無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2006年01月08日(日) 「懐かしい」だけでも泣けるけど/映画『銀色の髪のアギト』&『ALWAYS 三丁目の夕日』

 『古畑任三郎ファイナル』三夜の視聴率が全て20%を越えたと言う。瞬間最高視聴率は32%とかで、10%越えれば第ヒットって時代で、これはなかなか驚異的なことだ。ただこれが世にミステリーファンが根付いた結果だというわけでもないんだろうなと考えると、そんなに喜ぶ気にもなれない。
 夕べ東京のグータロウ君に退院の挨拶をした時に『古畑』についてもいろいろ駄弁っていたのだが、彼は『古畑』についてはかなり「辛い」見方をしている。ミステリーとしてはそれほどハイレベルというわけでもないので、欠点を指摘することは確かに簡単なのだが、もともと視聴者のターゲットがファミリー層であろうテレビドラマで、ミステリマニアを相手にするような鬼面人を驚かすような大トリックが仕掛けられるはずもないのである。
 確かに既成のトリックの組み合わせと応用だけで成り立っているようなエピソードが大半なのだけれど、少なくとも「テレビというメディアならでは」の工夫は随所に見られるのである。そこを評価せずに揚げ足取りなことばかり言っていると、森卓也みたいにただのイヤミなジジイになっちゃうぞ、というのが彼の意見を聞いていての印象であった。
 なんつーかグータロウ君はね、そのへんの小汚い定食屋に入って、メシを注文して、「何で最高級のコシヒカリを使ってないんだよ」と文句付けるようなマネすることが多いんだよね。使わねーよ、普通。少なくとも『金田一少年の事件簿』のように、「応用もせずに既成のトリックを借用」したり、『名探偵コナン』のように、「他作品のトリックのネタバラシ」をしたりするような「ルール違反」をしてないだけ、『古畑』の方が何十倍も良心的なのである。
 それよりも腹が立つのは、ネットで「ミステリマニア」を気取ってる連中が、断り書きも何もなく、ミステリーのトリックを日記でバラしまくってることね。ミステリーの性格上、マトモに批評をしようと思えば、確かにトリックや犯人に触れざるを得ないって事情は分かりはする。けれど読者の中にはその作品を見てない人、これから見ようと思っている人も確実に存在するのだ。だったら「ネタバレあり」と前書きしておくことは最低限のルールじゃないか。そんな基本的なことも守れないやつに、ミステリーを軽々しく語ってほしくないのである。ましてプロになんかなるな、青山剛昌。
 私は「ネタバレあり」の断り書きを殆ど付けず、極力、ミステリーのトリックには触れないようにしている。それでその小説やドラマ、映画の面白さを伝えるのは不可能に近いのだが、「ネタバレあり」「未見の方は読まないで」の断りを入れても、やっぱり読んじゃう馬鹿は絶対にいると思うからだ。「何と言われようと読みたいものを読むのは読者の自由だろう」と主張されれば、それはその通りだと答えるしかない。でもそんな馬鹿を相手にしたくはないから、最初から何も書かないのである。
 だもんで、『古畑』については、第一夜の『今、蘇る死』(ゲスト:藤原竜也・石坂浩二)が三夜中、一番完成度が高かった、と書くに留めておきたいと思う。

 グータロウ君は『キング・コング』がヒットしていないことを嘆いていたが、以前の日記にも書いた通り、あれはピーター・ジャクソンの「趣味」が思い切り前面に出た映画で、それはまず日本人には親しめない質のものなのである。
 そのグータロウ君ですら「あざとい」と感じた「崖っぷちでのスタンダップ芸」と「ラスト直前のスケート」シーンこそ、ジャクソン監督が一番やりたかったことに違いない。しかし、日本人の大半は、あのシーンが監督の過去の映画へのオマージュであるとは気付かないままに、「失笑」しているのではなかろうか。本当に笑われるべきなのは「無知な日本人」の方であるにも関わらず。
 「文化の違いを越えた普遍的な面白さ」なんてのは実は存在しない。アメリカ映画にしろフランス映画にしろ、我々の受ける「感動」は、本国の人々のそれとは似ているようで違っている。一見、受けているように見えるのは、「普遍性があるように錯覚することができるもの」がヒットしているにすぎないのである。
 『キング・コング』の場合、たとえば、根本的な問題として、アメリカ人のように「密林の中の巨猿」を「モンスター」ないしは「ビースト」と認識するような感性が、本当に日本人にあるだろうか? 「猿は猿」でしかないと感じるのが日本人の「猿」感だと思うのだがどうだろう(ついでだが、日本の「モスラ」は海外ではかなり笑われたそうだ。あちらの人には「蛾」を「モンスター」と認識する感覚がないのである)。
 「勘違いしにくい」映画が、それでもそこそこの客が入ってるんだから、それで一応よしとするんでいいんじゃないかねえ。


 シネリーブル博多駅で、アニメーション映画『銀色の髪のアギト』を見る。
 『青の6号』以来、GONZOの「作画レベルの高さ」に惹かれて、新作ができるたびに追いかけてはいるのだが、いつまで経っても「作画だけはいい」状態は何とかならないものか。ともかく『未来少年コナン』『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』なんかをこき混ぜたような「どこかで見たような」新味のないストーリーを今更作ってくれるなよ、というのが正直な気持ちである。

