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私の極度に少ない料理体験のなかでも、 これだけ使って使える(ちゃんとできる)本は 初めてなので、再び登場。
数えてみると、まだ7品しか実践していないけど、 いくつかは複数回作って、 それなりに成功しているから、 レパートリーも増えたことになる。 (いや、そもそも自分の総レパートリー数なんて知らないのだが)
100文字というきりつめたレシピゆえ、 分量と手順をきちっと守ることが大事で、 最初作るときは、あまりアレンジを加えないほうが 良いようにも思う。 あと、鍋を使う料理なら、鍋の形や素材にも 大きく出来が影響されることがわかった。 たとえば、パエリア風の「たこピラフ」は、 最初作ったときには平たいフッ素加工のお鍋だったので 水分がうまく飛んでおいしくできたけれど、 次にやや深めのホーロー鍋で作ったときは 焦げやすくて水加減などが難しかった。
紹興酒とか、オイスターソースとか、バルサミコ酢とか。 豆板醤ですらも私はこれまで使ったことが なかったので、この1年、単純にもずいぶん 世界が開けたように感じる。 この本で使われる外国の調味料は無印良品などでも 少量ずつそろっているので、手軽でもある。 ただし、川津さんも言うように、こだわった調味料を 自分だけのとっておきにするのも手だ。 料理用ワインは、やはり良いものを使いたいな、 などと思えるようになったのも収穫。
なんといっても、この本と付き合っているうちに、 料理することへの心意気とでもいうのか、 気合が入ったといおうか、 台所に立つ姿勢が変わってきたのは、 すごいことだと思う。
もう少しこの本で手ほどきを受けてから、 川津さんの他の本にも手をのばそうと思って、 あえて書店で見かけても先のお楽しみにしている。 (マーズ)
『100文字レシピ』 著者:川津幸子 / 出版社:オレンジページ
なんとなくバランスを取っているつもりでも、 人間どこかに悩みは生じている。 あるいは煩悩にまみれて苦悩している。 そういうものを抱えたこの手で、 「こころの処方箋」を開き、読み始めるのである。
文庫で各4ページずつ、55のテーマについての処方箋。 言葉がわかりやすくて、 あの河合さんでもそうなのか、凡人と自称しているぞ、 などと上手に思わせてくれるので 読むのに時間はかからない。が、 ひとつひとつ、つきつめてゆこうとすると、 まさに良薬は苦しに通じる処方箋なのだった。
今の私にとって感慨深かったのは、 「灯を消す方がよく見えることがある」 というテーマと河合さんのエピソードである。 心理療法家の役割は、
「灯を消して暫らくの闇に耐えてもらう仕事を共にする」(本文より)
ことなのだと河合さんは言っている。 たとえばジェームズ・タレルの、 視覚を手段とした作品のなかに 身を置いたときの感覚がよみがえってくる。 はじめ闇と思われた空間が、じっと耐えているうちに、 色彩と形あるものに見え始める、あの光の世界。
自分はあることについて病的なのではないだろうか、 それとも名前のつくような病気なのだろうか、 そんな不安がよぎるうちは、まだきっと ラインは超えていないのだろうと思うような日常の自己満足が、 やっぱりおかしいのかもしれないけれど、 それでもいいんだなという諦めにも似た安堵の 色に染まってゆく。 他のだれでもない、自分であるのだから。 (マーズ)
『こころの処方箋』 著者:河合隼雄 / 出版社:新潮文庫
現代アメリカを代表する作家の、いわゆる ニューヨーク三部作の一作。 といっても、本書をして初めてオースターを 知ったので、シンプルに本書のことだけを受信してみよう。
この短編はどこか戯曲めいていて、 主人公の私立探偵ブルー、ブルーに見張りを依頼した ホワイトという男、見張る相手のブラックという男、 というようにすべては謎めいて記号的。 ベケットの『ゴドーを待ちながら』にも例えられる、 何かが起こりそうで起こらない、いらだちと怠惰。
見張るブルーと見張られるブラックの 1年以上に及ぶ、単調な生活の記録がこの小説の表面を覆う。 覆われた雲の間に、何かが見える。
その単調さのなかで、オースターが鮮烈に浮かび上がらせた光は、 アメリカを代表する作家、 エマソン、 ソロー、 ホイットマン、 ポー。 本物の魂をうかがわせて地上を去った作家たちへの哀悼。 そして、すべての父親への。 どこまでがアメリカ的で、どこからが普遍なのか、 しかしあえてアメリカ的な要素に絞って、作家は光を当てる。
"人生の醍醐味は、本物を見つけ、味わうこと。" これは私の信条なのだが、 オースターは、さらに本物を見つけ、五感で味わうことだけが 人生の目的だと、白日のもとで言い切っている。 私にはそんな風に見えるのだ。
つまり、たとえばブルー、たとえばブラックのような 誰の記憶にも残らぬ平凡な人生にとって。 みずからの生きた証となるのは、 決して理解することなどできない本物のメッセージに触れる、 触れたような気がして何かをなそうと思ったりもしたけれど、 やがて情熱は薄れ、すべての夢が過去の残滓となっていった後にすら、 そういうことを経験したという事実は消えない、 消えないはずなのであるという、 そんな熱烈なラブレターを読んだ思いがした。 (マーズ)
『幽霊たち』 著者:ポール・オースター / 訳:柴田元幸 / 出版社:新潮文庫
十代の子どもたちは、どんな思いでこの本を読み終わるのだろう。 不思議で、奇妙、ハッピーで、せつなくて、つらくて、すごく苦しい。 大人が読んでも、奇妙で、つらくて、すごく苦しい。 私には、痛快な自由を満喫するハッピーな気分も、 恋するせつなく愛おしい気持ちも、 理解はできるが、そういう思いを抱くことはできなかった。
スターガールは、とっても変わっている。 すごく変わってる。すごく、すごく。 その強烈な個性を痛快とも思えないし、 手放しで素晴らしいと喝采することもできない。 ただただ、不安で胸が痛くなる。
それは。 その個性の、その伸びやかな感性の、 行き着く先を、追い詰められていくその先を知っているから。 彼女は、あまりにも、変わりすぎているから。
