豪雪地帯での仕事が決まって、慌しくしている。
PCや周辺機器を新しくして、作業環境を整える。
最近のOSやアプリケーションソフトは、 何でもかんでもクラウド・コンピューティングでデザインされている。
クラウドは「群衆」ではなくて「雲」なのだそうだ。 使用者のデータもアプリも、雲の向こうに隠れている、 その時々の必要に応じて雲の中から引っ張り出す、という意図らしい。
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どうも、面白くない。 情報端末は「持たされている感」が満載の道具になり果てた。
ウキウキしながらインストール作業をしたり、 四苦八苦して不具合を直した「パーソナルなコンピューター」は、 一体どこへ行ってしまったのか。
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コンピュータシステムの設計思想は、使用者に伝わる。文化として。 個人の価値観を変え、社会を変える。
だから、断言してもいい。 いずれ、「雲社会」がやってくる。
個人の人生は、面倒や責任を何一つもたず、 刹那的な利便性や享楽を「雲」−市場−から引っ張り出して、生きていく。 家族や子どもも、雲のむこうからやってくる。
どうしたら、そんな人生の実体をもたない スカスカな人間の集団から外れて生きていかれるか。
このことをちゃんと考えながら、自分の暮らしを組み立てたり、 子ども達へ接していこうと思う。
2009年09月28日(月) 川と企業 2005年09月28日(水) あきらめ 2004年09月28日(火) 声と花
2013年09月16日(月) |
オバマ大統領が断った骨は |
アメリカのオバマ大統領が、シリアの化学兵器使用を巡って、シリアへの軍事行動を決断しながら、判断を議会に委ね、さらにその後、ロシアとの外交 交渉で解決を目指すなど対応が二転三転し、指導力に批判が出ていることに ついて、「化学兵器を2度と使用させないという目的の達成が重要で、方法は 気にしていない」と反論した、というニュース。
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アメリカは議会の承認がなくても軍事行動を起こすことができる。 英国は議会の承認が必要で、周知のとおり、軍事行動への参加は否決された。
オバマ大統領は、やる気になれば自分だけで決断することができる。 しかも大統領の職は任期満了をもって卒業、再選の道はない。 次の選挙を意識する必要はなく、失うものは何もないのである。
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そうだから、オバマ氏はシリアへの軍事行動を回避する道を意識して選んだのではないか。そう私は思う。
歴史的評価を待つべきだ、という評論家の声もある。 もっとも、推測は無意味だ。結果がすべてである。
−少なくとも米国によっては− シリアの街に爆弾が落ちることはなく、 子ども達は恐怖におびえることもなく、命も奪われず、 家族や生活も破壊されなかった。 化学兵器も、妥当な方法で解決されようとしている。
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翻って、我が国のことだ。
親会社アメリカは経営方針を外交重視に切り替えた。 少なくとも今のところは。
安倍政権のもとで鼻息荒く「戦争のできる国」を目指しているが、 いつか先進国から梯子をはずされ、時代遅れの戦争に突入する。 そうでなければ、中国のお守りのために永遠に国力を注がされる。
そうは思わないだろうか。
2012年09月16日(日) 押し付けられた未来 2009年09月16日(水) みんな同じ 2005年09月16日(金) 人の世で仕事がしたい 2004年09月16日(木) ワークアウト実感
2013年09月09日(月) |
五輪という道具の意味は |
五輪開催が東京に決定。 うかれるラジオ番組に、 「反対だっていう人のコメントがないね」とH。
まったくだ、と思っていたら、 長年愛読させていただいているJさんの記事で、ズバリと指摘されていた。
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オリンピックとは、一体何なのだ。 どんな風に、国家間で使われている道具なのか。
G20の場でも、その他の国際会議の場でないにせよ、 一国の総理大臣が出張って行って −もう少し言えば宮家まで担ぎ出して−、 汚染水対策をします、と世界中に宣言したのである。
五輪を餌に、世界は日本政府からこの言質をとった、とも解釈できる。
そうだから、こうも言える。
約束させられた側の安倍首相は、原発事故に関して 世界をクリーンでセーフティにするとは一言も言っていない。 日本を、福島をクリーンにするとも、約束していない。 東京の安全を保障する、とだけ言っているのである。 そこには、巧妙に言葉を選んだ形跡がある。
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いずれにしても、東京都民、 そして、五輪招致の成功に浮かれる我々日本人は、 汚染水対策増税を辞さない、と、安倍首相にお墨付きを与えたようなものだ。
覚悟しなければいけない。
2011年09月09日(金) 巡礼 2010年09月09日(木) 2009年09月09日(水) 2006年09月09日(土) 2004年09月09日(木) ペンは剣
Yが寝しなに読んでくれと持ってきた、「世界の昔話」。
では今宵は、イギリスの昔話といきましょうか、とページを繰る。
おばあさんが豚を一匹、市場で買いました。 おばあさんは豚を家に連れて帰りますが、家の門をくぐろうとしません。
そこでおばあさんは、犬に頼みました。 豚をかんでおくれ、と。 しかし犬は知らん顔。
そこでおばあさんは、棒に頼みました。 犬をぶっておくれ、と。 しかし棒は知らん顔。
そこでおばあさんは、火に頼みました。 棒を燃してくれ、と。 しかし棒は知らん顔。
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以下同文で、昔話特有の繰り返しが続く。 話のターニングポイントは、おばあさんの態度豹変にある。
おばあさんは牛に干草をやりました。 すると牛は乳を出しました。
おばあさんは乳をねずみにやりました。 するとねずみは、−おばあさんの頼みどおり−縄を食いちぎりました。
すると縄は、男をしばりつけようとしました。
以下同文で続き、おばあさんに頼まれた者たちは次々に行動を起こし、 かくしておばあさんの豚は、家の門をくぐるのである。