 300年後の地球。
 遺伝子操作の失敗によって月面から巨大な樹木が龍のような姿となって、地球を襲った。以来、「森」は意思をもち、人を襲うようになる。果たして人類は、森との共生を図るべきか、敵対すべきか?
 そんな環境の中、たくましくも愉快に暮らす少年アギト(勝地涼)。ある日、親友のカイン(濱口優)と「禁断の泉」に水を汲みに出かけた彼は、300年の眠りから覚め、文明社会を復活させる鍵を握る少女・トゥーラ(宮崎あおい)と出会う。荒れ果てた地球で運命的に出逢ったふたりは、互いに惹かれあいながらも、育った環境の違いにとまどい、葛藤しながら成長していく。
 そんな時、「森」と敵対する都市「ラグナ」からやってきたシュナック(遠藤憲一)と名乗る男が、トゥーラを連れ去ってしまう。彼もまた、300年過去の世界からやってきた男だった……。

 「囚われの少女を奪還する少年」という旧態依然とした設定も、冒険物語の王道ということで目くじらは立てまい。けれども、地球緑化計画にしろイストークにしろ、「人間の賢しらだった知恵がかえって地球環境を破壊し、人類を危機に陥れる」というメッセージは、今時いくらなんでもストレートすぎやしないか、現代の環境破壊問題は、もっと複雑で、単純に緑を増やせば何とかなるというものではないよなあと、設定の「大雑把さ」に首を捻ってしまうのである。
 作画は精緻を極めている。緒方剛志のキャラクターデザインはいかにもなアニメ絵に見えて、実際にはなかなか動かしにくいと思われるのに、作画監督の山形厚史、恩田尚之は、これを自家薬籠中のものとして、アギトを実によく走らせ、飛ばせ、動かしてくれている。アニメーションが「動くこと」そのものの感動を味わわせてくれるものならば、確実に本作は第一級の完成度を誇っていると言えるはずなのだ。
 それなのになぜだろう、高揚感が少しも伝わってこない。トゥーラを背負って、押し寄せる溶岩を避け、「飛ぶよ!」と叫んで――次の絵は、当然、空を背景に「飛ぶ」二人の姿でなければならないはずだ。ところが二人はそのまま大地に落ちていくだけなのである。要するに、絵コンテがドラマを築き上げるだけの力を有していないのである。何かね、全体的にテレビサイズでね、安っぽいの。これはって痺れるような構図の絵が何枚かでもあれば印象は違ったんだろうけれど、なんか本当に「これまでに何度も見た」感じの絵ばかりなのである。GONZOが絵でアピールできなきゃ、しまいだがね。ベールイとゼールイのシーンだけは面白かったけど。
 まあ、いとおしい部分が全くないわけではなく、プロの声優をメインキャストに殆ど使わないのはとかくオタクから批判の対象になりやすいが、今回はそれがかなり成功している。勝地涼、宮崎あおいの主役二人もあの『平成狸合戦ぽんぽこ』のアレみたいなシロウトもどきではなく、ちゃんとキャラクターになりきっていた。遠藤憲一や大杉漣はもう、「いぶし銀」の魅力である。全体としてお勧めできるほどではないが、ディテールを楽しむなら損した気にはならずにすむ、というところだろうか。