彼女は、自分の名前をスターガールと、名乗った。 彼女はある日突然現れる。 開拓時代のようなロングドレス。 いつもウクレレと、ネズミのシナモンが一緒。 クラスメイトのように、化粧もしないし、 誕生日の生徒がいれば、学食でその子のために、 バースディソングを歌う。 最初、彼女は集団から警戒され、やがて、人気者になり、 そして……。
…ああ。 今、突然、映画『アメリ』の主人公、アメリを思い出した。 彼女も変わっている。彼女だって、すごく変わっている。 変な子だ。 でも。彼女は大人で、自分を守る術を知っている。 変なことをするけれど、大胆かつ、こっそり、ひっそりと。 共感をし、一緒に笑うこともできる。 ちょっとばかり、変わっててもいいじゃない。 ずいぶん違っててもいいじゃない。 同じでなくていい。 そう思った。
けれど、スターガールには。 彼女は、自分を守る術を持っていない。 そんな思いすら、彼女は抱いたことがない。 彼女の心はゆたかで、大きく、そして、自由。 何にも縛られない。
大事なのはね、おなじグループに属するもの同士は、おなじような行動をするっていうことなんだ。(P232)
個性的でありたい。自分らしくありたい。 それは誰しもが願うこと。 でも、その一方で、「同じ」でありたい。 「違う」ということは、 それは「異質」、「異分子」、「異端」ということ。 ほんとうにそうだろうか? そう思う人は多い。 みんなと同じように個性的でありたい。 みんなからも認められる自分らしさ。
個性的でありたいと思うけれど、 個性が際だってしまうと、集団の中ではやっていけない。 特に、小さな集団では。 けれど、 うまくやれれば、個性は険しさにならず、 あるいは、もっとうまくやれれば、 仲間に埋没するために、 多くをごまかしたり、うやむやにしたりせずに すむかもしれない。 大人だって、集団の中の自分のポジションに苦しんでいる。 大人だからか。 子どもだって。 子どもだからか。
『スター☆ガール』を読みながら、どんどんと、 苦くなっていく。 子どもたちは、何を感じるのだろう。 本を読みながら感じる痛みを、自分の痛みとすることができるのか。 痛みをかかえる子だけが、相づちを打ち、スターガールと心を共にし、 涙を流すのか。
私は、知りたい。(シィアル)
『スター☆ガール』 著者:ジェリー・スピネッリ / 訳:千葉茂樹 / 出版社:理論社
17歳の少女、ゾーイは、最愛の母の死を目前にしている。 永遠の別れがそこまできているのだ。 いまや、父は母の看病と自分自身の悲しみだけで精一杯で、 ゾーイの悲しみ、苦しみには無頓着だ。 すぐ傍らにいる父とすら、 このまま、心は隔たっていき、いらだっていく。 二度ともう、父と寄り添うことはないのかもしれない。 さらに、親友のロレインも遠い町に引っ越していく。 誰にも、心の内を語ることはできない。 悲しみを分かち合うすべがない。 ゾーイは、あらゆる形の別れを前にして、 悲嘆し、それが怒りに変わろうとしている。
そこかしこに、 暗くやりきれない、死の影が見え隠れしている。
唯一、ゾーイの悲しみに触れることができたのが、 吸血鬼のサイモンだった。 そして、サイモンの心に、その深い悲しみに はじめて触れたのも、ゾーイ。 死を恐れる少女と、 決して死ぬことのできない、少年。 そっと寄り添う、孤独な魂。
吸血鬼の物語としての、 定石もちゃんと踏まえているが、 単に、吸血鬼ストーリーというよりは、 私にとっては、 シリアスな、死についての物語であった。
言葉の一言一言、 シーンの一つ一つから、 「悲しみの質感」を感じる。
夜、外で、どこかの家の暖炉が気持ちよく燃えているにおいがすると、ゾーイはいつもなんとなくさびしくなった。(P60)
『線を踏むと、母さんの背骨が折れる』−子どもの頃信じていた 迷信が、頭にうかんできた。ばかばかしいと思いながらも、 つい継ぎ目を避けて敷石のまん中を歩きはじめた。(P75)
もし信号が変わる前に銀色の車が通れば、 母さんは死んだりしない……。 ところが、そのとたんに信号は変わり、ゾーイは、 ひどい、といいかけて言葉をのんだ。(P75)
ゾーイはびっくりした。「あなた、死ぬのがこわいの?」 サイモンは肩をすくめた。 「どれだけ長く生きていたっておなじだよ。自分がこの世に 存在しなくなると考えれば、やはりぞっとする。 いくら生きることに疲れていても、未知の世界に行くよりましだ。」(P157)
母さんの笑顔が消えた。「存在しなくなるっていうのが、どうしても わからないのよ。内心はこわくてしょうがないの。」(P209)
悲しいけれども、その悲しみ受け入れることで、 やっと、ゾーイも、サイモンも、解放されていく。 10代からの子どもたち(ティーン)向けの物語だが、 それでも、大人であっても、読後、 シリアスな思いがなかなか離れない。(シィアル)
『銀のキス』著者:アネット・カーティス・クラウス / 訳:柳田利枝 / 出版社:徳間書店
佐々木倫子の『Heaven?』第3巻には、おまけがついていた。 3巻目にして、おまけ付きで販促するとは。 というか、これに限らずこの冬の流行りらしい。 すでに年末に発売されていたのだが、 うっかりと見過ごしていた。
時すでに1月下旬。 初回分は売り切れたのだろうか? あわててネット書店を探すと、まだ少しあるらしい。 即、注文。 おまけというのは、漫画の舞台であるフレンチ・レストラン 「ロワン・ディシー」(この世の果て、という意味)の ロゴ入り鍋つかみである。
とどいたのを見たら、 白無地の鍋つかみに、やや適当なロゴ(笑)が ワンポイントでこれもやや投げやりにプリントされている。 私の作る料理こそ、この世も果てでは!?
透明のアクリルケースに、このおまけと本が セットされて売られていることがわかった。 もちろん、その分の価格は本代に上乗せ。 おまけ込み価格の、ペットボトル飲料系ベタ付け景品とはちがう。
まぁ、どうということはない物だが、 デビュー作以来の佐々木ファンとしては、 いちおう押さえておかねばならない。
これって、いわゆる漫画雑誌の全員プレゼントと 同じノリだよね。 プレゼントとはいっても、 それなりの代金を払って買うのだから、特に 読者のためのサービスというわけでもない。 お互い了解のもとに行われる遊びのようなもの。
綿がもこもこっとしてやわらかく、汚れやすそうな布地。 ティーコジーだったら、ちょうど良いのに。 ロゴがなければ100円ショップでも買えそう?
