無責任賛歌
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| 2007年01月08日(月) |
実体のある祝日ってあまりないけれど/映画『デスノート the Last name』 |
成人の日って廃止した方がいいんじゃないかと内心、本気で思ってるんだけれども、別に成人式ではしゃぎすぎてタイホされる馬鹿が続出してるからじゃないのね。 「成人」ってのは「通過儀礼」なんだから、ただ休日にすりゃそれでいいってもんじゃないのよ、文化的には。 敵の部族の首取ってこい、なんてことは言えないにしても、パンジーさせるくらいのことしなけりゃ意味ないんじゃないのか。 日本の「初冠」だって「裳着」だってさ、しっかり性的な意味があるわけだしさ(笑)。
またまた、例の短大生遺体切断事件の続報について。 妹がなんかAVに出ていたとか何とか、ネットでは騒がれているようだが、大手の新聞には一切記載がない。 ニュースソースをいちいち調べるのも面倒なので、事実かどうか確認はしてないが、妹の写真を見るとまあ、それらしくはある。こういうのにそそられる男ってのもいるんだろうね。
このあたりのニュースを根拠に、相変わらず被害者の妹を悪し様にののしってる連中もいるようだが、兄のイカレた心理に自分も同調してることに気が付いてないのだねえ。 つまり、妹を非難する人間たちは、無意識のうちに「こういう妹を自分も犯して切断したい」という願望を抱いているのである。はっきり「犯罪者予備軍」と言ったっていいのだが、そういう連中がかなりの数いるみたいなんだよねえ。何かすぐ側にもいるみたいなんで、正直、気色悪い。 魑魅魍魎の百鬼夜行だね。
事件の報道当初は、妹は兄とヤッてたのかヤッてなかったのかよくわかんないから、それによって兄の心理の分析は変わるなあと思ってたんだけれども、どうも「先を越された嫉妬」みたいな感じになってきて、ますます卑俗化してきた。 ただの情痴事件じゃん、という当初の私の予想がますます裏付けられているわけだけれども、妙な「意味」を付与したがるエセ識者もやたら出てくるんだろうなあ。 それも鬱陶しいことだけど、そういう時代なんだから仕方がない。
映画『デスノート the Last name』。 以前見てるんだけど、知り合いが「まだ見てない」と言うので、付き合いで見る。
キネ旬とかで、「ノートに書くだけで人を殺せるという安易さがいやだ」とか書いてた評論家がいたけれども、原作はそういう安易な殺人者を糾弾してるマンガだからなあ(笑)。 そんなことよりも、私は原作のライトが人が言うほどには天才的なキャラクターだとは思えないので、後半、かなりサスペンス色が薄められたと残念に思っているのである。
キラを「ただの殺人鬼」と糾弾するのは簡単である。実際にキラは罪のない者だって殺しているから。キラの論理に従えば、「犯罪のない新世界」を作るために真っ先に殺さなければならないのはキラ自身、ということになる。 その矛盾が原作マンガでは結局、解消されなかったからね。ライトが後半、どんどん馬鹿になっていったから。
私としては、ラストのどんでん返しも含めて、Lを好演した松山ケンイチに注目するとかなり好意的にこの映画を見ているのだけれど、ライトの馬鹿さ加減が映画でも解消されなかったことと、リュークやレムのCGがあまりにCGCGしていることとがあって、どうしても「よかったよ」とは言いにくいのである。 ミサミサも戸田恵里香はイメージに近かったかな。女の子を撮らせると、一見うまいようで実はへたくそな金子修介監督にしては、今回はなかなか上出来な演出をしていたと思う。 西村冴子の上原さくらや、片瀬那奈の高田清美も華があってよし。って、ホントに私ゃ女の子中心で映画見てるなあ(苦笑)。