 続けて、天神東宝に移動して、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を、公開2ヶ月を経てようやく見る。
 劇場はほぼ満杯で、本当にロングランヒットしてるんだなあと実感。お客さんに中年、老人の方が目立つのも珍しい。みんなそんなに「懐かしい」が好きか。
 ヒットしているからと言って、面白い映画かというと必ずしもそうでもないことは、これまでにも散々経験している。西岸良平の原作マンガは大好きなんだが、マンガの実写映像化で本当に映画として面白いものになっている例なんてのも少ない。だから、正直、期待なんてものは全くしていなかった。
 それでも、しげを説得してでも見てみようかなという気になったのは、『少年サンデー』で高橋留美子が「去年見た中で一番面白かった映画」に、この『ALWAYS』を挙げていたからである。高橋留美子に映画鑑賞眼があるかどうか定かではないが、「同じくマンガ家で、自作が実写化された経験のある」者の意見と言うのは貴重だろう、と考えたのだ。
 さて、で、見た感想はと言うと、これがちょっと困った出来なのであった。「感動した」「泣ける」という意見が書評でもネット上の感想でも多く見られる理由は分かりはする。何しろ私などはファーストシーン、子供たちが「ゴム飛行機」を飛ばした瞬間からもう泣いていた(笑)。「失ってしまって、もはや取り戻すことの出来ない過去」が多けりゃ多いほど、アレは「泣ける」ようにできているのである。けれどそれがこの映画の「映像としての力」ゆえであるのかどうか、と言うと、そこに疑問符が付かざるを得ないので、「困った出来だ」と言わざるを得ないのである。
 昭和33年を象徴するものとして、建設中の東京タワーを持ってきた、これはなかなか面白い発想で、「時代を切り取る」方法としては極めて効果的だ。この映画の中で展開される物語はたった一年間の出来事ではあるが、決して「止まっている時間」ではない。鈴木オート社長(堤真一)に従軍経験があるように、アクマ先生(三浦友和)が空襲で妻子をなくしていたように、戦争の惨禍はまだ人々の記憶に新しいものとして残っていた。しかし同時に、昭和31年の経済白書に書かれていた「もはや戦後ではない」という言葉を居酒屋の客たち(温水洋一・マギー)が呟き、鈴木オートの息子・一平(小清水一揮)が「父ちゃんの戦争の話なんか聞きたくないや」と怒鳴っていたように、未来志向が強まり、急速に過去が忘れ去られようとしていく時代でもあった。日本人が敗戦から立ち直り、高度経済成長に邁進して行こうとする時代の象徴として、「徐々に建設されていく東京タワー」ほど象徴的なものはなかったろう。その「未来志向」の時代は昭和39年の東京オリンピック及び昭和45年の大阪万国博覧会で頂点を極めることになる。公害もオイルショックも低成長時代もバブル崩壊も知らず、「中流意識」すらなく、誰もが「それなりに貧乏」で、だからこそ「明日は良くなる」と信じていた、そういう時代なのである。必ずしもそうではなかったのは皮肉屋の東京人・小林信彦くらいのものであろう(笑)。
 しかしそういう時代だからこそ、この映画の描写は極めていびつで、バランスを欠いているのだ。『ALWAYS』というタイトルは、「移り行く時代」を表すタイトルとしては全くふさわしくない。製作者の意図は「時代がどう変わろうとも変わらぬもの」を描くことを目的としているのだろうが、実際に描かれたものは「既に失われたもの」のオンパレードなのである。しかもその「時代の要素」取捨選択はかなり「いい加減」だと言っていい。
 『ALWAYS』には、昭和33年を象徴するものが画面中には「うるさいくらいに」現れる。それこそ役者が演技をしている後ろの通りを、「意味もなく」行商人が歩いていたりする。しかし、いくら地域共同体がまだ機能していた時代だからと言って、表通りじゃあるまいし、そんなにしょっちゅう、路地に人通りがあるというのはかえって不自然である。初めて家にやってきた白黒テレビに近所中の人々があれほどに群がるというのも、全くないとは言わないが、かなり特殊な例ではあるまいか。なぜなら、そういう「人が集まる近所の社交場」は、個人の家よりも「床屋」や「市場の縁台」などのような場所の方が自然だったからである。更に言うなら、昭和33年はいわゆる皇太子ご成婚の「ミッチーブーム」が巻き起こった年であるから、年末ごろにはちょっとした家庭であればもう充分にテレビは普及していたはずである。鈴木オートは近所中の好かれものだったのかも知れないが、やはりあそこまでの描写は過剰演出の感が強い。映っていたのが「力道山のプロレス中継」だというのもわざとらしいし(巷間言われているほどにプロレスにみんながみんな熱中していたわけではなく、それは街頭テレビでの話である)、テレビの普及と同時に失われていった文化として、子供たちが四辻や公園で群がっていた「紙芝居屋」が一切姿を見せないのもアンバランスである。
 山崎貴監督は、当時を知っている人が見ても不自然でないように心を配ったとコメントしているが、確かにうまい演出も目立つ一方、やはり「イメージの中の昭和」でしかないウソ臭い部分が随所に出てきて、どうしても「浸れない」のである。同じように昭和ノスタルジーを前面に打ち出した『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』には「浸れる」のはなぜかと言えば、あの「夕日街商店街」が、初めから失われた「虚構の街」であり、「未来への希望だけがある時代(未来を再生するためにあるわけではなく、時間はそこで永遠に止まっている)」への回帰願望を満たすためだけに機能しており、最終的にはしんちゃんたち家族によって、「そんな過去の幻想にしがみついてないで現実に帰れ」とノスタルジーを否定する枠組みがあったからである。
 原作マンガは、昭和30年代を描写するためだけに数十巻を要し、しかもまだ連載中である。だから、その全てを一本の映画に盛り込むことはもとより不可能である。というより、盛り込もうとすればどうしても「盛り込みすぎ」と「取りこぼし」が同時に生じ、不自然になってしまう。原作はマンガであるからこそ、初めから一つのファンタジーとして成立していたのだ。
 茶川龍之介(吉岡秀隆)と古行淳之介(須賀健太)のドラマは臆面もないほどに『チャップリンのキッド』をなぞっているが、下町とは言え、大通りで「淳之介〜!」なんて大声で叫ぶやつがいたら、昭和33年だってそいつは既知外である(笑)。映画のウソにだって限度はあると言うか、映画表現に節度があったのがまさに「昭和30年代」ではなかったか。原作通り、茶川先生をお爺さんにし、家の調度を荒らしもせず、ただ「背中で泣く」描写で抑えた方が、よりドラマチックだったろう。それが「分からない」人間がこういった題材を監督していることがそもそもの間違いなのである。
 六ちゃん(堀北真希)は私の最近のゴヒイキであるし、ところどころ好きな描写がありはするのだが、全体的には萎える部分が多かった。ラストの「50年先も夕日は一緒よ」のセリフはわざとらしいだけでなく、寂しく響くのみである。今は、あの時代がそこまでいい時代だったのかなあという疑問と(人の心は変わったと嘆くトシヨリはいつの時代でもいるものだ)、ノスタルジーにただ浸るだけの映画に何の意味があるかなという若干の憤りを感じているところである。

2005年01月08日(土) 夢見る頃は過ぎてるか?/映画『悦楽共犯者』ほか
2003年01月08日(水) 肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜(エコー)/『なんてっ探偵アイドル』11巻(北崎拓)ほか
2002年01月08日(火) ココロはいつもすれ違い/『女王の百年密室』(森博嗣・スズキユカ)
2001年01月08日(月) 成人の日スペ……じゃないよ


2006年01月07日(土) まだまだ書き足りないが/舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』