いけないいけない。 こういうものは、冷静に考えてはいけないのだ。 書店で見たら、おまけ無しのを選んだのでは、などと 後悔するなどもってのほかである(笑) (マーズ)
「Heaven?」 著者:佐々木倫子 / 出版社:小学館
原題は、『モードおばさんのレシピ・ブック』。 『赤毛のアン』の作者として知られるカナダ生まれの作家、 L・M・モンゴメリ(1874-1942)、つまり ルーシー・モード・モンゴメリこと、 『モードおばさん』秘蔵の料理本なのだ。
モンゴメリに関する本は揃えている私でも、これまで 料理本は持っていなかった。 物語に登場するお菓子や料理の想像上のレシピがほとんどで、 この本のように、情熱的料理人であったモンゴメリの 書き残した貴重なレシピを紹介したものでは なかったからだ。 読んでいると、当時、とっておきの料理の レシピを交換することには大きな意義があり、 それ自体すばらしいギフトだったことがわかる。
レシピの一例をあげると…
ハイランド・スコーン モック・チキン アニーおばさんのレモンパイ ニュームーン・プディング サバの網焼き、浜辺にて
どうしてこれが、残っていたか。 モンゴメリの息子たちには受け継がれず、 晩年、母親の手作りの味を恋しがっていたという。
別のルートがあったのだ。 これらのレシピは、ずっと活用され、「生きて」いた。 モンゴメリのいとこの女性に伝わり、 さらに孫娘へと伝わったのだが、 このいとこは、『赤毛のアン』の舞台となった グリーン・ゲイブルズに実際暮らした人だったというから、 あれこれ想像の余地があり、奥が深い。 カナダ、オンタリオ州ノーヴァルは、モンゴメリの 夫のマクドナルド牧師が赴任し、息子たちが生れた 土地でもある。 その地に、「クロフォーズ」というレストラン兼パンの店があり、 ここがレシピの持ち主となった孫娘ケリーの属するクロフォード家で、 実際、モンゴメリのフルーツケーキは店の人気商品なのだそうだ。 かなりの数のカナダ人が、それと知らずに、 モンゴメリの残したレシピを味わっているのだという。
これほどまで彼女が料理に熱意をもっていた事実を こうして突きつけられると、感動がわいてくる。 私のつたない料理の腕と、「モードおばさん」に軽蔑されそうな 食べものへの無頓着を割り引いても、 これは一生ものの大切な本になりそうだ。
モンゴメリや親族のスナップ写真も多数掲載され、 家庭でのモンゴメリを描いた伝記としても面白い。 当時の料理方法や暮らしぶりの紹介も充実。 レシピを収集していたモンゴメリの情熱、 モンゴメリをとりまく人間模様、 料理に関連したモンゴメリ自身の言葉などにも、 他で見られなかったものが多い。
3つの楽しいことが、ここにある。 モンゴメリファンとしての楽しみと、 料理の本としての楽しみと、 その両方を味わう楽しみが。
※訳者の奥田さんは、モンゴメリ関連の著作も数多い作家・ライター。 (マーズ)
『赤毛のアンのレシピ・ノート』 編著:イレーン&ケリー・クロフォード / 訳:奥田実紀 / 出版社:東洋書林
サスペンスなど、スリルいっぱいの小説が好きな一方で、 これといって何の事件も起こらない、 淡々とした静かな小説も大好きです。
静けさと、退屈のきわどい境界線。 ページをめくるごとに、心は安らぎ、 ときおり目を休めるのに、窓外の景色を見つめる。 そこには、はらはらするような秘密も、 ドキドキするような謎も、 心がざわつくようなものは、何もない。
オクスゴドビー、そこが物語の舞台。 イングランドの北部の田舎町。 教会の壁画の修復にやってきた青年のひと夏の物語。 美しい田園の村で、第一次世界大戦の深い傷は癒え、 新たな感傷とともに、青年はロンドンに帰っていく。
それだけの物語。 けれど、1920年のイングランドの田舎町は、 自然も人の心も、素朴で美しい。 退屈な日常かもしれないけれど、 退屈なこと、それは戦争の後では、 かけがえのないほどに贅沢な幸せだろう。
図書館で偶然見つけたこの本には、 美しいものがいっぱい詰まっていて、 その美しいものを、どうしても傍らに置きたくなり、 結局、注文してしまった。 私は本を読む時、気になるところや、 気に入った一文のあるページは、 ページを折ることにしている。 この本は、どこをとっても、 静かな豊かさに満ちているけれど、 (いちいち折っていたら、全ページにわたるだろう) 特に気に入ったところに、(自分の本でないから) 付箋を貼った。
でも、本当に何ということのない場面で、 何ということがないから、 忘れたくなくて、印を付ける。 ただ、リンゴの名前の響きがとても気に入ったとか、 そこに描写された紅茶がとても美味しそうだとか。 何でもないことなのに、素敵に響いてくる、 そういう、ささやかな贈り物に満ちた本。
リブストン・ピピン、ダーシー・スパイス、
コックス・オレンジ、コセット・レイン、
コスマン・リネット。全部、リンゴの名。
サラ・ヴァン・フリートは、バラの名。
ミセス・キーチのダスキー・ピンクのドレス。
ウェンズディル・チーズは、朝食に。
珠玉の美しい物語。 ページの隅々まで、言葉の端々まで。 自然の美しさは、言うにおよばず。 人の心も、その傷も、同じく、美しく愛おしい。(シィアル)
『ひと月の夏』著者:J・L・カー / 訳:小野寺健 / 出版社:白水Uブックス (ガーディアン賞受賞作)
※同名映画の原作 [ひと月の夏 / A Month in the Country] (1987/英) 監督:パット・オコナー 出演 コリン・ファース / ケネス・ブラナー
わくわくする不思議がいっぱいつまった(とわかっている) ぶあつい本を手にするのは、世の中の幸運のうちでも 上等の部類だと思う。 読み始めたとたんに、その期待が報われることを 知るのもまた。 名作の書き出しと最後の文章は、ときに、 まるで一つの文章のようにつながり、全体を象徴すると言われる。 この本も、まさにそう。
おもちゃ文学から枝分かれした(ということにしている) 「ぬいぐるみ文学」のジャンルに入る本。 というのも、 主人公のエイミイは人間の女の子だが、 彼女の持っていた水夫のぬいぐるみ人形キャプテンが 人間になったあと、今度はエイミイが人形になってしまう。 (仕立て屋のお父さんが作った人形だから、 布製ということで、ぬいぐるみと呼べないこともない) キャプテンは本物の水夫になり、船を手に入れる。
そして、ふたりは 帆船アリエル号に乗って、 これまた動物のぬいぐるみや下着などから 生れた水夫たちとともに、海賊と戦い、 宝を探す冒険に出る! これが不思議でなくてなんだろう。
シンシア・ライラントの珠玉作『ヴァン・ゴッホ・カフェ』の 主人公の少女は、不思議なことが起こるのを信じて じっと待っているのだった(シィアルの同書評を参照)が、 こちらの主人公エイミイもまた、人生に対して同じ 対処方を持っているのが興味深かった。
そして、起こるのだ。 これ以上ありえないような、不思議が。
アリエル号の乗組員たちの運命は? 謎に包まれた人物の本当の目的は?