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おばあさんは自分で手を下さない。 ただ交渉をするだけである。
縄を食いちぎるねずみは、門をくぐらない豚のことなど知っちゃいない。 それは、自分の働きの意味の、理解を超えている。
おばあさんは粘り強い交渉の果てに、 ー時にはインセンティブを与えー 思ったとおりの結果を手に入れている。
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英国おそろしや。 支配することの何たるやについて、 これほど分かりやすい話があるだろうか。
私のあてずっぽうで言うと、英国は「世界のおばあさん」である。 過去も現在も、おそらく未来も、
表向きはビロードみたいな古臭い伝統にまみれているが、 その実態は、最先端どころか、100年先に向けて、犬や棒に交渉をはじめている。 アメリカもイスラエルも、中国も、ロシアも、それに追いつけない。
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英国の昔話にからめて、今の国際情勢を思う。
マスコミは「縄」かもしれず、オリンピックは「犬」かもしれない。 シリア情勢も、豚に近いが、結局のところ豚ではないのだと思う。
世界の本当の目的と方向は、 ーおばあさんが門をくぐらせたい豚はー、 一体何なのだろうか。
2005年09月07日(水) 残念 2004年09月07日(火) 待ったなしの経営判断
この街の音楽の祭典の、最後にして最大の目玉。
マエストロ小澤とサイトウキネンオーケストラ、 そしてジャズピアニスト大西順子の共演ステージである。
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無念にもチケットは手に入らない。
フランダースの犬のネルロ少年のごとく憧れ、 紛れ込んでロビーのこぼれ音でもよいからおこぼれにあずかりたい。
真剣に、本日は会場である文化ホールへ出かける気でーチケットもないのにーいたのである。
それなのに、日常に忙殺され、失念した。 子ども達の食事に終われ、気づけば20時30分である。
これではもう、無念の二重奏だ。 我が家のすぐ近くの、あの場所で、 間違いなくかけがえのない奇跡的な瞬間になっているであろう ラプソイン・ブルーが現在進行中である。
その場にいることさえできないなんて、 もうこの世から消えてしまいたい。 そのぐらい、無念である。
2010年09月06日(月) 最高気温馬鹿 2005年09月06日(火) 2004年09月06日(月) スポーツマンのスーツ
2013年09月01日(日) |
次世代のトレーサビリティ |
大学生協で働くKさんと、子どもの夏祭りで久しぶりの会話。
Kさんは、単身赴任で東京大学に勤務しているのである。 かくして、最高学府の学生について談義。
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長野の地方国立大学の学生とは、あらゆる部分で違う、とKさん。 どんなに優秀なの?と問えば、公共性がない、とのぼやき。
Kさんいわく、設定された場でのパフォーマンスは最高に優秀。
けれど、関係性のない場に身をおくと、この上なく傍若無人である、と。 挨拶なし、ゴミはポイ捨て、順番を守らない。自分さえよければよい。
なんだか小学生のようである。
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Kさんがぼやくような東大生だけではないし、 傍若無人な若者は本郷以外にもわんさかいる。
そう思おうとしても、この話に固執してしまう。
それは、「自分は将来日本のリーダーとなる集団の中にいる」という自覚をもつ、 傍若無人な利口者がいる、というのが、とても心配だからだ。
現役世代の政治や官僚世界の傍若無人が、 既に次世代に引き継がれている。
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国家公務員制度というのは、入口はフェアな仕組みだ。 政治家のように、世襲が妙なアドバンテージをもつこともない。 公務員試験という、純粋な能力勝負で臨むことができる。 ○○局長寄りだから採用などということはないのである。
けれども、国や地域の将来を左右する大きな権限をもち、政策判断を行うような人間のよりどころが、「学歴」や「採用試験」だけでは、国民として最早、心もとないのである。
今の見通し不安定な時代にあってはなおさらだ。
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価値観やライフスタイルが多様化した現代において、 人の素性を見抜くには、学歴より生育歴が大事だ。私は、そう思う。
それにもしかすると、人を見る、というのは元来そういうことなのかもしれない。
スポーツ選手だって、芸術家だって、名を成した人については、 そのようにトピックスを立てるではないか。
人物に関するノンフィクションだって、親はどんな人物かとか、 少年時代はどんな暮らしだったか、から始まるではないか。
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親はどのような人物か。 子どもにどのように関心をもっていたか、あるいは持っていなかったか。
地域コミュニティはどのようなものだったか。 どのような子どもの集団と大人の集団の中で育ったか。
自然とのかかわりをもつ機会があったか。
どのような食べ物を誰と食べてきたか。ーブリア・サヴァランだって言っているー
成長に応じた睡眠時間を確保したか。
芸術文化に接する機会、身体能力を発揮する機会とその頻度。
情報メディアとどのように接触してきたか。
どのような、主体的で直接的な経験をしてきたか。
生育において不遇な要素があった場合、どのようにそれを克服してきたか。
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以上のような指標を、既にOECDは明らかにしている。
というのは嘘だが、能力以外にこのぐらいは教えてもらわないと、 大きな公的権限をもってよい人物かどうか判断できない、と思うんである。
2009年09月01日(火) 票田の土壌汚染対策 2006年09月01日(金) 防災と体力 2005年09月01日(木) 男ジャム 2004年09月01日(水) 転籍日記
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