無責任賛歌
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2006年12月05日(火) |
熱い日々そのいち/DVD『姑獲鳥の夏』 |
SGcafeで、夕方から実相寺昭雄追悼の研究会。 しげ。は自宅に『マンドラゴラの降る沼』のDVDが届くというので欠席。 今日は常連の委員長も欠席で、私とdaigo氏、マスターの三人のちょっと寂しい研究会となった。 その分、濃い話にはなったけれど。
DVDは『姑獲鳥の夏』。 今、見返してみても、あの長大な原作を決してダイジェストでなく、よく映像化しているものと感心するし、ミステリーとしてもかなりフェアである。 メイントリックのアンフェア論争は私にとってはアンフェアでも何でもなく、むしろ原作でも気になっていたのは「本物の」超能力者・榎木津で、これがミスディレクションだろうかという疑問は初見の人にはやはり首を捻るところだろう。 これが通常のミステリーではなくて、SFミステリーなのだということを納得させるのにやや時間が掛かるのがネックではある。
daigo氏との演劇談義は楽しかったが、書いてる時間がない(苦笑)。
2002年12月05日(木) 数年前までは忘年会なんて殆どしなかったなあ/『時代小説英雄列伝 銭形平次』(野村胡堂) 2001年12月05日(水) おばさんのタイホ/『おさんぽ大王』2巻(須藤真澄)ほか 2000年12月05日(火) NOT THAT IT MATTERS/アニメ『鉄腕アトム・ミドロが沼の巻』
2006年12月04日(月) |
よく分からないリクツ/アニメ『DEATH NOTE』第7話「曇天」 |
あるSNSで知り合った女性(とりあえずAさんとしておく)から、メールが来た。 内容は「申し訳ないが、自分の日記にコメントを付けるのを控えてほしい」というものだった。
さて、なにかAさんの気を悪くさせるようなことを書いたのかしらんと思いながら、身に覚えもないので、問合せのメールを送ってみたら、すぐに返事が来た。 「自分の好きな人が、あなたのことを嫌っているので、あなたが書き込みをするとその人が書き込みしてくれなくなるから」というものだった(その私を嫌っている人の名前は書かれていない)。
えらい、迂遠な理由だなとは思ったが、その「私を嫌っている人」というのが誰だか分からない以上は、何とも対応の取りようがない。 一応、あの人ではないかという見当が付きはするが、断定はできない。もしもその人だとすると、少しばかり絡み屋さんというか難癖付けるのが好きな人と言うか、つまりはいささか被害妄想の気味のある人なので、正直、あまり関わりあいにならない方が無難なのである。
で、やんわりと、「ご迷惑なら、コメントと言わず、お付き合い自体を控えても構いません」とメールを送ったら、「友達づきあいはやめたくない、期間限定でコメントを付けないでもらいたいだけだ」と来た。
何なんだろうね? これは。
まあ、その私を嫌ってる人が私がコメントを付けているのが気に要らないという心情は分からないでもない。 要するに嫉妬だろう。 幼稚ではあるが、恋した者の心の暴走は止められるものでもない(笑)。 ただ、それならスッパリこちらとの関係を切っちゃったって別に構わないとも思うのだが(言っとくがヘンな関係は全くないからね)、そうしちゃうと「自分がひどい人になる」と分かっているから、それもできないのだろう。
つまりはみんな「いい人」でいたいのである。
いい人でいたいのなら、何もないふりをするくらいのオトナな対応が取れないものかとも思うのだが、それはその人たちにとっては自分を偽る行為ということになってしまうのであろう。
こういう私の関知しないところでややこしいことをされていると、実際面倒で仕方がないのだけれど、何かもう、私は慣れました(笑)。
世の中は変人で成り立っているのである。
ドラマ『のだめカンタービレ』やアニメ『ブルーラグーン』ほか、テレビを漫然と。 感想を書くのは、『DEATH NOTE』だけでカンベンしてください(苦笑)。
