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シャーリー・マクレーンの一連のシリーズを、 なぜか今まで読んだことがなかったのだった。 (そういう本のなんと多いことか!)
精神世界の師匠筋から借りたもので、 7つのチャクラと私たちの関係がわかりやすく書かれていて、 瞑想の入門としても読みやすい。 ただ、他のシリーズ書とは少し趣が変わっているらしい。
各チャクラは独自のカラーを持っているという。 瞑想するときには、それぞれのチャクラに意識を集中しながら たとえば脊椎底部の第一チャクラは回転する赤をイメージすると良いそうだ。
前半は、彼女のたどってきた気付きと神秘体験、 ニューエイジと科学の関係などについて率直に語られる。 最先端科学とスピリチュアルな世界が、 あたかも西洋的思想と東洋的思想の歩み寄りのように やがて統合されようとしている予感が本書にはあふれている。
同じ問題を短期間に何度も突きつけられ、成長を促されるのは、 私たちの体験するスピードが宇宙の拡大スピードに準じて早まっている ためで、宇宙と自分のつながりに気付けば、 宇宙のスピードに同調して楽に流れてゆくことができるという。 確かに以前よりもそういうことは多くなったように感じる。 シンクロの増加も含めて。
後半は、シャーリーが出会った忘れがたい人々が登場する。
フィリピンの心霊治療師、アレックス・オルビート。
画家の巨匠たちと交信して絵を描く、ガスパレット。
光による癒しを運命付けられた、輝けるモウリシオ。
ケンブリッジのスティーブン・ホーキング教授。
ホーキング博士以外は日本ではほとんど知られていないが、
彼らとの出会いによって、シャーリーの本質への旅が
深まったように、読む私たちですら、何かを汲み取っている。
世界がひとつであることを、 いつも私たちは理想論として考えている。 150億年前に、小さな光の粒から始まった「すべて」のことを、 そのはじまりの必然を、 私たちは、もっと強く思わねばならないのかもしれない。 その瞬間を、直感で思い描く力が私たちにはあるのだから。 (マーズ)
『ゴーイング・ウイズィン』 著者:シャーリー・マクレーン / 訳:山川紘矢・亜希子 / 出版社:地湧社(角川文庫に再録)
ついに第5作目を読む。 うなりながら。 ・・・そうだった。 『グリーン・ノウの煙突』でも、 お腹にこたえて感じたことがあった。
ボストン夫人が描いた古き楽園の家グリーン・ノウには かの善良でユーモラスなオールドノウ夫人という光の存在が 中心に据えられている。
しかし、その光を際立たせる悪もまた、ボストン夫人は知っているのだと。 そのどちらをも存分に活写するペンの力を持ちながら、 悪を描写するときには、多少の手加減を加えていると、 私たちに思わせることが、お腹にこたえてくる。
つまり、描こうと思えばもっともっと描けるのだが、 あえて筆を止める良識。 その背後に隠された、どこにでもありうる、日常的で それだけに残酷な悪意を彼女が知っているという事実が、 影のように私たちをおびえさせるのだ。
今回の事件は、グリーン・ノウ屋敷が、まさに悪しき魔女の 猛烈な襲撃を受けるというもの。 オールドノウ夫人、トーリーとピンの少年二人が一丸となって 屋敷を守り抜くのだが、全編今までになく不穏な空気に包まれている。 英国の闇の伝統ともいえる、古い魔法や魔術の世界が すごみをともなって披露され、魔女メラニーの狂気にも見える 言動のおそろしさは、どこか妖怪譚めいて迫る。
そして、庭園に咲くイングリッシュ・ローズを眺めながら オールドノウ夫人が口に出さずこころのなかにしまっておく バラへの賛辞が、嵐の雲のなかで、宵の明星のように輝いている。
「こんなひと、いるよね。」 などと思ったりもしながら、なかなかこわい。 魔女メラニー・デリア・パワーズは、 得体の知れなさと厚かましさという、私たちの誰もが 経験したことのあるわざわいである。 あなたの隣にも、いつなんどきあらわれるかしれない・・・ 最初はまだ普通の息をしている人物として。 (マーズ)
『グリーン・ノウの魔女』 著者:L・M・ボストン / 訳:亀井俊介 / 出版社:評論社
オペラ座の怪人は、華麗でロマンチックな舞台と衣装を取り除けば、 現代で言う「ストーカー」を通り越した「コレクター」的犯罪者です。 いや、これじゃ身も蓋もないけれど。 若い女性を騙して誘拐し、脅迫して操り、逆らうと監禁する、 普通に考えれば許すべからざる悪質な男です。 特別な才能があるからといって、過去に虐待を受けたからといって、 他者に危害を加える事は許されません。 それなのに、人々は何故怪人の物語に心動かされるのでしょう。 彼のそれまでの所業を許し、孤独な魂のために涙するのでしょう。
もし、クリスティーヌがラウルの命と引き換えに自分の自由をあきらめ、 永遠に脅えながら地下に居る事になったら怪人は完全な悪になったのですが。 そうか、被害者の意識がキーですね。 クリスティーヌは最後にはもう脅えていなかった。
楽曲は大好きなのに、今ひとつ結末が納得いかないオペラに
ワーグナーの『タンホイザー』、
細部は面白いのに、今ひとつ結末が納得いかない戯曲に
ゲーテの『ファウスト』があります。
あの堕落したタンホイザーのために
なんで命を捨てる必要がある、エリザベート!
ファウストの魂なんかメフィストフェレスにくれてやれ
マルガレーテ!
心の清らかな娘が救われぬ程汚れた男の為に命を捨てて
神の救済を請う、という北方ヨーロッパの物語は
心清らかでない私にはどうにも理解できないものでした。
でも、やっとわかりました。 この大時代なロマンスに出て来る小娘のおかげで。 クリスティーヌは北国の出身です。 新人の彼女が舞台で喝采を浴びた役は原作では グノーのオペラ『ファウスト』の『マルガレーテ』、 ほら。クリスティーヌはマルガレーテだったのです。
となれば、Das Ewig-Weiblich、永遠に女性なるものの一員。 慈悲の心とか、犠牲の精神とか宣ってもよくわからないけれど。 何の事はない、贖罪の女性マルガレーテも、聖なるエリザベートも、 駆け出しの歌姫クリスティーヌと同じ、 地獄行き決定のダメ男の事が好きだった。
自分が愛されている事を知って、どん底の男達は救われる。 万能で不幸な闇のヒーロー、ファントムの方にばかり ついつい注目してしまいますが、そう考えたら 偉いじゃないですかクリスティーヌ。
You alone can make my song flight.......
捧げられた魂を天使に返し、最後に一人きりになった怪人の歌に 隣の席の観客は涙しています。
it's over now, the music of the night........