各章に引用され、物語の重要な鍵となっているのは、 マザー・グースの歌の数々。 ぬいぐるみたちは、まず、お話を聞かせてもらわねばならない。 そうしてからでないと、本物の命をもらえない。 それには、そう、マザー・グースがうってつけ。
きっと作者のケネディも、マザー・グースの歌を 幼い耳で聞きながら大きくなった人にちがいない。 子守唄でおなじみの古いマザー・グースの歌が これほど不思議でいっぱいだからこそ、英米には 子どもの本の名作家もまた多いのではないだろうか。 (マーズ)
『ふしぎをのせたアリエル号』 著者:リチャード・ケネディ / 訳・絵:中川千尋 / 出版社:福武文庫(絶版)、徳間書店(2001年9月発行)
朝日新聞に、絵本や童話などの紹介コーナーがあります。 もう、冬の最中なのですが、「クレメンタインの冬じたく」という、 かわいい本が紹介されていました(2002年01月23日)。 簡単な紹介でしたが、どうやら物持ちらしい猫のクレメンタインと一緒に、 冬の準備をしよう、という絵本のようです。
猫のクレメンタインと一緒に服を選ぶ? 着せ替えブック? それとも頭・胴体・足の部分に本がセパレートしていて、 ぱらぱらめくりながら、洋服の着替えを楽しめる本? いったい、どんな絵本?
注文した本が届くまで、わくわくして待ちました。 さて、届いた本をめくると・・・。 左側には洋服選びを楽しむクレメンタイン、 右側には、ページ一面、クレメンタインの持ち物の絵。 ??? これは、やはり、切り抜いて着せ替えをする 「着せ替えブック」でしょうか? いえ、そういうわけでもないようです。
柔らかい色とタッチでかかれたこの絵本は、 いろいろな洋服を切り抜いて、クレメンタインに着せたり、 セパレートした本のページをめくるのでもなく、 ”想像力”を楽しむ本なのです。 どのセーターを着せよう。 スカートはどれが似合うかな。 マフラーはどの色が素敵かしら。 小さな女の子たちが、首を傾げながら、 自分の好きなものを一つ一つ選んでいく。 ”想像力”があれば、紙に描かれただけの猫のクレメンタインが、 ページを抜け出し、一緒にファッションショーを繰り広げる。 そういう、楽しくゆたかな時間を過ごせる本であり、 子どものイマジネーションを助ける本。 一人遊びをしたり、お友達とどの服が好きかにぎやかに選びっこする。 文字が読めなくても楽しいし、 言葉も少ないから、文字を読み始めた頃にもちょうど。
小さな姪っ子達は、 たどたどしく文字をおいながら、 クレメンタインの色とりどりで、 さまざまなデザインがほどこされた持ち物の絵に、 あれがいい、これがいいと、楽しく見入っていました。
大人の私も、おしゃれなクレメンタインのおかげで、 可愛いグッズをたくさん持つことができました。 PC仕事の合間に、ページを繰りながら、 子どもの頃楽しんだ、着せ替え遊びのように、 どれがクレメンタインに似合うかな?と、 あれこれ組み合わせを楽しんだりして一息ついています。
さて、クレメンタインの持ち物は・・・
スパッツ43本 シャツ20枚 ジャンパースカート16着、 セーター16枚 くつ下116足 ネックレス50本 ブーツ67足 コート12着 マフラー28本 帽子36個 てぶくろ126組
ちょっぴり、羨ましいでしょう?(シィアル)
『クレメンタインの冬じたく』著者:ケイト・スポーン / 訳:木坂涼 / 出版社:セーラー出版
中途半端じゃいけないものらしい。 少なくても、この世界で際立つためには。 どこまで行っても、いいのだ。 できるかぎりのことを、すればいい。
彼や彼女、あるいは企業のつくったものに 揺さぶられるためには、深い個性が必要だ。 芸術であれ、商品であれ。
しかし、個性はときに受け入れがたいもの。 きつすぎる、と思って恐れをなす。 あれには近寄るまい、と本能的に身構える。 それなのに、気づくとそのことを考えている。 あれはいったい、なんなのだろうと。 あれのなにが、そんなに気になるのだろうと。
一定の基準を超えたすべての個性が本物かどうか、 見る者によってちがうのは当たり前。 ある人はそれが最高だと言い、ある人は3番目だと言う。
最初の出会いで、本物と確信すること、 それはそれですばらしい。 だが、一度はねかえって、 ふたたび出会うこともまた、すばらしい。
個性とは、まねのできないもの、 したとしてもオリジナルを超えられない輝き、 それは完成度とはほとんど関係がない。 最初から完全に備わってはいない場合もあるし、 最初から完全なものだって、あるけれど。
そして文字で書かれた作品の個性は、 他の方法ではそれ以上に現し得ない、 風化しないセンスである。
たとえどれほど商業的に成功しても、他のメディアで やすやすと表現の取りかえがきくものは、 自分がそれを楽しんでも、個性とは認めない。 (マーズ)
主人公のヴァンパイアは、ソーニャ・ブルー。 物語は、彼女が病院を脱走するところから始まる。
もとアメリカの富豪の娘で、吸血鬼にされてから まだ数十年しかたっていないにもかかわらず、 その世界では相当の大物とされる。 吸血鬼の美女が主演のアクションホラー作品 というので、手軽に読めると思っていた。 英国幻想文学賞とブラム・ストーカー賞を受賞する だけのことはあるのだった。 派手さだけではなく、深いものが。 もっとも、ソーニャによれば、
"ストーカーの「ドラキュラ」は ビクトリア朝時代の哀れを誘う性妄想にすぎない"
のだった(本文引用)。
いわゆる耽美系ホラーではないので、 性と暴力と血と骨と排泄物の臭いにまみれながら、 ソーニャのハードな人生(真生?)に 同乗させてもらった。
私の好みは、筋と直接関係なさそうな薀蓄やら、 ものごとに対する作者の見解などが サンドウイッチのように挟み込まれたストーリー。
ソーニャたち怪物や天使、あるいは受信機能が過敏な人間の見る 「真世界」のありようも、2作目でさらに展開してゆくらしい。
それにしても、ソーニャが世界を放浪しながら 日本にもやってきたのには驚く。 そこに描かれた日本という国、まったくもって そらおそろしいところであった。 (マーズ)
『ミッドナイト・ブルー』 著者:ナンシー・A・コリンズ / 訳:幹遙子 / 出版社:ハヤカワ文庫
2001年02月13日(火) 『ファッションデザイナー』その(2)
読書好きのワンダーランド、「本屋さん」 本を買うのはネットが多いし、時に職場に出入りしている本屋さんに 注文することもある。だから、本屋さんに行くことは滅多にない。