『DEATH NOTE』第7話「曇天」。 東京とは三週間遅れの放送なので、ようやく美空ナオミがライトによって葬られる。 アニメにして見ればやはりこの原作の、ドラマとしての弱さはかなり露呈してしまう。何しろ今回、「動き」としてはライトとナオミは、30分間、歩いて会話を交わしているだけなのだ。ナオミからいかにして本名を聞きだし、デスノートに書くか。実際、そのアイデアはそれほど上等なものではない。
映画版前編では、今回の話を更に膨らませて「動きのあるエピソード」としてクライマックスに持ってきていたが、そうしないと、そのままの映像化ではここがダレ場になってしまうのである。
レイ・ペンバーを殺した時には、先にバスジャック事件があり、地下鉄を利用したりと、画面上の工夫もし易かったろうが、今回は映画のように原作を大胆に脚色するわけにもいかなかったろうから、演出上の苦労は並大抵ではなかったろうと思われる。 作画に力を入れることと、イメージショットをところどころに挿入することで、ドラマの弱さをかなりカバーしてはいるが、死刑台のイメージをナオミに重ねる演出は、いささか「やり過ぎ」の感がある。
説明的なイメージは、かえって視聴者の想像力を減退させてしまいかねないのだ。 雪の中に溶けるように消えていくだけで充分だったと思うけどね。
2002年12月04日(水) 殺伐とした日々/『文章読本さん江』(斎藤美奈子) 2001年12月04日(火) 「ピー」って口で言わんでも/『ワンピース』21巻(尾田栄一郎)/『うまんが』1巻(新井理恵)ほか 2000年12月04日(月) 仕事休んでマンガ三昧(^_^;)/映画『戦場のメリークリスマス』ほか
2006年12月03日(日) |
人の心が芽生える時/映画『007 カジノ・ロワイヤル』( |
ちょっとまた一日の予定に追われつつある今日この頃。 『無責任』の更新はどうしてこう時間がかかるかね。 以前に比べれば文章はかなり短くなってると思うんだが、やっぱ以前ほどには指が効かなくなってるせいか。
シティボーイズの今年の舞台、『マンドラゴラの降る沼』のDVDを注文する。 ここ数年、若い人たちと組んできたシティボーイズだけれども、申し訳ないけれども、お三方のパワーに拮抗できる方はいらっしゃらなかった。 それが今回は、中村有志、いとうせいこう、銀粉蝶さんという超ベテラン(失礼)な方々とタッグを組んでいるのだ。北九州芸術劇場まで2回も見に行ってしまったが、これは『真空報告官大運動会』、『ら・ハッスルきのこショー』以来の傑作スケッチの連続なんである。 まさかこれが最後のともしびだとは思いたくないが、これを越える舞台はそうそう作れないような気がする。私がこのDVDを買わないはずがないのだね(笑)。
薬を飲み続けているが、抜いた親知らずのあとがぷっくらと腫れている。疼いているわけではないから、大丈夫だとは思うが、何となくな不安は残る。 我慢のできない痛みの中で、歯痛は最たるものだと言うが、精神のバランスは確実に崩れる。 こういうときはただじっとして寝ていたい気分なのだが、休日はたいていイベントが入っているのである。 自分で入れたイベントだから、文句をどこに持っていきようもないんだけど。
志免町のシーメイトにて、『万能グローブ ガラパゴスダイナモス 番外公演vol.3 「レモン・サイダー・バカンス〜リコシェ編〜」』(作・演出 川口大樹)を観劇。 川口さんからSNSでお誘いを受けた上、無料公演だから、内容について文句は言いたくはないのだが、途中までは見ていてかなり疲れた。
喫茶店「カフェ・リコシェ」は、近くに出来たメイドカフェに客を取られて、閑古鳥が鳴いている。 女オーナー・まっこは、かなり気が立っているのだが、ウェイターの大林とウェイトレスのアカネは店のことよりも、別の問題で頭を悩ませている。 大林は、少女マンガ家を夢見ていて、自分の原稿が応募に間に合うかハラハラしているし、アカネは騙されて売りつけられた招き猫の代金50万円をどうしたら取り戻せるかと思案中だ。 そこに常連客の一志橋が、なにやら運び屋を頼まれたからと、謎のトランクを持ち込んできたところから、ドラマは転がって行く……。