 長いような短いような、結局年末年始のタノシミをことごとく潰してくれた入院生活も今日でやっと終了である。
 本当だったらなあ、年末は上京して「イッセー尾形とフツーの人々」の舞台に参加するつもりでいたんだがなあ。何日も喉の痛みと咳が止まらなくて、鼻血がとめどなく出て、食ったものをゲロゲロ吐いて、腰が抜けて歩くのもツライ状況になって、かかりつけの病院に駆け込んでもロクな検査をしてくれなかったので別の総合病院に行ってみたら有無を言わさず緊急入院させられたのである。精密検査をしてみたら中性脂肪は1500(通常は100以下)、ヘモグロビンA1Cは12.5(通常は5.8以下)、血糖値が500近くあったので(通常は110以下)、医者の話によれば「昏睡寸前」だったのだそうだ。ほっときゃマジで死んでたかもしれないのである。
それが、インスリンの点滴を打ったり、食事制限して運動して、まあ私自身も努力はしたつもりだが、中性脂肪は95、血糖値が85まで下がったのだから、医者も「こんなに早く回復するとは思いませんでした」とびっくりするほど。おかげで10日退院の予定が三日早まった次第である。
 けれどこの病院、看護師がいい加減で入院中は連絡が行き届かず、検査やら栄養指導やら糖尿病教室やらの予定がコロコロ変わって、かなり右往左往させられたのだった。正直、こんなんじゃ医療ミスもしょっちゅう起こってるんじゃないかと疑われるほどで、二度と再入院はしたくないのである。まあ、アバウトだったから、運動療法に看護師が付き添うこともなく、コースを外れて本屋に行ったりしてもバレなかったし、消灯時間後もあまり見回りが来ないので、テレビを見ることもできたりして、気楽に過ごせはしたのだけれど。
 でも病院としてはこんなに管理体制がデタラメなんじゃろくでもないと言われても仕方がないよな。

 病院での最後の朝食は七草粥。
 テレビでちょうど「最近は七草粥を作る家庭も少なくなって、七草を言える人も殆どいなくなりました」なんてニュースを放送している。昔は七草粥を食べない家庭なんてなかったから、本当に誰でも暗唱できていたのだが、イマドキは世の中馬鹿ばっかに成り果てているから、下手すりゃ七草を「しちぐさ」とか読みかねない。私なんぞは幼稚園のころから「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ これぞ七草」と呪文のように口にして覚えていた「常識」なのだが、これも言えないというのなら、若い人の持っている「常識」というのはいったい何なのか。モー娘。のメンバーを全員言えることか。
 しきたりとか伝統とか、そういうものの中には確かに旧弊で因循なものも多々ある。しかし、「災厄除け」という迷信的なタテマエはともかく、七草粥が、まだ名のみの春の時期に採れる野草をうまく調理して栄養価の高いものとして食膳に供することができるようにしたものであるということは、先人の季節の生活に密着した知恵の産物であり、決して簡単に捨て去ってしまってよい習慣ではないと思うのである。
 モノを知らないだけならそりゃきちんと教育してくれなかった親や教師や環境のせいに責任を転嫁することもできるが、いったん知識を提供されても「そんなもの知らなくてもいい」と馬鹿であることに開き直ってりゃあ、「馬鹿の中の馬鹿」だともっと蔑まれるだけである。そんな端から見ていて恥ずかしくてたまらなくなるマネなんかしてないで、少しはモノを知ろうって努力をしてみろよと言いたくなるのは当然の帰結だろう。上から見下ろしたようなモノイイほするんじゃないよとお叱りも受けそうだが、言いたくなるんだよ、あまりにも馬鹿だから。
 でも、世間は、そんなこと言ってもわかんないくらいの馬鹿ばっかりになっちゃってるから、私の文句も所詮は愚痴にしかならないんだけどね。

 迎えに来た妻が、テレビカードの残りを換金し忘れて家と病院を2回も往復したり、というドジは踏んだものの、九時には無事に帰宅。帰る間際にも運動はしていたので、風呂に入って汗を流す。病院の風呂より狭いが、くつろぐのはやっぱり自宅の風呂だ。
 メールのチェックなどをするが、正月早々からスパムも何件か。以前に比べればかなり減ってはいるけれど、鬱陶しいことは鬱陶しい。テレビを点けると、下関駅が74歳のジイサンに放火されたとのニュース。放火未遂の前歴があり出所したばかり、「腹が減ってムシャクシャしたので火をつけた」という、イカレてることがハッキリ分かる例。だから刑務所放り込まれてる時点で、こいつは外に出したらなんかまたやるって分かるだろう。いくら刑務所が満杯だからって、簡単に外に出しすぎだ。
 江戸の昔なら火付けは死罪だったんだが、どうして今はこんなに刑が軽くなったかね。一歩間違えれば何十人と人死にが出る危険があるんだから、これって立派な殺人未遂ではないの。どうせ老い先短いジジイなんだし、看守が黙ってりゃバレないからこっそり首締めとこうよ。90になっても絶対またやるぞ、このジジイ。