2006年01月08日(日) 「懐かしい」だけでも泣けるけど/映画『銀色の髪のアギト』&『ALWAYS 三丁目の夕日』 2005年01月08日(土) 夢見る頃は過ぎてるか?/映画『悦楽共犯者』ほか 2003年01月08日(水) 肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜(エコー)/『なんてっ探偵アイドル』11巻(北崎拓)ほか 2002年01月08日(火) ココロはいつもすれ違い/『女王の百年密室』(森博嗣・スズキユカ) 2001年01月08日(月) 成人の日スペ……じゃないよ
| 2007年01月07日(日) |
いつでも時代は狂っている/舞台『みんな昔はリーだった 〜EXIT FROM THE DRAGON〜』 |
情痴事件を話題にすると、軒並みキーワード検索してくる人が増えるのはどう感想を述べればいいものやら(苦笑)。 私としては、なんでこんなくだらん事件を話題にしているかと言うと、事件の分析は前提に過ぎず、その程度の基本的分析すらできない、あるいはしようとしないマスコミや「世間」の偽善性を問題にしているのである。 事件の本質を見抜けない、あるいは見ようとしない人間は、いじめを傍観してるのと同じく、婉曲的な犯罪の加担者、協力者なんだよ、ということを告発してるの。 何度も書いてる通り、馬鹿は馬鹿であるだけで罪悪である。ただ、馬鹿は死ななきゃ治らねえから、その罪を引き受ける覚悟だきゃしとかなきゃなんねえだろ、その程度の自覚は持てよ、自分だけが例外でマトモだなんて傲慢な態度を取ってんじゃねえ、みんな馬鹿野郎様なんだよ、と言ってるの。 こんな「分かりきった」ありふれた犯罪自体に、私ゃたいして興味はありません。
だから、そこの妹に劣情を催しててどうしたらいいのか困ってる君、そんなこたあ私の知ったこっちゃないから、妹を犯すなり、その前に首くくって死ぬなり、自由にしてちょうだいね。
福岡市民会館で、舞台『みんな昔はリーだった 〜EXIT FROM THE DRAGON〜』を見る。
作・演出 後藤ひろひと 出演 堀内 健 池田成志 京野ことみ 伊藤正之 後藤ひろひと 竹下宏太郎 瀬川 亮 熊井幸平 松角洋平 板尾創路
ストーリー 少年が一人、公園のベンチに座り、空を仰いでいる。 そこに現れる一人の男。遠慮がちにベンチの隣に座り、少年に話しかける。彼は少年の叔父だった。 甥の中学生の龍彦(熊井幸平)は、彼女に髪型がみっともないという理由で振られ、むしゃくしゃして母親に怒鳴り散らして、家を飛び出してしまったのだ。 フツーの人とはちょっと違っていて、かなりうざったい叔父さん(板尾創路)は、弱気になっている龍彦に絡んできて、根掘り葉掘り母親を怒鳴った理由を聞きだそうとする。 龍彦は思わず、「僕の髪型かっこ悪い?」と言ってしまう。 その問いをきっかけに、叔父さんの長い長い話が始まった。
そんなにも昔でもない昔、天狗は出ないけれども、「龍」が出てくる話を。 男のかっこよさは男が決めていた時代のことを。
1970年代、ブルース・リーの全てをなぞり、彼になりきることで、男の生き方の美学を学ぼうとしていた4人の中学生、よっと(堀内 健)・河田(池田成志)・たっけさん(竹下宏太郎)・桑島(伊藤正之)。 ブルース・リー映画に欠かせないヒロイン、ノラ・ミャオの名前で呼ばれる少女・佐々木(京野ことみ)もいる。 そこへ、海外から一人の少年が転校して来た。ブルース・リーを知らない男、ひろゆき(瀬川 亮)。
「だめゆき」と仇名されることになる彼の存在が、5人を思わぬ事態へと巻き込んでいく……。
前説で、本編中に鬼警部・百目鬼國彦役で登場する松角洋平さんが現れて、携帯電話の電源を切ってください、と挨拶をするのだが、毎回、他の出演者から、「何か芸をしながら挨拶せよ」との「指令」が出されるのだそうな。 もちろん、その指令は封書で渡されるので、松角さん当人には舞台に立つまでその内容は知らされない。 今日は池田成志君の「駄々っ子になれ」との指令。松角さん、「はっきり言っていじめです」と言いながら、「電源切ってくださーい!」と地団太を踏む。 仰々しく「百目鬼」なんて役名が付いているけれども、この刑事、本編中には1シーンしか登場しないセリフのない役である。チラシに名前も載ってないチョイ役の人にこういう前説をさせるのは、脚本演出の後藤さんのイタズラであり優しさだろう。 実際、このあとにアナウンスで観劇の注意は流れるので、前説は特に要らないのである。