(ナルシア)
『オペラ座の怪人』 著者:ガストン・ルルー / 出版社:創元推理文庫
昔、ルルーの『オペラ座の怪人』を読んだ時は まず第一にオペラ座をよく知らないせいもあって、 情景があまりぴんときませんでした。 しかもなんといっても明治43年の作品です。 でも案外細かいトリックなどは覚えているので、 不可解な出来事を描写しておいて、 あとで逐一合理的な説明をつける書き方に気を取られて 全体の構成を見ていなかったのかもしれません。
それに、ヒロインのクリスティーヌ(フランス名)の行動が 今ひとつ理解できなかった事が物語に入り込む妨げになりました。 一体何やってんだこの娘は!と気分はほとんど振り回される恋人ラウル君。
それが、視点をファントムとクリスティーン二人の関係に絞り、 筋をシンプルにして目にも彩なる舞台と音楽を付けたミュージカル 『ファントム・オブ・ジ・オペラ』を見て、 やっとどういう話か理解できました。
そこで原作を読むと、場面の順番などは変更されて 簡略化されていますが、基本的に舞台は原作通りに進行しています。 コミカルな支配人コンビや謹厳なジリイ夫人などのキャラクターもそのまま。
ああ、そういう事だったのね。 不思議な声を「音楽の天使」と無邪気に信じ込むクリスティーヌは、 超常的なものを信じやすい特殊な環境で育てられていました。 怪人の正体を知ってから後の行動は「恐怖」と「憐憫」に支配されています。 しかし、ラウル君や読者から見ると意味不明の行動に見える。 なんだ、ちゃんと原作に細かく理由が書かれていたんじゃないですか。 しかも、笑ったのが中盤のオペラ座の屋根でクリスティーヌがラウルに 怪人の秘密を語った場面の最後。
「もしエリックが美男子だったら、君はぼくを愛していたかい、クリスティーヌ?」
「いやな人ね、なぜ運命を試したりするの? あたしが罪を隠すように良心の底に隠している事を、なぜ尋ねたりするの?」
あのねえ、エリックの顔が良かったら音楽の才のない君に 勝ち目なんかないだろう、聞くなよラウル! しかし、原作ではクリスティーヌもぬけぬけと言ってのけていたんですね。 実に素直な娘です。
怪人と歌姫が共に音楽を奏でる時、地上の全てのものは悉く意味を失う。 文章で読んでも雰囲気が想像しにくかったのですが、ミュージカルを見て納得。
ミュージカルで歌われる曲は全て印象的なオリジナル曲ですが、
原作はもちろん名作オペラの数々が用いられています。
下品だけれど第一級の歌手カルロッタの演じる
『夜の女王』や『エルヴィール』のアリア、
死者の奏でるヴァイオリン『ラザロの復活』、
クリスティーヌと怪人が地底で歌う『オセロ』のデュエット、
そしてクリスティーヌが舞台で体現する『マルガレーテ』。
天上のものにせよ、地獄のものにせよ、音楽は理性を無力にする。(ナルシア)
『オペラ座の怪人』 著者:ガストン・ルルー / 出版社:創元推理文庫
以前、アメリカ南部の大都市に残る由緒正しい石造りの映画館で、 華やかな衣装の人々に囲まれて評判のロングラン・ミュージカル 『The PHANTOM of the OPERA』を見ました。
「ファントム可哀相だね」
見終った同行者は孤独な怪人にしきりに同情しています。
「”ファントム”って”お化け”だよね。
人間だったのに。人間の名前ないの」
ありますよ。
「彼の名はエリックと言います」
「なんで知っているの」
「エンジェル・オブ・ミステリーが原作を持ってたんですよ」
「あー。お父さんね」
「十年以上前に読んだのであまり覚えていませんけど」
「エリック。エリック。舞台では呼ばれなかったね」
「原作はとても長いのでクリスティーンは『エリック』と呼んでます。
それにもう一人ファントムを『エリック』と呼ぶ友人がいたんですが、
この人は舞台では完全にカットされてましたから」
「ファントム、友達がいたの」
「友達というか敵というか」
「何者」
「ペルシア人」
「へ?」
そうだ、ペルシア人がいなかった。
1910年(明治43年)に書かれた古典的怪奇ロマンス 『オペラ座の怪人』は100年近くの間に度々映像化されています。 アンドリュー・ロイド・ウェバーの楽曲で一躍ヒットした ミュージカル版『オペラ座の怪人』では主に 新進のオペラ歌手クリスティーン(英語名)と音楽の天才である怪人との 怪奇で甘美な絆にストーリーを絞って華麗な舞台と音楽が繰り広げられました。
対照的なのが1925年(大正14年)に作られた 無声映画『オペラ座の怪人』。
こちらは米南部の小さな都市の古めかしくて立派な映画館で、 ハロウィンの夜、魑魅魍魎の姿をした観客に囲まれて 豪華なオルガンの生演奏付きで見ました。 古い映画特有のちゃかちゃかした動きと怪人の目玉を剥き出したメイクは 怖いというより滑稽で、会場は怪奇映画を見ているというよりは 懐かしのコメディを見ているようななごやかさでした。
こちらでは連れ去られたクリスティーンを救うために 彼女の恋人ラウルとペルシア人がオペラ座の地下の迷宮に侵入し、 仕掛けられた悪魔の罠の数々に苦しめられる場面がメインの 冒険活劇の趣でした。 うーん、ところどころ憶えもあるけど、こんな話だったかな? 二つともまるで全然違う話みたいじゃないですか。
という訳で、日本の暦でいえば明治43年に書かれた 『オペラ座の怪人』を十数年振りに読み直してみました。 おどろいた事に、ミュージカルも映画も、ラスト以外は ほとんど原作に忠実に作られていました。 ただ、ラブストーリーに重点を置くか、 アクションシーンに重点を置くかの差で、 長い物語の中から選びだされた場面が重なっていないので まるで違う印象になっていたのです。
ミュージカルではカットされていた活劇場面の主役、 謎の「ペルシア人」はエリックの古い友人であり、 その犯罪を止めようとする敵でもあるいわば「探偵」です。 だって、あの頼りない青年貴族ラウル君一人だけじゃ とても姦智に長けた怪人とは対決できないでしょう。 そういえばもう一人、ラウルの歳の離れた兄、シャニイ伯爵が ミュージカルではカットされて、映画では目立っていました。
『オペラ座の怪人』の作者、ガストン・ルルーは 密室トリックの草分け『黄色い部屋』で知られるミステリ作家です。 オペラ座で繰り巻き起こる不気味な怪奇現象の数々は 天才建築家でもある怪人の工夫によるものや、 オペラ座という独特の構造と歴史を持つ舞台による、 ことごとく合理的な説明のつくものでした。 ですからいわゆるホラーではなく、いってみれば 江戸川乱歩の人気シリーズ『怪人二十面相』の 原点のような世界です。
1925年の映画のラストは原作とは異なり、より活劇的になっていて 松明を手にした怒れる群集によってセーヌ河に投げ込まれて 怪人は最期をとげます。 一方、ミュージカルでは地下に司直の手が伸びてきた時、 怪人はひっそりと姿を消します。
「ファントムはどこへいったの?」
「ええと、地下の湖はパリの町にも出入り口があるはずです」
「そっから逃げたのかなあ」
「たぶんね」
原作ではエリックはペルシア人に自分は
間もなく死ぬと言い残して手紙を託します。
でも、トリックの名手ファントムは
やっぱり世紀の変わり目の大都会に消えたと思いたいですね。(ナルシア)
『オペラ座の怪人』 著者:ガストン・ルルー / 出版社:創元推理文庫
故・ナンシー関さんの本は、3・4冊くらいで、 そんなにたくさん読んでいるわけではないけれど、 『週刊朝日』『週刊文春』『広告批評』など、 週刊誌や月刊誌のコラムで、しょっちゅう目にしていた。 もちろん、他にもたくさん連載を抱えていただろうけど。 買うにしても、立ち読みするにしても、美容院や病院の待合いで 読むにしても、必ず目を通していた。 好き嫌い、自分の考えをはっきり述べるナンシーさんのコラムは 小気味よかった。 職場などで、あたりさわりのないよう、どうとでもとれるよう、 曖昧な物言いをすることも多いせいか、痛快だった。
この『耳部長』は、週刊朝日の「小耳にはさもう」の第4弾目の単行本。 65人の芸能関係の人々がナンシーさんの俎上に。 1999年に発行されたものなので、早くも、中味は懐かしめ。 しみじみと、世の移ろいを感じたりもする。 色褪せていることこそが、ナンシーさんが常に「瞬間」を語っていた証でも あるんだろうなと、そんなことを思いながら読んだ。 ナンシーさんが気にしていたそれぞれの芸能人の「行く末」を、 そのご本人が、見詰めること叶わなかったのだと思うと、 感傷的になってしまう。
