無責任賛歌
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2002年10月14日(月) |
若本規夫賛江/映画『サイン』/『エドワード・ゴーリーの世界』(濱中利信編・柴田元幸・江國香織) |
三連休最後の日。 せっかくの三連休、ただ無為に過ごすのもなんだよなあ、と思ったので、ちょこちょこと部屋を片付ける。 とりあえず新聞を片付けて、本を積み上げてケモノ道を作る。 休みの間、何もしてなかったとしげに言われたかないしな。仕事がなくてしげに甲斐性があれば本気で主夫してーよ。
昼間、ヨナさんとこのチャットを覗いてたら、ちょうどユースケさんに出会う。チャットの経験もそれなりに重ねてきたつもりではあったが、やはり顔を知ってる方と違って、語りかけ方に気を遣う。話題が合わないんじゃないかとか、オタクだとバレると嫌われるんじゃないかとか(^_^;)。 差し触りのないところで、カラオケ話でお茶を濁したが、やはりチャットに参加しようと思うなら、趣味は幅広く持っておかねばならんよなあ、と思うのである。入りはしたが、語ることが何もないではなぜそこにいるかが解らない。人の顔色を見て空気を読みつつ、ということもできないので、ともかく話題だけが頼りってとこがある。 最低限の一般常識も持った上で、さらに自分の個性を訴えることのいかに難しいことか。いつもいつも思うことだが、みなさんと語っていると、自分自身の無個性ぶりがコンプレックスになって胸がズキズキしてくるのだ。 ユースケさんが落ちたあと、ヨナさんとちょっと会話。「女の子はどうしてお互いにチチを揉みたがるのか」とセクハラで不遜な話題。男は絶対、○○でない限り、○○○○揉みあったりしないもんな。 ふざけてるようだが、これは突き詰めて考えていけば結構マトモなSEX論になりそうだ、と思ったのだが、そろそろしげが合宿から帰ってくるので、中途で退出。ちょっと思ったが、実は女性とはもともとユニ・セックスなのではなかろうか。「男」という性自体が実は存在自体、アブノーマルなのである。いや、根拠はあまり考えてないので、そのうち資料なんかも調べて考えてみようかな。
昼過ぎになって、しげ、合宿から帰ってくる。どんな様子だったか聞いてみたかったが、よっぽどぶっくたびれてたらしく、「眠い」と言ってそのままフトンに倒れこむ。 「合宿の間、眠ってなかったのかよ」 旅行に行くときはいつもそうだが、緊張して寝付けなかったらしい。 「よしひと姉様はすごいよ、どこでも寝れるから。夜もすぐ寝たし、車の中でも寝てたし」 人生の半分を寝て暮らしてるしげには言われたくないセリフだな。 帰ってきたら一緒に映画に行くとか言ってたけど、こりゃ今日もダメかな、と思ってたら、7時を過ぎたころに、トイレに起きてきた。ちゃんと起きるためには寝る前に水分をたくさん取っておく、というのも一つの手であろう。これだと私の場合、睡眠が2時間でもなんとか起きられる。ただ、これが続けられるのは私のトシでは二日が限度だ。 掲示板にレスなど付けたあと、キャナルシティに向かう。
ラーメン食いたいとしげが言うので、久しぶりにキャナルシティのラーメンスタジアムに行く。 若本規夫のナレーション、相変わらず「ラーアアアアアメン者たちよ!」と全開バリバリである。マジでスカールが演じてるように聞こえるぞ。これ、CD出してくれんかなあ。この日記見てる人でキャナルシティの関係者いないか。こそっとテープ廻してくれ(^^)。 「ちよ父」もいいけど、若本さんの代表作はこのナレーションであると断言しよう(^o^)。 しげは餃子のある店にしか入りたがらないので、「むつみ屋」か東京ラーメン「香月」かで迷うが、ジャンケンで香月に決める。と言っても、勝った方の好きな店に入ろう、と決めといたのに、勝ったしげがどっちか決められなかったので手近なところに入ったただけなのだが。ジャンケンした意味ねーな。 二人で豚の角煮醤油ラーメン。別に相談して一緒にしたわけでなく、気が合っただけなのだが、案外しげはこういうのを喜ばない。同じメニューだとこちらの具をピンハネできないからである。