味噌カツ文化圏で仕事。 この地では間もなく、COP10−生物多様性条約第10回締約国会議−が開催される。
公式サイトでは世界から8000人の来訪者があるとうたっているが、地元の期待は薄い。 急激な円高で、公費で来日できる国の閣僚などはまだしも、貧乏所帯のNGO団体などは厳しいのではないか、との見方。おそらくエアチケット代だって馬鹿にならないだろう。
人間が考えた技術で地理的ハンディは克服され、 人間が考えたシステムで、再びそれは遠ざかる。
*
生物多様性について各国が一同に会し共感する場所として、名古屋と言う所が適当かどうか疑問なところでもある。
それはもちろん、博覧会国際事務局から環境保護基準に反するという指摘を受けた、その筋には悪名高い愛知万博に関する騒動が背景にある。
2009年08月31日(月) 政物多様性の確保 2004年08月31日(火) リピート日記
残暑が厳しい。信州であってもこの地は涼しくない。
さすがに空調された空間でないと、まともに脳みそが働かない。
かくして近所の喫茶店のドアをたたき、 アイスコーヒーをオーダーして月末のための資料をめくる。
スイカの値段が下がらないんだってさ、と、隣の席の茶飲み話。 どうやら中が空洞になってるらしいのまで、2000円もするんだ。
*
山仕事のHは疲労が激しく、気の毒である。 あと一月半後にはネパールだから、コンディションが心配でもある。
それから心配なのは、もう一方、音楽祭に来ている病後のマエストロ。 この暑さで体調をくずされないとよいが、と思う。
2006年08月26日(土) パッション
日帰り上京。 会議というのは短くやるに越したことはないが、 それにしても10分というのはあまりに形式的にすぎないだろうか、という会議。
*
小沢一郎と管直人の対決の構図を描く民主党は、 国民の視線をくぎ付けにしたい意図が見え見えである。
*
若者のエネルギーは、何かから逃げるために放たれる。 顕在的であれ、潜在的であれ、その美しさは未来への逃避となって表れる。
年をとると、そうはいかない。 誰も追いかけたり、干渉してくれないからだ。
而して、年寄りのエネルギー−もはやそれは執着とよばれる−は、 誰かを引き寄せ、関心を集めるために使われる。
民主党の様は、私にはまったくそんな感じにみえる。
否、社会全体がそんなふうにみえる。
*
個人が年をとるのならば、社会全体も高齢化の傾向を帯びる。 そのことに私たちは注意を払わねばならない。
社会全体に加齢臭が漂い、怒りっぽくなり、ミスが多くなり、 大事なことをすぐに忘れるようになる。
損得に敏感になり、ケチくさく、ひがみっぽくなり、常に自分が一番でなければ気が済まず、他人の評判に一喜一憂する。
いまや、自分の道をみつめて一心に生きるような初々しさや、 自分を上回るものに憧れたり、何かを大胆に大好きになったり、 矛盾や普遍性を自分のものとして熟考する姿は、社会に存在し得ない。 そう諦念すべきである。
*
けれども年寄りというのは見苦しいだけではない。 それまでの実績によっては、未来にとって十分に尊いものになることもできる。 敬虔で、思慮深く、目下の者を思いやり、老人にしかできないまなざしで、未来へ目を向けることができる。
果たして私達のこの「高齢化社会」は、それが可能だろうか。 成熟という名の冠にふさわしい、知恵と経験を重ねてきただろうか。
2007年08月23日(木) 2006年08月23日(水) 安全と冷静 2005年08月23日(火)
もみじマーク、もとい高齢運転者標識のリニューアルに関するニュース。
政界からの「高齢者いじめ」の名の下に、表示義務違反に対する罰則をなくし、このたびデザインも一新された。
新しい「四葉のクローバー」なるマークは、これまでの緑とオレンジの二色のデザインに、黄色と黄緑色が加わった。