観劇の注意もなかなか笑かしてもらえた。この芝居、観劇中は「ジャッキー・チェンのことは思い出さないで下さい」とのことである。思い出していいのは、「ジミー・ウォン、ノラ・ミャオ、ブルース・リャン、倉田保昭、ホイ三兄弟」とからしい。劇場では小さな笑いが起こっていたが、このあたりの名前に反応できる客はあまり多くはなかったようだ(苦笑)。 ノラ・ミャオは本編中にもヒロインの仇名として登場する。言うまでもなく、『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』などのヒロインだが、演じた京野ことみに似ているかと言われれば、藤原紀香よりは似ている、という程度である。ノラ・ミャオをリアルタイムで記憶している世代も今は40半ばだろう。脚本の後藤さんにしたところで、お兄さんがリーファンではなかったら、ノラ・ミャオへの思い入れを描けたかどうか。
けれども芝居が面白かったのは実はこの前説までである(笑)。
作品自体は「みんな昔はリーだった」というよりは「みんな昔はすわしんじだった」とでも言えばいいような怪作である(すわしんじも誰だか知らない人、多いだろうがもう説明はしない)。 ともかく、当時のあの「異常」と言うしかないブルース・リー・ブームを知らない人にとっては、意味不明に見えてしまうのではないか。
「みんな」と題されてはいるが、1973、4年ごろ、ブルース・リーにかぶれた少年たちは、軒並み馬鹿か不良だった。 本編中でも、まともに「武道家」としてのリーを尊敬し、カンフー(実際には截拳道<ジークンドー>)を学ぼうとする少年は一人しかいない。あとは、リーの怪鳥音やポーズを表面だけなぞって、リーを知らない少年を相手に暴力を振るい、いじめを行っていたどうしようもないやつばかりであった。
リーのカッコよさが、それを真似ることで、少年たちに心理的ないじめを正当化させてしまっていたのがあの時代である。 現代、いじめ自殺を教育機関が手をこまねいて放置しているのと同様、あの時代も全国に巻き起こったいじめの嵐に対して、学校は何一つ有効な手立てを取ることができないでいた。
物語はあの時代の「現実」を見事に活写する。 劇中でもそうしていじめられる「だめゆき」という少年が登場する。 周囲のリー・ブームに乗ろうとし、リーを知らないがゆえに乗り切れず、ヒロインの少女と仲がいいために友達からいじめられ続けるだめゆき。 彼は「ブルース・リーって、力が強ければ弱い者いじめをしてもいいって教えてるの!?」。と泣き叫ぶが、あの当時、いじめに逢っていた少年たちはみな、そう思っていたことだろう。私もそうだ(笑)。
もちろん、ブルース・リーの映画は普通のヒーローものであり、いじめ助長の意図などは何もないのだが、月光仮面のマネをして高所から飛び降りて怪我をする子どもが続出した(とされるが本当かどうかは疑わしい)昔から、精神的に未熟な少年たちにとっては、ドラマの背景に流れるテーマとか思想とかいうものは自分に無関係な夾雑物に過ぎないのだ。それが「現実」というものである。
この物語が「甘い」のは、そうしたいじめの冷徹な現実を描いていながら、それでもだめゆきにリーへの憧れを捨てさせなかった点である。 ブルース・リーの時代を知らない世代にとっては、だめゆきがそこまで心情を吐露していながら、なぜリーのあとを継ぐような行動を取ろうとするのか、ピンと来ないのではなかろうか。それを納得させるだけの描写が不十分なのは、脚本がその時代のアイテムやキーワードを並べ立てるだけに終始し、だめゆきの精神的葛藤と時代との関わりを描ききれていないせいである。
