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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年10月18日(火) 古畑VSイチロー/ドラマ『1リットルの涙』第2回

 来年正月に、3夜連続のスペシャルでシリーズが完結予定の田村正和主演のドラマ『古畑任三郎』。犯人役に第1夜・石坂浩二&藤原竜也、第3夜に松嶋菜々子の出演が決定していたが、残り第2夜の犯人になんとマリナーズのイチロー選手が本人役で出演することが決定したとか。
 聞けば、イチローは『古畑』の熱狂的なファンで、シリーズも全て見ており、そのことを知ったプロデューサーが出演をダメモトでオファーしたところ、二つ返事で快諾したのだそうな。
 演技経験の全くないシロウトを主役級の役どころに抜擢するというのは、日頃研鑽を積んでいるプロの役者に対する冒涜ではないかとか、所詮は人気取りが目的ではないかとか、揶揄する声は多いと思う。下手をするとプロの役者や評論家がそんなことを言うことがあるのだが、残念ながら、演技とかドラマというものは実はそういう一見理が通っているように見えるインテリぶった批評モドキを越えたところに存している。
 つまり、「シロウトの演技がプロの役者の演技を越える」ことがこの世界には往々にしてあるのだ。例えば「子供と動物にはかなわない」なんてのもそうだろう。「巨匠」と呼ばれる監督がある時期から全くのシロウトや新人を使いたがるようになるのも、「プロを越えた演技」を期待しているからだ。正直、「プロの演技」を標榜する人間ほど「先の読める定番な」演技しか披露できない。心を打つ演技というものはどこかに予測不可能な「シロウト」の要素を含んでいるものである。
 もちろん、イチローに演技ができるのかどうか、というのは全くの未知数である。しかし未知数というのは「どう転ぶか分からない」ということであり、ともかく「結果を見てみなきゃ分からない」ということであるのだ。
 いやね、もうネット始めて仕入れる情報量が格段に増えてからはね、世の中、ここまで余談と偏見に満ち満ちてるもんなんだと驚いたし、それが「見識」なのだと勘違いしてる馬鹿だらけなのだということに暗澹たる気持ちにもなったのである。「シロウトに演技ができるのかね」程度ならばともかく「シロウトに演技させるんじゃねえ」と、「見る前から」文句を付けるのは、いったいどういう神経をしているのか。全く、「カミサマ」だらけの世の中である。
 ま、見た後で「シロウト使うな!」と怒るんだったらそれは問題ない(笑)。
 

 仕事が終わりかけてた午後5時。
 ふと気が着くとしげからメールが入っている。いつもの「何時に帰れる?」コールかと思って開いてみると、たった一言書いてあったのが「父ちゃん入院」。
いつものことだが、しげのメールは電報より短いのでいったい何が起こったのか全く分からない。夕べ一緒にスシを繰ったばかりだと言うのに「入院」?
 折り返ししげに電話をかけてみたら、「父ちゃん、脳梗塞だって」。
 「脳梗塞? 倒れたんか?」
 「いいや、病院には自分で行ったって。朝から父ちゃんが『手が痺れる』って言うから、お姉さんが無理やり病院に行かしたら、CTスキャンで脳梗塞だってことが分かったって。今、○○病院にいるよ。『倒れたわけじゃない』って伝えといてって。今から病院に行く?」
 「そうだな。博多駅まで出て来てくれん?」
 そのあと姉にも電話をかけてみたが、概ねしげの話の通りだった。何度か手に持っていたハサミを取り落としていたので、これは様子が変だ、と病院を勧めたそうである。
 脳梗塞かあ、昨日、寿司を食い過ぎたのがよくなかったんだろうか。あるいはホークスの敗退がショックで頭に血が上ったか。いろいろ考えていても仕方がないので、ともかく病院に向かうことにする。

 病院に着いたのは六時少し前。
 病室を訪ねると、そこは重いドアで仕切られていて、救急医療センター「HCU(high care unit)」という物々しい文字がガラスに躍っている。何となく不安な気分で、中に入ってみるが、受付で教えられた病室にはまだ父の名札がない。しげが 「部屋が違うんじゃないと?」と言うが、「まだ名札が間に合ってないだけだろろ」と中に入ってみると、案の定、父が別途に寝ていた。
 「おう、来たとや。てっきり来んやろうと思って、お医者さんには『息子は来ましぇん』て言うてしもうたとこやったが」
 どうして私が来ないと父が思い込んだのかは定かではないが(笑)、口は全然満足に利けるようである。「どげんあると?」と聞くと、「朝からなんか手の感覚がなかったけん、あ、ついに来たとかいなと思って、病院で見てもらうことにしたったい」
 「姉ちゃんは『無理やり病院に行かせた』って言いよったけど?」
 「なんがもんか。私が自分で来たと」
 どっちの言い分が正しいのか、そりゃどっちでも構わないのだが、とりあえず命に別状はないようなのでホッとする。
 「最初は××病院に運ばれるところだったとぜ。ほら、××病院はお母さんが倒れて、最初に運ばれて、ここじゃ治療できませんからって、こっちの病院に運ばれたろうが。だけん、××病院はやめてくださいって頼んでこっちにしてもらったったい」
 事実、母が死んだ時に呆れてしまったことなのだが、救急車の職員は、手近な病院に患者を適当に運び込むだけで、そこが脳出血の治療設備があるかどうかなんて全く知らないのである。つか、脳出血や脳梗塞の治療設備もない病院が救急病院の指定なんて受けてること自体、問題なんじゃないのか。ともかく西方沖地震の時もそうだったが、福岡の病院事情は全くデタラメなんである。
 とか考えてたら、主治医の先生が来られた。メガネをかけた細身の、袴田吉彦にちょっと似た感じの先生で、心の中では「こいつも藪じゃねえかな」とか思いながら顔はにこやかに「父の具合はどうなんでしょう?」なんて聞いてみる。
レントゲン写真を見せながら、「この右側の部分に白いのがあるでしょう。視床下部なんですが、ここに脳梗塞ができていて、それで手の感覚がなくなってるんですね。けれど、麻痺とは違います。脳梗塞の中では一番軽い症状だと考えてください」
 「それはまた元通り動かせるようになるということですか?」
 「元通り、というのは難しいと思います。後遺症が出る可能性もありますし。けれど、放っといたら悪くなるばかりですから、それをこれ以上悪くならないように止めることですね。今はともかく点滴をして、検査をしているところです」
 要するに、「まだどうなるか分からん」ということなのだろう。心なしか、父の表情が曇ったように見えた。また仕事ができるようになるか、不安なのだろうと察していたら、先生が退出したあとで、「これでしばらく酒が飲めんなあ」と言ってため息をついた。
 この期に及んでまだ「酒」かよっ! 半身不随になるとか、言語障碍を起こすとか、植物人間になるとか、そういう心配もあったのに、呑んだくれはこれだからもう。