先日、思いの外、仕事が早く終わり、帰り道、本屋さんに寄った。 郊外型の書店なので、雑誌・漫画・ビジネス書が中心だけれど、 それなりの規模があるので、一般書籍・児童書もそれなりに取り扱っている。
久々の本屋さんなので、通路を行ったり来たり、 お目当ての本を探して、棚をわくわく、かつ、厳しい目でチェック。 ない。。。 あるはずのところにない。 コーナーを隅から隅へとさらい、棚の奥まで疑い深くひっくり返す。 背表紙を見、取り出して表紙をチェックし、さらに裏表紙まで確認する。 …違う。これじゃない。 探していた『ミッケ!ゴーストハウス』はなかった。
→※『ミッケ!』シリーズ
私の持っているのは、クリスマス編。
どの本も、それぞれのテーマに従った、
絵本の中のかくれんぼ。
いろいろな雑貨−大きなものから小さなものまで−を
にぎやかに振りまいた楽しい写真の絵本。
各ページの雑貨ばらまき(!)写真の中から、
「赤い鳥三羽をさがそう」とか、
「割れたクッキーのサンタさんは?」という
楽しい質問に答えて、目を皿のようにして探すのです。
見つかれば、もちろん「ミッケ!」
小さな子どもから、大人までわいわいと
まるでカルタのように楽しめます。
雑貨好き、小物をじゃらじゃら集めるのが好きな私は、
ごちゃごちゃしたこの写真・ゲーム・ブックが大好きです。
大人でも、つい、見入って、各ページの探し物に
熱中してしまいます。
落胆しつつ、次の棚へ。
探し物は見つからなかったが、次々と、目を引く本が。
棚を行きつ戻りつするたびに、胸にしっかとかかえる本が増えていく。
30分後、財布の中身が心配になり、もう、カードねと。
WEBデザインの本や、経済の本、話題の本やら、旅行、癒し系…と。
郊外型の大型書店であるこのお店では、 多少はあるとはいえ、ファンタジーにしろ文芸書にしろ、 今売れている本、話題の本、その関連本が主体である。 よく見ると、どの本も同じような本ばかりに気が付いてくる。 今の流行の本。
「不況になると、漫画の文庫本化が盛んになる。」 ずいぶん前に、そう何かで読んだ。 確かに、記憶の中で書店の棚を文庫化された漫画がにぎわす時は、 「不況」であった。 買おう、買おうと思っていた、漫画の文庫本が、 バブルの時に消えてしまい、とても残念に思ったと同時に、 「不況=漫画の文庫本化」は正しかったと、そう思った。 そしてまた、この不況の底で、新たに文庫化されて、 嬉しいような、嬉しくないような再会を果たすことができた。
書棚を観察すると、
『○○とアンチ○○』『○○と××』という
二元的なタイトルの本が溢れている。
私も『古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家』や
『ひ弱な男とフワフワした女の国日本』は読んだ。
それから、『○時間でわかる△△』『すぐわかる□□』
経済やら政治やら歴史を短時間で解説する本。
…私も持っている。
『手にとるように国際情勢がわかる本』(かんき出版)
『世界の民族・宗教がわかる本』(こう書房)
癒し系のタイトルも、整理術のタイトルも、よく似ている。
大ヒットした本を模倣するのだろう。
ビジネス書ももちろんである。
成功術を語る本、生き方・習慣を変えるための本、
有名な「チーズ本」たち、あまりに似たり寄ったりなので、
もう、タイトルは覚えていない。
書店を隅から隅へと歩き回っているうちに、 満足感とともに、徐々に最初の興奮も過ぎ去り、 レジに行く頃には、手元に残った本は結局、一冊だった。 『世の中なんでも経済学』
→※『世の中なんでも経済学』
今はやりの”よくわかる経済本”を読むための入門書。
私は見たことがないけれど、十代の子どもたちを対象にした
NHK教育テレビ「世の中なんでも経済学」の書籍版。
子どもに言って聞かすように、
(って、まさにそういう番組なのだろうけど)
身近な例をあげながら、じっくり詳しく、
経済の基礎の基礎、いつも耳にする知っているようで、
説明を求められるとまごつくような、そんな経済
(お金のしくみ)の基本を解いてくれています。
(シィアル)
□『世の中なんでも経済学』
著者:NHK教育テレビ「世の中なんでも経済学」編 /
構成:和田奈津子 / 出版社:ワニブックス
□『ミッケ!』シリーズ
著者:ウォルター・ウィック, ジーン・マルゾーロ
訳者:糸井重里 / 出版社:小学館
・ミッケ!いつまでもあそべるかくれんぼ絵本
・ミッケ!( びっくりハウス ) 2
・ミッケ!( クリスマス ) 3 ←オススメ!
・ミッケ!( ミステリー ) 4
・ミッケ!( ファンタジー ) 5
・ミッケ!( ゴーストハウス ) 6
・ミッケ!( たからじま ) 7 ←最新刊
■『チーズ本』とその仲間たち?(こんなにあった!)
・『チーズはどこへ消えた?』(扶桑社)
・『バターはどこへとけた?』(道出版)
・『チーズはここにあった!』(広済堂出版)
・『チーズはだれが切った?』(鹿砦社)
・『ひまわりの種はだれが食べた?』(中央アート出版社)
・『人生はバターの夢』(扶桑社)1996年出版・品切れ
※一見仲間のように見えて、全く無関係だった本。
少年の目から見たNYの下町を舞台にした小説らしい。
■心惹かれる「整理術」の本
・『「捨てる!」技術』(宝島社新書)←出発点
・『「捨てる!」コツのコツ』(ワニ文庫)
・『捨てる・残す・収納する』(Kawade夢文庫)
・『「捨てる!」決心「捨てる!技術」だけでは捨てられない』
(主婦と生活社)
・『「捨てる!」快適生活』(三笠書房)
・『「捨てる」+「アイデア収納術」でシンプルライフをはじめる本』
(メイツ出版)
・『ドイツ式シンプルに生活する収納・整理・そうじ術家の中の
「捨てる」技術』(小学館)
・『捨てずに生かす家事の技術きょうから素敵な暮らしがはじまる』
(主婦と生活社)
・『節約生活のススメ』(飛鳥新社)
・『ゼロからの節約生活』(雷韻出版)
・『イギリス節約生活』(光文社)
・『「捨てる!」快適生活』(三笠書房)
■すっきり、きっぱり「二元的」タイトルの本
・『他人をほめる人、けなす人』(草思社)
・『古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家』(大和書房)
・『ひ弱な男とフワフワした女の国日本』(草思社)
・『儲ける社長堕ちる社長』(PHP研究所)
※みなさんは、タイトルから、何が見えてきますか?