のだけれど、転がるまでの喫茶店の中でのやりとりが長いのだ。 後半、マンガ原稿と契約書の取り違えの流れや、招き猫がどんどん増えるギャグなどがなかなかテンポがよかっただけに、過剰なセリフでかえってテンポを落としてしまった前半が惜しい。 そこんとこを刈り込んで、後半、事態をもうちょっと混乱させたら、かなり出来のいいシチュエーションコメディになるんじゃないかと思うんだけど……。 少なくとも、箸にも棒にもかからないというほどではない。無料でなくても、1500円なら文句はないところだろう。三谷幸喜レベルで5000円が取れるのだから、もう一息だ。
見終わったあと、交流会があったので、川口さんに挨拶。 よければ今度のイッセー尾形(抜き)公演にもどうぞいらっしゃってください、と宣伝をする。
その間、しげ。が遠巻きにして川口さんに挨拶をしようとしなかったので、どういうわけかをあとで聞いたら、「ネットで今見た芝居を貶そうと思ったから、仲良くするのはやめた」と言ったので、どやしつける。 貶すことを目的として人と交わらないというのは本末転倒もはなはだしい。
私がここで芝居や映画を批判しているのは、「批評を行う」ことを前提としているため、結果的に知り合いの舞台であろうが批判する時は批判することになっているだけだ。そのことで疎まれることがあったとしてもそれは仕方のないことと覚悟している。それに、見る人が見ればこれがただの悪口ではなく、視点を明らかにした批評であることは理解できるはずである。
しげ。がやろうとしていたことは、批評とはほど遠い、ただのこきおろしである。人との交わりを疎かにしている人間に、何の批評ができるものか。
どやしつけたらどやしつけたで、今度は「じゃあ、これからもう一切映画の感想とかも書かん」と言うのである。それも全くの勘違いだ。私はしげ。に批評を書くなと言っているわけではない。何かを批評するためには、先に人として守らなければならないことがあると言っているのだが、いつまで経ってもこいつにはそういう人を思いやる心が芽生えない。 私はもう、諦めた方がいいかという気持ちになりつつあるのである。
父と待ち合わせをして、キャナルシティで映画『OO7 カジノ・ロワイヤル』を見る。
『007 カジノ・ロワイヤル』(CASINO ROYALE/2006/アメリカ・イギリス・チェコ・ドイツ映画 144分)
原作:イアン・フレミング 監督:マーティン・キャンベル 出演:ダニエル・クレイグ、エヴァ・グリーン、マッツ・ミケルセン、ジュディ・デンチ、ジャンカルロ・ジャンニーニ ほか 字幕翻訳:戸田奈津子 主題歌:クリス・コーネル 「ユー・ノー・マイ・ネイム」(ユニバーサルミュージック) 【解説】 > 過去4作にわたってジェームズ・ボンドを演じてきたピアース・ブロスナンに代わり、新たに抜擢されたダニエル・クレイグ扮する6代目ボンドが初登場するシリーズ通算21作目。イアン・フレミングによる原作シリーズの原点『カジノ・ロワイヤル』を、本家シリーズとしては初の映画化。“007”として初めての過酷なミッションに挑む若きジェームズ・ボンドの活躍と“運命の女”との切ない恋の行方を描く。監督は「007/ゴールデンアイ」「マスク・オブ・ゾロ」のマーティン・キャンベル。 > 殺しのライセンス“00(ダブル・オー)”を取得するため、昇格最後の条件である2件の殺害を実行したジェームズ・ボンドは見事ダブル・オーの称号を得る。そして最初の任務は、世界中のテロリストを資金面で支える男、ル・シッフルの資金を絶つこと。まずはマダガスカルで爆弾所有の男を追い、バハマ、マイアミでは武器売人と航空機爆破の阻止に奔走し、やがてル・シッフルに辿り着くボンド。すると、ル・シッフルがモンテネグロの“カジノ・ロワイヤル”で大勝負に出ることが明らかとなり、ボンドは更なる陰謀を阻止せんと現地へ向かうのだった。しかし、そんな彼のもとには、財務省からお目付役として美女ヴェスパー・リンドが送り込まれる。最初は彼女に対して懐疑的だったボンドだが、危険を共にする中で次第に心惹かれていく…。