 夕方から、博多座で舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』。
 テヴィエ役は市村正親。アニメファンには『ジャックと豆の木』のジャック役で有名。ってそこから入るか(笑)。最近では『砂の器』で妙に芝居の濃い劇団主宰者役を演じていたが、一般的には当代随一のミュージカル役者として評判の高いこの人の演技、私はあまり買ってはいない。『探偵スルース』や『デモクラシー』といったストレート・プレイでは、その口跡の明確さや派手な仕草がかえって災いして、どうしても芝居が不自然に見えてしまっていた。ミュージカルならばそういった欠点は目立たないかと思って今回の舞台はかなり期待して見に行ったのだったが、やはり「臭さ」が先に立ってしまっている。結局、この人を「演技派」と呼ぶのは間違いだろう、という印象をまたまた強くしてしまったのであった。
 困ったことに、私は、1986年、森繁久彌がテヴィエを演じた全盛期の『屋根の上のバイオリン弾き』(「ヴァイオリン」は「バイオリン」だったのだね)を帝国劇場で見ている。「翻訳劇の日本化に最も成功した例」と評された初代版と比較されれば、分が悪いのは必然である。市村正親も決して手を抜いているわけではないのだろうが、森繁のあの「絶妙の間」には遠く及ばない。去り際に妻ゴールデに向かって「クソババア」と小声で捨て台詞を残して逃げて行くタイミングとセリフの速さ、これが市村は森繁よりも0.5秒ほど遅い。しかしこのほんの遅れが「命取り」になる。
 森繁版では帝国劇場内は大爆笑の渦に包まれていたが、市村版は「そこそこの笑い」しか生まれてはいない。それは殆ど役者陣の「間の悪さ」に起因している。森繁版『屋根』が成功したのは、この芝居に従来のいわゆる「翻訳劇臭さ」が感じられなかったおかげなのだが、それは森繁以下の役者陣が、浅草軽演劇の俗っぽいくらいの「間」を導入し、この「外国劇」をあたかも戦前からの人情喜劇のように「見せかけ」て、「日本化」することに成功していたからである。「ホームドラマ的な要素が強調されたため」と評する演劇評論家は多いが、それもやはりこの「下町的な間」が生み出した効果なのだ。これがなければ、翻訳劇によく見られる「わざとらしさ」ばかりが目立つのも当然である。
 更に言えば、ラビ役を演じた益田喜頓の不在、これはあまりにも大きい。今回、ラビを演じているのは青山達三という人だが、笑いが取れるべきところで殆ど客を笑わせることができなかった。間が悪いのみならず、セリフの解釈を殆ど間違えまくっていたからである。のほほんとした口調ですっかりボケているのではないかと見せかけて、村人たちに離村の決意を促す要となるセリフのみは重厚かつ理性的に語るあの緩急の妙、これは他の俳優にはちょっと無理である。今思い返せば、森繁版は益田さんのために「見せ場」を増やしてさえいた。
 まあ、役者たちも演出家も、「翻訳劇の日本化」などには全く気を配ってはいなかったのだろう、ということは見当が付く。それは、メインテーマである『陽は上りまた沈む』が、森繁版では日本語歌詞で歌われていたものが、原タイトルどおり『サンライズ・サンセット』と「英語に戻されていた」からである。しかしそうなると、この物語は所詮は我々とは縁もゆかりもない「ユダヤ人の物語」でしかなくなり、登場人物たちに感情移入することが困難になってくる。
 父親テヴィエが娘たちの結婚に反対するのはユダヤ教の「しきたり」に彼女たちがことごとく背くような結婚を望んだためだが、これをそのまま舞台にかけても、ユダヤ教徒でも何でもないごく普通の日本人にとっては、まさしく「他人事」でしかないのだ。日本人に感情移入させるためには、そういう宗教的な部分を「薄め」なければならない。その配慮が今回の舞台にはあまりにも足りなかったのである。
 じゃあ、誰に森繁の跡が継げるかって言うと、そんな役者はいるわきゃないんで、現実的には市村さん程度で我慢するしかないんだけどね。歌は名曲揃いだから、役者に多少難があっても退屈するほどではないのが救いと言えば救いか。



 マンガ、六道神士『エクセル・サーガ』15巻(少年画報社)。
密かに「またアニメ化してくれないかな、エルガーラとか宇美ちゃんとか巨乳キャラ増えてるし」とか考えてるそこのキミ、夢から早く覚めて現実に戻りなさい。
 それはさておき(何がさておきだ)、蒲腐博士の本名ってジークスだったんやね。あそこへはウエストの焼肉店以外、殆ど足を踏み入れたことはありません。天神でも外れの方にあるんだもの(何のことかよく分からない人のために簡単な説明。このマンガの舞台は福岡で、キャラクターの名前には全て福岡の地名ないしは建造物の名前が付けられてあるのです)。更にイルパラッツォが福岡征服のために開店した「新しくできた駅前の量販店」というのはヨドバシカメラのことで、これでようやく福岡住民にとっても「カメラはヨドバシ、カ・メ・ラ♪」のテーマソングがポピュラーになりました。ライバル店の「ベター電気」(「ベスト電器」だよ)が「感じの悪さに拍車がかかってる」ってのもマジな話で、これまで地元で殿様商売してきたツケが回ってきた感じですね。私もベスト電器には段々足を運ばなくなりました。
 えー、それからどうしてドカベンが出てくるかって言うと、水島新司がソフトバンクホークスファンだってこともあると思うけれど、社会人野球クラブチーム「福岡ミサキブラッサムズ」の監督がドカベン香川伸行だという関係があると思われます(ちなみに総監督は森口博子)。
 本筋と無関係な話ばかりで申し訳ない。まあ、戻ってきたエクセル、絶対六本松の返信だよなってことで。あとコメントすることないんか(笑)。

2005年01月07日(金) キネ旬ベストテン発表/『3年B組金八先生 新春スペシャル』ほか
2003年01月07日(火) 顔のない時代、歌のない時代/『全日本ミス・コンビニ選手権』(堂高しげる)ほか
2002年01月07日(月) 食い放題に泣く女/『エンジェル・ハート』2巻(北条司)ほか
2001年01月07日(日)  ああ、あと三日休みが欲しい(贅沢)/アニメ『人狼』ほか


