2008年06月11日(水) |
それを手放してはいけない |
プレカリアートの憂愁、と題した辺見庸の記事。以下抜粋。
「これだけの不条理をはらみながら、さしたる問題がないかのようによそお う世間。もともと貧窮し、こころが病むように社会をしつらえながら、貧乏 し、病むのはまるで当人の努力、工夫、技能不足のせいのようにいう政治。 働く者たちの怒りや不満がその場その場できれいに分断、孤立化させられ、 いつのまにか雲散霧消してしまうまか不思議。そうした時代を、戦後とおな じ分だけ老いた私がこれまでに見たことがあるのか、と問うのだ。云々」
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私達の社会は、こころが病むようにしつらえられている。 私は真に、様々な事件に絡めて、このことを実感せずにはいられない。
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気をつけたほうがいい。 家族、友人、知人。 当たり前のように自分を支えているいくばくかの関わりは、 いつ何時それを巧妙に奪われ、分断、孤立化されるかわからない。
気がつけば自分のまわりには、「誰でもよい誰か」しかいなくなっている。
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確固たる良識は、案外たやすく引っくり返る。 信じられない残酷な行為を、いつ自分がやらないとは言えない。
何故ならば、私達は既に四六時中、残酷な行為の前例に晒され、 詳細な情報を与えられ、「それは庶民の中に起こり得ること」と刷り込まれている。
それは既に、政治家や宇宙飛行士の生き様よりも、 はるかに私達の近くに忍び寄っている。
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もちろん、自分の確固たる良識を損なわずにいる方法はいくらでもある。
その一つは、自分のまわりの縁ある人を心配し、時には説教をくれ、 時には仕方ないかと黙って従い、時には不条理な怒りをぶつけ、 時には許し、大切に必要として生きていくことだ。
おそらく最もつきなみで、面倒くさく、今風に言えば「ウザい」ことだろう。 しかしながら、「こころが病むように社会をしつらえて」いる何ものかに 力強く立ち向かえるものはこれしかないのだ。 私はそう思う。
2004年06月11日(金) お世継ぎを!
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