故アルバート・ブロッコリの名がタイトルの前に流れ、久方ぶりに「原作」としてイアン・フレミングの名前が紹介されると、否が応でも興奮する。 パロディ版『カジノ・ロワイヤル(1968)』も好きだが、本家本元、スパイ小説の元祖としての原作の映画化を望んでいたOO7ファンは、決して少なくはないはずだ。 しかし、原作は既に50年も前の作品である。当然、現代を舞台にした映画として製作するには、数々の設定変更が必要となる。パロディ版にも登場していた宿敵・ソ連のスメルシュは本作には登場しない。 ル・シッフルもフランス人ではなく国籍不明で、彼を背後で操るテロリスト・グループにも具体的な名称ない(どうせアラブ系だろうけど)。 しかし、ではこの映画が原作を無残にずたずたにしてしまっているかというと、決してそうではないのだ。
ジェームズ・ボンドとル・シッフルとのトランプ勝負の心理戦、ル・シッフルの復讐(拷問の仕方もほぼ原作通りだ!)、そして意外な結末……。 映画は更にもう一つの結末を加えて、「OO7誕生」を印象付けるが、その展開は、これまでの映画化以上に、原作に忠実と言えるものである。即ち、原作がそうであったように、これはダシール・ハメットに始まるハードボイルド・ミステリーの系譜に連なるスパイ・ミステリーの傑作だということだ。
ミステリーである以上、具体的な結末を語るわけにはいかないが、本作でのジェームズ・ボンドは、荒唐無稽なスパイ・ヒーローではない。特殊開発された新兵器を使うわけでもないし、宇宙に飛び出してSFまがいの決闘を繰り広げるわけでもないし、女と見ればコマさずにはおれないニヤケた色情狂でもない。 一個の「人間」なのである。 原作がそうであったように、スパイ稼業に嫌気がさし、OOナンバーを取得したばかりだと言うのに、ヴェスパーと結婚することを決意する、そんな弱い人間なのである。
これまでのアクション・ヒーローとしてのOO7シリーズに馴れていた向きには、今回のボンドはいささか情けなく、青臭いようにすら映るかもしれない。 しかし、これこそが原点のOO7なのだ。
我々は初めてジェームズ・ボンドがどんな男であったのかを知る。そう、まさに彼は「男」であったのである。
できれば、ヴェスパーとの濃厚なラブシーンが見たかったところだけれど、それはナシ。R指定にならないように気を使ったのかな(苦笑)。
2002年12月03日(火) 余裕のない日。いつもかも。/DVD『アードマン・コレクション2』 2001年12月03日(月) 平和だねえ。/『蒼い時』『華々しき鼻血』(エドワード・ゴーリー)ほか 2000年12月03日(日) この日記も歴史の証言/映画『エクソシスト2』ほか
2006年12月02日(土) |
イッセー尾形ワークショップ交流会に寄せて |
昼まで泥のように眠る。 昨日からの歯の疼きが気になっていたからでもあるが、痛み止めを余計に飲んでいても、やはり何かの拍子でずきんと来るのだ。歯を根こそぎ一本抜き取ったのだが当然ではあろうが、縫った糸の端か舌にチクチク当たるのを感じていると、やっぱり今度の医者もヤブなんじゃないかという気がしてくる。 ともかくヤブ率高いんだよね、福岡は。
それでも昨日食事ができなかった復讐戦ということで、夜は、イッセー尾形ワークショップin博多の仲間たちとの交流会に出かける。 ワークショップに参加するのも別にこれが初めてではないのだが、他のメンツもよく語っているように、終了後もこうして仲間が集まるというのは、奇妙を通り越して、こいつらアタマがおかしいんじゃないか(笑)とすら感じてしまう。
あれだけ森田雄三氏、イッセー尾形氏にダメ出しされ、罵倒されているというのに、もしかして全員マゾなのか?とか。もちろん私もその一員ということになってしまうのだが。
一番若い参加者の女の子から、「大人になったら叱られることがないから、それが気持ちいいんじゃないですか?」と言われたが、案外そんなものかもしれない。
生活共同体の中で、自分の役割と人生が一致していた過去の大人と違って、社会の中で根拠も基盤もなく、責任だけを強要される現代人は、加齢はしていてもそれは形だけの大人に過ぎず、「オトナ」とカタカナ表記しなきゃならないようになってしまっている。 だから大人が諍いを始めると、子ども以上にみっともないことになってしまいがちだ。実際、「この人は大人だなあ」と感じる人間に出会うことなど、滅多にあるものじゃない。 イヤなことがあればさっさと退散してしまえるネット社会などはなおさらで、これまでどれだけイカレた連中に絡まれたか、数えるのも面倒になってきた。 申し訳ないことだが、私の日記を読んでいろいろ問合せを受けることも多いのだが、知り合い以外のイチゲンさんを相手にしなくなっているのはそういうわけである。