2006年01月01日(日) 17万ヒット!/映画『キング・コング』&『乱歩地獄』

 新年、明けましておめでとうございます。

 長らく更新が滞り。
 数えてみればもう一月以上も更新がなかったわけで、お待ち頂いた方には申し訳ない限りなのだが、事情は掲示板にも書いた通り、糖尿病の悪化による突然の入院があったことが大きい。血糖値が500まで跳ね上がっちまったんだもの、医者が「入院しろ」って言うのは仕方ないわな。もちろんそれ以前から、私生活での難儀なデキゴトもやたら起こっていて、本や映画の感想など書いていられるか、という事態に陥っていたのではあるが。
 けれどもその間も、ミクシィやはてなの方は一日も欠かさずに更新をしていたのだ。そちらは身辺雑記を簡単に書くことが多いので、こちらに比べれば書くのはラクなのである。「無責任」が更新できない分、せめてそちらをご覧になって頂きたいと、ご希望の方にはメールで連絡を頂いてアドレスをお教えもしたので、一応、常連さんから「いつになったら復活するんだよ」というお叱りは頂かずに済んでいる。しかし見方を変えるなら、現在、こちらの日記を覗いている人の殆どが「通りすがりさん」なのだと推測できる。
 つか、劇団の連中もこの日記、ろくすっぽ見てないということが判明した(笑)。愛想のないヤツラばかりだということは実感しちゃいたから今更文句なんてないんだが。
 でも私の日記のメインは、たとえ更新が滞ろうとも、この「無責任賛歌」なのである。何となれば、ミクシィのように読者の「顔が見える」ところでは、どうしたって相手への「遠慮」というものが生ずる。マイミクシィに登録して下さっている方々は、私がかなり過剰なことを書いたとしても「まあそういうやつだから」と笑って済ましてくださる方ばかりではあるのだが、これは「書き手の心理」の問題であるからどうしようもない。
 よく「不特定多数の人に読まれる場合には言葉に気をつけて」と言われるが、話は全く逆なのである。どんなに細心の注意を払って書かれた文章であろうと、どこかの誰かを傷つけない可能性が皆無とは言えない。「人を傷つける言葉が全てダメ」ならば、我々はほんの一言すら発することができなくなってしまうのだ。たとえば、「人を殺してはいけない」と発言したとして、「でも世の中には過失で人を殺した人もいるのだから、そういう人を傷つけたらいけないので、そんなことは口にすべきじゃない」と反論されてしまうようなものである。そんな馬鹿な話があるわけがない。たとえ他人を中傷する言葉であろうと、「発言そのものは規制されてはならない」のは民主社会の鉄則である。発言の後に批判を受けることと、発言そのものを規制するのとでは意味合いが全然違う。
 即ち、「表現に規制をかけること自体が根本的に理不尽なのだ」という結論にどうしてもなるのである。「不特定多数の人に読まれるからこそ、表現の自由はどこまでも際限なく保障されねばならない」ことは、この国が本当に個人の「人権」を保障し希求する社会であるのならば、絶対に遵守しなければならない根本的なルールであるのだ。
 何だかんだと「人権」を振りかざす連中が、その実、他者の言動を規制する快感に酔い痴れている昨今である。自由に書ける、いや、「自由に書く」場というものを個人が確保しておくことは、これからの方がもっと必要になっていくのではなかろうか。
 だから仮に、私が「こんなヤツラはバカ」と貶したタイプの人間に、読者の皆さんが「偶然」当てはまったとしても、それは「あなたを想定して書いてるわけではない」ので、腹を立てたりするのはお門違いなのである。でもやたら多いんだ、そういうバカ。被害妄想は「バカの上塗り」をすることにしかならないから気をつけようね。


 血糖値の下がり具合もよく、元旦の一時帰宅がかなったので、病院で朝食を取ったあと、妻と二人で櫛田神社に初詣。
 今年は櫛田神社の千二百五十年祭ということで、大きな看板が立てられていたが、特に何かイベントを行うというのではないようだ。福御籤を引くと、すきやきのタレが当たる。接触している身には余計なシロモノだが、神様も「肉食っていいよ」とご託宣を下さったのであろうか。御籤自体は末吉。なんだかここ数年、末吉しか引いていない気がする。妻は以前は御神籤を引くのが趣味みたいなところがあったのだが、すっかり飽きたのか、三十円くらい出してやるよと言っても首を横に振る。
 今年の暦と札を買って、キャナルシティに向かう。