ナンシーさんが多忙だったことで、最近では、そんなに頻繁に 更新されてはいなかったけれど、ときおり、ナンシーさんのWEBサイトも 覗いていた。多分、最後の記事は、5/1に記された『耳のこり』発売 &「奇跡の詩人」であったと思う。そのコラムを読んだばかりだったので、 ナンシーさんの死は、「唐突」で、ショックを受けた。 同世代であるせいか、その死は早すぎて、ひとごととは思えずに。
ナンシーさんのコラムは辛辣だ。
その時のターゲットの似顔絵の消しゴム版画とともに、芸能人やテレビ番組への批評が1Pに収められていた。辛口も辛口で、イラストにも毒があるし、
コメントも「悪口」と言ってもいいかもしれない。
けれど、私がしみじみ凄いなあと思ったのは、その「悪口」が、 決して感情的な悪口ではなく、整然と、なぜ、ナンシーさんがそう思うのか、 限られたスペースの中できちんと述べられている点。 「何となく嫌だ」とか、「どうしてだか大嫌いだ」という風に、 感情の赴くままに、誰かを非難しているわけではなくて。 (とは言え、ばっさり斬られる方は、たまったもんじゃないだろうけど) テレビや芸能人を見ていて、誰もが時に感じる、自分自身でも説明できない もやもやをしたものを、どうでもいいようなことなんだけど、 ナンシーさんは、理路整然と代弁してくれていた。
ああ、そうなんだと、ナンシーさんに説明されて初めて、自分の 感じていた嫌悪感だったり、釈然としない気持だったり、 違和感やら滑稽さだったりを、曖昧模糊とした感情ではなく、 研ぎ澄まされた言葉で理解し、「そうだったのか」と、 やっと腑に落ちたりしていた。
でも、もう、新しいもやもやを解きほぐしてはもらえない。 井戸端会議のように、ちょっと意地悪な悪口をこっそり楽しむことも できない。お行儀は悪いかもしれないけれど、ささやかなストレス発散。 別に、どうでもいいことなんだけど。テレビのことも芸能人のことも。 とはいっても…。
文章が「過去形」になってしまうことは、悲しい。 辛口のコメントをした後の、「フッ」と自分を自嘲するような 乾きも好きだった。(シィアル)
付記:
週刊朝日に、ナンシーさんが、週刊文春にも連載を持つことになった時の
エピソードが紹介されていた。私自身、競合する週刊誌両方に、ナンシーさんのコラムが載っているのは不思議だった。ライバル誌に新しいコラムを担当することになったが、ナンシーさんは、週刊朝日側に義理を立て、消しゴム版画の大きさを若干違えた(もちろん朝日側が大きい。)という話。
全然気付かなかった。知ってましたか?
『耳部長』 著者:ナンシー関 / 出版社:朝日新聞社(文庫版もあり)
※1999年に発行されたものなので、話題がちょっと古めです。
2002年の本は、『秘宝耳』(朝日文庫・2002/08出版)/
『耳のこり』(朝日新聞社・2002/05出版)/
『何が何だか』(角川文庫・2002/04出版) /
『堤防決壊』(文春文庫・2002/03出版)
2001年07月23日(月) ☆ヤンソンさんが教えてくれたもの。
ある夏の日、おばあさんが女の子に切り抜いてあげた 5人の女の子が連なった紙人形が、 町のあちこちを旅しながら、 なりたい自分になってゆく。 そのときどきに誰かの力を借りて、そして 誰かに力をあげながら。
マーヒーの作品を読むのは初めてだが、最初のページから すっかり引き込まれてしまった。 「おもちゃ文学」と名づけたジャンルに入るのでは、 と思って手に取った本。 とはいえ、うすっぺらい切り紙細工の人形が主人公では、 どんな風な物語になるの?と少しの不安もあった。
原題は『The Five Sisters』、 それにしても薄ぺらぺらの彼女たちは、確かに、 立派に五人姉妹なのである。 紙切れの人形を主人公にして、ここまでの世界を創りあげる 作家の哲学的思索に、琴線は鳴りっぱなし。
そしてまた、紙人形たちとまわりの世界を描いた イラストレーションの、狙いの確かさ。 人の手で人形が描かれていく様子は、リアルな指先と 単純でコミカルな線の人形の対比が秀逸である。
彼女たちと旅をしてしまったら、もう、軽々しく 人情は紙より薄いなどと言えなくなってしまう。 気ままにクズかごへゴミを放り投げることすら、ためらわれる。
「変わってくのよ、変わってくんだ!」 用なしのものたちは大きな紙ぶくろの中で、そっとうたいました。 (引用)
薫り高い言葉と示唆に満ちた児童文学であると同時に、 生きること、ここに誰かと生命を持つということ、 私たちがあらわれて去ってゆく不思議を読み解く哲学書としても、 本書が広く読まれることを願う。
…ほら、芝刈り機のおそろしい歌が聞こえてくる前に。 (マーズ)
『紙人形のぼうけん』 著者:マーガレット・マーヒー / 絵:パトリシア・マッカーシー / 訳:清水真砂子 / 出版社:岩波書店
さあ、お待ちかね『スターウォーズ・エピソード2』の公開が始まりました。 しかし呆れた事に、すでに新作の海賊版が不法に流通しているそうですね。 映画公開に合わせたように先日のNHK特集は昏迷の知的財産権問題でした。
番組は著作権を侵害されて被害を被っているジョージ・ルーカスに インタヴューしていましたが、この人選は面白い。 海賊版に対してではなくて、知的財産の保護についてだと思われますが、 「先人の偉大な作品がなければ自分の作品は生まれていないから」 文化としての共有はある面やむなしといったコメント。
実際、特撮ファンタジー映画の金字塔『スター・ウォーズ』 エピソード4、5、6を見ると、若かりし日のルーカスが トールキンの『指輪物語』や黒澤明監督の映画の数々にどれほど心踊らせ、 自らの作品にどれほど心を込めてそのアイディアを盛り込んだかがわかります。
なお、番組ではクロサワ映画の原作に『マクベス』や『リア王』等の シェイクスピア作品がある事などにも触れていました。 番組内で特に言及はされませんでしたが、スター・ウォーズが 指輪物語やクロサワ映画を源流として生まれたのと同じ様に、 クロサワ映画のいくつかはシェイクスピア作品が、 指輪物語は北欧神話やギリシャ叙事詩等の 人類の遺産とも言うべき文学作品がそれぞれ物語の素となっています。
更にシェイクスピアの戯曲もオリジナルではなくて 有名な『ロミオとジュリエット』にしても『ハムレット』にしても 当時有名だった事件や物語がモデルとなっているのです。 人間が生み出すものには完全なるオリジナルなどはありえない。 芸術にしても技術にしても、それは先人の残した財産の上に成り立つものであり、 新たに生み出された作品は皆に享受して貰い、 次の創作物の元になる事が当然の流れだと、長い間思われてきました。 ルーカス氏のコメントはその「文化」の継承者の発言と言えます。
しかしいまや、その「文化」の伝承が 当然と言える時代ではなくなりました。 とはいえ、作者の権利を守る「知的財産権」は いつまでどこまで「保護」されるべきなのか。 「ミッキーマウス保護法」と揶揄されるアメリカ国内の著作権法 (毎年莫大な利益を生み出しているミッキーマウスの著作権は 国家的財産と言えるので、ミッキーマウスの著作権切れが近付く度に 期限の延長が行われる)、周辺がイラついているといった構図が 番組では紹介されていました。
多大な時間と労力と資金を注ぎ込んだ創作物、 新しい技術や新作映画などはもちろん「商品」ですが、 それらが世に出てある程度の時間が経過した場合、 著作権を楯にとって個人の利益を防衛するか、 人類の共有財産である「文化」として拡散を認めるか、 「商品」と「文化」の境界線が明確に存在しない限り、 これは永遠に決着のつかない問題なのでした。(ナルシア)
デパートの地下というのは、ちょっとした迷宮である。 方向音痴の私は、デパートのフロアーマップを持っていても、 何度、足を運んでも、なかなか、思う場所に行き着けない。 さらには、待つこと、並ぶことが苦手なせっかちときているので、 これまたなかなか、話題の「あれこれ」を口にすることは難しい。 それでも、デパ地下というのは、さほど食べることに「貪欲」ではない 私までを強力に引き寄せる、求心力を持っている。 本書は、そんなデパ地下の秘密に迫る本である。
季節の移り変わりは、今や、デパ地下からではないだろうか。 シーズンごとに、話題のデザートがテレビや雑誌に取り上げられ、 まるで風物詩のようである。 「これからは、○○がはやりますよ。」 「1日限定△個の、××は絶対並んでも食べたいですね。」 次から次へ、食べるのがもったいないようなケーキやプリン、 さまざまなデザートが紹介されている。
・・・流行る。
・・・流行りそう。
デザートの移り変わり、流行は早い。
流行というのは、私たちに受け入れられていって、流行になるのではなく、
「流行る」ものがあって、私たちがそれを後から受け入れていく、
そんな風だ。
そう、流行は、作られている。
じゃあ、誰が作っているの?