 数少ない読者のみなさま、途中までは思わせぶりな書き方になってしまいましたが、覚悟しなきゃならないような状況ではなかったようでホッとしてます。まだ容態が急変するんじゃないかとか考えると油断はできないのですが、とりあえずは父がそんなに落ち込んではいないようだったのが幸いでした。
 しかし、病院に行く途中、しげが「来月、父ちゃんと一緒に旅行に行くの予定しとったろ? キャンセルせんといかんね」と言ってたのを「いや、意識があるなら意地でも行くよ、あのオヤジは」と返事していたら、病室で父は本当に「来月の旅行には行くからな」と言い切りました。その時までには絶対に退院できる、いや、「退院する」つもりでいるんですね。全く、懲りないオヤジ殿であります(苦笑)。


 ドラマ『1リットルの涙』第2回。

 亜也(沢尻エリカ)は自分が脊髄小脳変性症であることをまだ知らない。母の潮香(薬師丸ひろ子)がその現実を受け入れることを拒んで、未だに本人に伝えられないでいるためだ。担当医の水野(藤木直人)の診断を拒んで、セカンド・オピニオンを脊髄小脳変性症の権威である宮下(森山周一郎)に求めるが、結果は変わらない。ついに潮香は夫・瑞生(陣内孝則)に亜也の病名を告げる。そして二人は亜也の、恐らくはこれが最後になるだろうバスケの練習試合を家族で応援に行く……。

 苦手なのに今週も見ちゃったよ、『1リットルの涙』。
 『愛と死を見つめて』以来、この手のドラマは極力避けるようにしてきたのに、一回目をうっかり見ちゃったら、次の回も気になって見ちゃうんだよね。かつて伊丹万作が映画『小島の春』に苦言を呈したように、こういう「難病もの」が「見るものの涙を振り絞りはしても映画としては何の価値もない」ことは党に喝破されてるのは分かっちゃいるんだけどね。要するに脊髄反射でまさに記号的に「感動」のボタンを押されてるだけなんだけどね。
 見ない見ないと思ってはいても、どんなドラマにも「お涙頂戴」要素は含まれているものだから、いつの間にかそのパターンやセオリーは見えてくる。だから、こういうドラマがいかに現実に取材していようが、ドラマのために都合よく事実を改変され、人物の心理もどこか緊張感、切実感を欠いたものになってしまうことは否定のしようもない。みんな、下手な役者さんじゃないんだけど、やっぱり「お芝居」を見てる感じしかしないのね。
 私自身も怪我や病気で何度も死の淵をさまよった経験があるから思うんだが、そういう経験をすれば、限りある命を大切にしようと希望を持つかというと、そんなことはないのである。じゃあ絶望して自暴自棄になるかというと、そうでもない。どちらの場合も、そんな「ありきたりなドラマみたいな心理展開を自分がなぞるなんてこっ恥ずかしいマネ、とてもじゃないが自分自身で耐えられなくてできない」のである。
 つか全世界の難病の人に聞いてみたい。「あなたは親に向かって『どうしてこんなカタワなからだに生んでくれたんだよ』と文句をつけたことがありますか」と。多分、1%もいねえよ、そんなアホは。ドラマってヤツがどれだけ適当に作られてるか分かりますね。
 それなら病気になって何を考えるかというと、自分のことは殆ど考えなくて、医者や看護師に対する文句と悪態だけだったりするのだね(笑)。実際、何十人もの医者にかかってきたが、その8割は藪で無能で、残り2割は「フツー」でしかなかった。私が何度誤診で死にかけたと思ってるのだ。腹立たしさの方が先に立って、自分の残りの人生の短さを憂える余裕なんてありゃしねえよ。
 ま、私の場合は特殊かもしれないが、実際、希望と絶望は常にコインの表と裏で、どっちか一方に傾くってことはないんじゃないのかね。まあそれじゃ首尾一貫したドラマにゃ向かないんだろうけれど。

 続けて『鬼嫁日記』を見ている最中に眠くなったので寝る。いつもの就寝時間よりも2時間ほど早い。疲れてないつもりだったけど、心労はやっぱりあったのかな。

2002年10月18日(金) 今日はノロケじゃないと思う/『プリンセスチュチュ』10AKT.「シンデレラ」/DVD『鬼畜』ほか
2001年10月18日(木) 風邪、続く。気の利いたタイトルなんて思い浮かばねーや/『トライガン・マキシマム』6巻(内藤泰弘)ほか
2000年10月18日(水) オニギリとわらび座とフリカケと/『彼氏彼女の事情』10巻(津田雅美)


2005年10月17日(月) お隣さんがアレなのは分かっちゃいたが/映画『柳生武芸帳』(近衛十四郎主演版)

 小泉総理の靖国参拝がまたまた問題になっているが、スーツ姿で拝殿までで記帳もなし、という「私的参拝」を強調してもやっぱりお隣さんは難癖をつけてくるのである。予想通りではあるけれど。
 「私的参拝であろうとその精神において変わりはない」と言うが、世の中、「人の心が分かる」と称する方は実にたくさんいらっしゃるようで、いつの間にそんなテレパスだらけの世の中になっちまったのかね。私ゃちーとも知らなんだ。
実際にあの人が何を考えているのか、真意なんてものは分かりゃしないし、多分、小泉批判を繰り返してる人たちだって、「分かってやってる」わけじゃなかろう。政治はいつの時代だってどの国だって、他人の意向を忖度しないところから始まるもんである。
 結局、この事態が好転する機会なんて、近々は望めない。なあなあ外交をいつまでも続けたところで、あちらさんはハナからイカレてるんだから、話が通じる見込みなんてありゃしないのだ。かえって、一部の既知外連中がもっと興奮して、テロでも起こして取り締まられれば、運動は自然と沈静化することもありうる。それを期待するしかない、と言うか、そんな形で「犠牲者」が出ないと、何も変わりゃしないというのが、悲しいかな現実というやつなのである。


 イッセー尾形さんのホームページの小倉ワークショップの更新がなかなかないなあと思っていたら、一度書かれた原稿が操作ミスで消去されてしまったとか。ようやく四日目および公演初日の内容がアップされたのだが、ほかの地域のワークショップほどには内容が詳しくない。「優等生のレポートを期待する」旨のことが書かれているのだが、しまった、こんなことならもっと詳しくメモとか取ったりしてまとめておけばよかった、と後悔することしきり。とても参加者投稿できるほどの内容を覚えてはいないのである。
 公演前日、なかなかうまく回らない状況に森田さんが苛立ち、椅子をバンバン叩いて手が丸一日痺れてしまったり、その晩、奥様の前で涙を流されたりとか、我々の不甲斐なさのせいでかなりご心労をおかけしてしまったのだが、断片的にはそういうことを覚えてはいるのだが、いざまとめてレポートを書こうとすれば、首尾一貫しない支離滅裂なものにしかなりそうもない。私はとても「優等生」とは言えないから、やっぱりどなたか優秀な方のレポートがアップされるのを待つしかなさそうである(←こういう遠慮しいなところが森田さんが怒る原因になってたんだけどもね)。


