2010年メキシコ湾原油流出事故に関するニュース。
既にウィキペディアに掲載されていたから驚いた。 以下抜粋。
「2010年メキシコ湾原油流出事故は、2010年4月20日にアメリカ合衆国ルイジアナ州のメキシコ湾沖合80kmで操業していたBPの石油掘削施設(石油プラットフォーム)「ディープウォーター・ホライズン」が爆発し、海底1,522mへ伸びる深さ5500mの掘削パイプが折れて海底油田から大量の原油がメキシコ湾全体へと流出した事故。原油流出量はBP社発表によると1日15000キロリットルと推定される。その後修正され、7月16日までの総流出量は約70万キロリットルで、1989年に4万キロリットルが流出したアラスカ州のタンカー事故(エクソンバルディーズ号原油流出事故)をはるかに超えた。この流出量は1991年湾岸戦争(150万バレル)に次ぐ規模で、1979年メキシコのイトスク(海底、45万t)、1979年アトランティック・エンプレス号(29万t)を大幅に凌駕している。被害規模は数百億USドルとされる。」
抜粋終了。
米国オバマ大統領の対応は、中間選挙に影響するだろうといわれている。 22日には三井物産系の石油開発会社MOEX(テキサス州ヒューストン)の石井直樹社長が米議会の公聴会によばれている。 −やれやれ、また公聴会である−
そして何よりも、メキシコ湾の貴重な海中生態系が、壊滅的な被害を受けている。
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原油約70万キロリットル。めまいがしそうである。 最近ようやく、なんだかすごい構造物でもって破損部へ蓋をすることに成功したらしいが、まだ細部からの流出が続いている。
史上最悪の環境事故とよばれる、現在進行形の災害である。 しかし、国内でのマスコミでの存在感や問題意識は希薄だ。
日系企業も責任が問われているが、世間の認知度は、トヨタが米議会の公聴会によばれたときとは、雲泥の差である。
これは、世界が脱オイル社会へ向かう合意形成の階段を一つのぼった、といってもいいような歴史的な出来事 −蛇足になるが、こうした出来事ときたらたいていイギリスが関与する− じゃないか?と思うのだけれど、それはピントはずれな感想なのだろうか。
2007年07月23日(月) 2006年07月23日(日) 担ぎ手の私怨 2004年07月23日(金) 災害軍師
「ゲーテ地質学論集 鉱物篇」を読む。
自然科学者としてのゲーテに注目した本である。
ゲーテは、ワイマール公国イルメナウ鉱山の鉱山委員長を務め、 地質調査など様々なフィールドワークを行っている。以下抜粋。
「私はすべての自然研究において何も知らずにワイマールへやってきた。公 爵のいろいろな企画、建築や造園に実践的な助言をする必要にせまられて、 私は自然の学習をせざるを得なくなった。イルメナウ鉱山のために私は多大 な時間と労苦とお金をついやした。しかし、その代わり私は何がしかのこと を学び、かけがえのない自然観を獲得した。」
1824年にワイマール公国の官房長との対話の記録である。
以下、地球の生成理論や山々の相観学的考察など、ゲーテの論文が続く。
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地質は、ロマンティックである。 詩や文学と、とても近いところにある。親戚と言ってもよい。
それは変成作用があり、積み重なり、褶曲し、構造的であり、脈をなし、侵食し、塊であり礫であり砂であり、風化する。
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地質、鉱山、岩石、そして詩人といえば、宮沢賢治を即座に思い出す。 ゲーテも賢治も、膨大な鉱石のコレクションを残している。
誰でも人は、地質の知識についての学習と、山や川などフィールドでの経験によって、人間の生きている空間や時間と、そうでない空間や時間を、 同時に全球的に-感覚として-つかむことができる。 それは、多分たいていの人ができる。
ゲーテや賢治が常人と異なるのは、そのつかんだものを糧に、 「人間にとって自然とは何か」ということを、最大出力に近い文学的表現でもって、アウトプットできたことじゃないかと思う。
2009年07月22日(水) 小原庄助的日食観察 2006年07月22日(土) 2004年07月22日(木) 王様の耳はロバの耳
養老孟司、岸由二著「環境を知るとはどういうことか-流域思考のすすめ-」を読む。
流域というのは、雨となって降り注ぐ水が集まるエリアの一単位をさす。 河川の支流本流の構成を示す水系とはちょっと違う。
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以下、岸氏の発言の抜粋。
「人間は誰とどこで住むかと言う問いに、地球を無視して答えはじめてもう長くなってしまいました。もういちど大地を暮らす習性の大切さを認識しなおして、地球に住むのにふさわしい倫理を育てなければなりませんね」