とことん実利的なやっちゃ。 醤油ラーメンのわりにえらく油が浮いている。スープを飲んでみると見た目ほどしつこくはないが、もう少しあっさりした味を期待していたので、ちょっと首を傾げる。もしかしたら東京で出してるものと違って、豚骨ベースにしてるのではないか。これがもし、福岡の人間は豚骨、という摺り込みでされたことだとしたらマジでゆゆしき事態である。全国各地のラーメンが食えるというラーメンスタジアムのコンセプトが崩れちゃうではないか。それどころか、福岡の人間はともかく豚骨しか食わない舌バカ、と思われてるんじゃないかと心配になってくる。……もう遅いのかなあ。
福家書店を回ってコミックスの新刊を何冊か買ったあと、AMCで映画『サイン』。 相変わらずしげは、M・ナイト・シャマラン監督の“M”を「ミッド」だと主張する。ミッドナイト・シャマランって、そりゃナニジンだよ。 しげにはほかにもこの手のアホ話がやたらとあって、「ねえ、エドガー・アラン・ポーって、エドガーとアランとポーなの?」って意味不明のものもある。そんなこと言ってたら、パブロ・ピカソは何人いるんだ(本名がすげー長いんである)。多分、しげの脳構造は人間のものと違ってるんだろうな、あれ、エイリアンだから。 シャマラン監督がどうしてMをイニシャルのままにしているのか、理由はよく知らないが、多分インド系の人だから発音が難しいとか、あるいは宗教上の理由があるとかそんなんじゃないかね。 それはそれとして、今回、批評が殆ど書けないのである。ヒッチコックの『サイコ』あたりが嚆矢だと思うが、いわゆる「この結末は誰にも話さないで下さい」ってやつだね。『シックス・センス』でも『アンブレイカブル』でもそうだったけれど、それに触れずに感想を述べることがそもそも不可能な映画なんである。 予告編で仰々しく紹介されてたミステリーサークル、これが果たして大掛かりなイタズラなのか宇宙人のシワザなのか、それとも全く別のものなのか、この謎の答えをヒミツにしてくれと言われちゃ、もう話自体が進められない。もちろんネットを散策すりゃあ、ネタバレ思いっきりしてるとこだってゴマンとあるだろうが、一応ミステリファンのハシクレとしては、まあ、三年は秘密にしておきたい(『影武者』かよ)。 というわけでストーリーも一切言わないで、感想だけ述べれば、限りなくフツー。堅実と言えばこれほど堅実な演出もない。シャマラン監督、今回は『シックス・センス』や『アンブレイカブル』のときのような無意味などんでん返しは全く行わなかった。伏線は全てラストに向かって有機的に築き上げられているから、素直に見ていけば、ラストもまあ、物語としては納得できるのである。もっとも、あの作品やあの作品にインスパイアされたんじゃないかなってのは今回も強く思った。ただ、それは欠点とまでは言えない。 でも、だからって面白いとは限らないんだよねー。映画としての欠点はないが、ツッコミどころは腐るほどある。そのツッコミどころも全て謎に絡んでるからやっぱり書けないのだが。 しょうがないからもう、演技的なことを書くくらいしかないが、メル・ギブソン、最初から最後まで同じ表情。『身代金』の時もそうだったから、この人の演技ってやつがパターン化されてきてるってことじゃないのかね。今回の映画にこの人の重々しすぎる演技が合ってたかどうかってのは賛否が分れるところだろう。 どっちかって言うと、今回はオトナより子役二人の名演が光るな。カルキンくんは目にクマのできたマコーレー(^^)。いやあ、あの暗さがいいねえ。特にあそこんとことかあそこんとことか。アビゲイルちゃんは、角度によってはなんかデクノボーに見えるが、真正面から表情をしっかり撮ると映える。アチラは子役もしっかり演技指導されてるんだろうなあ。アレがアレした時のあの仕草はすげーかわいかったな(^o^)。 何が言いたいんだか、具体的なことを書かないでは全く分らないだろうが、仕方がない。まあ、リピーターが出るのも分るなあ、とは思うのである。かと言って、ホントにありふれた映画なんで、さほどお奨めはしませんが。