 行ったこともないのにしょっちゅう情報を書いてる福岡市天神のメイドカフェであるが、福岡県警が15日までに、2店に対して、メイドさんの行為が「接待」に当たるとして、風俗営業の許可を得るよう指導したというこりゃまたビックリの展開に。東京の秋葉原のメイドカフェが風営法に引っかかるなんて聞いたことないのになんで福岡だけが?
 事情は別に警察がメイドカフェに目を付けて取り締まりの機会を虎視眈々と狙っていた、というわけではなくて、メイドカフェ側が「うちの商売ってもしかしたら風営法に引っかかる?」と心配して県警に相談しに行ったら、「客の接待をして客に遊興または飲食をさせる営業」として許可の申請をするよう指導されたというのだから、何だかヤブヘビな話なのだが、「いらっしゃいませ、ご主人様♪」って挨拶が既に「接待」になるってことなのかねえ。オムライスにケチャップをかけてあげるなんてサービス、これはもう完璧に「接待」に当たるんだろうな。確かにこの程度でもオタクにとっては天国に上るような心地であろうから、フーゾクじゃないかと言われても反論はできないのかも(んなわけあるか)。
 私は風営法には全然詳しくないので、ふと気になったのだが、となると普通の居酒屋や温泉旅館なんかで、おかみさんや仲居さんがお酒を注いでくれたりするのは、あれも風営法に引っかかってるのか? そういうところに行くのも「フーゾク店に行った」ということになるのか? おさわりバー(死語)の類とは全く違うんじゃないのか?
 何だか今ひとつ納得が行かないものを感じはするが、これで客足が落ちるとか、損害を被る事態にもならないような気がする。行くと決めたら何があろうと行くのがオタクだ(笑)。ちょっとばかしミソをつけられた印象ではあるが、今後も逞しく商売繁盛であれば問題はないんだろうね。
 私も、こんなことなら風俗指定を受ける前に行っときゃよかった、と思わないでもないが(笑)、前にも書いた通り「メイドさん萌え〜」な属性は私にはなくて、こういう店が求められる文化的背景に興味があるだけなので、実際に行ってオムライスにどんな字を書いてもらうか求められたら、何を書いてもらうか分からずに困ってしまっただろう。どうせ福岡のオタクでブログやサイトを開いてないやつの方が少なかろうから、検索かければ「今日もメイドカフェ通い」なんてレポートは腐るほどヒットするだろう。そういう「濃ゆい」のを読むだけで充分お腹いっぱいにはなるから、無理に足を運ばなくても充分(笑)。


 仕事が終わって、しげと父のマンションまで出かけて行く。
 「給料日前だし、腹も減っとろう」と言われたので、素直に奢られに行くのである(笑)。なんだかんだで父と会う機会が増えてきているが、父に言わせれば「思い出作り」なのだそうだ。「最後に頼れるのは血の繋がった身内だ」なんてことも言うのだが、血が繋がっていても心が繋がってない例の方が世間には多いというのが現実である。
 ダイヤモンドシティの回転寿司屋で、たらふく食事。昨日もこの店に来たのだが、待ち客が20人以上いたので、あきらめて別の店に入ったのである。以前はこの店、そんなに混んでいなかったのに、いつの間にかダイヤモンドシティでも一番人気の店になっていた。理由はよく分からないのだが、テレビや雑誌で紹介されたとか、そんなことかもしれない。
 私と父は流れてくる寿司を目ざとく見つけては食べるのだが、しげは好みのネタが来ずにモジモジしている。
 「好きなのが来よらんとね?」と父が聞くと、コクン、と頷くので、「注文ばすればいいとたい」と言って、呼び出しボタンを押した。しげが店員さんに「穴子の一本握り」を注文するのを見て、父がまた「一つでいい?」と聞くと、「じゃあ二つ」と訂正する。既にそれは流れていたのを食べているのだが、しげは好きなネタの数が少ないので、気がつくと穴子と穴子とサーモンと穴子とサーモンと赤身とサーモンと穴子と穴子と赤身とサーモンと穴子と、同じものばかりを食べることになるのである。で、結局この日は穴子を五、六個は食べたみたいである。
 以前、上京した時も、帰りの土産に穴子寿司を丸ごと一本買って行って、殆ど全部一人で食いつくしたことがあったが、多分しげは世界で三本の指に入る「穴子フリーク」であろう。どうせなら芸名も「穴子」にしてしまえばよかったのに。


 福岡ソフトバンクホークスと千葉ロッテマリーンズのプレーオフ第五戦、2―3でホークス敗退。最初リードしていたので、守りに入った途端に負けたって感じ。こういうときは「負けてもいいから攻めていけばいい」ってのがセオリーだし、本当の野球ファンなら結果論よりもプレー自体を盛り上げてくれることを期待すると思うので、ホークスは最後に来て自ら墓穴を掘ったって感じである。
 解説の野村克也が「ホークスは引き分けでもいいんですからね」とか「ロッテが逆転するには、強攻策よりはバントでしょう」とか言ってたが、ことごとく外れていた。こういう口だけさんが楽天の監督になってもチームはたいしてよくもならんと思うが、なぜか妙に信頼されてるよね、この人。


 録画しておいたBS映画『柳生武芸帳』を見る。
 近衛十四郎の代表シリーズの一作目だが、この役者さんが時代劇史上、最高の剣戟役者だってこともだんだんと忘れ去られて行ってるんだよなあ。マトモなチャンバラ時代劇ってのはホント、昭和40年代で死滅してしまつてるんだよね。
この映画についても以前日記に感想を書いた気はするが、見返してみていくつか発見したこともあったので、覚書程度のことを書いておくことにする。
 全11作が作られた近衛十四郎の「十兵衛」シリーズだが、五味康祐の原作小説をちゃんと映画化したのは実はこの一作だけだということだ。ほかの作品は、タイトルに『柳生武芸帳』と冠してはいるのだけれど、殆どが設定を借りただけのオリジナルである。何たって十兵衛のライバルの山田浮月斎(原健策)が、この一作目で死んでしまうのだ。完結してるやん(笑)。だいたい原作自体が未完に終わってしまっていて(五味康祐の才能が枯渇したせいである)、柳生武芸帳の謎もほったらかしになっちゃってるのだから、映画はオリジナルの道を辿るほかはなかったのである。
 昔、テレビで見た時には画面の両端がトリミングされている「不完全版」だったから、今回初めてシネマスコープサイズで見ることができたのだが、このワイド画面を駆使してもなお、カメラは近衛十四郎の殺陣を追い切れていない。つまりそれだけ殺陣が激しくかつ超速度のものであったということであるが、忍者ものを意識したせいだろう、部分的に特撮を使っているのはいただけない。殺陣は殺陣のみで画面にその迫力を定着させてこそ価値があるというものだ。
 今回のNHKBS2での放映は、全シリーズの放送ではないが、シリーズ最高傑作のみならずチャンバラ映画史上屈指の傑作との誉れも高い『十兵衛暗殺剣』も放送予定である。これもレターボックスサイズ(16:9)での放送を見るのは初めてになるので、ようやくその真価を確認できるというものだ。いや、ホントは劇場で見るのが一番だってことは分かってるんだけどね。

2002年10月17日(木) フェチじゃないモン!/『東京少年物語』(羅川真里茂)/『冷暗所保管』(ナンシー関)ほか
2001年10月17日(水) 踊る私と寝る私/映画『十兵衛暗殺剣』/『ザッツ・ハリウッド』ほか
2000年10月17日(火) 博多弁とベターハーフと女好きな女と/映画『知らなすぎた男』


2005年10月16日(日) 九州国立博物館、開館!