「やっ、こいつは魂を持っていやがる」 と思うものが、陶器にはあるそうだ。 (22P"ほんもの"とは何か?/白州正子談より) 『韋駄天のお正』という綽名が面目を 際わ立てるセリフ。
彼女が他界したのち、住み慣れた自宅は 資料館・ギャラリーとして、 一般に公開されている(2月24日まではオープニング展を開催)。
この本は、旧白州邸「武相荘」(ぶあいそう)の オフィシャルブック。 白州正子の生涯をたどる数々の写真とエピソード、 果ては屋根裏で眠りこけていた自筆の油彩画まで 密度も濃く編集されている。
家事をする義務のない生まれとはいえ、 本来不器用だったと家族に言わしめる名文家は、 人が作ったものを食べることへの おおいなるこだわりに終始した人でもあったと。 「どこそこの何」が一番、という思い込み。 そういうこだわりが100あれば百、1000あれば千の "ほんもの"と"満足"を知ることになるのか。
一行のキャプションでのみ紹介された、 愛犬とのモノクロ写真があった。 奈々丸という白犬を愛しげになでる81歳の白州正子。 ネーミングもすばらしくマッチしているが、 まさに白州正子にマッチした犬に見える。 おそらく雑種犬と思われるが、 すらっと伸びた痩せぎすの体型には、西洋の犬も 混じるのか、のびのびとした四肢をしている。 面長で、眼光するどく、気品あり。
似ている。 飼い主と犬は、どうしてこうも似てしまうのだろう。 白犬:白州という程度ではマッチ度としては低いが、 しつけや食事はともかく、西洋風の骨格は生まれつきのはず。 奈々丸は西洋と東洋の犬である。 白州正子が西洋と東洋をともに観た人であったように。 まして、雑種であればおそらく、 「どこそこの何」と念じて探したわけでもなく いつかしらに、避けられない偶然という名の必然でもって 転がり込んできたものにちがいない(それはどこの犬の話だ?)。
この写真、奈々丸は飼い主そっくりの眼光に 黒くてききそうな鼻、歯並びの良さそうな口、 賢げな耳はきりっと尖り、前を見ている。 飼い主の手は、首の後ろ、肩の中央(一番気持ちよいところ)に 置かれている。 よく見ると犬ずわり(横ずわり)に なっているのも微笑ましい。 あらゆる動物のなかで、人間にもっとも 似ている(おサルよりも)といわれる犬が こうも飼い主に似てしまう理由は。 それは生活習慣だけではないと、つねづね 思っている。 色即是空・空即是色。 (マーズ)
『白州正子"ほんもの"の生活』 白州正子・青柳恵介・赤瀬川原平・前登志夫他共著 / 出版社:新潮社とんぼの本
誰にでも、これという理由がないのに好きなもの、 そういうものがありますよね。 いえ、確かに理由はもちろん、あるのだけれど、 言葉でははっきり言い表すことができない曖昧な「好き」が。 あるいは、時には「好き」なのか「嫌い」なのかわからない、 そんな複雑な「好き」が。
絵や写真の好みが、まさにそれです。 大好きなんだけど、どこがどう好きか、説明できない。 ただ、好きなだけ。 思い出した時にしか開かないけれど、 そこにあるというだけで、すごく満足。
好きな画家はたくさんいるけれど、 ルイ・イカールは、”不思議”に好きです。 アール・デコ期の画家で、女性を妖艶に描いています。 女性的な”とろっ”とした感じが、 ちょっと、ひっかかりながらも、それでもなんだか好きなのです。 あまりに女性的な女性の絵というのは、本来好きではないのですが。 でも、イカールは別のよう。 どこかに、微妙な境界線があるのでしょう。
→ルイ・イカール美術館(Louis Icart Art Museum) (イカール作品のバーチャル美術館) http://icart.jpweb.sh/www/index.html
写真ではサラ・ムーン。 「どこが好き?」と問われても、 理由を説明するのが難しい。 うーん。それはやはり「美しい」から。 とりあえず、そう答えよう。 それは間違いないから。 以前、サラ・ムーンを取り上げた時には触れなかったけれど、 美しい写真だけれど、じっと見ていると ”不安” ”不安感” ”不安定” そういう気持ちがわき起こってきます。 月並みだけれど、スタイリッシュでキレイ、 おしゃれな感じ、というのも好きな理由ですが、 ときおり、忘れていた居心地の悪さのようなものを 思い出してしまいます。 それが私にとっての、最大の魅力でしょうか?
