無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年10月18日(金) 今日はノロケじゃないと思う/『プリンセスチュチュ』10AKT.「シンデレラ」/DVD『鬼畜』ほか

 今日も仕事が6時過ぎまでかかっちゃったので、しげ、頗る機嫌が悪い。
 「仕事の前にメシ食って風呂入る時間がないやん」と言うのだが、そこまで余裕がないわけではない。9時出勤で、早めに出かけるとしても、3時間はあるのだ。ものごとを針小棒大に解釈して被害妄想に自ら陥るのはしげの悪い癖だが、いい加減にしてもらえないものか。一日会う時間がないと文句垂れまくってるからこちらもムリしつつ早めに帰れるようにしてるのである。
 そう言うと「じゃあ、無理してるから感謝しろって言うの?」なんて陰険なことを言う。
 このアマ、なにナマイキなこと言い腐っとんじゃ、のぼせあがるのも大概にせえよ、キサマ何様のつもりか、それじゃあ感謝してもらおうじゃないか、オレの目の前で「私が悪うございました、許してくださいごめんなさい」と手をついて土下座しやがれ、三べん回ってニャアと言え、おまえみたいなドグサレた人格の○○○○の○○○○の○○○○○○につきあってるだけでもありがたいと思えや、この唐変木のコンコンチキが、と心の中だけで嘯く(心だけかい)。
 実際には給料日前でカネがないのでしげにマクドナルドでベーコンレタスバーガーを奢ってもらったのである。悪口など言えるはずがない(^_^;)。


 金曜日は『プリンセスチュチュ』の日。なんだかもう一週間の楽しみが『チュチュ』に集約されてるような(^_^;)。今日のお話は何かなあ? お話の好きな子、寄っといでえ〜(三谷昇の声で読むこと)。というわけで、いよいよクライマックス近しの第10話「シンデレラ」。
 13話で終了か? と思われていたのだが、めでたく延長が決まったようである。次はやっぱりというか、「卵の章」に続いて「雛の章」だ。しげは「その次は『成鳥の章』?」とか言ってたが、主人公があひるなんだからその先は当然『白鳥の章』になるんじゃないのかね。
 けれど、あまり喜んでばかりもいられない。延長決定がギリギリになると、たいてい作画レベルが落ちてしまうのが常だからである。しかも、14話からは『動画大陸』というアニメ特番の中の一本として放映されるようになり、しかもこれまで30分1本の番組だったのが、15分2本に変更されるのだとか(「金曜20時45分ごろ」放送の「ごろ」ってなんなんだよ)。
 ……なんとなく『秘密戦隊ゴレンジャー』が『ゴレンジャーごっこ』に変わっちゃうような悪い予感がするのは私だけでしょうか(^_^;)。スタッフやらキャストやらが変わっちゃわないかと心配だなあ。特に三谷昇さんのスケジュール、確保できるのかどうか。

 それはさておき、『卵の章』も、今回を含めて残すところあと4話。
 いよいよ隠された謎が明かされていく。と言うことで、今日は「みゅうと」がなぜ「みゅうと」になったかが判明。うわー、こいつほんとにおとぎ話の「王子様」だったんだなあ。っつーか、語源が「ミュートス」から来てるんだから「神様」なんだね。年も取らないってことだから、まさにこの世界は「おとぎ話の落穂拾い」なわけだ。
 河合隼雄が『昔話の深層』でメルヘン・ファンタジーの心理分析を行って以来、シロウトもこぞっておとぎ話の底に流れる深層心理についてマコトシヤカに語るようになっちゃったけど(『ホントは怖いなんとか童話』の類の本はたいていはこの本の稚拙なパクリだ)、実のところ精神分析なんて学派の数だけ説があると言っていい。まあ我々は常に「物語」を求めているものであるから、その物語に「根拠」を示してくれるものがあればつい飛び付いちゃうのだけれど、さて、意外と我々が子供の頃抱いていた疑問にキチンと答えてくれたものは少ない。
 つまりは「物語の主人公はあのあとどうなったか」である。おとぎ話は近代小説のように心理を描写することに主眼を置いていないし、とりあえずの結末をつけたものが多いから、納得しがたい結末を迎えるものも多い。ペロー童話では『赤頭巾』の狼は、赤頭巾を食って、それでおしまいである。グリム童話でその結末が改変され、狼が猟師に退治されることになるのも、「これで終わっていいのか」という疑問に答えたためであろう。もちろんペローが昔話を再録した頃には、この物語は「危険なところへ行ってはいけません」と少女をたしなめるために語ればよかったのだから、赤頭巾が食われておしまい、でもよかったのである。
 『プリンセスチュチュ』はもちろん『みにくいあひるの子』をモチーフにしている。しかし、みにくいあひるの子は白鳥になれて幸せだったのか。というより、あひるは白鳥に比べてみにくいのか。昔はともかく、今の子供たちは、当然そういう疑問を持つだろう。となれば、あの物語は決して「めでたしめでたし」ではないし、「新たな」結末を求めるのである。
 とは言え、その「お話の続き」を求めてるの、ドロッセルマイヤーだからなあ(^o^)。おとぎ話ごたまぜのこの物語で、さて、どんな結末が描かれていくことになるのか、相当ヘンテコなものになりそうで、それを期待して見てるんだけれども。
 で、猫先生は山羊先生から逃げることが出来たんだろうか(^o^)。