さて、デパ地下デザートの流行の発信源は、「プランタン銀座」の地下、 「プラ地下」だという。 そのプラ地下のカリスマ的「バイヤー」が加園幸男さん。 加園さんこそが、「デザートの流行発信基地」ということで、 デパ地下デザートの戦略、流行を生み出すためのさまざまの仕掛けが語られている。
第1章 デザートブームはデパートから
第2章 「プラ地下」と「カリスマバイヤー」
第3章 仕掛人の発想
第4章 流行のデザートはこうして作られる
第5章 プランタン銀座の発想
第6章 仕掛人・発想の原点
第7章 デパ地下の未来、デザートの未来
流行したデザートのエピソードも楽しく、つらつらと、あっという間に 読み終わってしまう。 デザートが好きな人には、さらにおやつを楽しむための薀蓄となるし、 そうでない人にとっても、新しいものを生み出すためのアプローチ・発想法は、 興味深い。
※付記 「新書ブームに物申す(笑)」
さて。
まだまだ続いている、新書ブームについてである。
この本や「映画は予告篇が面白い」を読んでいてしみじみ感じたことであるが、今や新書というのは飽和状態ではないだろうか。
それぞれの出版社でのパイの奪い合いで、じっくりと本を作り上げている暇がないのでは。
しみじみ、そう、思わされる。
これら二冊は、新しく刊行された光文社の新書である。 刊行されたばかりの新書の新刊だからか、力の入ったラインナップだと思う。 どれもこれも背表紙を見る限り、面白そうだ。 実際、なかなか興味深い。 『映画は予告篇が面白い』『デパ地下デザート』どれも「素材」がいいから、 興味深いし、面白く読める。でも、「本」としては、作りが荒い、 雑な印象を受ける。 その道のプロの方に、ちょと専門について書いてもらいました。 あるいは、プロの方へのインタビューをまとめてみました。 そんなふうに思えてしまう。
『映画は予告篇が面白い』は、確かに作家やライターが書いたものではないから、「本」「読み物」としての完成度を求めるのは酷かもしれない。 『デパ地下仕掛人』は、読んでいると、「まったく同じ文章」が 何ページか後に繰り返されていたりして、パソコンで書いていて 「コピペ(copy & paste)」でもしたのかと、ちょっと興ざめをしたのだが、 目くじらを立てるほどのことではないかもしれない。 どんどんと新しい本を世に送り出すために、 注目される面白い「素材」「ネタ」を見つけることに 追われているのかもしれない。
けれど、「素材」さえ、よければいい、そういうものではないだろう。
読み手は、本としての「質」だって求めているのだ。
雑誌の特集記事やロングインタビューの「拡大版」的な新書本じゃあつまらない。『デパ地下仕掛人』も『映画は予告篇が面白い』ともに面白い本だっただけに、もっと丁寧に作ってくれていたらよかったのにと、もったいなく思った。
(※少なくとも、光文社新書については。)
いろいろ述べたが、『映画は予告篇が面白い』『デパ地下デザート』も お勧めの本であることには変わりない。 ただ、厳しいことを言えば、内容はいいが、本としては、 ちょと雑な印象(やっつけ仕事のような)を受けたのも、事実である。 ほんとうに、もったいない。(シィアル)
『デパ地下仕掛人』 / 著者:加園幸男・釼持佳苗 / 出版社:光文社新書
私はマリリン・モンローのファンで、 熱心に彼女について書かれた本を読んだ時期がある。 セクシーなブロンド美女ゆえ、頭も軽ーい、ただのセックスシンボルとして 見られ、扱われる現実と、内面のナイーブな豊かさのギャップ。 そのギャップに苦しみ続けたことも、 彼女の人生の破綻の原因の大きな部分を占めるだろう。
ライトでコミカルなサクセスストリー。 いかにも“南カリフォルニア”の健康的な天然ブロンドの娘・エル。 彼女は、ブロンド過ぎるというだけで、軽く見られ、 大学時代の恋人に捨てられてしまう。 バービー人形のようなパーフェクトな外見のエルにだって、 豊かな才能も知性もあり、このままでは終わらせたくないという意地もある。 決して、オツムがからっぽなわけじゃない。 なのに、ブロンドだというだけで、中味がないと決めつけられる偏見。
モンローの場合は、それがどんどんとシリアスになり、 コンプレックスとなって、ナイーブすぎた心をやがて蝕んでいくのだが。 この本の主人公・エルはそんなことにはひるまない。
自分を捨てた恋人ワーナーを追いかけ、 必死で勉強をして、ワーナーと同じ、スタンフォードのロースクールに 見事入学することになる。
「バービー人形」と揶揄されるエルにとって、 スタンフォードでは、カルチャーショックと、 意地の悪いエリート達の敵意が待っている日々。 そのスタンフォードでのエルの奮闘記であり、 決して屈せず、自分らしさを失わず、 「PINK THINK(エル流ポジティブシンキング)」を忘れない。 ワーナーを取り戻すために、ロースクールで弁護士を目指すことになるのだが、そこでエルが見つけ取り戻すのは、いうまでもなく、自分自身である。
明るくポジティブなこの本は、読んでいて元気が出てくる一冊。 同名の映画『キューティ・ブロンド』の原作である。 表紙を見ると、映画のスチール写真を使っているので、 ただの映画のノベライズ版で、すかすかしてそうな印象だが、 意外とちゃんとした裏付けのある、オリジナルの原作である。 著者自身の、スタンフォードのロースクールにいた頃の経験に基づいたもので、授業シーンなども割と丁寧に書き込まれている。(飛ばして読んじゃったけど。)
惜しむらくは、題材もいいし、明るくめげないサクセスストリーなのに、 著者のデビュー作で、ストーリー展開がこなれていない。 ときどき、シーンが変わる場面で、急に流れや状況が分かりにくくなくなることもちょっとあって、ストーリーテリングは、女王リンダ・ハワードには遠く及ばない。 (※女王リンダのロマンス小説と違って、まっとうで健康的で、ロマンス小説というよりは、失恋から自己実現をしていくサクセスストーリー。) ストーリーの流れの悪さと、ストーリーに「ため」がないのが、 「物語自体」は面白いけれど、「小説」としては、少し面白味に欠ける。 やはり、エルの成長、心の葛藤など、心理描写が甘い点が残念。
そういう意味では、うまくこなれている(という)映画が楽しみなのだが、 見るチャンスもなかったし、オフィシャルサイトで見ると、 ストーリーの本質は変わってないが、人物設定や場所など、 わりと大胆に変わっていたのが、ちょっと残念。
処女作に当たるということで、確かに弱点もあるけれど、 エルの頑張る姿から、前向きな元気が伝わってくるいい本だと思う。
シリアスに悩むことより、自分らしくぶつかっていくこと。 傷も負うけれど、ぶつかって開かない扉もないのだ。 そういうポジティブでハッピーな気分で、最後まで読み終えた。
※本質的な流れは残しながらも、原作とは、ずいぶんキャラクタや設定が変えられた映画は、ラストも本より、もうちょっと先が描かれているとのこと。 低予算映画にもかかわらず、人気を博したこの映画は続編もつくられるらしい。(まだ本編も見ていないが、)続編がすごく楽しみである。(シィアル)
『キューティ・ブロンド』 著者:アマンダ・ブラウン/ 訳:鹿田昌美 / 出版社:ヴィレッジブックス
映画『キューティ・ブロンド』(2002年公開)
原題:Legally Blonde
監督・ロバート・ルケティック
出演:リーズ・ウィザースプーン/ルーク・ウィルソン/セルマ・ブレアー
公式HP[ http://www.foxjapan.com/movies/cutieblonde/ ]
ずいぶん人気になった本ではあるし、 いずれ読もうと思っていた。 旅先の古書店にずらっと並んでいたので、 そのなかで一番きれいな本を選んだ。
いまこの本を読むということは、 私にとっての必然なのだろうか?