→2001/05/16 『SARAH MOON / 多弁なモノクローム』
作家だとトーベ・ヤンソン。 好きなんだけど、ムーミンにしろ、 その他の小説にしろ、読んでいて、苦しくなる。 淡々とした、静けさが苦手なのだろうか。 苦しければ読まなければいいのだけど、 そこで感じる不安感は、 やはり、自分に必要なものだと思える。 大きく心が揺さぶられるわけではないけれど、 小さなさざ波がずっと、心に残っている。 どうしてなのか、その理由を忘れたまま、 それなのに、言葉にできない何かがそこに”ずっと”あり続ける。 考えてみると、好きなのか、好きじゃないのか、 自分でもよく分からなくなってくる。
→2000/12/11 『ムーミンとわたし』 2001/07/23 『ヤンソンさんが教えてくれたもの』
どうしてなのか分からないけど、 どうやら好きらしいものがある。 よくわからないけれど、 でも、何かがひっかかり続けている。 そんなものが誰にでもありますよね。 もちろん、本や写真、絵に限らず、人生のそこここに。(シィアル)
■ルイ・イカール(1888−1950)フランスの銅版画家
・『ルイ・イカ−ル(小さな美術館) ア−ル・デコの女性たち』
著者:島田紀夫 / 出版社:河出書房新社
■サラ・ムーン(1940- )写真家
・『Vrais semblants(Parco vision contemporary) 幻化』
写真:サラ・ム−ン / 出版社:パルコ出版局
・『赤ずきん(ワンス・アポンナ・タイム・シリ−ズ) 』
著者:ペロ− / 写真:サラ・ム−ン / 出版社:西村書店
■トーベ・ヤンソン(1914-2001)小説家
・(講談社)
『少女ソフィアの夏』
『彫刻家の娘』
『ムーミン・シリーズ』
・(筑摩書房 / トーベ・ヤンソン・コレクション)
『軽い手荷物の旅』
『誠実な詐欺師』
『クララからの手紙』
『石の原野』
『人形の家』
『太陽の街』
『フェアプレイ』
『聴く女』
年度末になって、何かと気ぜわしくなると、 じっくり本に向かう時間がなくなってきました。 時間と時間のすき間を見つけて、 ちょこちょこと読んでいます。
今や病院に行くのは一日仕事。 病院の待合いで、ちょこちょこと、本を開く。 でも、症状の確認や、検査や、もろもろの用事で しょっちゅう名前を呼ばれているので、 読書も、しょっちゅう中断。 だから、すき間読書用には、軽く読めるエッセイや、 1ページごとに内容がコンパクトにまとめられている 実用書とか。 ほんとうは本を何冊も並行して読むのは嫌いなのですが、 すき間用、じっくり用、寝る前用と… 各種揃ってしまいました。
すき間用に今読んでいるのは、 マーズ推薦の 『いまやろうと思ってたのに…』 かならず、グズは克服できるという、 私のようなグズにぴったりの本のようです。 すき間すき間に読み続けて、 それでも5分の3ほど進みました。 グズはグズでも私のような「読書グズ」に 対策があるかどうか、とても気になるところです。
さて、忙しい時期に突入したのですが、 こんな時でも、何とか時間を編み出して、 じっくり読みたい本があります。 ちょっと迷った末、 『魔法使いハウルと火の悪魔』を選びました。 映画(アニメ)化も決定した”旬”の本(ファンタジー)ですね。 わくわくしながら登場人物紹介を見ました。 頑張って仕事をした、ご褒美の時間です。
『いまやろうと思っていたのに…』の中に、 がんばりに応じて、ご褒美をあげる、 という提案がありました。 ちょっぴり頑張ったので、じっくり読書の時間、 うーんと頑張ったので、ファンタジーの国へ旅に出る。 物語を生み出した国への旅行が、実現するといいなあ。 ここ最近ずっと、ファンタジー、 イギリス・ケルト系のファンタジーを読んでいるので、 物語の舞台、こんな素敵な物語を生み出す ゆたかな国イギリスへの思いは募っていきます。
さて、物語の背景にまで心を巡らせながら、 じっくりと本を読み始めましょう。(シィアル)
・『いまやろうと思ってたのに・・・』 著者:リタ・エメット / 訳:中井京子 / 出版社:光文社 ・『魔法使いハウルと火の悪魔―空中の城〈1〉』 著者:ダイアナ・ウィン・ジョーンズ / 訳:西村醇子 / 出版社:徳間書店
原題は『To Kill A Mockingbird』。 ものまね鳥を殺しに、とは何を意味するのか?
米南部アラバマ州の古い町、メイコーム(架空の町)を舞台に、 成長期の子どもを抱えた弁護士一家の 内と外を緻密に描き、世界で11ヶ国語に訳されたという ベストセラー。
この複雑な物語を語るのは、娘のスカウト。 男のようにオーバーオールを着て、喧嘩っ早い。 兄のジェム、父のアティカス・フィンチと暮らしていて、 母はすでに亡い。兄妹は、父親をアティカスと呼ぶ。 映画化され、理想的な父、かどうかは別として、 公平で勇気ある理想的な弁護士アティカスを グレゴリー・ペックが演じ、アカデミー賞の主演男優となり、 スカウト役のメリー・バーダムも好評を博す。
後半の法廷シーンで重くのしかかってくる黒人と白人の関係、 隣人どうしのしがらみ、歳月と街の姿、強さと弱さ、 そして家族の関係。 そしてさまざまな事件を通し、女性たちの社会に入ってゆく自分を 覚悟する、スカウトの成長。
暮しの手帖社(広告を取らない雑誌社)の独特な雰囲気も 手伝って、なんとも不思議な先入観のある本だった。 そこには何らかの恐怖すら、ひそんでいた。 それは私だけの危惧だったと思うが。 これはシィアルに借りた本で、夢の図書館本館にも 紹介されているので、名作だとは思っていたが、 あえて、外見と内容はちがっていたと 書き添えておきたい。
これは子鹿物語ではなかったし、 単なる法廷ものでもない、育児のお手本でもなければ 南部の街の年代記でもない。 複雑で、こみいっていて、詩的で、巧み。 それでいて、大人への入り口にいる子どもにとっても 大人そのものにも、この本は受け入れられる。
黒は黒、白は白だけではないもの。 西洋のそれよりも、東洋のそれに近いあいまいさ。 真実はひとつではなく、その人の価値観の数だけ あってもいいと。 子どもの目を通して書かれた日常こそ、 百の歴史資料よりも確かに、その国を 物語る力をもっているのではないか。 (マーズ)
『アラバマ物語』 著者:ハーパー・リー / 訳:菊池重三郎 / 出版社:暮しの手帖社
ここ最近、ミステリはお休みで、 ずっと、ファンタジーや児童文学を読んでいます。 マーズも児童文学の古典や代表的なものを 意識的に読み続けているのですが、 ふたりの読んでいるものは、 ごくたまに重なることもありますが、 お互いの性格や好みを反映して、 微妙にずれながら、それぞれ違う本を読んでいます。
流行や雰囲気に弱い私は、 映画が公開される少し前の、秋頃から 『ハリー・ポッター』(J.K.ローリング)にはまり、 今は、『クレストマンシー』シリーズ(D.W.ジョーンズ)に没頭し、 その流れで、『ハウルの動く城』をこれから読み始めるところです。 (ジブリで映画化されるそうですね。)
『ハリー・ポッター』以前から、 もともと魔法もののお話は大好きでした。 子供の頃から、「もし、魔法を使えたら・・・」とか、 「魔法使いのおばあさんがいたら・・・」と、 よく無邪気な空想をしたものです。 『ハリー・ポッター』ブームのおかげで、 大々的に、魔法もののファンタジーが書店に出回り、 選ぶのに迷ってしまいます。
今でも『レイチェルと滅びの呪文』
