの過去、現在、未来。
愛に出会うことと、愛そのものになること。
こちらの風、むこうの風。
グウィンが、今、この時を選んで完結編を出した背景は、
ゲドの妻、テナーの言葉にもあらわれている。
「この世界が大きく変わろうとしているみたい。知っていたものなど
なくなって、なにもかもが新しくなるのかもしれない。」(本文より)
アースシーの世界でも、私達の世界でも、ことは同じように
起こっているらしい。
ゲドの家を訪ねたまじない師のハンノキは、
助けを求める死者の悪夢にとりこまれそうになっている。
竜は人を脅かし始め、人間どうしの争いも始まろうとしている。
『争い』。
お互いを認めず、力を求め、損ね合う愚かさ。
長い空白を経て、王座に座った若き王、
レバンネンにとっても、重いテーマである。
現在の『争い』に満ち満ちた世界を思えば、なお重い。
テナーは登場したときから自分を持った女性だが、
今回も、ゲドがゴントの島で待つのにくらべ、レバンネンと冒険の渦中に
立つことになったテナーの状況の見方、成熟した女性としての
感受性は文学的な趣で、ていねいに描かれている。
不思議な縁で結ばれた母テナーと娘テハヌーは、どうなるのか?
外伝「ドラゴンフライ」で登場したトンボことアイリアンのその後は?
ローク島の魔法使いたちは、この事態にどう対応するのか?
自分に見合った伴侶を見つけて結婚するという、
誰でもが自然に進む道を逡巡するレバンネン王の姿となりゆきも、
テナーとおなじく、彼の少年時代を知る私たちには、
はらはらさせられる。
そして、猫!
「空飛び猫」のシリーズでも知られる猫好きのグウィンが、
灰色の仔猫を登場させて、今回の新しい主人公である
まじない師ハンノキのそばで、彼の悪夢を癒す。
ゲドの手をいきなり噛んだ、きかん気の仔猫。
今までこのシリーズに猫らしい猫は登場しなかったから、
これを機会に、活躍させたのだろうか。
ともあれ。
純粋で堅実で、ゆらがないものなど、ないのかもしれない。
それでも、そうした測れないものが、
グウィンの描く架空の世界の物語のなかに、
根をはって、呼吸している。
すべてのことばと、ことばのあいだに。
私たちが求めるのは、その世界を呼吸することである。
(マーズ)
2002年04月04日(木) 『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』
2001年04月04日(水) 『自分の人生がある場所へ』
☆ゲドに迎えられて、再びアースシーへ。
待望のゲド戦記続編、第五巻の登場。
ゲドに再び会うという夢が叶った。
もう、ずっと、私よりも人生の先を行っている元魔法使いに。
この第五巻、原題は「The Other Wind」。
冒頭、元大賢人にして、元アースシーの大魔法使いが余生を暮らす
ゴント島へ訪ねてくるまじない師ハンノキを相手に、
木からとったスモモをうれしそうに見せ、畑仕事にいそしむゲド。
70歳かそこら、と描写されているゲドは、
実際はただものではないが、しかしもちろん、かつての
偉大な魔法の力は残っていない。
エンラッドのアレンこと、アースシーを治めるレバンネン王の
少年時代、ともに生者と死者の国を往き来したあの日以来、
それは同じだし、そこのところを変容させる作者でもない。
今回の物語では、あの暗い世界で生と死の境界に見えた『石垣』も、
大きな意味をもっている。あのとき語られなかった、かの世界の
生と死の秘密が、今、ようやく明らかにされる。
ゲド戦記シリーズは、出版年が途中から大きく開いている。
第三の「さいはての島へ」から第四の「帰還」までが18年。
さらに、作者によって『最後の書』と題されていた「帰還」から、
この完結編までが11年。
その間、異種のジャンルをも取り込んで成長しつづけた、
古典でありながら、異世界ファンタジーの枠には
とうてい収まりきらない作品群である。
たとえば、ファンタジーとフェミニズムといったように
2つ以上のジャンルがクロスオーバーしているため、
純粋に冒険ファンタジーが好きな人にとっては、
三巻まででじゅうぶん、ということになるだろう。
(賛否両論あるが、私は発売日に予約した賛成派)
ただし、2000年に、今回の完結編への糸口をかいま見せる
「ドラゴンフライ」が、本シリーズとは別に邦訳されていて、
こちらは、2001年に出版された「Tales from Earthsea」(未訳)の
なかの、5つの短編のうち、最後に入っている作品らしい。
(なぜ出版が前後しているのか、詳しい事情はわからないが、
米国で雑誌か何かに掲載されたものをロバート・シルヴァーバーグが
アンソロジーに編んで出版し、その訳が本編より先に出たということか?)
ともあれ、この短編集も、この後翻訳されていく予定とのことで、
また楽しみが増えた。
とはいっても、2001年からの読者である私にとっては、
大人になってから、すべてを短期間のうちに読めたことになる。
これは私にとっては、絶好のタイミングだった。
どんな読み方をしようと個人の自由だが、
ゲドたちの進む道に、グウィンがわざと伏せて置いた葉っぱを、
そっとひっくり返してみたことのある読み手は、
今、なぜグウィンが完結編を世に送り出したのか、
アースシーの世界に託して書かずにはいられなかった思いを
共有していることだろう。
(マーズ)
→ゲド戦記シリーズ
1「影との戦い」
2「こわれた腕環」
3「さいはての島へ」
4「帰還」
☆外伝「ドラゴンフライ」(「伝説は永遠に(3)」/ ハヤカワ文庫FT)
2002年04月03日(水) 『ハリー・ポッターと秘密の部屋』
☆おもちゃが主人公の短編絵本。
ホフマン作「くるみわり」をはじめ、8つの短編に、
イギリスの人気絵本作家クラークが絵を描いている。
「だいすきよ、ブルーカンガルー!」の著者としても知られる。
知人に借りたこの絵本を読んでいて、あらためて
幼少時の読書を思い出し、はっとした。
ここでは「しっかりしたすずのへいたい」という
タイトルで登場するアンデルセンの有名な短編は、
思えば子どものころ最初に親しんだ『おもちゃ文学』
にちがいなかった。
今になって『おもちゃ文学』を探して読んでいるにもかかわらず、
あの有名なお話のことを、すっかり忘れていた自分に驚く。
足元というのは、ほんとうに見えないものだ。
すずのへいたいの冒険と結末の悲しみと希望を、
あのころ繰り返し味わっていたことを確認したのだった。
「まいごになったお人形」として知ったお話も、
「小さい、小さい、お人形」となって、
キュートなクラークの絵で読むと、また印象がちがう。
ラッセル・ホーバンの、ファンタジックなお話
「ゆうかんな、にんぎょう」は、
すずの兵隊と同じく、人形たちのロマンスを物語る。
女の子の人形ふたりが主人公の「庭のぼうけん」も、
独特の色づかいで、ぬくもりのあるクラークの絵に
ぴったりの題材。
(マーズ)
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管理者:お天気猫や
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