浅間日記

2009年06月30日(火) 撹乱

景気は底を打った、というラジオのニュース。

底を打ったかどうかはわからないけれども、仮にそうだとして、ひとつ大きな思い違いがあるように私は思う。

大きな撹乱というものは、世界に不可逆的な変化をもたらすものである。
断層のずれが生じるように、ダイヤルがカチッと回るように。
誰も彼もが100年に一度と言ったことの真の意味は、ここにある。

それが何であるかは、私はわからない。ただ感じるだけである。
素足で踏みつけた小さなゴミを、目で見なくてもそれとわかるように。

つまり、景気が底を打ったかどうかに関らず、私たちはもう元の時代には戻れない、ということである。

2008年06月30日(月) 
2007年06月30日(土) アブダカタブラ
2006年06月30日(金) 果肉か仁か
2004年06月30日(水) 流通の話



2009年06月26日(金) 誰よりも怒り、唯一許容する

熱を出しているYの周りで騒ぐAを強く叱ったら、しょぼくれて出て行った。
向こうの部屋で、どうしたら母に許してもらえるかとHに相談している。

「責任をとることだね」
「どうやって責任をとればいいのか」
「やってしまった間違いから逃げないことだね」

他人事を親心でコーティングすると、まあこんなにカッコいいことが言えるのである。

冗談はともかく、Aにとって母の私に許されないということは、ひどく不安な状態なのらしい。

この子の中にそれほど厚かましく陣取っている自分の存在を、ひどいものだと思う。



許さないわけがないではないか。

親というものは、子どもがどんな過ちをおかしても−兄弟げんかから凶悪犯罪に至るまで−、宿命的にそれを許す。
そういうふうにできているのではないかと、思う。

同時にまた、親というものは、子どもの過ちや不出来な様を誰よりも深く理解し、人一倍腹を立てている。

誰よりも怒っているのに誰よりも許すというのは、とてもほねがおれるのである。
胃カメラを飲み込むように、吐き出したいのに身中におさめなければいけない。

腹を立てて、許して、また腹を立てて、許す。
まったく親業というのは、−ある側面だけをみれば−、まるで何かの因業か修行かといったことの連続である。

では親でないほうが幸せかと問われれば、そんなことは全くないと迷いなく思うのだから、不思議なものだ。

2007年06月26日(火) ゼロ・トレランス選挙
2006年06月26日(月) 
2005年06月26日(日) 梅雨
2004年06月26日(土) 美しい親子



2009年06月20日(土)

日帰りで山の家に出かける。

ブルーベリーは順調に育っている。
トマトは雑草の中でなんとか無事−しかも実をつけている−。
桑のみは食べごろで、みんなで口の周りを真っ黒けにして楽しんだ。

ゆっくり山でも眺めようよと誘うAに待ったをかけて、
よちよちフラフラと彷徨うYが危なくて仕方なく、後ろをついて回る。

どうか自分の方に関心を向けてほしい、という子どもの相手はできず、
いいから自分の好きにさせてほしい、という子どもは目が離せない。

なんとも矛盾したものである。


2008年06月20日(金) ひねもす水無月
2004年06月20日(日) いい塩梅だ



2009年06月13日(土)

校長先生は、校長先生であると同時に、
いやもしかしたらそれ以上に、テノールのソリストである。
体育館をステージにして、自慢の美声を披露する。

校長先生は歌う、乾杯の歌を。
校長先生は歌う、ジブリの歌を。
校長先生は歌う、フニクリフニクラを。

子ども達は聴く、圧倒されながら。
子ども達は聴く、笑いをこらえながら。
子ども達は聴く、目をそらさずに。

小学校の親方が、音楽や美術の専門であるのは悪くない。
学校全体が生き生きとする、そんな気がする。

2008年06月13日(金) NOBODY KNOWS
2007年06月13日(水) 29 39 ver.1.2
2006年06月13日(火) 人生最後のアジテーション
2004年06月13日(日) テレビ市場開放



2009年06月11日(木) 平野と都市

納豆菌文化圏、乃至は蹴球文化圏にて仕事。
知らない電車を沢山乗り継いで、西から東へ。

関東平野というのはこんなに美しい所だったのかと驚きながら、車窓の風景に魅入る。

どこまでも続く水田は、柔らかい緑の絨毯である。
漆黒の光る土は耕され、幾何学模様の畝がどこまでも続いている。

常緑の森と谷戸が交互に入れ替わり、森の端には立派な屋敷がある。
人の暮らしも自然も、風景の中に美しく溶け合っている。

信州人が「平」とよぶ平地は、−あの佐久平や善光寺平でさえ−、可哀相だが、まるで猫の額である。
この広大な利根川下流の平原に比べたら、所詮は山間地にたまたまできた隙間であることを思い知らされる。



けれども残念なことに、本当にやるせないことに、
副都心に近づくに連れて、その風景はやがて
恐ろしいほど無秩序で無味乾燥なベッドタウンに変わってしまう。

その平坦であることが災いし、
どこまでもどこまでも果てなく開発されている。

なぜ日本では、美しい都市をつくることができないのか。
それは、なぜ美しい生活を望まないのかと同義なのである。

2008年06月11日(水) それを手放してはいけない
2004年06月11日(金) お世継ぎを!



2009年06月05日(金) 世界の承認

子どもを寝かしつけながら書棚をぼんやり見ていたら、
読んでいない本が結構あることに気が付いた。

そういう訳で、ここ数日は、山中恒の「アジア・太平洋戦争史――同時代人はどう見ていたか」を読んでいる。

太平洋戦争に関する情報の正確さについては、執念と言ってもいいほど膨大な過去の資料を引用している。そのほとんどが会議録や条文、当時の新聞などの一次資料であることが特徴である。



所感はやまほどあるが、まず二つ。

一つには、戦争というのは国家間の状態なのだということ。
瞬間的に発生する災害のようなものとは性質が全然違う。

そしてもう一つには、戦争史は戦闘史としてだけでなく、
経済史、外交史として検証しなければ歴史が正確に浮かび上がってこないということ。



読んでいると、生々しい同時代の空気が伝わってくる。

中国へ進出する日本の状態を、まるでトヨタが世界へ躍進するかのように、
誇らしい日本、明るい未来でいいではないか、と思ってしまい、恐ろしくなる。
しかしその後の戦争状態へ突入するところへ読み進むと、日本の政治判断の甘さ、幼さにやるせない思いがする。



「過ちは繰り返しませんから」と言ったところで、どの段階の何が過ちだったかを検証しなければ、繰り返しを防ぎようがない。過ちというのは人殺しのような残虐行為に限らないし、繰り返していけないのは、むしろそこに至ったプロセスである。

戦争はこりごりだという世論は風化し、たやすく崩され、
いずれすぐに同じ空気がもどってくるだろう。



では何が過ちだったのか。どうすればよいのか。

自分なりに総論するならば、今のところそれは、「日本だけの思い込みや思い入れで世界のルールをつくろうとしても、それは通用しない」ということではないかと思う。エースとうぬぼれた日本は、世界の承認というジョーカーを軽視しすぎた。



日本では公式扱いでも、世界からless formalと切り捨てられるものがある。その事実をわかっていれば、私たちにのしかかる国家の質量はいくらか軽くなり、過ちはいくらか回避できる。

2006年06月05日(月) 蟻の罪
2005年06月05日(日) 噺家の話し方教室


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