ブームというものは、「なぜそれがそのときそこまで流行ってしまったのか」、後の時代の人間には全く理解できないほどに「断絶」を生み出してしまうものである。天地真理がなぜ白雪姫とまで呼ばれ、一世を風靡できたのか、現代人に説明ができる人間がいるだろうか。 ブルース・リーも同じである。通り一遍の説明では、あの大ブームの理由をとても納得はさせられないだろう。そのブームの陰で、さっさとこんなくだらんブームは過ぎ去ってほしいと願っていた少年たちもまた多数いたという事実も。
2006年01月07日(土) まだまだ書き足りないが/舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』 2005年01月07日(金) キネ旬ベストテン発表/『3年B組金八先生 新春スペシャル』ほか 2003年01月07日(火) 顔のない時代、歌のない時代/『全日本ミス・コンビニ選手権』(堂高しげる)ほか 2002年01月07日(月) 食い放題に泣く女/『エンジェル・ハート』2巻(北条司)ほか 2001年01月07日(日) ああ、あと三日休みが欲しい(贅沢)/アニメ『人狼』ほか
| 2007年01月06日(土) |
去勢された人々/映画『パプリカ』 |
切断遺体:頭髪、胸部など切り取る http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070106k0000m040161000c.html
> 東京都渋谷区の歯科医、武藤衛さん(62)方で長女の短大生、亜澄(あずみ)さん(20)の切断遺体が見つかった事件で、亜澄さんの遺体から頭髪と胸部、下腹部が切り取られていたことが分かった。死体損壊容疑で逮捕された次兄の予備校生、勇貴容疑者(21)は胸部などについて「流し台のディスポーザー(生ごみ処理機)で処分した」と供述している。性別などの判別を困難にする工作と取れる半面、激しい恨みを示す行為ともみられ、警視庁捜査1課は理由を追及している。(後略)
連日、この事件についてばかり書いているようだが、毎日のように新事実が発覚しているので仕方がない。前日の日記でも予感していたことが当たった形になっているが、やっぱりこの兄、妹の一部分を切り取ってたねー。 「流し台のディスポーザーで処分した」というのはまず間違いなくウソだろう。妹さんの一部は現在、兄の立派なウンコとなり果てた、そういうことである。
ここまでの状況が判明すれば、これが「なじられてカッとなって衝動的に殺した」事件などではないということは馬鹿でも理解できると思うのだが、新聞が未だに慎重すぎるほど慎重に、「性別をごまかすためか」とか「激しい恨みか」とか、あえて一番思いつきやすい想像を避けているのは失笑ものである。どんなにきれいごとで済まそうとしても、事件の陰惨さは隠しようもないことだと思うのだが。 小学生じゃあるまいし、チチやナニを切り取っただけで性別がごまかせるなんて思うか? ただの恨みでその部分だけ切り取るか? 兄妹でなければ、こんな遠回しな表現はしないと思うが、近親相姦のタブーがこんな形で現れるというのも現代人のモラルのいびつさを象徴しているように思える。 このニュース、毎日新聞以外にはどこにも掲載されていないようだ。ガセという可能性もあるけれど、他社は報道を控えたんじゃないかね。
ニュースは子供も見る。だから控えた。そういう言い訳も成り立ちはするのだが、それが表現の規制の本当の理由ではないということは、この国に長く住んでいる人間ならば当然、気が付くことだろう。 即ち我々は、社会的に去勢されているのである。
去勢された社会の、去勢された人々によって作られる報道は、性に関する事件については、自然、「捏造」にならざるを得ない。 いつものように無意味な「動機探し」は今回も識者とやらを中心に行われることだろうが、それとても肝心な部分は適当に回避され、「心の闇」という便利な表現の中に収束されていくのだろう。