本書は、謎と冒険めいたペルーを舞台に選び、 フィクションの形を取った、精神世界の進化論とでも いうべき内容である。 主人公のアメリカ人男性は、紀元前600年に予言されたという ペルーの「写本」の存在を知り、そこに記されたいくつかの真理、 人類が魂レベルで進化するための知恵(原語ではInsightだそうだ)を 手順を追って獲得してゆく、というストーリー。
作者は、この第一作を受け入れてくれる出版社が なかったために、自分でレーベルを作ったのだという。
私にとっての必然、と言ったのは、 日頃から親しんでいることもあって、そしてまたタイミングよく 知りえた情報なども噛み合って、本書の予言の内容が ひとつひとつ、確認しながら楽しめたことである。
なかでも、通常のニューエイジものではあまり取り上げられない 親子の間の「コントロールドラマ」(支配のための闘争)について 多くのページを割いていること。 いわゆるAC傾向からの脱却が誰にとっても必然であると。 これについては、かなり共感した。
そしてもうひとつ、S・キングの『不眠症』で描写されていた 人間のエネルギー(オーラ/エナジーフィールド)争奪合戦や 愛を与え合う行為が、この本の根幹的なアイデアだということも知った。
あえてシンクロニシティーという言葉を使えば (作者は別の言葉を使っているそうなので)、 この主人公が体験する、すべてのものがシンクロして 無限に連鎖してゆくような状況は、私たちの周囲で 時々刻々と増えていっていると思う。
それがボーダーを超えたとき、 地球や人類の魂レベルが高度な段階に上がるのだとか、 そしてそれはいつなのか、といったことが、精神世界では 取りざたされている。
結果どうなるかは見えざる意図に預けるとして、 まるで偶然のように出会ったものごとや人には、 必ず私たちへのメッセージがあり、 もとより何の意味もない出会いはない、というより、 意味がなければ両者が出会う必然もないという考え方は、 より深く人生と関わって自分を知るための 効果的手法だといえるだろう。 (マーズ)
『聖なる予言』 著者:ジェームズ・レッドフィールド / 訳:山川紘矢・山川亜希子 / 出版社:角川文庫ソフィア
14歳の少女シシー。 おとなとこどもの狭間で揺れ動く時期。 2年ぶりに訪れた祖父母の住む湖畔の避暑地は なにかがぎくしゃくしている。 シシーがひそかに憧れていたジャックのお兄さんが、 同じ湖畔のコテージに住む少女を殺し、 刑務所に送られたのだという。 信じられないシシーは、ジャックのためにも、 本当のことを突き止めようとするが。
『ねじれた夏』は、「ユースセレクション」という 10代からの翻訳シリーズの中の一冊です。 その他には、『ザ・ギバー』(ロイス・ローリー)などもあり、 大人が読んでも、読み応えのある“チョイス”だと思います。 『ザ・ギバー』は、“しあわせ”とは、どういうものなのか、 深く考え込んでしまう、ある意味哲学的な味わいもあるSFでした。 そして、この本も、人の心の機微、今まさに脱皮して 蝶になろうとしている少女の揺れが描かれた、 とてもいいミステリです。 “ヤングアダルト”向き、といっても、 なかなか一筋縄ではない面白い本が揃っています。
さて、物語の関心は、 ほんとうにジャックのお兄さんが犯人なのか? ほんとうは、いったい誰が「少女」を殺したのか。 ミステリを読む楽しみと、なによりも、少女シシーやその家族、 ジャックや湖畔に住む人々の心の動きやとまどいなど、 丁寧に描かれた心のひだに触れていく楽しみがあります。
個人的には、特に、シシーが自分をかわいがってくれた祖母を 亡くす場面に胸を打たれました。 死期の迫った祖母のお見舞いに行くことを何とか避けようとするシシー。 大好きで、あんなにもかわいがってくれたおばあちゃんなのに。 祖母を避け、そのお葬式にも出たがらないシシーは、 一見、薄情にも見えるけれど、それも、愛情が深かったから。 子供っぽい思いかもしれないけれど、衰えていくおばあちゃんの姿を、 この目に残る、最後の姿にはしたくない。
そういうかたくなな思いはよく分かる。 思い出す時は、共に過ごした最上の時を思い出したい。 殺人事件だけでも、心が塞ぐのに、さらに、祖母の死と、 シシーの14歳の夏は、つらいことが続きます。
湖畔の避暑地といっても、高級リゾート地ではなく、 ごくごくふつうの人たちが、夏を楽しむためにやってくる 静かで小さな別荘地です。 もちろん、みんながみんな、夏に一ヶ月、二ヶ月単位でバカンスを 過ごせるわけではないでしょうが、そういう、夏の過ごし方もあるんだな。 と、うらやましくなりました。 バカンスというのは、日常的でとてもゆたかで大切なものなんだと。
こういう閉ざされた、ごく親しい小さなコミュニティで起きた殺人事件なので、 事件の当事者のみならず、コミュニティのどこかしこに、 傷を残しています。兄の殺人の嫌疑のために、 ジャックもジャックの母もひっそりと、暮らすようになり、 また、近所の人々も、彼らを避けているのです。 無実を信じ、こっそり、真犯人を捜しているうちに、 シシーも、表には出てこない、回りの人々の心の傷やとまどいを知るようになります。 一見、冷たく見えても、必ずしもそうではないことが。
14歳の夏。 シシーは、小さなコミュニティで起きた殺人事件を通して、 大人への階段をのぼっていきます。 大切な人たちを守ることが、残酷ともいえる喪失をともなうことを知らずに。
ひと夏の、少女の成長の物語には、ミステリあり、 淡く微笑ましいロマンスありと、ゆたかな味わいのある1冊です。 (シィアル)
※原書の表紙デザインは、ニューヨーク書籍見本市で二等賞をもらったそうです。この訳書も、原書と同じ写真が使われていて、落ち着いた色合いも素敵です。
『ねじれた夏』 / 著者:ウィロ・デイビス・ロバーツ / 訳:笹野洋子 / 出版社:講談社
2001年07月12日(木) 『だれも欲しがらなかったテディベア』
あの名作ファンタジー漫画、『風翔ける国のシイちゃん』の お姫様、シイアル(猫やのシィアルのご先祖!?)を 思い出すようなサ行の名前の女の子、しのぶが主人公。 そういえば、しのぶだって縮めればシイちゃん。
ここは女王様ならざるしのぶのお母さんが経営する 私設シャングリラ動物園。 入園者は少ないのに、なぜか経営は成り立っている。 裏稼業…というのは禁句。 ライオンやゾウもいれば、 プープー鳴くヒナペンギンのタツもいる。
お母さんは、関西の大物ヤクザの娘で、気性は激しい。 そしてしのぶが一緒に遊ぶ少年、気弱な居候のカイト。 とくれば、どうしてもシイちゃんの世界がよみがえる。 ああでも、しのぶには優しいお兄ちゃんがいる。
もしも運命がちがう方向に転んだら、 私はきっと、動物園の飼育係になって、 そこでの体験を本に書いたりしてたかもしれない。 ほんとうに、動物にまみれて、過ごしていたかも しれない。いや、まだこれからだって どう転ぶのかわかったもんじゃない、 などとあらぬ方向へ空想は走る。