 こないだ見た田中登監督版の『鬼畜』が物足りなかったので、改めてDVDで野村芳太郎版『鬼畜』を見返してみる。
 やっぱりと言うか、レべルが違うねえ。冒頭から流れる音楽も故・芥川也寸志入魂の一曲だものなあ(よく『砂の器』を挙げる人がいるが、あれは芥川さんは「音楽監督」をしてるだけであってテーマソングを作曲してはいない)。
 テレビドラマ版の方の失敗は、子捨ての主導権を父親の方に持たせちゃったことの方にあるんだなあ、と気がついた。やっぱり妻の岩下志麻に責められ詫びて子を捨てる緒形拳の情けなさがいいのだ。
 『大和物語』に、姨捨山伝説を扱ったもので、古典には珍しく、貧困からではなく、妻の姑への憎しみから夫が育ての親を捨てさせられる話がある。この妻というのがとことん性悪で、あることないこと夫に吹きこんで、元は優しかった夫を変心させてしまうのである。妻が夫を手玉に取るルーツ、こんな昔からある(^_^;)。夫は月を見て、母親を山に捨ててきたことを悔やむのだが、この『鬼畜』で緒形拳が、「東京タワー」を見てそこに娘を捨ててきたことを思い出すシーンに似てないか。もしかしたら『大和物語』を参考にしてる面があるのかもな。
 そして、今回見返して気が付いたのだが、岩下志麻を憎んで睨む子供の眼つきと、同じく妻に責められて恨みがましく睨み返す緒形拳の眼つきと、この二つの表情が、構図も間も全くそっくりに撮られている。つまり、再三繰り返される岩下志麻の「あんたの子だって? 似てないよ」というセリフを、演出が否定しているのである。まさしくこの物語が「実の子殺し」であることを強調しているシーンであった。いや、凄い。
 ネットを散策してみたら、やっぱりこの物語の結末を「子供は自分が殺されかけたのに、親を庇った」と見ているアタマの悪い客が多いことを知って唖然とした。ちゃんと子供、笑いかけてきた緒形拳に対して「父ちゃんなんかじゃない」と拒絶して言ってるのになあ。「なんか」というのは親を庇うときに使う言葉じゃないじゃん。あれはもう、子供にしてみれば親を親として認めることすらできない感情の高ぶりの表れなんであって、庇うとか庇わないとか、そういうレベルの話ではないのだ。だから緒形拳も「許してくれ」と泣きながら子にすがることになるのだよ。日本語理解できないのか?
 こんなアホな読み方されちゃうと、脚本の井出雅人も草葉の陰で泣いてんじゃないかと思うが、案外、著名人でもアホな読みしてる人多いんだよなあ。橋本治を私は随分買ってたんだけども、この程度の読みもできずに「子殺しの親を庇う映画を作るとはどういうことか」なんてトンチンカンな文句をつけてたんで、すっかり興醒めしたことがあった。あの〜、もしこの映画が「親と子の絆を謳った」映画だったら、タイトルに『鬼畜』ってつけてるのなぜ? 橋本さん、古典やりすぎて現代語忘れたの?
 なんだかなあ、松竹映画=人情映画って思いこみの図式ができあがっちゃってるせいなのかなあ。『寅さん』だって、「決して家庭には受け入れられない」はみだし者の物語なんだけど、みんなアレを「人情映画」だと思ってるしねえ。映画には「愛」と「人情」しかないのか。
 もう「人情」で映画を見る先入観ができてる客には、基本的な日本語理解能力もなくなってるのだ。手塚治虫や宮崎駿の映画を「実際に見たにもかかわらず」、「ヒューマニズムの映画だ」なんて言ってる連中が多いのにも呆れるが、要するにみんな映画を「観」てなんていないってことなんだよなあ。……何しに映画館に行ってるんだよ。暇つぶしか? いや、別に映画に「教養」を求めろって言ってんじゃないよ、そんなレベルの話じゃない。「勝手な思い込みでモノ言ってんじゃなくて、人の話聞けよ」ってことなんだよ。
 映画の魅力を人に伝えることも一筋縄で行くことじゃないが、要するに相手に「聞く態度」があれば多少の言葉の齟齬はなんとかなるものなんである。それができないのはやっぱり言葉を受ける側の能力の低下に原因の多くはあるんで、少しはその事実を自覚してほしいもんだ。
 なんかさあ、最近身の回りでもその手のトラブルが多すぎてねえ、やんなっちゃってるんだよ(-_-;)。