 昨晩、ようやく寝付けたと思ったら、真夜中にいきなりアタマにガツン、と衝撃を感じて飛び起きる。私はしげと父に挟まれて真ん中に寝ていたのだが、父が寝返りを打って、その時振り上げた拳骨で私の頭を殴ったのである。
 父と一緒に寝ることなんて滅多にないことなんで、こんなに寝相が悪いとは思わなかった。仕方なく、少し離れて寝よう、としげの方に体を寄せたら、今度はそっちの方からもガツン、とやられた。しげも寝相はかなり悪いのである。
 両方から殴られてはたまらない。仕方がないのでもう起きることにして、玄関先まで出て、本を読んで朝まで過ごす。起こされたのが午前三時なので、朝風呂が開く六時まで、三時間、ゆっくり本が読めた。……って、おりゃー、眠りたかったんだよ。

 朝風呂でようやく展望風呂もお湯が出ている。
 六時ジャストに入ったのに、一番風呂かと思ったらもう二人もどこぞの爺ちゃんが談笑していた。ものの五分もしないうちにドヤドヤとお客さんがやってくる。昨日はガラガラだったのにどうしたんだろうと思ったのだが、要するに、父と同じで、「酒飲んで寝る前に風呂に入っていた」のだろう。酒飲みの心理は分からない、というよりは温泉宿に泊まりに来て、全く飲まない私のような客の方が珍しいのだよね。
 父もやってきて、「早かったな」と言うので、「寝てないよ。夕べ、殴られて起こされたから」と言ったら、「誰にや?」なんて暢気なことを言ってくれる。これだからヨッパライはなあ。
 「しげは起きた?」
 「まだ寝とるぞ」
 しげも11時には寝てたはずだから、7時間は寝ている計算になるが、もちろんそんなのはしげにとっては「寝不足」なのである。けれど、今日行く予定の九州国立博物館は、今日が一般公開初日である。どれだけ人が集まるか見当がつかないので、早めに出かける予定なのだ。そろそろ起きてもらわなければ困る。
 ちょっと早めに風呂を切り上げて、部屋に戻る。布団をとっちらかしてカニみたいに足を広げてだらしなく寝ているしげの姿がそこにあったが、これを父に見られているのだよなあ。普通、そういうのが恥ずかしくて一番早く起きてもよさそうなものだが。

 ようやく起きた寝ぼけ眼のしげと父と、食堂で朝食。
 鮭の切り身、海苔、明太子、温泉卵、湯豆腐ほか。朝からお腹いっぱいである。
 給仕のおばさんから「今日は九国に行かれるんですか?」と聞かれたので、「ええ、そうです」と答えたら、フロントで前売券を売っている、と教えてくれた。「何百円か安くなるはずですよ」ということなので、出かける時に三人分買い求める。
 「先に前売り券を買っとけば、そんなに並ばないですむと思うよ」と言うと、父は「お前が聞いてくれてよかったな」と言って笑った。でも実は私の考えは、「現地に行って行列ができていて、「こんなに並んどうとなら、もう帰ろう」と父が言い出しやしないかと、それが心配だったからである。35年前、大阪万博で月の石を見られなかった時の恨みを私はまだ忘れてはいないのだ(笑)。


 フロントでは、駐車場の場所なども教えてもらった。九国の駐車場自体はバス専用で、一般の車は停められないそうだ。知らずに行ったら、門前払いを食らうところだった。まずは大宰府駅前の駐車場に停めて、それから参道を通って、天満宮を突っ切って、更に連絡トンネルを潜って行かなきゃならないらしい。駐車場からも20分かかるそうである。これは是が非でも参道でお客さんにオカネを落としていってもらおうって魂胆なんだろうか。
 7時45分に出発、10分ほどで大宰府駅に到着。それから九国までは確かに20分かかった。
 連絡トンネルってのも歩かなきゃならないのかと思ったのだが、これはエスカレーターと動く歩道で繋いでいた。三人で歩道に乗っていると、後ろから女の人が走ってきて、右側にいた父に向かって、「右側は空けておくものですよ!」と怒鳴った。父は一応避けはしたが、走って行った女の人の背中に「そんな決まりはないとですよ!」と怒鳴り返した。
 「あれ、マスコミの人だよ」と私が言うと、「ああ、それで急いどったとか」と頷いた。歩道の横にだって道はあるのだから、急ぐのならそこを走ればいいのに、わざわざトシヨリをどかしてまで先に行きたがるような非常識な(しかも開場一時間も前に)人間なんて、マスコミの人間以外にいるわきゃないのである(案の定、あとで、場内で取材してる姿を見かけた)。
 博物館に到着してみると、開館までにはまだ一時間以上あるのに、既に50人ほどが並んでいた。先頭は小学生の三人組である。父がそれを見て「あれはヤラセやな。誰が小学生で博物館とかに興味があるもんか」と決め付ける。その可能性もないわけではないが、小学生でも美術品とかに興味のある子供がいてもおかしかないと思うけどね。

 しげがすっかり退屈して、かと言って父がいる手前、「帰ろう」とも言い出せずにぐったりして来たころにようやく開場。まずは三階の開館記念特別展示「美の国 日本」展に行く。オープニングセレモニーで、あちらこちらのお偉いさんが10人ほど、寄ってたかってテープカット。例の三人組の坊ちゃんたちが「一番乗り」ということでインタビューされて中に入ったあと、ようやく入れてもらえる。
なんたって何百点という展示物があるのだから、内容を詳しく書いているとキリがない。ごくかいつまんで紹介することにする。
 二部構成に分かれた第一部は「アジア古代王朝の精華」。正倉院の御物や「漢委奴國王」の金印も見られる。近年発見された、阿部仲麻呂と同時期に唐に渡って客死した日本人「井真成」の墓誌もある。このくらいの漢文なら何とか読めるなあと一所懸命読んでいたら、隣に現代語訳の説明の看板が立っていたのであった(笑)。
 第二部は「大航海時代の日本」。
 室町・安土桃山時代の屏風絵や武士の兜・鎧・具足、また武士たちの肖像画など。父はやはり道具箱に描かれた山水や、屏風絵の風俗、花鳥風月などに興味を惹かれている。私の祖父は沈金師で、父は本当はその跡を継ぎたかったのだがそれを果たせなかった思いが、今でもこういう工芸品、美術品への憧れと拘りを抱かせているのである。
 「お前の爺ちゃんはこういう展覧会があると必ず来て、絵を見て行きよったもんなあ。それで家に帰ったら、早速、絵を描いてみるとやけど、それが真似にならんで、ちゃんと爺ちゃんの絵になるとたい」 
 「爺ちゃんの絵は凄かったもん。ここにある絵のいくつかには負けとらんよ」
 「跡ば継いだお前の伯父さんは十年しか続かんやったもんなあ。伯父さんには爺ちゃんのような格調はなかったけん」
 身贔屓でなく、祖父の絵は、そして家具・調度に刻まれた金箔の鷹や、虎や、山水は、魂を与えられ、生きて動き出すかのような迫力と精気と、獰猛と慈愛とに満ちていた。残念ながらその血は父と私に伝わってはくれなかったようだが。