ワークショップの仲間たちもまた、それまでに全く出会ったことのない人たちばかりである。 なのに、どうしてまた合おうという気になれるのか。 なぜこんな「同窓会」を作れてしまうのか。 誰かが、この仲間たちは「戦友」なのだと言った。では私たちはいったい何と戦ったのか。イッセー尾形とか、森田雄三とか。 多分そうではなく、「擬似大人にしかなれなかった自分たち自身」とである。
森田氏が「大家族」をテーマにしたのは何のためか。 時代を現代ではなく昭和にし、方言を復活させたのは何のためか。 我々が失ってしまったものを取り戻すことが可能かどうか、それを試されているのだ。 映画ではノスタルジーに浸るだけで終わる。しかし、このワークショップでは、過去を再現し、それを「体験」できる。 そこに我々は「生きている」実感を覚えたのではないか。 だから我々は「終わらない」のである。シロウトばかりの集団が、新たなコミュニティを作れるのである。 「叱られるのがイヤだ」と不参加だった知り合いが何人かいたが、まあ確かにリアルに生きることから背を向けてるところがある連中ではあった。もったいない話である。
我々は本当の大人になりたいのだ。多分。 あ、しゃぶしゃぶ鍋はうまかったよ♪
2002年12月02日(月) いつか見殺しにされる予兆/DVD『助太刀屋助六』/DVD『真夜中まで』 2001年12月02日(日) ナンビョーY子さんのHP/『新世紀エヴァンゲリオン』7巻(貞本義行)ほか 2000年12月02日(土) 『BLOOD』=『プロジェクトA子』?/アニメ『BLOOD THE LAST VAMPIRE』
2006年12月01日(金) |
名探偵Lの軌跡/映画『手紙』 |
作曲家の宮内国郎氏の死去に、昨日の実相寺昭雄氏の死去に続いて衝撃を受ける。
> 宮内国郎さん74歳(みやうち・くにお=作曲家)27日、大腸がんのため死去。葬儀は近親者で行う。自宅は東京都狛江市岩戸南1の5の2。喪主は長男俊郎(としろう)さん。 > 「ウルトラQ」「ウルトラマン」など特撮テレビ番組や映画の主題歌作曲を中心に活躍した。 > (毎日新聞) - 11月30日23時14分更新
どの記事も、昨日の実相寺監督以上にそっけない。 せめて映画音楽の代表作と言える『ガス人間第一号』に触れてくれてもよかったのではないかと思うと悲しい。
> 今度の主役は“L”、映画・デスノート“外伝”上演決定! > 今度は「L」が主役−。映画「デスノート」のスピンオフ作品が製作されることが11月30日、決まった。6月公開の「デスノート」、公開中の「デスノート the last name」で俳優、松山ケンイチ(21)扮する謎の天才「L」が想像以上の人気キャラクターとなったため、原作にはないストーリーが掘り起こされることになった。平成20年公開の予定。 > 大人気映画の脇役が、前例のない早さで“独り立ち”を果たす。 > 「デスノート」では、松山演じる「L」は藤原竜也(26)扮する主人公、夜神月(ライト)のライバル役。名前を書かれた相手が死ぬという不思議なノートを手に、世直しを目論む月と、月の犯行を暴こうとするLの壮絶な頭脳戦が話題を呼んだ。 > 世界的に有名な天才探偵でありながら、奇妙な風貌というアンバランスなLのキャラクターが思わぬ大人気となり、難役に挑んだ松山も一気にブレークした。 > スピンオフ作品は、現在のところ、Lが主役ということ以外はすべて白紙の状態。タイトルも未定。「デスノート」以前のエピソードが中心になるとみられるが、月との絡みの有無などはすべて謎のままだ。 > 松山は「前編、後編で自分なりにLという役をやり切ったと思っていたのですが、撮影から3カ月たち、まだ何かやれたのでは? という思いが沸いてきました」と再チャレンジへの意欲を見せている。 > 来年のクランクインに向けて「次は主人公ということもあって、周りがプレッシャーをかけてくると思うので、それを思うと重圧を感じてしまいそうです」と気を引き締めている。 > 原作漫画「DEATH NOTE」は累計2300万部の大ベストセラー。映画「デスノート」は興収28億5000万円に達し、ハリウッドを含む海外数十社からリメークのオファーが殺到している。11月に公開された後編「−the last name」は同40億円を突破するなどさらに勢いを増している。 > 空前のデスノートブームが、公開中の映画の続編発表という異例の展開につながった。松山=Lがさらなる旋風を巻き起こすのか、大注目だ。 > (サンケイスポーツ) - 12月1日8時1分更新
映画『デスノート』前・後編については、原作ファンから喧しい批判も寄せられていたようだが、殆どが自分の持っているイメージと映画のイメージとの乖離に起因する感情的な悪口で、一顧だにする価値もないものばかりであった。 中にはプロのライターと称する人間までが「原作のライトは映画の藤原竜也ような馬鹿じゃない」などという記事を書いていたが、これなどは原作に対する過大評価の最たるものだろう。夜神月(ライト)は、第一話から「自分だけが天才だ」と思い上がっている馬鹿者で、最終的な敗者となることは予測できていた。 通常の少年マンガで、「私は神だ」などと嘯く人間が勝者になった例などない。『デスノート』も少年ジャンプのマンガの一つに過ぎないということを考えれば、僭越な人間に罰が下されることは自明の理だったのである。 『デスノート』の最大の失敗は、人気が出たために連載が長期化し、途中で本来は勝利者になるはずだったLを死なせざるを得なかった点であろう。 金子修介監督が、『デスノート the last name』において、「本来、このような終わり方をさせたかったのではないか」という含みの結末を新たに用意したのは、蓋し、慧眼であったと言えるのである。
本来、Lはライトに敗れるはずがなかった。 そう考えれば、『デスノート』の本来の主役がライトであるかLであるか、問うまでもないことだ。 時系列は逆転するが、Lの活躍するミステリーが制作されることは大いに喜ばしいことである。考えてみれば、テレビドラマでは名探偵を主役としたシリーズは数多く作られているものの、現在、映画で定期的に制作されている作品は、『名探偵コナン』のみなのである。 実相寺昭雄監督が明智小五郎を『屋根裏の散歩者』『D坂の殺人事件』『鏡地獄』と三作まで製作したが、残念なことに鬼籍に入られた。『姑獲鳥の夏』の京極堂はシリーズにはならなかったし、30年ぶりに市川崑監督によってリメイクされる金田一耕助ものの『犬神家の一族』は、シリーズ復活とは言いがたい。Lのシリーズ化は快挙と言っていいのである。
願わくば、原作者の大場つぐみ本人の手によってLの物語が語られ、小畑健のマンガ版も復活、ということにならないだろうかと期待しているのだが、そうすれば探偵ものではサンデーの『コナン』、マガジンの『Q.E.D.』の後塵を拝することになっていたジャンプが、ようやくライバルに拮抗することのできるキャラクターを生み出したことになると言えると思うが、どうだろうか。
平日ではあるが、定例の通院の日である。 体重は80キロを切っているのに、このところ血糖値の推移が思わしくない。 70キロ台で体重が定着すると、またじわじわと血糖値が上昇していくようなのだ。ならば更に体重を減らしていかねばならないわけで、どこまで節食していけばいいのか分からない。 食事を抜くのはかえってよくないと言われるが、断食以外に方法がないのではないかという気もしてくる。 わがランゲルハウス・アイランドは、インスリンの供給を疎かにしているわけでは決してない。丸一日絶食しても、運動を長時間行っても、体が血糖値を100以下に戻せないくらいに基盤が弱っているのである。 このまま緩やかに死に至る病に取り憑かれているのかと吐息を漏らすしかないのである。
今日は、もう長いこと痛み続けていた親知らずを一本抜いた。 虫歯でぼろぼろになっていたので簡単には抜けず、歯をタテに真っ二つに裂いて引っこ抜くという荒療治だった。 奇妙なことにこの虫歯、ワークショップ前から痛みだしていたのに、その練習期間には痛みがウソのようにぴたりと治まり、ワークショップ終了と同時にまた痛み始めたのである。 イッセー尾形&森田雄三のワークショップは、歯痛にも効く(笑)。