*
年寄りを年寄りと言って何が悪いのか。 3歳の子どもと一緒にしてもらいたいのか。
もみじマークを年寄りいじめと言う人達は、親やその親から、年齢の重ね方を教わってこなかったのだろうか。
そうかもしれない。
何しろ今の老人達は、上の世代を、ことごとく戦争で失っている。 連綿と伝えられてきた、老いることの実態を知らないのだ。
*
それに加えて現代社会の私達は、生老病死と無縁のシステムや仮想世界に囲まれ、システムと一体化して生きている。 そこでは、子どもも若者も中年も年よりもないまぜのファッションをしていていて、 年相応にするべきだとは誰も思わない。
新しい四葉マークみたいに何もかもが混在して、自然の姿を見失っている。
だから、ある日唐突に、生物としての自然の変化-それも成長と異なる部類の-を 自分だけが押し付けられることに、孤独感を感じ、不条理を感じ、尊厳を傷つけられる。
*
「老人力」という言葉を思い出す。赤瀬川源平さんの明言、名著である。 昨今はなんだか、若い頃と変わらない自分を演じるための、自己欺瞞の方便みたいに使われている。
赤瀬川氏は、自分の老化現象と向き合ったからこそ、老いた今を生きるための言葉を見つけた。
人々を喜ばせた「老人力」という言葉は、「老人のパワー」ではなくて、「老人の意味」と捉えたらよいのだ。
大切なのは、老いないことではない。 何もしないまま、年をとることだ。
2009年08月20日(木) 台所ですることは 2007年08月20日(月) 未来は過去になる 2006年08月20日(日) 急速冷凍、急速解凍 2005年08月20日(土) 何者かになりたい症候群 政治編 2004年08月20日(金) 「うちの社長は駄目社長」と客に言う社員
子ども達を、親を、海に山に遊ばせて、夏休みの義務的休暇は終了した。 山の手入れも、畑の収穫と秋野菜の準備も、滞りなくすませた。
あとは仕事をするだけである。
夏の水辺や山や畑は、もう十分だ。
空調のきいた、人工的なオフィスビルで、 朝から晩までデスクワークに励みたい。
電話をしたり、書類を作成したり、ブレストをやったり、 そうした活動がぜひしたい。
だらしないTシャツやサンダルではなくて、 かきっとしたスーツと靴に身を包みたい。
満員の通勤電車ですらチャレンジしてみたいという、 間違った衝動にさえ駆り立てられる。
2004年08月11日(水) ニュース満載
パキスタンヒマラヤから帰ってきたY君のメール。 落石と雪崩で、命からがら下りてきたそうである。
公表する予定はないけれど、と関係者にだけ送られたレポート。
そこには、おそらく普通の人が一生遭遇することのない種類の、 自然に対する恐怖の体験が吐き出されていた。 生半可な登頂報告よりも、生々しく読んだ。
*
何百メートルも頭上から、ぶんと音をたてて、岩や氷が次々に落ちてくる。 そのうちのいくつかは、実際にクライマーを直撃する。ヘルメットが変形し、割れる。 人間が立ち入ってはいけない場所に入ってしまった、という恐怖の実感。
いつも自分の実力と戦略への自信を隠さないY君が、降り注ぐ岩と氷に、もう勘弁してくださいと山に祈りながら、自分はなぜここに来てしまったのだろうと自問している。
標高7000m近い壁の中で、生をあきらめるか死ぬほどの恐怖と向き合うかの二者選択に迫られる状況は、読んでいるだけで気が遠くなりそうだ。
*
死なないで下りてこられたのは、経験と実力のある彼ら3人だったからだ。 今回のことは、登頂の失敗というより生還の成功といった方が正しい。
生きて戻れてよかったね、とひとりごつ。 彼らは、次のチャレンジをするチャンスをつかんだ。
2009年08月10日(月) 自然界にはない物質 2007年08月10日(金) 夏の光の観覧車 2006年08月10日(木) 2004年08月10日(火)
|