 病人であることを忘れて、ユナイテッドシネマで映画『キング・コング』。せっかくの映画の日に映画を見ないのは損である。もう少しからだを大事にしたらと仰る向きもあろうが、私の目もそう長くは持ちそうにないので、こればかりは忠告を聞くわけにはいかない。
 もはや映画史上の古典であるオリジナル版『キング・コング』であるから(だからこれから書くことはかなりネタバレを含んでいるのだが、このお話を知らないことは既に恥でしかないので、そんなバカのことは想定しない)、たとえCGが発達した21世紀であろうと、生半可な映像化ではそんじょそこらの映画ファン、特撮ファンを唸らせることは不可能である。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのピーター・ジャクソン監督は積年の夢を叶えるためとは言え、ある意味「無謀」に挑戦したわけであるが、これが実に小気味よい快作に仕上がっていて、三時間の長尺が殆ど気にならない。
 冒頭に流れるアル・ジョルスンの歌声と、1930年代のニューヨークの風俗、これだけでも心が躍りだすのだが、思わず画面を食い入るように見てしまったのは、当時のスタンダップ・コメディの芸の数々が「再現」されたからだ。チャップリン風の芸人が「何人も」登場してくるのを見て、ジャクソン監督、よく分かってらっしゃると、ついほくそ笑んでしまうのである。あの浮浪者スタイル、チャップリンのオリジナルじゃなくて、当時の「道化」のスタンダード・スタイルだということは知ってる人は知っている。
 このあたりはオリジナル版にはない「時代背景」の説明描写だが、これが全く説明的になってはいないのが見事である。ヒロインであるアン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)が、ただのダンサーではなく、コメディ・ダンサーだという設定が、あとで彼女がコングを「和ませる」伏線として効いてくるのだ。芸は身を助く、と言うか、巨猿と美女との心の交情をスムーズに見せるために、タップダンスや側転、お手玉が役に立とうとは!
 もちろんこれは監督のブロードウェイや映画の歴史に対するオマージュであるのだが、正直、「やり過ぎ」の感がないわけではない。カール・デナム(ジャック・ブラック)が初め映画の主役にフェイ・レイを使おうと考えていたのに、メリアン・C・クーパーに取られてしまったとか(もちろん、この二人は、オリジナル版『キング・コング』のヒロインと監督である)、映画会社の首脳たちが、お蔵入りしかけた映画でもユニバーサルなら買うから売っちまえと発言したりとか、主演男優ブルース(カイル・チャンドラー)がクラーク・ゲイブルの顔マネをしたりとか、多分、特に映画ファンでもない人たちには気にもならないだろう小ネタが、これでもかこれでもかと繰り出されて行くのである。それは舞台がスカル・アイランドに移ってからも同様で、オリジナルはあくまで『キング・コング』のはずなのに、どこかで見たようなシチュエーション、構図、展開、これは『駅馬車』か『ガンガ・ディン』か、といったシーンが続出するのだ。映画の中で、主人公たちが危難に陥るたびにイングルホーン船長(トーマス・クレッチマン)が助けに来るのがご都合主義かつ頻繁でウンザリすると思われる方もあろうが、あれは「騎兵隊」なんであるから、「危険が迫った時に限ってしょっちゅう来るのが可笑しくて面白い」のである。水戸黄門だって最後にしか印籠を出さないし、ウルトラマンだって三分経たなきゃスペシウム光線を出さないんだから、文句を付ける方が「分かってない」のである。ターザンよろしくツタにぶら下がって文字通り「飛んで」来るんだから、あれがルーティーン・ギャグだってことに気付かないといけないのだ。
私は「お約束」なシーンのたびに笑いを堪えるのに精一杯だったのだが、劇場に詰め寄せたお客さんがたはまるで反応がない。今に始まったことではないが、日本の観客は映画を殆ど見ないから本当に鈍感になっちまっているのである。むりやり日本映画にたとえて言うなら、これは『シベリア超特急』のように、「意味も脈絡もなく往年の名画のシーンが再現されて挿入される」という、思いっきり趣味「のみ」に走ってる超オタクな映画なのだよ。『キル・ビル』に例えてもいいんだが(笑)。
 もちろん笑えるだけじゃなくて、ほかにも見所は随所にある。大蛇しか出て来なかったジョン・ギラーミン版『キングコング』(間に「・」が付きません)と違って、スカル・アイランドにはオリジナル版同様、多数の恐竜たちが登場する。これが素晴らしいのは、単に前世紀の生物が生き残っているという設定になっているのではなくて、恐竜たちが「独自の進化を遂げた」形になっていることだ。だから、コングを襲うのも、実際には羽ばたけないことが分かったオリジナル版のプテラノドンではなくて、羽ばたくことのできるテラプスモルダックスに変更されているのである。
 しかもオタク仕様の設定やパロディだけに凝っているのではなくて、ストーリーラインも揺るぎがなく、最後はキッチリと感動もさせてくれるのだからたまらない。朝青龍が大泣きしたと言うのも納得で、何よりコングがストイックでハード・ボイルドな「男」なのがいいのだ。今回のコングは一切笑わない。ギラーミン版『キングコング』のように、ヒロインのオッパイポロリを見てニヤケるようなナンパな描写は皆無。コングはひたすらアンを守り、アンのために戦うのだ。だからこそ、「美女と野獣」の悲劇がオリジナル以上に際立つことになるのである。
 ああ、もうハッキリと言ってしまおう、我々はこの映画に一つの奇跡を見ることができたのである。即ち、既に伝説となっているオリジナル版を凌駕するほどの傑作が生まれてしまったということだ。あり得ないと仰る方は映画を愛するすべを知らない不幸な人間だと断定してやる。恋愛、アクション、謎と怪奇、恐怖と笑い、スリルとサスペンス、センス・オブ・ワンダー、骨太のドラマ、文明批評、映像美などなど、映画のエッセンスがこれほどぎっしりと詰め込まれている作品は滅多にあるものではない。
 だから、田中芳樹が担当したノベライズ版でのあのラストは噴飯ものの蛇足でしかなく、映画がデナムのあのあまりにも有名な「野獣を殺すのはいつも美女なのだ」で締めくくられたことに私は安堵を覚えたのである。


 映画が三時間を越えていたので、朝から見たのに帰宅は1時近く。
 しげが張り切って作ったというおせちに雑煮をいただく。地方によって雑煮の作り方は違うようだが、福岡の場合、雑煮と言えばたいてい、澄まし汁に餅やかまぼこ、鰤に鰹菜を入れる。実は今朝の病院の朝食もそれだったのだが、しげが作ったものも殆ど同じである。よくやったものだと感心。おせちも海老(頭付きのやつを探すのに苦労したと言っていた)にかまぼこ、鮭の切り身にかしわ、昆布巻きにキュウリのイクラ乗せとなかなか豪華である。ついつい箸が進みそうになるのを押さえたが、しげの料理でこんなに美味しいと思ったことは一度もない。私がまたまた入院してしまったもので。少しは気遣う気持ちを見せてくれたものか。


 夕方から今度は、シネ・リーブル博多駅に『乱歩地獄』を見に行く。
江戸川乱歩の短編『火星の運河』『鏡地獄』『芋虫』『蟲』の4篇を、浅野忠信だけを共通して配役し、4人の監督が別々に撮ったオムニバス。……と言っても、原作通りに仕上がっているものは一作もない。各話のタイトルと基本設定やアイデアを借りただけのオリジナルと言った方がよいのだが、それはそれで小説の映像化のスタイルとしては一つの方法であり文句はない。ただねえ、出来上がりがどうにもねえ、一人よがりに過ぎるものばかりなのがちょっとねえ。
 乱歩はともかく熱狂的なファンが多いから、映画作家としては映像化の意欲を掻き立てられる気持ちは分かるのだが、思い入れが強すぎて抑制が効かなくなると言うか、「やり過ぎて」しまうことが多々あるのである。まあその「やり過ぎ」が石井輝男の『恐怖奇形人間』のレベルにまで行っちゃえばギャグというかその稚気に微笑ましさすら感じてしまうことになるのだが、この映画のように「気取って」しまうと、どうにも鼻に付くばかりなのである。