今日は妻も通院の日。 お互い、病院を引けたあと待ち合わせて、映画の日、1000円興行ということで、夜はキャナルシティへ。 映画『手紙』を見る。
『手紙』 (2006/ギャガ・コミュニケーションズ/121分) 【スタッフ・キャスト】 監督 生野慈朗/脚本 安倍照雄・清水友佳子/原作 東野圭吾 出演 山田孝之・玉山鉄二・沢尻エリカ・吹石一恵・尾上寛之・吹越満・風間杜夫・杉浦直樹
【ストーリー】 > 工場で働く20歳の武島直貴は、職場の人間ともまるで打ち解けず、人目を避けるように暮らしていた。 > それというのも唯一の家族である兄・剛志が、直貴の学費欲しさに盗みに入った邸宅で老婆を殺してしまったからだった。 > 兄が罪を犯したのは、自分のせいだ。そう自責する直貴は、せめてもの償いにと服役中の兄から届く手紙に丁寧な返事を書き続けていた。 > そんなある日、更生した元服役囚と出会った直貴は、一度はあきらめたお笑い芸人の夢に再び挑戦しようと決意する……。
> 06年直木賞を受賞した東野圭吾の社会派小説を、「3年B組金八先生」や「愛していると言ってくれ」など数々のヒットドラマを手掛けてきた生野慈朗が映画化。 > 01年夏から02年秋まで朝日新聞日曜版で連載された原作は、犯罪者の家族に突き付けられる厳しい現実という衝撃的で重いテーマが、大きな反響を呼んだ。 > 出演は、兄が殺人者だという現実にもがき苦しむ主人公に山田孝之、弟を思うあまり強盗殺人を犯してしまった兄に玉山鉄二、そして主人公に大きな愛を傾ける工場の同僚役に沢尻エリカと、まさに若手実力派揃い。 > なかでも出場こそ少ないが、真に迫った玉山の演技が強烈な印象を残す。映画版には、原作になかった感動のラストシーンが用意されているのでお楽しみに!
私は東野圭吾の小説は、それほど高く買ってはいないのだが(宮部みゆき程度がそれよりちょっと下)、なぜか映画化率・ドラマ化率が高いことに疑問を抱いている。どれもこれも、設定はかなりシリアスなのに、結末のつけ方がいずれも甘いからだ。 原作は未読なので、あのラストシーンが原作に比べて感動的なのかどうか分からない。しかし少なくとも、これを「泣ける映画」と言うのなら、日本人の涙腺はだだ漏れ状態で、どこの映画館も床が水浸しで困った事態になることだろう。それくらい、この映画の「泣かせ力」は白々しい。
そもそも今時、「貧乏」をテーマにした物語自体にリアリティがない。 兄が弟の進学のために泥棒を働くというのがただの馬鹿で同情の余地がないし、うっかり出くわしたその家の老婆を誤って刺し殺す展開も取ってつけたようで、脚本家の頭の悪さを感じるばかりである。 ましてや、兄が逃げ遅れたわけが、「甘栗を見つけてそれを弟に持っていってやろうと思ったため(でも実は弟は甘栗が好きではなくて、それは兄の勘違いだった)」というのは、観客を笑わせたいのかと訝るしかない。確かに私は失笑した。 そこまでするほどの貧乏だったかと言うと、兄が服役したあと、弟は独りで自活できるようになるし、もともとの設定自体が矛盾だらけで、ドラマになかなか乗れない。兄弟を取り巻く環境の深刻さが少しも伝わってこないのである。
それから「犯罪者の兄を持った」弟の受難の日々が始まるのだが、これも描写がストレートすぎて、かえって切実感に乏しい。なにしろ弟が転職する先々で必ずチクリ屋が存在していて、そのたびに弟は兄を恨む、という流れが繰り返されるのである。いくら現代が情報化社会とは言え、そこまで情報通のヒマ人がどこにでもいるというのは主人公を追いつめるのが目的とは言え、「作り過ぎ」の謗りを受けても仕方がない。 まともな脚本家なら、弟の恐怖を、実際に追われていく物理的な描写よりも、「いつ素性がばれるか」という心理的な表現の方に絞って描くだろうし、実際の差別はもっと陰険で巧妙である。親切めかして実はじわじわと真綿で締められるような逼塞感を与えていくもので、だから簡単には抵抗できないものなのだ。ストレートな差別なんて、差別と分かるだけ、抵抗のしようもある。