客はどんどん増えてきていて、一つの展示物をじっくり見ようにもどんどん押されていくような感じになる。最後の展示は信長や秀吉ほかの戦国武将たちの肖像画だったが、立ち止まっているとこちらの方が迷惑をかけているような感じになる。予定より早めに次の会場に移ったが、それでも一時間以上は経っていた。
四階の「文化交流展示室」。旧石器時代から近世までの美術品、博物資料の数々を展示している。
でもその中で一番印象に残ったのは、出入り口にあった「水城のジオラマ」の中に、誰がイタズラしたのか、「トラクターのミニチュア」が置かれてあったことだ。ガラスケースの中に密閉されているから、やったのは関係者以外にはいない。楽しいことをする人もいるものだが、誰かが気が付いて撤去しないかどうかが心配である。九国に行かる方は御早めに。どこにそれがあるか探してみるのも一興だろう。
世界地図を見て、地名が全て漢字で書いてあるので、学生さんらしき人二人が一所懸命解読しようとするのだが歯が立たない。「……てい・あ? どこだこれ?」なんて言っている。「あのね、それはね、『応帝亜』と書いて『インディア』と読むんだよ」とよっぽど言ってやろうかと思ったけどやめた。だって「分かった、メキシコだ!」とか言いやがるんだもん。

このころになると、しげは疲れ果てて会場内の椅子に座りこんでいる。そろそろ退散しないと辛かろうな、と思って、蒔絵の壷に勝手に触って係員さんからたしなめられている父を見つけて、一階まで降りる。沖ノ島の映画もシアターで上映していたのだが、人も何十人も並んでいたし、それは涙を飲んであきらめる。これは次回のお楽しみ、ということにしておこう。
一階は「あじっぱ」という体験ゾーン。世界各国のパズルをやったり、ドラを鳴らしたり、壷に触ってみたり、民族衣装に着替えたりすることができる。お子さん連れのお客さんは、子供をここで遊ばせておいて、自分は会場を見て回れる、というそういうコンセプトだろうか。
 ここで偶然、職場の同僚がボランティアで働いているのを見つけて驚く。軽く挨拶を交わしたが、休日もこうして働いているとは、この方、いったいいつ休んでいるのだろうか。

 会場を出て天満宮にお参り。そのあと参道の蕎麦屋で蕎麦と梅が枝餅を食べて帰る。
 父は天神に用事があるというので、帰りはちょっと遠回り。「三越で北海道物産展があるって言うけん、覗いてみる」ということなので、三越前で父を降ろして帰宅。
 ところが、じきに父から電話が入ってきた。
「物産展があると思うとったのは勘違いやった。家に帰って片付けしよったばってん、やる気が失せたけん、一緒に食事せんや」。
奢られ飯は遠慮しない。ダイヤモンドシティのパンのバイキングの店でたらふくパンを食った。
 
 
 帰宅して、録画しといたアニメや特撮を見るが、そこまで感想書いてたら時間がいくらあっても足りないのでもうホントに簡単にヒトコトだけ。。
『BLOOD+』第2話「魔法の言葉」。
 普通のアニメなんだけど、I.Gが作ったと思うとクオリティが低いように感じてしまう。
『仮面ライダー響鬼』三十六之巻「飢える朱鬼」
 あきらはあきらのままでイメージがあまり変わってない。よかったよかった。
『おジャ魔女どれみ な・い・しょ』第2話「N.YのMAHO堂 〜ももこのないしょ〜」
 メアリーはアメリカのたまきさん♪
『地獄少女』第2話「魅入られた少女」。
 よくある話だけれど絵はきれい。ノトマミ、こんな声も出せるんだなあ。

2002年10月16日(水) 合宿落穂拾い・その他盛り沢山/『ナジカ電撃作戦』2巻(田代琢也)
2001年10月16日(火) ココロを濡らす雨……詩人だなあ(どこが)/『エンジェル・ハート』1巻(北条司)ほか
2000年10月16日(月) ファジー理論とエスパーとサイボーグと/アニメ『犬夜叉』『人造人間キカイダー』第一話ほか


2005年10月15日(土) 温泉だ♪温泉だ♪/『ウルトラマンマックス』第16話/『野ブタ。をプロデュース』produce1

 『みのもんたのサタデーずばッと』に森喜朗前首相が出演、今後の政局について語ってたんだけど、例の小泉チルドレンの杉村大蔵議員のことに触れて「自民党結党50周年の年にね、50年心血注いで一緒にやってきた議員さんたちとね、ああいうのが一緒にされちゃうってのはどうかとね」とかなんとか言っている。50年やろうが1年生だろうが、杉村さんと当の「失言首相」森さんとの間に人間的な格差があまりあるようには感じられないのは私だけだろうか。
 みのもんたの「まさか35番目で当選するとは思ってなかったんでしょ?」という質問に「そりゃそうですよ」と即答するんだから全く真っ正直な人である。
 「一般から候補を公募するってことはいいことだと思うんですよ。けどね、私も経験あるけどね、レポートだけ見て面接もしないで採用したらしいんですよ。解散選挙ってなって、とてもそんな暇なかったんだから」
 えーっと、それって自ら「いい加減な選び方してた」ってこと告白してるだけで、何の言い訳にもなってないんですけど。馬鹿が馬鹿を候補に選んてだという、実に平仄が合ってる話で、杉村議員に対して「こんなのを議員にしちゃっていいのか」とか言ってる連中は、自分もかつて(そして今でも)そう言われたことをすっかり忘れてしまっているのだろう。
 小泉さんがまだその手の失言をしてないのは、なんだかんだ言っても、あの人が一番、大衆意識を読むのに長けてるって人なんだろうね。いいことなのか悪いことなのかは知らんけどさ。


 『ウルトラマンマックス』第16話「わたしはだあれ?」(宇宙化猫タマ・ミケ・クロ登場)。
 先週に引き続き、NAKA雅MURA脚本・三池崇史監督作品。
 これがまた、ギャグ編と見せかけながら、最後はきちんとヒーローもののツボを抑えた演出で、さわやかな感動を残してくれる傑作になっていたのでオドロキ。
 タイトルが前作同様、『ウルトラセブン』から取られていて、「あなたはだあれ?」(フック星人登場)のモジリになっているから、やはり旧作へのオマージュとしての思いが託されているのだろう。『セブン』は小林昭二が「見知らぬ人」になって「あなたはだあれ?」と言われてしまう話だったが、今回は登場人物が全員「わたしはだあれ? ここはどこ?」となってしまう話(笑)。

 宇宙から飛来した三個の隕石。その直後から、人々の記憶力が激しく低下するようになった。団地の主婦は、今、自分が何をしようとしていたのかを忘れ、キャスターは原稿の漢字が読めなくなり、犬は「お手」も「待て」も分からなくなり、九官鳥は言葉を忘れた。
 加速度的に記憶喪失が蔓延する中、三体の怪獣が出現する。宇宙化け猫のタマ・ミケ・クロであった。一連の事件は怪獣が有機生命の記憶を乱す波動を撒き散らしているためであった。
 DASHは戦闘機ダッシュバードで出動しようとしたが、途端に操縦の仕方を忘れてしまう。コバはミサイルを乱発して基地を破壊し、隊長もスイッチを押し間違えて戦闘機でくるくる回っている。トミオカ長官とヨシナガ教授もなぜか出撃して、くるくる回って笑っている。アンドロイドのエリー以外は、みんな役立たずだ。
 あろうことかカイトまで変身の仕方を忘れて、ウルトラマンマックスに変身できない……。