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流域は地球の重力の因果関係そのものである。 水が上から下に流れ、山を削り、土壌を堆積し、植物や風景を形作る。
そんな自然の因果関係を感じられる空間をベースにして、人工的な都市社会を構築していくことの大切さを、この本では述べている。
またそうした試みを、信州の田舎の町ではなく、首都圏をはじめ世界中で展開しようと提言しているところが、この人の大胆かつ面白いところである。
それに、構造改革とか政権交代という政治のキーワードよりも、岸氏の言うような「この国に住み直す」という表現は、身の丈にあった感じがある。
2006年07月13日(木) 耳なし芳一の後悔 2004年07月13日(火)
駿河湾沿岸で仕事。
どうも調子が良くないので、休養も兼ねている。 早めに到着したホテルで、じっと動かずに数時間過ごす。
2007年07月12日(木) 名物ドーナツ饅頭−選べない運命− 2004年07月12日(月) 肌寒い空気
2010年07月11日(日) |
焚き火に放り込まれた実 |
ラジオで、はやぶさ帰還に関する話題。
4つのエンジンを連携させるクロス運転システムは、技術者の「何気ない」配慮だったそうであるが、これが帰還の決め手となったのである。
ここで私は、妖怪「覚(さとり)」のエピソードを思い出す。
猟師の焚き火の傍へ現れて、心の中で思っていることを次々に言い当てる妖怪の話である。
妖怪の出現に気味悪い思いをかかえながら猟師が何気なく焚き火へ放り込んだ実が焚き火で爆ぜ、それに驚いた覚が、「人間とは思ってもいないことをする恐ろしい生き物だ」と言い捨てて姿を消す、という結末に終わるのである。
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クロス運転システムは、まさに現代の「焚き火に放り込まれた実」である。
何もかもが顕在化し、計画され、組織化されたとしても、 それが人の世である以上、必ず、人が自覚しないままの行動が存在するし、 緻密な計算で予想できない結果は生じるのだ。それが良いことであっても、また悪いことであっても。
そうだから、現代の私達にもまだ、何者かに向かって祈る余地がある。
ハヤブサのプロジェクトマネージャーである川口淳一朗氏も、きっとそうだと仰るだろう。
2006年07月11日(火) 2004年07月11日(日)
高校生のコーラスを聴きに、門前町へ。 Aをはじめ合唱団の子どもを3人連れて行く。いわば研修旅行である。
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器用なSちゃんは、プログラムにさっと目を通したかと思うと、 ホールを抜け出して隣の盛り場へ遊びに行ってしまった。
ろくに演奏を聴かなかったというのに、帰り道ではさっさと宿題の作文を仕上げていた。 いつ、どこへ、誰と行って、何を聴いて、どう思ったか、ばっちり書いてある。
要領がいいなあと感心する。
英会話を習い、バレーを習い、進学塾、ピアノに通う身としては、要領よくなろうというものだろう。大人との会話もよどみなく、こちらが背を縮める必要がない。
口を半開きにして漫然と歌に聞き入っているAとは、自分の身の置き方や社会的評価に対する態度が全く違う。
悪い意味ではない。 これまでも、そしてこれからも、こうした子は確実に伸びていき、自分の存在価値を作り上げ、社会を支えていくのだ。 また、結果的に上質の芸術文化を鑑賞できる、社会的経済的立場を得たりもする。
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振り返って、こうも思う。
言葉を介さない芸術文化というのは、利発な人間のものではない。 つくづく、そう思う。
言葉や人渡りの良さで物事を上手く運べる人にとって−あるいはそうしたコンディションにおいて−、 言葉を越えたコミュニケーションは、必然性や切迫性をもたないのである。 それは退屈な視覚的、あるいは聴覚的刺激であり、信号の一種である。
あるいはそれは私の意地悪い見方であり、要領のよい人達はエクセレントに演奏者、あるいは鑑賞者となっていて、そうした王道を私が知らないだけなのかもしれない。
けれども私は、音楽や絵画の真の意味を支えているのは、 −それが表現者であっても鑑賞者であっても− コミュニケーションのための言葉が上手く出ず、社会と自分の間に大きな壁が立ちはだかり、馬鹿正直で損をするような、そんな要領の悪い人間−あるいはそうした弱弱しい状況−、だと確信する。
そうした人々にとって「これがなければ息ができぬ」という唯一無二の「気持ちの受渡し方法」になるからこそ、それは救いであり光になるのだ。
2009年07月04日(土) あじさいの歌 2006年07月04日(火)
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