抵抗できない差別が実は一番厄介なのだが、この映画はそんな繊細で重苦しい描写は極力避けて通っている。 切実感が弱い分、主人公の苛立ちは、ただの「甘え」にしか観客には映らない。手を差し伸べる人々の行為を袖にするのも、ただの馬鹿にしか映らず、共感も同情も覚えない。 だからこれでどうして観客が泣けるのか疑問に思うのだが、劇場ではあっちでもこっちでも啜り泣きが聞こえるのである。まあ、「泣ける映画」だと聞いて、泣きたい気分の人間が観れば、この程度の三文ドラマでも充分に泣けるのだろう。『ALWAYS 三丁目の夕日』と言い、日本人の感動の質もすっかり安っぽくなってしまったものだ。
どこぞのテレビ番組で、沢尻エリカのナチュラルな演技が素晴らしいと監督が絶賛していたのを見たが、特に目立ったよさというものもない。同世代の女優の中でも際立った美人なだけに、使い勝手がかえって難しいのはシロウトの私にも分かるが、食堂の給仕時代、美容師時代、主婦の時代と、三段階の変化を見せるうち、最も魅力的だったのは一番「汚されて」いた給仕時代だった。 時間が経つに連れて魅力が半減して行くというのは、ヒロインを美しく見せることに監督が不得手であることを露呈してしまっているということである。 その点でもあまりこの映画を評価する気にはなれないのだが、ネットなどではやっぱり「感動した」「涙が止まらなかった」などの感想が引きも切らないのである。今年観た映画の中でも三本の指に入るくらいのワーストなんだが、世の中、ウンコを観ても泣けるハエなみの脳しか持たない連中はゴロゴロ転がっているのである。 ちょっとそのへんにとっちらかしとかないで、ゴミ業者が回収してくれないものだろうか(笑)。
SGcafeで、12月の誕生日の常連客を祝っていただけるということで、私と女性がもう一人、招待を受ける。 妻は「あんたの誕生日だし、招待と言ってもお金払うわけじゃん」とボイコット。 客の中には私を気に入らないと思っている人もいて、参列しないとわざわざ店主にメールを送りつけたやつもいるとかで、あまり嬉しい気分にはなれない。普通、そこまでわざとらしいいやがらせをするかね。しかも当人がなぜ私をそこまで嫌っているのか、私には皆目見当がつかないのだ。何か私の「押し付けがましい」態度が嫌いだと言うのだが、その人にいちいち絡んだことなど私には身に覚えがなく、私の方が一方的に絡まれてばかりだった。ちょっと異常なところがある人なのである。 だいたいにおいて、私を嫌う人間は自意識過剰で被害妄想的な人間ばかりなので、嫌われても特に支障は来さないのだけれども、アタマのおかしな人間がどこにでもここにでもいるというのは、気が休まらないことも多い。 多少アタマがイカレていたとしても、それなりに社会生活は送っていなきゃならないんだろうから、もうちょっと世間知というものを知ろうよ、と、愚痴の一つくらいは叩きたくもなるのである。
かてて加えて、抜歯直後のために食事は一切できない状態である。 本当は金冠かぶせてもらうだけのつもりが予想外の展開だったので、参加するだけ意味がなくなってしまったのだが、今日いきなりのドタキャンというのは、さすがにお祝いに駆けつけてくださる方々をソデにはできない。 実際、顔を出してみると、みなさんプレゼントを用意されていて、恐縮することしきりだった。
しかし、アヤムゴレン、ナシゴレン、ミーゴレンと、次々とならベラ蹴るインドネシア料理の数々を前に、ウーロン茶だけを飲み続ける2時間というのは、かなり寂しいものだった。 間が悪い時は悪くなるものである。
2002年12月01日(日) もう今年は風邪なんか引かないと思ってたのに/『バンパイヤ トッペイの巻』(手塚治虫) 2001年12月01日(土) ご生誕。/DVD『ラ・ハッスルきのこショー』 2000年12月01日(金) エクソシスト=悪魔じゃないよ/映画『エクソシスト ディレクターズカット版』
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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