濱中利信編・柴田元幸・江國香織ほか『エドワード・ゴーリーの世界』(河出書房新社・1575円)。 ネットで『The Wonderful World of Edward Gorey』というホームページを開設している濱中さんによる、日本初のゴーリー解説本。ゴーリーの作品紹介など、ホームページからの流用も多いが、やはり本として手に取って読めるというのは嬉しい。カラーページで様々なゴーリー・グッズを見られる楽しさ。Tシャツほしいなあ。 ゴーリー作品の魅力をヒトコトで伝えるのは難しい。 その諧謔、皮肉、悪意、狂気と混乱、嗜虐と被虐、暗さ、奇怪さ、ブラックユーモア、いくら言葉を尽くしても、ほんの一端しか語れていないように思う。しかし、その一端を分析し、集めて行くことで成り立っているのがこの本だ。そこにはこれまで見えてこなかったゴーリーの魅力が横溢している。 ともかく、ゴーリーに関する情報なんて、ついこの間までは皆無に等しかったから、ともかくページを捲るたびに新情報が次々に飛びこんできて、ワクワクしてくるのだ。 日本で最初にエドワード・ゴーリーを紹介したのは、かの植草甚一氏で。1976年12月、『ミステリマガジン』誌上に『オードリー・ゴアの遺産』が載ったのが最初だったとか。全っ然知らんかったわ。そうと知ってりゃ、こないだ東京に行ったときにミステリ文学資料館で、『MM』のバックナンバー探してみるんだった。まあ、この手の後悔はしょっちゅうすることではある。 ゴーリーが日本通であった事実も読んでビックリである。『源氏物語』が愛読書で(サイデンステッカー訳だろうか。十数回読み返したというから本格的である)、成瀬巳喜男のファンって、渋すぎるぞ。今時の日本人でもそんなん、そうそういないって。確かに人間の不幸を冷徹に見つめる視点は、成瀬監督と共通するものがある。考えてみたら、一人の女が全く報われることなく一生を終える林芙美子原作の成瀬監督作『浮雲』などは、ゴーリーの『不幸な子供』そのまんまじゃないか。脳天気なハッピーエンドドラマがキライな向きには(私だが)こたえられない魅力なのだ。 アメリカの『Mystery!』という番組(NHKで放送してた『シャーロック・ホームズ』や『ポワロ』、『ブラウン神父』や『ジキルとハイド』などのシリーズを放送していた枠だそうな。初期のホストは何とビンセント・プライス!)ではゴーリー氏はオープニング・アニメーションを担当していたとか。見てみてえー! ともかくゴーリーのミステリファンぶりはものすごいものだったらしく、特にアガサ・クリスティーはお気に入りで全作五回は読み返してたとか。「ミステリーは読み捨てるものではない、読み返すものだ」と言う氏の意見には激しく賛同。でも『X‐ファイル』の大ファンだったってのは少々頂けないが(^^)。 柴田元幸、江國香織両氏との対談で濱中さんが明かしていることだが、ホームページにアクセスしてくる全世界のゴーリーファン、相当濃い人ばかりのようである。アメリカ人で「ゴーリーとガッチャマンのグッズは全部集める」と豪語している人がいるそうだが、どんな人間なんだ(^_^;)。そこまではいかなくとも、少なくとも日本で集められるゴーリー関係のものはこれから集めて行こうと思っている。ああ。またハマっちゃったものが増えて行くなあ……。 てなこと言いながら、新刊の『敬虔な幼子』(ゴーリーにはときどき別名で作品を発表するクセがあって、これもその一つ。でも「エドワード・ゴーリー」のアナグラムになってるので本人だとすぐわかる。本作は「レジーラ・ダウディ」名義で発表された。このあたりもゴーリーがミステリファンである証拠)、まだ買ってないんだよなあ。っつーか近所の本屋じゃ見かけない。やっぱり天神の福家書店まで行かないとダメか。
2001年10月14日(日) 新番紹介、大トリ!/アニメ『サイボーグ009』第1話「誕生」 2000年10月14日(土) 「野草」刈りと漂泊者と生ベルばらと/『あこがれの遠い土地』(トーベ・ヤンソン)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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