シイちゃんみたいなファンタジックさはないけれど、 出てくる動物達は皆、人語を解する使い魔のようでかわいい。 私のお気に入りは、 ゲスト出演の白い子ヤギ、パールちゃん。
ペンギンのタツは、ちょっと苦手…かな?(笑) (マーズ)
『シャングリラ動物園』 著者:中田友貴 / 出版社:アスカコミックスDX(角川書店)
本屋で一目惚れしました。 『オリガミ雑貨BOOK』 文字通り、オリガミで雑貨を作ります。(笑) この本で作り方が紹介されている雑貨は、 どれもが、洗練されていて、とても素敵です。 そして、ただしゃれているだけでなく、 便利で実用的なのです。 そこが、大きな魅力。使えるオリガミ雑貨なのです。
どれもがほんとうに素敵なのですが、少々不器用でも、 紙を折るくらいなら、丁寧に、ゆっくりと慎重にやりさえすれば、 ちゃんとできそうな気がする。 そこが二つ目の、魅力。
さて、何を作りましょうか? 目次をチェックして、本をぱらぱらめくります。 「紙」を折るだけでできるのですが、 ここで大事なのは、どんな「紙」を選ぶか。 ここが、センスの分かれ目。 オリガミ、千代紙、ラッピング用紙、和紙とか壁紙。 紙にもいろいろあるし、柄だって、無限。 何を作るか。何を選ぶか。 ここが思案のしどころ。 でも、これもまた、物作りの楽しみ。
ぽち袋 / 封筒 / カード / ブックカバー / カ−ドファイル / フロッピーケース / フレーム / ランチボックスカトラリーケース / 飲茶ボックス / ケーキボックス / マフィン型 / 箸袋 / クリスマスツリー / クリスマスオーナメント / お正月飾り / お年玉袋 / 祝儀袋 / ばらのランプ / ラッピング などなど。
私がチャレンジしたいのは、「ばらのランプ」 ペーパーナプキンを使って、ばらの花を作り、 その花心が、豆電球なのです。 クリスマス飾り用の豆電球を使って、野ばらのような ランプを作りたいと思っています。
ただ紙を折るだけで、いろんなものを作ることができる。 たった一枚の紙から生まれる可能性。 ちょっとした工夫で、うすっぺらの紙が立派な箱になったり、 四角四面の味気なかった紙が、やわらかな曲線をやさしく包み込んだり。 まるで、ちょっとした魔法。 「和」の伝統を生かす雑貨から、「洋」のセンスの雑貨まで、 折り紙の既成概念を軽々と越えたオリガミ雑貨。
この本のさらなる魅力は、 日本の豊かさがしみじみと感じられる点。 折り紙の伝統と、オリガミの楽しさが こんなにかわいらしい本に、いっぱい詰まっています。 (シィアル)
※小林一夫氏は、和紙の老舗「ゆしまの小林」4代目で、 おりがみ会館の館長さんだそうです。
『オリガミ雑貨BOOK −楽しい、かわいい、折って使える雑貨たち』 監修:小林一夫 / 出版社:文化出版局
2001年07月09日(月) 『教養としての〈まんが・アニメ〉』
早朝から街に出て、やっとのことで本編を観てきた。
ほとんど女性客ばかりである。 まあ、これって、カップルで観ても、何かとかえって現実的に なってしまうだろうし。田舎では男一人で観る人もまずいないだろうし。
先にノベライズされたストーリーを読んで、後からほぼその通りの 構成で進む映画を観る、これって何かの訓練になるかもしれない。 原作ものなら、ここまでぴったりじゃないし、ほとんど 脚本読んでるのと変わらないほど。
ケイトの「やったーっ!!」とこぶしを突き上げ狂喜するアクションや 失意の涙(これはメグ・ライアンの十八番なのだけど)、 古い街の重厚感やケイトのオフィスの様子、 公園デビュー(あれ以上の派手さは望めまい)、 ロマンチックな屋上デートや 花嫁候補のトリー嬢など、 かなり想像していた雰囲気に近かった。 まあ、ノベライズにも写真が入ってるから、 それによるところも大きいのだけど。
イメージとちがっていたところは、 人種の違いというか、レオポルドってやっぱり胸板厚いなぁとか(笑)、 スチールで観たより老けて見えるとか、 ニューヨークの古い館が現代にも残っていて リニューアルされているのだけど、内装が意外に明るかったとか。 摩天楼の風景は、やはり事件に配慮しているようだった。
ふたりが仲直りする屋上ディナー(企画演出レオ)のシーンでは、 背後に座っていた女性客から思わずため息が聞こえてきた。 やっぱり、ああいう状況って夢なのだ。 屋上は思ったより広々としていて、でもワルツを踊るには スペースも必要だなと思ったり。
ダイエットマーガリン「幸せ牧場」のコマーシャルに登場する レオポルド公爵の姿は、思っていたより渋く、 貴族らしさが増して重々しかった。
ひとつだけ、 ノベライズで個人的にいちばん印象的だっただけに、 本編でセリフがカットされていたのは残念だった。 ケイトが屋上ディナーのために、仕事一辺倒のワードローブから 女性らしいドレスを選び、ふとつぶやく。 「あなたのこと、すっかり忘れていた……」
おおそういえば、私も袈裟(と名づけたワンピース)を 去年の夏からまだ出していない。 (マーズ)
□ノベライズ版
『ニューヨークの恋人』
脚本:ジェームズ・マンゴールド、スティーブン・ロジャース /
編訳:池谷律代 / 出版社:竹書房文庫
□映画
『ニューヨークの恋人』(2002年初夏公開)
原題:KATE & LEOPOLD
監督・脚本:ジェームズ・マンゴールド
出演:メグ・ライアン / ヒュー・ジャックマン
美内すずえは、かつて小学校時代、
私が最初に読んだ漫画家である。
それは、昨日の続きではないけれど、タイムスリップロマンスものの
「真夏の夜の夢」だった。
彼女をはじめ、「別冊マーガレット」という月刊誌育ちの作家は、
ほとんどが短編志向だったが、その後、
和田慎二らと「花とゆめ」に移ってから長編連載を
得意としていったような印象がある。
ついにエンディングを迎えそうにない「ガラスの仮面」は
テレビドラマにもなり、数年前には本誌でまさかの連載が再開され、
マヤと真澄がお互いの恋をきちんと確認するところまでは
こぎつけたのだったが。
この「アマテラス」も、彼女の終わらない話のひとつと
みなされている。
先日、美内さんに会ったという人が、
二つの作品は終わるのか、と訊ねたというのだから、
皆思いは同じらしい。
「アマテラス」には、他に、「倭姫幻想まほろば編」という番外編もある。
なかなかにディープでマニアック。
こちらには別の主人公が出てくるが、これも一巻だけで終わっていて、
話は明らかに途中なので、またどこかで続くのかもしれない。
現在出ている「アマテラス」は、『第一部 戦士クシュリナーダ』
という副題がついているので、主人公の沙耶が、
かつて伝説のムー大陸で過ごした記憶と力、
宿命にめざめるところまでを描いている。
これから始まるであろう神と魔の闘い、