『火星の運河』(監督竹内スグル)
 原作が乱歩の夢想を綴った散文詩みたいなものだから、映画もイメージビデオみたいなものである。男(浅野忠信)が荒野をさまよって小さな沼を見つけ、そこを覗きこんだら、自分がかつて陵辱した女(shan)になっていたというだけのお話。他愛ないと言えば他愛ないのだが、殆ど音のない無声映画に近い作りが面白かったし、何より5分少々と短いので、あまり腹も立たないうちに終わったというか。でも初手から「これのどこが乱歩?」という雰囲気は既に漂っていたのである。

『鏡地獄』(脚本薩川昭夫/監督実相寺昭雄)
 『屋根裏の散歩者』『D坂の殺人事件』に続く脚本・監督コンビなので、原作を大胆に脚色した本格ミステリー仕立てにし、内容的にも犯人の美少年・齋透(成宮寛貴)によりスポットライトの当たったシリーズ第三作の雰囲気を前面に打ち出している。原作には登場しない明智小五郎(浅野忠信)と小林少年(中村友也)が狂言回しになるのは前作を踏襲しているわけだが、それならこの二人も嶋田久作と三輪ひとみコンビでやってもらいたかったところである。ロンゲの明智って、あんたねえ。
 殺人トリックに、マイクロ波を放射するサラジウムを表面に施した鏡を使う、というのは乱歩というよりも海野十三っぽいが、これはどちらかというと実相寺監督の『怪奇大作戦/京都買います』の仏像消失トリック(カドミウム光線)にオマージュを捧げたものかもしれない。本格ミステリー仕立てとは言ったが、もちろんこんなトリックは現実にはあり得ないので、事件の解明などに主眼は置かれていず、無意味なくらいに随所に置かれている鏡の映像に、『市民ケーン』のような映像美を見出すのみである。映画としては4本中一番マトモな作りになってはいるが、犯人の透をナルシストにしてしまったおかげで、原作の鏡にとり憑かれた男の妄執はさほど伝わってこない。一応、例の「球体」は出てくるんだけど、扱い薄いんだ。浪越警部役の寺田農に部下の刑事役の堀内正美は、実相寺作品常連組で、今回もいい味を出している。

『芋虫』(脚本夢野史郎/監督佐藤寿保)
 なぜかこれも明智小五郎ものに改作。けれど小林少年は『ピストルオペラ』『誰も知らない』の美少女韓英恵に変更。つか、髪が長いままだし、てっきり文代かマユミかと思ったよ。
 お話はもう、なんだかなあという出来で、原作での芋虫こと須永中尉(大森南朋)とその妻・時子(岡元夕紀子)の関係だけはあるものの、二人のセックスシーンを怪人二十面相(松田龍平)が「屋根裏の散歩者」になって覗いているし、切断された須永の手の指がホルマリン漬けになったままぴくぴく動くのは『指』からのイタダキだし、二十面相の本名が「平井太郎」ってのは江戸川乱歩の本名だし(原作の二十面相には「遠藤平吉」という本名がちゃんとある)、二十面相の師匠が「菰田」ってのは『パノラマ島奇談』だしで、適当に乱歩の原作を繋げ合わせて、それでいてただ鬱陶しいばかりで石井輝男のようなキッチュな面白さは微塵も生まれてこない。乱歩の映像化で「これやっちゃ失敗するよな」ってのを全部やらかしちゃった印象である。監督の佐藤寿保って人、以前『藪の中』で、犯される真砂になぜか騎乗位やらせたヘンな人だからなあ。なんかまあ、いろいろやりたかったんでしょうねえ。

『蟲』(脚本・監督カネコアツシ)
 なんかもう、書くのも辛くなってきましたが(笑)。
 時代を現代に移して、女優の木下芙蓉(緒川たまき)に懸想した柾木愛造(浅野忠信)が、彼女を殺してそのままの姿で保存しようとするけれども、失敗して蟲が湧いちゃうというお話。愛造には科学的な知識も何もないから、血抜きも失敗するし、右往左往して死体に絵の具を塗ったくったりするという(緒川たまき、時々苦しくて瞬きしたり息が上がって胸が上下したりしてたぞ。役者なら気張らんかい!)、コメディ仕立て。
 これだけふざけてくれればかえって原作とかけ離れていても腹が立たないくらいだが、無意味に時間軸が交錯したり、芙蓉の恋人を浅野忠信が二役で演じているのでどっちがどっちか迷わされたりして、作りはいかにも青二才の背伸び。実際、監督さん若いんだけど。本職はマンガ家さんだそうだが、私は読んだことがない。

 4本見た感想はともかく「疲れた」である。

 帰宅して、『相棒』『ウィーンフィルコンサート』『華麗なるミュージカル ブロードウェーの100年』などを見て寝る。
 初夢は、女優さんから「膝枕してあげる」と誘われたけれど「僕には妻がいますから」と断る夢。冗談みたいだが、ホントに見たんだから仕方がない。

 明日にはまた病院に舞い戻るので、また更新が途絶えてしまうが、どうせよんでるの通りすがりさんだけだから(結構ヒネているのである)。17万ヒットしたけど、キリ番報告もやっぱりなかったもんなあ。ぐっすん。

2003年01月01日(水) オタク夫婦は新年に何を買ったか/映画『狂った果実』/映画『幕末太陽傅』/『おせん』其之五(きくち正太)ほか
2002年01月01日(火) ぬかるみとミッフィと腐れた餃子と/映画『スパイキッズ』/『降魔法輪』(さとうふみや)ほか
2001年01月01日(月) 2001年元旦スペシャル



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藤原敬之(ふじわら・けいし)