しかし我々は認識すべきである。ゲームや同人誌等でも、兄妹相姦ものは巷に溢れかえっている。別に識域下の問題に還元せずとも、我々は兄妹が血縁である以前に生物学的な男女であることを充分に知っているのだ。これは人間の暗部ではない。人間の本質である。 これを唾棄すべきものとして目を背けることは誤りである。タブーのために表には現れていないが、近親相姦は現実には案外頻繁に起きている出来事なのだ(どうして私がそんなふうに断言できるかということについては追求しないように。答えはしないから)。 あなたがそれを身近に感じていないとしたら、それはただの僥倖なのである。信じないというのなら、それはあなたの勝手である。
あなたは兄だろうか、妹だろうか、あるいは兄妹の親だろうか。そのいずれかであるならば例外はない。みなさんの間に肉体関係が結ばれていないとしたら、それは、単に文化的慣習によってそれが回避されているというだけのことに過ぎない。 父親が娘を犯さないのは、息子が母親を犯さないのは、兄が妹を犯さないのは、それが「家族」なのだという概念の元に抑圧されているからである。即ち、家族は家族であるだけで常に崩壊の方向に向かう要素を内包させているのだ。 その事実を前提としない「家族復活論」がいかに現実性に乏しいか。きれいごとの報道に単純に誘導されない知性を我々は取り戻さねばならないと思う。そうでなければ、我々はいつまで経っても去勢されたまま、未熟な性を持て余し、コントロールできないまま暴発を待つだけの危険な社会の中で生き続けていかねばならなくなるのである。
シネリーブル博多駅で、映画『パプリカ』。
原作 筒井康隆/監督 今 敏/脚本 水上清資、今 敏/キャラクターデザイン 安藤雅司/美術 池 信孝/音楽 平沢 進/制作 マッドハウス/製作 パプリカ製作委員会 (マッドハウス, ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)/配給 ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント
声の出演 林原めぐみ(パプリカ/千葉敦子)、江守 徹(乾精次郎)、堀勝之祐(島寅太郎)、古谷 徹(時田浩作)、大塚明夫(粉川利美)、山寺宏一(小山内守雄)、田中秀幸(あいつ)、こおろぎさとみ(日本人形)、阪口大助(氷室 啓)、岩田光央(津村保志)、愛河里花子(柿本信枝)、太田真一郎(レポーター)、ふくまつ進紗(奇術師)、川瀬晶子(ウェイトレス)、泉久実子(アナウンス)、勝 杏里(研究員)、宮下栄治(所員)、三戸耕三 (ピエロ)、筒井康隆(玖珂)、今 敏(陣内)
ストーリー パプリカ/千葉敦子は、天才科学者時田の発明した、夢を共有する装置DCミニを使用するサイコセラピスト。 ある日、そのDCミニが研究所から盗まれてしまい、それを悪用して他人の夢に強制介入して悪夢を見せるという事件が発生するようになる。 犯人の正体は、目的は。そしてこの終わり無き悪夢から抜け出す方法は……。
『富豪刑事デラックス』『時をかける少女』『日本以外全部沈没』、そして『パプリカ』と、昨年は「筒井康隆イヤー」と言ってもいいくらいの筒井作品の映像化は大盛況で、これなら筒井さんも生活は安泰であったろうとホッとしている。 なんせ筒井さん、何年か前のエッセイに「生活水準を維持するためには俳優を続けるしかない」旨のことを書いてらっしゃいましたからねー。筒井作品が読まれないなんてことは、格差社会よりも北朝鮮危機よりも憂慮すべき事態だと、本気で思ってる次第なんですよ。 若い連中で、「活字なんてつまんない」とか糞馬鹿なこと言ってるやつは吐いて捨てるほどいるのだ。もう、はっきりと「お前ら人間じゃねえ。どーぶつだ」と言ってやった方がいいんじゃないか。それが言えないのは大人が自信なくして現実逃避してるだけだと思うぞ。