その舞台となる日本。
早く結末を読みたいものだが、どうなるだろうか。
余談だが、ゲームの「アンジェリーク」と同じく、女王を守護する
騎士の長は、金髪ロングヘアのジュリアスである(笑)
「まほろば編」にも端役ではあるが、登場していた。
天照大神を意味する「アマテラス」の醍醐味は、
日本という霊性の国の古代神話からムー大陸、
世界、宇宙へとひろがるストーリーのスケール感。
ひとりだけが持つ特別な役割に気づかされ、
とっさに力を発揮しながら
運命に身を投じる少女。
別マ時代から美内すずえが持っていた才能と
彼女の研究している見えない世界が結びついて
漫画という形を成した面白み。
かつて「はるかなる風と光」で垣間見たような壮大さ、
そして「13月の悲劇」で恐怖した異形のものの悲しみ、
「ガラスの仮面」で魅せられた、才能の開花。
その美内すずえが持てる力を総動員して挑んだ大作、
「アマテラス」。
時代的にもこの作品の完成は、「ガラスの仮面」より
急を要するように思われてならない。
もういっそ、第二部は、精神世界系の雑誌で連載しては
どうかと勝手に思うほどである。
竜宮乙姫まで登場させるのだから、
これから何が飛び出すのだろうと期待している。
(マーズ)
☆Kate&Leopoldが出会う街。
映画を観る前に、ノベライズを読むというのは、
シィアルもこの本の紹介で書いていたように、
ちょっと抵抗があった。
しかも、読まないと細部がわからないような
マニアックな筋書きでもない。
とはいえ。
これがタイムスリップロマンスものであるからには(笑)、
やはり読まねば問屋が卸さない。
時は1876年。
公爵家とは名ばかり、時代の流れで零落した名家の跡取レオポルドは、
イギリスからニューヨークへ花嫁探しにやってくる。
アメリカの成金娘と結婚すれば、
お互いにないものを補いあえるから。
レオポルドはそんな結婚に逆らい続けてきた。
30を過ぎても独身貴族でいたのは、
そういう取引のためではなかったのだ。
そして、現代のキャリアウーマン、
広告会社のマーケティング部に勤める
ケイトもまた、恋愛に恵まれない30代。
そんなふたりが、運命的なタイムスリップを介して
出会い、恋に落ち、障害を排してハッピーエンドになる。
筋としてはそれですべて。
メグ・ライアンのしぐさや笑顔を思い浮かべながら
読めるので、ノベライズのほうではケイトに親近感を
感じてしまった。
主人公が30代なのにもかかわらず、
純粋に愛せる相手を求めて妥協せずにいられるのは、
どんなに夢の物語だとわかっていても、いさぎよく、
励まされる気がする。
映像では(観る予定である)、レオポルドとケイトの掛け合いも
かなり面白そうである。なんせ、格好からしてコスプレなのだから。
彼が女性モニターたちを悩殺してしまう
ダイエットマーガリンのCM、どんなだろう(笑)
そういう男女が出会う街として、
世界中でもっとも市民権があるのは、やっぱりニューヨーク!
ほとんど映画でしか知らないこの街を、
また映画で観るのが楽しみである。
昨年の悲劇以前の街の姿も、
125年前の、街の姿も。
映画を観たら、また報告することになりそうだ。
(マーズ)
☆すごく、すごく「因果」な現代の寓話。
別にイソップ物語のように、教訓がくっついているわけではないけれど、
「約束はきちんと守ろう」とか、「親の因果は子に巡り」
(というよりは、ひいひいじいさんの因果かな?)とか、
そんなことを教訓としてきっちりと心に刻んだ。
アメリカ人にとっては「ほら話」のような位置づけらしいが、
なんかこう、わたしにとっては、「アフォリズム」というか。
教訓話というか、人生への警句が含まれているようないないような…。
でもまあ、それはそれとして。
スタンレー・イエルナッツ(Stanley Yelnats)はとことん
ついていない少年である。
ついていないのは、スタンレー少年だけでなく、
イエルナッツ家全員の男たちにいえる。
それというのも、すべてひいひいじいさんが豚泥棒をしたせいで、
子々孫々まで、その時の呪いがかかっているかららしい。
おかげでスタンレーまで、無実の罪でテキサスにある非行少年収容所、
キャンプ・グリーンレイクに送られてしまうことになる。
スタンレーのここでの仕事は、雨一滴降るらない荒涼とした不毛の地に
毎日毎日、ただひたすらに穴を掘り続けることだった。
本来なら、やりきれないハードな話なのだろうけど、
砂漠が舞台のせいか、非常にドライで淡々としている。
全然、じめついたところ、ウエットなところがない。
かつては、いじめられっこで、収容所でも一番の下っ端のスタンレー。
つらい日々ではあるけれど、やはり彼にもじめじめしたところがなくて、
目の前の悲しみや苦しみにも、スタンレー家特有のユーモア、
「それもこれも、あんぽんたんのへっぽこりんの豚泥棒のひいひいじいさんのせい」
だと、からりとあきらめきることができるのだ。
このいじめられっ子で、冴えないふとっちょのスタンレーが、
キャンプ・グリーンレイクの極限で、心身共に鍛えられ、
友情と勇気に目覚めていく。
非常に奇妙な味わいの物語だ。
ページを開くまで、こんなにも強烈で、
強引に物語の中に引っ張られていくとは思わなかった。
(最後の数ページが気になり、待ちきれず、ガソリンスタンドで給油中に
車内で本を開いたくらいに。そんな本、後にも先にもないと思う。)
過去と現在の物語が巧みに撚(よ)り合わされて、
因果が巧みに交錯し、知りたかった謎の核心へと
怒濤のごとく流れ込んでいく。
なぜ、収容された少年たちが穴を掘らされ続けているのか。
無実の罪のスタンレーの運命はどうなるのか。
名前とは裏腹に、どうしてグリーンレイクは枯れ果てた荒れ地なのか。
冷酷な所長の目的はいったい何なのか。
「K・B」、これはさまざまな謎を解く重要なキーワードなのか。
いやそもそもなぜ、
ひいひいじいさんが呪いをかけられることになったのか。
本当に因果な物語が大胆かつ整然と展開していく。
散らばったパズルが、ちゃんと1枚の絵(ひいひいじいさんから始まる長い長い物語
だから、この場合は絵巻物かも)になるのだ。
私の頭の中で一つに合わさったパズルの絵柄は、
ばかでかくて、大胆な構図で、個性的かつ、結構ワイルドなタッチ。
とにかく、荒唐無稽で、非凡な物語だ。
そして、少年が自分自身に価値を見つけていく成長と冒険の物語。
お待ちかねのカタルシス。
人生にはついていない時もあるけれど、
大事なことは、腐ったり自棄になったりせず、
笑い飛ばすこと。そう、ユーモアこそが、
いつか、道を切り開いていく力の源だ。
これも、イソップ物語よろしく、
私がスタンレーから得た教訓。
いつでも、ユーモアだけは忘れちゃいけない。(シィアル)
子供の時プールで逆立ちして足を突き出して遊んだ人〜。
はい、そこのあなたにあなた。
横溝正史作品のファンですね!