 前回、東京を破壊しつくしたのに対して、今回は一種の精神攻撃。
 みんなが次々に記憶をなくしていく冒頭は、殆ど特撮を使わず、破壊がないにもかかわらず、短いカットをテンポよく繋いで侵略のイメージを明確に伝える描写力は実に見事。
 一斉にみんなが記憶を無くしてしまうなんてアイデアはよくあるじゃないかとかいう批判もあるかもしれないけれど、要は「見せ方」なんでね。九官鳥だけがなんで人形なんだと思っていたら、これがちゃんとオチに効いてくるのも上手かった(笑)。
 三体の化け猫怪獣の名前がタマ・ミケ・クロというのも人を食っていて楽しい。毎回、怪獣のネーミングはDASHがやってるんだろうが、多分、記憶力が減退していたので、いい加減な感覚で付けたのだろう(笑)。

 役者さんたちのボケ演技はもう抱腹絶倒ものである。完全に記憶が消失してしまうのではなくて、中途半端に消えるので「何かをしようとしてそれが喉まで出かかってるんだけれども思い出せないもどかしさ」が笑いを誘う。
 たとえば、カイトがマックスパークをどこに装着しようか迷って(それでマックスに変身しなきゃならないということは覚えているのである)、頭に付けたり、胸に付けたり、足の裏にまでくっつけようとしたりするのだ。いくらなんでもそりゃありえねーって(笑)。
 ようやく「偶然」変身できたあとも、どうやってマクシウムカノンを発すればいいか分からず、変なポーズばかり取りまくる。「命!」をやってみせたのには、「お前は『命』のポーズだけは忘れんのか!」と、画面に向かって突っ込みたくなった(笑)。
 しかもこの「中途半端さ」が実は後半の伏線になっていたのだから脚本の上手さをこれは賞賛しなければならないだろう。
 旧ウルトラファンには、トミオカ長官が「カレーライスを食ってる最中に呼び出される」ギャグに思わずニヤリとすると思う。
 これも若い人には説明が必要になるのだが、『ウルトラマン』第34話「空の贈り物」(スカイドン登場)で、ハヤタがやっぱりカレー食ってる最中に出動して、ベータカプセルと間違えてスプーンを挙げてしまうというギャグがあるのだ。
 今回、黒部進さんはスプーンと間違えてカレー皿の方を挙げてしまう(笑)。当時、こういう「ギャグ編」を撮ったことについて、監督を担当した実相寺昭雄氏は、脚本家の金城哲夫氏から文句を言われたそうだが、『ウルトラQ』のころからたまにある実相寺監督や中川晴之助監督のこういうギャグ編を、視聴者の子供たちは楽しみにしていたのである。
 つまり今回は「こんなウルトラもあっていいじゃない」っていう三池監督のメッセージでもあったわけだね。シリーズものってのは回を重ねるたびにどうしても動脈硬化を起こしてしまうものだから、こういうぶっ飛んだ異色エピソードがあった方がよいのである。

 みんながイカレていく中、何とかマトモだったのはミズキで、完全にボケと化したヒジカタ隊長に突っ込みを入れるのだが、だからと言って役に立つわけではない。
 唯一便りになるのが、アンドロイドのエリー。ミケたちの波動は、当然キカイであるエリーには効果がない。エリーは何とか事態を好転させようと孤軍奮闘を強いられるのだが、逆にそのおかげで今話は、彼女が最も魅力的に描かれたエピソードになった。
 感情のないキャラクターに少しずつ感情が芽生えていく様子を描くのは定番であるが、これまでのエピソードではそれを効果的に描いていたとは言えなかった。
 それが今回は、表情こそは鉄面皮の無表情なままだが、隊員たちのテイタラクに「もう戻ってこないでください」と諦観し、「ええかげんにせいや」と激怒し(誰が関西弁をインプットしたんやねん。「こんなこともあろうかと」、自分でデータ収集してたんかな)、マックスに「守りたい仲間のことだけを思い出して」と、一番大切な「心」を訴える。
 これだけの「感情」を積み重ねているから、最後の「涙」と、「笑顔」が生きるのだ(この笑顔をさりげなくしか見せないのもイイよねえ)。何だか今回で一気に満島ひかりのファンになっちゃったぞ(笑)。
 もっともオタクにはM男君も多いから、「クール・ビューティーにヒドいこと言われたい」という歪んだファンを狙った演出なのかもしれない(笑)。いや、よしながふみの『フラワー・オブ・ハウス』にもそんなキャラが出てきてたもので。

 「中途半端な記憶喪失」という設定であるからこそ、マックスが「仲間を守る心」を思い出しても決して不自然ではない。ご都合主義にだって、その「都合」を納得させられるだけの基本設定は必要なのだ。
 マックスが「新必殺技」を編み出したのも、ほかの技を思い出せずにやってのけた、やけのやんぱちの「火事場の馬鹿力」のようなものだし、一回こっきりで忘れちゃうというのも平仄が合っている。何よりその清々しさ、潔さがヒーローらしくていい。
 最近の辛気臭いアニメや特撮ドラマにありがちな本当の正義はどっちにあるかとかいう余計なゴタクは必要ねえ、そんなものを考えるのは大人になってからでいいじゃないか、今、子供たちが考えなきゃならないことは、「仲間のために勇気を奮い起こす」その一つだけでいい。まるで、三池監督はそう言っているようである。しかもそれは決して子供に媚びた童心主義の産物ではないのだ。
 三池監督作品がこの二作で終わるのは惜しい。ぜひとも後半シリーズでの再登板を期待したい。つーかほかの脚本家に監督、予算がねーのかもしれないけど、それでもこれくらいのものは作れよな。


 日本映画専門チャンネルで録画しておいた映画『ピーマン80』を見る。
 『8時だョ!全員集合』のプロデューサー、故・居作昌果の監督作で、劇場版『エースをねらえ!』の併映(つか添え物)作品だったんだけど、当時はなぜだか長編アニメに実写作品を組み合わせる形式が多かった。興行側がアニメだけじゃ売れないと見てたんだろうねえ。でも、集客力のない実写作品を付けたって、かえって足を引っ張ることにしかならないというのは、たとえば『ルパン三世カリオストロの城』に『Mr.BOO!インベーダー作戦』を付けるなんてデタラメな例のほか、枚挙に暇がない。
 実際、ずうとるびの新井くんと谷隼人の怪盗モノというコンセプトは名ばかりで、ともかくドリフレベルのしょーもないギャグがだらだらと流れるばかりで、劇場でこれを見せられたら拷問でしかない。こんな珍品はその「つまらなさ」をかえって楽しむという被虐的な精神が必要になるであろう(笑)。まあなんだね、バラエティのギャグをそのまま映画に乗せてもつまんないということがわかってないんだね。一応、新井くんも頑張ってはいるのだけれど、手にパンを持って銃のように構えて「パンパンパン!」とか、ピンクレディーに「借金返して!」と迫られて、逃げるついでにブラジャーを掏ってくるとか、美女に見とれてプールに落ちるとか、ビア樽のフタを取ったら勢いよく噴出してビアホールがビールまみれになるとか、「吉野家の牛丼はいつまでも八十年なの?」とか、ここまでつまんないギャグを百連発くらいした例は、後は『金田一耕介の冒険』くらいしか私は知らない(笑)。もちろん私はこういうのが大好きである。
 多彩なチョイ役ゲストは監督の人脈だろうけれど、『クイズダービー』関連の人が多かったのはちょっとした発見。竹下景子、はらたいら、篠沢教授、楳図かずおといった解答者は当然のことながら、脚本家で声優の故・井上瑤さんが顔出し出演していたのにはビックリ。昔見た時にはちっとも気がつかなかった。超珍品でビデオ化も全くされてないしテレビ放送も殆どなかったから、これを見逃したら二度と見られないだろう。まあ、普通の映画ファンはこんなの見なくてもいいもんなんだけど。
 しげは途中まで見て飽きてしまいました(笑)。