それはさておき、『パプリカ』である。 サイコダイブを題材にしたSF作品は数多いが、妄想ツンデレ(笑)少女が精神治療を行うって設定のものはそう多くはないと思う。『GS美神 極楽大作戦!』にも似たようなエピソードがあったが、『パプリカ』とどっちが先だったろうか。 筒井SFのヒロインと言えば、真っ先に思い浮かぶのが『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』の火田七瀬だが、パプリカのキャラクターは間違いなくその延長線上にある。 テレパス七瀬は男性の意識、無意識を覗き、精神破壊を行うが、これは逆説的な「癒し」であった。七瀬シリーズ書かれた時代は、精神治療が一般化していなかったから、七瀬は強制的に男性の心に入り込まざるを得なかったわけだが、パプリカは違う。 パプリカは既に男性から求められている。男性の好む容姿を持ち、ツンデレ属性まで持ち合わせ、ストレートに患者を夢の中でカウンセリングして抑圧を開放し、癒しを与える。男はパプリカの意のままだ。 しかも物語の中で、最終的に癒されるのは典型的なデブオタ・時田である。 これではちょっとオタクに媚びすぎてるんじゃないかという気もしないでもないが、つまりは世の男性はそれくらい、現実の女に幻想を持てなくなってしまっているということなのだろう。 オタク的コミュニケーション不全は、自意識を過剰に拡大させ、妄想を肥大化させる。その結果、理想の女性像は現実と極端に乖離し、もはや自らの妄想の中でしか性的快楽を得られなくなる。工夫がないくらい単純に、幼児退行を起こし、パプリカになでなでしてもらうことを求めることになるのだ。 物語の中で、「夢の女」という泉鏡花の小説のタイトルが漏らされる。パプリカは、まさに理想のアニマとして、オタク男子の夢を叶えるためにそこにいるのである。
そう考えると、この声優のキャスティングは実に興味深い。 究極のオタク・時田は古谷徹だ。アムロ・レイがメカオタだったことを覚えているアニメファンは多かろう。時田の夢の中の仮の姿はブリキのロボットであったが、いっそのことガンダムもどきのモビルスーツにしてしまえばよかったのにと、本気で思った。時田の幼児性を考えれば、その方が自然ではないだろうか。 そしてパプリカは林原“アヤナミ”めぐみである。その符合についてはもう説明するまでもない。彼女は今回、再び「巨大化」してくれたが、巨大女フリークのフェティシストたちは、「あの爽快なシーン」にきっと狂喜したことであろう。江守徹、もって瞑すべし(笑)。
『パプリカ』は徹頭徹尾、男性論理によって成立しているSFである。女性から見れば「男ってこんなに幼稚なのか」と驚かれるかもしれないが、深層意識まで大人である男などは存在しない。男はみんな死ぬまでマザコンである。 女性もまた、男の正体はこんなものだと諦観して、白馬の王子様などいないと理解してもらいたいものだ。
七瀬シリーズで男性の単純な欲望を描いたように、『パプリカ』も男の幼稚な夢を描き出す。 その潔さが小気味よい。男もまた、自分の正体や弱点が暴き出されてしまったことに腹など立てず、幼稚でもデブでもオタでも、天才でさえあれば、たまにはいい女をゲットできると夢想していればよい。 つまり、天才でないあなたは、ナベブタで妥協することである。 ……そういうお話なんですよ、『パプリカ』は(笑)。
2005年01月06日(木) 触んなきゃできない演技指導なんてない/『金魚屋古書店』1巻(吉崎せいむ)ほか 2003年01月06日(月) 食えないモノを食う話/『名探偵コナン 揺れる警視庁1200万人の人質』/『ジャイアントロボ誕生編』(伊達憲星・冨士原昌幸)ほか 2002年01月06日(日) 言えない話と男の優しさと英語落語と/『西岸良平名作集 蜃気郎』1巻(西岸良平)ほか 2001年01月06日(土) ああ、今日は土曜か。今気づいた(^_^;)。/映画『ビッグムービー』
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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