え、読んだ事はなくて、TVで見たのを真似してただけ?
じゃあ名探偵・金田一耕助さんのファンですね!
‥‥という程世の中に金田一ファンが
多いかどうかは分らないけれど、
少なくともミステリの道に進んだ作家の皆さんの多くは
絢爛たる情景と合理的な推理と人なつこい名探偵の
横溝ミステリに大なり小なり影響を受けたのではないでしょうか。
それが証拠に角川書店が「横溝正史生誕百周年記念」と
銘打って出したこのアンソロジー、
参加作家さん達がなかなかのラインナップです。
ハードカバーは高いので滅多に買わない私が、
「九人だから一人200円ちょっとか」と買ったんですから。
我が心の名探偵・金田一耕助にちなんだ短編というお題で、
探偵本人がその「当時」に事件に挑戦する設定の
正統派パスティーシュに挑んだのは
横溝賞受賞の新人・小川勝己さんただ一人、
あとは老境に達した探偵本人の登場するものと、
「キンダイチ」にちなんだユーモラスな探偵さん達に二分されます。
自作のレギュラー登場人物を出演させるいわゆる「夢の競演」ものもあり。
栗本薫さん作品のお馴染み名探偵・伊集院さんなんて、
憧れの先輩に会えてもう感激の涙。
自前名探偵を頭文字だけで噂している北森鴻さんの作品は、
お笑いパロディなんですが、じつはかなり「動機」に感心。
軽妙な赤川次郎さんも軽く流して読めるけど、途中で
「読者への挑戦」を入れてもいいようなクイズになってます。
有栖川有栖作品は火村シリーズのエピソードにしても
違和感はない話ですが、取材先で仕入れたらしきネタが
有栖川さんらしくて心温まりますね。
金田一さんが活躍するような暗い因習に満ちた村が
日本中から消えていく今、柴田よしきさん、菅浩江さんは
唯一「らしさ」を醸し出す舞台としてともに「京都」を選びました。
同じ理由から服部まゆみさんの選んだのは「歌舞伎」、
この作品、トリックよりなにより犯人の造形の恐ろしい事。
しかしなんといっても異色は京極夏彦作品、
自作のレギュラーキャラクターが登場して
本人はそれと知らず横溝ファンに
秘かに受けるような濃い会話をかわし、
思わず笑ってしまうのですが、
金田一ファンで京極作品を知らない読者は
何事かと首をひねるでしょうねえ。
だいたい企画アンソロジーに自作の予告編まで
組み込むような離れ業をする作家は普通いないって。(ナルシア)
☆原題は、「カッコウの姉(THE CUCKOO SISTER)」
「神かくし」にでもあったように、忽然と人が消えてしまう。
ときおり、テレビの情報番組やワイドショーで、
行方不明になった子供や家族の特集がある。
皮肉なことに、ちょうど家族そろっての食事時であったり、
団らんの時間に「消えた家族」を探す番組を見ている。
事実の報道のように見えて、テレビ的に編集された番組は、
真実からはほど遠いのかもしれない。
想像も及ばない苦しみや過酷な現実は、ブラウン管のずっと向こうなのだ。
それでも、消えてしまった家族、とくに小さな子供を待つ
親兄弟の悲しみは、見ているこちらの心まで重くしめつける。
生死も分からないまま忽然と消えてしまった家族、
あるいは連れ去られた子供を待ち続ける日々。
テレビは、編集し切り取った断片を放映し、
情報を求めるけれど、ほとんど、その後どうなったのか
こちらの目にとまることはない。
結局、何も起こらなかったのかもしれないし、
あるいは、何かが分かったにしても、
待ち続けた家族たちのプライバシーを守るためかもしれないし、
ただ、私が気づかなかっただけなのかもしれない。
しかし。
家族たちの苦悩は、行方不明になっていた子供が
帰ってきたからといって、そこで手放しのHappy Endで
終わるわけではないのだろう。
そこからさらに乗り越えていかなければならない
新たな苦しみが始まる。
連れ去られた子供は帰ってきても、失われた時間、
家族として当然共有できた思い出は、奪われたままなのだ。
小さな子供が大人になるまでずっと連れ去られていた場合には、
特に。「テディベアの夜に」を読み終わって、そんなことを
しみじみと考えた。
5歳になったケイトは偶然、自分に行方不明の姉がいることを知る。
赤ん坊の頃、乳母車からさらわれてしまったままの。
その事実を知ってから、ケイトは消えてしまった姉エマを恋しがる一方で、
両親の愛情を疑い、家族から自分が疎まれていると思いこんでしまう。
そして、11歳になったケイトの前に、ロージーという少女が現れる。
ロージーは、ほんとうに消えてしまった姉エマなのだろうか?
それとも、ケイトを巣から追い落とそうとする
「カッコウ」の姉なのだろうか?
※「托卵」といって、カッコウは多種の鳥の巣に産卵し、
その鳥に自分の雛を育てさせる習性がある。
仮親の卵よりも先に孵化した雛は、仮親の本当の卵を巣から外に
追い落としてしまう。
探し続け、ずっと待ち続けた子供が、帰ってくる。
赤ちゃんだったのに、すっかり大きくなって。
夢にまで見た再会が、現実になる。
それは言葉にならないほどうれしいはずなのに、
大きな不安が常につきまとう。
「この子は本当にあの子なの?」
家族は共に生きていく中で、さまざまな絆を育んでいくのだろう。
だから、ケイトにはケイトの、エマにはエマの、
それぞれにお互い別の家族があったのだ。
血がつながっているからといって、
それだけで、急に、家族になれるわけではないのだ。
両親は混乱し、ケイトは、自分が阻害され、
自分の居場所がなくなっていくように感じる。
ロージーは、今までの家族を失い、
エマという本当の名前を前に、いったい自分が誰なのかわからなくなる。
真実はどこにあるのだろうか?
それは、エマが本物かどうかというだけでなく。
ケイトも、自分自身を問うことになるのだ。
「カッコウ」の姉への、自分自身の思いを。
ロージーが何者であるかを見極めようとすることで、
幼かったケイトも、自分自身を見つめ、
やっと自分が分かるようになるのだった。
「テディベアの夜に」は、エマが何者かを通して、
エマだけでなくケイト自身も
自らが何者なのか、ほんとうの自分自身というものに
気づく物語だといえる。
※同じテーマを描いた作品に「青く深く沈んで」
(ジャクリーン・ミチャード/新潮文庫・絶版)がある。
私は映画「ディープエンド・オブ・オーシャン」
(原題;The Deep End of the Ocean)を見たのだが、
やはり、行方不明の子供が帰ってきてからの家族の苦悩と
苦しみの中から再生していく家族の姿が描かれている。
是非、小説の方を読んでみたいと思っている。(シィアル)
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管理者:お天気猫や
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