 そうこうしているうちに時間が迫ってきたので、父を店まで迎えに行く。
 父は仕事を早上がり、六時ちょっと過ぎに二日市に向かう。いつもは三十分ちょっとで着く距離なのだけれど、渋滞に引っかかって、目的地の「大観荘」までたどり着くのに、結局まる一時間かかった。特に大野城あたりでやたら信号に引っかかってしまうのには往生した。しげが「一時間半かかるよ」と嘆いていたのも案外、間違いではなかったようだ。
 でもほぼ一本道をナビされなきゃ辿りつく自信がないというのはやっぱりよくわからない。
 仲居さんに部屋まで案内されて食事は七時半だと告げられる。父は「酒飲んだらあとは眠くなるから」と、先に展望風呂に入りに行く。私としげは浴衣に着替える。
 記念に写真など撮るが、最近めつきり太ったしげが浴衣を着ると、まるっきり相撲取りである。
 料理がじきに運ばれてきたので、父を呼びに行こうとしたら、烏の行水で上がってきた。全くせっかちなことである。
 料理はそれほど高くない宿泊料のわりにはなかなか豪勢。

 先付  酒煎り松茸・菊菜・水菜・菊花和え
 椀   清汁仕立・甘海老巻・松葉独活・青梗菜・柚子
 作り  刺身盛り合わせ・土佐醤油
 八寸  青唐ちりめん山椒和え・尾倉紅葉和え・鮭生寿司・酒盗玉子・銀杏松葉刺し・公孫樹丸十
 煮物  紅葉鯛吉野煮・大根・人参・キャベツ・煮豆
 蒸し物 栗蒸しおこわ・しめじ・紅葉麩・三つ葉・銀餡
 洋皿  牛モモの蒸し焼・山芋・秋豆・人参・くるみ・大根卸しのソース
 揚げ物 帆立と舞茸俵揚げ・稲穂・アスパラ・味噌だれ
 酢の物 蟹・穴子金紙巻・蕪あちゃら漬・黄味噌
 お食事 白御飯・香の物
 デザート フルーツとケーキ盛り合わせ

 「八寸」というのが何だかよく分からなかったのだが、「本来は容器の名で、八寸(約24cm)四方の器のことで、懐石料理で2〜3品の料理を盛った酒の肴を指す」だそうである。
 料理に舌鼓を打ったあと展望風呂へ。と言っても外が見えるわけではなくて、風呂の窓の向こうに山水が設えてあるのである。何と私以外にはお客さんが誰もいない。もう8時を過ぎていて時間が遅かったせいがあるのかもしれないが、温泉宿に客がいないというのはちょっと信じられない風景である。ゆったりできたのはいいのだが、お湯がいくら出しても出てこない。体を洗うのはあきらめて浸かるだけにする。


 部屋に戻ると寝床が敷かれていて、父はもう高いびきだった。
 テレビで『野ブタ。をプロデュース』produce1を見る。
白岩玄原作の文藝賞受賞作の連続ドラマ化ということだけれど、小説の方は未読。作者がかなり若いこともあって、あまり誉められてはいないようだが、タイトルの付け方はなかなかのもんじゃなかろうか。
 ストーリーは、クラスの苛められっ子の転校生を見かねた男子二人が、何とか彼女を「プロデュース」することで勇気を持たせようってお話。と言っても、原作ではプロデュース対象の「野ブタ」の性別が男の子で、渾名どおりデブなのを、ドラマでは女の子に変更している。
 原作を読んでないのに言い切っちゃうのも何なんだが、この変更はドラマとしては正解ではないだろうか。ミもフタもない言い方であるが、ビジュアルとしてデブな男の子より、ちょっと暗めだけれども実は美少女をプロデュースする方が、視聴者も一緒になって応援のしがいがあるってものである。
 でも、正直、そんなに期待してなかった、というよりはアイドルを表に立てただけのキレイゴトなお話ではないかと思ってたんだが、必ずしもそう断定もできない雰囲気である。ギャグとシリアスのバランスがよくって、かなり「手応え」がいいのだ。ジェイコブズの「猿の手」(もちろん本物ではない)をモチーフに使っているアイデアも悪くない。
 主役の亀梨和也くんと山下智久くんはとりあえずソツなくやってる感じだけれども、意外にもすごくよかったのが信太ならぬ信子を演じた堀北真希ちゃんだった。
 『銭形舞』や『逆境ナイン』を見ていた時には、ちょっとこの子はアイドルとしても役者としても伸びていくのは苦しいかなと感じていたのだけれども、いじめられっ子たちに追いかけられ、追いつめられ、水をかけられ、突き飛ばされ、それでも助けも求められず、反抗もできず、ひたすら暗く、落ち込み、自虐の言葉を吐き続ける。
 しかし、その心が安穏なはずもなく、「猿の手」を手に入れれば、呪いの言葉を唱えることになる。いじめっ子の首謀格の女の子の死を願うのだ。彼女の目はいつも垂らした前髪に見え隠れしていて表情がよく分からない。その「暗さ」が苛められの原因にもなっている。しかしその陰の向こうの目は、恐らく、憎しみの光で妖しく輝いているのだろう。そううかがわせるほどに、彼女の呪いの声は恐ろしいのだ。
 しかし、彼女を支えようとする男の子二人の励ましに、やがて彼女は呪いを取り消してくれと「猿の手」に願うことになる。その時のうって変わった穏やかで優しい、慈愛の声。ああ、こんな振幅の激しい演技のできる子だったんだなあ、と思わず彼女に見入ってしまった。
 この「プロデュース」が成功するかどうかは分からない。ラストの「人間の悪意との戦い」を示唆するナレーションを聞くと、「まさかバッドエンドなの?」と気に掛かりはする。けれど、最近の新番組ドラマの中でも、第一回だけの比較だとこれに一番惹かれるものを感じるのだ。ともかくイチオシ。来週も真希ちゃんがあまり苛められないことを祈りながらチャンネルを合わせることになるだろう。
 あああ、録画仕掛けて来りゃよかった。


 たらふく食って眠気が来たのか、私もじきに寝る。
 ことにしたかったのだが、父としげのダブルイビキに挟まれて、なかなか寝付けなかったのであった。明日は早起きして九州国立博物館に行かねばならないというのに。