 『刑事コロンボ』のファンサイトを探していて、『安葉巻の煙』というサイトを見付ける。タイトルは團伊玖磨のエッセイ(『パイプのけむり』)のモジリかもしれないが、管理人の方、あまり意識せずに付けたのかも。
 これがまた、微に入り細に入り、以前に出版されていた海外の研究本『刑事コロンボの秘密』よりもデータ的には充実している。ブロードウェイまでピーター・フォーク主演の舞台を見に行ったりしてるくらいだから、相当のマニアだ。こんな人もいるのだから、やっぱり「ネットは広大」だね(^^)。
 で、各エピソードについて、そのウラ話なんかを見てたんだが、名作『別れのワイン』について、以下の記述が。

 「原題は英語の慣用句 any port in a storm をもじっている。この句の意味は『嵐の中の港』(嵐になったらどんな港でも救いになる)で、辞書では『窮余の策』『せめてもの頼り』と訳されている。コロンボは事件解決に年代物のポルトワインを使う。このポルト(old port)こそ、コロンボが犯人を追いつめるための『窮余の策』なのだ。

 うひゃあ、あのタイトル、そんなシャレになってたのか。全っ然気付かないで、昔の日記に「原題は芸のないタイトル」とか書いてた気がするぞ。ニュアンスとしては「溺れるものはワインをも掴む」って感じか。こういうシャレを日本語に移し変えることはまず不可能だから、『別れのワイン』というタイトルはやはり秀逸だと思うが、英語タイトルもさすがは『コロンボ』、なかなかに凝っていたのである。
 念のためと思って辞書引いてみたら、「PORT」のところに慣用句としてしっかり太字で載ってやがった。高校生レベルで知ってて当然の慣用句なわけだな。くそ、私の英語力が高校生以下だってことがバレちまったではないか。
 あっ、もしかしてこの日記読んでる読者、みんなこのことに気づいてて黙ってたんじゃないか。「ふふふ。こいつこんな簡単な英語も知らないんでやんの」とか言ってバカにしてたんじゃないのか。そうだろ、そうなんだな。
 くくくくくそう、どうせオレなんて無知だよ馬鹿だよマヌケだよ、社会の底辺に這いつくばって生きてるゴクツブシだよ、英語ができんとがなんで悪いとや、地球の人口の何割が英語圏の人間だと思ってやがんだ、英語ができなきゃ人間じゃないってか、人数だけなら中国人のほうが圧倒的に多いじゃないか、そそそそのうち日本人が世界を征服して博多が世界首都になったら世界共通語を全て博多弁にしてやるんだからな、あいさつは「なんばしょっとや」だ、「プリーズ」は「よござっしょうか」だ、ブッシュもプーチンも金正日もみんなそろって「ふてえがってえ!」って叫ぶんだぞ、今から練習しとけよ、三年後にはそうなってんだからな、見てろ見ていろ、ホントにそうなるんだからなあ! ……はあはあ。

2001年10月18日(木) 風邪、続く。気の利いたタイトルなんて思い浮かばねーや/『トライガン・マキシマム』6巻(内藤泰弘)ほか
2000年10月18日(水) オニギリとわらび座とフリカケと/『彼氏彼女の事情』10巻(津田雅美)



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