(クリフ・マクニッシュ/理論社)
『壁のなかの時計 ルイスと魔法使い協会』
(ジョン・ベレアーズ/アーティストハウス)
『ローワンと魔法の地図』
(エミリー・ロッダ/あすなろ書房)など、
面白そうだなと思いながらも、
むしろ逆に、どれもが面白そうなことが災いして(笑)、
結局、どれも買いそびれたままなのです。
この間まで、『クレストマンシー』シリーズが
このリストの仲間でした。
今は、 ダイアナ・ウィン・ジョーンズを集中的に読んでいますが、 先日、久々に読んだE.L.カニグズバーグにも はまり込んでしまい、買い置きしていた本を次々に読んでいます。 ダイアナ・ウィン・ジョーンズもそうでしたが、 読みたい本が品切れのままとか、 気がつくと絶版になってしまっている、 と言うことほど、悲しく、そして悔しいことはありません。
E.L.カニグズバーグも、岩波少年文庫から、 いくつかの作品が消えてしまい、 とてもがっかりさせられてしまいました。 嬉しいことに、ダイアナ・ウィン・ジョーンズは、 クレストマンシーシリーズが、順次刊行され、 E.L.カニグズバーグは、お値段は張るものの、 E.L.カニグズバーグ全集が岩波から出版されています。
『トムは真夜中の庭で』のフィリッパ・ピアスも ぜひ、全作品を読みたいと思っているのですが、 今では手に入る作品も限られています。
先年(1998年11月8日)亡くなったルーマ・ゴッデンも、 たくさん作品を残していますが、 本が消えていくのと競争のように、 新刊、古本を問わず、買い集めています。
良い本をいつでも読めるように。 その為に公共の図書館はあるのだと思うのですが、 予算と収納スペースに限りがあるのに、 無限に出版される本の中で、 必ずしもすべての良書、名作が 納められているとは限りません。 (それに、良書・名作の基準は主観的ですから。)
「児童文学」というジャンルであっても、 決して子供だけの本ではなく、 大人の心を深く揺さぶる本はたくさんあります。 「子供だまし」では、当の子供をも 本当に感動させることはできないだろうし、 心の深いところに届く物語は、 大人だとか、子供だとか、そんなことは関係なく、 「人」を揺さぶるのだから。
『エリコの丘から』、『ドラゴンを探せ』
『魔法使いハウルと火の悪魔』、『アブダラと空飛ぶ絨毯』
机の上に本を並べて、どれから読もう、
早く読終りたい、でも、もったいない・・・と、
目移りしながら、幸せな悩みを抱えています。(シィアル)
■J.K. ローリング
(静山社)
『ハリー・ポッターと賢者の石』
『ハリー・ポッターと秘密の部屋』
『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』
■ダイアナ・ウィン・ジョーンズ
(徳間書店)
『魔法使いはだれだ ― 大魔法使いクレストマンシー』
『クリストファーの魔法の旅―大魔法使いクレストマンシー』
『魔女と暮らせば―大魔法使いクレストマンシー』
『魔法使いハウルと火の悪魔―空中の城〈1〉』
『アブダラと空飛ぶ絨毯―空中の城〈2〉』
(創元推理文庫)
『私が幽霊だった時』
『九年目の魔法』
■E.L.カニグズバーグ
(岩波少年文庫 )
『クローディアの秘密』
『魔女ジェニファとわたし』
『800番への旅』
『エリコの丘から』
『ティーパーティーの謎』
(岩波書店/カニグズバーグ作品集)
『クローディアの秘密・ほんとうはひとつの話』
『13歳の沈黙』
『魔女ジェニファと私・ベーグル・チームの作戦』
■ルーマ・ゴッデン
(偕成社)
『ラヴジョイの庭』
『トウシューズ』
『ハロウィーンの魔法』
(岩波少年文庫)
『人形の家』
■フィリッパ・ピアス
(岩波少年文庫)
『トムは真夜中の庭で』
『真夜中のパーティー』
(講談社青い鳥文庫)
『ハヤ号セイ川をいく』
映画は割と観るけど、買ったパンフレットは この10年で3冊にも満たないくらい。 『アメリ』のパンフレットは、横長のまっかな表紙に 金色のカタカナで、アメリと書いてある、 映画と同様にキュートなスタイル。 いろいろつまっていて楽しそうだったから、 買ってしまいました。700円。 高くても惜しくない。
映画館のカウンターには、他にもいろいろ売られていて、 別のお店では、アメリの紅茶やらも見かけました。 (映画にその紅茶が出てきたわけではないのですが)
ジャン=ピエール・ジュネ監督のこの映画は、 観終わって後ろを歩いていた男の子が連れの彼女に、 「気がちがってる」 とつぶやいたことからもわかるように、 映画はカップル向きじゃないです(断言)。 それぞれが別々に観るのならいいです(笑)
一風変わった若い女性、アメリが主人公。 見た目はごく普通にかわいいお嬢さん。 でも。しかし。 ここまでやらないと、個性じゃないんですね。 個性というものの再確認をして、すっきりしました。
アメリを演じたのは、黒い瞳と、にきっと笑った 三日月形の唇が一度見たら忘れられないというか、 アメリそのものに思えてしまうオドレイ・トトゥ。 緑を背景にしたポスターの写真は、 内容を知らないと、ちょっとヴァンパイア。
幸せになる
というキャッチコピーが小さく入っています。
アメリが惹かれる青年ニノを演じたのは、 映画監督でもあるマチュー・カソヴィッツ。 監督をやっている人だっていうのは、 なんとなく、わかるなぁ。 他にもこの監督(アメリの)の映画の常連さんたちが たくさん出ている映画だそうな。 ハリウッドに招かれて作った『エイリアン4』から 4年たって、生まれたヒロインが、 人を幸せにすることに生きがいを感じるアメリ! ということも考えつつ見るとおもしろい。
さて、まっかなパンフの中身はというと。 カラーコピーしてピンナップに使えそうな 写真もたくさんあって、色づかいもレイアウトも やっぱり『アメリティーク』。 いろんな人がアメリの魅力を語り、 アメリの勤めるカフェ・ドゥ・ムーランあたりの 界隈の地図があり(日本からその店へゆくツアーもあるとか)、 アメリ風オレンジ・ブレッド・プディングのレシピあり。 なぜかわからないけど、アメリとオメガの合体広告もあり。 (細かく映画を観たらわかるのかも?)
アメリは関連本もいろいろ出ていて、 登場人物の一人、売れない作家イポリト氏の書いた アメリのイラスト本や、 監督の監修によるオフィシャルガイドブック、 『アメリのしあわせアルバム』も きっと売れているんだろうな。
ともかく、 映画はフランスでも日本でも予想を軽々と超えて 大ヒットし、特に今は日本でも上映館が増えているそうです。 こんな風変わりな女性と2時間余りも過ごしたら、 みんな自分のなかにもあるおかしなところや しあわせになりたいという共通の願いをみつけて、 ハートの奥が小躍りするのかもしれません。
アメリを一緒に観たシィアルから、 バースデーにカードをもらいました。 こう書いてありました。
「変なままで、幸せになってね。」 (マーズ)
※『アメリのしあわせアルバム』は、ソニー・マガジンズ発行/¥2,600
※『アメリ』監督:ジャン=ピエール・ジュネ/2001年フランス
※『アメリ』公式サイト http://www.amelie-movie.com/
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管理者:お天気猫や
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