2002年10月15日(火) トンデモ傷つきブリッコの世界/ドラマ『鬼畜』/『辣韮の皮』2巻(阿部川キネコ)/『ななか6/17』8巻(八神健)
2001年10月15日(月) カチカチ山の……/ドラマ『着ながし奉行』
2000年10月15日(日) ステーキとモーレツとSFミステリと/『海底密室』(三雲岳斗)ほか


2005年10月14日(金) さよならカトウ君/NHKドラマ『慶次郎縁側日記2』第2回「正直者」

 さて、その後のカトウ君であるが、しげが「ブログ消してるけど、どうするの?」とメールを送ったにもかかわらず返事がない。こちらから連絡を入れても反応がないので、しようがなく、しげは其ノ他君経由で連絡を取ってもらうようにしたそうなのだが、やっぱり音沙汰はないようである。
 だもんで、劇団ホームページからもカトウ君のページは削除されてしまったし、よしひとさんもリンクを外してしまった。私ももうここまで来たらしょうがないかなと思ってリンクを削除した。これ以上、こちらがカトウ君のことを気にしているようなそぶりを見せると、彼はまたぞろ我田引水的妄想フィールドを展開して、「そんなに俺が必要か」なんてつけあがりかねないので、このへんでアプローチをするのもやめた方がよかろうと判断したのである。自分で決断できないやつを気にかけてやったところで、こちらの体力と気力が無駄に消費されるだけだ。
 劇団を辞めるなら辞めるで、もともとうちは「出入り自由」なのでそう言えばよいだけのことだ。こちらも別に引きとめるつもりはないのだが、多分「引き止められない」ことが本人にも分かっていて、そのことを自覚するのが辛いので、「なし崩し的にいなくなってしまおう」という姑息な手段に出たのだろう。「自分の意志で切る」ことができないので「切られた」とこちらに責任転嫁したいのである。マンガキャラみたいにヒレツだが、まあ、人生の参考にしてるのがマンガとアニメと特撮しかないやつだからしょうがないのかもしれない。
 何だかここまで情けないと、怒るよりも先に哀れになってくる。誰かに似てるよなあ、カトウ君って、と思ったら、『ちびまる子ちゃん』の「藤木君」にそっくりなんだと気がついた。自分の卑怯さに落ち込んですぐに永沢君に愚痴るのだが、それも無意識に同情を買うためのポーズだったりする。そういうところを永沢君に見透かされているのだが、周囲に「僕のことを構ってよ」オーラを発しているところまでそっくりである。
 まあ、藤木君タイプの人間には永沢君タイプの人間がトモダチとしてはちょうどよかろうから、そういうトモダチを探していただければよかろうかと思う。ただ、男ならばともかくも、世の中に永沢君タイプの女の子がいるかどうかは定かではないが。


 昨日、寝が足りなかったせいで、終日、軽い頭痛。
 朝方も少し寝過ごした。目は覚めていたけれども、体が動かせなかったのである。どうにか遅刻せずに出勤しはしたものの、今ひとつ調子が乗らない。
少しばかり頑張って一仕事片付けて、早引けする。迎えに来てくれるようにしげに連絡をつけたが、「早く帰れるの? わーい♪」なんて言って喜んでやがる。
 早く帰れるんじゃなくて、疲れて早く帰るの。そんでもってそりゃお前の夜泣きのせいなんだって。情緒不安定なヤツとくらしてるとこれだからなあ。


 NHKドラマ『慶次郎縁側日記2』第2回「正直者」。
 話はいきなり前回の一年後。皐月(安達祐実)はもう立派な森口家のご新造さんである(関係ないが、「新造」くらいちゃんと漢字変換してくれよ。「しんぞう」じゃないんだよ「しんぞ」だよ)。ところが夫の晃之助(比留間由哲)は、付け届けの類を一切受け取らず、正直、森口家の賄い方はかなり苦しい。皐月は慶次郎(高橋英樹)に何か仔細があるのではないかと相談する。
 当の晃之助は、賭場の使いっ走りでかっぱらいを繰り返す若者の直太(浅利陽介)を、まっとうな道に戻そうと説得していた。以前の直太はアサリの剥き身売りで、釣り銭を誤魔化さない正直者と評判だったのだ。なぜ直太は悪の道に転落したのか、そのきっかけは実は慶次郎にあった。
 今回も前回に引き続き、「仏の慶次郎」の「仏心」がかえって仇なす物語。と言っても、そもそも「馬鹿正直」な直太が、勝手に慶次郎のことを頼みに思って裏切られたと思い込んだだけの話だから、慶次郎に責任なんてありゃしないのだが、慶次郎だって「正直者」だからそこで悩んでしまう。全く、正直者だらけの世の中というものは始末に悪い。実際、だいたいにおいて「誰かのため」に何かをすることは殆ど裏目に出るものだ。それが分かっているのにあえて「正直者」であろうとするのは、失敗しても「正直だったんだからいいじゃない」って言い訳ができるから、その中に逃げ込んでいるだけではなかろうか。
 慶次郎は自分もまた「正直者」であることで悦に入っている。だからいつでも「偉そう」である。けれどもそんなものが「仮面」に過ぎないことは簡単に暴かれる。人を傷つけておいて、そのことに鈍感なのが正直者の正体なのだ。慶次郎は自分自身の「偽善」に悩むのだが、こういうときに「救いの手」が差し伸べられるのもまた「現実」というヤツで、全く、世の中は一筋縄ではいかない。
飯炊きの佐七(石橋蓮司)が「正直でいいじゃないですか。言葉にしたってことは、その時はそんな気持ちがあったってことなんだから」みたいなことを言うのがまさにその「救いの手」で、これでまた慶次郎は心が癒されて、またまた元の「正直者」に逆戻り、「正直の頭に神宿る」なんて言い出してしまう。もちろん、佐七は正直者でもなんでもなくて、本人の言どおり、「その時にはそんな気持ちで言った」に過ぎないので、そのあと、正直者の魚屋に駄賃をやった慶次郎に向かっては「賄いも苦しいのに」とたしなめることになるのである(笑)。
 正直者も悪党も、人間である限りはやはりどっちも厄介な存在でしかない。どちらが信用できるかとか言い出せばどっちも信用できないとしか言いようがない。いい加減で無責任かもしれないが、結果がどう転ぶかは誰にも分からないものだ。正直に行動するかあえて悪党になるか、その場限りの勘で動くしかないのだから、どっちが正しいのかなんて問われても答えようがない。
 このドラマの気持ち良さは、そんな善人・悪人も等価で「人間」として扱っている点だ。「深刻」という評判もあるようだが、深刻なのが現実ならばそれが「普通」ということである。それでもまあ人は生きていくのだ。前回、慶次郎に迫られグダグダになってしまった常蔵(若松武史)は、巡礼のたびに出た後もグダグダであった。何だかまた中島らもの歌を思い出してしまったが、どんなやつだって人間なんだから「いいんだぜ」なのである。

2002年10月14日(月) 若本規夫賛江/映画『サイン』/『エドワード・ゴーリーの世界』(濱中利信編・柴田元幸・江國香織)
2001年10月14日(日) 新番紹介、大トリ!/アニメ『サイボーグ009』第1話「誕生」
2000年10月14日(土) 「野草」刈りと漂泊者と生ベルばらと/『あこがれの遠い土地』(トーベ・ヤンソン)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)